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「自由なプチブル人」ではなく「自由の願望人」

2022/10/4・火曜日・・・追加添文・・・

皆殺しの歌・原題(DE GUELLO) サウンドトラック PhotoMovie


ロシア・プウチンの仕業=現行の「元寇」・・・鹵志吾・・・

「法・掟・制約・強制・約束・協同」・・・

「~からの自由」・・・反社会人・・・

outlow・・・autoroute・・・高速道路・・・

ー----

 北条-相模太郎-時宗

 建長三年(1251年)五月十五日

 1251年6月5日

 ~

 弘安七年四月四日

 1284年4月20日(満32歳没)

      大運1283年3月(31歳)+己丑正財

 辛┏亥(戊甲壬)正官・偏財長生⇔甲申比肩

 癸┗巳(戊庚丙)印綬・偏財 病⇔丁卯傷官

 甲 戌(辛丁戊)  ・正官 養⇔壬午偏印

 庚 午(丙 丁)偏官・食神 死⇔丙午食神

   申酉空亡

 ↓↑

 改名 正寿(幼名)→時宗

 別名 相模太郎(仮名)

 戒名 宝光寺殿道杲

 墓所 神奈川県鎌倉市円覚寺塔頭佛日庵

 官位 左馬権頭、相模守、正五位下、贈従一位

 幕府 鎌倉幕府連署、第8代執権

 主君 宗尊親王→惟康親王

 ↓↑

 相模国鎌倉

 安達氏の

 甘縄邸で生まれる

 長兄に宝寿丸(北条時輔)

 康元二年(1257年)

 七歳で

 征夷大将軍・宗尊親王の加冠により元服

 親王より偏諱(宗)を賜り

 相模太郎時宗

 義兄の

 安達泰盛が烏帽子を運ぶ役目を務めた

 文応元年(1260年)

 将軍供奉などを務める小侍所の別当に就任

 弘長元年(1261年)四月

 安達義景の娘(安達泰盛の異母妹)

 堀内殿と結婚

 極楽寺での武芸大会で

 宗尊親王から褒め称えられた

 文永元年(1264年)

 七月

 六代執権の北条長時が出家

 北条政村が七代執権

 八月

 時宗は十四歳で執権補佐の連署に就任

 文永三年(1266年)

 幕府転覆計画の

 宗尊親王の廃位と京都送還

 惟康親王の擁立などを行った

 ↓↑

 クビライ・ハン

 モンゴル皇帝

 即位8年後の

 文永五年(1268年)正月

 高麗使節が元の国書を持って

 大宰府を来訪

 蒙古への服属を求める内容の国書が鎌倉へ送られた

 三月五日

 時宗は十八歳

 第八代執権に就任

 ↓↑

 文永の役

 1274年11月4日~19日~20日

 文永十一年十月五日

 甲戌(コウジュツ)

 「元寇 文永の役(1274年)」

 至元十一年十月五日~二十日)

 ↓↑

 弘安の役

 1281年6月8日~8月22日

 弘安四年五月一日閏七月七日

 至元十八年五月二十一日~八月七日

 辛巳(シンシし)の役

 「元寇 弘安の役(1281年)」

 元軍の殲滅

 ↓↑

 第三次日本侵攻計画

 出兵計画

 兵員の不足で

 重犯罪者の囚人部隊も動員の計画

 1283年(弘安六年・至元二十年)一月

 日本侵攻の司令部

 日本行省を再設置

 「アタカイ(阿塔海)」

 を日本行省丞相に任命

 日本再侵攻の総司令官

 「チェリク・テムル(徹里帖木児)」

 を右丞

 「劉国傑」

 を左丞に任命

 兵を募り造船の指揮を執らせ日本侵攻を急いだ

 ↓↑

 元寇

 時宗は

 大田文の作成

 御家人の所領譲渡制限

 異国警固体制の強化

 異国調伏の祈祷

 モンゴルからの度々の国書には一切返事を与えず

 朝廷が作成した返牒案も採用しなかった

 高麗残党

 三別抄からの援助要請も黙殺

 文永八年(1271年)

 モンゴル使節が再来日し武力侵攻を警告

 少弐氏

 西国御家人に戦争準備を整えさせ

 異国警固番役を設置

 文永九年(1272年)

 異母兄の時輔

 評定衆

 北条時章・教時兄弟を誅殺

 世良田頼氏を佐渡へ配流(二月騒動)

 文永十一年(1274年)

 『立正安国論』

 を幕府に上呈した

 「日蓮」を佐渡に配流

 文永十一年(1274年)

 元軍が日本に襲来(文永の役)

 元軍の内陸部への進撃阻止

 翌年、降伏勧告の使節

 「杜世忠」を

 鎌倉で引見し

 連署の

 北条義政の反対を押し切って処刑

 建治三年(1277年)

 義政は程なく連署を辞して出家

 弘安六年(1283年)

 北条業時が連署に就任するまで連署は空席

 弘安二年(1279年)

 来日した

 周福

 ら使節団も

 大宰府で処刑

 時宗はじめ幕府の首脳陣は

 自らの高麗出兵を一時は命じたが

 軍事費などを勘案した結果中止

 異国警固番役を拡充

 長門探題

 長門警固番役

 を新たに設置し

 博多湾岸に石塁を構築

 非御家人にも兵や兵糧の調達を実施し

 鎌倉幕府の西国における実質的な支配権が拡大

 六波羅探題に対し

 御家人の処罰権を与え機能強化

 北条一族を

 九州などの守護に相次いで任命下向させ

 時宗も小山氏の播磨守護を免じて

 自身が就任

 寄合衆には

 平頼綱ら御内人の参加を広げ

 将軍権力であった

 御恩沙汰などを行うなど得宗専制が強化

 ↓↑

 後嵯峨法皇の遺言により

 亀山天皇

 と

 後深草上皇

 のどちらが治天の君になるかで

 時宗が執権を務める幕府が裁定

 亀山天皇の親政決定

 亀山天皇は皇子の

 後宇多天皇に譲位し

 院政を開始

 時宗は

 後深草上皇の皇子である

 熙仁親王(伏見天皇)の

 立太子を実現

 (両統迭立)

    迭=辶+失

      辶+丿+夫

      辶+丿+二+人

      辶+丿+一+人

      テツ

      かわる・かわりあう

      たがいに・かわるがわる

      何度も・しばしば

      過ぎる・通り過ぎる

      にげる

    迭(かわ)る

    迭(たが)いに

   更迭(コウテツ)

 ↓↑

 弘安四年(1281年)

 弘安の役

 作戦指示

 時宗の名義で出され

 御内人が戦場へ派遣され

 部隊の指揮

 元軍は、2ヶ月近くの戦闘で

 日本軍に苦戦し

 台風を受けて混乱

 日本軍の総攻撃により壊滅

 戦後

 御家人などに対する恩賞問題発生

 3度目の元軍襲来に備え

 国防を強化・・・

 ↓↑

 弘安七年(1284年)

 病床

 四月四日

 出家

 34歳(満32歳)逝去

 鎌倉山ノ内

 瑞鹿山

 円覚寺に葬られた

 結核or心臓病・・・

 禅宗に帰依

 禅宗は父の時頼と交友のあった

 蘭渓道隆

 兀庵普寧

 大休正念

 などから教えを受けた

 蘭渓道隆が死去すると

 中国に使者を派遣し

 「無学祖元」・・・無学の祖元・・・

 を招聘

 祖元が開山した鎌倉の円覚寺(鎌倉市山之内)の

 開基となり

 円覚寺を関東祈祷所とし

 尾張国富田庄を寄進

 「忍性」

 の慈善活動を支援し

 土佐国大忍荘を寄進・・・

 ↓↑

 熊本県

 南小国町

 満願寺に

 時宗を描いたとされる

 頂相が所蔵

 『一遍上人絵伝』

 一遍と出会った時宗の姿

 ↓↑

 三別抄(サンベツショウ)

 高麗王朝の軍事組織

 崔氏政権(武臣政権)の

 「林衍(イム・ヨン)」

 ら実権を握った者の私兵とし

 政敵の暗殺やクーデターの武力として用いられた

 高麗のモンゴル軍の襲撃に際し

 国軍に発展した・・・

 ↓↑

 「別抄」

 別に組織された国内の

 反乱鎮圧などのための臨時編成組織

 騎馬部隊「馬別抄」

 夜間の巡察警戒「夜別抄」

 が

 「崔氏政権」のもとで組織拡大

 続発する反乱により半ば常備軍化し

 「左別抄・右別抄」

 の2部隊となり

 モンゴルの捕虜から脱出した人員による

 「神義別抄(神義軍)」

 を加えて

 「三別抄」

 と呼称

 ↓↑

 三別抄の乱

 936年

 成立高麗は

 中華諸王朝の冊封を受けていたが

 モンゴル系遊牧民

 契丹などの強大化した諸民族が

 高麗へ侵攻するなど

 辺境防備に悩まされ

 高麗は当初、侵攻に抵抗したが後に屈し

 契丹や女真族の

 金朝に対して入朝

 高麗では

 科挙制度の導入など

 国家体制を確立させて対抗を図るが

 文臣だけを優待したため

 不満を持った武臣たちによる政変が発生

 「武臣政変」

 以後の高麗は武臣政権が統治

 1196年

 武臣の

 「崔忠献(チェ・チュンホン)」

 が同じ武臣である

 「李義旼(イ・ウィミン)」

 を殺害

 高麗の実権を握った

 ↓↑

 「崔忠献」

 権力基盤を安定化させるために

 王権を弱体化させ

 宿衛機関である

 「都房(トバン)」

 を組織化して

 崔氏独裁体制を成立

 次代の

 「崔瑀(チェ・ウ)」

 は

 騎馬部隊・・・・・馬別抄

 夜間の巡察警戒・・夜別抄

 を組織し

 組織を統合し

 「三別抄」とした

 「三別抄」

 は崔氏政権を維持するための

 私兵組織であったが

 崩壊していた高麗の軍事制度に変わって

 事実上の国軍と化した

 ↓↑

 1271年

 モンゴル帝国

 クビライによって国号を

 「大元」とした

 1219年

 高麗と同盟を結ぶが

 モンゴルが高麗に貢納の要求などをし

 両国の関係が悪化

 1231年

 第一次高麗侵攻が開始

 1232年

 開城を放棄

 漢江河口

 江華島への遷都

 高麗は衰退の一途をたどる中

 「崔氏」政権に対し

 「金俊(キム・ジュン)」

 が

 クーデター

 主力を担ったのは

 「三別抄」の

 「朴希実」

 1258年

 崔氏政権滅亡

 「金俊」

 はモンゴルに降伏し

 崔氏に続く武臣政権の

 傀儡となった高麗王

 「元宗」

 は

 「林衍」

 ら文臣と手を結び

 「金俊」

 からの政権剥奪を画策

 1268年

 三別抄を取り込んで

 「金俊」

 を暗殺

 ↓↑

 「林衍」

 らは実権の掌握を企図して

 「元宗」

 と対立

 1269年

 高麗王元宗を廃して政権掌握

 元宗およびその世子の

 「王諶(忠烈王)」

 の要請を請けたモンゴルは

 「林衍」討伐のため進軍

 「林衍」は三別抄を動員して抵抗するが急死

 1270年5月

 「林衍」の子の

 「林惟茂(イム・ユム)」

 らが国王側に雇われた三別抄によって暗殺

 武臣政権崩壊

 ↓↑

 モンゴルの支援を受けた元宗は

 江華島から開城へ戻り

 武臣政権の私兵集団として

 国内騒擾の元凶の三別抄を解散を命じたが

 三別抄の

 「裴仲孫(ペ・チュンソン)」

 夜別抄の

 「盧永禧」

 らは宗室の承化侯

 「王温」を推戴し

 江華島を本拠に自立

 6月

 三別抄政権は西南の

 珍島に移り、抗戦の準備

 全羅南道や慶尚南道に勢力を拡大

 1271年

 日本の鎌倉幕府へ救援を求めた

 朝廷からも鎌倉幕府からも黙殺

 2月

 モンゴルから降服を求められた際

 主要指導者

 「裴仲孫」

 が、全羅道を領土として

 モンゴルに隷属することを画策

 モンゴルは

 忠誠の篤い高麗王朝自身による朝鮮の間接統治を望み

 降服条件を無視

 1271年中

 珍島の三別抄は

 高麗の

 「金方慶(キム・バンギョン)」

 「洪茶丘(ホン・タグ)」

 らモンゴルの連合軍に撃破され

 残党が

 「金通精(キム・トンジョン)」

 に率いられて

 「耽羅(済州島)」

 に落ち延びたが

 1273年

 耽羅島も攻め落とされ

 「三別抄の乱」は完全に鎮圧

 同時にモンゴルは

 耽羅総管府を設置

 ↓↑

 高麗は元朝へ服属

 征東等処行中書省の統治下

 新たに高麗王となった

 「忠烈王」

 は日本招諭のための使節派遣や

 1274年からの

 日本侵攻(元寇、文永・弘安の役)

 に苦言を呈する

 蒙古諸将をさしおいて

 積極的にクビライに侵攻を進言

 軍船兵糧、将兵を提供

 ↓↑

 沖縄県

 浦添市にある

 琉球王国時代の王墓、浦添ようどれで高麗瓦が発掘

 「癸酉年高麗瓦匠造」という刻印

 「癸酉年」は

 1153年、1273年、1333年、1393年などが該当

 これが1273年だとすれば

 三別抄が済州島で滅ぼされた年と同一

 三別抄の生き残りが

 沖縄に逃避してきた・・・

 徳之島には既に

 高麗陶工が入り

 カムィ焼の生産に従事

 「浦添ようどれ」

 が最初の琉球王国の王統を築いた

 英祖によって

 咸淳年間(1265年~1274年)に造営された

 『琉球国由来記』

 の記述とも年代としては一致

 ↓↑

 「国民・都民・府民・県民・市民・町民・村民・区民」・・・「民」って?  眼を潰された「盲目(めくら)」の・・・「地域民主主義」?・・・  「人間同士」の民主主義」じゃぁないらしい・・・  「聖徳太子十七条憲法」・・・すばらしい・・・  「日本国憲法」・・・すばらしい・・・  「第三・章十八条憲法」・・・素晴らしい・・・  「地域民主主義」?・・・

 ・・・藤     針槐(ハリエンジュ)=贋アカシア     山吹     鈴蘭・・・のキセツ・・・

 外人が混ざっても日ハム、コンサドーレ・・・頑張れ、ホッカイドぅ~  ・・・夢の代行者・・・稚拙な負け・・・惜シイ引き分け・・・  ↓↑    ↓↑  ・・・北海道の水源カイシメ、漂着泥棒、拉致誘拐・・・  ・・・仏像泥棒、イチャモン乞食、出稼ぎ狸小路売春・・・  「隣国の民主主義も独裁も」・・・  ・・・武則天も、阿部皇女も、オクニョもコマった・・・  ・・・ヘレンも、塙己保一も・・・  北条政子も・・・?  ↓↑    ↓↑       北条政子(伯母)  ↓↑   ・・・保元二年(1157年)~嘉禄元年七月十一日(1225年8月16日)       源頼朝の正室・ 伊豆国韮山の北条時政の長女       頼朝の死後       尼御台(あまみだい)=尼将軍       建保七年(1219年)の実朝死去から       嘉禄元年(1225年)の政子死去まで       北条政子を「鎌倉殿」と扱っている(吾妻鏡)       嘉禄元年七月十一日死没、享年69(六拾九)歳        ・・・七=漆・十一=拾壱・拾壹・拾市・拾位地・足位置       「建保七年(1219年)の実朝死去から        嘉禄元年(1225年)の政子死去まで        北条政子を鎌倉殿と扱っている(吾妻鏡)  ↓↑     ↓↑       「前漢の呂后と同じように天下を治めた        または神功皇后が再生し        我が国の皇基を擁護させ給わった(吾妻鏡)」       と政子を称賛       政子を       「女人入眼の日本国(慈円・愚管抄)」       「女房(女性)の目出度い例である(承久記)」       「この日本国は       姫氏国という・・・」  ↓↑     ↓↑       ・・・中国氏姓の始源=姫       ・・・「中華民族」の始祖=黄帝・・・       巨人の       足跡の       姫水のほとりに生まれ       姓を       姫姓       氏を       軒轅氏       帝鴻氏とも呼ばれ       山海経に登場する       怪神・帝鴻と同一・・・       蚩尤を討って       神農氏に代わって帝となり       開国の帝王       少昊、昌意の父      「姫⇒秦王朝」?         秦王朝=国姓の本姓は嬴(エイ)                 氏は趙(チョウ)             秦が最初に興った場所は             犬丘(甘粛省礼県)・・・  ↓↑     ↓↑  ↓↑     ↓↑      「この日本国は       姫氏国という・・・       女が治めるべき国と言えよう(一条兼良)」       と       「元正天皇・孝謙天皇」       の故事をひき       『神皇正統記(北畠親房)』       『難太平記(今川了俊)』       政子を評価・・・       (by wikipedia)  ↓↑     ↓↑  ↓↑     ↓↑  ・・・と、いうより、比較するなら・・・  ↓↑ 「持統天皇=鸕野讚良(うののさらら、うののささら)          大倭根子天之廣野日女尊  ↓↑       高天原廣野姫天皇」と重ねた・・・?    「斉明三年(657年)      十三歳で叔父の      大海人皇子(天武天皇)に嫁した      父親の      中大兄皇子(天智天皇)は      大田皇女、大江皇女、新田部皇女      の娘4人を弟の      大海人皇子(天武天皇)に与えている      斉明七年(661年)      九州、朝倉宮まで行き      天智元年(662年)      筑紫国の      娜大津で      草壁皇子を出産      翌年      姉の      大田皇女が      大津皇子を産んだが      天智六年(667年)以前に      大田皇女が死亡し      鸕野讃良皇女が      大海人皇子の最高位の妃になった」     「持統天皇=鸕野讚良(うののさらら、うののささら)           大倭根子天之廣野日女尊  ↓↑        高天原廣野姫天皇」と重ねた・・・?  北条政子(伯母)  と  北条泰時(甥)     ・・・(1183年~1242年)         鎌倉幕府第三代執権         父は北条義時         幼名は金剛(こんごう)  の「御成敗式目」・・・現実的な武士の利害秩序の掟、法典  ↓↑    ↓↑  「憲法」がナンでアレ・・・  ・・・居合抜きの、市さん、怒るがぁ~ナぁ~ッ・・・  「護るベキ」だが   何があってもヤられるマエに拔くのが市さん・・・  ・・・市民(プチブル=Petit Bull=petit bourgeois)社会秩序の中での    「流浪の市民(resident of a city・citizen=シチズン)」だから・・・  ↓↑      ↓↑  小ブルジョワ(仏: Petite bourgeoisie,プチ・ブルジョワジー)  小市民  僅かな生産手段を私有する者  自作農や自営商店主  知識を切り売りする弁護士や医師  才能や技能を切り売りする芸術家や俳優  ・・・小市民・・・中市民・・・大市民・・・?  資本を生産手段を持とうが持たないが  それらの「有無」に拘らず  誰でもが「ブルジョア意識をもつ」・・・自由なプチブル人=人間・・・  ↓↑      ↓↑  民=冖+氏・・・氏⇔氐(氏+一)   =¬+一+𠄌(⊥)+一+レ(𠄌)  ↓=尸+七      七⇔十⇔乂⇔乄⇔匕      ナ・メ・乂・乄・X・十・・・七      七(ななつ)⇔匕(匙・匕首)             ヒ(ひ)・七(牝)   =コ+𠄌+一+乚(乀)   =コ+𠄌+弋(一乀)   =口+比   =口+上+匕(七・ヒ・𠤎)・・・弋=𢍺    ・・・匕(牝・雌)⇔已・己・巳・・・       比・此・化・此・北・頃・批・吡(謗・誹謗)       匙・匘・皆・旨・皀・皂       乇(ノ七)⇔托・託・宅            ⇔壬(ノ十一)・・・任那・任命・任官・任期・退任       抡・伦・沦・・・崙=仑(簡体字)・崑崙・崑崘(正字)=侖                 仑(𠆢+匕)=侖(亼+𠕁=𠆢+一+𠕁)                          亼=合                        侖=揃(そろ)える                         ・・・𠕁=册・冊                   論理・倫・淪・輪・掄・蜦・崙                      睔・陯・棆・論・惀・綸                   論=条理・秩序・筋道・順序                 匕=一+𠕁=一+書       㔫=𠂇+匕         異体字「𡯃 ・ 左」・・・匕=工・・・?                    牝は妊娠で匠(巧)に生産?    象形    人の目(罒)を針でさすさま      目をつぶされた(网⇔■+■)奴隷      白字の長方形(□+□)=白目=白罒        ・・・白+口口口(品・𠯮)        ・・・㗊=吅+吅=吕+吕=異体字「𠫬・雷」        ・・・𠾅=異体字「嚚・要」        白目=白罒⇔白女=白水郎(あま)?    全身を覆う白い服を着て潜水・素潜り                 白水郎=海士=一文字にした「塰(泊)」                 男の海人を「海士」、女の海人を「海女」         矩形(クケイ・rectangle)=潰された目?         矩=矢(𠂉一人)+巨(匚+コ⇔工・巧)        (巨⇔眼⇔臣=臨・臥・牽・・・臣下・従臣               捕虜・男の奴隷=目玉)  ↓↑           ↓↑    罒=モウ・ボウ・・・亡・盲=亡+目     =□(囗・口・ロ・ロ)+‖      □⇔潰された目?      よんかしら・よこめ・あみがしら=網頭      あみ・魚や動物をとるアミ・物にかぶせる網      異体字「网・㓁・𦉰・罓・網」          网=冂+㐅+㐅  ↓↑      ↓↑    民=冖(わ・ベキ・ミャク)+氏(うじ・シ)      冖=覆う・布などを上から冠(かぶ)せる    部首=氏(うじ)    ミン    たみ    たみ・ひと    一般の人々・官位をもたない人    統治される人々・・・統治する人を選ぶ人々?    国家社会を構成する人々    民権    民衆    農民・漁民・猟民・牧畜民・民工    住民    移民・流民・難民    植民    領民    臣民・人民    官民・公民    士民・平民・庶民    ・貧民    済民  ↓↑↓↑    民草・民意・民営・民間・民芸    民権・民事・民主・民需・民宿  ↓↑↓↑    民情・民心・民生・民政・民選・民俗    民族・民譚・民度・民部    民部省    民兵・民望・民法・民謡・民話  ↓↑↓↑    民・氓・泯・抿・岷・苠・昬・敃・珉    眠・罠・惽・愍・暋・瑉・緡・蟁・㗃    㥸・呡・䂥・䟨・笢・鍲・㟭・冺・㱪    姄・䋋・敯・㛰・㨉・囻・䃉・䡑・湣    缗・鴖・㢯・刡・䁕・怋・䛉・睯・鈱    㟩・㬆・垊・䇇・䪸  ↓↑  ↓↑  MM1946年7月19日?  丙戌(辛 丁 戊)食神 傷官 養  乙未(丁 乙 己)劫財 劫財 墓・・・食神  甲午(丙 己 丁)   正財 死    辰巳=空亡  ↓↑  窻=窗+心    穴+悤    穴+囱+心    宀+八+悤    穴+囱+心    宀+八+囱+心    宀+八+囱+心    穴+丿+囗+夊+心    穴+丿+囗+夊+心    宀+八+丿+囗+夊+心    宀+八+丿+囗+夊+心  ↓↑  匆=勿+丶   =勹+丿+丿+丶  ↓↑  牕=片+悤    片+囱+心    片+丿('・`・`)+囗+夊+心  ↓↑  向=丿+冋    '+冂+口  向松祚(人民大学国際通貨研究所)?  負債600兆元(9700兆円)・・・中国債券市場デフォルト                 2019年倒産の巨額負債・・・中国  ↓↑  「烏兎匆匆」・・・  歳月が慌しく過ぎていく・・・・  太陽には烏(からす・ウ)  月には兎(うさぎ・ト)  が住む  「烏兎=月日」  「匆匆=慌しい、忙しい」  「烏兎怱怱」とも  ↓↑  「零式艦上戦闘機」   名前の由来は制式採用年の   皇紀2600年(西暦1940年)の下二桁から  「零式」をとり、空母航空隊での運用を目的にした  ↓↑  向=丿 冋    丿 冂 口    コウ・キョウ・ショウ [2]    むかう・さきに    むく・むける・ある方に進む    むき・方向    さきに・以前・昔・先ほど    古代中国の国名・地名・・・?    むこう・むかい・正面    前方・あちら側    むき・むく・適応・適している ーーーーー  ・・・???・・・

 「中華民族」の始祖=黄帝・・・ナゼ・・・黄のテイ?  「虎の額のカワの彪(あや)が王の字」・・・  「寅の綴り」・・・「属国の王」・・・  「黄」・・・「寅」の「宀+一」を「廿」に置き換えた形  「廣」から「广と一」を除いた形・・・「黄」  「廣=广+廿+一+由+ハ=廣」  「廣=広」⇔「応(應=广+イ+隹+心)神天皇」=誉田別尊      広⇔応・・・ム=心            ム(私)=シ・ボウ・ム            わたくし・ござる・なにがし・それがし・某            よこしま(横島・邪)            ム=シ・ボウ・ム              わたくし・ござる・なにがし・それがし・某              よこしま           邪僻=よこしまで、ひねくれ、ひがんでいる              彼岸(ひがん)⇔此岸(しがん)             「この御世に              海部(あまべ)、山部、山守部、伊勢部              を定めたまひき。              また、剣池(つるぎのいけ)を作りき。              また新羅人参渡(まいわた)り来つ。              ここをもちて              建内宿禰命引い率て、              堤池に役ちて、              百済池(くだらのいけ)を作りき」  䧹=鳥を抱く形、抱く鳥は鷹    膺(むね)に鷹を抱き    誓(うけ)ひ狩りをし    神意を問う。それに神意がこたえるのが「応(應)」  ↓↑  寅(とら・イン)  「宀+黄=宀+龷+由+ハ=寅」  ↓↑  「廿+一+由+ハ」    「一」画少ない略字の  「黄=龷+由+ハ=黄」  を新字体に定めた・・・   廣=広  ↓↑ ーーーーー  氏(うじ・シ)・・・氐(もと・テイ・テ)=氏+一         ・・・底辺・船底・抵抗・抵触・抵当・大抵            弖(て)=弓+一・・・国字           「弖爾乎波=てにをは=天爾遠波」           「阿弖流為(アテルイ)」           「无利弖=:むりて」= 5世紀後半の豪族            熊本県菊水町江田・船山古墳出土の鉄刀の銘文            ワカタケル大王(雄略天皇)に            典曹人(役人)としてつかえた           「治天下獲○○○鹵大王世            奉事典曹人            名无利弖」           「作刀者            名伊太和            書者張安也」  ↓↑         ↓↑ ↓↑           「治天下獲○○○鹵大王世奉事典曹人名无利弖            八月中            用大鉄釜            并四尺            廷刀八十            練九十            振三寸            上好刊刀服            此刀者            長寿子孫洋々            得○恩也            不失其所統            作刀者 名 伊太和            書 者   張安也」  ↓↑  古代の中国  同一の先祖から出た  血縁集団(姓)  から  分れ出た小集団(氏)  ↓↑  氏にあたる各小血縁集団は  姓にあたる大血縁集団のうち  居住地や職業  一族の中の社会的序列などによって  独立した集団  ↓↑  氏  古代中国の「氏」  「姓」と呼ばれる血縁集団の中の  特定の構成員を起源  氏  血統的な  姓から分節された集団  ↓↑  姓=始源血族の部族  氏=職業、階層、地位、身分、居住地などに分岐した氏族  ↓↑  日本  姓と氏の間に意味上の差異はない・・・?  ↓↑     品部(ともべ)・朝廷に直属する部民(職業部・名代)        部曲 (かきべ・ぶきょく)・古代の中国、朝鮮、日本の        私有民や私兵などの身分        民部とも書く。中国が起源で、であり、隷属的集団        部は          職業を軸とした職業部          所属を軸とした豪族部、子代・御名代        部曲(カキ)        豪族に率いられた部  ↓↑  ウヂ・・・・血縁  カバネ・・・身分  ふたつの  氏姓制度  前者が氏  後者が姓  という漢字をあてはめられ・別々の意味  日本では  漢字表現での  姓、もしくは本姓が「うじ」  ここから分化した名字・家名を表記  古代中国の  ウヂが姓  カバネが氏  に対応  ↓↑  姫(姬)=ひめ・キ=媛・嬪・比目・比女・比売・比海布・陽芽・氷女  ↓↑    ひめ=鳹=今+鳥=鴲=旨+鳥         =シメの別名          シメ(此女・鳹・蝋嘴)          鳹=ケン・ゲン・キン・ゴン・カン・コン          異体字「雂・鵭」          ついばむ=「突き食(は)む・peck, pick up」の転          ついばむ=「鶼・啄・嗆・噣・喋」                嘴=くちばし・シ・スイ  ↓↑           鳥が嘴を使ってつついて食べる  「天子などのそばにいて身の回りの世話をする女性」  「中国古代の王、黄帝の姓・姫水のほとりにいて、姫を姓とした」  「周の王室の姓   姫は、足跡(あしあと)の意味で   周の先祖の   后稷(コウショク) は   母が巨人の足跡を踏んで産んだ子なので   姫(姬)を姓とした」  「姫=女+臣=シン・シ・つつしむ」  「姬=女+𦣝=キ・ひめ=㚦( 古体)=女+丌(キ)」      「𦣝」=顎の象形で「頤」の原字・乳房の形とも・・・          姫莎草(ひめくぐ)          姫小松(ひめこまつ)          姫鱒(ひめます)          姫昔艾(ひめむかしよもぎ)       𦣝=匚+I+|+コ・・箱の中のシャフト?・咽喉の扁桃腺?       𦣞=匚+|+□・・・箱の中の糸球・糸車?・咽喉の扁桃腺?        「䇫=竹+𦣞」の初文で「梳き櫛」の形・・・櫛函(化粧箱)?         姬=乳房=「女+𦣝・イ」の形・・・箪笥の引き出し?           君主の側妾や貴婦人の意   新字体は乳房が𦣝⇒臣に変化し「姫」になった       𦣝=異体字「𦣞・頤・𩠡」       𦣞=匚+口+|=叵+|=イ=乳房の象形         ・・・上下の唇で「□○・楽器」を銜(咥・くわ)えている顔? 頁=ケツ=祭事の帽子、呪飾・人の首から上 =ページ(page)・大貝・授乳の儀礼・やしなう意 乳を飲む         頤・熙・巸・媐         𦣤=イ・巸・𣢮=「𦣝・𦣞」+ㄹ+¬=𦣤=𦣞+己+凵                 「𦣝・𦣞」+ㄹ+凵           大きく広く行き渡るさま、同”熙”⇔康煕字典           楽しいさま、満ち足り喜ぶさま、同”熙”⇔康煕字典          「𦣞」は拡声器・喇叭など管楽器など吹く状態?  ↓↑  「中華民族」の始祖=黄帝・・・?  「姫水の畔(ほとり・辺)」に  生まれたことに因んで  姓は「姫・姬」  氏は「軒轅」・・・「軒=車+干」「轅=車+袁」            車のハンドル(梶棒)・車の長柄            犴=中国の北方に生息する野犬              地方にある牢・刑務所            猿=手長猿・・・尾長サル              袁=長袖・振袖・スリーブス  または「帝鴻」・・・鴻=江+鳥=氵+工+鳥=大鳥・白鳳・大白鳥            「白鳥の湖」の湖畔の足跡って?・・・             白鳥のモデル             求愛ダンスを踊るのはタンチョウ鶴             ツルの求愛のダンスと             バレリーナのダンスの刻むリズムが同じ・・・  「山海経」の怪神は  帝鴻と同一  黄帝は  蚩尤(シユウ)・・・姓は姜で炎帝神農氏の子孫            獣身で銅の頭に鉄の額を持つ            四目六臂で人の身体に            牛の頭と            鳥の蹄を持ち            頭に角がある  を討って  神農氏に代わって帝となった  春秋戦国時代に  中国とされる領域を統治した開国の帝王  少昊、昌意の父  ↓↑  彼以降の4人の五帝と  夏、殷、周、秦  の始祖が  黄帝の子孫」・・・黄帝(コウテイ⇔「請う・乞う・府中」綴)?  ↓↑  秦王朝  秦が最初に興った場所は  犬丘(甘粛省礼県)・・・犬丘=ケンキュウ=建久・研究              甘粛省=隴・省都は蘭洲                  金城が蘭州の古名                  黄土高原、青蔵高原                  内蒙古高原の間に位置              甘粛=カンシュク=韓(漢・奸)宿?              礼県=レイケン=例懸・例建・例虔?  ↓↑  紀元前714年  平陽へ遷都  紀元前677年  首都を  雍城(陝西省鳳翔県南東)に置いた  ↓↑  九代  穆公(ボクコウ)は・・・姓、諱=「嬴任好」  百里奚などの  他国出身者を  積極的に登用  巧みな人使いと信義を守る姿勢で  西戎を大きく討って  西戎の覇者となり  周辺の小国を合併し領土を広げ  隣の大国  晋にも匹敵した  晋が  ↓↑  驪姫(リキ)・・・晋に滅ぼされた異民族驪戎の娘で           晋の 献公が見初めて           驪姫の妹と共に後宮入りして寵愛されたが           献公死没一ヵ月後、献公の部下の里克に           息子の斉や驪姫の妹一族共々殺害された  による  「驪姫の乱」  ↓↑  で混乱すると  恵公を擁立  恵公は  秦に背信を繰り返したので  韓原の地で撃破  「韓原の戦い」  恵公が死んだ後に  恵公の兄  重耳を晋に入れて即位させた  重耳=晋の名君=文公  秦は  その治世時には  晋に押されぎみで  「殽の戦い」、「彭衙の戦い」  紀元前628年  文公死後  再び晋を撃破して領土を奪った  秦の  穆公は  春秋五覇の一人となった  紀元前621年  穆公死没  177名の家臣たちが殉死  秦は勢いを失い、領土は縮小  ↓↑  戦国時代  七雄の一  隣国の晋は内部での権力争いの末に  韓・魏・趙  の三国に分裂  「晋陽の戦い」  魏が戦国初期には  文侯により強勢となり  秦は魏により圧迫を受け  領土を奪われる  「洛陰の戦い」  紀元前383年  秦の献公は  櫟陽(レイキョウ・陝西省西安市閻良区)  に遷都  ↓↑  二十五代  孝公は広く人材を求め  頽勢挽回策を求め  商鞅が応じ  商鞅は  行政制度の改革・什伍制の採用  などで  秦を中央集権体制に変えた  商鞅の変法運動に始まる  秦の法治主義により  国内の生産力、軍事力を高め  徐々に他の六国を圧倒していった  紀元前350年  涇陽(陝西省涇陽県)付近に  城門・宮殿・庭園を造営して遷都  都の名を  咸陽と改めた  ↓↑  後  孝公の子の  恵文王が  紀元前324年  王につく  秦を恐れた  韓・趙・魏・燕・斉  の五ヶ国連合軍が攻めて来たが  樗里疾  がこれを破った  (函谷関の戦い)  紀元前316年  恵文王は  巴蜀(四川省)を  占領(秦滅巴蜀の戦い)  この地の開発、生産力を上げ  長江の上流域を押さえ  楚に対して  長江を使った進撃が行えるようになり  圧倒的に有利な立場に立った  謀略に長けた  張儀を登用し  楚を引きずり回して戦争で撃破し(藍田の戦い)  楚の  懐王を束縛  魏と韓の王達を屈服させた  恵文王の子の  武王との確執により  張儀が  魏に亡命  韓との戦いで多くの兵を失い自身は事故死  紀元前298年  斉の宰相  孟嘗君が  韓・魏との連合軍を組織し  匡章  を統帥として  秦に侵攻(三国聯軍攻秦の戦い)  秦が函谷関に追いつめられると  趙・宋も加わり  五国連合軍となったため  秦は講和を求めた  後、東では  斉が伸張し、宋を併合  紀元前288年  田斉の  湣王  が東帝  秦が西帝と名乗るとした  この時期は  西の秦・東の斉の二強国時代  斉は周辺諸国から恨みを買い  孟嘗君が  魏へ逃亡  燕の  楽毅が指揮する五国連合軍により  首都臨淄が陥落(済西の戦い)  斉は亡国寸前  東の斉  西の秦の二強国時代から  秦一強時代へと移行・・・  ↓↑  恵文王の子で  武王の異母弟の  昭襄王の時代に  宰相・魏冄  と  将軍・白起  の活躍  だが  魏より亡命してきた  范雎を登用し  彼の策を採用  魏冄らを退ける進言を受け入れ  范雎から進言された遠交近攻策で  同盟の韓・魏と斉との戦いを  斉や燕と同盟して近くの韓・魏・趙を攻めれば  秦の領土となる進言で  昭襄王は  范雎を宰相とした  ↓↑  紀元前260年  白起は  趙への侵攻軍を率い  長平の戦いで  趙軍の捕虜40万を坑(穴埋)にした  しかし  范雎から妬まれ  趙の都を落とす直前で引き返させられた  紀元前259年  将軍を  王齕に替えて再び趙を攻めた秦軍は  趙の平原君のもとに  援軍として現れた  魏の  信陵君  楚の  春申君の活躍によって阻まれ(邯鄲の戦い)  大将に再任されようとした  白起だったが  不信を持って王命を拒否し  死を賜った  ↓↑  敵国の趙で人質生活を送る  子楚(昭襄王の孫のひとり)を  商人の  呂不韋が  子楚に投資  子楚が荘襄王として即位し  呂不韋の愛妾でもあった  趙姫との間に、子(政・始皇帝)を儲けた  紀元前255年  周を滅ぼし領地を接収  紀元前247年  魏の  信陵君が率いる  五カ国連合軍に攻め込まれ  王齕と蒙驁の迎撃軍が敗退し  函谷関まで撤退(河外の戦い)  信陵君に関する流言飛語を実践すると  魏の  安釐王に疎まれた  信陵君が  国政の中枢から外された  ↓↑  法制  秦  商鞅により作られた法家思想の律令国家  ↓↑  漢の  蕭何は  劉邦に伴って咸陽に入城し  秦の書庫から  法律の書物を獲  これを元として  「律九章」と呼ばれる法律を作った  「律九章」は  「盗・賊・囚・捕・雑・具・興・厩・戸」  の九律があったと『晋書』  秦の法律に関する一次資料  『睡虎地秦簡』  と呼ばれるものがある  1975年  湖北省  雲夢県で発掘された  秦の法官であったと思われる  喜と言う人物の墓に入れてあった  竹簡群で  秦の法律に関する事柄が記載されている  ↓↑  peck, pick up  ↓↑  韓(カン)・・・韓国?  古代中国の  西周時代に存在した都市国家  初め現在の  河北省にあり  後に現在の  陝西省に移った (戦国の韓、半島南部隣国とは別国家)  ↓↑  姬姓  元々  禹の  姒姓と同祖  黄帝・帝嚳の別姓  嚳の子孫の  后稷は  「姬」を姓として使った  后稷の子孫とされる  古公  亶父が周の始祖  曾孫の  武王が殷を滅ぼし  周王朝を築き  国姓とした  ↓↑  周王室から分家の  姬姓諸国  呉・燕・晋(もとは唐)・韓(晋の分岐国諸説あり)  魏(もとは畢・晋の分岐国)  管・魯・鄭・衛・霍・虢(東虢・西虢に分岐)  曹・蔡・虞・滕・随  韓(戦国の韓とは別国家)  劉  などが・・・  ↓↑  春秋戦国時代  次第に  姓は  氏(公孫氏など)を用いることが多く  周およびその分家の国が滅んでいく中で  「姬姓」と称する者は徐々に消滅  ↓↑  姬姓  漢の武帝が封禅の時  周の末裔を探し  庶流筋の  「姬嘉」を発見し  周子南君に封じ  周の祭祀を奉じさせた・・・  衛の公族筋で  西晋期間中まで存続  咸康二年(336年・東晋代)  断絶  ↓↑  戦国末期以降  姓と氏は同一化  一部の中国人は  姓を以って氏とした  「姬姓」の人は  「姬姓」から分かれた  周氏・魯氏・管氏・蔡氏・霍氏・曹氏・衛氏  滕氏・畢氏・原氏・毛氏・雍氏・応氏・韓氏  唐氏・凡氏・蒋氏・邢氏・茅氏・祭氏・鄭氏  劉氏・魏氏  などを含む・・・  ↓↑  姫際可=明末清初の武術家  姫鵬飛=(1910年2月2日~2000年2月10日)      中華人民共和国の政治家      国務院副総理・外交部長      1929年       陸軍薬専学院卒業       馮玉祥の西北軍の軍医      1931年       紅軍に参加      1933年       共産党入党      1934年       長征では中央革命軍事委員      1950年       駐東独大使       2000年       江沢民に「息子の冤罪で抗議、服毒自殺」       遠華密輸事件(アモイ事件)  ↓↑    ↓↑       膜蛤(江沢民)?       1926年8月17~       丙寅(戊 丙 甲)偏印偏印長生        冲(戊)       丙申(戊 壬 庚)偏印偏財 病        冲(戊)       戊寅(戊 丙 甲)  偏印長生        申酉空亡       父親       江世俊       ジェスフィールド76号(極司非爾路76號)?       日中戦争下の上海で       日本軍によって設立された       対重慶特務工作機関の協力者・・・?       汪兆銘政権が樹立され       国民党中央委員会       特務委員会特工総部 ー↓↑ーー↓↑ーー↓↑ーー  「中華民族」の始祖=黄帝・・・?  「姫水(キッスイ)」の  ほとりに生まれたことに因んで  姓は姫姓  氏は軒轅氏・または帝鴻氏  「山海経」の怪神  帝鴻と同一  蚩尤を討って  神農氏に代わって帝となった  春秋戦国時代に  中国とされる領域を統治した開国の帝王  少昊・昌意の父  黄帝陵  中華人民共和国  陝西省  延安市  黄陵県に位置  ↓↑  彼以降の4人の五帝と  夏・殷・周・秦  の始祖が  黄帝の子孫・・・」  ↓↑  秦王朝  秦が最初に興った場所は  犬丘(甘粛省礼県)・・・  ↓↑  紀元前714年  平陽へ遷都  紀元前677年  首都を  雍城(陝西省鳳翔県南東)に置いた  ↓↑  九代  穆公は  百里奚などの  他国出身者を積極的に登用  巧みな人使いと信義を守る姿勢で  西戎を大きく討って  西戎の覇者となり  周辺の小国を合併し領土を広げ  隣の大国  晋にも匹敵した  晋が  驪姫による  「驪姫の乱」  で混乱すると  恵公を擁立  恵公は  秦に背信を繰り返したので  韓原の地で撃破  「韓原の戦い」  恵公が死んだ後に  恵公の兄  重耳を晋に入れて即位させた  重耳=晋の名君・文公  秦は  その治世時には  晋に押されぎみで  「殽の戦い」・「彭衙の戦い」  紀元前628年  文公死後  再び晋を撃破して領土を奪った  秦の  穆公は  春秋五覇の一人となった  紀元前621年  穆公死没  177名の家臣たちが殉死  秦は勢いを失い・領土は縮小  ↓↑  戦国時代  七雄の一  隣国の晋は内部での権力争いの末に  韓・魏・趙  の三国に分裂  「晋陽の戦い」  魏が戦国初期には  文侯により強勢となり  秦は魏により圧迫を受け  領土を奪われる  「洛陰の戦い」  紀元前383年  秦の献公は  櫟陽(レイキョウ・陝西省西安市閻良区)  に遷都  ↓↑  二十五代  孝公は広く人材を求め  頽勢挽回策を求め  商鞅が応じ  商鞅は  行政制度の改革・什伍制の採用  などで  秦を中央集権体制に変えた  商鞅の変法運動に始まる  秦の法治主義により  国内の生産力・軍事力を高め  徐々に他の六国を圧倒していった  紀元前350年  涇陽(陝西省涇陽県)付近に  城門・宮殿・庭園を造営して遷都  都の名を  咸陽と改めた  ↓↑  後  孝公の子の  恵文王が  紀元前324年  王につく  秦を恐れた  韓・趙・魏・燕・斉  の五ヶ国連合軍が攻めて来たが  樗里疾  がこれを破った  (函谷関の戦い)  紀元前316年  恵文王は巴蜀(四川省)を占領(秦滅巴蜀の戦い)  この地の開発・生産力を上げ  長江の上流域を押さえ  楚に対して  長江を使った進撃が行えるようになり  圧倒的に有利な立場に立った  謀略に長けた  張儀を登用し  楚を引きずり回して戦争で撃破し(藍田の戦い)  楚の  懐王を束縛  魏と韓の王達を屈服させた  恵文王の子の  武王との確執により  張儀が  魏に亡命  韓との戦いで多くの兵を失い自身は事故死  紀元前298年  斉の宰相  孟嘗君が  韓・魏との連合軍を組織し  匡章  を統帥として  秦に侵攻(三国聯軍攻秦の戦い)  秦が函谷関に追いつめられると  趙・宋も加わり  五国連合軍となったため  秦は講和を求めた  後・東では  斉が伸張し・宋を併合  紀元前288年  田斉の  湣王  が東帝  秦が西帝と名乗るとした  この時期は  西の秦・東の斉の二強国時代  斉は周辺諸国から恨みを買い  孟嘗君が  魏へ逃亡  燕の  楽毅が指揮する五国連合軍により  首都臨淄が陥落(済西の戦い)  斉は亡国寸前  東の斉  西の秦の二強国時代から  秦一強時代へと移行・・・  ↓↑  恵文王の子で  武王の異母弟の  昭襄王の時代に  宰相・魏冄  と  将軍・白起  の活躍  だが  魏より亡命してきた  范雎を登用し  彼の策を採用  魏冄らを退ける進言を受け入れ  范雎から進言された遠交近攻策で  同盟の韓・魏と斉との戦いを  斉や燕と同盟して近くの韓・魏・趙を攻めれば  秦の領土となる進言で  昭襄王は  范雎を宰相とした  ↓↑  紀元前260年  白起は  趙への侵攻軍を率い  長平の戦いで  趙軍の捕虜40万を坑(穴埋)にした  しかし  范雎から妬まれ  趙の都を落とす直前で引き返させられた  紀元前259年  将軍を  王齕に替えて再び趙を攻めた秦軍は  趙の平原君のもとに  援軍として現れた  魏の  信陵君  楚の  春申君の活躍によって阻まれ(邯鄲の戦い)  大将に再任されようとした  白起だったが  不信を持って王命を拒否し  死を賜った  ↓↑  敵国の趙で人質生活を送る  子楚(昭襄王の孫のひとり)を  商人の  呂不韋が  子楚に投資  子楚が荘襄王として即位し  呂不韋の愛妾でもあった  趙姫との間に・子(政・始皇帝)を儲けた  紀元前255年  周を滅ぼし領地を接収  紀元前247年  魏の  信陵君が率いる  五カ国連合軍に攻め込まれ  王齕と蒙驁の迎撃軍が敗退し  函谷関まで撤退(河外の戦い)  信陵君に関する流言飛語を実践すると  魏の  安釐王に疎まれた  信陵君が  国政の中枢から外された  ↓↑  法制  秦  商鞅により作られた法家思想の律令国家  ↓↑  漢の  蕭何は  劉邦に伴って咸陽に入城し  秦の書庫から  法律の書物を獲  これを元として  「律九章」と呼ばれる法律を作った  「律九章」は  「盗・賊・囚・捕・雑・具・興・厩・戸」  の九律があったと『晋書』  秦の法律に関する一次資料  『睡虎地秦簡』  と呼ばれるものがある  1975年  湖北省  雲夢県で発掘された  秦の法官であったと思われる  喜と言う人物の墓に入れてあった  竹簡群で  秦の法律に関する事柄が記載されている ーーーーー  ・・・???・・・

 「中華民族」の始祖=黄帝・・・ナゼ・・・黄のテイ?  「虎の額のカワの彪(あや)が王の字」・・・  「寅の綴り」・・・「属国の王」・・・  「黄」・・・「寅」の「宀+一」を「廿」に置き換えた形  「廣」から「广と一」を除いた形・・・「黄」  「廣=广+廿+一+由+ハ=廣」  「廣=広」⇔「応(應=广+イ+隹+心)神天皇」=誉田別尊      広⇔応・・・ム=心            ム(私)=シ・ボウ・ム            わたくし・ござる・なにがし・それがし・某            よこしま(横島・邪)            ム=シ・ボウ・ム              わたくし・ござる・なにがし・それがし・某              よこしま           邪僻=よこしまで、ひねくれ、ひがんでいる              彼岸(ひがん)⇔此岸(しがん)             「この御世に              海部(あまべ)、山部、山守部、伊勢部              を定めたまひき。              また、剣池(つるぎのいけ)を作りき。              また新羅人参渡(まいわた)り来つ。              ここをもちて              建内宿禰命引い率て、              堤池に役ちて、              百済池(くだらのいけ)を作りき」  䧹=鳥を抱く形、抱く鳥は鷹    膺(むね)に鷹を抱き    誓(うけ)ひ狩りをし    神意を問う。それに神意がこたえるのが「応(應)」  ↓↑  寅(とら・イン)  「宀+黄=宀+龷+由+ハ=寅」  ↓↑  「廿+一+由+ハ」    「一」画少ない略字の  「黄=龷+由+ハ=黄」  を新字体に定めた・・・   廣=広  ↓↑ ーーーーー  氏(うじ・シ)・・・氐(もと・テイ・テ)=氏+一         ・・・底辺・船底・抵抗・抵触・抵当・大抵            弖(て)=弓+一・・・国字           「弖爾乎波=てにをは=天爾遠波」           「阿弖流為(アテルイ)」           「无利弖=:むりて」= 5世紀後半の豪族            熊本県菊水町江田・船山古墳出土の鉄刀の銘文            ワカタケル大王(雄略天皇)に            典曹人(役人)としてつかえた           「治天下獲○○○鹵大王世            奉事典曹人            名无利弖」           「作刀者            名伊太和            書者張安也」  ↓↑         ↓↑ ↓↑           「治天下獲○○○鹵大王世奉事典曹人名无利弖            八月中            用大鉄釜            并四尺            廷刀八十            練九十            振三寸            上好刊刀服            此刀者            長寿子孫洋々            得○恩也            不失其所統            作刀者 名 伊太和            書 者   張安也」  ↓↑  古代の中国  同一の先祖から出た  血縁集団(姓)  から  分れ出た小集団(氏)  ↓↑  氏にあたる各小血縁集団は  姓にあたる大血縁集団のうち  居住地や職業  一族の中の社会的序列などによって  独立した集団  ↓↑  氏  古代中国の「氏」  「姓」と呼ばれる血縁集団の中の  特定の構成員を起源  氏  血統的な  姓から分節された集団  ↓↑  姓=始源血族の部族  氏=職業、階層、地位、身分、居住地などに分岐した氏族  ↓↑  日本  姓と氏の間に意味上の差異はない・・・?  ↓↑     品部(ともべ)・朝廷に直属する部民(職業部・名代)        部曲 (かきべ・ぶきょく)・古代の中国、朝鮮、日本の        私有民や私兵などの身分        民部とも書く。中国が起源で、であり、隷属的集団        部は          職業を軸とした職業部          所属を軸とした豪族部、子代・御名代        部曲(カキ)        豪族に率いられた部  ↓↑  ウヂ・・・・血縁  カバネ・・・身分  ふたつの  氏姓制度  前者が氏  後者が姓  という漢字をあてはめられ・別々の意味  日本では  漢字表現での  姓、もしくは本姓が「うじ」  ここから分化した名字・家名を表記  古代中国の  ウヂが姓  カバネが氏  に対応  ↓↑  姫(姬)=ひめ・キ=媛・嬪・比目・比女・比売・比海布・陽芽・氷女  ↓↑    ひめ=鳹=今+鳥=鴲=旨+鳥         =シメの別名          シメ(此女・鳹・蝋嘴)          鳹=ケン・ゲン・キン・ゴン・カン・コン          異体字「雂・鵭」          ついばむ=「突き食(は)む・peck, pick up」の転          ついばむ=「鶼・啄・嗆・噣・喋」                嘴=くちばし・シ・スイ  ↓↑           鳥が嘴を使ってつついて食べる  「天子などのそばにいて身の回りの世話をする女性」  「中国古代の王、黄帝の姓・姫水のほとりにいて、姫を姓とした」  「周の王室の姓   姫は、足跡(あしあと)の意味で   周の先祖の   后稷(コウショク) は   母が巨人の足跡を踏んで産んだ子なので   姫(姬)を姓とした」  「姫=女+臣=シン・シ・つつしむ」  「姬=女+𦣝=キ・ひめ=㚦( 古体)=女+丌(キ)」      「𦣝」=顎の象形で「頤」の原字・乳房の形とも・・・          姫莎草(ひめくぐ)          姫小松(ひめこまつ)          姫鱒(ひめます)          姫昔艾(ひめむかしよもぎ)       𦣝=匚+I+|+コ・・箱の中のシャフト?・咽喉の扁桃腺?       𦣞=匚+|+□・・・箱の中の糸球・糸車?・咽喉の扁桃腺?        「䇫=竹+𦣞」の初文で「梳き櫛」の形・・・櫛函(化粧箱)?         姬=乳房=「女+𦣝・イ」の形・・・箪笥の引き出し?           君主の側妾や貴婦人の意   新字体は乳房が𦣝⇒臣に変化し「姫」になった       𦣝=異体字「𦣞・頤・𩠡」       𦣞=匚+口+|=叵+|=イ=乳房の象形         ・・・上下の唇で「□○・楽器」を銜(咥・くわ)えている顔? 頁=ケツ=祭事の帽子、呪飾・人の首から上 =ページ(page)・大貝・授乳の儀礼・やしなう意 乳を飲む         頤・熙・巸・媐         𦣤=イ・巸・𣢮=「𦣝・𦣞」+ㄹ+¬=𦣤=𦣞+己+凵                 「𦣝・𦣞」+ㄹ+凵           大きく広く行き渡るさま、同”熙”⇔康煕字典           楽しいさま、満ち足り喜ぶさま、同”熙”⇔康煕字典          「𦣞」は拡声器・喇叭など管楽器など吹く状態?  ↓↑  「中華民族」の始祖=黄帝・・・?  「姫水の畔(ほとり・辺)」に  生まれたことに因んで  姓は「姫・姬」  氏は「軒轅」・・・「軒=車+干」「轅=車+袁」            車のハンドル(梶棒)・車の長柄            犴=中国の北方に生息する野犬              地方にある牢・刑務所            猿=手長猿・・・尾長サル              袁=長袖・振袖・スリーブス  または「帝鴻」・・・鴻=江+鳥=氵+工+鳥=大鳥・白鳳・大白鳥            「白鳥の湖」の湖畔の足跡って?・・・             白鳥のモデル             求愛ダンスを踊るのはタンチョウ鶴             ツルの求愛のダンスと             バレリーナのダンスの刻むリズムが同じ・・・  「山海経」の怪神は  帝鴻と同一  黄帝は  蚩尤(シユウ)・・・姓は姜で炎帝神農氏の子孫            獣身で銅の頭に鉄の額を持つ            四目六臂で人の身体に            牛の頭と            鳥の蹄を持ち            頭に角がある  を討って  神農氏に代わって帝となった  春秋戦国時代に  中国とされる領域を統治した開国の帝王  少昊、昌意の父  ↓↑  彼以降の4人の五帝と  夏、殷、周、秦  の始祖が  黄帝の子孫」・・・黄帝(コウテイ⇔「請う・乞う・府中」綴)?  ↓↑  秦王朝  秦が最初に興った場所は  犬丘(甘粛省礼県)・・・犬丘=ケンキュウ=建久・研究              甘粛省=隴・省都は蘭洲                  金城が蘭州の古名                  黄土高原、青蔵高原                  内蒙古高原の間に位置              甘粛=カンシュク=韓(漢・奸)宿?              礼県=レイケン=例懸・例建・例虔?  ↓↑  紀元前714年  平陽へ遷都  紀元前677年  首都を  雍城(陝西省鳳翔県南東)に置いた  ↓↑  九代  穆公(ボクコウ)は・・・姓、諱=「嬴任好」  百里奚などの  他国出身者を  積極的に登用  巧みな人使いと信義を守る姿勢で  西戎を大きく討って  西戎の覇者となり  周辺の小国を合併し領土を広げ  隣の大国  晋にも匹敵した  晋が  ↓↑  驪姫(リキ)・・・晋に滅ぼされた異民族驪戎の娘で           晋の 献公が見初めて           驪姫の妹と共に後宮入りして寵愛されたが           献公死没一ヵ月後、献公の部下の里克に           息子の斉や驪姫の妹一族共々殺害された  による  「驪姫の乱」  ↓↑  で混乱すると  恵公を擁立  恵公は  秦に背信を繰り返したので  韓原の地で撃破  「韓原の戦い」  恵公が死んだ後に  恵公の兄  重耳を晋に入れて即位させた  重耳=晋の名君=文公  秦は  その治世時には  晋に押されぎみで  「殽の戦い」、「彭衙の戦い」  紀元前628年  文公死後  再び晋を撃破して領土を奪った  秦の  穆公は  春秋五覇の一人となった  紀元前621年  穆公死没  177名の家臣たちが殉死  秦は勢いを失い、領土は縮小  ↓↑  戦国時代  七雄の一  隣国の晋は内部での権力争いの末に  韓・魏・趙  の三国に分裂  「晋陽の戦い」  魏が戦国初期には  文侯により強勢となり  秦は魏により圧迫を受け  領土を奪われる  「洛陰の戦い」  紀元前383年  秦の献公は  櫟陽(レイキョウ・陝西省西安市閻良区)  に遷都  ↓↑  二十五代  孝公は広く人材を求め  頽勢挽回策を求め  商鞅が応じ  商鞅は  行政制度の改革・什伍制の採用  などで  秦を中央集権体制に変えた  商鞅の変法運動に始まる  秦の法治主義により  国内の生産力、軍事力を高め  徐々に他の六国を圧倒していった  紀元前350年  涇陽(陝西省涇陽県)付近に  城門・宮殿・庭園を造営して遷都  都の名を  咸陽と改めた  ↓↑  後  孝公の子の  恵文王が  紀元前324年  王につく  秦を恐れた  韓・趙・魏・燕・斉  の五ヶ国連合軍が攻めて来たが  樗里疾  がこれを破った  (函谷関の戦い)  紀元前316年  恵文王は  巴蜀(四川省)を  占領(秦滅巴蜀の戦い)  この地の開発、生産力を上げ  長江の上流域を押さえ  楚に対して  長江を使った進撃が行えるようになり  圧倒的に有利な立場に立った  謀略に長けた  張儀を登用し  楚を引きずり回して戦争で撃破し(藍田の戦い)  楚の  懐王を束縛  魏と韓の王達を屈服させた  恵文王の子の  武王との確執により  張儀が  魏に亡命  韓との戦いで多くの兵を失い自身は事故死  紀元前298年  斉の宰相  孟嘗君が  韓・魏との連合軍を組織し  匡章  を統帥として  秦に侵攻(三国聯軍攻秦の戦い)  秦が函谷関に追いつめられると  趙・宋も加わり  五国連合軍となったため  秦は講和を求めた  後、東では  斉が伸張し、宋を併合  紀元前288年  田斉の  湣王  が東帝  秦が西帝と名乗るとした  この時期は  西の秦・東の斉の二強国時代  斉は周辺諸国から恨みを買い  孟嘗君が  魏へ逃亡  燕の  楽毅が指揮する五国連合軍により  首都臨淄が陥落(済西の戦い)  斉は亡国寸前  東の斉  西の秦の二強国時代から  秦一強時代へと移行・・・  ↓↑  恵文王の子で  武王の異母弟の  昭襄王の時代に  宰相・魏冄  と  将軍・白起  の活躍  だが  魏より亡命してきた  范雎を登用し  彼の策を採用  魏冄らを退ける進言を受け入れ  范雎から進言された遠交近攻策で  同盟の韓・魏と斉との戦いを  斉や燕と同盟して近くの韓・魏・趙を攻めれば  秦の領土となる進言で  昭襄王は  范雎を宰相とした  ↓↑  紀元前260年  白起は  趙への侵攻軍を率い  長平の戦いで  趙軍の捕虜40万を坑(穴埋)にした  しかし  范雎から妬まれ  趙の都を落とす直前で引き返させられた  紀元前259年  将軍を  王齕に替えて再び趙を攻めた秦軍は  趙の平原君のもとに  援軍として現れた  魏の  信陵君  楚の  春申君の活躍によって阻まれ(邯鄲の戦い)  大将に再任されようとした  白起だったが  不信を持って王命を拒否し  死を賜った  ↓↑  敵国の趙で人質生活を送る  子楚(昭襄王の孫のひとり)を  商人の  呂不韋が  子楚に投資  子楚が荘襄王として即位し  呂不韋の愛妾でもあった  趙姫との間に、子(政・始皇帝)を儲けた  紀元前255年  周を滅ぼし領地を接収  紀元前247年  魏の  信陵君が率いる  五カ国連合軍に攻め込まれ  王齕と蒙驁の迎撃軍が敗退し  函谷関まで撤退(河外の戦い)  信陵君に関する流言飛語を実践すると  魏の  安釐王に疎まれた  信陵君が  国政の中枢から外された  ↓↑  法制  秦  商鞅により作られた法家思想の律令国家  ↓↑  漢の  蕭何は  劉邦に伴って咸陽に入城し  秦の書庫から  法律の書物を獲  これを元として  「律九章」と呼ばれる法律を作った  「律九章」は  「盗・賊・囚・捕・雑・具・興・厩・戸」  の九律があったと『晋書』  秦の法律に関する一次資料  『睡虎地秦簡』  と呼ばれるものがある  1975年  湖北省  雲夢県で発掘された  秦の法官であったと思われる  喜と言う人物の墓に入れてあった  竹簡群で  秦の法律に関する事柄が記載されている  ↓↑  peck, pick up  ↓↑  韓(カン)・・・韓国?  古代中国の  西周時代に存在した都市国家  初め現在の  河北省にあり  後に現在の  陝西省に移った (戦国の韓、半島南部隣国とは別国家)  ↓↑  姬姓  元々  禹の  姒姓と同祖  黄帝・帝嚳の別姓  嚳の子孫の  后稷は  「姬」を姓として使った  后稷の子孫とされる  古公  亶父が周の始祖  曾孫の  武王が殷を滅ぼし  周王朝を築き  国姓とした  ↓↑  周王室から分家の  姬姓諸国  呉・燕・晋(もとは唐)・韓(晋の分岐国諸説あり)  魏(もとは畢・晋の分岐国)  管・魯・鄭・衛・霍・虢(東虢・西虢に分岐)  曹・蔡・虞・滕・随  韓(戦国の韓とは別国家)  劉  などが・・・  ↓↑  春秋戦国時代  次第に  姓は  氏(公孫氏など)を用いることが多く  周およびその分家の国が滅んでいく中で  「姬姓」と称する者は徐々に消滅  ↓↑  姬姓  漢の武帝が封禅の時  周の末裔を探し  庶流筋の  「姬嘉」を発見し  周子南君に封じ  周の祭祀を奉じさせた・・・  衛の公族筋で  西晋期間中まで存続  咸康二年(336年・東晋代)  断絶  ↓↑  戦国末期以降  姓と氏は同一化  一部の中国人は  姓を以って氏とした  「姬姓」の人は  「姬姓」から分かれた  周氏・魯氏・管氏・蔡氏・霍氏・曹氏・衛氏  滕氏・畢氏・原氏・毛氏・雍氏・応氏・韓氏  唐氏・凡氏・蒋氏・邢氏・茅氏・祭氏・鄭氏  劉氏・魏氏  などを含む・・・  ↓↑  姫際可=明末清初の武術家  姫鵬飛=(1910年2月2日~2000年2月10日)      中華人民共和国の政治家      国務院副総理・外交部長      1929年       陸軍薬専学院卒業       馮玉祥の西北軍の軍医      1931年       紅軍に参加      1933年       共産党入党      1934年       長征では中央革命軍事委員      1950年       駐東独大使       2000年       江沢民に「息子の冤罪で抗議、服毒自殺」       遠華密輸事件(アモイ事件)  ↓↑    ↓↑       膜蛤(江沢民)?       1926年8月17~       丙寅(戊 丙 甲)偏印偏印長生        冲(戊)       丙申(戊 壬 庚)偏印偏財 病        冲(戊)       戊寅(戊 丙 甲)  偏印長生        申酉空亡       父親       江世俊       ジェスフィールド76号(極司非爾路76號)?       日中戦争下の上海で       日本軍によって設立された       対重慶特務工作機関の協力者・・・?       汪兆銘政権が樹立され       国民党中央委員会       特務委員会特工総部 ー↓↑ーー↓↑ーー↓↑ーー  「中華民族」の始祖=黄帝・・・?  「姫水(キッスイ)」の  ほとりに生まれたことに因んで  姓は姫姓  氏は軒轅氏・または帝鴻氏  「山海経」の怪神  帝鴻と同一  蚩尤を討って  神農氏に代わって帝となった  春秋戦国時代に  中国とされる領域を統治した開国の帝王  少昊・昌意の父  黄帝陵  中華人民共和国  陝西省  延安市  黄陵県に位置  ↓↑  彼以降の4人の五帝と  夏・殷・周・秦  の始祖が  黄帝の子孫・・・」  ↓↑  秦王朝  秦が最初に興った場所は  犬丘(甘粛省礼県)・・・  ↓↑  紀元前714年  平陽へ遷都  紀元前677年  首都を  雍城(陝西省鳳翔県南東)に置いた  ↓↑  九代  穆公は  百里奚などの  他国出身者を積極的に登用  巧みな人使いと信義を守る姿勢で  西戎を大きく討って  西戎の覇者となり  周辺の小国を合併し領土を広げ  隣の大国  晋にも匹敵した  晋が  驪姫による  「驪姫の乱」  で混乱すると  恵公を擁立  恵公は  秦に背信を繰り返したので  韓原の地で撃破  「韓原の戦い」  恵公が死んだ後に  恵公の兄  重耳を晋に入れて即位させた  重耳=晋の名君・文公  秦は  その治世時には  晋に押されぎみで  「殽の戦い」・「彭衙の戦い」  紀元前628年  文公死後  再び晋を撃破して領土を奪った  秦の  穆公は  春秋五覇の一人となった  紀元前621年  穆公死没  177名の家臣たちが殉死  秦は勢いを失い・領土は縮小  ↓↑  戦国時代  七雄の一  隣国の晋は内部での権力争いの末に  韓・魏・趙  の三国に分裂  「晋陽の戦い」  魏が戦国初期には  文侯により強勢となり  秦は魏により圧迫を受け  領土を奪われる  「洛陰の戦い」  紀元前383年  秦の献公は  櫟陽(レイキョウ・陝西省西安市閻良区)  に遷都  ↓↑  二十五代  孝公は広く人材を求め  頽勢挽回策を求め  商鞅が応じ  商鞅は  行政制度の改革・什伍制の採用  などで  秦を中央集権体制に変えた  商鞅の変法運動に始まる  秦の法治主義により  国内の生産力・軍事力を高め  徐々に他の六国を圧倒していった  紀元前350年  涇陽(陝西省涇陽県)付近に  城門・宮殿・庭園を造営して遷都  都の名を  咸陽と改めた  ↓↑  後  孝公の子の  恵文王が  紀元前324年  王につく  秦を恐れた  韓・趙・魏・燕・斉  の五ヶ国連合軍が攻めて来たが  樗里疾  がこれを破った  (函谷関の戦い)  紀元前316年  恵文王は巴蜀(四川省)を占領(秦滅巴蜀の戦い)  この地の開発・生産力を上げ  長江の上流域を押さえ  楚に対して  長江を使った進撃が行えるようになり  圧倒的に有利な立場に立った  謀略に長けた  張儀を登用し  楚を引きずり回して戦争で撃破し(藍田の戦い)  楚の  懐王を束縛  魏と韓の王達を屈服させた  恵文王の子の  武王との確執により  張儀が  魏に亡命  韓との戦いで多くの兵を失い自身は事故死  紀元前298年  斉の宰相  孟嘗君が  韓・魏との連合軍を組織し  匡章  を統帥として  秦に侵攻(三国聯軍攻秦の戦い)  秦が函谷関に追いつめられると  趙・宋も加わり  五国連合軍となったため  秦は講和を求めた  後・東では  斉が伸張し・宋を併合  紀元前288年  田斉の  湣王  が東帝  秦が西帝と名乗るとした  この時期は  西の秦・東の斉の二強国時代  斉は周辺諸国から恨みを買い  孟嘗君が  魏へ逃亡  燕の  楽毅が指揮する五国連合軍により  首都臨淄が陥落(済西の戦い)  斉は亡国寸前  東の斉  西の秦の二強国時代から  秦一強時代へと移行・・・  ↓↑  恵文王の子で  武王の異母弟の  昭襄王の時代に  宰相・魏冄  と  将軍・白起  の活躍  だが  魏より亡命してきた  范雎を登用し  彼の策を採用  魏冄らを退ける進言を受け入れ  范雎から進言された遠交近攻策で  同盟の韓・魏と斉との戦いを  斉や燕と同盟して近くの韓・魏・趙を攻めれば  秦の領土となる進言で  昭襄王は  范雎を宰相とした  ↓↑  紀元前260年  白起は  趙への侵攻軍を率い  長平の戦いで  趙軍の捕虜40万を坑(穴埋)にした  しかし  范雎から妬まれ  趙の都を落とす直前で引き返させられた  紀元前259年  将軍を  王齕に替えて再び趙を攻めた秦軍は  趙の平原君のもとに  援軍として現れた  魏の  信陵君  楚の  春申君の活躍によって阻まれ(邯鄲の戦い)  大将に再任されようとした  白起だったが  不信を持って王命を拒否し  死を賜った  ↓↑  敵国の趙で人質生活を送る  子楚(昭襄王の孫のひとり)を  商人の  呂不韋が  子楚に投資  子楚が荘襄王として即位し  呂不韋の愛妾でもあった  趙姫との間に・子(政・始皇帝)を儲けた  紀元前255年  周を滅ぼし領地を接収  紀元前247年  魏の  信陵君が率いる  五カ国連合軍に攻め込まれ  王齕と蒙驁の迎撃軍が敗退し  函谷関まで撤退(河外の戦い)  信陵君に関する流言飛語を実践すると  魏の  安釐王に疎まれた  信陵君が  国政の中枢から外された  ↓↑  法制  秦  商鞅により作られた法家思想の律令国家  ↓↑  漢の  蕭何は  劉邦に伴って咸陽に入城し  秦の書庫から  法律の書物を獲  これを元として  「律九章」と呼ばれる法律を作った  「律九章」は  「盗・賊・囚・捕・雑・具・興・厩・戸」  の九律があったと『晋書』  秦の法律に関する一次資料  『睡虎地秦簡』  と呼ばれるものがある  1975年  湖北省  雲夢県で発掘された  秦の法官であったと思われる  喜と言う人物の墓に入れてあった  竹簡群で  秦の法律に関する事柄が記載されている ーーーーー  ・・・???・・・

  「无」=何もないこと

    「无」の字は「無」と同字

    「无」⇔「旡(むせる)・牙(きば)」

    「旡」の部首・画数・読み方・意味など

  無⇔撫⇔無頓着⇔無理・・・蔵版有理・・・?  ↓↑     无=旡(ム・ブ・むにょう・なし・すでのつくり)       キ       むせる       むせる・むせぶ・食べ物がのどにつまる・息がつまる  ↓↑  「无(ム・ブ)」と「無(ム)」と「𣠮(ム)」  ↓↑  俗字の「無」が当用漢字  「无」と「𣠮」  「无」を新字  「𣠮」を旧字  ↓↑  昭和17年6月17日  国語審議会  標準漢字表2528字を、文部大臣に答申  火部に俗字の「無」が収録  新字の「无」  旧字の「𣠮」は収録されていない  文部省は  12月4日に標準漢字表を発表  俗字の「無」はアレど  新字の「无」  旧字の「𣠮」はナシ  ↓↑  昭和21年4月27日  国語審議会  常用漢字表1295字に  火部に  俗字の「無」が含まれ  新字の「无」  旧字の「𣠮」は含まれなかった  国語審議会  11月5日に答申した当用漢字表  俗字の「無」だけ  11月16日に当用漢字表は内閣告示  昭和23年1月1日  戸籍法が改正  名前に使える漢字  当用漢字表1850字に制限  「無」は名づけに使ってよい  新字の「无」  旧字の「𣠮」  子供の名づけに使用禁止  ↓↑  平成16年3月26日  法制審議会  人名用漢字部会は  「常用平易」な漢字であれば  どんな漢字でも人名用漢字として追加  新字の「无」は「常用平易」とはみなされず  人名用漢字に追加されず  旧字の「𣠮」は追加対象にもならなかった  ↓↑  平成23年12月26日  法務省  入国管理局正字13287字を告示  入国管理局正字は  日本に住む外国人が  住民票や在留カード等の氏名に使える漢字  新字の「无」と  俗字の「無」を含まれた  旧字の「𣠮」は含まれない  「𣠮」  日本人の子供の出生届に  旧字の「𣠮」は使用できない  ↓↑  𣠮=𡘲+亡+林    亠('一)+廿+人+廿+亡+林(木木)   異体字「無・无・𣟒」   声符「𣞤・𢅿・𦣌・𢌋・𦨅・𤅅・𢺌・𨽬」  𣞤=一+廿+人+廿+木+木は天秤の平衡(目盛)  廿= 20(二十・卄・廾・にじゅう・はた・はたち)    「二十、并せたるなり(説文解字)」     十の字を横に並べた字「十十」で、         底を「一」で繋いだ「廿=十十」     ↓↑  广(かだれ・ゲン・ゴン)の         氐(氏一・もと・テ・テイ)で結んだ         氐(氏一)=て=手=弖(弓一)                   弓月氏     ↓↑     弓月君(ゆづきのきみ・ユツキ)               秦氏の先祖とされる渡来人               始皇帝の孫の孝武王の子              (始皇帝十二世孫)              「功満王」の子              『新撰姓氏録』では              「融通王=弓月君」            ・・・融通する王?               弓月君=究解通(訳・譯)訓                      ・・・譯(と)く               秦の帝室の後裔               始皇帝十三世孫で子孫は               波多(応神天皇)               波陁(仁徳天皇)               雄略天皇からは               禹都萬佐(うつまさ・太秦)     ↓↑         姓を賜・・・秦氏     廿     音読みは「ジュウ・ニュウ」      ・・・「20」が「ジュウ」って・・・?     訓読みは「にじゅう」 ーーー  無=𠂉+卌(シュウ)+一+灬=ム=无・𣟒  𣞤  𣟒  橆  ↓↑  卌=數の名・卌を所載    「字統に云はく、糞插す杷なりと」            糞に挿す杷(まぐわ)という意           「𣟒=廿+木+廿+林」         ・・・天秤棒(十ハ)にかけられた「廿=肥桶」?  卌=40(四十・卌・四〇・肆十      しじゅう・よんじゅう・よそ・よそじ      forty)    40=(2+3+5)+(2×3×5)    不惑    結婚40周年の祝いをルビー婚    ノアの洪水は40日間続いた    キリストは荒野で40日間断食    第40代天皇は天武天皇    第40代内閣総理大臣は東條英機    将棋の駒は全部で(双方併せて)40枚    第40番元素はジルコニウム・(Zr)    -40°F・=・-40°C。摂氏と華氏が等しい唯一の温度  40年  干支=庚子  垂仁天皇     六十九(69)年  皇紀       七百(700) 年  中国  後漢 :建武    十六(16)年・・・建=たける=武  朝鮮  高句麗:大武神王 二十三(23)年・・・おほのブジン  新羅 :儒理 王  十七(17)年・・・イの雨の而してのコトワリ  百済 :多婁 王  十三(13)年・・・多の婁  ↓↑  豐也。  从林、𡘲。或說規模字。  从大、𠦜、數之積也。  林者、木之多也。  𠦜與庶同意。  『商書』曰、庶草繁無。  ↓↑  ↓↑    从=人につきしたがう様・「從」の原字    從=彳+从+止(足)    ジュウ・ジュ・ショウ    したがう・したがえる    ついて行く・つれて行く    言う通りにする・言うことをきく    仕事に従事する    「~より・~から・~によって」の意    ほしいまま・心のまま    勝手気まま・ほしいままにする    縦(たて)・南北の方向    けらい・つきしたがう人・主人の共をする人    従容=落ち着いて、ゆとりのあるさま    したがって・それゆえ・それだから  ↓↑  𣠮=「廿+一+人+廿+亡+林」    「廿=桶の形象」    「一=担ぎ棒・天秤の棒」・「人」・「十八」  ・・・両天秤で量った平衡バランス「0」の木々、木材・・・?  𣞣=「𠂉+卌+木+亡+木」  ↓↑  王育說、天屈西北爲无。  ↓↑  𣑨=一+廿+廿+木   =無=𠂉(かみ挿し)の卌(柵)が燃(灬)やされ滅亡?    ない・ブ・ム・・・    無=𤍍・𣞣・𣟒・𡙻・𣠮・𣚨・𠘩・𤀢=無      𤍍=亠+廿+廿+灬(烈火)        蓋を閉じられた二器(二鍋・なべ)が        烈火にかけられ        中の水分が沸騰し蒸発し無くなった?    𣑨=ない・存在しない      有(ウ・ゆう)していない      ~ではない      ~であってはならない ーーー  説文解字  林部「𣞤」字條  𣞤=亠+廿+人+廿+林  𣞤=廿+大+廿+林  𣟒=廿+木+廿+林  橆=𠂉+卌+一+林  ↓↑  豐也。从林、𡘲。或說規模字。  从大、𠦜、數之積也。  林者、木之多也。  𠦜與庶同意。  『商書』曰、庶草繁無。  ↓↑  𣠮=𡘲+亡+林    亠('一)+廿+人+廿+亡+林(木木)  𣠮  𣠮  あるいは  𣞣に作る。  亡也。从亡無聲。  ↓↑  无  奇字无、通於元者。  王育說、天屈西北爲无。  康煕字典  ↓↑  古文  𣟒=廿+木+廿+林  𣚨=廿+木+廿+木・・・某=甘+木?・・・甘=手桶の形?  ↓↑  𠘩=匕+几  ↓↑  又『說文奇字』作无。   『玉篇』虛无也。    周易無字俱作无。  ↓↑  又『集韻』或作亡。・・・空亡・滅亡・滅却・壊滅           ・・・忘却・多忙・健忘   『詩・衞風』何有何亡。  ↓↑  又通作毋。書、無逸。・・・毋(なかれ・するな・禁止・ブ・ム)               毌(つらぬく・貫・カン)               母(はは・ボ・ム)  『史記・魯世家』作毋逸。・・・作るに逸するなかれ  ↓↑  又通作毛。・・・毛=軽い・細い・微量・僅少・わずか  『後漢・馮衍傳』飢者毛食。   ・・・憑依・蔓延(はびこ)る・衍曼流爛・鄒衍降霜  衍集、毛作無。  今俗語猶然。或古亦通乎。  『佩觿集』河朔謂無曰毛。  『通雅』江楚廣東呼無曰毛。  ↓↑  又『集韻』或作武。      ・・・武=一(はじめ)の  ↓↑       弋(いぐるみ・ とる・ヨク・イキ・繳射)を             射(い)包(くる)み             繳射(シャクシャ)=矰繳(ソウシャ)                       矰弋(ソウヨク)             矢に糸や網をつけて射放ち             鳥や魚にからませて捕える  ↓↑       止(やめ)る  禮器 詔侑武方。武當爲無、聲之誤也。  鄭註 明言其誤。集韻合無、武爲一。非。  ↓↑         ・・・武爲一?・・・武(あしあと)?    「帝の武(あしあと)の       敏(おやゆび)を       履(ふ)みて       歆(う)く(詩経)」       武の意味       勇猛、強い、軍事、武力、戦士、兵法、兵器       足趾、足、跡を継ぐ       舞(ブ)と通じて「舞う」という意  ↓↑    武=止+戈         武器を持って進む        「堂上には武を接         堂下には武を布く(礼記・曲礼)」        「楚莊王曰く、夫れ武は         功を定め兵を戢(おさ)む。         故えに止戈を武と爲す・・・「弋」≠「戈」?             戈ではなく「弋」・・・「弌」?        (説文解字・巻十二・春秋左氏伝・宣公十二年)」         武器を収める意        異体字「𢎁=(字彙)・䟼・㱐・𨅐・𨖴」            𢎁=一+弋+亾              ・・・亾=𠃊(乙・Z)+人                   亾(あやう)き                   ない・なくなる・ほろびる                   モウ            㤀(わすれ)=亾+心=忘・・・記憶の忘却               「匃=勹+亾」=「匄=勹+亡」=乞う        声符 「武(ブ・ム)・陚・賦・䟼」            䟼=𧾷+武=異体字「躌」=武  ↓↑  『集韻』無或作橆。 ・・・無=橆・・・「灬・火・炎」=「林・木木」             焚き火で燃やす丸太、木木を井形に組む             祈祷の護摩壇?  韻會、𣞣本古文蕃𣞣字。  篆借爲有無字。  李斯變隷變林爲四點。  說文 𣠮、从亡無聲、在亡部。  至蕃橆之橆、在林部。  音義各別、不云相通。  且有無與蕃橆義尤相反、不應借用。  玉篇集韻韻會俱非。  韻會蕃橆作蕃𣞣、尤非。  又按讀書通云、  通作勿莫末沒蔑微不曼瞀等字、  或止義通、或止音近、實非一字也。讀書通誤。  ↓↑  又梵言、南無呼那謨。  那如拏之上聲、謨音如摩、猶云歸依也。  ↓↑  『玉篇』古文無字。註見火部八畫。互見十二畫橆字。  ↓↑  『玉篇』古文無字。註詳火部八畫。  ↓↑  几  『字彙補』古文無字。註見火部八畫。  ↓↑  『唐韻』文甫切  『集韻』『韻會』罔甫切  『正韻』罔古切、𠀤音武。  『說文』豐也。从𡘲从林。   大、𠦜、數之積也。   林者、木之多也。   𠦜與庶同意。  『書・洪範』庶草蕃橆。  『唐韻』隷省作無、今借爲有無字。  『字彙』橆、古文蕃橆字。   有無之無、則用无字。   秦以橆作无、李斯又改作無、後因之。  ↓↑  『正韻』繁橆、『今文尚書』作廡。  橆、廡義同。・・・廡=广+無  ↓↑  古文  𠑶  『唐韻』武夫切、音巫。  『說文』𣞣、亡也。  奇字、无通𣞣。  王育說、天屈西北爲无。  『易・乾卦』无咎。  『釋文』无音無。  易內皆作此字。  『藝苑雄黃』无亦作亡。  古皆用亡无、  秦時、始以蕃橆之橆爲有無之無。  ↓↑  詩、書、春秋、禮記、論語本用无字、  變篆者變爲無、惟易、周禮盡用无。  然論語亡而爲有、我獨亡、諸無字、  蓋變隸時誤讀爲存亡之亡、故不改也。・・・爲存亡之亡  ↓↑  又『廣韻』莫胡切、音模。  南无、出『釋典』。  ↓↑  異體字  『説文解字』林部に錄す。  『説文解字』亡部に錄す。  ↓↑  𣠮をまた𣞣に作る。  ↓↑  音訓  ム(呉)・ブ(漢)  『廣韻・上平聲・虞・無』武夫切  ない・ず・あらず・なかれ・むなしい(虛無)。  解字  無は人の舞ふ姿の象形で、舞の初文。  假借して有無の無を表し、  舛を加へた舞字を別に作つて原義を表す。  ↓↑  无の字源は不詳。  ・・・无=一+尢=一+ナ+乚=亠+儿  ↓↑     尢=足や背中が曲がって不自由な人  無      亠=音         儿=ノ+乚=人  もと象形。人の舞ふ形で、舞の初文。  卜文に無を  舞雩(雨乞ひの祭)の字に用ゐ、雨に從ふ形。  ↓↑  有無の無の意に用ゐるのは假借。  專らその假借義に用ゐる。  ↓↑  説文解字に  豐かなりと訓じ、  字を林に從ふ字とするが、  説文解字が林とするその部分は、  舞袖の飾りとして加へた  金文の字形を、誤り傳へた。  また「豐かなり」の訓も、  『爾雅・釋詁』蕪、豐也。  (蕪は豐かなり)と見える蕪字の訓。  ↓↑  字は人が兩袖を擴げて舞ふ形。  兩足を開く形である舛を加へて  舞となる。  ↓↑  いま舞には舞を用ゐ、無は有無の無に專用して區別する。  ↓↑  无  象形。亡の異體字。     亡は屍骨の象。  ↓↑  説文解字  亡部に  無に從ふ𣠮字を擧げ  その重文として  无を擧げる  无は「屈屍」の象  亡と同字。  金文の《越王鐘》に  萬葉まで亡疆ならんことをの  亡を无の形に作る。  『易・无妄』など、  『易』に多くこの字を用ゐる。  『莊子』にも用事例が多  ↓↑  無  甲骨文  人が兩手に飾りを持つて舞ふさま  後の舞の原字。  無は、  亡と  音符  舞の略體の形聲。  古典で「无」字で「無」を表すことが多  ↓↑  无=一+大(人)の會意    一印をつけ    頭を見えなくすることを示す。    無字の古文異體字。  ↓↑  旡、兂は別字。  ↓↑  舞の甲骨文  手に飾りを附けて舞つてゐる姿  無の形  專ら假借して  有無の意のみに使用  原義は篆文で人の足  ↓↑  甲骨文  人が手に  牛尾の類の飾りを持ち  輕やかに舞ふさま  古人は  手に牛尾を執つて  舞ひ踊つたと記載  『呂氏春秋・仲夏紀・古樂』  昔葛天氏之樂  三人摻牛尾投足  以歌八闋。  後に無を有無の無に借り  金文は  牛尾の飾りを變形し某とした  金文で  某はまた否定詞に用ゐる  某は  無の聲符であり、意符でもある  ↓↑  甲骨文では  有無の義に假借する例が見えない  金文の時代に  有無の無に假借することが始まり  ゆゑに無の下に     兩足の形(舛)を加へて     舞を表した(季旭昇)  説文解字の小篆では  無の下に  亡を加へて無を表す  この種の字形は  漢碑にのみ見える  ↓↑  甲骨文では祭名に使用  舞ひ踊つて雨乞いの祭  ↓↑  無(舞)、大雨  無(舞)河眔岳  河神、山神に對し  舞ひ踊つて雨を求むること  金文では  あらざることを表す  ↓↑  善夫克鼎萬年無彊(疆)。  王孫遺者鐘萬年無諆(期)  萬年、終はり、期限がないの意  「萬壽無疆」と意は近い。  甲骨文、金文では  多く「亡」を假借して「無」とす  ↓↑  戰國竹簡  舞ひ踊ること  睡虎地秦簡・日書甲種  背歌無(舞)  毋を借りて無となす  睡虎地秦簡・日書甲種  則毋(無)央(殃)矣は  禍殃がないことを表す  ↓↑  無  ↓↑  𣟒・𣚨・𠘩・橆・无・𣞤・𣠮  𣞣  無聲の字  璑  蕪・瞴・膴・舞・鄦・幠  廡・憮・潕・撫・嫵・𨼊 ーーーーー  ・・・???・・・  「黄」・・・「寅」の[宀]を[廿]に置き換えた形  「廣」から[广]を除いた形・・・  「廣=广+廿+一+由+ハ=廣」  ↓↑  「宀+黄=宀+龷+由+ハ=寅」  ↓↑   一画少ない略字の  「黄=廿+由+ハ=黄」を新字体に定めた   廣=広  ↓↑  「この御世に   海部(あまべ)、山部、山守部、伊勢部   を定めたまひき。   また、剣池(つるぎのいけ)を作りき。   また新羅人参渡(まいわた)り来つ。   ここをもちて   建内宿禰命引い率て、   堤池に役ちて、   百済池(くだらのいけ)を作りき」  ↓↑  䧹は鳥を抱く形、抱く鳥は鷹、  膺(むね)に鷹を抱き、  誓(うけ)ひ狩りをして神意を問う。  それに神意がこたえるのが応(應)  ↓↑  ム=シ・ボウ・ム    わたくし・ござる・なにがし・それがし・某    よこしま  ↓↑  邪僻=よこしまで、ひねくれていること     彼岸(ひがん)⇔此岸(しがん) ーーーーー  ・・・???・・・  resident  長期居住者・在住者  visitor=一時滞在者  寄宿生・ホテル宿泊客  Japanese residents in England=在英日本人  ↓↑  レジデント(resident)  研修医  米国で1年目の研修医をインターン  日本で初期臨床研修(通常2年間)を終えた後  専門領域の研修を行う  後期臨床研修医(通常3年目以降)を  レジデントと呼ぶ  ↓↑  residency  U=residence  UC(芸術家・作家などがある機関・ 大学)  に専属となっている期間  U(歴史上)  インド総督代理公邸  知事州(旧オランダ領東インドの行政区)  UC(特に米)  専門医学実習生の身分期間  ↓↑  resident  居住者・市民  The residents made complaints about the noise.  ↓↑  U.S. Citizen  Resident  Alien  Non Resident Alien  ↓↑  レジデント(resident)  居住する・在住の・駐在の・住み込みの・専属の  内在して・固有で  居住者・在住者・滞在客・病院研修医  アパートの住人・居留民  ↓↑  「バイオハザード」  海外では  「Resident Evil」  resident evil=居住する悪  ↓↑  resident=居住する、住み込みの、内在する(形容詞)       居住者(名詞)  ↓↑  「evil=よこしまな、邪悪な、不吉な(形容詞)      悪、邪悪、不善(名詞)」  ↓↑  「resident evil=棲み込んだ(resident) + 悪(evil)」  ↓↑  「foreigner」、「alien」、「foreign resident」  ↓↑  「RESIDENT EVIL」=「内に潜む悪」  ↓↑  ・・・「citizen=シチズン・死地住・七事務・質棲」?  ↓↑  𠫬=異体字「幽」・「幽」の同字    かす・か、仄(ほの)かな    ぼんやりしている・物静かな    薄暗い・暗い    遠く離れているさま・奥深いさま、    人知れないさま    暗がりに身を隠す  ↓↑ ↓↑    厶・厸・㕕・厽・𠫬    牟・弁    𠫰・叅・参・參    劺・鴾・矣・怠・欸・枲・涘  ↓↑ ↓↑    𠫠・𠫡・𠫢・𠫣・𠫤・𠫥・𠫦・𠫧・𠫨    𠫩・𠫪・𠫫・𠫬・𠫭・𠫮・𠫯    𠫰・𠫱・𠫲・𠫳・𠫴・𠫵・𠫶・𠫷・𠫸    𠫹・𠫺・𠫻・𠫼・𠫽・𠫾・𠫿    𠬀・𠬁・𠬂・𠬃・𠬄・𠬅・𠬆・𠬇・𠬈    𠬉・𠬊・𠬋・𠬌・𠬍・𠬎・𠬏    𠬐・𠬑・𠬒・𠬓・𠬔・𠬕・𠬖・𠬗・𠬘    𠬙・𠬚・𠬛・𠬜・𠬝・𠬞・𠬟  ↓↑ ↓↑  レガシー(legacy)  過去の遺産  遺産・先人の遺物  時代遅れのもの  本来、過去に築かれた、精神的・物理的遺産の意 ーーーーー  ・・・???・・・「時代遅れ」なモノはナニもナイ・・・  「虎の額のカワの彪(あや・虎の彡=爪痕)が王の字」・・・  ↓↑  舞・無  屢舞僊僊  屢しばしば舞ふこと僊僊たり  しばしば軽やかに舞いおどる  ・・・『詩経』小雅・賓之初筵  ↓↑  不知足之蹈之、手之舞之  足の之を蹈み、手の之を舞ふを知らず  手の舞い足の舞いを知らない  ・・・『孟子』離婁上・・・婁の上から離る  ↓↑  吏士舞文弄法  吏士、文を舞はし、法を弄ぶ。  官吏は法律文を勝手に解釈し用いている  ・・・『史記』貨殖伝  ↓↑  ダンス  自在に手足を動かす  勝手気ままにする  ↓↑  舞  「橆+舛」  「橆=𣞤」が「舞」の原形  人が両手に武具を持って踊る姿  橆から二つの字が分化し  無(𣞣・𣠮)=橆+亡=ない  無=舞雩(ブウ)=雨乞いの儀礼(字通)    左足と右足を開いたさま    無=人が両手に飾りを持って舞うさま      幸いを求める神楽舞(漢字源)  ↓↑  舞=𠂉(かみ挿し)+卌(𠦌⇔冊・册・柵)+舛=まう    儛=人+舞      イ亻𠂉卌一タ夕ヰ㐄舛舞儛      楽器や歌に合わせスキップ舞    𡣆=女+舞      女𠂉卌一タ夕ヰ㐄舛舞𡣆  ↓↑   橆(𣞤)=おどる=踊・躍・踴・趯・跳・躍  橆(𣞤)は「ない(需要・必要)ものを求める」  舛=夊(引きずる足の形)+㐄(夊の鏡文字)    左右両足を交互に跳ね踏む  ↓↑  「無=人が両手に舞具を持って踊る」・・・?     ・・・𠂉(カミ挿し)の     ・・・髪挿し=かみさし=神差し=汐差し     卌(樓柱・柵柱)で     四柱(神)を束ねる(‖‖+一+一)     卌=40=肆拾(十・足)         肆=つらねる    「卌」⇔「冊」=「木簡・竹簡」を紐で束ねる        一(始める)        夕(汐・セキ)の          汐=うしお・夕方の汐(しお)の        ヰ(井組)の櫓  「不・非・弗」・・・アラず・事実ではナイ            モノが違う・状況が異なる  「未・莫・勿・亡」・・・いまだ~ではナイ              するナ              すでにナイ  ↓↑   之子無裳  之の子、裳無し  この娘には裳がない  ・・・『詩経』衛風・有狐・・・風にまもられるキツネあり  ↓↑  德音無良  徳音、良きこと無し・・・?・・・徳音は無いが良し  ↓↑  愛の言葉が冷たくなった・・・?  ・・・『詩経』邶風・日月・・・北の阜(連丘)の風は日月  ↓↑  無思遠人  遠くの人を思ふ無かれ・・・?  心の通わぬ人を思うな・・・?・・・無い思いは遠くの人  ・・・『詩経』斉風・甫田・・・斉(清浄)な風  ↓↑  無  物や事が存在しない(~がない)  不・非  行為や状態がそうでない(~しない、~でない)  莫れ・勿れ  「~するな」  禁止  ↓↑  「無」・・・?     ・・・「存在の有無の無」        「時間軸(プロセス上)の有無の無」  ↓↑  無=橆=𣞣=橆+亡    橆+亡=𣞣=ない(必要な)モノを求める    橆(𣞤)=人が両手に舞具を持つ形    𣞤=𣞣=橆+亡=𣞣    亡=亠(音)+乚(L・乙)    撫=手+無=触(さわ・ふれ)る・撫(な)ぜる・摩(こす)る

     ナデシコ(なでしこ・撫子・瞿麦)=撫でし子           蘧麦(キョバク)      ダイアンサス (Dianthus)=蝦夷河原撫子      代案(大安・大庵・対案)差素(指す・注す・点す)      瞿=みる・おそれる・ク・・・危惧・危懼(キク)        眼を見はる・おどろく・おそれる        瞿瞿・瞿然・瞿(おそれる)        瞿然(クゼン) ・瞿麦(せきちく)        瞿麦(なでしこ)        瞿曇 悉達多=釈迦・仏陀

   蕪=艹+無=艸+無      あれる・しげる・雑草が茂って荒れる      蕪辞(ブジ)      ごたごたして整っていない言葉      自分の文章や言葉をへりくだっていう語      蕪無し=かぶらなし          花器の一種          胴にカブのような          丸いふくらみのない          青磁や古銅の花器      蕪穢(ブアイ・ブワイ)         =土があれて雑草が生い茂ること      蕪雑(ブザツ)         =乱れていて、整っていないこと          雑然としていること      蕪(かぶら)         =根は平たい球形          白色、紅色・紫色もある          根・葉は食用          スズナ(菘)     =根菜類      蕪 菁(ブセイ、wujing)      蔓 菁(マンセイ、manjing)      扁蘿蔔(ヘンラフク、bianluobo)      荒蕪(コウブ)      青蕪(セイブ)      繁蕪(ハンブ). ーーーーー  ・・・???・・・有無有無・・・うむうむ・・・

ー↓↑ー--

 ・・・???・・・

   ↓↑   ↓↑

 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)

  +

 (表紙・画像・音楽)」の

  移転先・・・

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 ボクの「古事記字源」の発端・・・

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 干支歴

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 追加添文

 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」

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