「義」も「理」も、「情」も・・・形象ナルホド、意は「?」
・・・「義理と人情」の
「義=羊+我」の
「理=王+里」も、
「人=丿+丶」の
「情=忄+主+肉」も・・・
なんだか、エゴなボクには「理解困難」な「カンジ」ではあるカナ・・・それに「義=羊+我(手+戈)」と、「羲=羊+禾+丂+戈」は異なる漢字だが、今現在、眼が悪くなってしまったボクには同じ漢字に視えてしまう・・・音を聴いたら「義=ギ=魏・疑・戯・伎・祁・祇・偽・欺・宜・着・妓・嬀(女+為=わるがしこい・name of a river in Shanxi(山西省=サンセイショウ=纂所為章?),=crafty)」・・・ 「陳国の息嬀(ソクギ・息姫)=春秋時代、大国の楚に隣接する小国の「息国」の君主は、陳国から息嬀を夫人として迎えたが、その花嫁が輿入れの途中、蔡国で足止めされ無礼を受けた・・・美貌の彼女は楚の文王の夫人となった?」・・・理由・・・「擬音」の「祗園」・・・「義の理」・・・ ーーーーー 「息侯」は、 盟主である 「楚の文王」に策謀で 「我を伐て。 我、救いを蔡に求めて、之を伐たんか」と。 (楚が我が国を攻めてくれれば、 我は 蔡に助けを求め 楚は、改めて蔡を伐っことができる) 魯の荘公十九年(前684年)九月 文王は 蔡を討ち 「辛の戦い」 でこれを破り 蔡侯を捕虜にした 蔡侯はその後 帰国を許され 蔡侯は 息嬀への想いは止まらず 魯の荘公十四年 息侯を怨み 文王に 息嬀の美貌を語った 文王は堪らず 今度は息国を攻略し 息君を殺し 息嬀を奪った。 文王は 息嬀に愛情を注いだが 彼女は笑わず 喋らずになったが 文王を拒むわけではなく、 決して 恨み言 泣き言 も言わず、 只々 沈黙した そして 数年後 堵敖(トゴウ・荘敖) と 頵(イン) という二人の子を 文王との間に産んだ ある日 文王は 息嬀に問うた 「なぜ話さないのか」と。 息嬀は口を開き、 「私の一人の女の身で 二人の夫に仕えました。 譬え死ぬことが出来なくても どうして口が利けましょう」 と言って、再び口を閉ざしてしまった。 ↓↑ 息嬀は前夫(息君)との 「義」を重んじた・・・? 文王は 息嬀の沈黙の真相は 蔡侯こそに 因縁があると この年 蔡に攻め込んで滅ぼした 時の君子、曰く、 「商書に謂う、 悪の蔓延る様は 火の原を焼くが如し、 面を向くべからず。 ましてや打ち消さむは難し とは、 蔡の哀侯のようなものだ」 と。 「春秋左氏伝 荘公十年、十四年、二十八年」 楚の文王は 前677年・・・紀の元の前の「六七七・陸百漆拾漆」 に没し 息嬀の産んだ 「荘敖=艹+丬+十+一+土+方+攵=ソウゴウ =堵敖(十+一+者+土+方+攵)=トゴウ」 攵=攻撃・叩き・強制を示す? 攵=「ノ一(かみさし)」+「乂」 が即位(在位は前674~672) 荘敖 若死の後は 「頵(君+頁・イン)」が即位・・・訓のページ 諡号 成王(在位は前671~626) ーー↓↑ーー 「義=羊+我(手+戈)」は 羊のような我・羊(の肉)を 手に持った 戈(包丁・小刀)で 捌(さば)く」・・・ 「羲=羊+禾+丂+戈」は 羊の角のような禾(のぎ)の 丂(曲がった穂)を 戈(包丁・小刀)で 刈り取る」・・・ 「丂=さまたげられる・妨(さまた)げる」 「气(気体・瓦斯・湯気・息)の 舒(の)び、出でんと欲し、 𠃑上、 一に礙(さまた)げらるるなり(説文解字)」 「气=雲气なり・象形は一に曰く息なり・気(氣)の初文 甲骨文の字形は乞 金文では希求の意味 古代、雲気を見て吉凶を卜う 望という儀礼があり 卜辞に見られる 求めるなり(玉篇)」 で、例の如く、以前に何回も書き込んだものだが、再三度、インターネットで「義」を検索し、添付・・・ ーーーーー 義=𦍌+我 人としてふみ行うべき道 利欲を捨て、道理にしたがって行動すること 「義人・信義」 わけ・義解・字義 血縁のない者が結ぶ親族関係・義父 実物の代わりになる物・義歯 異義(イギ)・意義(イギ)・奥義(オウギ・オクギ) 恩義(オンギ)・疑義(ギギ) 教義(キョウギ)・講義(コウギ) 字義(ジギ) 主義(シュギ)・信義(シンギ)・仁義(ジンギ) 正義(セイギ)・大義(タイギ)・忠義(チュウギ) 定義(テイギ) 道義(ドウギ)・徳義(トクギ) 不義(フギ) 本義(ホンギ)・名義(メイギ)・類義(ルイギ) 義捐金・義援金 義挙 義俠・義兄弟・義士 義肢・義歯 義絶 義賊・義太夫 義憤・義民(ギミン) 義務・義勇・義理・義烈 義を見て為(せ)ざるは勇無きなり 義(よ)い ↓↑ 同じ部首・・・義・羲・羌・群・羔・羹 羞・羨・羶・着・羝・美 羊・羸・羚 ↓↑ 義=羊+我 =羊+手+戈 =羊+豕・・・ =羊+弗 ↓↑ 羲=羊+禾+丂+戈・・・・「丂=万」?「丂=方」 丂=一+㇉ 「字統・初版」では 「曲刀」 小刀(ナイフ) 声符「丂(コウ)」=号・考・朽・巧・㱙・攷 かんがえる=考 たくみ・たくみなさま=巧 亏=一+丂=ああ・感嘆をあらわすことば ウ・ク・ゆく・いく 「ここに」と読み、語調を整える意を表わす 「~に」「~を」「~より」と読み 場所や動作の対象、比較などを表す 訓読では読まずに送りがなをつける 于・亐・・・亍(たたずむ・チョク) 迂回・汚れる・汚濁 ↓↑ 「羲和(ギカ・ギワ)」 義和団=当初は義和団を称する秘密結社の 排外運動 1900年(光緒二十六年) 西太后がこの叛乱を支持し 清国が6月21日に欧米列国に 宣戦布告 宣戦布告後2か月、 欧米列強国軍は首都北京及び紫禁城を制圧 清朝は莫大な賠償金を支払った 「王羲之(オウギシ)」 「伏羲(フッキ)」 ↓↑ 女媧(ジョカ) 古代中国神話に登場する人類を創造した女神 三皇の一人 姓は風 伏羲 とは兄妹、夫婦 女媧=中国古代神話上の女神 人首蛇体 伏羲(フッキ)と夫婦、兄妹 人類の創造主 三皇の一人 泥をこねて人間をつくり 天が崩れそうになったとき 5色の石を練って天を補修した ↓↑ 義和(ギワ)は、元号 義和 (北涼)(431年~433年)・五胡十六国時代の北涼 義和 (高昌)(614年~619年) ↓↑ 中国神話の羲和 羲和(ぎわ) 中国古代の地理書『山海経』に記載のある太陽の母神 炎帝に属し東夷人(日本人)の先祖にあたる帝箞の妻 羲和が天照大御神を指している・・・ 東海の海の外、 甘水のほとりに・・・甘水=あまみず=「海部(贏)」みず 阿毎王朝? 羲和の国 そこに生える 世界樹・扶桑(扶桑はかつて日本にあったとされる巨木) の下に住む 女神である羲和は、 子である 「十の太陽たち」を世話し 天を巡ってきた 太陽を湯谷で洗って 扶桑の枝にかけて干し 輝きを蘇らせた・・・ 子孫に 中国五帝の一人の 東夷人の領主 少昊・・・ 羲和から生まれた十日の子孫 「日氏」や「湯姓」があり 羲和の和に因む 「和氏」は天地四時の官になった(『通志』) ↓↑ 「ぎか」とも 中国,古代の伝説上の人物で 太陽の御者とか太陽を生んだ母といわれる のちに 東南西北のそれぞれの地の 天文に関する任務を担当する 羲仲 (ぎちゅう) 羲叔 (ぎしゅく) 和仲 和叔 の4人兄弟の総称・・・ ↓↑ 中国古代神話の中の太陽神 「山海経(センガイキョウ)・大荒南経」によれば 東南海のかなたに 羲和の国があり そこでは 羲和という女性が 生まれたばかりの 太陽に 産湯(うぶゆ)を使わせている 羲和は 帝俊の妻で 十個の太陽を産んだのだ 天には 十個の太陽があり 甲乙丙丁戊己庚辛壬癸 の 十干の日付けに従い 毎日1個ずつ太陽が昇り 10日で一巡 その太陽を産んだのが 羲和で 「山海経」の註釈者 郭璞(カクハク)によれば 羲和は天地創造のはじめから存在し 日月をつかさどってきた・・・ ↓↑ 『山海経(センガイキョウ)』 中国東南の海にある 羲和の国に住むという 女神羲和 女神は 俊帝(シュンテイ)と結婚し 十個の太陽を生み 毎朝子供であるそれらの太陽を 甘淵(カンエン)という みぎわ(水際・渚・汀・瀕)で 水浴させる 「太陽の母」である・・・ ↓↑ 中国神話ぼ太陽神 「山海経」に 帝俊の妻 羲和(ギカ)は 十日を生み 常羲(ジョウギ) 嫦娥(ジョウガ) は十二月を生んだ その妻 娥皇(ガコウ)は 三身の国を生んだが 姚(ヨウ)姓で 四鳥 を使者とした ↓↑ 中国の「淮南子(エナンジ)・天文訓」によると 羲和(ギカ)という女が 六頭の駿馬のひく馬車を御し この馬車に太陽を乗せて天空を運行する・・・ ↓↑ ギカ=羲和 中国古代伝説上の人物、 羲氏 と 和氏 ともに尭帝の下で 暦象をつかさどる官 太陽の馬車の御者=転じて、日月をいう ↓↑ 「羲」 伏羲 中国神話中人類的始祖 和、女祸 神农 并称太古的三皇 简称 羲 如 羲皇 羲炎(伏羲和炎帝・炎帝即神农) 羲轩(伏羲和轩辕) 羲黄(伏羲和黄帝) 羲经(即、易经、传说《易经》八卦为伏羲所作) 羲文(伏羲和文王) ↓↑ 羲和(ギカ)=人物の名・日月を表す ↓↑ 羊 シンメトリー(左右対称形)な字形状 美しいもの 美=羊+大 うつくしい=大きなヒツジ=「羊」+「大(一人)」 ーーーーー 義(よろしい・ギ) ↓↑ 儒教 五常の一 人として守るべき正しい道 道義 「仁・義・礼・智・信」 道理・条理 「読書百遍義、自(おのずか)ら見(あらわ)る」 教え・教義 血縁上のものでない義理の関係 義を結ぶ ↓↑ 人のふみ行うべき正しい筋道 義務・義理・恩義・信義・仁義 正義 大義・忠義・道義・徳義・不義 私欲を捨て公共のためにすること 義塾・義倉・義捐金(ぎえんきん) 意味・主旨 意義・奥義・疑義・教義・原義・語義 広義・講義・字義・多義・定義・本義 名義 血縁でなく約束でつながった関係 義姉・義父・義兄弟 実物のかわり・仮の 義眼・義歯・義足・義手・義肢 名のり あき・いさ・しげ・たけ・ただし・ちか つとむ・とも・のり・みち・よし・より ↓↑ 「ただしい」 「筋目だった」 意を持つ会意形声文字 ↓↑ 儀: 筋目だった人の行為 羲: 犠: 正しく分けられた家畜。 議: 正しい言説 ↓↑ 意義 ただしい。心や行状が良い。 正義、義理(日漢異義) 類義字:宜、誼 対義字:奸(よこしま。心や行状が悪い) 儒教における、「仁」と並ぶ徳目。 言葉に含まれる意味。 意義、類義語 本来のものではないが、 社会的約束によりそのようになったもの。 義兄 本来のものではないが、仮にそのようになったもの。 義歯、義肢 ↓↑ 義=ただしい・よい・よし・ギ ↓↑ 儒教の徳目のひとつ 孔子が重視した 「仁」に次ぐもの 孟子により強調 仁が社会一般における 普遍的な道徳観 義は個別具体的な行為に対して 正しく報むくいること 恩義、恩に対し正しく報いること、義務等) を重視 ↓↑ キリスト教の概念 「罪」に対立する概念 ギリシア語 ディカイオシュネー(Δικαιοσυνη) ラテン語ユスティティア(justitia(iustitia) の訳・・・ ↓↑ 幸福なるかな、 義に飢ゑ渇く者。 その人は飽くことを得ん。(マタイによる福音書) ↓↑ 義捐 義侠 義訓 義憤 義務 義理 ↓↑ 人のふみ行うべき正しい筋道 「義務・義理・恩義・信義・仁義 正義・大義・忠義・道義・徳義 不義」 ↓↑ 私欲を捨て公共のためにすること 「義塾・義倉・義捐金」 ↓↑ 意味・主旨 「意義・奥義・疑義・教義・原義・語義 広義・講義・字義・多義・定義・本義 名義」 ↓↑ 血縁でなく約束でつながった関係 「義姉・義父・義兄弟」 ↓↑ 実物のかわり・仮の 「義眼・義歯・義足」 ↓↑ 義理 羊と我 ↓↑ 「良い・よろしい・正しい」 「のり(法律、規範・手本・おきて=掟 決まり・法則・制度)」 「人の行うべき正しい道(順序)」 「人として守り行うべき道(順序)を常に意識し 行動する事」 「わけ(理由)」 「意味(中身、内容)」 「仮(かり)」 「実物の代わり」 「本物でないのに、 同じようにみなすもの」 「文体の一種 物事の正しい 順序に基づいて 説明するもの」 ↓↑ 象形から、羊を生贄(いけにえ)として 刃物で殺す事を意味し、 厳粛な、真剣な 「作法」、「ふるまい」 を意味 ↓↑ 「羊・𦍌 ⺶(ひつじ・ひつじへん(羊偏)」 「羊・𦍌・⺶」 ↓↑ 正しい・よろしい・道理にかなっている 道・人の行うべき正しい道 人道のために尽くすこと 意味・わけ(理由) 実物の代わり・仮 道理に基づいて説明するもの 由来 ↓↑ 義の理 「羊」+「我=手+戈」 戈(ほこ・カ)=刃物 「羊を小刀で捌き、生け贄とし神に捧げる」の形象 仕方 義理人情の義 「仁・義・礼・智・信」 ↓↑ 義(ギ) 人間の行動・志操・道徳で 「よい・ただしい」 とされる概念 義人 堅く正義を守る人 我が身の利害をかえりみず 他人のために尽くす人 対義語は 行動・志操・道徳が 「わるい・よこしま」 を意味する概念は 「奸(カン)」 「義」 本来 「外から来て固有ではないもの」 という意 「義手・義足・義父母・義兄弟」など 後には血縁関係にない 仲間同士を結び付ける 倫理を意味するようになった 後漢末期には 「他者と共同で行う第三者のための事業」 という意味にもなり 義舎・義学・義田 などの 無償の施設などを指す言葉として使用 ーーーーー 義務 人がそれぞれの立場に応じて 当然しなければならない務め 義務を果たす⇔権利 倫理学で 人が道徳上、普遍的・必然的になすべきこと 法律によって人に課せられる拘束 法的義務はつねに権利に対応して存在 「納税の義務」で・・・生きる権利を得る・・・? 倫理学的に 絶対的に必然性と普遍性をもった 法則 規範 の存在が前提とされ それの人間への 命令、強制が義務である・・・ 義務の根拠 理性、道徳・倫理、宗教、 法制度(法令・契約など)、慣習など 義務に反した場合に 制裁がある 制裁には 内面的・物理的・社会的 なものがある・・・ ーーーーー 儒教の義 五常(仁・義・礼・智・信)の一 正しい行いを守ること 人間の 欲望を追求する 「利」と対立する概念(義利の辨) 孟子は 羞悪の心が 義の端であると説いた 「羞悪の心」とは 「わるく・劣り・欠け・ほしいままに振舞う心性」を 「羞(は)じる心」・・・ ーーーーー 仏教の義 中国における義の観念と結びついた 事業を指す語として用いられた 後漢末期から南北朝時代 多くの人々が故郷を離れて流浪し それまでの 血縁・地縁による結合が解体 仏教の中国伝来で 大乗仏教が持つ 利他思想と他者と 「結びつく・救済する」という 中国の義の観念が融合し 同じ仏教徒の間で 血縁や地縁を越えて共同し 造寺・造仏・慈善事業が行われた こうした集団を 「法義」や「邑義」と称し 朝鮮半島や日本では 「知識」と称された ーーーーー キリスト教の義 ギリシア語でΔικαιοσυνη dikaiosynee ディカイオシュネー 罪の対立概念 これは他者に対して 義(ただ)しい、誠実な、偽りのない態度で臨むこと またそのような態度が可能である 魂の状態をいう 義しい人を義人 ↓↑ 福音書 パウロ書簡の主題 神によって「義とされる」 義とする(ディカイオオー) 真に義であるのは神のみで 「義人はいない」が 人間は神を信じることにおいて 義さに近づくことができる 信じないことは不義と同義 「ヤコブの手紙」 義しさは 神への信仰を表明することのみならず 他の人間に対する行為において現れる ↓↑ ルター 人が行動において義とされること (行為義認)を否定し 信仰によってのみ 人が義とされる (信仰義認)と考え それまでのキリスト教で行われていた 苦行、断食などを否定 諱(いみな)の「義」 「義の字」を受けようとする者は 室町幕府に 500貫以上の献金を要し 諱の下の文字は 300貫とされた・・・ ーーーーー 義民(ギミン) 飢饉などで人々が困窮しているときに 一揆の首謀者などとなって 私財や生命を賭して活躍した 百姓 転じて幕末の 尊皇攘夷運動において 私財を賭して国のために奔走した 町民・商人なども呼ばれる・・・ ↓↑ 義人 江戸時代初期を中心に 各地の郷土史には 義民伝説が残る・・・ ↓↑ 伊東 長実(いとう ながざね) 戦国時代から江戸時代前期にかけての 武将、大名(外様大名) 備中国 岡田藩初代藩主 永禄三年(1560年) 尾張国 岩倉の国人 伊東長久の長男として生まれ 日向国 飫肥藩の 伊東氏と遠祖を同じ 天正元年(1573年) 小谷城攻めから 織田氏に仕え 羽柴秀吉配下につけられ 大母衣衆に抜擢され 別所氏攻めで功績を残し 織田信長より脇差を与えられた その後も 秀吉配下として各地を転戦 黄母衣衆24人の一人に列せられた 天正十八年(1590年) 小田原征伐に従軍 山中城攻めの際には一番乗り 天正十九年(1591年) 備中川辺 1万300石を与えられ大名 文禄・慶長の役 肥前国 名護屋に駐屯 慶長五年(1600年)六月十六日 会津征伐に向かうため 下野国小山にいた 徳川家康にいち早く 石田三成の挙兵を知らせた 大坂の陣では豊臣方として入城 大坂七手組頭の一人として 家康に敵対したが 青木一重と共に 大名として存続することを許された 殆どの豊臣方の大名が領地を取り上げられる中 この処置は異例であり、 密偵的な活動を行っていた・・・? 晩年に剃髪し 宗徳と号 寛永六年(1629年)二月十七日 死去・享年七十 家督は次男 伊東長昌が継いだ。 ↓↑ 岡田藩 備中国 下道郡 岡田(岡山県倉敷市真備町岡田) 岡田陣屋に藩庁を置いた 江戸時代初期から廃藩置県まで 伊東氏 一貫して10代にわたり藩主 石高は1万石余 陣屋は幾度かの移転を経て 元禄年間には 西国街道 川辺宿(倉敷市真備町川辺) に陣屋を置き 川辺藩とも呼ばれる ↓↑ 新本義民騒動(しんぽんぎみんそうどう) 備中国下道郡(総社市)の 農民一揆 民衆騒動 この事件で犠牲となった 4人の村民を 新本義民四人衆 と呼ぶ ↓↑ 慶長二十年七月(1615年) 岡田藩 初代藩主 伊東長実 が藩領の 備中国十か村にある村民の 共有林である 入会山を順次取り上げ 藩有林としていった 岡田藩領であった 下道郡新庄村・本庄村(総社市新本地区) 1661年(万治四年・寛文元年)頃 より 入会山の藩有化が行われ 藩側は山を造林し 「留山」として村民の入山を禁じた ↓↑ 1716年(正徳六年・享保元年)頃 残されていた共有山であった 新庄村の大平山 本庄村の春山の大部分を取り上げ 造林を伐採し、割り木・用材とし、 それを藩庁のある 岡田村(倉敷市真備町岡田)まで 運搬することを 村民に命じ 村民に支払われる運賃は 1駄(約42貫)4分5厘という低い額であった ↓↑ 低賃金 重労働 農作業 その他生活の時間が奪われ 生活に支障を来す事態となり 新庄・本庄両村民(203人)は会合を開き 留山とされた山の返還と割り木・用材運搬の中止を 嘆願 それらを主な内容とした 三箇条の嘆願書を作成し 享保二年(1717年) 藩側へ提出したが藩と村民の意見は対立 ↓↑ 川辺村の 蔵鏡寺住職など識者が仲裁を行い 数度にわたる藩側と村民側との話し合いが行われ 結果、一部の山を開放し、下草を取ることが許可 同年三月十五日 村民側は会合を開き 開放に制限があることに不満があるも譲歩し 村民は全留山の開放を求めることを誓い 神文誓書を作り、 鎌で切った指の血で署名し 本庄村にある稲荷山の大岩の下に埋めた・・・ 四月十四日 住職等の協力の下 藩と村民の間に正式に調停が成立 享保三年(1718年) 藩側が開放許可された山において 許可していない 木々の伐採行為が行われていることを疑い、取り締まりを強化 十二月三十日 盗伐発覚 藩は盗伐調査を行い、盗伐者の出頭を命令 藩と両村民は激しく対立 庄屋が投獄 村民は江戸の屋敷にいる藩主 伊東長救に直訴を決め 松森六蔵(まつもり ろくぞう) 荒木甚右衛門(あらき じんえもん) 森脇喜惣治(もりわき きそうじ) 川村仁右衛門(かわむら にえもん) の4人を村民代表として選出 要求書を持たせ 二月十三日 江戸の藩主の元へと派遣 数日後、4人は無事江戸へと到着し 藩主への要求書提出を成功 嘆願要求は ほぼ内容通り実現 それと引き替えに 4人の村民代表は反上の罪により処刑 その家族は国外追放 財産没収 家屋取り壊しとなった 享保三年六月七日(1718年7月4日) 新本川の飯田屋河原で 村民の目前で4人は打ち首 六蔵77、甚右衛門44、喜惣治36、仁右衛門44 罪に問われた者は多く、60名弱に及んだ・・・ ↓↑ 村民は四人を 義民と呼び それぞれの出身地 仁右衛門は本庄村稲井田集落 他の3人は 新庄村小砂集落内(西明寺) に墓を建てた ↓↑ 慶長二十年(1615年)七月 岡田藩が領内の共有林・入会山を藩有(留山)化 万治四年/寛文元年(1661年)頃 新庄・本庄両村内の入会山の留山化 正徳六年/享保元年(1716年)頃 新庄・本庄両村の大部分の入会山が留山 留山を伐採して用木とし 岡田村まで運搬する賦役が始まる 享保二年(1717年)一月 会合で三箇条の嘆願書を作成 藩へ提出 後日、村民と藩の間で会合 3月15日 - 神文誓書を稲荷山の巨岩下へ埋める。 4月14日 - 村民と藩の間で制限付きで留山が 一部開放する調停が成立する。 4月24日 - 引き渡された山と留山の境界に杭が打たれる。 4月25日 - 村民一同で祝いをする。 9月15日 - 藩が留山の取り締まりを強化。 12月30日 - 村民が藩の指示を守らず、相当数の立ち木を伐採。 享保3年1月15日(1718年2月14日)藩の役人が村の状態を調べる。 2月8日 - 盗伐の疑いがある村民51人に出頭が命じられる。 2月9日 - 村民は誰一人として出頭せず。 2月10日 - 庄屋が投獄される。 2月12日 - 村民は会合を開き、江戸の藩主への直訴を決める。 2月13日 - 逃散を装って、代表者4人が江戸へ向かう。 2月14-17日 - 村民一同が、庄屋の帳面につく。 2月29日 - 代表4人が江戸へ到着。 3月4日 - 藩主へ直訴を成功させる。 3月19日 - 村民15人が投獄される。 5月29日 - 代表4人が有井村の牢に投獄される。 6月7日 - 村内の川原にて、代表4人の処刑が実行される。 6月16日 - 代表4人の親族が国外へ追放される。 ↓↑ 義民社 新本義民騒動で犠牲になった 義民四人衆に深い感謝と哀悼の意を示し その霊を手厚く弔うために、 騒動後に 新庄・本庄両村民が建立した 祠・神社 ↓↑ 義民碑 総社市新本地区 薙田 にある石碑・記念碑 字は犬養毅 ↓↑ 起誓岩 新本の稲荷山にある岩 享保二年三月十五日(1717年4月26日) 岡田藩の提示した制限付きの御留山開放を 新本村民が会合を開き 不満があるも譲歩しこれを受け入れた際に 将来の全留山返還を目指すことを決意し 神文誓書を作成し 鎌で切った指から流れる血で署名し これをこの岩の下に埋めた ↓↑ 佐倉惣吾(木内惣五) 江戸時代初期の下総国佐倉藩領の名主。義民伝説が伝わる 松木庄左衛門 小浜藩領承応元年一揆(1652年、若狭国小浜藩)の義民 杉木茂左衛門 磔茂左衛門一揆(1681年、上野国沼田藩)の義民 鈴木三太夫 相模国海老名郷大谷村(旗本領)の名主。1684年刑死 多田加助 貞享騒動(1686年、信濃国松本藩)の指導者 新本義民四人衆 新本義民騒動(1717年、備中国岡田藩)の指導者 鈴木源之丞 籾摺騒動(1753年、下野国宇都宮藩)の指導者 清水半平・中沢浅之丞 宝暦上田騒動(1761年、信濃国上田藩)の指導者 忍足佐内 西領騒動(1770年、安房国勝山藩)の義民 本間辰之助 天保義民事件(1840年、出羽国庄内藩)の指導者 前代未聞だった藩主擁護のための直訴を企てる ↓↑ 死罪とされたのは直訴の行為そのものが理由ではなく 村落共同体内部で事前に話し合いを持ったことが 幕府や藩が禁じる 「徒党の禁止」に該当したため ↓↑ 義民 飢饉などで人々が困窮しているときに 一揆の首謀者などとなって 私財や生命を賭して活躍した百姓のこと 転じて幕末の尊皇攘夷運動において 同様に私財を賭して国のために奔走した 町民・商人などもこう呼ばれる 義人とも言うが 江戸時代初期を中心に 各地の郷土史には 義民伝説が残っている ↓↑ 義 人間の行動・志操・道徳 「よい・ただしい」とされる概念 義人 「堅く正義を守る人・わが身の利害をかえりみず 他人のために尽くす人」 ↓↑ 中国北朝 「邑義・法義」という名称が用いられ 朝鮮半島や日本では 「知識」の名称が用いられた 仏教が伝来した 魏晋南北朝時代 戦乱によってそれまでの 血縁・地縁集団が解体されて 人々が移住を余儀なくされ そうした中で大乗仏教が持つ 利他思想と他者と結びつく 救済するという 中国の義の観念が融合し 仏教徒の間で 血縁や地縁を越えて共同して 造寺・造仏・慈善事業が行われた 仏教奨励と廃仏政策の間で揺れ動いた 北魏の 邑義・法義の願文などには 皇帝を称賛する文言を入れることで 仏教徒が国家への忠誠を示す場としても用いられた 朝鮮半島や日本では 「知識」の語が用いられ 現存する仏像の願文に記された文言などから 6世紀の 高句麗で 「知識」という語が生まれて 百済・新羅・倭国(日本)に伝えられた・・・ ↓↑ ユダヤ教,キリスト教においては 「神の義」の意味で用いられる 義は普通の倫理的な意味における 「正義」とは異なり 唯一神の属性で それにのっとることこそ 人間の義なる正しき生活の規範とされた ↓↑ 旧約聖書での神の義 神ヤハウェの 動的啓示的行為 ユダヤ民族はそこに示された神の意志に服従し 律法を遵守するとき民が救われる (イザヤ書 45・8,51・5~7など) 新約聖書での義 ユダヤ教の義の延長上にあるが パウロにより徹底的に深化され 律法によらず キリストを信じることにより 恩恵的に与えられるもの (ローマ書4・11,13など) この信仰による義においては 人間の生は 「義の武器として神にささげ られた(同6・13)」 信仰によって義とされることを 義認 あるいは 義化(dikaiosis,justificatio)・・・ ーーーーー ・・・???・・・
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