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「余の璋の王」のタマタマが欠けた・・・磐の余?

2021/9/22・・・添加追加文

「玉球」ではなく「圓盤」・・・円の磐の余りの王の障(さわり)・・・

 古代史戲疑・・・ ーーーーー  藤貞幹・・・・当定款・等定款・当帝冠・当諦観・等諦観・当帝鑑・当邸館         唐錠煥・・・???・・・到底感・・・  以下の原文は  by ウィキペディア(Wikipedia)  ↓↑  藤 貞幹(とう ていかん)  享保十七年六月二十三日(1732年8月13日)  ~  寛政九年八月十九日(1797年10月8日)  江戸時代中期の有職故実研究家  諱は藤原 貞幹(ふじわら さだもと)  字は子冬  通称・叔蔵  号は無仏斎・蒙斎・瑞祥斎・好古  京都の佛光寺・久遠院院主  玄煕(権律師、日野家出身)の子  文献学・目録学の祖  十一歳で得度・・・・拾壱(壹)  十八歳で還俗・・・・拾八(捌)  日野家の  本姓である藤原を名乗った  宗家の  日野資枝から和歌  高橋宗直から有職故実  持明院宗時から書道  後藤柴山・柴野栗山から儒学  高芙蓉から篆刻  を学んだ  雅楽・篆書・草書・金石文などに精通  韓天寿・・・江戸中期の書画家。伊勢松坂生  ↓↑     通称は中川長四郎        本姓は青木氏        天寿は名        字を大年・・・大(一人)の年?・・・壱與の歳=十三歳        号は酔晋斎        松下烏石に文徴明風の書を学び        王羲之・王献之の書を研究        池大雅・高芙蓉と親しく交遊        篆刻にも優れ双鈎(ソウコウ・模写)に巧みだった  ↓↑     自ら韓国、百済の  ↓↑    「余璋王」・・・余(あまり・𠆢二亅八)の         ↓↑     璋(たま・ひしゃく・王章)の               王(オウ・三丨・一十一)               璋=王+章                 王+立+早                 王+立+日+十               章=立+早                 あや・ショウ                 しるし・ふみ                 模様・美しい模様                 はん・はんこ(判子・印章)                 明らか・明らかにする                 形にして明らかにする                 のり・規律・規則・法律                 ふみ・文書・文章・詩文                 音楽や詩文などの一区切り・一節                 文体のひとつ・上奏文  ↓↑              ↓↑                「上を剡りたるを圭と爲し                 半圭を璋と爲す(説文解字・巻一)」?  ↓↑              ↓↑                 前11世紀                 周王朝                 戈をかたどった玉器                 瑞玉をかたどった玉片に                 一族郎党で行った盟(ちか)いの文句を朱書し                 犠牲の家畜と共に地中に埋めた                 この形の玉器は                 前千年紀末の古典中で璋と呼ばれ                 前10~前9世紀                 西周中期                 瑞玉として                 勺の柄に取り付ける玉がある・・・  ↓↑              ↓↑                「六幣。圭は馬を以ってす                    璋は皮を以ってす・・・璋は皮?                    璧は帛を以ってす                    琮は錦を以ってす                    琥は繡を以ってす                    璜は黼を以ってす(周礼)」?  ↓↑       ↓↑     ↓↑   ↓↑                玉・王(たま・たまへん・おう・おうへん)                たま・・・多磨・球・球磨=熊・隈・久万                ひしゃく=柄杓・杓子・・・百史=百済史                     玉製の笏(しゃく)              圭(ケイ)を縦に半分に割ったもの              圭=土+土=十+一+十+一・・・二十二=弐拾弐                  土(つち・つちへん・どへん)                  たま・ケイ                  天子が諸侯に               領土を与えたしるしとして授けた角のある玉               かど・かどだつ・かどがある               容量・容積の単位・一升の十万分の一               圭角が取れる=角が取れて人柄が円満になること              「圭角」=玉の尖ったところ                   角が取れるという意         ↓↑   弄璋之喜=男の子が生まれること・生まれた喜び

 ↓↑  「余璋王」

       韓氏の子孫と称して  ↓↑    韓氏を名のった・・・韓の氏・・・韓史・韓詞        扶余豊璋        扶余 豊璋(フヨ ホウショウ)        扶余豐璋        百済最後の王        義慈王(在位:641年~660年)の王子       『日本書紀』は       「扶余豊璋=徐豊璋」       『三国史記』では       「余豊璋=徐豊璋」       『旧唐書』では       「余豊=徐豊」           ・・・万葉集記載の              「軍王(こにきしのおおきみ)」=豊璋?        である・・・「翹岐=豊璋」も同一人物?        豊璋は帰国後        百済王に推戴され        実権を握る        鬼室福信・・・義慈王の父、第三十代・武王(余璋)の甥?        と確執・・・        663年6月        豊璋は        鬼室福信(扶余福信)を殺害・・「首を塩漬け」にした・・?  ↓↑       ↓↑      高橋景保も「身体を塩漬け」にされた・・                 鬼室 集斯(シュウシ)は                 鬼室福信の子?               白村江戦後に百済の男女400余人と渡来帰化?                 天智天皇十年一月(671年)                 学職頭(後の大学頭)に就任                 肥後国の豪族菊池氏は「集斯の後裔」?              菊池氏=九州の肥後国菊池郡(熊本県菊池市)を                  本拠としていた一族                 「魏志倭人伝」                  狗奴国の官                  狗古智卑狗(くこちひく)=「菊池彦」?                  鞠智足人⇔「久々知」⇔「菊池」・・・?                  菊池氏              1019年(寛仁三年)             「刀伊の入寇」に戦功のあった              大宰権帥              藤原隆家の孫              藤原則隆が肥後国に下向して土着・・・???               ・・・明治時代の故事付け改竄・・・?  ↓↑       ↓↑        ・・・668年百済滅亡後           唐の都に連行され           豊璋は嶺南に流刑        弟の百済王(くだらのこにきし)       「善光=徐禪廣」は日本に残留帰化・・・        ・・・山東省臨沂刑務所で夫          「王全璋」弁護士との面会を求める           妻・李文足氏(李文足氏提供)・・???  ↓↑  上田秋成・・・国学者・読本作家・大坂生  ↓↑      幼名は仙次郎         通称は東作         別号に鶉居・漁焉等         俳諧を高井几董に         漢・医学を都賀庭鐘に         国学・和歌を加藤宇万伎に         学ぶ        「雨月物語」・・・雨月=名月が雨で見られないこと         ↓↑       雨名月・・・アメ(☂::)の名の解通                 雨の月・・・アメ(☂::)のゲツ                 陰暦五月の異称                 皐月(さつき)                 白+夲(トウ・すすむ・もと)                 「丰==+十+=」=「夲」                「夲(もと)=一+人+十」                 白い光が放出(丰)するさま  ↓↑      ↓↑       しろい意                「皞(カウ)」の原字                 魂呼(たまよ)びの声の意                 皐魚の泣(コウギョのキュウ                 親の死を嘆き悲しんで泣く)                「皐魚不孝者の名・『韓詩外伝』」                 早苗月(さなへつき)                 梅雨・五月雨・菖蒲月(あやめづき)                 皐月躑躅(さつきつつじ)                 映山紅(エイサンコウ)・・・英参考?                 12か月=「陬如寎余皋且相壯玄陽辜涂」                      1 2 3 4 5 6 7 8 9 101112                     「皋=白+一+人+十」は                     「皐=白+=+十+=」の本字                 皐=コウ(カウ)・さわ・岸辺・水辺                「九皐=幾重にも曲がりくねった奥深い沢」                「鶴九皐に鳴き声天に聞こゆ」         ↓↑       瑞皐=高野長英         を著作         本居宣長(古事記伝の作者)とは  ↓↑      古代音韻、皇国主義をめぐって論争  と親交  後に  水戸藩彰考館に招かれ  『大日本史』編纂にも関与  日野資枝の実弟で  宝暦事件・・・宝暦八~九年(1758~1759)         江戸幕府が尊王論者の         竹内式部らを処罰した事件・・・竹内宿禰?  で逼塞していた  裏松固禅・・・裏松 光世(うらまつ みつよ)  ↓↑      元文元年(1736)十一月十一 日          ~         文化元年(1804)七月二十六日         公家・有職故実家         『大内裏図考證』を著作         内大臣・烏丸光栄の五男         裏松益光の養子         法名は固禅  ↓↑      裏松家5代当主  と意気投合し  その家臣となり  『大内裏図考証』の執筆を助けた  一方で発掘された  出土品などを吟味して  厳密な考証の必要を唱えて  記紀の記述と言えども  無条件でこれを支持すべきではないと主張  神武天皇の在位を600年繰り下げ  神代文字の存在を否定した『衝口発』を著す  神武天皇  素戔嗚尊(正体は新羅国王であるとした)  の問題については  本居宣長が  『鉗狂人』を著して  貞幹の考証が杜撰であると主張  逆に上田秋成が貞幹を擁護し  宣長の姿勢を非難するなど  「日の神論争」等の論争を招いた  他に  『百官』・『国朝書目』・『逸号年号』  『伊勢両大神宮儀式帳考註』・『古瓦譜』  など自著多数・・・ ーーーーー  ・・・???・・・「烏の丸の光栄」の御難・・・

 ↓↑  璋=王+章    異体字「𤨼」    声符「章・商・漳・障・彰・蔁       墇・鱆・樟・鄣・嶂・瘴・麞」           樟脳=虫除け  璋=王+章    王+立+早    王+立+日+十    玉・王(たま・たまへん・おう・おうへん)    たま・ひしゃく    ひしゃく=柄杓・杓子    圭(ケイ)を縦に半分に割ったもの    圭=土+土=十+一+十+一・・・二十二=弐拾弐    土(つち・つちへん・どへん)    たま・ケイ    天子が諸侯に    領土を与えたしるしとして授けた角のある玉    かど・かどだつ・かどがある    容量・容積の単位・一升の十万分の一    圭角が取れる=角が取れて人柄が円満になること           「圭角」=玉の尖ったところ                角が取れるという意    弄璋之喜=男の子が生まれること・生まれた喜び  ↓↑  前11世紀  周王朝  戈をかたどった玉器  瑞玉をかたどった玉片に  一族郎党で行った盟(ちか)いの文句を朱書し  犠牲の家畜と共に地中に埋めた  この形の玉器は  前1千年紀末の古典中で璋と呼ばれ  前10~前9世紀  西周中期  瑞玉として  勺(ひしゃく・柄杓)の柄に取り付ける玉がある・・・  ↓↑  「上を剡りたるを圭と爲し   半圭を璋と爲す(説文解字・巻一)」  「六幣。・・・幣=敝+巾   ↓↑       㡀+攵+巾           八+巾+八+攵+巾           巾(はば・はばへん・きんべん)           ぜに           ぬさ           みてぐら・ヘイ           神前に供える絹           贈り物・貢ぎ物           宝物・価値の高い物品    ↓↑      銭・お金・通貨    圭は馬を以ってす    璋は皮を以ってす    璧は帛(木綿)を以ってす    琮は錦(にしき)を以ってす    琥は繡(ぬいとり・刺繍)を以ってす    璜は黼(あや・ぬいとり・礼服の模様        斧の形を黒と白の糸で刺繍)を以ってす(周礼)」・・・?

 ↓↑  六言六蔽(リクゲンリクヘイ)  努力をして学問や教養を積めば  人には六つの徳が備わるが  怠ると六つの弊害がでてくる  『論語』陽貨篇  ↓↑  子曰く  由(ユウ)よ  女(なんじ)六言(リクゲン)の  六蔽(リクヘイ)を聞けるか  ↓↑  子路(シロ)よ  対(こた)えて曰く未(いま)だし  居(お)れ吾(われ)女に語(つ)げん  ↓↑  仁を好みて学を好まざれば其の蔽や愚  ↓↑  知を好みて学を好まざれば其の蔽や蕩(とう)  知識を好んでも学問を好まないとただの雑学になる  ↓↑  信を好みて学を好まざれば其の蔽や賊(ぞく)  誠実を好んでも学問を好まないと盲信してしまう事になる  ↓↑  直を好みて学を好まざれば其の蔽や絞(こ う)  正直さを好んでも学問を好まないと偏屈になる  ↓↑  勇を好みて学を好まざれば其の蔽や乱  勇気を好んでも学問を好まないと乱暴者になる  ↓↑  剛を好みて学を好まざれば其の蔽や狂  剛毅を好んでも学問を好まないと狂乱に陥ってしまう  ↓↑  子路よとにかく一にも二にも学問を好むことだ  『論語』陽貨篇  ↓↑  樟脳・・・タンスにゴン?  ↓↑  潘 璋(ハンショウ・?~234年)  後漢末期から三国時代の呉の武将  字は文珪  兗州東郡発干県の人  子は潘平  15歳の孫権が  陽羨県長だったときに目通りを求め仕えた  ↓↑  扶余豊璋  扶余 豊璋(フヨ ホウショウ)  扶余豐璋  百済最後の王  義慈王(在位:641年~660年)の王子  『日本書紀』は  「扶余豊璋=徐豊璋」  『三国史記』では  「余豊璋=徐豊璋」  『旧唐書』では  「余豊=徐豊」  である  ↓↑  肥後国の豪族菊池氏を集斯の後裔  「魏志倭人伝」の  狗奴国の官・狗古智卑狗(くこちひく)  その名前より「菊池彦」・・・?  ↓↑  菊池氏  1019年(寛仁三年)  「刀伊の入寇」に戦功のあった  大宰権帥  藤原隆家の孫  藤原則隆が肥後国に下向して土着・・・  ↓↑  圭  中国古代の玉器の一種  上方がとがった短冊形を呈し  半圭のものを璋と呼んでいる  圭の形は先史時代の  有孔石斧から発達したといわれる・・・  ↓↑  圭  古代中国で儀礼に用いた玉  重要な儀礼では  天子諸侯が手に持って儀礼を執り行った  ↓↑  圭=古代中国の重量の単位。10圭が1合、10粟が1圭  圭=古代中国の容積の単位。64黍が1圭  圭=江戸時代の数学・和算で、二等辺三角形を指す    圭形とも  圭=代数学的な構造の一つ    カンドルやラックのうちの特殊なもの  ↓↑  儀礼に用いた玉製の道具  日影を測量する玉器  香り酒(鬯酒)を酌むのに用いる玉器  閨と通じて門  ↓↑  説文解字・巻十三  「瑞玉なり」  「上圜下方・公は桓圭を執る・九寸   矦は信圭を執り、伯は躬圭を執る、皆な七寸   子は穀璧を執り、男は蒲璧を執る、皆な五寸   以って諸矦を封ず」  諸侯を封ずるときに用いた玉器  上は円形で下は方形  諸侯の格によって大きさが異なる  ↓↑  「玉圭」字形  珪  玉の象形  土を上下重ねたような字  土+土(説文)の会意  金文では土の字形と異なる・・・  帝王が諸侯に与える先端の尖った玉の板  ↓↑  蛙(かえる)・卦(ヶ)・珪砂(silica sand・石英硅砂)・白色粗粒の砂  藤 圭子  桂小五郎(木戸孝允)  天保四年六月二十六日(1833年8月11日)~明治十年(1877年)5 月26日  癸巳(戊庚丙)偏印 正財沐浴⇔丁丑  庚申(戊壬庚)正官 正財 胎⇔乙巳  乙丑(癸辛己)   偏印 衰⇔己亥   戌亥空亡  ↓↑  圭角  圭冠(はしはこうぶり)    漆塗りの布帛(ふはく)製    上は円くとがり、下が方形をしたもの  卦算・圭算=文鎮(ぶんちん)  圭復=「論語」先進の故事     人から来た手紙を繰り返して読むこと  ↓↑  金沙遺跡(きんさいせき)  中国  四川省  成都市  青羊区  金沙街道  にある殷周時代の遺跡  本遺跡は  BC1700~1200年(夏晩期~商後期)  の三星堆文化の後  BC1200~500年(商後期~春秋)  の十二橋文化(十二橋・金沙文化と改称)  の代表遺跡と解明・・・  ↓↑  「璋」  古人が天を祭り、太陽を拝み  豊作を祈る時に使われた礼器  権力と地位の象徴  「双獣首闌玉璋」  金沙から出土した200点に及ぶ玉璋の一  ↓↑  「璧」  金沙から出土  「有領玉牙璧」  ↓↑  2001年2月  四川省の省都・成都市の金沙村で  3000年前の  金器、銅器、玉器、石器、漆塗り木器、象牙が出土  ↓↑  金沙遺跡はおおよそ3000年前  魚鳧王が創建した  三星堆の都は廃棄され  杜宇王が創立した  金沙王国は繁栄  ↓↑  両方とも古代  蜀人が創建した古代蜀国  住民は骨組みが木か竹で土壁の家  稲や桑の栽培  牧畜、漁労、狩猟で生計  鋳物、陶器、玉器、木器の工芸技術  太陽、鳥、虎、蛇、亀、蝉、目  を崇拝  金器、銅器、玉器、石器、陶器は  三星堆のとほぼ同じ芸術的特徴  金製の仮面と冠帯  青銅製の人物彫像  有領(襟に似た突起)  玉璧  玉璋  目の形をした什器  図案や紋様が  三星堆と金沙が同じ  ↓↑  金沙では現在2000点に達する玉器が出土  圭(板状の直方体で先端が尖った玉)  璋(圭を縦に二分した玉)  琮(内円外方の柱形をした玉)  璧(薄くドーナツ状の玉)  玦(帯に付けた装飾用の玉)  など二十数種  出土した1200点の石器  形や造りが小さく、精巧  日用品ではなく祭事に用いられた・・・  陶器  尖底盞(ちょこ)  尖底杯  いずれも底が尖った器  ↓↑  金沙と三星堆の  古蜀人は  虎をトーテムとして崇拝していた  川西(四川省西部)高原に住む  羌氐民族の後裔  金沙から出土した十数点の  石虎  ↓↑  以上  by ウィキペディア(Wikipedia)、etc・・・ ーーーーー  ・・・???・・・tama・たま・タマ・・・

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