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「密(ひそ)か」を明らかにするとダレかが困る?

 2022/8/22・月曜日・・・追加添文・・

 ・・・爆撃音も聴くことなく、目が覚めて起床した

終わりつつアルもの・・・あるカタチ・・・だけれど・・・

戦争が終わんない・・・

殺人犯が跳梁跋扈

詐欺横領私服は地球人の日常生活・・・

アシタは

何処へイクの・・・?

 

「君を乗せて(天空の城ラピュタ)         Laputa Carrying you」

 ・・・「念壱拾壱・弐千壱拾壱」日目です。「2016年3月20日」デス・・・ガンガンの御天気で、「雪解(ゆきどけ・セッカイ)」・・・「春(はる・シュン)」・・・ここ、蝦夷地もナントナク、「はる=葉留・張る・貼る・逴・明・温」の「兆(きざ・チョウ・萌)し」です・・・ハぁルョ、コイ、ハァヤク、コイ・・・アルキはじめたミイ(ミヨ?・相馬御風の長女、文子?)ちゃんが・・・作曲、弘田 龍太郎(1892~1952)。作詞、新潟県糸魚川市出身の詩人、相馬御風(1883~1950)・・・ ーーーーー  大正十二年三月に発表  春よ来い 早く来い  あるきはじめた ミイちゃんが・・・・・・視意・未意  赤い鼻緒の ジョジョ(草鞋・鞋)はいて・・・・序助  オンモへ(外)出たいと 待っている・・・・・・音摸  ↓  春よ来い 早く来い  おうちのまえの 桃(もも)の木の  蕾(つぼみ)もみんな ふくらんで・・・・通模視・蔀・莟  ハヨ咲(さき)きたいと 待っている・・・葉与差記他意訳  ↓↑  大正十二年一月二十日  御風の詩に  弘田龍太郎が作曲  曲と詩が  大正十二年三月一日発行  仏教童話雑誌  『金の鳥(金の鳥社)』三月号で発表  相馬御風著『相馬御風歌謡集(厚生閣)』に  昭和十二年五月発行の「童謡の部」に収録  戦後は毎年春にNHKラジオで放送された ーーーーー  そうですか・・・で、  『歌語例歌事典(鳥居正博・聖文社・1988)』  ↓↑  ・・・この「鳥居正博」氏とはなにものか?・・・ボクの使用して居る「エッセンシャル英和辞典」の発行者でもあるんだけれど・・・「怪しい人物?」ではあるかな・・・以下は  「レファレンス事例詳細(Detail of reference example)」  ↓↑ http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000099002  ↓↑  を参照、参考にし、少々改作して一部分を添付したモノに対するボクの「?」です・・・  ↓↑  「一年に春が二度来た」  という主旨の歌  「古くて有名な歌らしいが、何を調べたらよいだろうか(?)」とは、  ・・・「一年に春が二度来た」とは  旧歴(陰暦)と新暦(太陽暦)に混乱していた  「明治以後のコト」だろう・・・  そして、  「江戸時代」であるならば、  蘭学者にとっては  「オランダ正月を祝うグレゴリオ暦の行事」だった・・・  更に、空海の時代であるならば、  ネストリア(景教・キリスト教異端)派の人物が  密(ひそか)かに  「太陰、太陽暦のハル(春)」としたカモ・・・  ↓↑  明治五年(1872)11月9日、  太陰暦を廃し、  太陽暦を採用することの詔書が発せられ、  太政官布告  第337号により公布  1年を365日とし、  それを  12ケ月に分け、  4年毎に  閏年をおき、  1日を24時間としたモノで  旧暦の  明治五年十二月三日を  新暦の  明治六年1月1月とした ーーーーー  ↓↑  「密教=秘密・秘蜜→秘充=ひみつ=日満=斐視通→比観通」  かも・・・密(ひそか・ミツ)かに・・・  「前島密   天保六年一月七日(1835年2月4日)    ~   大正八年(1919年)4月 27日)   日本の官僚、政治家   号は「鴻爪(コウソウ)」   近代郵便制度の創設者   1円切手の肖像人物   郵便や、切手、葉書   という名称を定めた」  「1866年(慶応二年)   「漢字御廃止之議」という建議書を   将軍徳川慶喜に提出   漢字使用の廃止と云う趣旨内容   国語「国字問題」について   言文一致を提言した人物である・・・  ・・・秘密仏教は「真言」だが・・・確かに「法事=ホウジ=邦字・補得字」で聴く者には坊主の「読経は馬の耳に念仏」であるナッ・・・  ↓↑ 折口信夫(おりくち しのぶ) 1887年(明治二十年)2月11日   ~  1953年(昭和二十八年)9月3日 )  民俗学者、国文学者、国語学者  号は  「釈迢空(シャクチョウクウ)」  詩人・歌人  ・・・この人物は「柳田国男」の弟子であったらしいが、彼にとっても「ニホンゴ」は難解であった・・・?・・・一旦、形成された「権威」とは怪しいのである・・・「一般人」にとってはアリガタイ存在になってしまうのは「日常言語の意味付与の権威者」だからであろう・・・まさに、  「釈(解釈)」  「迢(はるか・とおい     ジョウ・デウ・チョウ・テウ     遙遠・迢遠・迢遙・迢遞・千里迢迢)」  「逓=遞・だんだん・しだいにダイ・テイ     かわる・たがいに     横へ横 へと次々に伝え送る     遞信=郵便、電信などを        順次に送り伝えて、届けること        逓信・逓送・駅逓・伝逓」  「空(そら・から・クウ)」  であるかな・・・まったく、曖昧で混乱を「迢遞」である・・・「迢=辶+召(刀+口)」、「遞(辶+厂+虎)」の「虎=とら=訳等=彪・寅・勾」は崖っぷちの虎の道(辶=シンニュウ)である・・・  ↓↑ http://www.shin-araragi.jp/zakki_bn/bn_08/zakki0809.htm  ひそけし、かそけし  釈迢空の  『海やまのあひだ』から引く。  沢なかの木地屋(キヂヤ)の家に  ゆく  われの  ひそけき  歩みは  誰知らめやも  ↓  邑(むら・ユウ)山の  松の木むらに  日はあたり  ひそけき  かもよ  旅びとの墓  ↓  かの子らや  われに知らえぬ妻とりて  生きの  ひそけさに  わびつゝをゐむ  ↓  谷々に  家居ちりぼひ  ひそけさよ  山の木の間に  息づくわれは  ↓↑  迢空流の表記法を廃して  普通の書き方に改めた。  『海やまのあひだ』の巻頭から数頁のところにある  「ひそけき」、  「ひそけさ」  を含んだ作を並べてみたが、  この迢空が好んだと見える用語は  まだまだ見えるけれど以上にとどめる。  言うまでもなく  「ひそけき」は、  形容詞  「ひそけし」の連体形。  「ひそけさ」は、  その名詞の形である。  この「ひそけし」が、  一般の国語辞典に  収録されていないということを、  安田純生氏の  『現代短歌のことば』によって教えられた。  なるほど  日本国語大辞典や  広辞苑などには見えない。  ↓  ここで  (斎藤)茂吉の使用例を挙げよう。  ↓↑  号外は「死刑」報ぜりしかれども  行く  もろ-つびと・・・多くの人・諸人? 「つび」は「つみなり」           軍法会議で死刑を宣告された軍人          「つび」の字は「また」、           この意味は各人の検索自由・・・  ただに  ひそけし『暁紅』  ↓↑  清涼寺は  ひそけく  ありき  をとめご(乙女児)の・・・・音目語之  尼(あま・ニ)も  居りつつ  悲しからねど『連山』  ↓↑  秋づくといへば  光もしづかにて  胡麻(ごま)の  こぼるる  ひそけさにあり『白き山』  ↓  なお  (北原)白秋にも  「ひそけさよ   小さき目白の枝越しに   揺りつつきをり   まんまろき   柿(かき・シ)を(『風隠集』)」  などがあり、近代歌人の歌集から  「ひそけし」を捜すのは、困難ではないだろう。  一般の国語辞典には確かに収録されていないが、  不可解なのは、  大言海が  「ひそけき」という  連体形のみを見出し語に出して、  「ヒソカナリ。」として  何の用例も示していないことだ。  安田氏は、  『短歌文法辞典・新版(飯塚書店)』に、  この  「ひそけし」・・・・・・・密かに卦詞?  を取り上げていると言われる。  それは手許にないが、  同じ発行所の  司代隆三編著  『短歌用語辞典・新版』を見ると  「ひそか」はあっても、  「ひそけし」は、やはり見当らない。  ただ飯塚書店編集部の  『短歌常用語辞典(形容詞・形容動詞編)』  にはこれを取り上げて、  「鎚音に   はたと   やみたる   蟋蟀(こほろぎ)の   また   鳴きつぐを待てばひそけし(終止)   (塚原 嘉重)」   ↓  「ひそけくも   女人唐俑の背丈ほどに   花株埋めし   雪は恥ぢらふ(連用)   (大滝 貞一)」   ↓  「朝食の人らを待ちて   ビルの中   ひそけき店を   人は清むる(連体)   (田谷 鋭)」   ↓  の三例を示している。  また  鳥居正博編著の  『歌語例歌事典』には  「かそけし・ひそけし」を並べて  「二語とも   中古中世の古歌にはほとんど見えない。」とし  「ひそけし」は  「ひそか」の形容詞化と説いて  「ひそけき   吾が世帯を   書き入るるかな   昼寝より覚め   裸となりて」  という吉田正俊(『天沼』)の  一首を挙げたのが目に止まった。  木俣修編の  『現代作歌用語辞典』には  「ひそけし」は見えない。  要するに  一般の辞書には殆ど見られず、  短歌用語辞典の類には  載せたり載せなかったりの状態なのである。  もう簡単に書くこととして、  角川の  『新編国歌大観』の索引を見ても  「ひそけし」の用例はない。  ただ  江戸時代までの使用例に  「ひそかなりける」  「ひそかにそでの」  「ひそかにひらく」  というようなものが、少ないながら見つかる。  「ひそかに」はあっても  「ひそけし」の形容詞は、  江戸時代までは発生せず  明治以後の近代になって、  ぼつぼつ使用されるようになったものか。  しかし、  「ヒソカ・ヒソヒソ・ヒソマル   ヒソム・ヒソメク・ヒソヤカ」という  同源の語があり、  特にヒソカがあれば  ヒソケシが導き出されるのは、  ノドカ・ノドケシ、ハルカ・ハルケシ  の関係と同様であって不自然ではない。  古典に例がなくても、  近代現代の短歌に  普通に用いられているのであるから、  広辞苑などで採用しないのは、  編集者の怠慢である  と言ってもいいのではあるまいか。   ↓  「かそけし」  についても書く予定だったが余白がなくなった。  この  「かそけし」は  万葉の家持作に二例あり  「吹く風の音の   かそけきこの夕べかも」  が有名だがもうひとつ  「夕月夜   かそけき野辺に」  という使用もある。  「かそけし」があれば、  上代にはそれに対応する  「かそか」も存在したのだろう。  しかし文献の記載はないようだ。  平安以後は  「かすか」が使われるようになる。  すると  「かすけし」も派生されそうであるが、  この出現は、やはり  明治以後であるらしい。  明治三十九年発行の  薄田泣菫の詩集『白羊宮』には  「おもひでの吐息   かすけき   面(おもて)やつれ」  とか  「今宵   かすけき囁(ささや)きに」  とか、  「かすけき」がしきりに出て来る。  すると明治の詩人どもが使い始めであろうか。  ここで現代短歌の  「かすけし」の例を挙げたいが、  もう書く場所がなくなった。  筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者 ーーーーー  面白いね、だが、「密(ひそ)か」を明らかにするのはダレかにとって「タブー(taboo)」なのであるから、「言語屋」にとっては当然である・・・  ↓ http://blog.goo.ne.jp/mearikutiari/e/42dc7e9546a6fdf526e90d3bbde065f7  ↓↑  で、問題にしたい  「鳥居=とりい=訳理意」の「姓」だが、  「江戸時代初期の   朱子学派儒学   林家祖の   林 羅山、   諱は信勝、   号が羅山   通称は又三郎。   やっと   又三郎が出てきた。   林家十一世   復斎の通称が   又三郎、   十世   壮軒の通称が   又三郎、   九世   檉宇も通称は   又三郎。   林家十一世   復斎の次男で   林家十二世を継いだ   林学斎(昇)が   又三郎を   通称名としても不自然ではない。   ↓   林述斎の系図をみていて思い出した。   述斎の三男はあの妖怪こと   鳥居耀蔵  (名は忠耀、   通称は甲斐   のち   胖庵)   学斎とは   伯父甥の関係になる。   ↓   鳥居甲斐から数えて   四代目子孫の  「鳥居正博」氏が、・・・鳥居甲斐の家筋である   この   鳥居甲斐が晩年に   残した日録というか日記を整理し、   頭注・補注を加え  「鳥居甲斐 晩年日録」   として刊行している。   ↓   晩年日録の   慶応四年十二月廿五日に   林又三、   林右近へ書通とあり、   頭注に   林又三(林又三郎学斎・甥)、   林右近(復斎)   とあったが、   林復斎は   安政六年九月に亡くなっている。   明治二年七月十日項に   右近妻   幸女とありこの頭注に   林右近・鶯渓とあった。   明治初期には、   林学斎は   又三郎、   兄の   林鶯渓は   右近を   通称名として使っていたと思われる。   ↓   新宿区市谷山伏町に   初代   林羅山以下   累代徳川幕府に朱子学をもって   仕えた学者とその一族の墓地が残っている。   ここに林学斎の墓碑がある。   ↓   幕府大学頭従五位下文   靖林先生墓銘  「先生   諱昇   字平仲   号学斎林氏   徳川幕府儒宗   羅山先生   十二世嫡孫也   考   諱韑   号復斎妣   津田氏   嘉永中   先生以   次男為   嗣子始謁温恭公   安政四年   命助父   学識別給   廩米参百苞   六年襲世職   大学頭家禄   三千五百石   叙従五位下班諸大夫   文久三年   従照徳公入朝   明治維新後徳川氏   更命   為   寺社奉行、、」  と碑文を撰んだのは  東宮侍講でのち  二松學舍を創立した  三島毅。  この市ヶ谷の林墓地の中に  紀年銘が  昭和十二年十二月とある  「林又三郎之墓」がある。  学斎が亡くなったのは  明治三十九年。  そうすると  この  林又三郎は誰のお墓なのだろう。  市ヶ谷の林氏墓地は  大正のとき国史跡に指定され、  いまは新宿区で管理、  毎年11月の  初めの  土日2日間だけ公開 ーーーーー  ・・・「鳥居耀蔵」とは蘭学者の「目の仇」だった・・・「明治」になっても、この両派の「怨念」みたいなモノが「文字・文章」の中に密かに潜(潛・ひそまれ)ているようであるカナ・・・


 ・・・1825年の「空飛ぶ円盤」のハナシだが・・・「兎園會(トエンカイ)1825年・文政八年」の時代の世界情勢はドウだったんだか?・・・「尾馬靡(オバマ)・Obama・奥巴馬(马)」」が1928年以来「88年ぶり」に「玖馬(キューバ)・玖瑪・久場」訪問で「嚇法拿(ハバナ・Havana)」に到着し、「人権問題」ですか・・・「社会主義体制の下で人権を巡る状況が改善されていない」として、「人権問題の改善を重視する姿勢」、キューバ東南部の「グァンタナモ米軍基地(Guantanamo Bay Naval Base)」でヤッタコトに口をツムんで、 どの面を提げて「人権問題」を云える立場にあるんだか・・・「革命(Revolución cubana)」以前のアメリカ資本の傀儡政権バティスタから奴隷解放(1969年)された「玖馬(キューバ)国民」、彼らが克ち取ってきた「人権」をドウするつもりなんだか・・・「虫歯」の原因である「甘いサトウ」をどうするつもりなんだか・・・ボクは「葉巻」は嫌いだけれど、「煙草」も「猪口令糖(チョコレート・貯古齢糖)」も大好きな「甘党」だけれど・・・問題は1825年の「空飛ぶ円盤」のハナシだった・・・それも、「Revolución」である・・・?  「レボリューション」の語源は「回転する」の意味を持つラテン語の「revolutio」で、ニコラウス・コペルニクスの科学革命で使用(ウイッキペデアより)・・・ ーーーーー  易経  『革卦』  『湯武革命、順乎而應乎人』  革命  被支配階級が支配階級から  国家権力を奪い取り、  政治・経済などの  社会構造を根本的に覆すこと  物事が急激に発展・変革すること  王朝が改まること  革・・・かわ・あらためる・あらたまる・・・      なめす=鞣す         動物の生皮から不要なたんぱく質や         脂肪を取り除き、薬品で処理して、         耐久性・耐熱性・柔軟性をもたせる         なめしがわ(鞣革)・レザー        「韓・韜」などの        「韋(なめし・そむく・イ)」の称意         違反・違犯  革・・・改革、革命、変革      改めるという卦      古いものを新しくする      十分機会が熟してから行うことで、      萬民の支持を受ける ーーーーー  1825年・・・「兎園會(トエンカイ)」開催           文政八年  干支は  乙酉年  日本(寛政暦)  文政八年  皇紀2485年  中国  清王朝は  道光五年   朝鮮  李氏朝鮮は  純祖二十五年 ーーーーー  出来ごと=できごと=出記語訳  ↓↑  デカブリストの乱(ロシアの青年将校の反乱)  デカブリストの乱 (Decembrist revolt)  1825年12月14日(グレゴリオ暦12月26日)  ロシアの反乱事件  デカブリスト  武装蜂起の中心となった  貴族の将校たちを指し、  反乱が  12月(ロシア語でデカーブリ、 Декабрь)  に起こされたことから  デカブリスト(十二月党員)の名で呼ばれた  ロシア史上  初のツァーリズム(皇帝専制)  と  農奴解放を要求した闘争  ↓  革命運動の起源は、  アレクサンドル1世の治世  17世紀末~18世紀初頭  ロシアの貴族層は、  ヨーロッパの啓蒙主義に影響を受けて  自由主義的思潮に傾斜  ↓↑  1789年〜1799年  フランス革命  (Révolution française・French Revolution)  ↓↑  ナポレオン・ボナパルトの登場  1805年  アウステルリッツの戦い  1806年  フリートラントの戦い  敗北以降、  アレクサンドル1世は  ナポレオンに対して協力者であった  ↓↑  自由主義の勃興、  保守派の憤激  ↓↑  アレクサンドル1世は、  ミハイル・スペランスキーを登用  立憲制の導入を含む改革を試み  スペランスキーは、  内務省の組織化、  聖職者教育の改革、  政府による  経済開発の体系化などの改革に関与  1808年  スペランスキーは  国と地方に  選挙制議会(ドゥーマ)の設置を中心とする  立憲制導入を構想  貴族・官僚層の反発を買い  1812年  ナポレオンとの戦争を前に  アレクサンドル1世は、国内の統一で  スペランスキーを顧問から解任追放  ロシア戦役  焦土作戦と  冬将軍の到来によって  ロシア軍が勝利  以後、  ライプツィヒの戦い、  ワーテルローの戦いで  ナポレオン失脚  ロシア軍はパリまで進軍した  ナポレオン戦争に従軍した  貴族出身の青年将校たちは、  滞在中、議会の  討論会、自由主義的な大学の講義を聴講、  政治的意見掲載の新聞を購読  ヨーロッパ諸国の政治・社会制度に触れ、  ロシアの後進を比較  戦争に従軍している  農民出身の多くの兵士に直接接し、  彼らの境遇の劣悪さを感じ、  国家社会の改革を意識  自由主義的政治思想  人権思想  代議制  立憲制  などの影響を受けて帰国、  ロシアの専制政治・官僚政治の  改革を標榜した  ↓↑  秘密結社  1816年  サンクトペテルブルクで  アレクサンドル・N・ムラヴィヨフ、  イワン・D・ヤクーシキン  ら  6人の青年将校によって  最初の秘密結社  「救済同盟  (Союз спасения)」  後に  「祖国の真正・忠誠な息子たちの会  (Общество истинных   и верных сынов Отечестваに改称)」  が結成  1818年  「福祉同盟  (Союз благоденствия)」  が結成  約200名が参加  福祉同盟は、農奴解放、専制政治の廃止で一致したが  立憲君主制と共和制を主張するものとに分かれていた  武装蜂起の採用や蜂起の方法を巡っても相違  1821年  福祉同盟は意見相違と、  当局のスパイを恐れ解散  (当局の命令による解散説と、自主的な解散説あり)  ウクライナ  激派の  パーヴェル・ペステリ大佐を中心に  トゥリチンに本拠地を置く  「福祉同盟」の南方支部が  「南方結社(Южное общество)」が組織  南方結社は、共和制に基づく憲法草案  「ルースカヤ・プラウダ  (Русская правда)」  を起草  専制政治の打破と  一時的な独裁体制による  共和国の樹立、農奴制の廃止と、  国有地の土地改革、  地方自治とユダヤ人以外の  ロシア帝国に隷属する諸民族の独立を主張  ペテルブルク  穏健派の  ニキータ・ムラヴィヨフ  N.I.ツルゲーネフ  によって  「北方結社 (Северное общество)」  が設立  ムラヴィヨフは、  スペイン1812年憲法  アメリカ合衆国憲法に範を取り、  立憲君主制・連邦制を基調とする  憲法草案を起草  教育・慈善事業、経済・司法改革  などの課題について  皇帝及び政府を助け、  穏健な形でロシアに  立憲制を導入することを目論んでいた  ↓↑  1815年  皇帝アレクサンドル1世は、  ポーランドに対して憲法を与え  ポーランド立憲王国が成立  議会の開院式に出席した  アレクサンドルは、勅語の中で  ロシア国内での憲法施行を準備していると言及  これに期待  (ポーランドに憲法を施行し、   ロシアに未施行であることに反発も)  アレクサンドルは、  ウィーン体制に同調  改革を捨て、反動  秘密結社は、  アレクサンドルの変節に  穏健派である北方結社にも  詩人の  コンドラチイ・ルイレーエフ  アレクサンドル・ベストゥージェフ  ら共和制を志向する一派が加入することで  急進化(北方秘密結社)  ピョートル・カホフスキー、  A.I.ヤクボーヴィチ  が皇帝暗殺を計画  1825年  皇帝アレクサンドル1世が  タガンログで崩御  アレクサンドルには嗣子が無く、  次弟の  コンスタンチン大公が  帝位継承であったが  ポーランドの貴婦人  ヨアンナ・グルジンスカ  と秘密裏に貴賤結婚したため、  帝位継承権を放棄  アレクサンドル1世  も生前、このことを認め、  帝位は  次の弟の  ニコライ大公(ニコライ1世)  に委譲決定  だが、  ニコライ大公が帝位継承者であることを知る者は  アレクサンドル1世を始めごく少数で、  肝心の  ニコライ大公自身にも知らされてはいなかった。  ↓↑  帝位継承をめぐって  コンスタンチン  と  ニコライ  の間で相互に帝位を譲り合い、  一時的に空位期間  結社のメンバーは、  ツァーリ政府に  自分たちの情報が  当局のスパイによって  漏れているとの情報もあり、  不十分な準備のまま  クーデターを敢行  1825年12月14日  元老院広場において、  新帝への宣誓式が挙行  デカブリストは、3000人の兵士を率いて  ペテルブルクの元老院広場で蜂起  デカブリストは、  コンスタンチンに忠誠を宣誓  ニコライへの宣誓を拒否  ニコライが登極した場合には、  ニコライに迫って  自由主義的な大臣を  任命するように仕向ける予定であった  デカブリスト  はあらかじめ  セルゲイ・トルベツコイ  (Sergei Petrovich Troubetzkoy)  を臨時指揮官に選んでいたが、  当日、総指揮を執るはずの  トルベツコイは姿を見せなかった。  兵士たちは12月、厳寒の中、  元老院広場に向かって行進を開始  兵士達は上官の命に従い行軍し  元老院広場に集結  行軍中、兵士達は口々に  「コンスタンチンと憲法  (konstitiumir、Конституция)」  とスローガンを叫んでいたが、  憲法を  「コンスタンチン大公妃」  のことと誤解  カホフスキーは  レバシェフ将軍宛の手紙で  創作であると示唆  翌  12月15日  新帝ニコライ1世は  自ら政府軍を率いて反乱の鎮圧  ニコライは、  流血の悲劇を避け  デカブリストを投降させようとした  勅使として兵卒の  ミハイル・ミロラドヴィチ伯爵を派遣  デカブリストの説得に当たらせたが、  ミロラドヴィチ伯が狙撃され落命、  政府軍の投入を支持した。  デカブリストの反乱  は一日で鎮圧  ↓↑  南方結社  12月13日  ペステリ大佐をはじめ指導者が次々と逮捕  南部結社のメンバーが  ペテルブルクでの  武装蜂起の情報を得たのは乱後、  2週間経ってからであった  南部結社には、  ロシア・ナショナリズム、  スラブ民族の連邦国家創設を目指す  「統一スラブ派」が参加  ペステリ逮捕後は  統一スラブ派が中心になって活動  統一スラブ派は牢獄を襲撃し  逮捕された指導者たちの何人かを解放  そのうちの1人、  セルゲイ・ムラヴィヨフ=アポストルは、  12月29日  チェルニゴフ連隊が武装蜂起したが、  葡萄弾(散弾の一種)で武装した政府軍によって  1826年1月3日鎮圧  事件後、  軍事法廷で関係者579名が裁判を受け  首謀者とされた、  ペステリ、カホフスキー、ルイレーエフ、  ムラヴィヨフ=アポストル、  ミハイル・ベストゥージェフ=リューミン  の5人は絞首刑を宣告  その他のデカブリストは、  シベリア、極東、カザフなどに流刑を宣告  これら流刑となった夫の後を追い、  11人の妻が貴族身分を放棄して  シベリアへ向かった  デカブリストの指導者と交際があった  アレクサンドル・プーシキン、  アレクサンドル・グリボエードフ、  アレクセイ・エルモーロフ  (Aleksey Petrovich Yermolov)  らは当局の監視を受けた  ↓↑  デカブリストの乱以降  ヨーロッパでは、  ギリシャ独立戦争、  1830年  フランス7月革命と連鎖 ーーーーー  1825年  ↓↑  ボリビアがスペインから独立する。  文政の異国船打払令。  ブラジル独立を承認  アルゼンチン・ブラジル戦争が起きる(-1828年)  ジャワ戦争(ディポネゴロの乱)起こる(-1830年)  ↓↑  誕生  1月16日カール・アブラハム・ピル、      鉄道技術者(+ 1897年)  1月18日エドワード・フランクランド、      化学者(+ 1899年)  2月8日ヘンリー・ウォルター・ベイツ、      博物学者・昆虫学者・探検家(+ 1892年)  4月11日フェルディナント・ラッサール、      政治学者・社会主義者(+ 1864年)  ↓↑  4月23日(文政8年3月6日)      松島剛蔵、      甲子殉難十一烈士のひとり長州藩士(+ 1865年)  ↓↑  5月4日トマス・ヘンリー・ハクスリー、      生物学者(+ 1895年)  5月20日ジョージ・フィリップス・ボンド、      天文学者(+ 1865年)  6月7日ギュスターヴ・エミール・ボアソナード、      法学者(+ 1910年)  ↓↑  6月12日(文政8年4月26日)   郷純造、大蔵官僚・貴族院議員(+ 1910年)  7月11日(文政8年5月26日)   頼三樹三郎、儒学者(+ 1859年)  8月16日(文政8年7月3日)   松平武成、      第3代浜田藩主(+ 1847年)  ↓↑  9月6日ジョヴァンニ・ファットーリ、画家・版画家(+ 1908年)  ↓↑  9月9日(文政8年7月27日)   佐竹義堯、      第12代秋田藩主(+ 1884年)  ↓↑  9月11日エドゥアルト・ハンスリック、      クラシック音楽評論家(+ 1904年)  9月12日カール・ドップラー、     指揮者・作曲家・フルート奏者(+ 1900年)  ↓↑  9月19日(文政8年8月7日)   松平忠恕、第4代小幡藩主(+ 1902年)  ↓↑  10月2日マーシャル・ジュウェル   第29代および第31代オハイオ州知事   第28代アメリカ合衆国郵政長官(+ 1883年)  ↓↑  10月9日(文政8年8月27日)   松前昌広、   蝦夷地松前藩第11代藩主(+1853年)  10月17日(文政8年9月6日)   伊達慶邦、   第13代仙台藩主(+ 1874年)  ↓↑  10月25日ヨハン・シュトラウス2世、作曲家(+ 1899年)  ↓↑  10月25日(文政8年9月14日) 竹崎順子、教育家  10月26日(文政8年9月15日)   岩倉具視、   明治維新の元勲(+ 1883年)  ↓↑  11月30日ウィリアム・アドルフ・ブグロー、画家(+ 1905年)  12月2日ペドロ2世、ブラジル第二代皇帝(+1891年)  ↓↑  12月12日(文政8年11月3日)   江馬天江、       私塾立命館塾長・書家・漢詩人・医師(+ 1901年)  12月26日(文政8年11月17日)   渡会喬久、       芝村藩家老(+ 1896年)  ↓↑  死去  1月4日フェルディナンド1世、      両シチリア王(* 1751年)  1月8日イーライ・ホイットニー、     発明家(* 1765年)  ↓↑  2月24日(文政8年1月7日)   歌川豊国、      浮世絵師(* 1769年) ーーーーー  1825年  ↓↑  異国船打払令   ↓↑  芸藩通志(げいはんつうし)  頼杏坪、加藤株鷹、頼舜、黒川方桝  津村聖山、吉田吉甫、正岡元翼によって著作  編纂された安芸国広島藩の地誌で、  文政8年(1825年)に完成  ↓↑  1663年  広島藩の作成した地誌  「芸備国郡志」を改訂し、  内容を増補するために、  1818年から再調査や資料の  整理等の調査事業を開始して、  最終的に  1825年に完成  全159巻。江戸時代以前の  安芸国と備後半国(浅野氏の領国)  の地理や文化、歴史を知る一級の資料  主たる著者の  頼杏坪は  頼山陽の叔父  ↓↑  3月10日カール・モルワイデ、モルワイデ図法発案者(* 1774年)  ↓↑  4月9日(文政8年2月21日)   雷電爲右エ門、江戸時代の大関(* 1767年)  ↓↑  4月16日ヨハン・ハインリヒ・フュースリー、画家(* 1741年)  5月7日アントニオ・サリエリ、   作曲家(* 1750年)  6月11日ダニエル・トンプキンズ、   アメリカ合衆国副大統領(* 1774年)  6月14日ピエール・シャルル・ランファン、   建築家・都市計画家(* 1754年)  ↓↑  8月10日(文政8年6月26日)   只野真葛、国学者・文筆家(* 1763年)  ↓↑  10月13日マクシミリアン1世、   バイエルン王(* 1756年)  11月14日ジャン・パウル、小説家(* 1763年)  12月1日アレクサンドル1世、ロシア皇帝(* 1777年)  12月29日ジャック=ルイ・ダヴィッド、画家(* 1748年) ーーーーー  ↓↑ 年   (年号) 史実 1806年(文化3年) 芝の大火 1808年(文化5年) フェートン号事件  ↓↑ 1825年(文政8年) 異国船打払令  ↓↑ 1828年(文政11年)シーボルト事件 1829年(文政12年)江戸大火 1830年(天保元年)伊勢御蔭参り大流行 1837年(天保8年) 大塩平八郎の乱 1839年(天保10年)蛮社の獄 ーーーーー  1825年  文政八年  ↓↑       ↓↑  人物名     生年〜没年 当時の年齢 笠森 お仙 1751年〜1827年(宝暦元年〜文政10年)74才 鶴屋 南北 1755年〜1829年(宝暦5年〜文政12年)70才 大槻 玄沢 1757年〜1827年(宝暦7年〜文政10年)68才 松平 定信 1758年〜1829年(宝暦8年〜文政12年)67才 葛飾 北斎 1760年〜1849年(宝暦10年〜嘉永2年)65才 酒井 抱一 1761年〜1828年(宝暦11年〜文政11年)64才 十返舎 一九 1765年〜1839年(明和2年〜天保10年)60才 滝沢 馬琴 1767年〜1848年(明和4年〜嘉永元年)58才 雷電 為衛門 1767年〜1825年(明和4年〜文政8年)58才 佐藤 信淵 1769年〜1850年(明和6年〜嘉永3年)56才 近藤 重蔵 1771年〜1829年(明和8年〜文政12年)54才 徳川 家斉 1773年〜1841年(安永2年〜天保12年)52才 間宮 林蔵 1775年〜1844年(安永4年〜弘化元年)50才 柳亭 種彦 1783年〜1842年(天明3年〜天保13年)42才 為永 春水 1790年〜1843年(寛政2年〜天保14年)35才 徳川 家慶 1793年〜1853年(寛政5年〜嘉永6年)32才 遠山 金四郎 1793年〜1855年(寛政5年〜安政2年)32才 渡辺 崋山 1793年〜1841年(寛政5年〜天保12年)32才 水野 忠邦 1794年〜1851年(寛政6年〜嘉永4年)31才 千葉 周作 1794年〜1855年(寛政6年〜安政2年)31才  ↓↑ Siebold Philipp Von         1796年〜1866年(寛政8年〜慶応2年)29才  ↓↑ 歌川 広重 1797年〜1858年(寛政9年〜安政5年)28才 高島 秋帆 1798年〜1866年(寛政10年〜慶応2年)27才 男谷 精一郎 1798年〜1864年(寛政10年〜元治元年)27才 Harris Townsend 1804年〜1878年(文化元年〜明治11年)21才 緒方 洪庵 1810年〜1863年(文化7年〜文久3年)15才 井伊 直弼 1815年〜1860年(文化12年〜万延元年)10才 Hepburn J. 1815年〜1911年(文化12年〜明治44年)10才 河竹 黙阿弥 1816年〜1893年(文化13年〜明治26年)9才 安藤 信正 1819年〜1871年(文政2年〜明治4年)6才 阿部 正弘 1819年〜1857年(文政2年〜安政4年)6才 勝 海舟 1823年〜1899年(文政6年〜明治32年)2才 Boissonade G. E.1825年〜1910年(文政8年〜明治43年)0才 鼠小僧次郎吉 ????年〜1832年(??年〜天保3年)?才  ↓↑ 1798年(寛政10年)本居宣長、『古事記伝』を完成させる。 1800年(寛政12年)伊能忠敬、蝦夷地を測量する。  ↓↑ 1804年(文化元年)ロシア使節ニコライ・レザノフ、          長崎に来航し通商を要求。 1807年(文化4年)箱館奉行を廃止し、松前奉行を置く。 1808年(文化5年)江戸湾(東京湾)沿岸の砲台修築を起工          間宮林蔵が樺太を探検し          間宮海峡(タタール海峡)を発見          イギリスの軍艦フェートン号が          長崎に来航して補給を強要、          長崎奉行・松平康英が引責して自殺          (フェートン号事件) 1811年(文化8年)ロシアの軍艦艦長          ヴァーシリー・ゴローニン、          国後島で捕らえられる         (ゴローニン事件) 1825年(文政8年)異国船打払令         (外国船打払令、異国船無二念打払令) 1828年(文政11年)オランダ商館付のドイツ人医師          シーボルトに諜報の嫌疑がかけられ、          連座した天文方          高橋景保ら処罰される          (シーボルト事件) 1833年(天保4年)~1839年(天保10年)           天保の大飢饉 1834年(天保5年)水野忠邦、老中となる 1835年(天保6年)竹島事件 1837年(天保8年)大塩平八郎の乱          生田万の乱          アメリカ船モリソン号、          漂民を伴い相模国浦賀に入港するも、          打払令により撃退          (モリソン号事件) 1839年(天保10年)蛮社の獄          天保の改革 1842年(天保13年)天保薪水給与令 1844年(弘化元年)オランダ国王ヴィレム2世、          親書を送り開国を勧告 1846年(弘化3年)アメリカ使節ジェームズ・ビッドル、          相模国浦賀に来航し通商を要求  ↓↑ 1853年(嘉永6年)黒船来航          マシュー・ペリー艦隊          プチャーチン艦隊来航 1854年(嘉永7年/安政元年)日米和親条約              安政東海地震、              安政南海地震              11月改元 1855年(安政2年)安政江戸地震         (安政の大地震)          日露和親条約調印。 1856年(安政3年)タウンゼント・ハリスが下田に着任 1857年(安政4) 1858年(安政5年)日米修好通商条約調印 1859年(安政6年)安政の大獄 1860年(安政7年/万延元年)桜田門外の変              3月、改元 1861年(万延2年/文久元年)2月、改元              ロシア軍艦対馬占領事件 1862年(文久2年)坂下門外の変          寺田屋事件          生麦事件 1863年(文久3年)薩英戦争          八月十八日の政変          生野の変 1864年(文久4年/元治元年)2月、改元              水戸天狗党の乱              池田屋事件              禁門の変              四国連合艦隊下関砲撃事件              長州征討(長州征伐) 1864年(元治元年)第一次長州征討 1865年(元治2年/慶応元年)4月、改元 1865年(慶応元年)第二次長州征討 1866年(慶応2年)薩長同盟 1867年(慶応3年)大政奉還・王政復古 1868年(慶応4年/明治元年)9月、改元(1月1日に遡って適用) 1868年(慶応4年)戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦い、          上野戦争、北越戦争、          会津戦争、箱館戦争 ーーーーー  ・・・1825年・・・未確認航行(後項・公行)物体・・・「うつろフネとバンジョ」・・・

 ・・・「ベルギー、ブリュッセル国際空港で22日午前8時(日本時間同日午後4時)ごろ、自爆テロ。欧州連合(EU)本部に近いブリュッセルの地下鉄マルベーク駅でも爆発」・・・自爆、命を大切にしない無知なチンピラテロリストを洗脳し唆している奴等の目的はカネとウラミ、「悪に良が駆逐されないタメ」のコタエはあるのか?・・・「ニコラウス・コペルニクス=似顧等得素-故経留似句数?」、「ニコラウス・コペルニクス=似拠等臼(うす・碓・迂数)-故経留似句数?」・・・「レボリューション=例(霊)保留書務?」の「天球回転論」・・・「アリスタルコス(希 Αρίσταρχος・羅 Aristarchus・紀元前310年~紀元前230年頃)、古代ギリシャの天文学者、数学者。ギリシャのサモス島に生まれ、サモスのアリスタルコス(羅 Aristarchus Samius・Aristarchus of Samos)は、同名者が存在する為、サモスの、と呼ばれている」は既に「天動説」を説いていた・・・そして「グレシャムの法則=悪貨は良貨を駆逐する」であるが、「コペルニクス」は、「グレシャム(Sir Thomas Gresham・1519年~1579年11月21日)・イギリスの財政家、貿易商)」が「1559年にエリザベス1世に財政問題を進言しナイトの称号を与えられ、1566年にロンドンに為替取引所を設立)」よりも先駆け、既に「『貨幣鋳造の方法(1528年)』で同様の説(悪貨は良貨を駆逐する)」を唱えていた・・・「ニコラウス・コペルニクス」はエライけれど・・・彼の「諸説」を知っていた「日本人」は江戸時代の「天文学者=蘭学者」ではあるが、「江戸時代中期」の「三浦梅園」も、自著 『価原(1773年)』の中で「悪幣盛んに世に行わるれば、精金皆隠る」という説を独立して唱えていたらしい・・・ボクに取っては「三浦梅園」の姓名の「三浦」でもあるが・・・「三浦按針=ウイリアム・アデアムス」と同姓でもある。単なる「同姓」ではあるが、妄想はボク自身の範疇である・・・  参照、参考はホトンドが「ウイッキペデア百科辞典」である・・・貧乏人のボクは「ウイッキペデア」には感謝しております・・・ ーーーーー https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%A2%85%E5%9C%92   ↓↑  三浦梅園  享保八年八月二日(1723年9月1日)   ~  寛政元年三月十四日(1789年4月9日)  江戸時代の思想家、自然哲学者  本職は医者  豊後国(大分県国東市安岐町富清)出身  諱は晋(すすむ)   ↓↑  「条理学と言われる独自の学問体系を築いた   『玄語』が有名。   主要著書としては、   他に   『贅語』   『敢語』   がある。   これらは、梅園自身によって   「梅園三語」と命名された。   この三著作が梅園の思想の骨格をなす   『贅語』と『敢語』は完成したが、   『玄語』は    37年の歳月を費やして、    ついに完成できなかった・・・    詩学概論『詩轍』、    経世論『価原』、    医学書『身生餘譚』、『造物餘譚』    などがある。    また、読書日記    『浦子手記』には、    道家の系譜の哲学概論『淮南子』、    西洋天文学説『天経或問』    をはじめ、    『荘子』、『列子』、宋学、朱子学、仏教書    などの数多くの書名も記されており、    三浦梅園の思考は    こうした当時の分厚い教養の上に成立・・・    また、    陶弘景(456~536年、医者、道教家)、    韓康伯(4世紀)    の人となりを慕っていたという。    梅園は三度旅をした以外は、故郷の    大分県国東半島を離れることはなく、    医業の傍ら黙々と思考を続け、    その坦々とした生涯を終えた。    複数の藩主から招聘の声もあったが、    断ったという。    地元    安岐町に    梅園自身が設計した旧宅があり、    天文台、梅園などが整備された    梅園の里があり、    設備の完備した資料館に膨大な    自筆稿本類すべてが保存されている。    メルカトル図法で描かれた    世界地図(梅園自身の筆写)    や    南天図・北天図(南半球・北半球の星図。同前)    などがある・・・らしい・・・ ーーーーー  で、  「レボリューション=回転する(ラテン語のrevolutio)」  の  ラテン語名 Nicolaus Copernicus       ニコラウス・コペルニクス  ポーランド語名 Mikołaj Kopernik          ミコワイ・コペルニク  1473年2月19日~1543年5月24日  の 科学革命(Scientific Revolution)に  使用したコトバの「革命」の漢字であるが・・・ ーーーーー   ↓↑  「革・命」、「革・新」、「改・革」の  「革」の「易占」だが、以下は他のブログ記事も参照、参考にさせてもらい、少々かいさくして添付・・・   ↓↑  巳の日、乃ち孚(まこと)とす、  元亨利貞(ゲンコウリテイ)、悔(く)ひ亡ふ。  彖傳(タンデン)に曰く、  革は水火相ひ息(ひそみ)み、  二女、同居して、其の志の相得ざるを  「革(かわ・な・あらた・カク)」  と曰ふ。   ↓↑  巳の日、乃ち孚(まこと)とす、  革(かわ・な・あらた・カク)めて  之れ信なり。  文明にして以て説いふ、  大いに亨(コウ)を以て正し、  革(な・あらた)めて当る、  其の悔(く・ゲ)い乃ち亡ふ。  天地、  革(かわ・な・あらた・カク)まりて  四時成り、  湯武は命を革(かわ・な・あらた・カク)め、  天に順ひて人に応ず、  革(かわ・な・あらた・カク)の時、  大なるかな。  象傳に曰く、  澤中(タクチュウ)に  火有るは  革(かわ・な・あらた・カク)め、  君子以て  歴を治め  時を明らかにす。   ↓↑  初九は  鞏(かた)むるに  黄牛の  革(かわ・な・あらた・カク)を用ふ。  象傳に曰く、  鞏(かた)むるに  黄牛を用うるは、  以て為す有る可らざるなり。   ↓↑  六二は  巳の日に乃ち之を  革(かわ・な・あらた・カク)む、  征きて吉、咎(とが)無し。  象傳に曰く、  巳の日之を  革(かわ・な・あらた・カク)む、  行かば嘉有るなり。   ↓↑  九三は  征きて凶、  貞にして窅(わろ)し、  革言の三たび就なる、孚(まこと)有り。  象傳に曰く、  革言の三たび就る、又何くにか之ゆかん。   ↓↑  九四は  悔ひ亡ふ、  孚(まこと)有りて命を改む、吉。  象傳に曰く、  命を改むる之を吉なるは、  志を信ずるなり。   ↓↑  九五は  大人(たいじん)虎変す、  未だ占はずして孚(まこと)有り。  象傳に曰く、  大人(たいじん)虎変す、  其の文は炳(あきら)かなり。   ↓↑  上六は  君子豹変し、  小人面(つら)を  革(かわ・な・あらた・カク)む、  征くは凶、貞に居れば吉。  象傳に曰く、  君子豹変す、  其の文は蔚(うつ)なり。  小人面(つら)を  革(かわ・な・あらた・カク)む、  順にして以て君に従ふなり。   ↓↑  ↓↑  現代語訳・抄訳  革は  時至って孚(まこと)となる。  性急なのは宜しくない。  恩賜の普くしてその革新が正なれば、  悔ひあるも遂には悔ひは亡ぶ。   ↓↑  彖傳(タンデン)に曰く、  男女たる  水と火は相息するも、  二女たる  澤と火は同居せず、  其の志を  相得ざらずして  革新す。  時、至って  孚(まこと)となり、  ここに革新を決すれば信なり。  亨(とほる)を以て正し、  革新を決す、  一時に悔ゆともその悔い滅すべし。  天地は革新によりて  四時明らかに、  湯武は命を  革(かわ・な・あらた・カク)め、  天命に順いて人を導く、  これ革新の大なるものなり。   ↓↑  象傳に曰く、  澤中に火有るは革新すべし、  君子はこの時に当って  歴を治め時を明らかにすと。   ↓↑  初九は  固むるに  黄牛の  革を用いる。   ↓↑  象傳に曰く、  その心は  妄りに  動かずして  自らを固めるべし。   ↓↑  六二は  時至れば  革新す、  征きても吉にして咎無し。   ↓↑  象傳に曰く、  時が至りて革新せば、  嘉の生ずるは必然なり。   ↓↑  九三は  征きて凶、  貞(よろしき)も叶わず、  ただし  忍従して  革新せば、孚(まこと)が生ず。   ↓↑  象傳に曰く、  革新進みて信の顕あらわる、  この時に当って誰も逃避する所なし。   ↓↑  九四は  悔い滅して清明なり、  孚(まこと)有りて  命を改む、吉なり。   ↓↑  象傳に曰く、  固くその志に存すれば、  悔ゆと雖も必ずや吉となるなり。   ↓↑  九五は  大人(たいじん)の虎の如く  変じてその機運明らかなり、  占わずとも  人心掌握するは必然たり。   ↓↑  象傳に曰く、  大人虎変なるは、  大人の志を  煥発(カンパツ)せしむるを云うなり。   ↓↑  上六は  君子の豹の如く変じて、  小人従がう、  征くは凶なれども、  貞しきに居れば吉なり。   ↓↑  象傳に曰く、  君子豹変なるは、  君子の志  明らかに盛隆せし様を云うなり。  ここに至って  小人はその貌を変じて、  君子に順じて従がう、  遂には心より革まらん。   ↓↑  語彙・語意   ↓↑  巳日(みのひ)=蛇、蝮の日  十二支の巳(み)の日  「天に十日あり、   甲より戊に至るを前五日と為し、   巳より癸に至るを後五日と為す」  時宜を得し日を指す  尚、朱子は  「巳」を「已(スデニ)」の誤りと解して  「事成りて終わる日」としている  ・・・「巳」は「己(おのれ・つちのと)」に類字  ・・・「巳」は「十二支の6番目」である・・・  子→丑寅卯辰→「巳」→午未申酉戌亥   ↓↑  孚(フ)=まこと・はぐくむ  心の中に大切に抱きしめている気持ち   ↓↑  元亨利貞(ゲンコウリテイ)  易における乾の四徳  仁義礼智に通ず  元(おお)いに亨(とほ)る、  貞(ただ)しきに利(よ)ろしと読む   ↓↑  彖傳(タンデン)  彖は断に通じ、  「さだめる」という意  「傳(伝)は注釈書の意」・・・伝書  「易の一卦の義」を定める辞をいう  孔子がつけたとされ、  他に  繋辭傳・象傳・説卦傳・文言傳がある   ↓↑  湯王(トウオウ・ゆおう)  湯王=天乙・成湯・殷王朝の始祖  賢臣  「伊尹」を擁して  夏の  「桀」を倒した。  後世に聖王として称賛   ↓↑  武王(ブオウ)  武王=周王朝の始祖  太公望を擁して  殷討伐を成した   ↓↑  鞏(キョウ)  かためる・しばって、崩れないようにする   ↓↑  征(セイ)  積極的に変えんとすること   ↓↑  大人(タイジン)  有徳者  君主、家長などの代表とする責任者   ↓↑  炳(ヘイ)  あきらか・明るく照りはえる様   ↓↑  貞(ただ)しき  自己の正しきによって  他を感化せしむること   ↓↑  蔚(うつ)  一団をなしてならぶさま  盛んに興ること   ↓↑  卦辞  革、已日、乃孚。元亨。利貞。悔亡。  (かくは、つちのとのひ、すなわちまことあり。   大いにとおる、   ただしきによろし。くいほろぶ)   ↓↑  革の卦  改めるという卦、革命、改革の卦  雑卦伝では「故きを去るなり」  更改、改正、変化  革の字  毛を除き去った獣の皮  獣の皮から毛を除き去って改まる  革の字構成  「三十」という字構成?  廿=二十  口十=十  三十年を一世  三十年を人生一代  三十年で代がわり  それで物事が改まる   ↓↑  「二女同居し   その志相い得ざるを   革という」   ↓↑  上卦は  兌の少女  下卦は  離の中女  離火は炎上、  兌水は水消  志すところが  同じではなく、  互いに反目、衝突   ↓↑  革の卦は  二女が互いに対抗し、  状況を改めようと  侵し合い、相争う  上の者が下の者を虐げ、  下の者は上を喜ばず  上に反抗して相争う  大きな改革、革命が起こる   ↓↑  下の卦は  離  文明の徳  世の情勢によく通じていて、  華やかで美しい徳が   ↓↑  上の卦は  兌、  和らいで悦ぶ  文明を以って(離)  悦ぶ(兌)   ↓↑  革の卦の徳  天下万民は皆、和らぎ悦ぶ  兌の金属が離の火で  融けて形を変え  沢と火が合わさって  湯気に変わる    ↓↑  夏(離)から秋(兌)にかけ、  毛が美しく抜け変わり、  変革の時   ↓↑  卦辞に已日乃孚。  「已日(おわる日~十干の己)  「己」干は、  甲乙丙丁戊→「己」→庚辛壬癸  の順番では半ば過ぎた  六番目の日・・・「巳」支も6番目  五行の  「己」で徳は信であり、  改革も半ば過ぎて信じてもらえる  すなわち  孚とせる」   ↓↑  革命  天の命に順ったもの  天下の万民の心に  応じてこそ起こせる  天に順い  人に応ず  順天応人がなければ  革命を起こす時ではない  革命は  私利私欲のものではなく  万民の為のもの   ↓↑  易は「時」の気運  初爻  爻辞  鞏用黄牛之革。  (かたむるにこうぎゅうのかわをもちう)  冷静沈着に情勢観望、隠忍   ↓↑  六爻中  下の三爻  まだ改革が出来ていない時  上の三爻  改革を行って、成し遂げた時  鞏=「かたむ・かためる」  本義は  革で物を束ねる、縛ること   ↓↑  黄牛は黄色の牛  牛は  離の卦の象  黄色は土の色、  中央(土)の色(黄)  黄色い牛は、  六二をさし、  革は堅い物   ↓↑  離の卦の外側にある  陽爻、  初九  黄色い牛の革  牛は柔順な動物で、  黄色は中央の色、  柔順  黄色い牛を堅く縛り、  動く事のできないようにする   ↓↑  初九は  上の  六二に従い、  柔順で中の徳を堅く守り、  容易に動かず  陽であって、  剛強な才能道徳を備え  世の中の改革をする事のできる力   ↓↑  初爻  時は未だ早く、  上に応じるものもない  上の六二に従い、  柔順に立場を守り、  時の至るのを待つ事が要   ↓↑  二爻  爻辞=已日乃革之。征吉。无咎。  (つちのとのひすなわちこれをあらたむ。   ゆけばきちにしてとがなし)  已日、即ち十干の日が半ば過ぎた頃、  時期が十分に熟した時  改革を行う   ↓↑  三爻  爻辞=征凶。貞窅。革言三就。有孚。  (ゆけばきょう。   ただしけれどもあやうし。   かくげんみたびなる。まことあり)   ↓↑  四爻  爻辞=悔亡。有孚。改命吉。  (くいほろぶ。まことあり。   めいをあらためてきち)   ↓↑  五爻  爻辞=大人虎変。未占有孚。  (たいじんはこへんす。   いまだうらなわずしてまことあり)   ↓↑  上爻  爻辞=君子豹変。小人革面。征凶。居貞吉。  (くんしはひょうへんす。   しょうじんはめんをあらたむ。   ゆけばきょう。ていにおればきち)   ↓↑  革命成就  豹変とは、過ちを改め直ちに変わる   ↓↑  革の卦は  コトを為す準備の前段階  破壊、捨てる、掃除 ーーーーー  ・・・そして「あらためる」・・・何を?・・・通貨価値・・・  「円=¥」、「弗=$」、「英=£」、「欧=€」、「露=Рに横棒(P+一)」、「元=圆=圓=円=¥」・・・ ーーーーー  ・・・「グレシャムの法則=悪貨は良貨を駆逐する」である・・・「愚例者務」・・・「悪人は善人を喰い物にする」のだ・・・「地上、痴情」の「ホシ」の「革(かわ・な・あらた・カク)」である・・・

ーーーーーー

 ・・・???・・・

 (表紙・画像・音楽)」の

  移転先・・・

 ↓↑

 ボクの「古事記字源」の発端・・・

 ↓↑

 干支歴

 ↓↑

 追加添文

 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」

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