「葉隠れ=(はがくれ)」を「糊塗葉・異葉・拠訳葉」とした理由・・・ワタクシ(ム)です・・・
2021/10/11・月曜日・・・追加添文・・・
「葉隠れ=(はがくれ)」を「糊塗葉・異葉・拠訳葉」とした理由・・・ワタクシ(ム)です・・・
「ことば=言葉・事葉・詞・辞」を「糊塗葉・異葉・拠訳葉」とした理由は「権力者=生殺与奪権者」に対する「生(所為)の自らの防衛」である・・・「葉隠れ=(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に出された書物・肥前国-佐賀-鍋島藩-藩士-山本常朝(山本-神右衛門-常朝)の武士としての心得、武士道という用語で説明した言葉を田代-陣基(つらもと)が筆録記録・全十一巻」・・・この「説明はコレでイイのか?」は疑問であるカナ・・・「葉可久礼」とも書くらしい・・・そもそも、時代は幕藩体制の「平和(?)」な「抜け穴」があった鎖国時代だが、「朝毎に懈怠なく死して置くべし(聞書第十一)」は武士ならず、「士農工商の身分制度の生殺与奪の序列階級社会の枠内のスベテの人々の境遇」である。「将軍・天皇」と云えずも、いつ何時、その「暗殺(毒殺も含む)」から、「身分の転落」からは免れ得ない存在であった・・・今現在の人間社会は如何か?・・・状況は同じである・・・「1716年」とは、 以下は「ウイッキペデア」など、ブログ記事を参照、参考にし、少々改作して添付・・・ ーー↓↑ーー 1716年 干支年=丙申(ひのえノさる・ヘイシン)年 日本は 正徳八年、 享保元年 六月二十二日~ 皇紀2376年 中国は 清王朝 康熙五十五年 朝鮮は 李氏朝鮮 粛宗四十二年 ユダヤ暦では 5476年~5477年 ・・・である・・・ ↓↑ 1716年 8月9日 (正徳六年 六月 二十二日) 改元して 享保元年 9月28日 (享保元年 八月 十三日) 徳川吉宗、 徳川幕府 八代将軍となる 享保の改革 九州南部 霧島山中央部 新燃岳で 「享保の噴火」・・・ ↓↑ 「エンゲルベルト・ケンペル」の死去・・・ 延解留部留訳・建経留?・・・ ↓↑ 「17~18世紀(1651年9月16日~1716年11月2日)の ヨーロッパ人である エンゲルベルト・ケンペルは 「日本誌」 で 「宗教的世襲皇帝」 の王朝は、 キリスト以前の 660(六百六拾)年がその始まりである。 この年から キリスト紀元 1693・・・・・・1693-1651=42(歳) 歳=サイ=差異 4-2=2 4+2=6 年にいたるあいだ、 すべて 同じ一族に属する 114(壱百壱拾四・一一四)人 の皇帝たちが 相次いで 日本の帝位についた。 彼らは、日本人の国の もっとも 神聖な創健者である 「テンショウダイシン」 (天照大神、あまてらすおおみかみ) の一族の最古の分枝であり、 彼の最初に生まれた 皇子の直系である等々のことを、 きわめて誇りに思っている。 -エンゲルベルト・ケンペル-「日本誌」 ・・・とすると、ケンペル42歳、「日本の1693年(年鑑・歴史)」の知識は有していた?・・・「大日本史」の編纂開始は、 ーーーー↓↑ーー 1657年(明暦三年) 明暦の大火 小石川藩邸が焼失して 駒込別邸へ移動 史局を開設 編纂事業開始 史局ははじめ茶屋を利用 後に 火事小屋御殿に移動し文庫も設置 「日本書紀」以下 六国史など史書は 編年体で編纂されたが 『史記』のような 紀伝体の 史書が編纂された先例なし 修史事業の動機 幕府の編纂が行われていたこと 明暦の大火でその資料が亡失した 林羅山の死 徳川光圀は 父頼房の死去により家督相続 ↓↑ 幕府では 1662年(寛文二年) 林鵞峰 に命じて 編年体の史書 「本朝通鑑」の編纂開始 ↓↑ 光圀は 林鵞峰 を藩邸に招き 編纂方針や正統問題について質問 ↓↑ 1672年には編纂事業を本格化 駒込別邸の史館を 小石川本邸へ移転 「彰考館」と改名 遠隔地の史料収集 南朝関係の史料を収集 光圀は 日本へ亡命した 明朝遺臣 である 「朱舜水」 を招聘 南北朝時代の 南朝方武将 「楠木正成」の忠誠心を 朱舜水に示唆 北畠親房の 『神皇正統記』の影響 林羅山父子が執筆の 歴史書 『本朝通鑑』の草稿に、 大和民族(日本人)を 「呉の太伯の末裔である」 という記述に憤慨した・・・ ↓↑ 1676年(延宝四年)六月 神武天皇~後醍醐天皇までの 本紀が清書 ↓↑ 天和年間 には 「新撰紀伝・104巻」として完成 光圀は 南北朝合一の 後亀山天皇期まで 扱う必要性と内容上の不備を感じ、 同年には 彰考館に総裁を置いて 機構を改革し、 新館を新築して史館員も増員 国史以外にも 詩文集など編纂事業が拡大 1690年(元禄三年) 光圀は 西山荘へ隠棲 国史以外の各種事業を停止して 本紀の完成を促進 ↓↑ 1697年 「百王本紀」 として完成・・・ ↓↑ 1715年(正徳五年)・・・・1716年にケンペル死亡・・・ 藩主綱條により書名が裁定 水館の主張する 「皇朝新史」 と 江館の 「大日本史」 の間で論争 後者に決定 同年の光圀忌日に 清書本(正徳本)が 光圀廟に供えられた 1720年(享保五年) 校訂を加えた 享保本が幕府に献上 1737年(元文二年) 光圀死後の事業を主導してきた 安積澹泊が死去 事業休止 江戸後期 彰考館総裁の 立原翠軒 により、 1799年(寛政十一年) 光圀百年忌に備えた刊行のため、 校訂作業が進められた 書名に 国号を冠することや 論賛の是非について、 立原 と 史館員の 藤田幽谷の間で対立 江館と水館の党派的対立に発展 明治以後 水戸徳川家の事業として 栗田寛 を中心に残された 「志」、「表」の編纂 ↓↑ 1906年(明治三十九年) 十代藩主 徳川慶篤の孫にあたる 徳川圀順が完成 1645年(正保二年) 光圀が学を志してから 261年(満260年)、 1657年(明暦三年) 光圀が史局を開発してから数えて 249年(満248年) (本紀・列伝は光圀存命中に完成) 草稿などは 彰考館 徳川博物館に所蔵 ↓↑ 「エンゲルベルト・ケンペル」の漢字名は不明・・・だが・・・ 遠 解留部留訳 建 経留・・・? 縁 外瑠部婁徒 懸務経留・・・? ↓↑ 思格爾(尓)=エンゲルス 馬克斯=馬克思=マルクス ↓↑ (Engelbert Kaempfer, エンゲルベアト・ケンプファー) 1651年9月16日~1716年11月2日 ドイツ北部 レムゴー出身の医師、博物学者 ヨーロッパにおいて 日本を初めて体系的に記述した 「日本誌」の原著者 哲学、歴史、 古代や当代の 色々な言語を学ぶ ↓↑ 1681年 スウェーデンのウプサラのアカデミー ドイツ人博物学者 ザムエル・フォン・プーフェンドルフ の知己となる 彼の推薦でスウェーデン国王 カール11世 が ロシア・ツァーリ国(モスクワ大公国) と ペルシア・サファヴィー朝 に派遣する使節団に 医師兼秘書として随行 1683年10月2日 使節団はストックホルムを出発 モスクワ経由で 同年11月7日 アストラハンに到着 カスピ海を船で渡って シルワン(アゼルバイジャン)に到着 バクーと その近辺の 油田について記録 南下し ペルシアに入り 1684年3月24日 首都イスファハンに到着 ケンペルは使節団と共に イランで20か月を過ごし、 ペルシア や オスマン帝国の風俗、 行政組織についての記録 最初に ペルセポリスの遺跡について記録した ↓↑ バンダール・アッバースに オランダの艦隊が入港 ケンペル・・・建経留 は、 使節団と別れて 船医としてインドに渡る決意 1年ほど オランダ東インド会社の船医として勤務 その後、 東インド会社の基地がある オランダ領東インドの バタヴィア へ渡り、 医院を開業 日本行きの便船で ケンペルは シャム(タイ)を経由して 日本に渡航 1690年(元禄三年) オランダ商館付の医師として、 約2年間 出島に滞在 1691年(元禄四年) 1692年(元禄五年) に 江戸参府 将軍 徳川綱吉 にも謁見 滞日中、オランダ語通訳 今村源右衛門 の協力を得て資料を収集 1692年 離日 バタヴィアに戻る 1695年 12年ぶりにヨーロッパに帰還 オランダの ライデン大学で 医学博士号を取得 リーメに居を構え医師開業 デトモルト に居館を持つ伯爵の侍医となる 1700年 30歳年下の女性と結婚 1712年 「廻国奇観・(Amoenitates Exoticae)」 出版 ケンペルは前文の中で、 「想像で書いた事は一つもない。 ただ 新事実や 今まで不明だった事 のみを書いた」 と宣言 大部分の記述は ペルシア 日本の記述は一部 『廻国奇観』の執筆と同時期に 『日本誌』の草稿である 「今日の日本(Heutiges Japan)」 の執筆にも取り組む 1716年 11月 2日 ケンペルはその出版を見ず死去 故郷 レムゴー には彼を顕彰し その名を冠した ギムナジウム・・・義務名字得務? がある・・・ 遺稿は 3代の イギリス国王(アン~ジョージ2世)に 仕えた侍医で収集家だった ハンス・スローン に売られた 1727年 遺稿を英語に訳させた スローン により ロンドンで出版 「日本誌(The History of Japan)」 は、 フランス語、オランダ語にも翻訳 ドイツでは啓蒙思想家 ドームが 甥の ヨハン・ヘルマン によって書かれた草稿を見つけ、 1777~79年に ドイツ語版 (Geschichte und Beschreibung von Japan) を出版 『日本誌』は、 特に フランス語版 (Histoire naturelle, civile, et ecclestiastique de I'empire du Japon) が出版 ディドロ・・・出意泥? の 「百科全書」 の 日本関連項目の記述が、 ほぼ全て『日本誌』を典拠とした ゲーテ、カント、ヴォルテール、モンテスキュー らも愛読 19世紀の ジャポニスムに繋がった 学問的にも、 既に絶滅したと考えられていた 「イチョウ」が・・・イチョウ(公孫樹)の漢字を 「銀杏」とし、 音読に 「ギンコ・ギンアン」 呼び名の訓読を 「イチョウ」と記録・・・ 日本に生えていることは 「生きた化石」の発見と受け取られ、 ケンペルに遅れること 約140年後に日本に渡った フィリップ・フランツ・フォン シーボルト・・・・「置維波斯徳利」 に大きな影響を与えた・・・ ↓↑ ケンペルは著書の中で、 日本には、 聖職的皇帝(天皇) と 世俗的皇帝(将軍) の 「二人の支配者」がいると紹介 「日本誌」の中の付録収録の 日本の対外関係に関する論文は、 徳川綱吉 治政時の 日本の対外政策を肯定した、 「日本誌」出版後、 ヨーロッパのみならず、 日本にも影響を与えた 「日本誌」 オランダ語 第二版 (De Beschryving Van Japan 1733年) を底本として、 志筑忠雄・・・・「志・筑・忠・雄」 (しづき ただお) 宝暦十年(1760年) ~ 文化三年七月三日(1806年8月16日) 江戸時代長崎の蘭学者、 阿蘭陀稽古通詞 「鎖国論」翻訳 は 享和元年(1801年)に この付録論文を訳出し、 題名があまりに長いことから 文中に適当な言葉を探し、 「鎖国論」と名付けた・・・ 日本語における 「鎖国」という言葉の誕生・・・ 1727年 英訳に所収された 「シャム王国誌」 (A Description of The Kingdom of Siam) は、同時代の タイ(泰)に関する記録として 「非カトリック・非フランス的」 な視点から描かれて、 タイの歴史に関する貴重な情報源・・・ スローン が購入した ケンペルの収集品は 大部分が大英博物館に所蔵 一方ドイツに残っていた膨大な蔵書類は 差し押さえにあい、散逸 ただし彼のメモや書類は デトモルトに現存 ↓↑ 『日本誌』は 彼の遺稿と 英語の初版とでは かなりの 違いがある ヴォルフガング・ミヒェル (Wolfgang MICHEL) が中心となって、 2001年に 原典批判版 「今日の日本(Heutiges Japan)」 が 初めて発表された この原典批判版を皮切りとした ケンペル全集は 全6巻(7冊)刊行 今井正による日本語訳は ドーム版を底本としており、 ケンペルの草稿とは 所々でかなり異なっている。 よって現在のケンペル研究は、 原典批判版をはじめとする ケンペル全集や、 大英図書館に所蔵された 各種ケンペル史料に基づくのが、 世界的なスタンダードとなっている・・・らしい・・・ ーーーーー 旧約聖書 約伯 記 ヨブ・・・・・与分 余部 記 呼ぶ記(紀) 第4章 4:1 その時、 テマン・・・出(弟・弖・氐)萬(万・満・蔓) びと エリパズ・・・重理葉事(亠・図) が答えて言った、 4:2 「もし 人が あなたにむかって 意見を述べるならば、 あなたは 腹を立てるでしょうか。 しかし だれが 黙っておれましょう。 :3 見よ、 あなたは 多くの人を教えさとし、 衰えた手を強くした。 4:4 あなたの言葉は 躓(つまずく)者を たすけ起し、 孅(かよわい・か弱い)・・・繊・纖・纎 繊細 膝(ひざ)を 強くした。 4:5 ところが 今、 この事が あなたに臨むと、 あなたは耐え得ない。 この事が あなたに触れると、 あなたは 怖(お・フ)じ 惑(まど・ワク)う。 4:6 あなたが 神を 恐れていることは、 あなたの 拠所(よりどころ・キョショ) ではないか。 あなたの 道(みち・ドウ)の 全(まった・すべて・また・ゼン)き ことは、 あなたの 望みではないか。 4:7 考えてみよ、 だれが 罪のないのに、 滅ぼされた者があるか。 どこに 正しい者で、 断ち滅ぼされた者があるか。 4:8 わたしの見た所によれば、 不義(フギ)を 耕(たがや・コウ)し、 害悪(ガイアク)を 播(ま・ハン)く 者(もの・は・シャ)は、 それを 刈(か)り取っている。 4:9 彼らは 神の 息吹(いぶき)に・・・伊吹→伊吹山 よって 滅(ほろ・メツ)び、 その 怒(いか・おこる・ド)り の 息(いき・い・ソク)によって 消(き・ショウ)え 失(う・シツ)せる。 4:10 しし(獅子)の ほえ(吼・吠・咆)る 声(こえ・セイ)、 猛(たけ)き しし(獅子)の 声(こえ・セイ)は とも(共)に やみ(止)、 若(わか・もし・ジャク)き しし(獅子)の 牙(きば)は折られ、 4:11 雄獅子(おじし・ユウシシ)は 獲物(えもの・カクブツ)を 得ずに滅び、 雌(め・めす・シ)じし の 子(こ・ね・シ・す)は 散(ち・サン)らされる。 4:12 さて、 わたしに、 言葉が 密(ひそか・ミツ)に・・・前島密 臨んだ、 わたしの 耳(みみ・ジ・ニ)は その 囁(ささや)き を聞いた。 4:13 すなわち 人の 熟睡(jyクスイ)するころ、 夜(よる・よ・ヤ) の 幻(まぼろし・ゲン)によって 思(おも・オン)い 乱(みだ・ラン)れている 時(とき・ジ)、 4:14 恐(おそ・キョウ)れが わたしに 臨(のぞ・リン)んだので、 慄(おのの)き、 わたしの 骨(ほね・コツ)は ことごとく 震(ふる・シン)えた。 4:15 時に、 霊(レイ・たましい) があって、 わたしの 顔の前を過ぎたので、 わたしの 身(み・シン)・・・・視・実 審・振・秦 の 毛(け・モウ)・・・・毛野(上野) 毛人=蝦夷 毛唐=外人・異人 は 弥立(よだ)った。・・「彌=弓+爾」+立 ↓↑ ・・・彌立・彌奪 ・・・蝦夷・アイヌ の 生殺与奪・・・? 彌生(三月) 彌栄(いやさか) ↓↑ 弥栄音頭 北海道北西部沿岸地方の 鰊(鯡・ニシン)漁の 労働歌、盆踊り歌 「はあ、イヤサカさっさ」 と囃(はや)す 鯵ヶ沢甚句(青森県) 青森県民謡 西の八幡 港を守る 家の留守居はノ~嚊守る そりゃ嚊守る留守居は ノ~嚊守る 「(ハア イヤサカサッサ」 鯵ヶ沢育ちで 色こそ黒いが 味は大和のノ~ 吊し柿 そりゃ 吊し柿 大和のノ~ 吊し柿 「(ハア イヤサカサッサ」 ・・・ブログ記事で調べたら・・・ BGM:大正琴「長唄越後獅子」師範(琴流勢) http://teineniroirolife.web.fc2.com/kyokuiyasaka.html ↓↑ ・・・勝手に添付して申し訳ありません・・・ ↓↑ この歌の詞に興味がありましたので、 ↓↑ アシカラズ、御容赦くだされ・・・ ↓↑ ↓↑ーーーーー↓↑ ↓↑ しろうと三味線(太棹) ↓↑ いやさか音頭(北海道) あねこ(蛙音呼) こちゃ向け かんざし(簪→髪挿→上指→櫛→釧路) 落ちる (ハー イヤサカサッサ) かんざし落ちないなー 顔見たい ありゃ顔見たい 落ちないなー 顔見たい (ハー イヤサカサッサ) お前行くなら わしゃどこまでも (ハー イヤサカサッサ) 蝦夷(えぞ)や 千島のなー 果てまでも ありゃ果てまでも 千島のなー 果てまでも (ハー イヤサカサッサ) 十七八なら 山(サン→纂) さ(作) も(摸) やるが (ハー イヤサカサッサ) 山(サン) にゃ(似哉・爾埜) 人(ひと・ジン・ニン) さすなー・・・作(差・詐) 素・蘇・州・諏) 名・拿・納 ぁァ~ 虫(むし・チュウ) がいる ありゃ虫がいる 人さすなー 虫がいる (ハー イヤサカサッサ) 沖のカモメ(鴨目・鷗)に 潮時(しおどき) 問(と・モン)えば (ハー イヤサカサッサ) わたしゃ たつ鳥なー・・・多通訳理名蛙 波(なみ・名視)に 聞(訊け)け ありゃ 波に聞け たつ鳥なー 波に聞け (ハー イヤサカサッサ) 恋(こい・レン)の 九(玖)つ 情(なさ・ジョウ)けの 七(漆)つ (ハー イヤサカサッサ) 合わせ 十六なー 投げ島田 ありゃ 投げ島田 十六なー 投げ島田 (ハー イヤサカサッサ) 葉蛙阿會 意埜作掛佐通差(詐・査) ↓↑ ↓↑↓↑ ↓↑ 太棹(ふとざお・タイタク・タイトウ) さお=篙・竿・棹・找・划 船頭棹 釣竿 作尾・蔵王? 大きく厚い撥(バチ)を用いる 浄瑠璃等で使用 浪曲三味線 津軽三味線は 太棹 先端が 鼈甲(ベッコウ)製の 小ぶりの撥を用いる ↓↑ 津軽民謡の伴奏に使用 ↓↑ ↓↑ 相手を惑わすことを 「三味線を弾く」という 「口三味線を弾く」が原義、 ↓↑ 口で三味線の音色を真似る事から、 ↓↑ 「偽物、虚言」の意・・・ ↓↑ ーーーーーー 4:16 そのものは 立ちどまったが、 わたしは その姿を 見わけることが 出来(でき)なかった。・・・出記・弟(おと)記 出紀・弟(おと)紀 一つ の 形(かたち)が、・・・・・・堅地→キャセイ 國泰・Cathay 契丹=中国北部 「カタイ」=西遼 わたしの 目の前にあった。 わたしは 静(しず・セイ) かな声を・・・・・カナ乞え ・・・掛名 肥重 肥前・肥後 比全・比語 聞(き・ブン・モン)いた、 4:17 『人は 神の前に 正(ただ・セイ)しく ありえ ようか(用乎・要掛?)。・・・仮名目化 人は その造り主の前に 清(きよ・セイ・シン)く ありえ ようか(用乎・要掛?)。・・・仮名目化 4:18 見よ、 彼は その しもべ(下部) をさえ 頼みとせず、 その 天使(テンシ)・・・典詞・填詞 テンシ 蚦示→うじを示 得字・宇治・氏 をも 誤(あやま・ゴ)れる 者(もの・は・シャ)と・・・写訳 みなされる。 4:19 まして、 泥(どろ・デイ)の・・・兎(狸)の泥舟 かちかち山のハナシ 泥=デイ=禰→武内宿禰 泥=水+尼(海女・海人) 家に住む者、 塵(ちり・ジン)を・・・地理 尋・訊・陣 侭(筑紫) その基とする者、 染(しみ)・・・沁み・浸み・凍み の 詞視 ように 示視 紙魚・衣魚 シミ・蟫=虫+覃 覃=西+日+十 うまい・するどい およぶ・のびる ひく・ふかい ドン・シン タン・エン 岩塩の壺? 譚=談=はなし 潭=ふち・水を深くたたえた所 淵=潭水・深潭・碧潭 底深いさま=潭潭 蟬=せみ・・・ミ~ン、ミ~ン ジィ~、ジィ~ 潰(つぶ・カイ)・・・潰=氵(水)+貴 貴=中+一+目+ハ 潰滅・壊滅 甲斐妹通 改 埋通 届 目通 會 女通 掛意女通 される者。 4:20 彼らは 朝から夕までの間に 打ち砕かれ、 顧みる者もなく、 永遠(とわ・エイエン)に 滅びる。 4:21 もし その 天幕(テンマク)の・・・奠混句 綱(あみ・モウ)が・・・編み・編纂 彼らのうちに 取り去られるなら、 ついに 悟(さと・ゴ)ることもなく、 死にうせるではないか』。 ーーーーー ・・・
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