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「葛飾北斎」の画料をネギった「シーボルト」

2022/07/01・金曜日・・・追加添文・・・

jackdaw(ジャックドー・コクマルガラス)

塔などに巣を作る

おしゃべりな人

鳴き声がやかましい

盗癖で知られる

2018-12-11 00:44:00 | 古事記字源

 ・・・大鴉(おおがらす・ダイア・The Raven・レイブン・渡りガラス・Big Crow・rook(ルク・ルック)・jackdaw(ジャックドー・コクマルガラス・塔などに巣を作る・おしゃべりな人・鳴き声がやかましい・盗癖で知られる)・・・「八咫烏」の鳴き声・・・「バブル(nozzle-bubble・調節器・バルブ(弁))・トランスミッション(transmission・ギアボックス(gear box)・駆動伝達器・動力伝達装置)」・・・「国産ロケット」・・・

 カラスの言語・・・「Nevermore」・・・???・・・「Never mind」じゃぁないのか?・・・「俺にとってたいしたことじゃない、気にするな、大丈夫だ」・・・「Never mind about it.」・・・「Don't worry.」・・・

 「お前はドウなんだか (Are you ok? Are you all right?)」・・・「Never you mind.」、「Don't mind me.」・・・

 「Never give up.」、「Don't give up.」・・・

 「It doesn't matter.」・・・「Nevermind」ってナニが?・・・

 「It's no nevermind of yours.」・・・余計なお世話だッ!・・・

 「It's none of your business=No thank you!

               =Leave me alone」・・・

 ドッチなんだか・・・???・・・

 親切は有難迷惑なんだろう・・・小さな親切、大きな迷惑・・・

 臭い、汚(きたな)い、ばっちい、濊・・・

 濊・貊(ワイハク・カイハク)

 中国の黒龍江省西部・吉林省西部・遼寧省から

 北朝鮮にかけ

 北西から南東に伸びる帯状の地域に存在した古代の種族

 濊と貊の2種族(周代以降の記録に濊・貊)・・・漢代に濊貊と記録

 夫余・高句麗(高麗)・百済の出自・・・病死者が出ると、旧い家屋を棄て新居を造り直す・・・

 沃沮(ヨクソ)

 文化や習俗は

 モンゴル系の

 東胡、ツングース系の粛慎

 朝鮮半島南部の

 韓族の何れとも異なる・・・

 寛政十一年頃(1799年)に描いた版画「長崎屋」・・・十一年?

 ・・・乞食のような「葛飾北斎(ホクサイ)」に絵を注文し、画料をネギった「シーボルト」・・・怒った「北斎」・・・150両の半分75両・・・「シーボルト」は謝罪・・・百五拾両を支払う・・・  文政十一(1828)年・・・十一年?  「シーボルト事件」は隠匿された  「日本地図  (伊能 忠敬・   延享二年一月十一日(1745年2月11日)         十一・・・・・・・11・壱壱・壱拾壱・壹拾位地?   ~   文化十五年四月十三日(1818年5月17日)     壱拾五・肆・壱拾参・壱八壱八・壱千八百壱拾八                 伍・壱拾七・壱拾漆?   通称は三郎右衛門、勘解由   字は子斉・・・ナゼ、「子斉」なのか?   号は東河   寛政十二年(1800年)   ~   文化十三年(1816年)まで   足かけ   十七年かけ   日本全国を測量し   『大日本沿海輿地全図』   として完成させたモノ)」  とともに  「北斎(ホクサイ)の絵」も      ・・・「北斎≠子斉≠子斎」             子=鼠=北・・・北海道・蝦夷  北海道(蝦夷)測量・・・  「寛政十二年(1800年)   日本史上初めて   日本の詳細な地形の計測をした伊能忠敬は   箱館を出発点として東海岸から根室まで蝦夷地の実測」  「伊能忠敬の地図   間宮林蔵が北海道全域測量か?   伊能が1800年に北海道南岸を   測量してつくった地図のデータと   約20年後に完成した全国地図の画像を比べた。   2つの地図を重ね合わせると、   南部の海岸線は最大数キロ程度ずれていた  (日経・共同・2014/8/18付)」  「間宮林蔵・・・   間宮海峡発見   伊能忠敬から測量技術を教授され   享和三年(1803年)   西蝦夷地(日本海岸・オホーツク海岸)を測量   ウルップ島までの地図を作製  ↓↑   文化四年四月二十五日(1807年6月1日)   択捉場所  (寛政十二年(1800年)   クナシリ場所から分立・択捉島)  の紗那会所元に勤務していた際  ニコライ・レザノフ(ロシア人)が  復讐のため部下の  ニコライ・フヴォストフ(ロシア人)たちに  同島襲撃(文化露寇)に巻き込まれた  ↓↑   文政十一年(1828年)・・・十一年   勘定奉行・村垣定行の部下   幕府の隠密として全国各地を調査   石州浜田藩の密貿易の実態を掴み   大坂町奉行   矢部定謙に報告し検挙に至らせる  (竹島事件)」・・・・竹島事件

 北斎の絵と伊能忠敬の日本地図は  日本を去って  オランダに渡った・・・ ーーーーー

 北斉=ホクセイ=北齊     ・・・ホクサイ・・・北+斉(齊)???  (550年~577年)  中国の南北朝時代  高氏によって建国・・・「日本では  ↓↑          高氏=高麗(高句麗)系渡来人  ↓↑          が出身国の一字をとって              高氏を名乗った              後、              高階氏が高氏と称する」             「足利氏の根本被官、代々足利家の執事」             「高氏一族=足利直義と対立した              ↓↑   高師直の一族」  ↓↑          ↓↑        「吉良義央(吉良上野介)は         赤穂事件の         高家旗本(高家肝煎=こうけきもいり                   江戸幕府における                   有職故実や礼儀作法                   儀式や典礼を司る役職)」          ↓↑         寛永十八年九月二日(1641年10月5日)         辛巳(戊 庚 丙)正官 食神 病         丁酉(庚  辛)傷官 正官 胎         甲戌(辛 丁 戊)   偏財 養          申酉=空亡         ~         元禄十五年十二月十五日(1703年1月31日)         壬午(丙 己 丁)偏印         癸丑(癸 辛 己)印綬 三合金(辛)         辛卯(甲  乙)正財  合火(丁)          ↓↑         三郎(幼名)→義央         別名は左近  ↓↑     号は卜一  国号は単に「斉(齊)」  春秋戦国時代の斉(齊)  南朝の斉(齊)  などと区別するために  北斉・高斉と呼ぶ・・・斉=齊・⇔・齋=斎・・・差異  ↓↑  550年~559年 文宣帝・武定八年/天保元年)             高洋は北斉を建国  559年~560年 廃帝  560年~561年 孝昭帝  561年~565年 武成帝  565年~576年 後主  576年~576年 安徳王  577年~577年 幼主  ↓↑  北斉の皇帝  高澄 東魏の斉王(549年)     文宣帝により     世宗 文襄帝と追尊  高洋 東魏の斉王(549年~550年)  高歓 文宣帝により  ↓↑ 太祖 献武帝     後主の代で     高祖 神武帝と追尊         ・・・「神武帝」?        北斉の高祖神武帝 - 高歓への追号        北漢の世祖神武帝(劉崇、在位951年~954年)        西夏の太祖神武帝 - 李継遷への追号        ベトナム李朝太祖             神武帝 - 李公蘊への追号        新羅の第45代王             神武王(しんぶおう・?~839年)             姓は金             諱は祐徴            「閔哀王」を殺害し王位に就く        張保皐(チョウホコ)        統一新羅時期        新羅、唐、日本にまたがる海上勢力を築いた        張宝高とも記される        朝鮮語でもどちらも「チャン ボゴ」と読む        張保皐は漢名        本名は弓福(弓巴)        清海鎮大使から感義軍使を経て        鎮海将軍・・・任務は奴隷貿易禁圧            ・・・尾張の由来は?            ・・・張政?張保皐?        全羅南道莞島に根拠地        新羅南部の群小海上勢力を傘下        唐・日本と手広く交易活動        中国沿海諸港に居住する        イスラーム商人とも交易        836年        興徳王が死去        新羅の都・金城(慶州)で        王族間の後継争いに敗れた        金祐徴(神武王)が        張保皐のもとに身を寄せ        張保皐は金祐徴を支援        友軍の        鄭年に・・・・・鄭の年(歳)        5千の兵を与えて        閔哀王を討ち        金祐徴を       「神武王」として即位させた         836年         干支 丙辰         日本 承和三年         皇紀 1496年         中国         唐  開成元年         5月 - 遣唐使、難波より出発         7月 - 遣唐使遭難して肥前・対馬に漂着  ↓↑  北斉の皇帝  顕祖  文宣帝(高洋、在位550年~559年)  廃 帝(高殷、在位559年~560年)  粛宗  孝昭帝(高演、在位560年~561年)  世祖  武成帝(高湛、在位561年~565年)  後 主(高緯、在位565年~576年)  安徳王(高延宗、在位576年)      北周の侵攻の中で奮戦し      後主が逃亡後の混乱の中で      皇帝に即位するが      北周に敗北して囚われた      通例では      皇帝の代数には加えられていない  幼 主(高恒、在位577年)  高 儼 後主により      楚恭      哀帝と追尊 ーー↓↑ーー  斉=そろう・そろえる・斉唱・一斉    ととのう・ととのえる・均斉    ひとしい・斉一    おさめる・斉家    おごそか・つつしむ・斉聖    中国の王朝名    ものいみ・ものいみする・サイ ーー↓↑ーー  「斉=齊」⇔「斎=齋」     二 ⇔ 示     セイ⇔サイ  ↓↑  「斉」新字体=「齊」旧字体  「一斉(イッセイ)・斉明(サイメイ)天皇」  ↓↑  「斎」新字体=「齋」旧字体  「書斎(ショサイ)・斎戒(サイカイ)沐浴(モクヨク)」  ↓↑  「齋藤=サイトウ=斎藤」  ↓↑  齋=亠+刀+丫+𠂎+丿+亅+示(二+亅+八)       齋⇔齊    丫(ア)⇔了(リョウ)       (𠂎=ノレ乀(ノ⊥乁)        卯=斤(斧・鉞)で          半分に卩(たたき)割る  ↓↑  齋=亠+刀+丫+𠂎(卬=ノレ乀)+丿+亅+示(二+亅+八)  ↓↑  斎=齐+示   =文+丿+亅+二+亅+八   =亠+乂+丿亅+二+亅+八     乂=かる・おさめる・ガイ・ゲ     乄=しめす・〆る    いむ・いつく・いわう・つつしむ・とき・サイ    斎場    異体字「齋・㪰・䄢・䬩・夈・斋・𠆈        𠫱・𠮘・𥚪・𥜷・𩛚・𩝦        𩱥・𩱳・𪗑・𪗒・𪗓」  斎・・・斎=齋=齊=斉・・・?         心身を清めること         ものいみ・つつしむ・いつく・とき         サイ     「斎女(いつきめ)・心身を清めて神に仕える女」     「斎王(いつきのみこ)         伊勢神宮や賀茂神社に仕えた         未婚の内親王(皇族女子)、また女王」     「斎宮(いつきのみや)         伊勢神宮に奉仕した斎王の住まい」     「いつき(斎)・いわう(祝う)」 ーー↓↑ーー↓↑ーー  葛飾北斎(ホクサイ)     ・・・普段は汚れたキッたない格好で過ごし     部屋も乱雑でモノが散らかれば引越しを繰り返し     外を歩けばコジキのような格好・・・     きたない(汚い・穢い)     よごれていて、触れたくない気持ちを起こさせ     不潔で、不快な感じを与えるさま・乱雑     汚(きたな)かった・・・濊・穢・けがれる・・・     汚(きたな)くなる     汚(きたな)い     汚(きたな)ければ  ↓↑  姓は川村氏  幼名は時太郎(ときたろう)  鉄蔵(てつぞう)  春朗・宗理等三十余の別号  通称は中島八右衛門  明和元年(1764年)  幕府御用達  鏡磨師であった  中島伊勢の養子  のち、実子に家督を譲り、家を出る  後  貸本屋の丁稚  木版彫刻師の従弟(とてい)  貸本の絵に関心を持ち、画道を志す  安永七年(1778年)  浮世絵師・勝川春章の門下  狩野派や唐絵、西洋画などの  画法を学び  名所絵(浮世絵風景画)  役者絵を多く手がけた  黄表紙の挿絵なども描いた  用いていた号は  「春朗(しゅんろう)」  師・春章とその別号である  旭朗井(きょくろうせい)から  1字ずつもらい受けたもの  ↓↑  文化二年(1805年)  「葛飾北斎」の号を用いる  「北斎」  当初名乗っていた  「北斎辰政」の略称・・・北の斎の辰の政  これは  北極星、北斗七星を神格化した  日蓮宗系の  北辰妙見菩薩信仰にちなむ・・・  ↓↑  「葛飾北斎」を名乗っていたのは  戯作者の  曲亭馬琴・・・曲亭の馬の琴・・・?  ↓↑  曲亭馬琴      明和4年6月9日(1767年7月4日)      ~      嘉永元年11月6日(1848年12月1日)      読本作者・・・『南総里見八犬伝』の著者      本名は      滝沢興邦(たきざわ おきくに・瀧澤興邦)      後に解(とく)と改める  ↓↑  号は著作堂主人・飯台陳人  ↓↑    玄同陳人・大栄山人  ↓↑    信天翁  ↓↑    蓑笠漁隠(さりつぎよいん)  とコンビを組んだ一時期・・・?  その間に  『新編水滸画伝』  『近世怪談霜夜之星』  『椿説弓張月』  などの作品を発表し  馬琴とともにその名を一躍不動のものとした  挿絵の評価を格段に引き上げた人物と言われている  北斎は一時期  馬琴宅に居候(いそうろう)・・・  ↓↑  アイヌ語の  キムン・カムイ=ヒグマ=羆・日熊・氷熊              樋熊・檜隈・日隈  コタンコロ・カムイ=ふくろう・梟・蚯蚓・みみづく  北海道=カイ・加伊・甲斐・蝦夷・華夷  ↓↑  クナシリ・メナシの戦い  ↓↑

 夷酋列像・・・アイヌの十二人の肖像画  作者は  柿崎波響(はきょう)・・・・柳川天神  松前藩移転…1824年・・・帰郷  ↓↑  伊勢参り  旅人に手紙を実家に託す  松浦武四郎  長崎で病に倒れ  寺で看病され  出家  ↓↑  弘化  天保の後、嘉永の前  1845年~1848年  までの期間  仁孝天皇  孝明天皇  江戸幕府将軍  徳川家慶  弘化二年  蝦夷地探検  ↓↑  明治三年  旧暦  明治三年一月一日~十一月十日まで  1870年(2月1日~12月31日まで)  旧暦  明治三年十一月十一日~十二月二十九日まで  1871年(1月1日~2月18日まで)  ↓↑  松浦武四郎は  北海道開拓使を  辞任  ↓↑  明治 5年12月 2日  (1872年12月31日)まで  太陰太陽暦(旧暦)を採用  ↓↑  1845年  干支=乙巳  日本(天保暦)  弘化元年十二月二日~弘化二年  皇紀2505年  中国  清    道光二十五年  朝鮮  李氏朝鮮 憲宗十一年  ↓↑

 1845年  1月29日 - エドガー・アラン・ポー    『大鴉(おおがらす、The Raven)』発表    ・・・大カラス・・・「Nevermore」    イギリスでの『大鴉』には挿画、    有名イラストレーター    『不思議の国のアリス』の    ジョン・テニエル    1875年の英語・フランス語対訳の    フランス版にリトグラフを担当したのは    印象派のエドゥアール・マネ    による挿画・・・マネの絵画には    1860年代から流行した    ジャポニスムの影響・・・  2月7日 - 大英博物館で      「ポートランドの壺」が酔漢に破壊  3月4日 - 米国       ジェームズ・ポークが       第11代大統領に就任  3月29日(弘化二年二月二十二日)      水野忠邦が老中を辞職  10月2日(弘化二年九月二日)      水野忠邦が隠居蟄居  10月10日 - 米国で        海軍学校(海軍兵学校)創立  12月29日 - 米国でテキサスが28番目に州となる  日付不詳 アイルランドでジャガイモ飢饉       英国で       ファラデー効果が発見される       磁気旋光=磁場に平行な進行方向に       直線偏光を物質に透過させたときに       偏光面が回転する現象・・・?  ↓↑  誕生  2月9日 - 馬建忠、思想家・外交官・言語学者  ↓↑  馬 建忠  (バ ケンチュウ・Ma Jianzhong)  1845年2月9日~1900年8月14日  清末の思想家・外交官・言語学者  字は眉叔  江蘇省  鎮江出身  馬建稃・馬相伯の弟  カトリック教徒の家庭に生まれた  ↓↑  次兄の  馬建稃は  曽国荃  に抜擢されて  李鴻章の幕僚となり  淮軍糧台を務めた  四兄の  馬相伯は教育家で  震旦大学・・・上海にフランスのイエズス会と         設立した私立大学         震旦=振旦・真丹         古代インド人が中国を         秦の土地 (チーナスターナ) と呼んだ  や  復旦大学・・・「日月光華、旦復旦兮(尚書・虞夏伝)」          旦復旦・・・陽(煬)昇り、陽(煬)また昇る                  煬=煬帝(隋王朝・広)                  隋朝の第二代皇帝                在位 604年8月21日~618年4月11日          旦=「女形(おやま・オンナガタ             歌舞伎の若い女性を演じる役者)」         震旦大学と分離、独立させた         中国上海市にある文理科総合大学  の創設者 ーー↓↑ーー  馬建忠は  咸豊三年(1853年)  太平天国軍が  南京に入ると一家は  上海に避難  馬建忠と兄弟たちは  イエズス会の設立した  徐匯公学に入学  フランス語やラテン語を学んだ  アロー戦争で  西洋の学問を学ぶ必要性を痛感し  ラテン語・フランス語・英語・ギリシア語  の勉強を継続  ↓↑  同治九年(1870年)・・・同治=ドウジ・ドウチ                =同字・同地・同値  次兄の  馬建稃の引き立てで  李鴻章の幕僚となって  文化の知識と語学力を認められた  光緒四年(1878年)  郎中の資格で  李鴻章によって  国際法を学ぶために  フランスに派遣  同時に  駐仏公使郭嵩蝱の通訳  パリでは中国人として  初めて  バカロレア・・・フランスの国家学位の一          中等普通教育の修了資格証明で          大学入学資格証明  をとり  パリ政治学院で法学の学位を得た  バカロレア・・・  馬鹿賂例蛙?・・・秦の趙高(史記・秦始皇本紀)の策謀  ↓↑  馬建忠は  光緒六年(1880年)  天津に戻り李鴻章のもとで  洋務運動を推進  ↓↑  光緒七年(1881年)  アヘン(鴉片・阿片)専売と税収問題の解決のため  イギリス領インド帝国に派遣  光緒八年(1882年)  李鴻章により朝鮮に派遣  ↓↑  朝鮮と  イギリス・アメリカ・ドイツ  との通商条約締結を推進(米朝修好通商条約など)  「壬午事変」・・・1882年(明治十五年)7月23日  ↓↑       光緒八年=高宗十九年六月九日        興宣大院君らの煽動を受け        朝鮮の首府漢城(ソウル)で起こった        閔氏政権および日本に対する        大規模な朝鮮人兵士の反乱         ↓↑        朝鮮国王        高宗の王妃        閔氏政権は        開国後、日本の支援のもと        開化政策を進めたが        財政出費がかさんで        旧軍兵士への俸給が滞って        反乱のきっかけとなった         ↓↑        閔氏政権は近代的軍隊として       「別技軍」を新設        日本人教官を招致して教練を開始        これに反発をつのらせた        旧式軍隊が        俸給の遅配・不正支給もあって暴動        民衆も加わって        閔氏一族の屋敷や官庁        日本公使館を襲撃し        朝鮮政府高官        日本人軍事顧問        別技軍の軍事教官        堀本少尉、        日本公使館員らを殺害        前領議政(総理大臣)の        李最応(興宣大院君の兄)        も殺害         ↓↑        閔謙鎬        前宣恵庁堂上の        金輔鉉、閔台鎬、閔昌植        ら閔氏系の        高級官僚数名を惨殺        別技軍の教練所長        閔泳翊は重傷         ↓↑        暴徒は        漢城在住の        日本人語学生        巡査らも殺害        日本公使一行は        仁川府を脱出        済物浦から小舟で脱出し        海上漂流し        イギリスの測量船        フライングフィッシュ号に保護        7月29日        在朝日本公使館弁理公使        花房義質は        長崎へ帰還         ↓↑        閔妃は王宮を脱出        漢城市内の私邸に到着        駕籠で忠州(忠清北道)付近の        僻村へと逃亡、隠れ住んだ        閔妃を運んだ        駕籠かきの一人が        水運びを生業とする        貧しい庶民の出身で後の        「李容翊」         ↓↑        興宣大院君が復権         ↓↑        日本は        軍艦4隻と千数百の兵士を派遣        清国もまた朝鮮の宗主国として        属領保護を名目に        軍艦3隻と兵3,000人を派遣         ↓↑        清国は反乱軍を鎮圧        漢城府に清国兵を配置        大院君を拉致、天津に連行        閔氏政権を復活させた         ↓↑        日本は        清の        馬建忠+魚允中         ↓↑ ↓↑         ↓↑ 魚允中           憲宗14(1848)~建陽1(1896)           朝鮮王朝 (李朝)の政治家           字は聖執           号は一斉           梁山郡守,暗行御史            高宗 十八 (1881) 年           日本視察の命を受け来日           高宗 十九年           朝米通商条約の条文作成に参加           金弘集           内閣の度支部(たくしぶ)大臣           1896年親露派のクーデターで           親日派であるという理由で         ↓↑京畿道竜仁で殺害        の斡旋の下        閔氏政権と交渉し        済物浦条約を締結        賠償金支払い        公使館護衛の日本陸軍駐留        などを認めさせた        清国は        朝鮮政府に外交顧問を送り        李鴻章を中心とする閣僚は        朝鮮に        袁世凱を派遣        袁が事実上の朝鮮国王代理として        実権を掌握        袁世凱は        3,000名の清国軍を漢城に駐留させた        朝鮮における        親日勢力は大きく後退  ↓↑ ↓↑ アメリカ合衆国も軍艦を派遣     壬午の変(ジンゴのヘン)     壬午事件などとも表記     日本では     朝鮮国事変     朝鮮事変     大院君の乱など  ↓↑  が発生し  馬建忠は  興宣  大院君の連行にかかわった  ↓↑  馬建忠は  光緒十年(1884年)  唐廷枢が管理する輪船商招局に入り  光緒十六年(1890年)  対外貿易の発展と民間産業の  振興を説いた「富民説」を著し  李鴻章に提出  李鴻章から  上海機器職布局総裁に任命  経営難から辞職、故郷へ引退  光緒二十一年(1895年)  李鴻章に北京に呼ばれ  日清戦争の講和条約を結ぶために  日本に赴く李鴻章を補佐  光緒二十二年(1896年)  上海で『時務報』主筆の  梁啓超を知り  『適可斎記言記行』を著  ↓↑  馬建忠は  光緒二十六年(1898年)  中国語の文法書  『文通(馬氏文通)』を著し出版  光緒二十八年(1900年)  再度  李鴻章から呼び戻されたが死去  ↓↑  馬建忠は  釐金(通行税)の廃止  関税自主権の回復  貿易の拡大  民間産業の振興  議会制度の採用  を主張  翻訳書院の開設を提言  ↓↑  鮫島 員規(さめしま かずのり)  弘化二年五月十日  (1845年6月14日)  ~  明治四十三年  (1910年)10月14日)  日本の海軍軍人  海軍大将  勲等は勲一等・功級は功二級  爵位は男爵  ↓↑ ↓↑  弘化三年二月十三日  (1846年3月10日)  孝明天皇即位  弘化三年八月三日  (1846年9月23日)  海王星発見  ↓↑  弘化四年三月二十四日  (1847年5月7日)  善光寺地震 M7.4  ↓↑ ↓↑  天保十五年十二月二日  (グレゴリオ暦1845年1月9日)   江戸城火災などの災異のため改元  弘化五年二月二十八日  (グレゴリオ暦1848年4月1日)   嘉永に改元  ↓↑  天保九年(1838年)  江戸城西ノ丸の火災  天保十五年五月  の火災は  本丸の火事  先に崩じた  光格上皇に対する  諡号復活の際に  幕府の協力を得た事を背景に  幕府の意向に配慮し  改元が行われたとされる  ↓↑  出典  菅原為定の漢文  「書曰、弐公弘化、寅亮天地、晋書曰、   昌聖徳格于皇天、威霊被于八表、   弘化已煕、六合清泰」  より  ↓↑  弘化年間  弘化三年二月十三日(1846年3月10日)    孝明天皇即位  弘化三年八月3日(1846年9月23日)    海王星発見。  弘化四年3月24日(1847年5月7日)    善光寺地震 M7.4  誕生  弘化三年閏五月二十四日(1846年7月17日)    徳川家茂(江戸幕府第14代将軍)  弘化三年閏五月十日(1846年7月3日)    皇女和宮(仁孝天皇第八皇女、徳川家茂 正室)  弘化四年十一月二十八日(1848年1月4日)    桂太郎(第11・13・15代内閣総理大臣) ーーーーーー

 ・・・???・・・

 (表紙・画像・音楽)」の

  移転先・・・

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 ボクの「古事記字源」の発端・・・

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 干支歴

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 追加添文

 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」


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