「心筋梗塞=シンキンコウソク=親近拘束(高族)」?
・・・喫煙の時代・・・禁煙の時代・・・
・・・ムカシもイマも・・・美味しい、旨いと感じて、モウ一嘗めの飴玉、モウ一個のチョコレート、モウ一粒のカシュウナッツ、モウ一杯の珈琲、モウ一口の御飯・・・と思える時のモノが最高で、絵でも、音楽でも、文章でも、何でもカンでも、もう一回、もう一度と気持ちが望む時のモノは自分にとっては最高のモノなんだろう・・・二回、三回、四回・・・飽きるし、厭(嫌)になるし、どうでもいくなるけれど、時間が経つと、その初体験のモウ一回の再確認がしたくなる。嫌なことは一回の経験だけで、二度、三度の経験はご免だが、意図しなくても嫌(厭)なコトは重なるのが人生のプロセス・・・小樽のコンビニを経営している従姉から「タバコのハイライト、一カートン」が色んな御菓子や果物などと一緒に贈られて来た・・・流石、タバコの値上げで2011年以来、今現在は高級品になった「ハイライト・ピース」はやめて、250円の「わかば」を喫煙しているのだが・・・旨い、プレゼントされた「ハイライト、一本の煙」のニオイとアジ・・・「中毒」って、「日常性」のコトでもあるな・・・いずれは「猛毒」になるカモ・・・景気回復するには「増税」して物価を上げるぞと脅して「損得感情」を揺らしてモノを買わせるコトが一番らしいが、増税結果のインフレにもアタリマエに慣れるんだろう・・・「オッペルと象」さん・・・「像」は怒って暴れたけれど・・・ ーー↓ーーウイッキペデアより抜粋添付、少々改作・・・ (倭国側から視た) 新羅の入寇 古代朝鮮半島に栄えた王国、新羅の 流民や帰化人による犯罪 新羅王の勅命による国家規模の海賊行為等 「新羅の賊」=「新羅寇」 ーー 新羅国内混乱 811年~935年 新羅の賊が 日本各地を侵入 新羅南部の沿海の流民、海賊 八世紀以来、 頻繁に対馬、北九州を襲った ーー 平安中期まで日本では 「高麗」といえば 「渤海国(東丹国)」を指した 高麗成立以後、 十一世紀半ばまで 「新羅(の賊)」と称した 「三国史記・新羅本紀」 745年頃~7500年代後半 新羅で飢饉、疫病が発生 九州北部、日本へ亡命し、 帰化した新羅の民が多数いた 天平宝字三年(753年)九月 天皇は太宰府に、 新羅帰化人に対して、 希望者には帰国の勅令 帰国を希望しなかった 新羅人131人を武蔵国に送還した 新羅下代から後三国時代につながる混乱期 新羅は 慶州を中心とする 王権は地方まで十分に及ばず、 唐とは友好関係だが 日本や渤海などとは断交 日本は、渤海とは友好的 新羅との仲は険悪 「三国史」 新羅建国時より 日本による 新羅への軍事的な侵攻が記述 食料・金銭・一部領土等を日本に割譲 新羅建国の王族は 「昔」氏が「倭人」とされる?・・・ナゼ「昔」 ↓ 脱解尼師今(ダッカイニシキン)? ↓ ぬぎ・とく・あま・し・いま 脱解尼師今→今師尼解脱←脱解尼師今 解き脱ぐ、尼の師の今 ↓ 新羅の 第四代の王(在位=57年~80年) 姓は昔(ソク)、・・・? 名は脱解(タレ)・・・? 吐解尼師今(トカイニシキン)とも記録 ↓ 吐いて解く、尼の師の今 とかいにしきん 渡海、尼示(邁志・爾志・仁誌) 金(欽・錦・禁・筋・禽=とり) ↓ 第二代の 南解次次雄(ナンカイジジユウ)の娘の 阿孝(アヒョ・アコウ)夫人の婿 新羅の 王族三姓(朴・昔・金)の「昔」氏始祖 昔 箱が流れ着いたときに 鵲(カササギ)が側にいたことから ↓ サギ=鷺 鵲の字を略して・・・鵲=昔+鳥→詐欺・詐偽 「昔(ソク)」を姓とし、・・・昔=廿+日 艸(廾+一) 廾=++ 昔+鳥=隹=旧鳥 鵲(カササギ)=朝鮮カラス(鴉・雅・烏) 「カサ=加佐・笠・傘」→笠沙の岬(御前・みさき) 木花咲耶姫 木花之佐久夜毘売(古事記) 神阿多都比売 (カムアタツヒメ) 木花開耶姫(日本書記) 鹿葦津姫 葦津姫 (カヤツヒメ) 「瓊瓊杵尊=邇邇芸命」の妻 箱を開いて生まれ出てきたことから 「脱解」を名とした? ダッカイ=奪回・脱会 「脱解」は「解脱(ゲダツ)」の逆で、 「解説(カイセツ)」の熟語に類似する・・・ 「脱」=肉+兌 「説」=言+兌 ↓ 「兌(ダ・ダイ)」 易における八卦の一・☱ 方角は西 沢や少女を表す 六十四卦の一、「兌為沢」 かえる・とりかえる 喜悦の徳・悦楽・恍惚 酉=西方 兌換=紙幣を正貨と引き換えること 発兌=書物などを印刷・発行 兌=「八+兄」・「兄」は 祝詞 自然界の「沢」 卦徳は「悦」 人では「少女」 属性は「金」 身体では「口」 易数は「二」 ーー 「三国史記」・・・1143年執筆開始、・・・? ↓ 干支「癸亥」年 ↓ 日本 ↓ 康治二年 ↓ 皇紀1803年・・・・・・? 中国 南宋=紹興十三年 金 =皇統三年 西夏=大慶四年 西遼=康国十年 ~ 1145年完成、全50巻 干支「乙丑」年 日本 天養二年、久安元年 皇紀1805年 ↓ 中国 ↓ 南宋=紹興十五年 ↓ 金 =皇統五年 ↓ 西夏=人慶二年 ↓ 死去 ↓ 9月10日 ↓ (久安元年八月二十二日) ↓ 藤原璋子、鳥羽天皇の中宮(1101年~) ↓ 10月21日 ↓ (久安元年十月四日) ↓ 源光信、平安時代の武将(1093年?~) には 新羅への数千人規模の 倭人渡来の記述・・・ ーーー 広開土王碑・・・好太王の息子の 長寿王が 414年旧暦九月二十九日 (甲寅年九月廿九日乙酉)に建てた 百殘 新羅 舊是 屬民 由來 朝貢 而 倭 以 ー↓ー 耒卯年・・・辛卯(391年)?→乙卯 耒=農地を耕すため 土をかき起こし 草を刈る農具である鋤、柄 「説文解字」では 「木」で雑草を表す 「丯」をすく象る 康熙字典214部首 6画の10番目、未集の10番目 耒=木の耕具→木=甲乙の耕具 卯=陰支ならば「乙」 耒=すき・ルイ・ライ 「耕・耗・籍」 耘・耕・耗・耙・耜・耨 乙卯=辛卯の干支から 順旋で24番目→391+24=415 逆旋で36番目→391-36=355 ↓ 干支「乙卯」=415年 日本 允恭天皇四年 中国 東晋=義熙十一年 後秦=弘始十七年 西秦=永康四年 北魏=神瑞二年 白亜栗斯・劉虎=建平元年 北涼=玄始四年 西涼=建初十一年 夏 =鳳翔三年 北燕=太平七年 朝鮮 高句麗=長寿王三年 百済=腆支王十一年 新羅=実聖王十四年 干支「乙卯」=355年 日本 仁徳天皇四十三年 百済王族の酒君(さけのきみ)が? 献上した鷹を天皇が 百舌野(もずの)で遣って 雉(キジ)を捕り 鷹甘部(たかかいべ)をおいた 仁徳天皇四十一年 紀角(きのつの)が百済派遣されたとき 紀角に無礼をし、 捕らえられて日本におくられた 後、罪をゆるされ 四十三年に鷹の飼育を命じられ これが 「鷹甘(たかかい)部」のはじまり・・・? ナゼ、「鷹(たか)+甘(かい)」なんだか・・・ 甘=あまい・あまえる・あまやかす うまい・あまんずる・カン 味があまい・「甘味」 おいしい・うまい 甘美・甘露 満足する・気に入る・ 甘言・甘受・甘心 あま・・・甘辛・甘酒 甘茶でカッポレ、かっぽれ・・・ 「甘寧(カンネイ)」は字は「興覇(コウハ) 先祖は南陽郡の人・巴郡に移住し 計掾(会計報告係)に推挙され、蜀郡の丞 官を棄て、武装徒党の無頼漢の頭となり 後に「孫権」に仕えた軍人・戦術家 215年(建安二十年)の冬に卒去 劉備に協力した蛮将沙摩柯の矢を受け戦死 小説の三国志演義 ー↓ーーーー↓日本書記・原文 卌三年秋九月庚子朔、依網屯倉阿弭古、 捕異鳥、獻於天皇曰、臣毎張網捕鳥、 未曾得是鳥之類。故奇而獻之。 天皇召酒君、示鳥曰、是何鳥矣。 酒君對言、此鳥之類、多在百濟。 得馴而能從人。亦捷飛之掠諸鳥。 百濟俗號此鳥曰 倶知。 是今時 鷹也。 乃授酒君令養馴。未幾時而得馴。 酒君則 以韋緡著其足、 以小鈴著其尾、居腕上、獻于天皇。 是日、 幸 百舌鳥野而遊獵。 時 雌雉多起。 乃放鷹令捕。 忽獲數十雉。 是月、 甫定 鷹甘部。 故時人 號其養鷹之處、 曰 鷹甘邑也。 (日本書紀) ↓ 神功皇后摂政 五十七年 ~ 仁徳天皇八十七年一月十六日 第十六代天皇 在位 仁徳天皇元年一月三日 ~ 仁徳天皇八十七年一月十六日) 大雀命(おほさざきのみこと) (古事記) 大鷦鷯尊(おほさざきのみこと) 大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと) (日本書記) 難波天皇 (万葉集) 大雀天皇と難波高津宮天皇の記載 (播磨国風土記) 五百城入彦皇子(景行天皇の子 成務天皇の弟)の孫 (日本書記) 大雀の母 中日売の父が、 五百木入日子(成務天皇)の弟の子 品它真若?・・・品陀和気天皇(応神天皇) 品陀和気命 五百木入日子(景行天皇の子 成務天皇の弟)の孫なら 曾孫 垂仁→景行 ↓ 倭建 成務 1)五百木入日子 ↓ 2)仲哀・神功皇后 ↓ 3)応神 ↓ 4)仁徳 ↓ 品陀和気命(応神天皇)、 軽島の明の宮の天皇が 品它真若(ほむだのまわか)王の娘 高木之入日売(たかぎのいりひめ)の命 ↓ 中日売(なかつひめ)の命(仁徳の母) ↓ 弟日売(おとひめ)の命 三人の王女の父が 「品它真若王」で ↓ 彼は 「五百木之入日子命」が、 尾張連の祖先の 建伊那陀(たけいなだ)の宿禰の娘、 志理都紀斗売(しりつきとめ)を娶って 生ませた子 ↓ (古事記) ↓ 仁徳天皇は ↓ 応神天皇の第四皇子 母は 品陀真若王の女 仲姫命(なかつひめのみこと) 皇后(前)は 葛城襲津彦の女 磐之媛命(いわのひめのみこと) (石之日売命) 皇后(後)は 応神天皇の皇女 八田皇女(やたのひめみこ・矢田皇女) ↓ 妃は 諸県君牛諸井の女 日向髪長媛(ひむかのかみながひめ) 子供 大草香皇子 (大日下王・波多毘能大郎子) 草香幡梭姫皇女 (橘姫皇女・若日下部命・波多毘能女郎子) (雄略天皇の皇后) ↓ 仁徳天皇は 「倭の五王(宋書)」中の 讃(さん) または 珍(ちん)・・・? ↓ 中国 東晋=永和十一年 前涼=和平二年 建興四十三年?→仁徳「卌三」年 (西晋の元号継続) 前燕=元璽四年 前秦=皇始五年、 寿光元年代=建国十八年 朝鮮 高句麗=故国原王二十五年 百済=近肖古王十年 新羅=訖解王四十六年 誕生 慕容宝 五胡十六国時代の 後燕の第二代皇帝(~398年) 死去 張祚 五胡十六国時代の 前涼の第七代君主(生年不詳) 苻健 五胡十六国時代の 前秦の初代皇帝(317年~) ー↓ー 來 渡海 破 百殘 加羅 新羅 以 為 臣民」 ーー↓ 「宋書」 「倭の五王」・・・「讃、珍、済、興、武」 倭の王 使持節都督、 倭・新羅・任那 加羅・秦韓・慕韓 六国諸軍事 「安東大将軍」 倭国王 「安東」=「朝鮮の領域+倭国の領域」 の諸軍事の大将軍の倭国王・・・ ーー 大化の新羅の賊 兵庫県 朝来市の 赤淵神社の伝承(神社略記) 大化元年(645年) 表米宿禰命(ひょうまいすくね)が 丹後・白糸の浜に来襲した 新羅の賊を討伐 沈没しかけた船を、 大海龍王が、 鮑(鰒・アワビ)の大群を用いて救った 鮑鰒=ホウフク=報復・抱腹・法服 赤淵神社は 日下部氏が奉祭・・・? ーー 天智二年(663年)八月 倭国は百済救援で 朝鮮半島で 唐・新羅連合軍と 白村江の戦い 敗北 ーー 天智天皇七年(668年) 新羅の僧沙門 道行が 草薙剣を盗んで・・・? 新羅に逃げるが 中路で暴風雨で迷い戻る 668年以降 日本は遣新羅使を派遣 天武天皇の即位から 780年まで、 派遣日本使が 30回以上送られている 672年 壬申の乱 大海人皇子(天武天皇) 在位=673年〜686年 親新羅政策 次代の 鸕野讃良(持統天皇) 在位=690年〜697年) 親新羅政策をとったが、 新羅が日本へ朝貢する関係を強いた ーー 帰化人 日本からは高句麗に学問僧など留学生が派遣 持統天皇元年(687年) 帰化の新羅人 十四人を下野国へ 新羅の僧侶及び百姓の男女 二十二人を武蔵国に土地と食料を給付 帰化人の総数には 日本から 新羅に帰化していた倭人も含まれる 天皇により新羅人の帰国が奨励 半島に帰還するものに対しては食料が配布 歴史的に残留した新羅からの帰化人は 百数十名と少なく、 多くは 漢民族・・・・?であった ーー 持統天皇九年(689年) 帰化した新羅人を 下毛野に移し 持統天皇十年(690年) 新羅の 韓奈末許満 等十二人を 武蔵国や、下毛野国に居住させた 霊亀元年(715年) 尾張国人の 席田君 邇近 及び 新羅人七十四人が 美濃国を本貫地とし、 席田郡に移された 天平五年(733年) 集落はその後断絶・・・ ーー 「王城国」 新羅が 735年(天平七年) 日本へ入京 新羅使が、 国号を「王城国」と改称したと告知 朝廷は無断で 国号を改称したことを責め、 使者を追い返した ーー 阿倍継麻呂 736年(天平八年) 遣新羅大使の 阿倍継麻呂が新羅へ渡った 外交使節としての礼遇を受けられず 朝廷は伊勢神宮など諸社に 新羅の無礼を報告し 調伏のための奉幣 以後、新羅使を 大宰府に止めて帰国させ、 入京を許さなかった 阿倍継麻呂は新羅からの帰国途中に病死し、 遣新羅使の帰国後、 平城京では 天然痘とみられる疫病が流行った・・・ ーー 金泰廉 752年(天平勝宝四年) 新羅王子 金泰廉ら 700余名の新羅使が来日、朝貢 使節団は、奈良の大仏の 塗金用に大量の金を持ち込んだと推定・・・ ーー 長安での席次 753年(天平勝宝五年) 長安の大明宮で開催された 唐の朝賀で 遣唐使 大伴古麻呂が 新羅の使者と席次を争い 意を通す 唐は日本側の 新羅が倭の従属国であった事実を受け入れ 新羅を下位においた 遣新羅大使は、新羅で 景徳王に謁することが出来なかった ーー 藤原仲麻呂 天平宝字二年(758年) 唐で 安禄山の乱 藤原仲麻呂は 大宰府をはじめ諸国の 防備を厳にすることを命じる 天平宝字三年(759年) 新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、 仲麻呂は新羅征伐の準備 軍船394隻 兵士4万700人の動員、遠征計画 遠征は後の 孝謙上皇と仲麻呂との不和により 不発 ーー 藤原仲麻呂(恵美押勝)が 渤海の要請により新羅討伐計画の 大儀名分 「新羅が属国であるにも関わらず日本に非礼」 ーー 御調朝貢 八世紀末 新羅国内が混乱 宝亀十年(779年) 新羅は日本への服属を象徴する 御調(みつき)を携え使者を派遣 新羅の混乱により多数の 難民が日本列島へ亡命 大量に帰化を申請する事態が発生する 日本側は、帰化を許可 ーー 遣新羅使停止 780年 遣新羅使は停止 以後は 遣唐使の安否を 問い合わせる使者が数度送られたのみ 民間交易は続けられ 唐・日本・新羅商人により、 三国の情報は比較的詳細に交換 有名な新羅商人の 張宝高 ーー 弘仁の新羅の賊 弘仁二年(811年)十二月六日 新羅船三艘が対馬島の西海に現れ、 内、一艘が 下県郡の佐須浦に着岸 船に十人ほど乗っており、 他の二艘は闇夜に流れ、行方不明 翌十二月七日未明 灯火をともし、相連なった 二十余艘の船が島の西の海中に姿を現す 船が賊船である事が判明した 先に着岸した者のうち 五人を殺害 残る五人は逃走し、 うち四人を後日補足 島の兵庫を衛り、軍士に動員 毎夜数箇所で火光が見えると大宰府に報告 大宰府は、事の真偽を問う為に 新羅語の通訳と 軍毅等を対馬島へ派遣し、 旧例に准じて要害の警備につくすべき事を 大宰府管内と長門・石見・出雲等の国に通知 ーー 弘仁四年(813年)二月二十九日 肥前の五島・小近島(小値賀島)に、 新羅人110人が 五艘の船に乗り上陸 新羅の賊は 島民100余人を殺害 島民は新羅人 9人を打ち殺し 101人を捕虜にした この日は、 基肆団の 校尉 貞弓らの去る日であった・・・ 四月七日 新羅人 一清 清漢巴 らが日本から新羅へ帰国 と大宰府より報告 新羅人らを訊問し、 帰国を願う者は許可し、 帰化を願う者は、 慣例により処置せよと指示 対策 通訳を対馬に置き、 商人や漂流者、帰化・難民に なりすまして毎年のように 来寇する新羅人集団を尋問できるようにし、 承和二年(835年) 防人を330人に増強 承和五年(838年) 796年以来絶えていた 弩師(どし)を復活させ、 壱岐に配備した 弩師=大弓の射撃を教える教官 ーー 弘仁新羅の乱 弘仁十一年(820年)二月十三日 遠江・駿河両国に移配した 新羅人在留民700人が党をなして 反乱し、 人民を殺害して 奥舎を焼いた 両国では兵士を動員して攻撃 制圧する事ができなかった 賊は 伊豆国の穀物を盗み、 船に乗って海上に出た 相模・武蔵等 七国の援兵が動員、追討 結果、全員が降服 帰化人には 口分田と当面の生活費が与えられたが、 博多などに土着して 本国と違法な交易を目論んでおり、 それを見透かされ 東国に移されたことを逆恨みした・・・? ーー 山春永らの対馬侵攻計画 貞観八年(866年) 肥前 基肆郡 擬大領(郡司候補) 山春永(やまのはるなが) 藤津郡領 葛津貞津 高来郡擬大領大刀主 彼杵郡住人 永岡藤津らが、 新羅人と共謀し、 対馬を攻撃しようとした計画が発覚 ーーーーー ・・・???・・・
・・・イジのサンゴク・・・纂語(後)句の「遺児・維持・意字・医事・異字・意地」・・・「一念発起」・・・以下、スベテ、ウイッキペデアからの参考、参照としての抜粋添付で、少々改作・・・ ・・・盗作、改竄・・・???・・・ではありません・・・問う作句文・・・ ーーーーー 一然(いちねん) 1206年~1289年7月 高麗時代の・・・光来・考禮・項頼 交羅易・行等意 禅宗の・・・・・前奏・漸層 全草・全叢・全宋 全層・全総・全相 前操・膳扱・然想 仏僧・・・・・・物騒・仏葬 俗姓は 金・・・・・・・金武・筋・禁・軽 琴・禽・錦・近 勤・均・今 幼名は・・・・・用命・用明・陽明 要名 見明・・・・・・賢明・懸命・件名 県名 または 景明・・・・・・鶏鳴 字は 晦然・・・・・・改善・解繕 甲斐全 蝦夷全 晦=カイ(クヮイ)・ つごもり・くらい くらます 人に知られない みそか=晦日・三十日 月の末日 晦朔・晦冥・晦渋 韜晦(とうかい)→当会 倒壊・唐解・凍解・東海 慶州 章山郡(慶山市)→「称賛・勝算・消散」軍 の出身 1283年 忠烈王より国尊の称号 円径冲照と号・・・・円形・燕系・遠景 縁系・延計 中称・中傷・中小 抽象 没後に 普覚の諡号・・・・・不覚・俯角・富嶽 普覚国尊 一然 と称される 三国時代の 「三国遺事」の撰述の他 「語録」 「偈頌雑著」などの著作 偈頌(ゲジュ) 禅宗の宗教的内容表現の漢詩 仏徳をたたえる詩 多くは四句、 教理や悟りの境地を表現 七言絶句が多いが、 五言絶句や四六文で 構成されることもある 起承転結 七言絶句 起句、承句、転句、結句 の4つの句で構成される ーー↓ 一然の経歴・履歴 九歳 海陽(光州広域市)の 無量寺で出家 二十二歳 科挙の禅科に合格 後、宝幢庵、妙門庵、無住庵で禅の修業 1261年 元宗に召されて 開城で 禅月堂を開き、 牧牛和尚の法統を継承 1264年 元宗に願い出て都を離れ、 吾魚寺・・・・・・・・・吾の魚(眞名)の字 (慶尚北道浦項市)に移り、 1268年 朝廷の命で 名僧百名とともに 雲門寺・・・・・・・・・運文字 (慶尚北道清道郡)で 大蔵経 落成会を行なった 1276年 勅命で 雲門寺の住職 1282年 忠烈王に召しだされて 開城に移り、 広明寺に住む・・・「巧妙・功名・高名」字 1283年 国尊の称号 母が高齢で一時辞職して 郷里に戻り、 翌年母の最期を看取った 朝廷では一然のために 麟角寺・・・・・・「輪郭・隣角」字 (慶尚北道軍威郡)を修築 復職した 七十九歳の一然に田地とともに 麟角寺が与えられた 一然は麟角寺に永住 1289年7月 八十四歳で亡くなるまで 禅問答を続けた・・・・禅問答は「弁証法」か? 全問答・繕問答・然問答 麟角寺には 一然のための 舎利塔と 碑が残っており、 碑文には 一然の著作として 「語録・二巻」 「偈頌雑著・三巻」 「曹洞五位・二巻」 「祖図・二巻」 「大蔵須知録・三巻」 「諸乗法数・七7巻」 「祖庭事苑・三十巻」 「禅門拈頌事苑・三十巻」 などの銘文が刻まれている しかしながらこの碑文には 「三国遺事」のことは触れられていない・・・? ・・・一然の著作ではない、と言うことである・・・ ーー 「三国遺事」 正史(三国史記)に漏れた 様々の事実の 「遺事」を取りまとめたモノ 「三国遺事」 一然の晩年の撰述 王暦の年表末に記す 中国王朝を 南宋・・・1127年~1279年 までに留めて 「大宋」と記しており、 「元」を記していないことから、 まだ宋が存立していた間に およその撰述を終え 主要部分については 雲門寺に住まう直前の 七十歳頃課~七十八歳までの間 1275年~1283年 の著述である・・・ 国際的な情況 ーー↓↑ モンゴルvs南宋戦争 1235年~1279年 第1次オゴデイ治下のクチュの南征 (1235年~1241年) 第2次モンケ治下のクビライの南征 (1253年~1259年) 第3次で南宋滅亡 (1268年~1279年) ーー↓↑ 金(アルチュフ)国・・・砂金の国 (1115年~1234年) 「阿骨打(アクダ)」が建国 首都は 会寧 中国の北半を支配した 女真族の王朝 金建国前の女真(ジョシン) 中国東北地区(満州) 黒竜江省の松花江の支流 按出虎水(アルチュフ川)流域に居住 遼支配下の服属種族 国姓は 完顔氏 遼・北宋を滅ぼし、 西夏を服属させ、 中国南半の南宋と対峙 1232年 三峰山の戦いでモンゴルに大敗 1234年 開封を包囲、占領 皇帝哀宗は開封から脱出し蔡州に逃れる途中で モンゴルと 南宋の連合軍に挟撃されて自殺 後を受けた 末帝も即位からわずか半日で モンゴル軍に殺害され 金は滅亡 都は初め会寧(上京会寧府・黒竜江省) 後、 燕京(中都大興府・北京) ーー↓↑ 十七世紀 同じ女真族が「金」を名乗る王朝を建国 「後金」と呼ばれ 「後金」は後に 「清」と改称し大帝国を築いた。 ーー↓↑ 「三国遺事」 十三世紀末に 高麗の高僧 一然 (1206年~1289年) によって書かれた 私撰の史書 撰述の時期は1270年代後半~1280年代中頃 一然の没後に 弟子の 無極(宝鑑国師の混丘)が 補筆・署名、刊行 ーー 朝鮮半島における 現存最古の史書である 「三国史記・1145年完成)に次ぐ古文献 「三国史記」が名だけを留め、 収めなかった 郷歌(きょうか、ヒャンガ) 十四首伝える ーー 官撰の 「三国史記」は 儒学者である 「金富軾」の編纂 中国史書の書式(紀伝体)に忠実 三国時代の 故事・伝承が数多く削り落とされ 当時利用が可能であった 中国の書籍を資料として利用 卑弥呼の記載などがある 特に 新羅の立場から編集 また自身の禅僧としての立場から 仏教の普及に関わる事実とをあわせて収録 「王暦」末尾の中国諸王朝について 元を記さずに 宋(南宋)で終えて大宋と記し、 紀異篇の最初に 檀君を記しているなど、 一然が編纂にあたった 当時の 「元」の支配に反対し、 民族の自主独立の姿勢も見せている・・・ ]巻一:王暦・紀異 巻二:紀異 巻三:法興・塔像 巻四:義解 巻五:神呪・感通・避隠・孝善 全五巻九篇 ↓ 巻一の「王暦」は 新羅・高句麗・百済・駕洛国の王代と年表を記し、 「紀異」は 檀君朝鮮に始まる諸国の興亡と 新羅各王の逸聞を記す ↓ 巻二は前巻の紀異に続けて、 新羅の末代の 金傅大王(敬順王)の 後に 百済・後百済・駕洛国について記す ↓ 巻三以降 仏教史関係 「法興」、「塔像」は 新羅を中心とした仏教受容の事実、 「義解」は高僧と律師の伝記、 「神呪」は密教の神僧の事跡、 「感通」は修行の末の神意の感応、 「孝善」は仏法に則った孝行と応報の美談を記す ーー 版本 李氏朝鮮の 中宗の 正徳七年(1512年)刊行・正徳本 十八世紀 「安鼎福」が 手写したものを、 日本では 大正十年(1921年)に 京都帝国大学文学部叢書として 縮少影印し、 後に 昭和三年(1928年) 今西龍の校訂によって 朝鮮史学会本として活字化 同影印本は 昭和七年(1932年) 京城(ソウル特別市)の 古書刊行会より 原寸大に再影印 朝鮮史学会での 活字本はその後も校訂が進められ、 1973年発行の 第3版が最良のテキスト ーー↓ 文禄の役 (1593年) 持ち帰られたと思われるものが 尾張徳川家と 東京の 神田家とにそれぞれ伝わっている これらは 王暦の巻頭の 二葉ほか、複数の箇所で 落丁・欠字 他書によって補訂されたものが 明治三十七年(1904年) 東京文科大学史誌叢書として刊行 ーーーーー ・・・???・・・「補訂」とは「改竄」があった・・・?
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