「百姓一揆」・・・「百姓」が結果、勝利した歴史はない
2022/12/26・月曜日・・・追加添文・・・
Xmasが終わった・・・
かっては
「12月25日は冬至」だった・・・
12月=子月(ねづき)・・・子=思想=思想家=子供・・・
子=ねずみ=鼠=鼡=rat(ラット)=mouse(マウス)
移鼠=イエス・キリスト mouth(口)
太陽の再生・元に戻ること・・・蘇生・・・蘇我・・・
「冬至には太陽の力が最も弱まった日を無事過ぎ去ったことを祝って
世界各地で冬至祭が祝われる
クリスマスも
イラン発祥の
ミトラ教の冬至祭儀
ドイツ北欧のキリスト教以前の
ゲルマン人の冬至祭(ウィキペディア(Wikipedia))」
大雪→冬至→小寒(第23)→大寒(第24)
↓↑
天文・二十四節気 平気法
冬至=1年周期の開始
24時間に十二支を配当すると
子の時刻=午後11:00~午前0:59
で
24節気に配当すると
日付の切り替わる午前0:00が
一年周期の切り替わる冬至の位置と重なる
周王朝初期に
北斗七星が
冬至の頃の夕方に
北を向いていた・・・
十二支の1番目の
「子」を
正月に置く「周正(周王朝の正月)」に正当性があり
十二支の1番目である
節入り
子月最初の
冬至を起点にする
↓↑
朔旦冬至
夏王朝以前や周王朝では
冬至を1年の始まり
冬至を
「唐(から)正月」
中国=冬至を元旦
夏正(夏王朝の正月)を基にした
太陰太陽暦では
冬至を含む月を
11月と定義
19年に1度(西暦4桁で19の倍数年)
冬至の日が
「11月1日」
となる
これを
「朔旦冬至(サクタントウジ)・・・策譚当時?
↓↑
太陰太陽暦では
19年間に
7回の閏月を入れる(19年7閏)周期を
「章」と称し
古い章から新しい章への切り替えとなる年を
新しい章の最初の年=「章首」と呼んだ
章首の年には
前の章の締めくくりに当たる
7番目の閏月を迎え
その後に到来するその年の冬至をもって
新しい章の開始とされた
その章首における
冬至の日は
必ず
朔旦冬至となるように
暦法が作られるのが原則とされた
↓↑
朔旦冬至
19年7閏原則に基づく暦が運用
朔旦冬至は盛大に祝われ
659年
偶々遣唐使が
唐の都・洛陽に滞在中で
儀式への参加が許された
日本
桓武天皇
784年
朔旦冬至儀式が行われた
「11月1日」は
元々翌年の暦を
天皇に奏進する御暦奏も行われていた
↓↑
1786年
光格天皇の時
朔旦冬至の儀式が行われたのが最後
1870年の
朔旦冬至の際に
明治政府は
古い因習として儀式は行わないこととした
次の
朔旦冬至
2052年
2014年の19年後
2033年が朔旦冬至にならないのは
冬至を含む日と
朔を含む日が一致しない
5時間差ながら日を跨いでしまうことが原因
↓↑
・・・「第百回全国高校野球選手権記念大会・高校野球・甲子園決勝 大阪桐蔭13―2金足農」・・・「平成最後の百姓一揆」・・・「百姓一揆」で「百姓」が結果、勝利した歴史はないし、「日本の百姓一揆」は政治支配体制の変革でも、権力奪取でもなく、支配階級に対する「嘆願・請願」で終わった・・・もちろん、暴動、騒動だから「百姓」の「一揆」の敗北は前提でもあった・・・搾取対象の「百姓」をスベテ抹殺するわけにはいかないから、扇動者だけを殺した・・・ 例外は支配者をオン出し、追放し、地域自治を「国人政治」とした「くに」があったらしいのだが・・・これって「忍びのクニ」?・・・ 「山城国一揆(やましろのくにいっき)は、文明十七年(1485年)、山城国(現在の京都府南部)南半の上三郡(久世郡、綴喜郡、相楽郡)で国人や農民が協力し、守護大名畠山氏の政治的影響力を排除し、以後8年間自治を行った」・・・ナンで、「文明十七年」で、「八年間の自治(ジチ)」なんだか?・・・字知・事知・時知・耳知・・・? 「国人が起こした一揆=国人一揆」、「惣国一揆=惣村(そうそん)は、中世日本における百姓の自治的・地縁的結合による共同組織(村落形態)を指す。惣(そう)」・・・「惣=物+心=共同組織」・・・なるほど、ザ、わぁーるど・・・ 「桐蔭=瑞鳥の鳳凰が桐の葉の陰で休み、力を蓄える・・・花札で桐に鳳凰(yahoo・知恵袋)」・・・「松陰」のモジリ?じゃないんだ・・・ 「金足=秋田市金足(かなあし)追分の三叉路=江戸時代末は、なにもない砂丘のふもとで、羽州街道と男鹿街道の追分」・・・ 秋田は「古事記の登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)=登美毘古(トミビコ)の兄弟、安日彦(アビヒコ)⇔阿比毘古(安日王・阿比古・阿彦⇔居多神社)」、「安日彦=長髄彦の兄、彼と共に青森県の弘前に逃れたとも、単独で津軽地方に流されたとも」・・・ が逃げてきた場所だから・・・ 「金足=キンソク=禁足・禁則⇔藤原(中臣)鎌足(鎌子)⇔榎本武揚(釜次郎)」のモジリじゃないのか?・・・いずれも「百=もも」・・・桃尻(木兆尸九)の百済・・・? 以上も以下もぜェ~んぶ、原文は「wikipedia」・・・イチャモンの「・・・」と「・・・モジ」はボクのカンジたカンソウ・・・ ーーーーー 賛助金を「年貢」 金足農業の快進撃を 「平成最後の百姓一揆」 とたとえる人が続出・・・ 平成最後の百姓一揆 ↓↑ 実際の「最後の百姓一揆」 1875年(明治八年)に起きた 伊勢暴動や 1876年 九州における西南戦争下の諸一揆 ↓↑ 1875年の伊勢暴動(いせぼうどう) や翌年の九州における 西南戦争下の諸一揆が最後の百姓一揆 以降の農民闘争・民衆運動は 自由民権運動や小作騒動へと受け継がれた・・・ ↓↑ 平成最後の百姓一揆タグ誕生 なまはげも泣かされる感動 勝ちすぎて宿泊費不足→金不足農業高校・寄付する→「年貢納める」(振込先は秋田なまはげ農協) 吉田投手母「(鍛えすぎてしゃがむ度に破ける)」 ↓↑ ↓↑ 「1918年夏の米騒動 の残っている 証言・資料に現れている 最も早い時点での行動は 東水橋町の 女性 陸仲仕たち20数人によって 7月上旬から始められた 移出米商 高松への積出停止の要求の行動 『米騒動の研究』(全5巻)」 ↓↑ 1918年米騒動 1918年(大正七年)に日本で発生した コメの価格急騰に伴う 暴動事件、米騒動 ↓↑ 肉や魚などの摂取が少なかった当時 日本人の食生活は穀物類が主体 特に肉体労働者は激務のため 1日に1升(1.8リットル)もの米を消費・・・ 米価の高騰は 家計を圧迫し 人々の生活を困窮させた ↓↑ 富山県中新川郡東水橋町(富山市) 1918年(大正七年) 「7月上旬」から、 「二十五六人」の 「女(陸)仲仕たちが移出米商高松へ 積出し停止要求に日参する」 行動が始まっている ↓↑ 7月22日の昼 富山市中長江町ほかで 富豪浅田家の 施米にもれた 細民200名 (「杖にすがった むさ苦しい婆さん達もあれば 子供の手を曳いた女房連も」) が市役所に押し掛けた (7月23日『北陸政報』) 記事には、 「昨今の米高が 如何に細民をして 生活難に陥らしめているが窺われる」 と記している 同日夜間 富山県下新川郡魚津町の魚津港には 北海道への米の輸送を行うため 「伊吹丸」・・・・息吹山、伊吹山・・・白猪の神⇔ヤマトタケル が寄航していたという この時は巡回中の 警官の説諭によって解散させられたが 住民らは米商店を歴訪するなど窮状を訴えた 荷積みを行っていたのは 十二銀行(北陸銀行)であった 同年7月24日、25日の 『北陸タイムズ』で それぞれ 「二十日未明同海岸に於いて 女房共 四十六人集合し 役場へ押し寄せんとせしを いち早く 魚津警察署に於いて探知し」 「二十日未明海岸に集合せしを 警察署がいち早く探知し 解散せしめ」 と魚津の動きが 20日未明(19日夜間)から 起きていたと報じている 8月9日の 『高岡新報』は 「魚津町にては、 米積み込みの為 客月一八日 汽船伊吹丸寄港に際し 細民婦女の一揆が起こり 狼煙を上げたる」 と、 魚津でも 7月18日以来 一揆が起きていることを記している その頃 東水橋町、富山市、魚津町以外にも 東岩瀬町(28日) 滑川町、泊町(31日)等 富山県内での救助要請や 米の廉売を要望する人数はさらに増加し 各地で動きが起きていた ↓↑ 翌月8月3日 当時の 中新川郡西水橋町(富山市)で 200名弱の町民が集結し 米問屋や資産家に対し 米の移出を停止し 販売するよう嘆願した ↓↑ 8月6日 東水橋町 滑川町の住民も巻き込み 1,000名を超える事態となった 住民らは 米の移出を実力行使で阻止し 当時1升 40銭から50銭の相場だった米を 35銭で販売させた ↓↑ 大阪堂島の米市場の記録 1918年(大正7年) 1月に1石15円だった米価は 6月には20円を超え 7月17日には30円を超えた (当時の一般社会人の 月収が18円~25円) 7月末~8月初めにかけて 各地の取引所で立会い中止が相次ぎ 地方からの米の出回りが減じ 8月7日 白米小売相場は 1升50銭に暴騰 ↓↑ 地主や商人は米を 米穀投機へ回すようになり 次第に売り惜しみや買い占めが発生 仲小路廉農商務大臣は 1917年(大正六年)9月1日に 「暴利取締令」を出し 米・鉄・石炭・綿・紙・染料・薬品 の買い占めや売り惜しみを禁止した 無効果 口語の動詞 「ぼる・ぼられる・ぼったくる (暴る、暴られる、暴ったくる)」 は、「暴利取締令」の「暴利」に由来 ↓↑ 1918年(大正七年)4月 「外米管理令」が公布 三井物産 鈴木商店 など指定七社による 外国米の大量輸入が実施 が、米価引下げには至らなかった ↓↑ 寺内内閣 1918年(大正七年)8月2日 シベリア出兵を宣言 この宣言は 流通業者や商人などが 戦争特需における 物資高騰を狙い 売り惜しみを加速させた 神戸米会所の相場で 7月2日に1升34銭3厘 8月1日に 40銭5厘 8月9日に 60銭8厘 前後して 富山県でのコメ騒動が発生 シベリア出兵と米騒動の因果関係・・・ ↓↑ 第一次世界大戦による好景気 1918年(大正7年) 伊勢の 福寅一派の 相場師の買いあおりにより 米穀取引所における 期米相場は 50円(1石当たり)に迫り 小売価格も 1升30銭~50銭を超す ↓↑ 1918年(大正七年) 8月1日 1石35円を超え 同5日には40円を超え 9日には50円を超えた 8月10日 京都市と名古屋市を皮切りに 全国の主要都市で米騒動が発生 8月12日 鈴木商店が 大阪朝日新聞により 米の買い占めを行っている 悪徳業者である (米一石一円の手数料をとっている) との捏造造記事?を書かれ 焼き打ちに遭った 米騒動は 移出の取り止め 安売りの哀願から始まり 次第に 寄付の強要 打ちこわし に発展 10日夜 名古屋鶴舞公園で 米価問題に関する市民大会が開かれるとの噂 約20,000人の群集が集結 京都で 柳原町(京都市下京区の崇仁地区) で騒動が始まり 米問屋を打ち壊すなどして 1升30銭での販売を強要 ↓↑ 東京市 8月10日 宮武外骨を発起人とし 山本懸蔵ら政治・労働運動弁士による 野外演説会を 日比谷公園で 8月13日に開催する広告 警察が禁止の決定 当日には 約2,000人の参加者が野外音楽堂に集まった 200人の警官が包囲する中で行われた 即席の演説会は、聴衆の中から登壇する者も現れ 怒号と興奮 警官との衝突に発展し 暴徒となった群衆は3派に分かれ 派出所や商業施設への投石 電車や自動車の破壊 吉原遊郭への襲撃・放火 浅草方面に向かった一派は 翌14日に 浅草・本庄近辺の米商に押し寄せ 暴力的な廉売交渉 8月15日 軍が出動し 16日 暴動は鎮圧され 総計299人が検挙 「値下げを強要すれば安く米が手に入る」 8月17日頃から 都市部から町や農村へ 8月20日までにほぼ全国へ波及 騒動は 米問屋から炭坑へと 9月12日 三池炭坑の騒動終了まで 50日間を数えた ↓↑ 8月17日以降 米騒動は 山口県や北九州の 炭坑騒動へ飛び火 山口県沖の山炭坑 福岡県峰地炭坑など 炭坑夫の賃上げ要求が暴動に転化 沖の山炭坑の騒動 住民を加え数千人規模の騒動に発展 米問屋、屋敷の打ち毀し 遊郭への放火などが起こった 出動した軍隊に対し ダイナマイトで対抗するなど(陸軍のねつ造?) 死者13名を数える惨事 陸軍が発砲理由とした 坑夫のダイナマイト(爆弾)使用は 陸軍が発砲を正当化するために ねつ造したコメントを 『大阪朝日新聞』(大正7年8月23日付) などが取材なしに 記事化した・・・ ↓↑ 一連の騒動は最終的に 1道3府37県の 計369か所 参加者は数百万人 出動した軍隊は 3府23県 10万人以上が投入 呉市では 海軍陸戦隊が出動 民衆と対峙する中 銃剣で刺されたことによる死者が2名 検挙人員は 25,000人を超え 8253名が検事処分を受けた 7786名が起訴され 第一審で 無期懲役が12名 10年以上の有期刑が59名 一部民衆を扇動したとして 和歌山県で2名が死刑判決 ↓↑ 米騒動での刑事処分者 8185人 被差別からはそのうちの1割の処分者 の多い京都府、大阪府、兵庫県、奈良県では 3割から4割が被差別民 女性の検挙者35人のうち34人が民 ↓↑ 1920年(大正九年) 原内閣は 部落改善費5万円を計上 部落改善のための最初の国庫支出を行った 内務省は省内に 社会局を設置 府県などの地方庁にも社会課を設けた ↓↑ 呉市 水兵が騒動に参加し検挙 一部の地域では制止すべき 警官が暴動を黙認 ↓↑ 8月13日 政府は 1000万円の国費を 米価対策資金として支出する事を発表 各都道府県に向けて米の安売りを実施させた 騒動の結果、米価が下落したとの印象があるとの理由から 8月28日にはこの指令を撤回 安売りを打ち切った 発表時の4割程度の支出に留まり 米価格の下落には至らず 1918年(大正七年)末 米騒動当時の価格まで上昇 国民の実質収入増加によって 騒動が再発することはなかった ↓↑ 全国 中等学校 優勝 野球大会の中止 この騒動は 全国中等学校優勝野球大会 (全国高等学校野球選手権大会) に影響 ↓↑ 8月11日 神戸市で始まった騒動により 当時の会場だった 鳴尾球場に程近い 鈴木商店で焼き打ち事件が発生 ↓↑ 8月14日 開催予定だった 第4回 全国中等学校 優勝 野球大会は 一旦延期 その後も 治安改善の見通しが立たず 8月16日に大会の中止が決定 ↓↑ 米騒動の影響で 寺内内閣の退陣を求め 寺内は体調不良もあり 8月31日に 山縣有朋に辞意を告げ 9月21日に正式に辞表を提出 ↓↑ 山縣は西園寺公望に組閣を命じたが 西園寺はこれを固辞し 原敬を推薦 9月27日 原に組閣が命じられ 日本で初の 本格的な政党内閣 原内閣が誕生 爵位を持たない 衆議院議員を首相とする 初の内閣 民衆からは 「平民宰相」と呼ばれ、歓迎された ーーーーー ・・・???・・・
・・・「十三湊(とさみなと)」の壊滅・・・ナンで「とさみなと」なんだか?・・・「土佐港」・・・ ーーーーー 安日彦(アビヒコ)=安日王・・・我孫子(あびこ) =安日長髄彦 阿毎=阿部・安陪・安倍・阿倍・阿邊(阿辺) 阿武・安歩・焙・虻・炙 那賀須泥毘古(古事記) 登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ) 登美毘古(トミビコ) 神武東征に抵抗した河内の豪族の長 安日彦(アビヒコ)という兄がいた・・・ 鎌倉~室町期成立の 『曽我物語』に 蝦夷の祖を 流罪にされた 鬼王安日・・・・鬼室福信=?~663年=扶余福信 ↓↑ 百済の王族・将軍 義慈王の父で 百済 第三十代武王(余璋)の甥 官位は恩率(三品官)、のち佐平(一品官) 鬼室氏の祖 白村江の戦い(663年)以前に 倭国と百済の連合軍が大敗 ↓↑ 鬼宿=和名は魂緒の星(たまおのほし) 魂讚星(たまほめぼし) 二十八宿の一 南方朱雀七宿の第2宿 ↓↑ 距星はかに座θ星 とする伝承が記載 長髄彦の兄 彼と共に青森県の弘前に逃れた or 単独で津軽地方に流された・・・ 事記や日本書紀には 安日彦の名は記録されていない ↓↑ 長髄彦一人が大和で死なず 東北に落ち延びた(塩釜神社伝承) 長髄彦(兄の安日彦または兄弟2人)が 津軽に逃げてきたという伝承は 中世以降の創作・・・ ↓↑ 登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ) 登美毘古(トミビコ) ↓↑ 饒速日命の手によって殺された ・・・或いは失脚後に故地に留まり死去 自らを後裔と主張する 矢追氏による自死したという説も・・・ ↓↑ 旧添下郡 鳥見郷(生駒市北部・奈良市富雄地方)付近 あるいは 桜井市付近に勢力を持った豪族 長髄=邑の名(記紀) ↓↑ 登美夜毘売(トミヤヒメ)=三炊屋媛(ミカシキヤヒメ) 登美夜須毘売(トミヤスヒメ) ↓↑ 登美毘古(トミビコ)の 妹を ↓↑ 天の磐舟で・・・磐舟=UFO? 斑鳩の峰 白庭山に降臨した 饒速日命(ニギハヤヒノミコト) 饒速日=邇藝速日(古事記) ↓↑ 櫛玉命(くしたまのみこと) 飛行神社 京都府八幡市にある神社 飛行機の神 饒速日命と航空事故の犠牲者などを祀る ギリシャ風の拝殿を持っている 日本で最初に飛行原理を研究した 二宮忠八・・・日本で初めて動力つき模型飛行実験に成功 が創建(1915年・大正四年) 1936年(昭和十一年)・・・十一念? 忠八の死により廃絶・・・・注葉知? 1955年(昭和三十年) 忠八の息子 二宮顕次郎・・・・・・・・顕(日並頁)の 次(似素意)の 郎(良阝=邑=大里=都) ↓↑ によって再興 天照国照彦-火明-櫛玉(奇霊・奇魂)-饒 速日命 ↓↑ =邇藝速日(古事記) ↓↑ 物部氏、穂積氏、采女氏、熊野国造らの祖神・・・ ↓↑ の妻とし、仕え・・・「宇摩志麻遅命=可美真手」を産んだ 中世の武将の 伊達家が長髄彦の子孫・・・ 神武天皇が 浪速国 青雲の 白肩津に到着したのち 孔舎衛坂(くさえのさか)で迎え撃ち 天皇の兄の 五瀬命は 矢に当たって負傷、死亡 後 八十梟帥 兄磯城 を討った皇軍と再び戦い敗北 金色の鳶が飛んでき 神武天皇の 弓弭に止まり 長髄彦の軍は 眼が眩み、敗戦 ーーーーー 秋田氏の系譜 先祖に由来する 「伊駒姓」 伊駒長脛(ナガスネ)のこと 生駒市北部 奈良市富雄を勢力範囲としていた古代の王 登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)=登美毘古(トミビコ) 神武東征に対し最大の抵抗をした豪族 ↓↑ 明治維新後 秋田田子爵家が宮内庁に系図を求められ 「安日長髄を先祖」とする一族の 「秋田家の系図」 「孝元天皇-開化天皇-大毘古命(大彦命)安倍将軍 是、安倍姓元祖-建沼川別命安倍将軍」 安日王 兄 長髄彦 弟 安国 安日後孫 安東(はる)崇紙天皇御宇 賞二軍功一賜二安倍姓一致(むね)東(はる) 号二奥州日下将軍一・・・日下将軍? ↓↑ 秋田市子爵家の後見職 秋田主税(ちから)は 「当家は姓を賜って 安倍を称した 安倍姓の祖系を先に掲げ 当家の年来の慣例 これを宮内省で 秋田家の系図として納めた」 大毘古命(大彦命)の末裔の安倍姓は 奥州の安倍氏とは血脈の上ではまったく関係がない ・・・(浪岡具雄の伝承)? ↓↑ 秋田氏=本姓が安藤(安東) 古代 陸奥国俘囚の長であった 安倍貞任の子孫・・・ 中世 今の秋田県北部から青森県全域、北海道南部までを勢力圏 津軽十三湊を本拠地 とし貿易や水軍活動 「蝦夷管領」 「日の本将軍」 と称された・・・ 後、 檜山安藤氏(下国家) と 湊安藤氏(上国家) に分かれ、南部氏の勢力に押され 出羽国に本拠地を移し 天正年間の 愛季に至り、両家が合体 愛季は 天正十七年(1589) 居城を檜山(能代市)から 湊(秋田市土崎)へ移し 律令官職である 「秋田城介」を名乗った 以後 秋田氏と称するが 本姓の安倍 従来の安藤(安東)姓が併用 先祖に由来する 伊駒姓も使用・・・ ↓↑ 長脛=イギリスの長脛王 エドワード1世(Edward I) 1239年6月17日~1307年7月7日・・・130777・・・? プランタジネット朝 イングランド王 在位1272年11月17日~1307年7月7日 渾名は 「Longshanks(ロングシャンクス・長い足・長脛王 身長が190cm) Hammer of the Scots(ハンマー・オブ・ザ・スコッツ スコットランド人への鉄槌)」 エドワード1世 (イングランド王) (Wikipedia) ーーーーー 突厥=前身は 阿史那(アシナ=蘆名・芦名・葦名・足名) 烏孫→阿史那→突厥 アシナ⇔アテネ(ギリシア語: Αθήνα; Athína Athinai・古代ギリシア語=Athēnai) ギリシャ共和国の首都 アッティカ地方の古代からの都市 アテナイ=Athēnai 現代ギリシア語文語 (カサレブサ) で アシネ=Athínai 現代ギリシア語口語 (ディモティキ) で アシナ=Athína アテネはラテン語 1970年代 カサレヴサ(文語)の使用が停止されるまで 公式名称は Ἀθῆναι=アシネ([aˈθine]) カサレヴサ廃止以降 Ἀθήνα=アシナ 女神アテナ・・・ゼウスの頭頂部より 武装して鎧を纏った姿で出現 と 海神ポセイドン との争い ポセイドンは三叉の槍(海軍力の象徴)で 地を突き海水を湧き出させ アテナは オリーヴの木を生い立たせ 国王ケクロプス、住民は オリーヴの木を択び アテナの名を都市の名とした アテネ市=τὸ κλεινὸν ἄστυ=栄光の都 古代ギリシアの詩人 ピンダロスが ἰοστέφανοι Ἀθᾶναι と呼んで 「紫冠の都(en:City of the Violet Crown)」 ーーーーー 突厥=前身は阿史那(アシナ=蘆名・芦名・葦名・足名) 烏孫→阿史那→突厥 アシナ⇔アテネ(ギリシア語: Αθήνα; Athína Athinai・古代ギリシア語=Athēnai) ギリシャ共和国の首都 アッティカ地方の古代からの都市 アテナイ=Athēnai 現代ギリシア語文語 (カサレブサ) で アシネ=Athínai 現代ギリシア語口語 (ディモティキ) で アシナ=Athína アテネはラテン語 1970年代 カサレヴサ(文語)の使用が停止されるまで 公式名称は Ἀθῆναι=アシネ([aˈθine]) カサレヴサ廃止以降 Ἀθήνα=アシナ 女神アテナ・・・ゼウスの頭頂部より 武装して鎧を纏った姿で出現 と 海神ポセイドン との争い ポセイドンは三叉の槍(海軍力の象徴)で 地を突き海水を湧き出させ アテナは オリーヴの木を生い立たせ 国王ケクロプス、住民は オリーヴの木を択び アテナの名を都市の名とした アテネ市=τὸ κλεινὸν ἄστυ=栄光の都 古代ギリシアの詩人 ピンダロスが ἰοστέφανοι Ἀθᾶναι と呼んで 「紫冠の都(en:City of the Violet Crown)」 ーーーーー 蘆名氏(あしなし) 桓武平氏系統の三浦氏から興った氏族 相模国 蘆名(横須賀市芦名、芦名城)の地名に由来 「芦名氏」「葦名氏」 「三浦芦名家」と表記される事もある 相模 蘆名氏 と 会津 蘆名氏の二つの系統が存在 通し字は 前者は「為」 後者は「盛」 蘆名 盛氏(あしな もりうじ) 戦国時代の陸奥国の武将・戦国大名 蘆名氏第十六代当主 ーーーーー 突厥=トゥルク 突厥の発祥 西海(地中海)から中央アジアへ移住 窮地を狼に救われた 烏孫=突厥 烏孫の移動ルート 『東日流外 三 郡 誌』 (つがるそとさんぐんし) 津軽地方支配の 荒吐族(あらはばきぞく) その王 阿倍氏⇒安東氏⇒秋田氏 その都 十三湊(とさみなと・青森県五所川原市の十三湖の辺り) ↓↑ 「アラハバキ」=縄文の遮光器土偶・・・ 「ナガスネヒコは 兄の 安日彦(アビヒコ)とともに 津軽に渡り 津軽の土着民 阿蘇辺族 津保化族 と併合し 荒吐族となった」・・・ 和邇氏(海神族)の協力を経て北上し 兄 安日彦(アビヒコ)とともに 青森県は津軽(東日流=つがる)に落ち着いた 大阪の十三(じゅうそう)や 十三湊(とさみなと) という地名は アビヒコの弟 トミヒコ(ナガスネヒコ)が語源 ーーーーー ・・・ 鎌倉時代後期 豪族・安東氏(津軽安藤氏)の本拠地 和人と蝦夷地のアイヌとの交易拠点 文明年間(1469~87年間・戦国時代初期 or戦国時代末期(16世紀末、17世紀初頭)・・・ 日本最古の海洋法規集『廻船式目』が 「三津七湊」について 七湊の一つとして 「奥州津軽十三湊」記録 後代 朝鮮半島や中国などと交易・・・ 遺跡は東西に延びる土塁を境に 北側には安東氏や家臣たちの館 南側には町屋が整然と配置 室町時代中期 安東氏が南部氏に敗れて支配地を失って 夷島(蝦夷地)へ逃げ 十三湊は衰微し 和人・蝦夷間の交易拠点としての地位は 野辺地湊(野辺地湾に面する湊・上北郡野辺地町域) 盛岡藩の北の門戸へ移った 大浜=大濱(青森市油川地区) 飛砂が堆積して水深が浅くなり 港としての機能は低下 16世紀後半から再び整備復興 江戸時代 岩木川を下ってきた米を 十三湊から 鯵ヶ沢湊(西津軽郡鰺ヶ沢町域)へと運ぶ 「十三小廻し」が行われた ↓↑ 『東日流外三郡誌』 興国元年(1340年・南北朝時代初期) 大海嘯(大津波)によって 十三湊は壊滅的被害 安東氏の政権は崩壊・・・ 発掘調査で津波の痕跡は無し? 興国二年以後 十三湊は重要な湊として数々の文献に記録 1993年(平成五年) 青森県古文書研究会が 同書を偽書と断じた・・・?・・・偽書を作った理由はナニ? 弘前大学の発掘調査により 正確な年代こそ不詳ながら 十三湊を襲った津波の痕跡であろう 泥の堆積が2層以上確認 津波の試練は幾度もあった・・・? ↓↑ 12世紀(平安後期) 平安期の当地域周辺に見られた 区画集落群の人為的廃絶 在地豪族層による広域支配体制の確立 鎌倉時代初頭 津軽地方一帯は 鎌倉幕府支配体制下 古十三湖の周辺地域は幕府支配下で 「西浜」と呼ばれる 13世紀初頭(鎌倉時代後期前葉) 西浜で十三湊 蝦夷沙汰職(蝦夷管領)を務めた 安東氏(津軽安藤氏)の許で繁栄 15世紀半ば(戦国時代初頭) 安東氏(津軽安藤氏)が 南部氏に敗れて支配地を失い 夷島(えぞがしま。蝦夷地)へ逃亡 十三湊は衰退
・・・台風20号・・・北海道直前で温帯低気圧になった・・・大雨・・・手の指が「ふやけて皺々(しわしわ)になる理由」・・・滑り止め・・・「辷(辶+一・すべ)り止め」・・・ 辷(すべる)=物の表面をなめらかに動くこと、移動すること 表面がなめらかな所で安定を失い 自然に動いたり、倒れてしまうこと なめらかにすり抜けて落ちる 国字 すべる・なめらかに進む・失敗する・しりぞく 「花火」は「お払い」・・・ 滑る=氵+骨 すべる・なめらか・ぬめる・カツ・コツ すべる=統べる・総べる⇔スバル 円滑・潤滑・滑液・平滑・円転滑脱 滑空・滑降・滑車・滑走・滑落 秩序を乱す 滑稽・・・狡猾・・・ 異体字は「猾・抇・磆・㹟・狤・狯・獪」 「骨=関節のなめらかに動く機能性」=「滑る」 骨=冎+月=冂+F+冖+月(肉・冃) 冎(カ)=骨、削る 冎(カ)=穴にはまりこむ関節の骨を描いた図形 冎=異体字は叧・剮 関節を象る・骨の初文 咼=冎+口・・・渦・過・鍋・禍・鍋・堝・蝸・窩
総べる=すべる=滑る=氵+骨
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http://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2018/07/20/%E8%AB%96%E7%90%86%E5%AD%A6%E3%83%BB%E7%AF%84%E7%96%87%E8%AB%96%E3%83%BB%E6%A6%82%E5%BF%B5%E8%AB%96%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E6%84%9B%E3%81%AE%E7%8F%BE%E5%AE%9F%E8%AB%96%EF%BC%882%EF%BC%89 ーーーー オシリス(Osiris)=古代エジプト神話に登場する神の一柱 オシリスとはギリシャ語読み エジプト語では Asar (アサル) ・Aser (アセル) Ausar(アウサル)・Ausare(アウサレ) Ausir(アウシル) Wesir(ウェシル) Usir (ウシル) ・Usire (ウシレ) とも呼ぶ・・・50以上の名称があり 猟犬の頭とも、Alhador 冥界(めいかい)の王 死と復活の神 ゲブ(地)とヌート(天)の子 イシス、ネフティス、セトの4兄弟の長兄 イシスの夫・ホルスの父 セトに殺されて体をバラバラに13に分解される イシスによって蘇生 ↓↑ アヌビス(Anubis・エジプト語ラテン文字転写:inpu) 古代ギリシア語: Ἄνουβις (Ánūbis) 冥界の神 リコポリスの守護神・聖地の主人(nb-ta- djsr) 自らの山に居る者(tpi-dju=f) ミイラを布で包む者(imiut) 医学の神 などの異名 ミイラづくりの神 犬またはジャッカルの頭部を持つ半獣 ジャッカルそのもの ジャッカル・ジャコール(胡狼・Jackal) キンイロジャッカルに似た中小型種3–4種の総称 漢字では犴(かん)、野犴(やかん)、射干(やかん) ジャッカルのいない中国では 狐と混同され 日本には野干は狐のこととして伝えられた 「ダーキニー(荼枳尼)の乗り物は ジャッカル(野干)で 中国・日本に伝わったさいに狐に乗るとされた」・・・ オオカミに似るが 耳は大きく 体は薄い金色〜黄褐色 背と尾は黒色の毛が多い 墓場の周囲を徘徊する 犬、ジャッカルが死者を守っている オシリスが 冥界アアルの王となる以前の冥界を支配、管理 オシリスが冥界の王となった後 彼を補佐し ラーの天秤を用いて 死者の罪を量る役目を担う アヌビスヒヒ (Papio anubis・犬のような頭部を持つヒヒ) ↓↑
シリウス(Sirius)=おおいぬ座で最も明るい恒星 伴星=シリウスAとシリウスB 全天21の1等星の1 おおいぬ座α星 (α-CMa ) 天狼(Sirius)・Dog Star 牝狼の乳で育ったロームルスとレムス ナイル川の氾濫時期を知らせてくれる星 ヒライアカル・ライジング=ある天体が 太陽を伴って東の地平線から昇る現象 伴日出(はんにちしゅつ) 日出昇天(にっしゅつしょうてん) とも シリウスが ヒライアカル・ライジングを 起こす約70日後に 夏至とナイル川の氾濫が起きる
↓↑ ソプデト(Sopdet)=セペデト(Sepedet) 古代エジプトの豊穣の女神 「尖ったもの、鋭いもの」のを意味する 「spd(ソプドあるいはセペド)」 シリウス星が神格化 古ラテン語でソティス(Sothis=水の上の星) ソプデト=ソティスを表す聖獣は 雌犬(古くは牝牛) ソプデトはイシスの化身 シリウス星=「ナイルの星・イシスの星」 シリウス星はヘブライ語では 「シホール(Sihor)」と呼ばれた ヒエログリフでは ソプデトを「△(三角形)」 ↓↑ アアル(Aaru、Yaaru、Iaru・Aalu) 古代エジプト神話の楽園 ・・・あァる・・・???・・・
ーーーーー ・・・???・・・ ↓↑ ↓↑ 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
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