「バラの名前」⇔「キクの名前」・・・「名前の規矩」は「ウンベルト(Umberto)」・・・運の紐帯・・・
Ammonite2021/11/29/・月曜日・・・追加添文・・・
「薔薇の名前」は「菊の名前」・・・
「婆裸の名前」は「比見古の名前」・・・
「キクの名前」の「背負う説」資料・・・
「菊の天婦羅=てんぷら=天麩羅」の食感と香り・・・
「もってのほか」
「アンモナイト(Ammonite)=菊石」
「タンポポ(蒲公英)=菊科タンポポ属」
・・・小さい町の川も轟音の濁流である。「台風・颱風」が行ったが、「鮐諷」じゃないョ、なッ・・・「風と共に去りぬ( Gone with the Wind)」じゃぁなくて、「Gone with the the typhoon Damages」で、人間も家畜もペットも日常性は「悲しみよコンニチは(Bonjour Tristesse)」である・・・「子育てに自信を失い我が子を・・・」、「お勉強の強制で我が子を・・・」ですか・・・「子羊たちの沈黙(The Silence of the Lambs)」・・・中国では淡水の「河豚(ふぐ)=河+豚」はブタに似た鳴き声をするらしいからの名前らしい・・・そして「鮐・鰒・鯸・魨・鯺」の異字漢字も「フグ」らしい・・・「鮐=フグ(fugu)フグ科の魚類の総称・ふぐ(河豚)・およそ120種の魚がフグ科に分類」・・・「ナゴヤフグ(名古屋フグ)」との呼称もあるらしく、「毒に当たればミノオワリ(美濃尾張)」の洒落らしいが、「毒」は「主(亠+十+一)の「毋(ない・ブ・ム) or 母(はは・ボ) or 毌(つらぬく・カン・ガン・貫)」である・・・ 「毌丘倹(カンキュウケン)」 ?~255 字は 「仲恭」 并州 河東郡 聞喜県 出身 尚書郎 洛陽の典農 魏の 荊州刺史 幽州刺史 魏の将軍 最後は 司馬師に反乱後、討伐された ↓↑ 魏の官僚 毌丘興 の子 毌丘甸 毌丘宗 の父 毌丘秀 の兄 孫は 毌丘重 毌丘奥 孫娘は 毌丘芝 ↓↑ 毌丘倹は 237年 孫権は 高句麗と通じ、 遼東へ親征を行おうとした 魏は 毌丘倹を派遣しこれと対陣、 毌丘倹が鮮卑の軍を動かして 遼東に駐屯させたので、 孫権は遠征を断念 ↓↑ 魏は 公孫淵に対し上洛を命じたが、 公孫淵はこれを拒否、挙兵して 遼隧で毌丘倹を撃退する ↓↑ 遼東の 公孫淵が 呉と接触 ↓↑ 毌丘倹は 魏王 曹叡の命により 幽州刺史となり、 烏丸の単于 寇婁敦 と 袁尚 烏丸へと逃げた者 5000余を降伏させた ↓↑ 遼隧の戦い(238年) 魏王 曹叡は 司馬懿に4万余の兵を与え、 公孫淵征伐 ↓↑ 「238年・・・遼隧の戦い」と「卑弥呼」
↓↑ ーーーーー 倭に関係する極東国際情勢 57年 倭の奴国王、後漢の「光武帝」から金印を賜る 107年 倭国王、「帥升」、後漢の「安帝」に「生口」を献ずる 146年 倭国動乱、邪馬台国に女王「卑弥呼」が立つ 189年 「公孫度」、「玄菟郡」の小官吏から遼東半島太守となる 190年 「公孫度」、遼東郡を遼西、 中遼の二郡とし自らの太守を置 また、山東半島に営州刺史を置き、 「遼東侯・平州牧」と号した「公孫度」の子、 「公孫康」が継ぎ、 「度」の弟、 「恭」が「永寧郷侯」となり、 「康」は西暦196~220年まで 楽浪郡を分けて帯方郡を置いた 220年 後漢滅亡。魏王・「曹丕」、 「献帝」を廃し、 魏の「文帝」となる 221年 「劉備」、燭漢の「昭烈帝」となる 229年 「孫権」、呉の「大帝」となる 「公孫康」の子、 「淵」が「魏王」から「遼東太守」、 「車騎将軍」の爵号を授 232年 呉の「孫権」、 「淵」に「燕王」の爵位を与える 233年 呉が一万人ほどの軍隊を遼東に派遣。 「淵」はこの使者を殺し、 その首を「魏」に差しだし、 「楽浪公」の爵位を得る 235年 高句麗王、「位宮」、 呉から「単于」の爵号を受く 237年 「魏」は 幽州刺史の「毋丘倹」を将軍にし 「淵」軍と戦い敗北 ↓↑ ↓↑ ↓↑ 238年 六月、「卑弥呼」、 大夫「難升米」を 「魏」におくる ・ ↓ ・ 八月、「魏」の「司馬懿」を 将軍とする軍隊に 「淵」軍敗北、戦死 ↓↑ ↓↑ ↓↑ 239年 帯方郡・太守 「弓遵(辷+尊)」が 「韓」族に攻められ戦死。「韓」滅亡 244年 「魏」は 幽州刺史の 「毋丘倹」を将軍にし、 高句麗軍を壊滅さす 帯方郡太守 「王・(斤+頁)」、 塞曹掾史 「張政」を「倭国」に派遣 ↓↑ ↓↑ ↓↑ この「年表」に記されている「人名」と「官名」、「地名」の漢字とその「音」に注意すれば「古事記」が何を示唆しているか明かである。 更に「238年」の「六月」から「八月」・・・ワズカ、「二カ月間」・・・。 「卑弥呼」の「倭」は、少なくても 「六月」までは 「もと『燕=公孫氏』に属」 さざるを得なかったハズである・・・ 何故なら 「公孫淵=燕」は「237年」には「呉」と同盟、 あるいは册封関係にあり、 敵対する 「魏」の「幽州刺史」の「毋丘倹」を将軍とする軍隊と戦い、コレを撃破して勝利。 翌年の「238年の八月」に 「魏」の 「司馬懿」を将軍とする軍隊に敗北し、戦死したのである。 時間的な流れでいえば、 「倭」は「238年六月~八月」までは 「呉」と深い関係にあった「公孫淵=燕」に 「属」していたハズだ・・・もちろん、状況的に、直接的にも「倭」は「呉」と深い関係にあった・・・ すると、 「238年『六月』」、 この『六月』に「卑弥呼」が大夫「難升米」を「魏」におくる 、と云うことはどういうことなのであるか。 記録上の齟齬がナイとしたならば、朝鮮半島・遼東半島は いまだこの年の 『八月』まで「公孫淵=燕」の支配下にあった・・・ この「未だ燕の支配下の『六月』」、 どのような経路でいけたのか?・・・ どのような目論見で「難升米」を「魏」におくったのか?・・・ 方法は色々考えられるとしても・・・ 戦局が未だ定まらぬ「敵地=燕地」の経路をである。 「卑弥呼」は「邪馬台国」をまもるため、「呉=燕」の配下にありながらも二股をかけざるを得なかったのだ。あるいは「公孫淵=燕王」の「対魏戦略」に「卑弥呼」は乗せられたのである。あるいは「燕=公孫氏」、「呉=孫氏」そのものと「縁籍」であったのだ。 そして、 『八月』、「公孫淵=燕」は「魏」の「司馬懿」を将軍とする軍隊に敗北、戦死した(?)・・・ 『十二月』、「卑弥呼」は「魏王=明帝」から詔と「親魏倭王」としての「金印紫綬」と「銅鏡百枚」等をもらった・・・ ↓↑ ↓↑ ↓↑ 238年(景初2年)「女王卑弥呼」が派遣・魏へ使 240年(正始元年)「女王卑弥呼」が派遣・魏へ使 243年(正始4年)「帯方郡太守」が派遣・倭へ使 244年(正始5年)「高句麗王=位宮」敗北 245年(正始6年)「倭王」 が派遣・魏へ使 247年(正始8年)「邪馬台国」と「狗奴国」の交戦 卑弥呼の死亡 「邪馬台国で男王」立つが「内乱」 「宗女・壱與」が 「十三才で女王」となる ↓↑ ↓↑ ↓↑ 238年から六年後、 244年に「高句麗王=位宮」も敗北した。 朝鮮半島での敗残者は何処に逃げていったのか?・・・当然、「倭」へ、である・・・。そして「卑弥呼」の「邪馬台国」は「魏」の「張政」に担ぎ上げられた「壱与」に権力交替したのである。「狗奴国との対立」や「卑弥呼死後の男王の擁立」は怪しい・・・ すなわち、この部分に於いても「陳寿」は「使訳」の報告すべてが正しいわけがあるまい、と言っているのだ。「司馬懿(シバイ)」の名前も示唆的である。同音異字なら「芝居」で、しかも「芝居(しばい)」は日本語であるから・・・。 ・・・この『六月』の「卑弥呼」に対する「魏」の答えは・・・「卑弥呼」の排除である。 243年は「宗主国」である「魏の帯方郡太守」が「倭へ使者」を派遣してきたのである。 その後の「壱与」の権力交替は「帯方郡使」としての 「張政=魏」の策謀(告喩)による 「淵=燕=呉」親派の「卑弥呼」の「縊殺・絞殺」、 あるいは「溺殺」によるものである・・・ 漢字の「乙・乚」の秘密である・・・ 「張政」と「壱与」の「告喩」としての「卑弥呼」に対する侵攻は朝鮮半島、博多「伊都」、そして長崎県の「五島列島」を根拠地にし、「長崎」、「諌早」、「熊本・宇土・横島」へとその勢力を浸透させて「卑弥呼」を「殺害(?)」したのだ・・・ その後、「壱与」は「宇佐」に東遷し、権力の基盤を「大分」に置いた。だが、「卑弥呼」の親派勢力は長崎「諌早」、「天草諸島」、「熊本・横島」、そして「沖縄」、「台湾」にその勢力を有していたハズである・・・ 結論的に九州(倭)は「魏」の配下に入ったが、「二人の女王」の勢力は「遼東半島」、「山東半島」、「高句麗」、「朝鮮半島」、「南韓」の亡命者、血縁者を抱え、「太陽の烏=卑弥呼=長崎・諌早=左目=天照大御神」と、「月の卯=壱与=大分・宇佐=右目=宇受女=豊受大神」に分裂=磐余(イワレ)=「大分」していたのだ。 もちろん、「中央の鼻=中津=名賀津=那賀津」は「博多・伊都=須佐之男」であるハズだ・・・ その後、 ーーーーー ↓↑ 公孫淵も 卑衍・・・・・・・・・卑の衍? 衍=あまる・エン・余分にあまる 余計な 衍字・衍文 延び広がる 押し広げる 衍義=敷衍 楊祚 らに数万の軍を与えて 遼隧に派遣・・・・・遼の隧? 司馬懿が 遼東に到着 卑衍が 司馬懿を攻撃したが、 司馬懿は 胡遵らを派遣して・・・胡の遵(辶+尊) 卑衍を破った ↓↑ 公孫淵は 遼隧に塹壕を掘り、 司馬懿の軍を迎え撃った 遼隧の公孫淵の防衛陣が堅固だったので 司馬懿は、 東南に退却したとみせかけ、・・・東南=辰巳=巽 国都の 襄平に侵攻 公孫淵は遼隧の軍を撤退 都の守備に当たらせたが、 敗退を繰り返し 司馬懿に襄平を包囲された ↓↑ 公孫淵は 呉の 孫権に謝罪し、援軍を求め 孫権は援軍として 羊衜・・・・・・羊の衜=彳+首+亍=みち・ドウ・トウ 道 鄭冑・・・・・・鄭の冑=かぶと・介冑・甲冑 「胄(あとつぎ)」は別字・・・? 何処が別の字なんだか? 同字にしか見えないのは、 ドウジだから・・・ 兎に角、「胄」は「世継ぎ」 孫怡・・・・・・孫の怡=忄(心)+台(臺) を派遣 が、すでに公孫淵は敗北、 遼東で 魏の 張持・・・・・・張の持 らを破って、 男女の 捕虜を得たにとどまった・・・ ↓↑ 長雨の時期で兵糧が欠乏 公孫淵は人質を出して 和睦・・・・・・・和の「睦」とはダレ? しようと画策するが、 司馬懿はこれを拒否 公孫淵を捕え、処刑 遼東 公孫氏は滅亡 ↓↑ 司馬懿はこの地に 魏への反抗勢力が出ぬよう 15歳以上の男子を皆殺(genocide) ↓↑ 244年(甲子年) 毌丘倹は 呉との同盟していた 高句麗討伐 高句麗王 位宮・・・・・・・・位の宮 を攻め 都を破壊 位宮 は逃亡 高句麗を滅ぼせなかった 高句麗の 東川王(憂位居)=位宮 は 公孫淵討伐には 協力的であったが、 242年以降 再び魏と険悪な関係になった 毌丘倹は高句麗への攻勢を強め、 244年 更に東へと進んで 高句麗の軍勢を大破し、 都の 丸都・・・・・・・・・丸い都 を蹂躙 東川王(憂位居)に逃られ 高句麗を 滅ぼすことはできなかった ↓↑ 司馬懿・・・・・「懿」が付く天皇? が反乱し 魏を支配し 司馬懿の長男 司馬師・・・・・・馬師の司は「左右の馬の守」? が実権者となる ↓↑ 毌丘倹は 胡遵・王昶・諸葛誕・陳泰 らと共に 都督 左将軍 鎮南将軍 豫州刺史・・・・・・豫の州とは「伊豫」? となる ↓↑ 252年 呉の 孫権、死亡 ↓↑ 討伐軍として 呉に攻め込んだ 魏の 諸葛誕・・・・・・諸の葛の誕 が 呉の 驢馬の息子・・・・驢=馬+盧 諸葛恪・・・・・・諸の葛の恪=忄+各=つつしむ きまじめ カク・キャク・きく? に大敗
↓↑ 毌丘倹は 諸葛誕に代わって、 揚州刺史の文欽と共に 呉への備えとして 鎮東将軍に転じ 揚州に駐屯し 驢馬の息子の 諸葛恪が攻めてきた時 文欽・司馬孚・張特 と共にこれを防ぎ、 撤退の 諸葛恪を追撃 ↓↑ 254年 夏侯玄・・・・・・・・夏の侯の玄 が 司馬師に反乱し失敗 司馬師は 曹芳を帝位から降ろし 曹髦を帝位につける ↓↑ 夏侯玄と親しかった 毌丘倹の立場もあやうくなり、 息子の 毌丘甸と かって、 司馬師に処刑された 曹爽の寵臣だった 文欽と共に・・・・・・・・文は「欽」・・・欽明天皇? 彗星が 西北の空を・・・・・・・・北西=乾=戌亥・・・狗意 覆ったのは瑞祥・・・瑞・・瑞皐(ズイコウ)=高野長英? 玄瑞(ゲンズイ)=久坂玄瑞? だとし 司馬師を弾劾する 皇太后の詔勅を偽造し、反乱 毌丘倹は、 寿春を老人や子供に守らせて 項城に入り、 毌丘倹は城内 文欽は城外に駐屯 ↓↑ 先鋒の 王基が 攻撃を避け 毌丘倹は 諸葛誕や胡遵が 寿春を攻撃される状況で 退却も出来ずに兵は逃亡・・・ ↓↑ 城外の 文欽は 訒艾・・・・・・・・訒の艾=よもぎ に夜襲を仕掛けたが 敗れて 呉へと逃亡 毌丘倹は逃亡しようとしたが 張属・・・・・・・・張の属 に射殺され、 首は 魏都にて晒された ↓↑ 毌丘甸は、 父の反乱に際に 魏都に残ってい 山に篭ったが討伐軍に敗れて捕らえられ、 一族もろとも処刑された 荀一族の女であった 毌丘倹の妻は 荀邈らの嘆願によって許され、 孫の 毌丘重 毌丘奥 は、 晋の時代に出仕 ↓↑ ーーーーー ・・・?・・・「キクの名前」の「背負う説」資料です・・・
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