「牛=うし・ウシ=丑・宇志・宇斯・大人(うし)」の漢字にコダワル・・・
「片目」で・・・隻眼(セキガン)=独眼(ドクガン)・・・碧眼(ヘキガン)・・・
関の虤(虎の怒り) 独逸の願い 青目
隹の右手、目は艮(東北)独神 日置の虤
「針(金十)の孔(孑乚)」に
「唾(口埀)」で捩(扌戻)って通す「糸」・・・
・・・「牛=うし・ウシ=丑・宇志・宇斯・大人(うし)」の漢字にコダワル・・・「宇志比古神社・徳島県-鳴門市-大麻町-大谷-字山田六六・元、八幡神社、明治以降,宇志比古神社・宇志比古=丹波比古多多須美知能-宇斯王(たんばひこたたすみちの-うし-のきみ)」・・・「イシュタル(Ishtar)=イナンナ=ニン-アンナ」、「イシス (Isis)=アセト=頭部にハトホル女神から受け継いだ牛の角と太陽円盤を持った女神として表される」、「アプロディーテー(Aphrodita)=ヴィーナス(ウェヌス・Venus)=金星=ウェヌス」にコダワル・・・「泡(アプロス=aphros)」・・・「阿波・安房・安和」です?・・・「彼女の聖獣はイルカ(海豚)・聖鳥は白鳥、鳩、雀、燕・聖樹は薔薇、芥子、花梨、銀梅花・その他、真珠、帆立貝、林檎・牡山羊や鵞鳥に乗った姿でも描写」・・・ 「アナト (anatu)→アテネ=アシナ=アテナー」、「アナトは、カナン(シリア西部)のウガリット神話の主神バアルの妹であり、妻とされる、愛と戦いの女神で、狩猟の女神、豊穣の女神でもあると考えられていた」・・・「嵐と慈雨の神バアルの配偶女神」、「古くは最高神イルの娘にて妻」だったが、後に「嵐と慈雨の神バアルが信仰の中心となるとイルの娘でありバアルの妹であり妻」とされ・・・「多くの敵を殺した好戦的な女神」・・・ 「アナト (anatu)の女神」=「穴戸(穴門)-豊浦宮の神功皇后(氣長足姫尊)」・・・? ↓↑ 大化六年(650年) 穴戸の国司 草壁醜経・・・日下部の醜(みにくい)経(キョウ) 醜=酉+鬼 経=糸+又+十+一 経=キョウ=今日・教・京・協・狂 が白雉を献上 天智四年(665年) 長門国の初見 穴門とは海峡(関門海峡) 穴門国造の領域と、 阿武国造の領域・・・阿武=山口県-阿武郡-阿武町? 長州 を合(あわ)わせて、 七世紀に 穴戸国が設置され 七世紀後半に 長門国に改称・・・ ↓↑ 「穴戸-豊浦宮(あなと-の-とゆらのみや」 は 「関門海峡の古名。また、長門国一帯の古名」 だが、 「第十四代-仲哀天皇・・・ナゼ、「仲哀」なのか? イ(人)の中の悲哀? (148年~200年3月8日 在位は192年2月11日~200年3月8日)」 の宮で、 「日本武尊の第二子」 「妻が神功皇后(氣長足姫尊)」で 「第十五代応神天皇の父親?」 ↓↑ 「元年二月条、即月に、 淡路の屯倉(みやけ)」を定む・・・ (帶中日子天皇、・・・帶中日子(タラシナカツヒコ) ↓↑ 帶中津彦(タラシナカツヒコ) 帯中津彦(タラシナカツヒコ) 帶中津日子(タラシナカツヒコ) 帶中比古(タラシナカツヒコ) 帯中津日子(タラシナカツヒコ) 足仲津比古(タラナカツヒコ) ↓↑ の命=みこと=尊 坐-穴門-之-豐浦-宮 及-筑紫-訶志比-宮・・・香椎宮・福岡県福岡市東区香椎 ↓↑ 仲哀天皇の営んだ仮宮 「橿日宮(訶志比宮)」の伝承地 橿=かし・キョウ(樫・櫧) ブナ(椈・橅)科の 常緑高木の一群の総称 狭義には小楢(コナラ)属の樹 ↓↑ 訶=しかる・せめる・カ 叱る 責める 呵責(カシャク) 可笑しい、変だ、奇妙だ? 訶志比=志しを比べ、叱る・吒・怒る こころざしを比較し、叱責 カシイ←訶思惟・訶恣意 首をかしげる? 頭を傾(かし)げる? 首を捻(ひね・撚・拈)る? ↓↑ 摩訶止観・摩訶衍・摩訶不思議 治天下也)古事記」・・・ ↓↑ 「アナト (anatu)の女神」、 元は 「最高神イル」の配偶者・・・イル→イリ? 「イル(イリ)は伊利・伊理・入」・・・・? 「李の理」って・・「李さん一家」・・・? ↓↑ 「唐王朝=李淵が隋を滅ぼして建国」 「隋王朝=楊堅が建国」・・・用件・要件・洋犬? 「楊堅が北周の兵権を与えられ、 581年 静帝より禅譲を受け 隋を建国」 ↓↑ ↓↑ ・・・上に述べた「各地の女神」は異音で別称だが、その実体は「同一の女神」である・・・そして、異質なモノも混合され統合された「メガミ」である・・・ ーーーーー 「イリマメ(煎り豆)」の料理・・・「壹與・臺與」・・・ 煎=前(䒑+肉+刀)+灬(烈火) =炒る・熬る・乾燥した食材を さらに加熱して風味を出すこと 「煎る」はより熱して焦がす意 乾煎り・焙煎 「入鹿=いるか=射鹿・・・海豚?」 ↓↑ 656年・・・六百五十六=陸陌五拾陸 ↓↑ 六=亠+八 陌=阝(阜)+百 ↓↑ 拾=足 高麗の調進使 「伊利」之使主 「いり」のおおみ が来朝 ↓↑ ↓↑ ↓↑ いくめ「いり」びこいさちのみこと 活 目「入 」彦 五十狭茅尊・・・日本書紀 伊久米「伊理」毘古・・・・・・・・古事記 ーー↓↑ーー 垂仁天皇 ↓↑ 崇神天皇 の 第三皇子 ↓↑ 崇神天皇二十九年一月一日 ~ 垂仁天皇九十九年七月十四日) 第十一代天皇 在位は 垂仁天皇元年一月二日 ~ 垂仁天皇九十九年七月十四日) ーー↓↑ーー 新羅の 牛頭(ごず)山に・・・牛頭=ソシモリ=蘇死母理? 鎮座していた 牛頭大王の 神霊をもたらして祀った 古代インドの 祇園精舎に由来 八坂神社は 明治維新の神仏分離まで 「祇園感神院」 「祇園社」と言った この地域は、古代には 八坂郷といった ↓↑ 牛頭天王(ごずてんのう) 神仏習合の神 釈迦の生誕地に因む 祇園精舎の守護神 「蘇民将来」説話の 「武塔天神」と同一視され 薬師如来の 垂迹であるとともに 「須佐之男(スサノオ)」 の本地ともされた 京都東山祇園 播磨国広峰山 に鎮座して 祇園信仰の神(祇園神) 八坂神社にあたる 感神院祇園社から勧請されて 全国の祇園社、 天王社で祀られた 陰陽道では 天道神と同一視され 道教的色彩の強い神だが、 中国の文献には見られない・・・? ↓↑ 牛頭天王 京都祇園社(現八坂神社)の祭神 『祇園牛頭天王御縁起』によれば、 本地仏は 東方浄瑠璃界の教主 薬師如来で 12の大願を発し、 須弥山中腹にある 「豊饒国(日本)」の・・・「豊國=豊前+豊後」 とよくに・憮然・文語? 武答天王?・・・・・・・・武を答(こたえ)る天の王? 武に応(こた)える天の王? 武塔=ブトウ=武訳得・武等 分等・舞踏・武闘 塔=「十+一」+「荅=答」 の一人息子として 垂迹し、姿を現した 太子は、 七歳にして 身長が7尺5寸 三尺の牛頭をもち、 三尺の赤い角を持つ 太子は王位を継承して 「牛頭天王(ごずてんのう)」・・・午頭天王=馬頭天王 牛頭-馬頭(ごず-めず) を名乗るが、 后をむかえようとするものの、 その姿かたちの怖ろしさのために 近寄ろうとする女人さえいない 牛頭天王は酒びたりの毎日を送るようになった 3人の公卿が天王の気持ちを慰安しようと 山野に狩りに連れ出すが、 そのとき一羽の鳩があらわれ 山鳩は人間のことばを話すことができ、 大海に住む 沙掲羅龍王・・・「沙掲羅」、「娑羯羅」と漢語に音訳? 法華経・提婆達多品に登場する 八歳の龍女は この竜王の 第三王女で「善女(如)龍王] の娘のもとへ案内すると言う 牛頭天王は娘を娶りに出かける 旅の途次、 長者である弟の 「古単将来」に宿所を求めたが、 慳貪な 「古単(古端、巨端)」はこれを断り それに対し、 貧乏な兄の 「蘇民将来」・・・将来は 民(たみ・ミン)を 蘇る(読みかえる)・・・蘇我 耶蘇 は歓待して宿を貸し、 粟飯(あわめし・ショクハン・ゾクハン) をふるまった 蘇民の親切に感じ入った 牛頭天王は、 願いごとがすべてかなう 牛玉を蘇民にさずけ、 蘇民は富貴の人となった ↓↑ 龍宮へ赴いた 牛頭天王は、 沙掲(羯)羅の三女の 頗梨采女を娶り、 8年をそこで過ごすあいだに 七男一女の王子(八王子)を儲(もう)けた 「豊饒(ホウジョウ・ホウニョウ)国」 への帰路、 牛頭天王は八万四千の眷属をさしむけ、 古単への復讐を図った 古端は千人もの僧を集め、 大般若経を 七日七晩にわたって 読誦させたが法師のひとりが 居眠りしたために失敗し、 古単の眷属五千余はことごとく 蹴り殺された この殺戮のなかで、 牛頭天王は 古単の妻だけを 蘇民将来の娘であるために助命して、 「茅の輪をつくって、 赤絹の房を下げ、 『蘇民将来之子孫なり』 との護符を付ければ 末代までも 災難を逃れることができる」・・・過ぎ越し祭り? と除災の法を教示した ↓↑ 『祇園牛頭天王御縁起』 ↓↑ 牛頭天王の神格 江戸時代から明治時代にかけて 復古神道の影響下で主張された スサノオ・朝鮮半島起源説が知られるが、 神仏分離と 国家神道の政治的な影響が大きい ↓↑ 牛頭天王 平安京の祇園社の祭神で 祇園天神とも称され、 平安時代から 行疫神として崇め信じられてきた 御霊信仰の影響から 当初は御霊を鎮めるために祭り、 やがて平安末期には 疫病神を鎮め退散させるために 花笠や山鉾を出して 市中を練り歩いて鎮祭するようになった これが祇園祭の起源・・・ ↓↑ 当時は疫病は異国からの伝染と考えて、 異国由来の疫病神として 牛頭天王を祀る由来となったと考える立場もある 牛頭天王は、 子の 八王子権現や 眷属とともに 疫病を司る神とされた・・・ ↓↑ 『備後国風土記』 牛頭天王 鎌倉時代後半 卜部兼方 『釈日本紀』に引用された 『備後国風土記』逸文では 牛頭天王は 武塔神とも称され、・・・漢字は「武塔神」で 「武答神」ではない? スサノオと同一視され 富貴な弟の 巨旦将来と・・・「巨旦=コタン=枯淡・小丹・古丹・古潭」 巨=目=取っ手のある差し金・定規 旦=日+一=あした(朝) =元旦=元日の朝・夜明け 貧しい兄の 蘇民将来 の説話を記している 『先代旧事本紀』では オオナムチノミコト(大国主)の 荒魂が 牛頭天王であると解説・・・ 平安時代末期 『伊呂波字類抄』(色葉字類抄)では、 牛頭天王は 天竺の北にある 「九相国」の王であるとしている ↓↑ スサノオとの習合 朝鮮半島との関係 新羅に 牛頭山という山があり、 熱病に効果のある 栴檀を産し この山の名を冠した神と同一視する説・・・ ↓↑ 『日本書紀』巻第一神代上第八段一書 スサノオ(素戔嗚尊)が 新羅の 曽尸茂利=曽尸茂梨=ソシモリ という地に 高天原から追放されて降臨し 「ここにはいたくはない」と言い残し、 出雲の国に渡ったとの記述 「ソシモリ」は「ソシマリ」=「ソモリ」 ともいう 朝鮮語で、 牛頭または牛首を意味し、 朝鮮半島の各地に 牛頭山という名の 山や牛頭の名の付いた島がある由と関連する ↓↑ ソシモリのソは 蘇民のソで、 蘇民は「ソの民」であるとして、 蘇民将来説話と 『日本書紀』の スサノオの ソシモリ降臨と関連づける説もある・・・ 『三國相傳陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集』 (略称『金烏玉兎集』、『簠簋内伝』とも) 第1巻牛頭天王縁起に 詳細な説話が記され 『祇園牛頭天王御縁起』(上述)では 牛頭天王は 武答天皇の太子として登場 牛頭天皇とも表記 八大竜王の一 沙掲羅竜王の娘の 頗梨采女を妃として 八王子を生んだ・・・ その姿かたちは 頭に牛の角を持ち、 夜叉のようであるが、 こころは人間に似ていると考えられた・・・ 日本仏教では、 薬師如来の垂迹とされ 牛頭天王に対する 神仏習合の信仰を 祇園信仰といい、 中世までには日本全国に広まり、 悪疫退散 水難鎮護 の神として 「祇園祭」「天王祭」「津島祭」 などと称する祭礼が各地で催されるようになった ーーーーー ↓↑ 「牛若丸」の由来・・・? 「丁丑(ひのとうし)の年、 丑(うし)の日、 丑(うし)の刻」 に生まれた 今若、乙若の兄弟 ↓↑ 源 義経(源義經・ゲンギケイ) 平安時代末期の武将 鎌倉幕府を開いた 源頼朝の異母弟 仮名は九郎 実名は義經(義経) ↓↑ 河内源氏の 源義朝の 九男 幼名 牛若丸(うしわかまる) ↓↑ 生誕 平治元年(1159年)・・・? 1159 戊寅(己・丙・甲) 01 乙丑(癸・辛・己) 25 癸丑(癸・辛・己)寅卯 02 癸丑(癸・辛・己) ~ 死没 文治五年閏四月三十日(1189年6月15日)享年31 1189 己酉(庚・ ・辛) 06 庚午(丙・ ・丁) 15 壬子(壬・ ・癸) ↓↑ 改名 牛若、遮那王、義經、義行、義顕 別名 九郎、判官、廷尉、豫州(仮名) 戒名 捐館通山源公大居士 源義朝の 九男として生まれ、 牛若丸と名付けられ 母 常盤御前は 九条院の雑仕女 牛若丸は 十一歳の時 鞍馬寺(京都市左京区)へ預けられ、 稚児名を 遮那王(しゃなおう) と名乗った ↓↑ 衣川の戦い(ころもがわのたたかい) 文治五年閏四月三十日(1189年6月15日) 陸奥国 衣川館で 藤原泰衡が 源義経主従を討った戦い 閏四月三十日 500騎の兵をもって 10数騎の 義経主従を 藤原基成の 衣川館に襲った(衣川の戦い) 義経の郎党たちことごとく討たれた 館を平泉の兵に囲まれた義経は、 一切戦うことをせず 持仏堂に籠り、 正妻の 郷御前 4歳の女子を殺害 後、 自害。享年31 ↓↑ 鎌倉四代将軍九条頼経 「寅年」「寅の日」「寅の刻」に生まれた 三つ「寅」が並んで 「三寅(みとら)」と名付けられた・・・ ーーーーー ↓↑ ↓↑ 「襲津彦」・・・津波の襲来の諺(ことわざ・ゲン)? 「襲=龍+衣」・・・リュウのイ(ころも)→劉の意(威) 「津=氵+聿」・・・サンズイ(氵・水)のハジメ(初) 「彦=立+ノ+彡」・・・「毘古・比古 彦=ゲン=諺(ことわざ)」 ↓↑ 「襲(おそ)う津(みなと)の彦(びこ・ひこ)」 「かさねる(襲)、みなと(津)、びこ(彦) へそ(毘)いにしえ(古)」 「襲津彦=シュウシンゲン=州秦解務・葺箴言」 「津=つ・シン・しる・しずくとなってしたたる液体 水のうるおす所 浅瀬の舟着き場・渡し場 水分でうるおう・うるおす 生活をうるおす金 手当金 舟着き場・渡し場・津渡・河津・入津・要津 体から出る液体・つば・汗 津液 次々と湧(わ)き出て潤(うる)おす 「興味津津」 「津波・津津浦浦」」 ーー↓↑ーーーーー↓↑ーー ↓↑ ↓↑ 葛城 襲津彦 (かづらき の そつひこ) 生没年不詳 4世紀末~5世紀前半頃の 「記紀」等に伝わる古代日本人 葛 城 長 江 曾都毘古 (かづらきのながえのそつびこ・葛城襲津彦) 玉手臣・的臣・生江臣・阿芸那臣の祖 若子宿禰(わくごのすくね) - 江野財臣の祖 ↓↑ 比古布都押 之信 命 (ひこふつおしのまことのみこと)が 尾張 連 (おわりのむらじ)らの祖である 意富那毘 (おおなび)の妹 葛 城 高 千那毘売 (かづらぎのたかちなびめ) を娶して生んだ子は 味 師内 宿禰 (うましうちのすくね)で、 山 代 の内 臣 (やましろのうちのおみ) の祖 ↓↑ 木 国 造 (きのくにのみやつこ)の祖の 宇豆比古 (うづひこ)の妹、 山 下 影 日売 (やましたかげのひめ)を娶して生んだ子が 建 内 宿 禰 (たけうちのすくね) ↓↑ ↓↑ 建内宿禰の子は九人 男七人 女二人 ↓↑ 波多 八代 宿禰 (はたのやしろのすくね)は、 波多 臣 (はたのおみ) 林 臣 (はやしのおみ) 波美 臣 (はみのおみ) 星 川 臣 (ほしかわのおみ) 淡海 臣 (おうみのおみ) 長 谷部 君 (はつせべのきみ) の祖 ↓↑ ↓↑ 許勢 小柄 宿禰 (こせのおからのすくね)は、 許勢 臣 (こせのおみ) 雀 部 臣 (さざきべのおみ) 軽 部 臣 (かるべのおみ) の祖 ↓↑ ↓↑ 蘇賀 石 河 宿禰 (そがのいしかわのすくね)は、 蘇我 臣 (そがのおみ) 川 辺 臣 (かわべのおみ) 田中 臣 (たなかのおみ) 高 向 臣 (たかむくのおみ) 小治 田 臣 (おはりだのおみ) 桜 井 臣 (さくらいのおみ) 岸 田 臣 (きしだのおみ) 等の祖 ↓↑ ↓↑ 平群 都久 宿禰 (へぐりのつくのすくね)は、 平群 臣 (へぐりのおみ) 佐和良 臣 (さわらのおみ) 馬 御樴 連 (うまのみくいのむらじ) らの祖 ↓↑ ↓↑ 木 角 宿 禰 (きのつののすくね)は、 木 臣 (きのおみ) 都奴 臣 (つぬのおみ) 坂 本 臣 (さかもとのおみ) の祖 ↓↑ ↓↑ 久米能摩伊刀比売 (くめのまいとひめ) ↓↑ 怒能伊呂比売 (ののいろひめ) ↓↑ 葛 城 長江 曽都毘古 (かずらぎのながえのそつびこ)は、 玉 手 臣 (たまでのおみ) 的 臣 (いくわのおみ) 生 江 臣 (いくえのおみ) 阿芸那 臣 (あぎなのおみ) らの祖 ↓↑ 若 子 宿 禰 (わくごのすくね)は、 江野 間 臣 (えののたからのおみ) の祖 ↓↑ ↓↑ 玉手臣(たまでのおみ) 的臣(いくわのおみ) 生江臣(いくえのおみ) 阿芸那臣(あぎなのおみ) ↓↑ ↓↑ 建内宿禰が先祖 ↓↑ 「古事記」では建内(武内)宿禰の子 ↓↑ 玉手 臣・・・玉手箱 的 臣・・・的=いくは あてる・まと(真訳)・テキ 生江 臣・・・生江(イクエ)・・・意句得・幾重? 生江 家道女 (いくえ の いえみちめ・生没年不詳) 奈良時代~平安時代初期 の女性 生江鎌取の娘 越優婆夷=越の国の在家の 女性の仏教信者 越前国足羽郡江下郷出身 天平勝宝九年(757年) 聖武天皇の一周忌に際して 母の 生江大田女ととも 願主として 法華経100部800巻 瑜伽論1部100巻 を東大寺に献上 のち 平安京内の市で 妄りに罪福 (善因楽果と悪因苦果の道理) を説き人心を惑わせたとして 延暦十五年(796年) 本国の越前国に送り返された 阿芸那臣・・・阿芸那臣(あぎなのおみ) らの祖 ↓↑ 武内宿禰 葛城氏 および その同族の祖は 履中天皇(第16代) 反正天皇(第17代) 允恭天皇(第18代)・・・ の外祖父である ↓↑ 「葛城襲津彦」は 対朝鮮外交で活躍した・・・ 『百済記』の類似名称の記載から 実在性が指摘 ↓↑ 『日本書紀』では 「葛城襲津彦」、 『古事記』では 「葛城長江曾都毘古(曽都毘古)」 や 「葛城之曾都毘古」 と表記 他文献では 「ソツヒコ」が・・・そとびこ=外毘古? 「曾頭日古」 「曾豆比古」 「曾都比古」 とも表記されるほか、 『紀氏家牒』逸文では 「葛城長柄襲津彦宿禰」 と表記・・・ 『日本書紀』所引の 『百済記』に 壬午年(382年)の人物として見える 「沙至比跪(さちひこ)」が 通説では 「襲津彦」に比定・・・ ↓↑ 神功皇后六十二年(262年) 干支二運を繰り下げた 訂正紀年で 西暦382年 にあたる ↓↑ 玉田宿禰 『日本書紀』 允恭天皇五年七月十四日条 襲津彦の孫 雄略天皇七年是歳条では 襲津彦の子 ↓↑ 系譜に関して『日本書紀』に記載はない 『古事記』孝元天皇段では、 建内宿禰(武内宿禰)の子 7男2女のうちの 第八子 記紀に母に関する記載はない 『紀氏家牒』逸文では 荒田彦(葛城国造)の女の 葛比売 『新撰姓氏録』では 右京皇別 玉手朝臣条等において 武内宿禰の子 子のうち、 娘の 磐之媛命(石之日売命)は 仁徳天皇皇后 履中天皇・反正天皇・允恭天皇 を産んだ 『日本書紀』では、 襲津彦の子 または 孫に 玉田宿禰 『古事記』では子に 葦田宿禰 ↓↑ 武内宿禰の系譜 武内宿禰が 後世(7世紀後半頃か)に創出された人物 稲荷山古墳出土鉄剣によれば人物称号は 「ヒコ→スクネ→ワケ」 と変遷するべきで 「襲津彦」の位置が不自然で 原系譜では 襲津彦 が 武内宿禰の位置にあったとする説・・・ ↓↑ 『日本書紀』では、 神功皇后・応神天皇(第15代)・仁徳天皇(第16代) に渡って 襲津彦の事績が記録 ↓↑ ↓↑ 神功皇后五年三月七日条 新羅王の人質の 微叱旱岐(みしこち) が一時帰国したいというので、 神功皇后は 微叱旱岐に 襲津彦をそえて新羅へと遣わしたが、 対馬にて 新羅王の使者に騙され 微叱旱岐に逃げられてしまう。 襲津彦は怒り、 使者3人を焼き殺し 蹈鞴津(たたらつ)に陣を敷いて 草羅城(くさわらのさし)を落とし、 捕虜を連れ帰った (桑原・佐糜・高宮・忍海の4邑の漢人らの始祖) ↓↑ 神功皇后六十二年条 新羅からの朝貢がなかったので、 襲津彦が新羅討伐に派遣 『百済記』(百済三書の1つ)を 引用(『百済記』に基づく一連の主文作成の際、 襲津彦の不名誉のため作文を止めたものか) ↓↑ 『百済記』逸文 壬午年(382年) 貴国(倭国)は 沙至比跪(さちひこ)を遣わして 新羅を討たせようとしたが、 新羅は美女2人に迎えさせて 沙至比跪を騙し、 惑わされた 沙至比跪はかえって 加羅を討ってしまった 百済に逃げた 加羅王家は天皇に直訴し、 怒った天皇は 木羅斤資(もくらこんし) を遣わして 沙至比跪を攻めさせた・・・ 「一云」 沙至比跪は天皇の怒りを知り、 密かに貴国に帰って身を隠した 沙至比跪の妹は皇居に仕えていたので、 妹に使いを出して 天皇の怒りが解けたか探らせたが、 収まらないことを知ると 石穴に入って自殺した・・・ ↓↑ 応神天皇十四年是歳条 百済から 弓月君(ゆづきのきみ)が至り、 天皇に対して奏上するには、 百済の民人を連れて帰化したいけれども 新羅が邪魔をして 加羅から海を渡ってくることができないという。 天皇は弓月の民を連れ帰るため 襲津彦を加羅に遣わしたが、 三年経っても 襲津彦が帰ってくることはなかった ↓↑ 応神天皇十六年八月条 天皇は襲津彦が帰国しないのは 新羅が妨げるせいだとし、 平群木菟宿禰(へぐりのつく) と 的戸田宿禰(いくはのとだ) に精兵を授けて加羅に派遣した 新羅王は愕然として罪に服し、 弓月の民を率いて 襲津彦と共に日本に来た ↓↑ 仁徳天皇四十一年三月条 天皇は百済に 紀角宿禰(きのつの)を派遣したが、 百済王族の 酒君に無礼があったので 紀角宿禰が叱責すると、 百済王はかしこまり、 鉄鎖で酒君を縛り 襲津彦に従わせて日本に送った・・・ ↓↑ 『万葉集』では 襲津彦に関連する1首 強弓の伝説的武将の歌 ↓↑ 葛城の 襲津彦真弓 荒木(新木)にも 頼めや君が 我が名告りけむ ↓↑ (かづらきの そつびこまゆみ あらきにも たのめやきみが わがなのりけむ) 『万葉集』巻十一 2639番(原文万葉仮名) ↓↑ 「葛城の襲津彦が使う 新木の強弓のように、 私を妻として頼りにしておいでなので、 それで私の名を口に出されたのでしょう」 男を確実に獲得した女の歌・・・ ↓↑ 『古事記』では 「葛城長江曾都毘古」 『紀氏家牒』逸文では 「大倭国葛城県長柄里(奈良県御所市名柄?) に住したので 「葛城長柄襲津彦宿禰」と名づけた・・・ 葛城地方の 長柄(長江)地域との関係 襲津彦の子孫のうち、 仁徳皇后の 磐之媛命が履中・反正・允恭 を産んだ・・・ 襲津彦男子の 葦田宿禰の娘の 黒媛も 履中の妃となった 天皇家外戚として 葛城勢力・・・ ↓↑ 『日本書紀』では 襲津彦に関する 朝鮮外交伝承が記されている 『百済記』所載の 「沙至比跪」の記載の存在 ↓↑ 允恭天皇(いんぎょうてんのう) 仁徳天皇六十四年?~允恭天皇四十二年一月十四日) 第十九代天皇 在位 允恭天皇元年十二月~同42年一月十四日) 雄朝 津間稚 子 宿 禰 尊 (おあさづまわくごのすくねのみこと) 男浅 津間若 子 宿 禰 王 (古事記) 中国の歴史書 『宋書』・『梁書』 に記される 倭の五王中の 「倭王済」に比定・・・ ↓↑ 仁徳天皇の第四皇子 母は 葛城襲津彦の女 磐之媛命(いわのひめのみこと) 履中天皇、反正天皇 の同母弟 ↓↑ 皇后 忍 坂 大 中 姫 (おしさかのおおなかつひめ・稚渟毛二派皇子の女) 第一皇子 木梨軽皇子 (きなしのかるのみこ)皇太子 第一皇女 名形大娘皇女 (ながたのおおいらつめのみこ) 第二皇子 境黒彦皇子 (さかいのくろひこのみこ) 第三皇子 穴穂皇子 (あなほのみこ・安康天皇) 第二皇女 軽大娘皇女 (かるのおおいらつめのみこ) 第四皇子 八釣白彦皇子 (やつりのしらひこのみこ) 第五皇子 大泊瀬稚武皇子 (おおはつせわかたけるのみこ・雄略天皇) 第三皇女 但馬橘大娘皇女 (たじまのたちばなのおおいらつめのみこ) 第四皇女 酒見皇女 (さかみのひめみこ) ↓↑ 妃 弟姫(おとひめ・衣通郎姫(そとおりのいらつめ) 皇后の妹 『古事記』では 藤 原 琴 節 郎 女 (ふじわらのことふしのいらつめ) と同一人物・・・ ↓↑ 都は 遠 飛 鳥 宮 (とおつあすかのみや) 奈良県 高市郡 明日香村飛鳥? 飛鳥の地に宮を設けた初めての天皇 ↓↑ 『日本書紀』 反正天皇五年一月 反正天皇が 皇太子を定めずして崩御 雄朝津間稚子宿禰尊 を天皇(大王)に推挙 尊は病気を理由に再三辞退 允恭天皇元年十二月 忍坂大中姫 の強い要請を受け即位 3年8月 新羅から医者を招聘、天皇の病気を治療 4年9月 諸氏族の氏姓の乱れを正すため、 飛鳥甘樫丘にて 盟神探湯(くがたち)を実施 5年7月 玉田宿禰(葛城襲津彦の孫) の叛意が露顕、誅殺 7年12月 皇后の妹 衣通郎姫を入内 皇后の不興を買い、 藤原宮(奈良県橿原市)に住まわせる 8年2月 衣通郎姫が皇后の嫉妬を理由に 茅渟宮(ちぬのみや・大阪府泉佐野市)へ移る 天皇は遊猟にかこつけて 郎姫の許に行幸を続けたが、 10年に皇后に諌められ、 その後の 茅渟行幸は稀になった 24年6月 皇太子の 木梨軽皇子 と 同母妹の 軽大娘皇女の 近親相姦が発覚 (古事記) 木梨軽皇子を廃太子 伊予に配流(→衣通姫伝説) 42年1月 崩御 新羅王はこれを悲しみ、弔使 『古事記』『旧事紀』 に78歳 『愚管抄』『神皇正統記』 に80歳 北野本『日本書紀』に 81歳(一本68歳)・・・ 陵(みささぎ) 大阪府藤井寺市国府1丁目 惠我長野北陵(恵我長野北陵)に治定 公式形式は前方後円 考古学名は 市ノ山古墳(前方後円墳・全長228m) 大阪府藤井寺市津堂にある宮内庁の 藤井寺陵墓参考地では 允恭天皇が被葬候補者に想定 考古学名は 津堂城山古墳 ーーーーー ・・・「允-恭(イン-ギョウ)」・・・木戸孝允・・・
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