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「羆(ひぐま)=罒+ム+月(肉)+ヒ+ヒ+灬」

2023/1/23・月曜日・・・追加添文・・・

 クマにコダワル前に・・・と、PCを開けたが・・・

・・・夜の21時になりました・・・

「PC」の初期設定で

「ホーム・ページ・ビルダー・6」

の機能設定は保持されていなかった・・・

設定方法・・・

もう、10数年前の昔々に設定・・・忘却・・・

新品で購入した「NECのデスクトップ」・・・

購入先の担当者に

「ホーム・ページ・ビルダー・6」

以外は設定してもらったが

スグにイカレて

画面は真っ黒で起動しない・・・

幸いにも

一年間の保証付きだったので

壹週間くらいで修理から戻ってきた・・・

その後

「ホーム・ページ・ビルダー・6」

も自分で設定して起動・・・順調・・・

だが

去年の大雪・・・年末の「紅白」が迫っているときに

「au・Mi-Fiのギャラクシー」

が繋がらなくなった・・・

イジっているうちに

「設定画面」の

「非表示のインターネット」

の画面表示自体が出てこなくなった・・・

厄事パターンは

今回(1/17)と全く同じで

「表示」されなくなって

御手上げ・・・

で、その時は

PCを購入した販売店契約の

有料修理屋さんに

「SOS」で来てもらったが・・・

彼の1時間程度の操作で起動した・・・

原因、訊いてみたが、

PC、Mi-Fi(マイファイ)、

双方の機械には異常が無いとのコト・・・

で、

更に訊くと

「多分、電波障害だと思います」

だった・・・

「電波障害です・・かぁ~ッ」・・・

で、

1月17、18、19、20日・・・

自分の悪戦苦闘の結果・・・

「PC初期設定」後

理由もワカらず、理解もできず?

回復起動・・・

で、

「ホーム・ページ・ビルダー・6」

の機能は消滅されていた・・・

で、

deskを探し出して・・・

設定・・・

起動して使用可能になって

新規画像も編集し、保存もしたが・・・

保存先を間違えたのか・・・

保存したハズの絵、3点が発見できない・・・

・・・ギャラリー(gallery)に無い・・・

何故か

・・・ドキュメント(document)に保存してあった・・・

・・・知識不足、度忘れ、キカイ音痴の愚痴の顚末・・・

・・・昨夜も「ドック(DOC)」を観た・・・

命ある人間・・・複雑・・・

腐汚沈・・・クタバレッ・・・

 ・・・「熊(くま・ユウ)」・・・九州熊本(肥後・隈元)・・・「球磨」、「久万」・・・「阿(くま・おもねる)」、「隅(くま・すみ)」、「嵎(くま)=山+禺(尾長猿・大頭で尾の長い猿・わかち・区別・区域・グ・グウ)」・・・「禺=甲+禸(冂ム)天」・・・「禸=獣の足跡」・・・「ム=獣の足が地面を踏んだものの象形」・・・「ム」は「私(わたくし・シ)」の源字・・・ならば「禸=冂(さく・かこう・ケイ・キョウ・けいがまえ(冏構・冋構)、まきがまえ(牧構)、柵)+ム」は「囲われた中の私=捕虜・虜(とりこ)」・・・人質・・・ ーーーーー  熊=熋・・・「灬=火」     ・・・「羆(ひぐま)=罒+ム+月(肉)+ヒ+ヒ+灬」  御池←双子石←高千穂峰←御鉢←古宮址(布留宮)←高千穂河原←  ↓↑  熋=熱の別字(集韻)・・・熱=坴(十一八十一)+丸+灬  ↓↑             坴=高い土盛りをした場所                   寄せ集まる  焦熱地獄=殺生・盗み・邪淫・飲酒・妄語・邪見      の罪を犯したものが落ちる      大鉢特摩処(だいはちとくましょ)      大焼処(だいしょうしょ)      龍旋処(りゅうせんじょ)      鉄钁処(てっかくしょ)      「平等受苦無力無救・火常熱沸・鋸葉水生       極利刀鬘・極熱沸水・多饒悪蛇」       の巨大な       罪人を・・・在任       煮る・・・・似る       釜・・・・・鎌・窯・竃・蒲          ・・・蝦蟇(がま)蛙(かえる)  ↓↑  大自在天(ダイジザイテン)  梵語、Maheśvara、マヘーシュヴァラ       音写  摩醯首羅(マケイシュラ)  ヒンドゥー教の  シヴァ神  仏教では  自在天外道の主神  ↓↑  大聖歓喜自在天  他化自在天  と名称が似て混同  妻は  烏摩妃(パールヴァティー)・・・烏の摩の妃  ↓↑  色界の頂にありて  三千世界の主  大自在天は・・・自在鉤(かぎ)=炉・竈(かまど)などの          上から下げつるし、鍋・釜(かま)          鉄瓶(壜・びん)などを掛けるかぎ          掛けたものの高さを自由に変えられる          自在は任意に調節可能  他化自在天と  名称が似ているので  混同される  他化自在天は  欲界の  六欲天の  最上位の  天の名称  大自在天は  色界>四禅天>五浄居天>色究竟天  に在す  天神の名称  ↓↑  バラモン教(ヒンドゥー教)で  世界を創造し支配する最高神  サンスクリット語で  Īśvara(イーシュヴァラ・自在天)  という  シヴァ神の別名  仏教では  イーシュヴァラ  マヘーシュヴァラ  はそれぞれ  自在天  大自在天  と漢訳  異名は千以上ある・・・  ↓↑  仏教で  シヴァ神と同じく  三目八臂で  白牛に乗り  外道(仏教以外)と  同様の神像で表現される  密教の曼荼羅などで  諸尊の一神  曼荼羅では  男女一対で表され  妃を  烏摩妃(うまひ)  という  また仏や菩薩の化身・・・  大自在天には  以下の2種類がある・・・  ↓↑  毘舎闍摩醯首羅  (びしゃじゃ・まけいしゅら・Piśāca-maheśvara)  毘舎闍  (ピシャーチャ・Piśāca)  は鬼類の名前  摩醯首羅論師の祀る所で  二目八臂あって  白牛に乗り  色界に住す  密教ではこれを  大日如来の応現身  自在天は  種々の形を現じて  種々の名前を持つ  韋紐天、那羅延天、伊舎那天  など  「提婆涅槃論」  には20種の外道が説かれる・・・  毘舎闍摩醯首羅をもって  第15の  摩醯首羅論師  とし、  大般涅槃経19にも  六師外道の1人である  迦羅鳩駄迦旃延  (からくだかせんえん・パクダ・カッチャーヤナ)  がこれを宗旨  中古期以来から  シヴァ派のシヴァ神は  この大自在天にして  牛または  男根をもって神体を標識とする  浄居摩醯首羅  (じょうご・まけいしゅら)  菩薩が  第十地(菩薩の五十二位の50位目・法雲地)  から、まさに成仏せんとする時に  色界の頂である  五浄居天の上(色究竟天)において  大自在天子の勝報を現じ  勝妙の天形を以て仏位を紹ぐ灌頂を行う  菅原道真の  御霊(ごりょう)に  「天満大自在天神」の神号が追贈  御霊の威力を  大自在天に習合させたもの  ↓↑  密教では妻の  烏摩妃(パールヴァティー)  と共に  降三世明王  に踏みつけられている  ↓↑  仏説大自在天子因地経(北宋・施護訳)  によると  大自在天は崑崙山に  烏摩妃ととも住んでおり  遠い過去の仏の出世の時に  四人の修行者がいて発願し  それぞれが  梵天王、那羅延天、大自在天、仏世尊  になった・・・  彼の大自在天の所生を  此身甚だ希有なりとし、  彼は梵天より人間に下降して  寒林中の幻化という  餓鬼女と交わり、  自らその子になって生まれた・・・  ↓↑  大自在天が生まれた時  鬼神衆や諸天梵天が集まり  彼を礼拝  梵天王は自らの  五つの頭の一つが醜悪であったため  取ることを願い  大自在天は  大鷹の身に変じてそれを摘去した  手に梵天の頭を持つ・・・  ↓↑  大自在天は万物の生本たる義によって  シヴァ派の人々は  人間の男根を天神の神実として祀る  シヴァ神はリンガ(男根)を象徴とし  男根崇拝と結びついて崇められる  続高僧伝玄奘伝  西域記健駄羅国記  玄応音義25  大智度論5  同10  などの文献にもその痕跡・・・  ↓↑  大自在天は  他化自在天  と混同される  そのためリンガ信仰と混交し  魔王が六欲天の他化自在天の最高位の主である  天魔である魔羅(マーラ, Māra)を指し  次第に転じて俗に  「男根」を魔羅、マラというようになった・・・  あるいは先に  女陰を  毘摩羅(Vimalā - ヴィマラー)  ということから  摩羅とは本来、  男女根の名称にて  邦語のマラは  サンスクリット語のままを伝えられなかったか、  あるいは日本の神である  天津摩羅命、大摩羅神  赤摩羅、天照眞良(正字は一の下に艮)建雄命  などに由来する・・・  ↓↑   色界(しきかい・Skt:rūpa-dhātu)  三界の一  色天、色行天  ともいう  欲望を離れた清浄な物質の世界・・・?  無色界の下にあり  欲界の上にある  色界には四禅の  四地、初禅、第二禅、第三禅、第四禅  があり  これを過ぎると無色界に入る  天界28天に属し  色は物質の義  あるいは  変礙の義  ↓↑   色界に住む天人は  食欲と淫欲を断じ  男女の区別がなく  光明を食とする・・・・光合成  しかし  情欲と色欲はある・・・  色界の諸天は  世間の禅定ならびに  上品の十善を修して  この報を感じる・・・  ↓↑  大乗仏教(唯識派)  上座部と同じく  十八天とする  薩婆多部は  十六天  経部は  十七天  とするなど諸説・・・  ↓↑  十八天  色究竟天=色究竟天  (しきくきょうてん、Skt:Akanistha   阿迦尼咤天=あかにたてん)等他  仏教の世界観の1つ  三界のうち  色界  及び  天上界における最高の天・・・  ↓↑  三界は上から  無色界・色界・欲界  の3つの世界  色究竟天  は色界の最上位  「色」とは形体・物質のこと  色界は欲望から離れて  清らかな物質や肉体が存在する世界  この天より上は  肉体や物質が存在しない  無色界になり  形体を有する  天処の究る場所  で  色究竟天と呼ばれる・・・  ↓↑  善見天  善現天  無熱天  無煩天  (ここから色究竟天までは浄居天と呼ばれ   寿命が尽きればそのまま仏と成る)  廣果天  無想天  (薩婆多・経の2部は、廣果天の中に摂す)  福生天  無雲天  遍照天  無量浄天  少浄天  光音天  無量光天  少光天  大梵天  梵輔天  梵衆天  ↓↑  この18天を、四禅に振り分けると  ↓↑  第四禅  色究竟天・善見天・善現天・無熱天  無煩天(これを五浄居天と称す)  と  廣果天・福生天・無雲天  第三禅  遍照天・無量浄天・少浄天  第二禅  光音天・無量光天・少光天  初禅  大梵天・梵輔天・梵衆天 ーーーーー  ひかり=光=輝き・明るさ・灯火・燭光=熊  ↓↑  熊=能灬=ム月ヒヒ灬=六(陸)月の火日の灬(烈火)  ↓↑  月(肉)を除いた部分は      「ヒヒ=㠯(イ)」・・・?      ではないだろう・・・      「㠯=呂=背骨の繋がり」・・・横島の繋がり?                     横島が土石流で                     繋がった、接続した                     干潮、引き潮で                     シヲ(潮汐)                     が退(曳)いて                     繋がった、接続した      鹿に似た動物を意味     「能」は「賢い動物」?であったので     「賢い」の意を生じた     (説文解字=能 熊屬・足似鹿           従、肉㠯聲           能獸堅中、故稱賢能           而彊壯、稱能傑也           凡能之屬皆従能)      「能=匕(亀の足)・㠯は耜(すき)で         よく働くの意・手足を使ってよく働くこと」      能=能力・可能・全能・万能・不能・不可能      物事を成し遂げる力・はたらき      官能・機能・技能・効能・才能・多能・知能      本能・無能・有能      特定の技能、技術にタケテイルこと      能筆・能弁・芸能・一芸一能      能楽=猿楽・申楽・・・能面・演能      能登 (のと) 国・能州・加越能  ↓↑  中国語圏の姓名  春秋戦国時代の  楚の君主の氏  ↓↑  熊通(武王、?~前690年)楚の初代王  熊侶(荘王、?~前591年)楚の第6代の王・春秋五覇の一人  熊審(共王、前600年~前560年)第7代の王  熊囲(霊王、?~前529年)第10代の王  熊珍(昭王、?~前489年)第13代の王  曹熊      (? - ?)後漢末の人・曹操の六男 ーーーーー  ・・・


 ・・・又又、迷路に・・・熊本県は明治時代に「白川県」と呼ばれていた・・・「球磨地方」・・・由来は「熊襲タケル」・・・高麗=こま=駒=狛=独楽・・・「熊埜御堂(くまのみどう)・熊野御堂(くまのみど・くまのみどう・ゆやみどう」は苗字・・・  苗字の読み???  六月一日=うりはり・うりわり       くさか・さいぐさ・ほずのみや・むりはり       むりわり・ろくがつついたち  六月一日宮=ほずみや  和久鬼毛=わくとも ーーーーー  熊の本、何処さ・・・   ↓↑  南北朝時代の  「菊池則隆」  に因むとする伝承  「隈元=隈本」との記録  慶長十二年(1607年)  加藤清正が  築城した時に  「熊本」と改められた  「隈=丘陵地・奥まった緩やかな丘  「隈=阝+畏」の字の  「畏(おそれる・かしこまる)」を嫌った  「来熊(ライユウ)」  「訪熊(ホウユウ)」  「帰熊(キユウ)」  「熊(ユウ)」   ↓↑  「熊川(錦江)」→「熊=錦」  「錦江(クムガン)」の群山 沿岸部   ↓↑  熊本県球磨郡錦町一武  錦中学校前(球磨郡錦町)   ↓↑  「錦(にしき)=金+白+巾」の御旗?  「錦の御旗(にしきのみはた)」   天皇(朝廷)の軍(官軍)の旗   錦旗(キンキ)   別名   菊章旗・日月旗   赤地の錦に   金色の日像   銀色の月像   を刺繍   描いたりした旗  (この日之御旗と月之御旗は二つ一組)   朝敵討伐の証として   天皇から官軍の大将に与えモノ   承久の乱(1221年・承久三年)   後鳥羽上皇が配下の将に与えた物が   日本史上の錦旗の初見   天皇を頂点とする  「錦旗革命=大川周明の軍事クーデタ」   ↓↑  二詞記の見葉他  二史記の見頗(皮+頁=ハ=把・嵌・歯)多   ↓↑  錦江   (韓国の地名・クムガン)・・・クムガン?              熊川=クマガン?  白馬江=熊津江=Geum River  白村江(ハクソンコウ=ハクすきのえ)  白江之口(旧唐書)  (西暦663年)倭軍、壊滅  ・・・鎮(金+真 眞)魂(二+ム+鬼)の場所         十+具=ヒ+目+乚+ハ           眞=直+ハ    七=7・漆            ヒ=牝・雌 匕=匙・匕首            比=比較            叱=叱責            化=化合            它=蛇        写真=写眞=シャシン=捨身(すてみ)         真実=眞実  皀=白+ヒ=かんばしい・さいかち・くろごめ        穀物の香り        キョウ・コウ・キュウ・ヒョク・ヒキ   ↓↑  「白村江」=白江(ペンガン)=錦江(クムガン)が        黄海に流れ込む海辺を        白村江と呼んだ        白馬江(baeg-chon-gang)        錦江(クムガン)        白馬江(ペンマガン)        朝鮮半島南西部        忠清南道群山付近にある錦江河口        扶余の上流の        公州(熊川・熊津)からは        熊津江(ユジンガン)  ↓↑  663年  白村江の戦い  天智天皇  二年八月二十七日  ~  二年八月二十八日  ユリウス暦663年10月4日~10月5日  朝鮮半島  白村江(錦江近郊)での海戦  唐・新羅連合軍の勝利  倭・百済連合軍の敗北  ↓↑  668年  唐の高句麗出兵  高句麗滅亡  ↓↑  676年  新羅の半島統一  唐•新羅戦争  新羅が唐を朝鮮半島から追い出す  ↓↑  則天武后が外戚の  長孫氏を追い  実権掌握  高宗は  武后廃立を  計画したが、失敗  高宗が  丹薬による中毒  眼病を患い、失明状態  武后が唐の実権を完全掌握  ↓↑  683年  唐の高宗崩御  ↓↑  690年  唐王朝は廃されて  則天武后  武周王朝樹立  ↓↑  倭国の大王(オオキミ)  筑紫君  薩夜麻  が唐の捕虜(~671年)  降伏状態  唐は  賠償品  捕虜の返還条件をまとめて帰国  ↓↑  大陸に対し  九州の  「倭国=阿毎王朝」が  畿内の  「日本国」  が国際(対唐)外交することに変った  新羅は「日本国」を承認(670年)  唐が「日本国」を承認するのは  8世紀に入ってから   ↓↑  「旧唐書」に  「倭国伝」と「日本伝」があるが  「新唐書」には  「日本伝」のみの記録   ↓↑  663年  朝鮮南西部  「白村江の戦」  唐・新羅  vs  倭国(九州王朝)・百済  二つの連合軍による  朝鮮半島の領域権益を巡る決戦  百済は滅亡  新羅による朝鮮半島統一  倭国(九州阿毎王朝)  北方の  高句麗と朝鮮半島で  その権益を巡って戦った   ↓↑   「日本書紀・671年の条」  「筑紫君 薩夜麻=薩野馬とも表記   (ちくしのきみ       さちやま)      「天智紀・持統紀」に二度記録       天智十年(671年)十一月十日       對馬國司       遣使       於       筑紫 大宰府、言      「月生二日       沙門道久       筑紫君       薩野馬       韓嶋勝娑婆       布師首磐       四人、從唐來曰が唐から帰国した」   ↓↑  「筑紫君」=「阿毎王朝の倭王」  「日出づる処の天子」=「オオキミ」  「開皇二十(600)年   倭王、   姓は阿毎、   字は多利思比孤、   阿輩雞(鶏)彌   と号す・・・」  ↓↑  大和朝廷(畿内)からは  「筑紫君」=倭王(九州)であった・・・  ↓↑  663年  白村江の戦争が終結  ↓↑  671年  倭王(筑紫君-薩夜麻)         薩野馬(薩夜麻)=薩摩(さつま)?  が  唐から帰国した・・・  ↓↑  八年間、唐王国に捕虜となっていた  ↓↑  九州を管理統括するのは  「大和政権の太宰府の長官」・・・「筑紫君」  「倭国=九州=太宰府」  「東北(蝦夷)地方」の  統治代行した  「奥州鎮守府の長官」  と同じ  ↓↑  天智十年(671年)十一月十日          十一月甲午朔癸卯(十日)  對馬國司、遣使於筑紫大宰府、  言「月生二日、沙門道久・筑紫君薩野馬    ・韓嶋勝娑婆・布師首磐四人、    從唐來曰    『唐國使人     郭務悰     等六百人     送使     沙宅孫登     等一千四百人、     總合二千人     乘船卌七隻、     倶泊     於     比智嶋、     相謂之曰、     今吾輩人船數衆、     忽然到彼、     恐     彼防人     驚     駭射戰。     乃     遣     道久     等     預稍披陳     來朝之意。』」  ↓↑  持統四年(690年)十月二十二日  詔軍丁  筑紫國上陽竎郡人  大伴部  博麻曰  「於   天豐財重日足姬天皇七年、   救百濟之役、汝、爲唐軍見虜。   洎天命開別天皇三年、   土師連-富杼   氷連老   筑紫君-薩夜麻   弓削連-元寶兒、四人、   思欲奏聞唐人所計、   緣無衣粮、憂不能達。   於是、   博麻   謂   土師-富杼   等曰   『我欲共汝還向本朝。    緣無衣粮、    倶不能去。    願    賣我身以充衣食。』    富杼等、依博麻計、得通天朝。    汝獨淹滯他界、    於今    卅年矣。    朕、嘉厥尊朝愛國・賣己顯忠。    故、賜    務大肆、    幷絁五匹    綿一十屯    布卅端    稻一千束    水田四町。    其水田、及至曾孫也。    免三族課役、以顯其功。」   ↓↑  「筑紫君-薩夜麻」  らの帰国  唐人2000人  「進駐(日本書紀)」  戦勝国・新羅人  亡国の民・百済人  も「日本」に流れ込んだ・・・戦争難民?  ↓↑  斉明天皇元年(655年)1月3日、62歳~  ↓↑ ↓↑ ↓↑  高句麗、百済、新羅が使を遣わして朝貢  蝦夷と隼人も衆を率いて内属し、朝献  有間皇子の変で  蘇我赤兄は  天皇の3つの失政を挙げた・・・?  大いに倉を建てて  民の財を積み集めた・・・戦争兵糧備蓄  長く溝を掘って  公糧を損費した・・・・・溝は防御濠  船に石を載せて  運び積んで丘にした・・・砦の石垣  ↓↑  朝鮮半島の諸国と使者を交換  唐にも使者を派遣  蝦夷に  三度にわたって  阿倍比羅夫を海路の遠征で蝦夷地を平定  蝦夷地北海岸、樺太に存在した  粛慎に出兵勝利・・・粛慎≒高句麗・・・?  ↓↑ ↓↑ ↓↑  斉明元年(655年)  7月11日  北の蝦夷99人・東の蝦夷95人  百済の調使150人を饗応  8月1日  河辺麻呂が大唐から帰国  10月13日  小墾田に宮の造営中止  冬、飛鳥板蓋宮が火災、    飛鳥川原宮に遷幸  ↓↑  斉明二年(656年・63歳)  8月8日  高句麗が  大使  達沙  副使  伊利之  総計81人を遣わし  調を進める  9月  高句麗へ  大使  膳葉積  副使  坂合部磐鍬  以下の使を遣わす  飛鳥の岡本に宮造り開始  高句麗、百済、新羅  が使を遣わして調を進めたため  紺の幕を張って饗応  宮室が建ったので  遷幸し後  飛鳥岡本宮と名付けるが  岡本宮が火災に遭う  香久山の西から  石上山まで溝を掘り  舟で石を運んで  石垣を巡らせた  吉野宮を造営  多武峰に両槻宮を造営  土木工事、水溝工事は  後世に  「狂心の渠」  と揶揄された・・・なぜ、後世なのか?  西海使の  佐伯栲縄  吉士国勝  らが  百済より還って  鸚鵡を献上  ↓↑  斉明三年(657年・64歳)  7月3日  覩貨邏国の  (とからのくに)?  ↓↑   吐噶喇列島(とかられっとう)       南西諸島の鹿児島県側の  ↓↑   薩南諸島に属する島嶼群  男2人・女4人が筑紫に漂着し、召す  7月15日  須弥山の像を飛鳥寺の西に造り  盂蘭盆会を行なった  暮に覩貨邏人を饗応  9月  有間皇子が狂を装い  牟婁温湯に行き、帰って景勝を賞賛  天皇はこれを聞いて悦び、行って観たいと云う  使を新羅に遣って  僧の  智達  間人御厩  依網稚子  らを  新羅の使に付けて  大唐に送ってほしいと告げる  新羅が受け入れなかったので  智達らは帰国  ↓↑  斉明四年(658年・65歳)  1月13日  左大臣  巨勢徳多  死去  4月  阿倍比羅夫  蝦夷に遠征  降伏した蝦夷の  恩荷を  渟代・津軽二郡の郡領に定め  有馬浜で  渡島の蝦夷を饗応  5月  皇孫の  建王が8歳で薨去  天皇は甚哀  7月4日  蝦夷二百余が朝献  常よりも厚く饗応し、  位階を授け、物を与える  7月  僧の  智通  智達  が勅を受けて  新羅の船に乗って  大唐国に行き  玄奘法師から  無性衆生義(法相宗)を受ける  10月15日  紀温湯に行く  11月5日  蘇我赤兄が  有間皇子の謀反を通報  11月11日  有間皇子を絞首刑  塩屋鯯肴  と  新田部米麻呂  を斬刑  沙門の  智喩が  指南車を作る  ↓↑  斉明五年(659年・66歳)  1月3日  紀温湯から帰る  3月1日  吉野に行く  3月3日  近江の平浦に行幸  3月10日  吐火羅人が妻の  舎衛婦人と共に来る  3月17日  甘檮丘の東の川辺に  須弥山を造り  陸奥と越の蝦夷を饗応  3月  阿倍比羅夫に  蝦夷国を討たせる  阿倍は一つの場所に  飽田・渟代二郡の  蝦夷241人とその虜31人  津軽郡の蝦夷112人とその虜4人  胆振鉏の蝦夷20人を  集めて饗応し禄を与える  後方羊蹄に郡領を置く  粛慎と戦って帰り  虜49人を献じる  7月3日  坂合部石布  と  津守吉祥  を唐国に派遣  7月15日  群臣に詔し  京の内の寺に  盂蘭盆経を説かせ  七世の父母に報いさせる  ↓↑  斉明六年(660年・67歳)  1月1日  高句麗の使者  賀取文  ら百人余が筑紫に到着  3月  阿倍比羅夫に  粛慎を討たせる  比羅夫は  大河のほとりで  粛慎に攻められた  渡島の  蝦夷に助けを求められる  比羅夫は粛慎を  幣賄弁島まで追って  彼らと戦い、これを破る  5月8日  賀取文  らが難波館に到着  5月  勅して  百の高座と  百の納袈裟を作り  仁王般若会を行う  皇太子(中大兄皇子)が  初めて漏刻を作る  阿倍比羅夫が  夷50人余りを献じる  石上池のほとりに  須弥山を作り  粛慎47人を饗応  国中の百姓が  訳もなく武器を持って道を往来・・・  7月16日  賀取文らが帰る  覩貨邏人の  乾豆波斯達阿が  帰国のための送使を求め  妻を留めて  数十人と西海の路に入る  7月  百済が唐と新羅により滅亡  9月5日  百済の  建率の某と  沙弥の覚従らが来日  鬼室福信が  百済復興のために戦っていることを伝える  10月  鬼室福信が  貴智らを遣わし  唐の俘百余人を献上し  援兵を求め  皇子の  扶余  豊璋  の帰国を願う  天皇は百済を助けるための出兵を命じ  礼を尽くして  豊璋の帰国を命じる  12月24日  軍器の準備のため難波宮へ行幸  ↓↑  斉明七年(661年・68歳)  1月6日  西に向かって出航  1月8日  大伯海に至る  大田皇女が皇女を産み  大伯皇女と名付ける  1月14日  伊予の  熟田津の  石湯行宮に泊まる  3月25日  娜大津に着き  磐瀬行宮に居す  4月  百済の福信が  使を遣わして  王子の  糺解の帰国を求める  5月9日  朝倉  橘広庭宮に遷幸  5月23日  耽羅が初めて  王子の  阿波伎  らを遣わして貢献  7月24日  朝倉宮で  崩御・・・死亡  8月1日  皇太子が天皇の喪に付き添い  磐瀬宮に到着  10月7日  天皇の喪が帰りの海路に出航  10月23日  天皇の喪が難波津に着く  11月7日  飛鳥の川原で殯  9日まで発哀  ↓↑ ↓↑ ↓↑  斉明五年(660年)  百済が  唐と新羅によって滅ぼされた  日本に滞在していた  百済王子  豊璋を百済に送り  百済を援けるため  難波に遷って武器と船舶を作らせ  瀬戸内海を西に渡り  筑紫の  朝倉宮に遷幸し戦争に備えた  ↓↑  斉明六年(661年)、68歳  崩御死亡  中大兄皇子は即位せずに称制  朴市秦造田来津(造船責任者)  を司令官に任命  倭軍は朝鮮半島南部に上陸  ↓↑  斉明七年(662年)、69歳  (日本書紀)・・・天豊財重日足姫天皇  ↓↑  663年  白村江の戦いで  唐と新羅の連合軍に敗北  ↓↑  高句麗  天智七年(668年)十月  唐将軍の  英公  によって滅ぼされた  ↓↑  錦江 (韓国の地名・クムガン)・・・クムガン?                熊川=クマガン?  白馬江=熊津江=Geum River  白村江(ハクソンコウ=ハクすきのえ)  白江之口(旧唐書)  (西暦663年)倭軍、壊滅  ・・・鎮(金+真 眞)魂(二+ム+鬼)の場所         ヒ= 十        写真=写眞=シャシン=捨身(すてみ)  「白村江」=白江(錦江)が        黄海に流れ込む海辺を        白村江と呼んだ    錦木・錦松台・錦水城  錦江 (四川省)  錦江 (韓国)  錦江(にしきの里)  錦江台  東錦洞(トングムドン)  西錦洞(ソグムドン)  韓国中部  忠清南道(チュンチョンナムド)  公州(コンジュ)  公山城(コンサンソン)  朝鮮三国時代  百済(ペッチェ)時代  に造られた城郭  百済  文周(ムンジュ)王  475年  に現在のソウルから首都を遷都  武寧王陵などの古墳群    熊津(ユウシン・ウンジン)  古代朝鮮の  百済・・・・・久多羅木         くたらき・くたらぎ・くだらぎ         倶利伽羅         くりから         言語同断         こくらだ・てくら・てくらた         てくらだ・てらく・てらくだ         言語道断         てくら  の古都  万葉仮名では  「久麻那利  (くまなり・こむなり)」  百済語で  「固麻那羅  (コマナル)」  熊川(錦江)のほとりの都市  現在の  忠清南道公州市  475年  高句麗の  長寿王が  百済の国都  漢城(ソウル)を陥落させ  百済の  蓋鹵王を処刑  南方に逃れていた  (新羅救援を求めに行っていた)  文周王が  即位し  首都を  熊津に移した  538年  後に  聖王が  南方の  泗沘(忠清南道扶余郡)へ遷都  63年間、百済の首都  新羅の統一の後  「熊川州→熊州」  という名称を経  高麗時代に  「公州」に改称  公州市には  「熊津洞」  という地名が残る  百済の熊津への遷都の記事   ↓↑  『三国史記』  百済本紀  文周王即位年(475年)  十月条   ↓↑  『三国遺事』  王暦  文周王条  「移都熊川」   ↓↑  『日本書紀』  雄略天皇二十一年(477年)・・・477=肆陌七拾漆  春三月条  「天皇聞。   百済為高麗所破、   以   久麻那利   賜   汶洲王、   救興其国」  ・・・

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