「袖珍内外方叢」・「察病論」・・・青木研蔵(弟・養子)→青木周蔵(養子・三浦團七)
青木周弼(兄)→青木研蔵(弟・養子)→青木周蔵(養子・三浦團七) ーー↓青木研蔵の養子、「青木周蔵」 青木周蔵 ↓↑
天保十五年一月十五日
1844年3月3日
~
大正三年
1914年2月16日
大運1904年12月(60歳)癸酉劫財
~ ↓↑
大運1914年12月(70歳)甲戌食神
↓↑
甲辰(乙癸戊)食神・偏官 墓⇔甲寅食神
丙寅(戊丙甲)偏財・食神 病⇔丙寅偏財
壬午(丙 丁) ・正財 胎⇔癸酉劫財
丙午(丙 丁)偏財・正財 胎⇔戊午偏官
空亡申酉
大津事件勃発・・・対ロシアとの「外交」はどうなるのか・・・ウラジーミル・プーチン(Vladimir Putin)大統領は、「同性愛のプロパガンダ禁止する法案」成立・・・「同性愛」で「難民」・・・?・・・ウラジーミル(裏字意見る)・プーチン(附得枕)・・・ ーー↓以下はブログ記事からの引用、ちょっと改作して添付 青木研蔵 1815~1870(文化十二年~明治三年)九月八日 享年56歳 青木周弼の実弟で、後に周弼の養子 天保八年 兄と共に 能美洞庵に師事 長崎に共に遊学し 蘭医シーボルトに学んだ 日田の 広瀬淡窓に儒学、江戸で 宇田川榛斎、 伊東玄朴に医学を学ぶ 周防国大島郡 和田村で 父・地下医の 青木玄棟と 母の「モン」の次男 長州藩に種痘の技術を持ち込んだ
敬親の側医を務めたのち、明治二年(1869)には明治天皇の大典医になった。 長男の兄 青木周弼 ーー↓ 青木周弼 享和三年一月三日(1803年1月25日) ~ 文久三年十二月十六日(1864年1月24日) 周防国 大島郡 和田村の 村医 青木玄棟の長子 名は邦彦 号は月橋 字は周弼 長州藩医の能美洞庵に医学と儒学を師事 十八歳で大坂、 三十歳で江戸に行き、 深川の 坪井信道にオランダ語、臨床医を学ぶ 後、 宇田川榛斎に師事 同門に 緒方洪庵 1839年 長州藩医 1842年 周防医学所の教授蘭学掛 医学校の好生館設立に尽力 1855年 御側医に昇進 弟の研藏とともに藩内に 種痘をし、 コレラ治療に貢献 村田清風とも交流 晩年は江戸で 西洋医学所頭取就任の 要請を固辞 著書に 「袖珍内外方叢」 「察病論」など 高杉晋作が 十歳の時に天然痘を発症し、 青木周弼の種痘医療により死は免れた 藩主 毛利敬親の侍医や医学館の館長 ーー↓ 青木周弼(兄)→青木研蔵(弟・養子)→青木周蔵(養子・三浦團七) ーー↓
青木研蔵の養子、
「青木周蔵」 天保十五年一月十五日(1844年三月三日) ~ 大正三年(1914年)二月十六日 厚狭郡 埴生村(山陽町)の医者の子に生まれる 明倫館に学び
青木研蔵の養子となった ドイツ留学を機に外交官に転じ 山県有朋、松方正義内閣の 外務大臣 1882年(明治十五年) 伊藤博文のヨーロッパでの憲法調査を助ける ーーー↓ 青木周蔵(三浦團七)の家庭問題 養子の周蔵は長年にわたって家を留守にし 養母(青木周弼夫人)が、 周蔵の後見人の 木戸孝允(桂小五郎)・・・かつら→鬘、葛 こごろう→凝ろう 木戸の曙王 ↓ 爾、其の曙立王に名を賜ひて、 倭者 師 木登 美 豊 朝倉曙立王と 謂はしめたまひき ーー↓ーーーーーーーーーーー↓古事記 甜白檮之前葉廣熊白檮 令 宇氣比枯 亦令 宇氣比生 爾名賜 曙立王 謂 倭者 師 木 登美 豐朝倉 曙立王(登美二字以音) 即 曙立王 菟上王 二王 副 其御子 遣時 自 那良戸 遇 跛盲 自 大坂戸 亦遇 跛盲 唯 木戸 是 腋 ーー↓ を訪ね 苦情、愚痴を云い 離縁すると脅した 木戸の生家(和田氏)と 青木家が隣同士で 夫人は木戸と懇意で この状況を 木戸は青木周蔵に知らせた 青木周蔵が東京を動こうとはしない理由は 駐ドイツ公使就任の話があり、 萩にもどると好機を失うことを恐れた 青木の親戚も木戸に周蔵の愚痴をこぼし、 周蔵の妻の 「テル」が一時行方不明になった 青木家と親戚・知人一同の会議の結果、 周蔵の退身(離縁)ということに決まり 木戸はその 手切れ金のことまで考えてやったが、 この結論が 9月にはひっくり返る。 「周蔵を青木家相続といたすことに決まりました」ということで、 木戸はその報告や 助言と教訓を垂れた手紙を 青木周蔵本人に書き送った。 周蔵のドイツ公使就任の決定が、 青木家にとっても名誉なことだと考え、 彼らは離縁の決定を翻したらしい・・・ ・・・月形半平太・・・も大変だった・・・ 「青木研蔵の養子」であった 「青木周蔵(幼名は三浦團七)」はドイツに赴任、1875年にはオーストリア・ハンガリー帝国公使を兼任した。1877年(明治十年)にドイツ貴族の令嬢「エリザベート」と結婚し、一人娘「ハナ」は、青木に溺愛されて育った・・・「テル」はドウナッタのか?・・・「天照大神」は・・・怒った・・・ 1904年(明治三十七年)十二月十九日 枢密顧問官 青木子爵の娘 ハナと ドイツ公使館員 ドイツ貴族 アレキサンドル・フォン・ハッツフェルト・トラッヘンベルヒ伯爵 との結婚式が 午前 十一時
に築地のローマカトリック大聖堂で行われた・・・ ーー↓ 1891年(明治二十四年)五月十一日 大津事件勃発 日本を訪問中の ロシア帝国皇太子 ニコライ(ニコライ2世)が、 滋賀県滋賀郡大津町(大津市)で 警察官 津田三蔵に突然斬りつけられた暗殺未遂事件 行政の干渉を受けながらも 司法の独立を維持 三権分立の思想を広めた・・・? 裁判で津田は死刑を免れ無期徒刑 外務大臣・青木周蔵 内務大臣・西郷従道 が辞職し、 六月には 司法大臣・山田顕義 が辞任・・・ ーーーーー 枕草子 (一一四段)・・・百十四段・壱百壱拾四段・壱壱四段 陌肆段・佰肆段 ーーーーーーーーーー↓ 陌(ハク・まち・みち) 中国の晋から南北朝時代(魏晋南北朝時代)に かけて使われた通貨単位 銭貨100枚を1陌 日本銀行の「赤札」の印刷は 百円券(板垣退助・昭和二十八(1953)年発行 「陌円=百円」 ーー↓ 關は 逢阪の關。 須磨の關。 鈴鹿の關。 くきだの關。 白川の關。 衣の關。 ただこえの關は、 はばかりの關と、 たとしへ なく こそ 覺ゆれ。 よこばしりの關。 清見が關。 みるめの關。 よしな よしなの關 こそ、 いかに 思ひ返し たる な らんと、 いと 知らま ほしけれ。 それを 勿來の關とは いふ にや あらん。 逢阪などを まで 思ひ返したらば、 佗し からん かし。 足柄の關。 ーーー ーー↓
陌(ハク・まち・みち) あぜ道 阡・陌・・・陌路 路上で出会う人・見知らぬ人 陌路人陌生 よく知らない・なじみがない 陌生的街道・・・不案内な大通り 陌生人・・・・・見知らぬ人 ーー 陌(奈良県生駒郡斑鳩町 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺南1丁目12−12) ーー 「陌間」は「はざま」 「陌上の桑は秦氏の女子より出ず」 「陌上の桑」は西晋の楽府(楽曲の本)にある 「陌上桑(ハクジョウソウ)」という題名の歌詞 「陌上桑と言う歌詞は、秦氏の女子(娘)から出ている」 「陌上桑」歌詞の原文と概要 ↓ 日出東南隅 照我秦氏樓。 秦氏有好女 自名為羅敷。 羅敷喜蠶桑 採桑城南隅。 青絲為籠係 桂枝為籠鉤。 頭上倭墮髻 耳中明月珠。 ↓ 秦氏の娘が桑を摘んでいるところに通りかかった 太守が余りの美しさに一目惚れして言い寄ったが、 娘は「貴方には妻がある。私には夫がいる」と 権力に屈することなく素気無く振った、というもの 「陌上」は「路上」、「道端」の意 ーー ・・・「陌上桑(ハクジョウソウ)」は「薄情想・白状装」・・・この部分は「古事記」の「雄略天皇」が「若日下王」に言い寄った場面に重なっている・・・そして、幕末明治の事件・・・ ーー↓ 若日下王 草香幡梭姫皇女 (くさかのはたびひめのひめみこ) 雄略天皇の皇后 古事記には 若日下(部)王 (わかくさかべのみこと) 或は 波多毘能若郎女 (はたびのわきいらつめ) ↓ はた=波多→秦(はた・シン)→葉多・葉他・傍 ↓ ハタハタ(Arctoscopus japonicus) 鰰・鱩・雷魚・燭魚 Sailfin sandfish(サイルフィン・サンダフィッシュ?) スズキ目 ワニギス亜目 ハタハタ科に属する魚 別名 カミナリウオ シロハタ 水深0~約550mまでの 泥や砂の海底に生息する 深海魚 ーー 雄略天皇(大泊瀬幼武尊) 第二十一代天皇 允恭天皇七年十二月~雄略天皇二十三年八月七日 在位 安康天皇三年十一月十三日~雄略天皇二十三年八月七日 大泊瀬幼武尊 (おおはつせわかたけるのみこと) (タイハクセヨウブソン)→他意葉句施与得部存? 大長谷若建命・・・・・・隊長谷和解懸命→谷干城? ↓ 谷干城(たにたてき・かんじょう) 天保八年(1837年)二月十二日 (新暦3月18日) ~ 明治四十四年(1911年)五月十三日 土佐藩士 通称 申太郎・守部 号 隈山 第二代学習院院長 谷潜蔵は高杉晋作の変名 高杉晋作の妻の 雅(まさ)は 井上平右衛門の 次女 青木周蔵の女性関係者はダレだったか? 大長谷王(古事記)・・・代調他似負?・代葉施緒得? 大悪天皇 有徳天皇 父親 允恭天皇・・・・・・・・木戸孝允・和田小五郎 大組士の桂小五郎? 母親 忍坂大中姫 皇后 草香幡梭姫皇女・・・・・子は無・石女? (若日下王)・・・・・・・久坂(日下実甫)玄瑞の 妻は吉田松陰の妹「文」 青木周蔵の女性関係者が ダレだったか?忘れた・・・ 子女は 白髪皇子(清寧天皇) 栲幡姫皇女 磐城皇子 星川稚宮皇子 春日大娘皇 ーーー↓ 清寧天皇 (せいねいてんのう) 允恭天皇三十三年?~清寧天皇五年一月十六日 第二十二代天皇 都は 磐余甕栗宮 (いわれのみかくりのみや)・・・栗→繰り・句理 在位 清寧天皇元年一月十五日~同五年一月十六日 御名は 白髪皇子(しらかのみこ) 和風諡号は 白髪武広国押稚日本根子天皇 (しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと) 白髪大倭根子命(古事記) 後継の皇子がいなかった 清寧天皇二年 市辺押磐皇子の子である 億計王(後の仁賢天皇) 弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟を 播磨で発見 明石に迎え 翌年二王を 宮中に迎え入れ、 億計王を・・・→「億測」を計算(会稽・会計・塊茎・海景) 東宮 イ(人)の意(立つ日の心) おっくう=億劫・億系・憶測・測量 「億・憶・臆」、オクのスベテをはかる 弘計王を・・・→「弘測」を計算(会稽・会計・塊茎・海景) 皇子とした 弓のム(よこしま・私) 「弘・交・公・考」、コウのスベテをはかる 弘前 弘通(ぐずう)・弘誓(ぐぜい)・弘法(ぐほう) 拘束 後継・後景・後掲 弘文・公文・行文・構文・高文・校分 「弘(コウ・グ・ひろい・ひろめる」 度量が大・「弘毅(コウキ)」 ひろめる・「弘報」 仏法をひろめる・「弘通(ぐずう)・弘誓(ぐぜい)」 弘法大師 弘文天皇(追号)は七月二十三日 ーーー↓ 白髪(?)→白壁→白璧→和氏の璧(卞氏の璧) 姓と氏は区別されていた 姓は同じ血縁関係の称号 氏はそれから派生した称号 卞和の 卞(ベン)は姓で、 和(カ)は氏 和(カ)氏の璧と言う・・・ ーーー↓ 白壁王=光仁天皇 生没年 709(和銅二年)~781(宝亀十二年) 天智天皇の孫 施基皇子の第六子 母は 紀朝臣橡姫 ーー 高野新笠との間に 山部親王(桓武天皇) 早良親王 能登内親王 ーー 皇后 井上内親王・・・第四十五代 聖武天皇の 第一皇女 母は夫人 県 犬養広刀自 ↓ 天平十年(798年)に 光明子の娘 異母妹 第二皇女の 安倍内親王(あべのひめみこ) 718~770(生死没) が 二十歳で 皇太子に即位 安倍内親王は 藤原不比等の孫 母は「安宿姫(光明子)」 ↓ 天平勝宝一年(749) 聖武天皇は 安倍内親王に譲位 ↓ 第四十六代 孝謙天皇 在位 749~758 ↓ 第四十七代 淳仁天皇(大炊王)父=舎人親王・母=当麻山背 733~765(生死没) 758~764(在位) ↓ 第四十八代 称徳天皇(孝謙天皇重祚=安倍内親王) 在位 764~770 ↓ 第四十九代 光仁天皇(白壁王)父=施基親王・母=紀橡姫 709~781(生死没) 770~781(在位) 皇后 井上内親王との間に 他戸親王・酒人内親王 尾張女王との間に 薭(艸+稗)田親王→薭=(艸・廾・サ)+(稗) ↓ 井上(いのうえ・いかみ)内親王 伊勢斎王 夫は 光仁天皇(白壁王) 宝亀一(770)年 皇后 別名 井上廃后、吉野皇后、井上大皇后 との間に・・・ 他戸親王・酒人内親王 尾張女王との間に 薭(艸+稗)田親王 薭=(艸・廾・サ)+(稗) ↓ 第五十代 桓武天皇(山部親王)父=光仁天皇・母=高野新笠 皇后=井上内親王 737~806(生死没) 781~806(在位) ↓ ーーーーー 「井上内親王」と「安倍内親王」は異母姉妹、そして 「吉備親王」は「安倍内親王」は 「吉備内親王」 天武天皇十五年(686年)頃? ~ 神亀六年二月十二日(729年3月16日) 草壁皇子・・・日下部皇子 と 元明天皇の 次女 元正天皇の妹 文武天皇の姉または妹 長屋王の妃 ーーー
・・・
・・・オフクロを訪ねて、スイカを食べてもらった帰り道、突然の夕立・・・僅か3分くらい・・・雨に打たれた女の子、3人が泣いて商店の軒先に駆け込んでいた・・・アっと、言う間の出来事・・・日が射して西の方の山にはデッカい七色アーチのレインボウ・・・虹が架かった根元にはタカラモノがあるらしい・・・ビシャビシャに濡れて家に戻るとニャンコどもも外に居たのか家の中で濡れた毛を舐めていた・・・今朝は赤と白のシルビアの花が咲き誇っていたがチョット可哀想に二、三輪、地面に落ちていた。蜘蛛も大変だったようにセッセと巣の糸の張り具合を点検している・・・菊芋モドキはシブトク黄色の花弁を散らしていない・・・ ・・・なんか、ボクの書き込んだ「枕草子」の「注釈」にご不満な方がいるらしい・・・「妄想言論」に付き合うか、付き合わないかは読んでくれる人の「ご自由デス」・・・アシカラズ・・・「コトバ・文字・言語」の「学問」としての「セイトウなモノ」ではゴザイマセンので、ご容赦ください・・・ ーーーーー 枕草子 (一一五段)・・・一一五段・百十五段・壱百壱拾五段 佰拾伍段・陌足伍段 1+1+5=7=七=漆 1×1×5=5=五=伍 ーーー↓ ・・・多分、「森」と言う「姓」を名乗っていた人物への「アテツケ」カモ・・・・「森」も「林」も「木」の合体字だし、「木」は「十」と「八」の合体字だから・・・その分析各パーツと、全体の構成構造でヨミトク・・・「鴎外」は「鴎=匚+メ+鳥」、「鷗=匚+品+鳥」、「外=夕+ト」・・・「追う害・墺害・欧害・王害・王我意・姶害・横害・負う害」で「おうがい」は「頁=ページ・ケツ・ゲチ」で「おおがい(大貝)」、「うなじ(項)」で、「海路(うなじ)」だからね・・・ 「林大学頭」は「日米和親条約」、1854年3月31日(嘉永七年三月三日)に江戸幕府とアメリカ合衆国が締結した条約で、「神奈川条約」とも記録されているモノで、その江戸幕府の全権は「林復斎(大学頭)」であった。 アメリカ側全権は東インド艦隊司令長官の「マシュー・ペリー」である。「マシュ」は・・・「マッシュ (mash・ mush)」で、「 糖化 (mash)=ビール、ウィスキーなどの工程・穀粉を湯に溶いて発酵させること・その液(マッシュ液)・ペースト状にした食材 (mash)・マッシュポテト。トウモロコシ粥 (mush)」で、その意味で下田と箱館(函館)を開港した・・・ なんせ、「ア」が聴き取れないアメリカは「メリケン(米利堅)」で、「日本國-米利堅-合衆國和親條約」・・・ Convention of Peace and Amity between the United States of America and the Empire of Japan (アメリカ合衆国と日本帝国間の平和および修好の条約) 「Treaty of Kanagawa」と通称・・・ 「TPP」 Trans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreement または単に Trans-Pacific Partnership (環太平洋パートナーシップ協定・環太平洋戦略的経済連携協定) がダレのタメの協定・・・「林大学の頭」に訊いて見たい・・・「mushroom」は食用か、「toadstool(毒キノコ)・タぁド-スッール・トぉド-スッール」か・・・「stool」って「スツール (ひじ掛け・背のない腰掛け・足の高い一本足の腰掛け・止まり木・足のせ台・大便・踏み台・ひざつき台・足台(footstool)・親木・親株・親株から出る若枝・狩猟で使う囮の留まり木、その囮の鳥・腰掛け式便器」・・・ ボクの耳には「stole」って聴こえるが「steal」って、「pilfer」、「theft」・・・盗み、窃盗・・・で、「mushroom」は「茸(きのこ・木野子・たけ・しげる)」で、漢字音は「ジョウ」である・・・「森」は「木が三本」の合字である。「林」は「木が二本」・・・ ーーー↓枕草子 森は 大荒木の森。 忍の森。 こごひの森。 木枯の森。 信太の森。 生田の森。 うつきの森。 きくだの森。 いはせの森。 立聞の森。 常磐の森。 くるべきの森。 神南備の森。 假寐の森。 浮田の森。 うへ木の森。 石田の森。 かうたての森 といふが 耳 とどまる こそ あやしけれ。 森など いふ べくも あらず、 ただ 一木 あるを、 何に つけたる ぞ。 こひの森。 木幡の森。 ーーーーー ・・・負う我意な漏り・・・
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