「天地玄黄=黄幢=黄龍旗=チベットの旗=九寨溝 黄龍」
2022/9/2・金曜日・・・追加添文・・・
ガンガンのお天気・・・
鈍間な颱風11号の眼、未だ南方にあり・・・北海道にも上陸かも・・・
8月31日
オオタニ・エンジェルス・・・ホームラン30号・・・
ヤンキース戦に「3番・DH」で先発出場
6回に逆転3ラン・・・
あの時(2016年10月)も
俄か(にわか=似和歌?)旗振り・・・
・・・昨夜は圧巻の野球ゲームだったが・・・俄か(にわか=似和歌?)旗振り・・・「天地玄黄=黄幢=黄龍旗」・・・「幢(ドウ)=巾+童」=「昔、儀式または軍隊の指揮などに用いた旗の一種・彩色した布で作り、竿の先につけたり、柱に懸けたりした・はたほこ・魔軍を制する仏、菩薩のしるし。また、仏堂の装飾とする垂れ布(たれぎぬ)・古代の儀式に用いる)吹き流し・旗・仏教の経文を刻んだ六角形または円形の石柱=経幢=石製は石幢(セキトウ)」・・・以下はスベテ「黄幢(コウドウ)」に関するブログ記事を参照、参考にして「引用添付」したものデス・・・ワタクシの「オリジナル」ではありません・・・少々改作してある部分と「・・・?」とした処だけが「ワタクシの部分」です・・・「引用」はインターネットの検索でスベテ検索できるモノですから、この「日記」をお読みになっている方は、「黄幢(コウドウ)」の原文は御自分で検索、御確認をお願いします・・・勝手な諸々の「黄幢(コウドウ)」に関する引用も、断りもなく、ご免なさい・・・ ーーーーー 黄幢(コウドウ) 黄幢とは、黄色い吹き流しのような 軍旗 黄幢(コウドウ)(軍の指揮に用いる旗) 黄幢(黄色いはた。 高官の象徴) 黄幢(黄色い旗さし) 黄幢(旗・幡・旛・将)=幡鉾 はた=機・秦・羽田・葉多・波多・波田 秦・畑・畠・傍・側・端・圃 黄幢(黄色い旗ぼこ =戈・矛・戛・鉾・鋒→殳=ほこ・シュ・ズ) 黄幢(コウドウ→憧は幢に修正・・・???) 「紹煕本」では 「百衲本」の「黄幢」を「黄憧」とする? 「幟」は「のぼり」 「幡」は「はた」・・・八幡(ヤハタ) 黄竜旗=中国清朝の国旗・黄色地に竜を描いたもの 黄龍=チベットの旗=九寨溝 黄龍
四神相応=風水の地勢や地相
↓↑ 四神に中央に
「黄龍」、「麒麟」を加え「五神」
背後に山、前方に海、湖沼、河川の水が配置されている
背山臨水の地
左右から砂(さ)と呼ばれる丘陵
背後の山よりも低い山で囲むことで
蔵風聚水(風を蓄え水を集める)の形態
四神は、
背後の山が玄武
前方の水が朱雀
玄武を背にして
左側の砂が青龍
↓↑ 右側が白虎
北は黒龍
西は白龍
南は赤龍
東は青龍
中央は黄龍
四海竜王より上
黄竜と合わせて「五竜」
中国皇帝の旗
中央を守る
↓↑
四方を司る水の神
西遊記や封神演義の物語に登場
↓↑
封神演義では
リナタ(李哪吒)=ナタク
托塔天王(毘沙門天)の
三男が龍神退治するハナシ
↓↑
7歳(身長6尺)のとき、
東海龍王敖光の巡海夜叉の
李良と
龍王の
三太子敖丙を殺し
敖丙の背筋を抜き
父の怒りをうけ、
罪をあがなうために
自らの肉と骨を切り自害
死後母親の夢に現れ、
己の行宮を建てるよう頼んだ
神像が
3年間受香すれば再生できるはずだったが、
事の次第が
李靖(唐代の太宗に仕えた軍人・政治家)=李藥師
に発覚し行宮を焼き払われたため、
太乙真人は蓮の花に金丹を入れて肉体とし
哪吒を復活させ、
父とは
燃灯道人がとりなし和解
闡教の道士として父や兄と共に
周陣営に参加し、
以後
商の仙人と闘う
三面八臂の姿を得た
↓↑
四海竜王
唐の玄宗が、
751年に四海の神を封じ
広(廣)徳王(東海)、
広(廣)利王(南海)、
広(廣)潤王(西海)、
広(廣)澤王(北海)
の称号をそれぞれに授けた
↓↑
孫悟空にもやられる龍神
↓↑
長男、東海竜王傲廣
次男、南海竜王敖欽
三男、西海竜王敖閏
末弟、北海竜王敖炎
↓↑
龍宮(水晶宮)で
エビ(海老・蝦・鰕・螧)や
カニ(蟹)たちに守られ
海を統治し、雲と雨を操り
怒ると、都市を洪水にする
東海竜王が最も大領土をもち
それぞれ別名を有する
↓↑
東海龍王=敖廣(ごうこう)=廣徳王
南海龍王=敖欽(ごうきん)=敖紹=廣利王
西海龍王=敖閏(ごうじゅん)=廣順王
北海龍王=敖順(ごうじゅん)=敖炎=廣澤王
ーーーーー
龍神か、蛇神か
・・・辰巳(龍蛇)は南東の「戊己=土」に位置
↓↑ 伏羲と女媧 ↓↑ 伏羲=宓羲・包犠・庖犠・伏戯・伏義・伏儀 三皇の一人 姓は鳳(凤)姓・太皡庖犠氏は風姓? 八卦をつくり 人間に 漁猟を教えた 女媧(ジョカ・Nüwa)=女希氏・媧皇・女皇 古代中国神話の土と縄で人類を創造したとされる女神 笙簧の発明者 縄の発明者、葛天氏と同じく伏羲の号に属 三皇の一人に挙げる説・・・ 姿は蛇身人首 姓は風 伏羲とは兄妹で 身は竜体=人首蛇身 同じく竜体の伏羲と下体が相交わる神像 「風俗通義(フウゾクツウギ(後漢末)」には、 女が人間をつくった 彼女は初め黄土を人の形にこねあげ、 人間を丁寧に1人ずつつくっていたが、 作業に骨が折れすぎて休むまもないのに 業(ごう)を煮やし 女は、ついに縄を泥中に浸してそれを引き上げた そのときに縄から飛び散った 泥のしずくがすべて人間になった 伝承の変化で、 女は三皇の一人 男性神の伏羲(ふくぎ)と夫婦となった・・・ 上半身は人間、 下半身が蛇形に描かれ、 女媧は右手に「ぶん回し(コンパス)」 伏羲は左手に「物差し(定規・曲尺)」 を掲げる ↓↑ 中国の黄河=黄竜・・・沙漠の竜巻・・・蜃気楼? 琉球王朝の海人は、 黄色旗や 百足(ムカデ)旗を掲げ 航海の無事を太陽神に祈った イルルヤンカシュ=ヒッタイトの竜 ↓↑ 太極八卦旗 太極四卦旗 「五爪龍旗・四爪龍旗」 朴泳孝が出発前に清朝政府に 中国の 五爪龍旗の使用を打診 清朝は 「潘属国は四爪龍旗の使用しか認められない」 と拒否 中国の使節 馬建忠は 中国伝統の 大極八卦旗を国旗として使用することを勧め、 朝鮮政府も受け入れた。朝鮮の太極旗の始まり 清の国旗の竜は爪が5本 藩属国は4本 牙旗=中国で、旗ざおの先を 象牙で飾り 猛獣が牙(きば )で身を守る形とした 天子または大将軍のいる所に立てる旗 大将旗 牙纛=呉の孫権が・・・・・・旗の色はナニ? 中央軍につねにたてていた 黄竜の牙旗・・・・・・龍は黄色だった? 黄幡=黄幢?は呉の幡 ーーーーー ・・・「幢=巾+童(立里)」の類字は「憧撞瞳童」・・・「魏志倭人伝」の著者(?)の漢字使用は周到であるカナ・・・帰化人の翻訳教養・・・サスガだが・・・妄想だが・・・ ーーーーー ↓↑ 「其の六(年?)... 同時期の遼陽の壁画(北薗壁画墓)に 黄幢とみられるものが描かれていた」・・・? ↓↑ 其八年(西暦二四七年=247年) 太守 王祈 到官 倭女王 卑彌呼 與 狗奴國 男王 卑彌弓呼・・・・卑彌弓、呼、素、不和・・・? 素不和 遣倭 載斯烏越・・・・載、斯、烏を越る・・・? 等詣 郡説 相攻撃状 遣 塞曹掾史 張政 等 因斎 詔書 黄幢 拝 假 難升米・・・・難升の米=米を升(はかる)のは難しい? 飢饉だろう・・・ 爲 檄 告喩 之 卑彌呼 以死・・・・・殺された・・・死を以て・・・自殺? 大作冢 徑百餘歩 徇葬者 百餘人 更 立 男王・・・・・狗奴國の「卑彌弓呼」ではない? 國中 不服 更 相誅殺 當時 殺 千餘人 復立 卑彌呼 宗女 壹与・・・・・・壹與、臺與 年十三 爲王 國中 遂定 政・・・・・・・「張政」なのか、政(まつり)なのか? 等 以 檄 告喩 壹与 壹与 遣 倭大夫 率善中郎将・・・・率善か、「率膳」の御膳立てなのか? 掖邪狗・・・・・・掖邪狗(わきやく)なのか、 ワ記の訳なのか? 等二十人 送 政 等 還 因 詣 臺 献上 男女生口三十人 貢 白珠 五千孔 青大句珠二枚 異文 雑錦二十匹 ↓↑ 王頎は)塞曹掾史・張政(せんそうえんし・ちょうせい)等を遣わして、詔書・黄幢(こうどう )を(倭に)齎(もたら)し、難升米(なしめ)に拜假(はいか)し、檄(げき)を為して、之を告 喩(こくゆ)す。 ↓↑ 其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。 其八年、太守王[斤頁]到官 倭女王卑彌呼 與狗奴國男王卑彌弓呼 素不和、 遣倭載斯烏越等詣郡、説相攻撃状。 遣塞曹掾史張政 等因齎 詔書・黄幢、 拜假 難升米 爲 檄告喩之。 ↓↑ 倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。 倭の載斯烏越等を遣わして 郡に詣り、相攻撃する状を説く。 塞曹史張政等を遣わし、 因って 詔書・黄幢を齎し、 難升米に拝仮せしめ、檄を爲してこれを告喩す。 ↓↑ 黄幢(こうどう)である・・・ 黄幢の幢とは、軍事指揮や儀仗行列に用いられる 旌旗(せいき)・・・?・・・旌=方+ノ一(髪挿し)+生 の一種で、 天子が部下に権限を付与した印しとして与えたものだった。 遼陽北園墓の墓室には、 騎従がもつ幢が描かれている。 幢形のものが二つ重なって描かれている・・・?
↓↑ 率善中郎将 中郎将とは交代で宿直して宮城を護衛する武官の長 この職は、 秦代に、始まり、 宋代以後には廃止 秩は比二千石 中郎将は郎中令に属し、 五官・左・右の 三中郎将が常置 必要に応じて種種の 「雑中郎将」(匈奴中郎将・建義中郎将等々)が任命された 率善中郎将も、 「雑中郎将」の類に属する 率善の意味・・・帰義候・・・率善=帰義・・・?「率膳」? 中郎将に任ぜられるのは原則として 内臣に限られ 「難升米」の場合はむしろ例外?・・・漢字は「難の升の米」である 239年 「難升米」は 「率善中郎将の位」 245年 黄幢を賜った ↓↑ 奴国男王 卑弥弓呼 素 不和 遣倭 載斯烏越・・・・・・載斯烏越=斯(これ・この・かく・シ) 烏(カラス・ウ) を越えるコトを載せる・・・? 等 詣 郡 説 相攻撃状 遣 塞曹掾史 張政 等因 齎 詔書 黄幢 拝假 難升. (難升)米 為 激 告喩 之 卑弥呼 以 死 大冢径百余歩・・」 ↓↑ 「幢」を、 『後漢書』の 班超伝 にみえる 李賢の注には 「鼓吹・幢麾、皆大将所有」 とあることを確認、 諸橋『大漢和辞典』では、 軍の指揮に用いる 「はた」(はたぼこ=旗+矛)であるとしている・・・ 「幢」が「軍旗の一種」で、 少なくとも唐代には、 将軍・刺使の威儀を示した儀飾の一つであった・・・? ↓↑ 「一番古い軍旗としての幢の記録は、 栗原の探したものでは、 『漢書』の 韓延寿伝という」 漢の宣帝のとき、 延寿が東郡太守として在任中、 都試の際に 「幟」を立ててこれに臨んだ・・・「幟」は「幢」か? 自分が考案した 「各種の儀飾り」が、反対派によって劾奏され、 「棄市」という極刑に処せられてしまった ・・・棄市=公衆の面前で打ち首にして、 その死体を市中に晒すこと 「問われた罪が、幟を立てて都試に臨んだこと」 だというのである・・・?「都試」って、「都の試験」? 「幢」は、 王権の権力行使や軍事権に関わる重要なシンボル・・・ ・・・深く考えなくてもハタならば「重要なシンボル」であろう・・・ 「内臣以外の賜幢」の例としては、 「泄帰泥」に与えられたものが一つだけある・・・「泄の帰の泥」・・・排泄物も泥も同じ? 部族をひきいて、 魏に帰属した 「泄帰泥」にあたえたもの・・・ 「曲蓋・鼓吹を与えて、元通り住まわせ、 鮮卑族に対抗させた」 という記録である・・・らしい・・・研究、勉強家はスゴイねッ・・・ ↓↑ 日本語訳は『三国志』 魏書・烏丸鮮卑東夷伝 『世界古典文学全集24B三国志?』筑摩書房 (現在は筑摩文庫にも収録されている)291頁にある・・・らしい。 ↓↑ 武田幸男の黄幢の見解 中央公論社版 『世界の歴史6隋唐帝国と古代朝鮮 第2部朝鮮の古代から新羅・渤海へ』1997年 (中公文庫版は2008年刊 332頁~336頁) ↓↑ 「魏は倭の難升米に黄幢授与することにした。 「幢」というのは、 袋状の軍旗であり、 「黄」色陰陽五行説にいう五行の一つ、 魏の土徳を意味していて、 黄幢は魏の軍事力を象徴した。 黄幢の授与を通じて、 魏は軍事的連携をはかったのであろう。 おりしも、 魏の高句麗攻撃が最高潮にたっし、 母丘倹が東方世界を制圧しかかっていたころである。 帯方郡が 黄幢を届けるまで 三年かかったのも 郡自体が作戦の展開中だったからである。 難升米は魏が注目し、 高く評価した人物であった。 卑弥呼が男弟一人を頼りに 神聖統治の宗教的な統括者として 振る舞う中で、 大夫の難升米は行政実績があり、 すでに外交手腕も認められて、 世俗面を代表する重鎮であった。 魏は外交辞令だけで、 率善中郎将に任じたのではなかった。 今度は、 外臣としての彼に、 軍事的な指導性が期待された。 女王国は、 魏の東方戦略に組み込まれていたのである・・・ ↓↑ 卑弥呼の軍団に 外国人の軍事顧問がついたのである。 黄幢の軍事的意味あいは、 当面、 卑弥弓呼の打倒に向けられていたはずである。 結局、 張政が 翌248年に還ったところをみると、 それが少しでも効いたのかも知れない」 ↓↑ ・・・「さすが、武田幸男」ですか?・・・ ↓↑ 先の「栗原(論文)」の 黄幢についての見解の紹介で 脱落していた重要な指摘に、 呉が、 公孫淵に与えた詔書の件があった。 三国志呉志の注で、 「裴松之」は 「江表伝」を引用しているところの記述である。 呉王の孫権が 公孫淵に送った詔書のことである。 公孫淵を 「燕王」とするとともに、 「戎事あれば兵馬の 「典蓋・麾幢」を与える」・・・麾(さしまねく・キ 軍を指図する旗)の幢 麾下の旗 靡(なびく)に類字 記されている・・・・そうである・・・ ↓↑ 橿原日記 平成20年9月14日 黒塚古墳から出土した 用途不明のU字形鉄製品 原文記事は以下 ↓↑ http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2008_09_15.htm ↓↑ 用途不明のU字形鉄製品 県立橿原考古学研究所(以下、橿考研) の発掘調査報告書によれば、 大小2本のU字形に曲げられた鉄製品は、 木棺の北小口の外側に置かれ、 石室の北東の隅に立てかけてあった。 2本の鉄棒の間にはV字形をとどめる鉄板製の管があり、 大半は崩落していたが、 U字形鉄棒の間をつないだ形を保つ部分だったと思われる。 この製品の両側に接して、 全長40cm前後の棒状鉄製品が立てた状態で5点、 横にして移動した状態で9点出土したとのことだ。 発掘当時、 この大小2本のU字形に曲げた鉄製品が 何であるか類推できなかった。 そのため調査報告書でも 「用途不明の鉄製品」と記されている。 謎のU字形鉄製品は、 両端がとがった長さ約70cmと57cmの 鉄の棒をU字形に曲げ、 その間に長さ5cmのパイプ(鉄板を丸めたもの)を V字形に並べパイプの中にひもを通して結びつけていたようだ。 その後、X線撮影で調べてみると、 リボンのような絹織物が巻き付けてあったことが判明した。 そのため、 一種の吹き流しのようなものではなかったかと想像された。 だが、他に出土例がなく相変わらず その形状や使用目的は謎のままだった。 ↓↑ 印綬を授かったのは、 女王卑弥呼だけではない 239年 遣魏使節の 大夫・難升米(なしめ) 次使・都市牛利(つしぐり)・・・都も市の牛の利? もそれぞれ 銀印青綬を受けている 243年(正始四)に派遣された 大夫・伊声耆(いえせき)・・・伊の声は 耆(おいる・ギ・シ・ジ 老人・六十歳or八十歳) 伯耆国(ほうきのくに)は 鳥取県 掖耶狗(えきやく) ら8人もみな 率善中朗将の印綬を受けている ↓↑ 邪馬台国の所在地を示す物的証拠 黄幢(こうどう)である。 黄幢の「幢」とは、 軍事指揮や儀仗行列に用いられる 旌旗(せいき)の一種で、 天子が部下に権限を付与した印しとして与えた 遼陽北園墓の墓室には、 騎従が持つ 幢が描かれている。 幢形のものが 二つ重なり、 上は黒、 下は赤に塗られ、 上のものは 丸い傘状のものの下に 短い垂れ下がりがあり、 下の方は 鳥の長い羽毛が垂れている図である ↓↑ 三国志・魏書東夷伝 245年(正始六)5月 魏の 母丘倹(かんきゅうけん)、高句麗に侵攻 楽浪郡の軍隊とあわせる。 詔して倭の難升米(なしめ)に黄幢を賜い、 郡に付して假授せしむ。 247年(正始八) 太守王斤頁(おうき)、官に到る。 倭の女王卑弥呼、 狗奴國の男王卑弥弓呼 と素より和せず。 倭の 載斯(さいし)・烏越(うえつ)らを遣わし 郡に詣り、 相攻撃する状を説く。 塞曹エン史 張政 らを遣わし、 因って 詔書 黄幢 をもたらし、 難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す・・・ ↓↑ 発掘中の黒塚古墳の石室内 U字形鉄製品を見て、 「黄幢」と直感した考古学者がいる。 徳島大学の 東潮教授である。 そのとき、この鉄製品が 難升米が貰った黄幢ならば、 銀印があるかもしれないと、 発掘調査員に話したという。 しかし、棺外の北小口にあった 画文帯神獣鏡付近や棺内から 銀印は見つからなかったとのことだ・・・ ↓↑ 中国の三国時代 魏の曹氏 蜀の劉氏 呉の孫氏 と 公孫氏 が、 燕 という国を建てて遼東の地を支配 燕と対峙した 魏は、ひそかに 黄海を越えて 帯方郡と楽浪郡を掌握すると、 燕王の退路を絶ってこれを攻めた。 燕王公孫淵は敗死 彼らが歴代にわたってきた支配領域は 魏の支配する領域となった。 西暦238年、 魏の年号 明帝の 景初二年 ↓↑ 239年(景初三) 倭の女王・卑弥呼が 帯方郡を介して 魏の都・洛陽に慶賀の使節を派遣した 238年 魏の 司馬懿が 公孫淵を討伐 高句麗は 燕に援軍を送ったが、燕は滅びた ↓↑ 242年(正始三) 高句麗は西安平地区に侵入 244年(正始五) 魏の将軍 母丘倹(かんきゅうけん)が 高句麗に侵攻し、 国内城を陥落させた 245年(正始五) 楽浪郡太守 劉茂 と 帯方郡太守 弓遵 は、遼東の 濊(ワイ)=氵+歳 が 高句麗についたので、軍を派遣してこれを伐った 同年の 五月 母丘倹は高句麗に侵攻し、 楽浪郡からの援軍と合流して戦った 246年(正始七) 母丘倹は高句麗の領土に侵攻 魏が倭の 大夫 難升米 に 黄幢(こうどう) を授けたのは、 魏と高句麗が緊張状態にあった最中のこと・・・である・・・ ↓↑ 東教授が 黒塚古墳の石室の片隅で見つかった U字型鉄製品に注目された理由・・・ この鉄製品が本当に 難升米に仮授された 黄幢ならば・・・ 倭が魏の 冊封体制に組み込まれ、 倭の軍隊が 広開土王の軍と干戈を交える 150年も前から 高句麗を仮想敵国としていた・・・ ↓↑ ただし、この黄幢に関してはさまざまな疑問がある。 まず、 なぜ倭国の女王である 卑弥呼に対してではなく、 難升米に対して仮授したのか。 また、 「仮授」とは仮に貸し与えることで、 永久に授与するという意味ではない。 つまり、 仮授された 黄幢 は戦争が終われば 返還すべき性質の旌旗であるということだ。 それが 何故古墳に埋納できたのか? ーーーーー ・・・いやぁ~、以上の考察は面白かったデス・・・ ・・・ナゼですか? 多分、「黄の幢」が巾の童で、「巾の立つ里」だったから・・・ 妄想デシタ・・・カナ・・・「天地玄黄=黄幢=黄龍旗」・・・ハタハタの漢字「鰰・鱩・雷魚・燭魚」・・・
・・・イヨイヨ(壹與、意予)決戦の時間帯に突入したが、「冬の陣」になるか、「夏の陣」になるかは・・・結果待(俟・ま)ちであるが、29日(甲申)18時30分・・・19時(癸酉)・・・ヤッタァ~西川、三塁打!・・・20時(甲戌)~・・・凄いコトになっているが、4-4・・・21時(乙亥)~22時、押し出し5-4、バース6-4、やったぁ~ッ!!レアード満塁ホームラン10-4・・・22時34分、決着、北海道へ凱旋~ッ・・・前回は「黄幢」の「幢」とは、ナニか?で以下の引用文を添付したが、「黄幢(?)」の「黄・黄色」がマッタク欠落している「遼陽北園墓の墓室には、騎従が持つ幢(?)が描かれいる」とあり、その形状が「幢形(?)」であるらしく、旗の色彩に関してはボクがコラージュして添付した絵の「黄色の飾り旗」と異なっている。スナワチ、「幢形のものが二つ重なり、上は黒、下は赤に塗られ、上のものは丸い傘状のものの下に短い垂れ下がりがあり、下の方は鳥の長い羽毛が垂れている図」・・・ ーーーーー 「軍事指揮や 儀仗行列に用いられる 旌旗(せいき)の一種で、 天子が部下に権限を付与した印しとして与えた 遼陽北園墓の墓室には、 騎従が持つ 幢が描かれている。 幢形のものが 二つ重なり、 上は黒、 下は赤に塗られ、 上のものは 丸い傘状のものの下に 短い垂れ下がりがあり、 下の方は 鳥の長い羽毛が垂れている図である」 ーーーーー
ではなく、
となるのだが・・・?・・・コレは「黄(色)幢」なのか?・・・ 「気概」の「概=木+既(既・旣=白ヒ牙)=槪・槪・槩」は「概(おおむね・だいたい・おもむき・ガイ)」である。「木(き・モク・ボク)」の、「既(すでに・もはや・もとより・とっくに・つきる・ことごとく・キ・ケ)=旣・既」で、「概念」である・・・漢字構成からハヤシ先生の「升の米の表面を均す」とは思えないが・・・「木(偏)」は表面の米面(こめづら)を均す「升の棒」の表意?・・・ 「牙(きば・キ・ケ)=器に盛った食べ物を食べ尽くしてノドケル、詰まらせる、むせる、むせぶ、喰い過ぎでゲップ」で、「概」は満足して「木」に寄りかかっている姿であろう・・・ 類字は「慨然(ガイゼン)」の「慨(心+既=忄+既・旣=心白ヒ牙)」は「 いきどおる(激しく立腹)・なげく(歎く・嘆く・悲歎・悲嘆)」で、「心の白はヒ(ヒ七匕)の牙」で・・・「慨嘆・感慨・憤慨・慨世・慨然・慷慨(コウガイ)・憤慨」である・・・ 「牙」の類字の「无(なし・~するなかれ・ムブ)」は「無」と同意、同義であるが・・・「虚無=万物の根本」は道家の思想だが、「自然科学」としての「底存在するアルものはアル」で、「虚無」とは「人間認識の心の認識思惟能力」の「認識概念の限界」である・・・ イヨイヨ(壹與、意予)決戦の「黄幢」は、「め組の纏(まとい)」・・・「火」消しの仕事は延焼の阻止の家屋の破壊と消火の放水の「水」・・・終わって、北海道で凱旋での宴会はタラフクの「白のヒ(ヒ七匕)」の「牙」である・・・
・・・NHKスペシャル(16時50分~)「ある文民警察官の死~カンボジアPKO 23年目の告白~(2016年8月13日)」の再放送を観たが、当時の「政府」の「カンボジアUNTAC(文民警察官の派遣と事件?・1993年5月4日)」も、「イラク派兵の自衛隊(PKO)」、そして現在の「政府」の「南スーダンの自衛隊(PKO)の海外派兵」とは如何にイイ加減なものなのかが、ワカル・・・政治屋、コウノ、ミヤザワ、コイズミ、そしてアベも現場では「銃」を向けられない「安全地帯」に存在したし、存在して「他人事」のハナシをしているようだ・・・「自衛隊の国際貢献とは自国民の命」を消耗させるコトなのか・・・ダレのタメに・・・ 市民社会の「平和なスポーツイベントに歓喜」が、「戦争への下敷き」、「メクラマシ」にされてはいないか・・・「戦争と平和」は「恋愛小説」なんだか、ドウなんだか・・・「戦争=平和」ではないハズだが、この世の中、ダレかにとっては「戦争=平和」なんだろう・・・「日本一のFighters」の歓喜には文句はないけれど・・・ プロも、アマの「アスリート」も「重労働者」・・・古代ローマなら「剣闘士(グラディエーター=Gladiator=グラディアトル、グラディアートル)」、そして「センチュリアン(ケントゥリオ=centurio・古代ローマ軍の百人隊)」、「遣唐使(遣隋使)」も命がけだが・・・ 前回、書き込んだ「黄幢」だが、「巾(きれ・はば・キン)」が「童(わらべ・ドウ)」と合体している形象とは・・・童の被る「頭巾」、あるいは「帽子」と云うことか・・・あるいは「児童の防災頭巾」の変形?・・・「童=目を辛(針・立=辛の省略形)でつき通した召使・僕)」、「童=立+里(田十一)」は里に立てる「巾=旗・幡」か・・・「童」とはナンだろう・・・「僮(僕)・罿(あみ・ショウ)・瞳(ひとみ)・眸(ひとみ・ボウ)・撞(つく・ドウ・シュ)・鐘(かね・ショウ)・憧(あこがれ・ドウ・ショウ)」・・・つり鐘を撞く木の棒を「撞木(シュモク・トウボク)」、撞着(ドウチャク・トウチャク)は矛盾・・・ どうやら、「童」の「形象」は「禿げた丸山」の形状? 「おろか(愚か)」 「角のまだ生えない牛や羊」 「はげる(禿げる)」 「頭髪がなくなる」 「山に草木がなくなる(禿山)・・・丸山・圓(円)山? はげる=接げる・矧げる・剥(剝)げる・禿げる ハゲル=葉解留? 「罪によって僮(しもべ・奴隷)となった者 男を童、女を妾(しょう)という」 「男の辠(つみ・自+辛)有るを奴と曰ひ、 奴を童と曰ひ、 女を妾と曰ふ、 䇂(ケン・刺青のハリ)に従ひ、重の省聲」 ・・・まるで、「春琴抄(しゅんきんしょう)・谷崎潤一郎の小説・盲目の三味線奏者・春琴(薬種問屋の二番目の娘、美少女)に丁稚の佐助が献身的に仕えていくはなし」が、イメージされるが・・・「鵙屋春琴」・・・「鵙=モズ・もず=百舌」・・・「鵙=貝(目八)+鳥」・・・ 兎に角、「黄幢」は「臣従のシルシの旗」だが、「成敗、討伐の象徴の旗」・・・「黄=共+田」→「廾一田八」・・・「田」は「狩りの地」である・・・ ーーーーー 「瓢箪から駒(馬・午・宇摩・甜・旨)→白いロバ・白驢」・・・ 「小説、東遊記 張果、 騎驢應召、 常乗一白驢、 毎倒騎之、 日行数百里、 休息之時、 雖折畳之、 其、 厚如紙、 蔵於 箱巾中」 ↓↑ 恒州中条山に隠居 尭(ギョウ)の時世に生まれ 白驢(白い驢馬)に乗り、 一日に数万里を行き、 休息する時は驢を畳んで 腰の瓢(ひさご・瓢箪)に納め、・・・蔵於 箱巾中で 瓢ではない、匣=箱・・・ 乗る時はその水を噴くと、 忽ち驢が現れた・・・ 玄宗(ゲンソウ)の信任を得、 都に招かれ、死後 棲霞観を建立し祀(まつ)られた・・・ ↓↑ ーーーーー 「中国では 藎草(ジンソウ)が 黄色を染める染料になる 深江輔仁『本草和名』(ca.918)藎草に、 「和名加伊奈、一名阿之為」 源順『倭名類聚抄』(ca.934) 黄草は「加伊奈、本朝式云う刈安草」 藎草は「和名加木奈、一云う阿之井」 小野蘭山『本草綱目啓蒙』12(1806)藎草に 「カリヤス和名鈔 カイナ同上 コブナグサ京師 サゝモドキ江州 カイナグサ播州筑前」 枝葉から 黄色の染料を採る 中国では、 この 黄色で官服を染めに・・・・・・官服は黄色? 人々を使ってこの草を集めさせた (『詩経』小雅・采緑) その莖・葉・花を薬用にする(『中国本草図録』?/4392) 『爾雅』釋草に 「菉(リョク・ロク,lu)、 王芻(オウスウ,wangchu)」と、・・・王の芻(蒭=馬草) 反芻=繰り返し その 郭璞の注に 「菉、蓐(ジョク,ru)也。 今呼、 鴟脚莎(シキャククサ,qijiaosuo)」 日本では カリヤスとともに 黄色染料として用いられた 八丈島では、 ツバキ(椿)の灰を 媒染剤として 黄八丈(キハチジョウ)を染めるのに用い 八丈刈安(ハチジョウ-カリヤス) の名がある・・・らしい・・・ ↓↑ 日本では藎草と思い違いし コブナグサ(小鮒草)が 染め草となった (中国では全草を 咳止めなどに用いる 葉の形を 魚のフナ(鮒・舩) に見たてた・・・・・言葉のカタチを仮の案に見立てた? カリヤスとともに 黄色の染料として、 黄八丈を染める) 名の誤認から物の誤認が生じ・・・ (日本語別名=カイナグサ(腕草) アシイ(脚藺) ハチジョウカリヤス(八丈刈安) イモグサ(イモ草) 漢名=藎草(ジンソウ) 菉(ロク・lu) ?(リョク・ロク・lü) ーーーーー ↓↑ 瓢箪から駒が出た(とは、このコトで)。 染料植物でないものが 染料植物に化けたのである・・・牧野富太郎」 (牧野富太郎・・・雑草という草はない、と云った) ↓↑ ・・・「雑草」は分類上の一般名詞で、特集個別ではないのは当然であるカナ・・・ ↓↑ 「昭和天皇、 『何を言っているんですか。 雑草という草はないんですよ。 どの草にも名前はあるんです。 どの植物にも名前があって、 それぞれ自分の好きな場所を選んで 生を営んでいるんです。 人間の一方的な考えで、 これを切って掃除してはいけませんよ』 とおっしゃった」とか・・・昭和天皇は「科学者」だったが、気が付くのが遅かった?・・・ 「雑魚も、雑民も、雑兵も」存在しない、と・・・ ーーーーー ↓↑ 同類のコトワザは 「灰吹きから蛇が出る 灰吹きから竜が上る 嘘から出た実(まこと)」 「灰吹き=灰や吸い殻を入れる竹筒」 ーーーーー 瓢箪から駒・・・「荒唐無稽」なのは・・・「中国大返し」?・・・「備中大返し」天正十年六月(1582年6月~7月)・・・ ↓↑ 豊臣秀吉の「千成瓢箪(ヒョウタン)」 小馬印=金の逆さ瓢箪に金の切裂 大馬印=金の軍配に朱の吹き流し 「千成瓢箪」は 「馬印」ではなく、 「船印」に使用された・・・ ↓↑ 瓢箪は干瓢(かんぴょう)に加工 馬印(うまじるし)は、 戦国時代の戦場において、 武将が己の所在を明示するため 馬側や 本陣で 長柄の先に付けた印で 馬標、馬験とも・・・ 信長は美濃の斎藤攻めで、 稲葉山城の攻略 木下藤吉郎(秀吉)が、 城の背後からの奇襲 城に火を放ち、信長本隊に 槍(竹)の先に付けた瓢箪を合図に送った 稲葉山城、陥落(1567年) 信長は藤吉郎に 瓢箪を 馬印にすることを許した・・・ 秀吉は、 馬飼いの足軽 草履取り 後、 台所奉行 ↓↑ 馬印 武将が己の所在を明示するため 馬側や本陣で長柄の先に付けた印 馬標、馬験とも 豊臣秀吉時代 小馬印=金の逆さ瓢箪に金の切裂 大馬印=金の軍配に朱の吹き流し
↓↑ 秀吉は 堀尾茂助を道案内役とし 瓢箪を棒の上に着けて 後続の軍兵(ぐんぴょう)への目印として掲げ、 城を攻め落とした ↓↑ 「瓢箪」の「瓢」は「竹で編んだ円形の器」 「瓢」=飲み物の器 「箪」はご飯などの食べ物を入れる容器=弁当 ーーーーー ・・・ハコ・・・
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「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
+
(表紙・画像・音楽)」の
移転先・・・
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ボクの「古事記字源」の発端・・・
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干支歴
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追加添文
「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
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