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「訳(譯)語田=おさだ」・・・why?

 2023/2/14・火曜日・・・追加添文・・・

 1500年代~  「大田」が  「太田」に変化していった・・・ナゼ?

 ・・・16世紀ころから・・・1500年代~苗字の「大田」の漢字表記が「太田」に変化していった・・・ナゼ?「大(おほ・おお・ダイ)」が「太(ふとい・ぶとい・タイ)」に変化していったのか?・・・「大⇔太=タイ=他意・替・対・体・帯・台・鯛・tie(?)・・・」・・・「太閤=太閤下=摂政または関白の職を子弟に譲った人物・内覧(ナイラン⇔名意蘭=ないらん=内乱?)職に就き天皇に奉る文書などを先に見る役職」・・・タイコウ-ゲ(カ)?・・・ ーーーーー  tie(?)  …を(ひも=紐・綱などで)縛る・・・紐育=ニューヨーク  …を(ひも=紐・綱などで)結ぶ  …ゆわえる(with…)  …をしっかりとくくる  …人を縛りあげる  …動物をつなぐ(up)  …を縛りつける(down)  …を(…に)つなぐ(to, onto…)  tie up a package  小包をしっかりくくる  be tied hand and foot  tie 【自動】  ゲーム・試合で同点になる、引き分ける ーーーーー   帯=おび・たらし・タイ・・・帯方郡?                 獸帯=黄道帯                   =zodiac(ゾウディアック)                        象 出入鴉通区        古事記・序文          ↓↑  「亦、於姓・・・また、姓に於いて名     日・・・ジツ・ニチ・・・字通・似知・仁智?        日(にちへん・にち)・曰(ひらび)        ニチ・ジツ        か・ひ・ひる・あき・はる     下・・・ゲ・カ・・・・・解-化・外-科・乂-卦?        下=丅+丶=一+ト        カ・ゲ     した・しも・もと     さげる・さがる     くだる・くだす・くださる     おろす・おりる        位置・地位・価値     年齢などが低い     劣っている     時間・順序・物事の流れの後の方     高い所から低い所へ移動する     ある者のした     支配の範囲     命令を出す     手をくだす・物事を行う     謂・・・・言う     玖沙訶、・くさか     於名・・・名に於いて     帶・・・・タイ・おび     字・・・・ジ・あざ      謂・・・・言う     多羅斯、・たらし     如此之類、・・・この類いのごとく     隨本不改」・・・本に倭(したが)って・・・隨本=隨書?               従(したが)って・・・臣従               遵(したが)って・・・遵法               隨(したが)って・・・隨本=隋書?                 もとづいて  隨=阝(阜)+左+月+⻌  隋=阝(阜)+左+月=したがう    付き従う・寄り添う    追う    聞き入れる・言いなりになる    成り行きにまかせる    したがって・だから・それゆえ    その都度    部下・付き添い    易の六十四卦の一    物と自分との違いのかたちを表す    隋道=随道=隨道    随道=ズイドウ=瑞道=隋同⇔髄如何⇔真髄・心髄・神髄    隧道=ズイドウ=地中に掘った墓室に通じる通路       ズイドウ=瑞同       ↓↑       吉兆=瑞光・瑞祥・瑞兆・瑞鳥・嘉瑞・奇瑞・祥瑞       瑞西(スイス)       瑞典(スウェーデン)       ↓↑    久坂玄瑞(ゲンズイ)    天保十一年(1840年)五月誕生日不明    ~    元治元年七月十九日(1864年8月20日)    幼名は秀三郎    諱は通武    字は「玄瑞」、「実甫」    通称は誠、義助      ↓↑    高野 瑞皐(ズイコウ)=高野長英    文化元年五月五日(1804年6月12日)    ~    嘉永三年十月三十日(1850年12月3日)     甲子(壬・ ・癸)⇔庚戌(辛・丁・戊)    庚午(丙・ ・丁)⇔丁亥(戊・甲・壬)    癸巳(戊・庚・丙)⇔戊子(壬・ ・癸)      午未=空亡    医者・蘭学者    通称は悦三郎    諱は譲(ゆずる)    号は瑞皐(ズイコウ)     皐=白+=+十+=    コウ(カウ)    さわ。岸辺    「九皐」    陰暦の五月    さつき=皐月(コウゲツ)=早苗月・・・        五月蝿(蠅)い=うるさい・煩い    さつきつつじ=皐月躑躅・・・躑躅(テキチャク)?    「羊躑躅(ヨウテキチャク)」    「羊がその葉を食べると躑躅(テキチャク)して死ぬ     それで羊躑躅という(陶弘景)」    足+「鄭(酋大邑)=ねんごろ・かさなる・ていねい(丁寧)              テイ・ジョウ」    足+「蜀(罒勹虫)=いもむし・ショク・ゾク             桑の葉などにつく昆虫の幼虫             目を強調した毛虫・芋虫    皐は    白骨の頭の骨に    四本足の獣のむくろ(骸)    「白く輝く」    転じて沢や岸、沼などの    水辺を表す文字となった・・・「羊の白く輝く毛並み」?                  五月は羊毛を刈り取る季節?                  「皐」は毛を刈り取られた羊?    揺れる水面の波形・・・?   「呼ぶ、ゆっくりと呼ぶ」   「ゆるやか・耕作・神に捧げる稲穂」   ・・・「皐」はトンボの形象に見えたり   「ヤゴ=水蠆⇔萬+虫」の形象にも見えるが・・・   うるさい(五月蝿い・煩い)   「はえ=蠅・蝿」?・・・   「蠅伊呂泥(はえいろね)」は   「倭迹々日-百襲姫」・・・百(百済)を    ↓↑          襲(おそう                  つぐ・受けつぐ・引きつぐ                  あとをつぐ                  かさねる)                おそう=熊襲・襲撃・奇襲・強襲                    逆襲・急襲                 つぐ=襲名・世襲・踏襲               かさねる=重ね着・重ねた着物                    襲衣    ↓↑              因襲    の母親で   「意富-夜麻登-玖邇-阿礼-比売」 おほ-やまと-くに-あれ-ひめ・・・・大=おほ=太・多   「皋=白+大+十=白+一+人」+十」は「皐」の異体字    ヤゴ(水の蠆)=水(ミズ)の萬(ヨロズ)の            中のム(私・己・邪=よこしま=横島)・・・ ーーーーー  古事記・序文      ↓↑  ・・・於焉、惜舊辭之誤忤、正先紀之謬錯、  以  和銅四年九月十八日、  詔臣  安萬侶、  撰錄  稗田阿禮  所誦之勅語  舊辭  以  獻上者、  謹  隨詔旨、子細採摭。  然、上古之時、  言意並朴、  敷文構句、  於  字卽難。  已  因訓述者、  詞不逮心、  全  以音連者、  事趣更長。  是以今、  或一句之中、  交用音訓、  或一事之內、  全以訓錄。  卽、辭理叵見、  以注明、  意況易解、  更非注。  亦、  於姓  日  下  謂  玖沙訶、  於名  帶  字  謂  多羅斯、  如此之類、  隨本  不改。  ………  和銅五年・・・和同(導)語撚?・・・銅=金+同=コンドウ=混同  正月廿八日・・正解通念葉知字通?・・廿八日=念捌似曰(いわく)  正五位・・・・正語彙  上勳五等・・・状訓語等  太・・・・・・おほの・ふとい・タイ  朝臣  安萬侶 ーーーーー  『古事記』写本は32本  最古の写本は  『真福寺本-古事記』  建徳二年(1371年)~翌、建徳三年(1372年⇔文中元年)にかけ  真福寺の僧  賢瑜・・・1344年~?・・・1371-1344=37  が  師  信瑜・・・1333年~1382年 南北朝時代の僧       正慶二年=元弘三年生まれ       真言宗・尾張(愛知県)宝生院(真福寺)二世       元弘の乱(元弘元年・1331年)       後醍醐天皇を中心とした鎌倉幕府倒幕運動       元弘三年・正慶二年(1333年)       元弘三年(1333年)五月二十二日       鎌倉幕府滅亡       元弘三年=正慶二年(1333年)六月       建武の中興       元弘四年=建武元年(1334年)⇔「建武」の元号  の命を受けて書写した・・・  ↓↑  干支辛亥  日本  南朝 建徳二年(1371年)・・・1372年は「壬子・文中元年」  北朝 応安四年     皇紀弐千参拾壱(2031)年  ↓↑  中国  明王朝 洪武四年(1371年)  鄭和(テイワ・1371年~1434年)  イスラム教徒  馬哈只の子として誕生  中国明代の武将  12歳の時に  永楽帝に宦官として仕え  軍功をあげ重用  1405年~1433年  南海への7度の大航海の指揮  鄭和の船団は  東南アジア、インド  アラビア半島  アフリカ東海岸の  マリンディ(ケニアのマリンディ)  まで到達  本姓は馬  初名は三保  宦官の最高位、太監  三保太監あるいは  三宝太監の通称で知られる  ↓↑  夏   開熙五年(旧六月まで) ーーーーー  タイ  大・太・歹・台・代   忕・旲・忲・豸・兌  呆・汰・対・体・邰  隶・抬・苔・岱・㤗  祋・珆・迨・玳・殆  帝・怠・胎・耐・退  待・軑・泰・帯・菭  陮・釱・帶・紿・梯  堆・袋・逮・脱・跆  鈦・躰・蒂・詒・棣  替・貸・隊・搥・搋  ?・瑇・碓・滞・㦅  䃍・蓷・箉・䲦・臺  滯・態・腿・颱・蔕  對・憞・慸・磓・蝳  䈚・隤・褪・駘・曃  憝・跎・頺・頹・鮐    頽・黛・諦・㿉・薱  艜・駾・薹・擡・戴  懟・蹛・魋・鎚・譈  蹪・蠆・穨・斄・鐜  鐟・軆・鐓・㿗・體  襶・靆 ーーーーー  太田 道灌(おおた どうかん)  生誕 永享四年(1432年)  死没 文明十八年七月二十六日・・・文の明の拾捌年漆月弐拾陸日?     (1486年8月25日)  改名 鶴千代(幼名)→資長→道灌(法名)  諱名 持資 ーーーーー  16世紀ころから・・・1500年代~  「大田」が  「太田」に変化していった・・・ナゼ?              草書での漢字「大」の「乀」が次の字へ              「ゝ」と引き摺った?              ・・・点(天)が膨張?・太陽・太陰  「太田牛一」・・・「信長公記」の著者     ・・・「牛一」=うしイチ・ゴイチ=「丑一・語位置」?                       紐市  池田家文庫本に  慶長十五年(1610年)の  太田牛一  自身の記録  織田信長の一代記  戦国時代~安土桃山時代  織田信長の旧臣  太田牛一  原本は  江戸時代初期に成立  信長の幼少時代から  信長が  足利義昭を奉じて  上洛する前までを  首巻とし  上洛(永禄十一年(1568年)  から  本能寺の変(天正十年・1582年)・・・本の能の字の変                    能事=ノウジ=農事                    しなければならないこと                    なすべきこと  まで  十五年の記録を  一年一巻とし  全十六巻(16冊)にまとめている  ↓↑  読み「信長記=しんちやうき」     ・・・「新調・伸長・伸張・慎重・新潮」の記?  写本を含め  20種類以上が残され  表題も  『安土日記・安土記・信長記・信長公記』  など様々で  大名や公家などに  写本で伝わり  明治時代になって初めて刊行された  太田自筆のものは3つ  自筆本にはいずれも首巻がなく  首巻は巻一〜巻十五より  後に書かれた・・・  ↓↑  『永禄十一年記』(1巻)   永禄十一年(1568年)の部分のみ  尊経閣文庫所蔵  (尊経閣文庫は他にも  『信長記』15巻などを所蔵する)  ↓↑  池田本『信長記』(十五巻)  岡山大学付属図書館池田家文庫所蔵  姫路城主・池田輝政に献上されたもの  首巻なし。重要文化財。第十二巻のみ古写本  ↓↑  建勲神社本『信長公記』(十五巻)  京都・建勲神社所蔵。首巻なし  ↓↑  町田本  町田久成旧蔵本(所在不明)  『我自刊我書』  明治十三年(1880年)~十七年(1884年)  甫喜山景雄が刊行  後に『史籍集覧』に収められた  近代デジタルライブラリーで閲覧可能  ↓↑  陽明本  近衛家所蔵本。角川文庫版の底本  ↓↑  天理本  天理大学附属天理図書館所蔵の写本  ↓↑  太安萬(万)侶 ーーーーー  信長公記  太田牛一  時代 安土桃山時代、江戸時代  生誕 大永七年(1527年)  死没 慶長十八年(1613年)  改名 天正九年(1581年)まで     「信定」を名乗る  別名 通称又助(又介)あるいは「和泉」  墓所 仏日寺(大阪府池田市)  官位 和泉守  幕府 織豊政権  主君 斯波義統、柴田勝家、織田信長     丹羽長秀、丹羽長重、豊臣秀吉     豊臣秀頼  子 大田小又助・・・・・太田⇔大田     大田又七郎牛次・・・太田⇔大田    (子孫の加賀大田家では         「大田」を名乗る)  諱  天正九年(1581年)までの文書では  「信定」と署名  その後の書状  天正十七年(1589年)から  「牛一」と署名し、晩年まで続けた  信長の死んだ  天正十年(1582年)前後に  諱を変えた・・・  平家語り  一方流琵琶法師が名乗りの  一文字の末尾に「一」を付けるので  それに倣った・・・?  ↓↑  大永七年(1527年)  尾張国春日井郡  山田荘  安食村(名古屋市北区)  土豪の家に生まれ  成願寺で僧侶  還俗し  斯波義統  の家臣となる  天文二十三年(1554年)七月十二日  義統殺害の後  那古野城の  織田信長の保護を求めた遺児の  斯波義銀に付いて  織田家に行った・・・  天文二十三年(1554年)  信長の家臣  柴田勝家に仕え  足軽衆となる  同年七月十八日  「安食の戦い」に参加  義統弔い合戦  弓の腕を認められ  信長の直臣となり  弓3人  鑓3人の「六人衆」の  一員となり近侍衆  永禄七年(1564年)  美濃-斎藤氏の  堂洞城攻略で  二の丸の門近くの建物の屋根から  弓を射て活躍  信長に褒められ知行増  後は  近習の書記  後  安土城下で屋敷を持ち  信長に近侍する官僚(吏僚)とし  永禄十二年(1569年)~天正十年(1582年)  丹羽長秀の与力  京の寺社との間の行政担当  同時代の  『賀茂別雷神社文書』に  同社から  牛一に筆がしばしば贈られた記録  他に筆を贈られているのは  長束正家やその弟  直吉  ↓↑  本能寺の変後  長秀に2,000石で仕え  柴田勝家との戦いのため  坂本城に長秀に従い参陣  後  天正十三年(1585年)  長秀没後は  丹羽長重に加賀国松任で仕える  公務は息子に譲り  同地で一時隠居  ↓↑  豊臣秀吉に召し出され  天正十七年(1587年)  洛南の行政官僚  寺社行政と検地なども担当  山城国加茂六郷を検地  天正十八年(1588年)  淀城を拠点にし  南山城と  近江国  浅井郡の代官も兼任  ↓↑  天正二十年(1590年)  肥前国  名護屋  へ秀吉に従軍  道中の  人足や馬を  配分する奉行に就く  名護屋城の  建築工事の差配  ↓↑  文禄元年(1592年)  文禄の役  城の留守番衆  文禄三年(1594年)  大阪に戻る  文禄五年(1596年)五月九日  豊臣秀頼の初の上洛に供奉  後陽成天皇に  『太閤御代度々御進発之記』を献上  慶長三年(1598年)三月十五日  醍醐の花見では  秀吉の側室  三の丸殿の警護を務めた  同年三月十七日  醍醐寺三宝院で  門跡・義演から  信長から秀頼までの  記録を書いたと紹介され一部暗誦もした  同年九月十八日  秀吉の没後は  豊臣秀頼に仕えた  慶長六年(1601年)までに  『関ヶ原合戦双紙』を  徳川家康に献上し  十一月七日  中井宗茂にも進上  慶長十一年(1606年)  南禅寺  金地院の河内  真観寺領の代官になる  慶長十二年(1607年)頃  『関ヶ原合戦双紙』奥書で  自分の著作をまとめ  「五代之軍記」と名付ける  慶長十六年(1611年)三月二十八日  秀頼の家康との京都  二条城での会見への上洛に供奉  慶長十五年(1610年)  84歳時の書もある  大阪城東南の重臣の屋敷地区の  大坂玉造で  慶長十八年(1613年)  病死  大阪府池田市の  佛日寺に  子孫が立てた墓がある  ↓↑  信長・秀吉・秀次、秀頼、家康  などの軍記・伝記を著述  長篠の戦いを描いた  屏風『長篠合戦屏風』は  概ね、『信長公記』通り  安土城についても  細部まで正確に記録していたことが、  加賀藩伝来の  天守指図の発見で裏付けられた・・・  ↓↑  子孫  嫡男の  又七郎牛次は  秀頼家臣の  青木一重  に仕え  大坂夏の陣の  豊臣氏滅亡後  津藩の  藤堂高虎  に仕えるが  摂津麻田藩の青木家に戻り  麻田藩士として続いた  子息の  小又助は  丹羽家、織田信雄、豊臣秀吉に仕え  その孫の宗古が浪人後  寛永十八年(1641年)より  前田利常に仕え  以来  加賀藩士  ↓↑  著作  『信長公記』  (「信長記・安土記・安土日記」)  『大かうさまくんきのうち』  (「太田牛一雑記」)  『関ヶ原合戦双紙』  (「太田和泉守記」、「内府公軍記」)  『高麗陣日記』  『関東軍記』  『別本御代々軍記』  (「太田牛一旧記」)  『太閤御代度々御進発之記』  『豊国大明神臨時御祭礼記録』  『今度之公家草紙』  (「猪熊物語」慶長十五年)  『新門跡大坂退散之次第』  ↓↑  太安万(萬)侶・太  田       田  牛       和  一       泉  ↓↑ http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/sintyokouki_1.pdf  ↓↑  信長公記 巻 首・天文三年~永禄十一年            (1534年~1568年)  信長公記 巻 一・永禄十一年(1568年)  信長公記 巻 二・永禄十二年(1569年)  信長公記 巻 三・元亀元年(1570年)  信長公記 巻 四・元亀二年(1571年)  信長公記 巻 五・元亀三年(1572年)  信長公記 巻 六・天正元年(1573年)  信長公記 巻 七・天正二年(1574年)  信長公記 巻 八・天正三年(1575年)  信長公記 巻 九・天正四年(1576年)  信長公記 巻 十・天正五年(1577年)  信長公記 巻十一・天正六年(1578年)  信長公記 巻十二・天正七年(1579年)  信長公記 巻十三・天正八年(1580年)  信長公記 巻十四・天正九年(1581年)  信長公記 巻十五・天正十年(1582年)


 ・・・「沢=さわ・タク=澤=氵+睪(罒幸)」・・・「皐」・・・「訳=わけ・とく・ヤク・エキ=譯(罒幸)」・・・「訳(譯)語田=おさだ」・・・「大津が謀叛の疑いをもたれ大和(やまと)で磯城(シキ)の訳(譯)語田(をさだ)の家を引き出されて、磐余(いはれ)の池の堤で処刑され、二上山に葬られた(大津皇子、24才)」・・・「訳(譯)語田(おさだ)という地名は現在は残っていないが、今の戒重(カイジュウ)という地区にあったらしい」・・・それにしても「訳(譯)語田(おさだ)」は、ナゼ、「訳(譯)語田(わけゴだ・とくゴだ・トゴデン・ヤクゴデン・エキゴデン)」とヨマないんだか・・・  をさだ=訳(譯)語田=他田     =長田=長多=蓬田     =納田=押田=治田     =織田(おだ、おりた、おた、おさだ)     =尾定=小佐田・・・「御沙汰」?  御沙汰=おさた・ゴサタ      天皇や貴人の命令・指図      おさばき・ご処置      最高権力者の指示・命令      権力意思に基づいて      行われる官府や裁判などの指示、命令 ーーーーー  「訳(譯)語田・幸玉宮」の所在地・・・譯の語を田(かる)                    幸の玉の宮(キュウ)  桜井市「戒重」・・・戒(いましめ・カイ)が重(かさなる)  または「太田」・・・太(ふとい・おほ・タイを田(かる・デン)  という二つの説  地名は平安時代に  「他田(オサダ)」・・・他(ほか・あだし・タ)を田(かる・デン)              他所(よそ)  と表記  奈良時代に  「他田(オサダ)」臣の姓氏があった  「敏達天皇一年(ユリウス暦572年4月30日)   欽明天皇の第二子   訳(譯)語田皇子が即位し   第三十代・敏達天皇」  「敏達天皇・沼名倉太玉敷    訳(譯)語田(他田=おさだ)」  「訳(譯)語田渟中倉太珠敷尊  (おさだのぬなくらふとたましきのみこと   日本書紀)   沼名倉太玉敷命  (ぬなくらふとたましきのみこと   古事記)」  「大永四年(1524)戒重-春日神社を   長田(おさだ)宮」とも  「朱鳥一(686)年八月封400戸を加えられ   同年九月、天武天皇が亡くなると   十月二日、   新羅僧「行心」らに   唆(そそのか)されて謀反を企て  「訳(譯)語田(桜井市-戒重)」   の家で死を賜った   二十四歳   即日、妃の  「山辺皇女」・・・山(やま・サン)の辺(あたり・ヘン)   は嘆いて殉死・・・巡視・荀子            準指(準指導員)⇔「准南・淮南」史?

ーーーーー  睾丸(Balls)とも呼ばれ、左右1対  俗称は、金玉、玉、ふぐり(布久利)  ↓↑  睾=丿+睪=丿+罒+幸      =丿+罒+一+辛   =丿+罒+一+立+十    =さわ・たかい・コウ・カウ    きんたま・男性の持つ生殖器官・精巣    澤・水辺の低地・・・・澤(沢)⇔譯(訳)・・・睪=尺    高いさま・広いさま    異体字、睪(繁体字)=皐=皋        皐(異体字)・・・「皐月(さつき)」の皐              ・・・「皐魚の泣」の皐                  親の死を嘆き悲しんで泣くたとえ                  韓詩外伝(カンシガイデン)?        皋(異体字)    訓読み=さつき・さわ・きんたま・おお        睾丸・睾然・睾蘇        蘭=ラン(orchid)        ギリシア語で睾丸を意味する        ορχις (orchis)に由来        イヌのフグリ           陰嚢(ふぐり)⇔「河豚・鰒・鯸・鮐」詈(理)           背嚢(ハイノウ)         罵詈雑言              ふ-ぐり(くり)              す-ぐり(くり)・・・栗=くり=庫裏           ぐり=屈輪・倶利=堆朱、寺院建築などの              蕨 (わらび) 形の曲線の連続文様              ぐりぐり・デキもの・腫れモノ           村主(す-ぐり)⇔勝(すぐり・かつ・ショウ)                    勝海舟?           古代の姓(かばね)の一           韓・漢からの渡来人の統率者に与えられた           酸塊(すぐり・サンカイ)             =ユキノシタ科スグリ属植物の数種の総称              ユキノシタ=雪の下=虎耳草(コジソウ)              西洋スグリ(グズベリー・マルスグリ)        果実の形状から        アボカド        スペイン語名aguacateは        ナワトル語で睾丸を意味        ahuacatl        auacatl        に由来との説もある・・・  皐=皋=臯=曲がりくねった奥深い沢   ↓↑  九皐=幾重にも曲がりくねった奥深い沢   ↓↑  鶴九皐に鳴き声天に聞こゆ(詩経 小雅、鶴鳴)  鶴の声は天に聞こえる  賢人は身を隠しても  その名声は広く世間に知れ渡る   ↓↑  鶴鳴之士=才能や能力があっても       世のために使われることなく       世間から認められていない賢者       公職についていない賢者  鶴鳴九皐=山奥に隠遁している賢者       山の中から       鶴の美しい鳴き声は聞こえるが       姿を見ることは出来ない      (後漢書-楊賜伝)   ↓↑   皐=皋=臯    =曲がりくねった奥深い沢?     ↓↑        ↓↑  「沢(澤)三伯」   ↓↑  ・・・さわじ姫=佐和遅姫      佐波遲比賣命=沙本毘賣命   ↓↑  高野 長英   文化元年五月五日(1804年6月12日)    ~   嘉永三年十月三十日(1850年12月3日)  江戸時代後期の医者・蘭学者  通称は悦三郎、諱は譲(ゆずる)  号は瑞皐(ずいこう)  実父は後藤実慶  養父は叔父・高野玄斎  江戸幕府の異国船打払令を批判し開国を説く  弾圧を受け死去  1898年(明治三十一年)七月四日)  正四位を追贈  主著に  『戊戌夢物語・わすれがたみ・三兵答古知機』  など  オランダ(阿蘭陀・和蘭陀)語の  文献の翻訳も多(さわ・おほい・多)   ↓↑  仲間の  伊東玄朴(名は淵       妻はオランダ通訳の       猪俣傳次衛門の       長女・照)  が  長英を階段から突き落としたが  長英は  「GEVAARLIJK!(オランダ語で危ない!)」  と叫んだ  GEVAARLIJK=ヒゥヴァールリック        ヘフぁーレク        把付嗚呼例句?          蛙鴉例句?  DANGEROUS =デンジャぁラス        伝 邪 蛙等素?   ↓↑  岩手県奥州市水沢(水沢市)で  三偉人  高野長英、後藤新平、斎藤実  の一人  ↓↑  澤=沢=佐和=さわ=多  ↓↑  稲城の火責めの中で死んだ  「佐波(遅媛)・佐和(知姫)」は  「垂仁天皇の妃(后・皇后)」だった  「藝」の漢字は  聾唖(おし)の  「佐波遲比賣命=沙本毘賣命」の皇子  「品牟都和氣命=本牟智和氣御子」が  「阿藝(あぎ)=今聞高往鵠之音、   始爲-阿藝-登比」  と声を発した時に  記録されている「文字」  「藝(ゲイ)→藝術、技藝」の類字に  「芸(ウン)→香草、芸香(ウンコウ)」  と読ませている漢字  「阿藝」は「あぎ」ではなく  「アウン=阿吽」である・・・?  「大修館漢和辞典(731ページ)」  には  「本の虫食い」を防ぐ「防虫草」で  「草刈・草ぎる→草薙・黄(きい)ばむ・多い」  と説明  「芸(藝)術」の「藝→芸(ゲイ)」は  「新字体」・・・  同じ「大修館漢和辞典(732ページ)」に  「芸(ゲイ)」が記述されているが  「藝」の漢字は無い  「芸(ウン)←藝→芸(ゲイ)」  は何時から?・・・  「芸亭(ウンテイ)」は歴史では  「石上宅嗣」が開設した  日本最初の公開図書館である  「芸編(ウンヘン)」は「書物」  「芸閣(ウンカク)」は  「書庫、書斎で、書籍、本の倉庫」である  そして  「芸省(ウンショウ)」は  「秘書省・秘書局」で、「局=個室」・・・  ↓↑  泣沢女神(なきさわめのかみ)  須佐之男命の  御子(みこ)である  八島士妖美神は、  大山津見神の娘である  木花知流比売(このはなちるひめ)をめとり、  布波能母遅久奴須奴神  (…その涙から   泣沢女神(なきさわめのかみ)が生まれた  ↓↑  稲城の火責めの中で死んだ  「佐波(遅媛)・佐和(知姫)」は  「垂仁天皇の妃(后・皇后)」だった  ↓↑  参考は以下に断りも無く添付させて頂きました。申し訳ありません・・・「疑義のある記録文書解読」のお助けと思って・・・お許しを・・・  ↓↑ ーー  尾張国司  多治  比  真人  水守と  面会  『続日本紀』  ・・・「多治比=タジヒ」とは「多くを治め比べる」か、「治」の音を採って異字にすれば「多字比」で「多くの字を比べる」、「多くの慈悲・自費」である。  「おおはる」と言う地名も愛知にはある。「愛知県海部郡大治町」の「大治(おおはる)」である。名古屋市に隣接している。 ーー  多治比真人嶋  多治比真人嶋  (たじひ・まひと・しま・624~701)  嶋の次男  「水守(みずもり)」 ーー  「水主」と書いて「かこ」と読ませている場所も名古屋にある。「名古屋市水主町」である。そして「加古」は「過去」で、「賀古←古賀」である・・・「古賀謹一郎」は「蕃書調所(蛮書調所・ばんしょしらべしょ・1856年・安政三年)開所の頭取である・・・ ーー  多治比(丹比)真人(たじひ・まひと)  多治比真人嶋(たじひ・まひと・しま)は  朝廷から  文武四年(700)正月十三日  老齢と勲功をねぎらい  「霊寿の杖」と  「輿」  および  「供人(従者)」を授与される ーー   ↑  人麻呂の「死」に関する歌を  「万葉集」に残した?  多治比真人三宅麻呂の歌?   ↓ ーー  万葉集巻二、  223~227に  柿本人麻呂の最晩年の歌  「鴨山五首」  一連の歌の四首目  丹比真人  名闕(欠)く  柿本朝臣人麻呂の意に擬へて  報ふる  歌一首  荒浪に寄り来る玉を枕に置き  吾ここにありと、誰か告げなむ  226    ↑  この歌は  多治比真人三宅麻呂の  歌とする説があるらしく  人麻呂の死は  和銅二年ごろ  敢えて名前を伏せる必要があった人物  流罪になった三宅麻呂の可能性が大 ーーー  天武十一年(682)~  神護景雲二年(768)まで  86年間に記載される  多治比真人一族の名  年代順  嶋、麻呂、池守、水守、三宅麻呂、県守、夜部、広成、 吉備、吉提、広足、占部、屋主、多夫勢、伯、国人、  家主、牛養、祖人、木人、犢養、土作、石足、乎婆売、 若日女、犬養、礼麻呂、鷹主、小耳、長野、乙麻呂、  伊止、古奈祢  総計三十三人 ーー  ・・・それにしても、ナマエが「音」からの意味なのか、「文字」からの意味なのか、その双方なのか・・・「誕生地」、「誕生時」、「職業名」は「文字」から推察できるが・・・「小耳」は顔につく「耳の形の大小」なのか、「小耳に挟む」などと言うコトバがあるから「情報通」なのか、とにかく「33人」である・・・ ーー  万葉集の時代の事件    天武元年(672)   壬申の乱  天武十一年(682)  大津皇子の変  天平元年(729)   長屋王の変  天平十二年(740)  藤原広嗣の乱  天平宝字元年(757) 橘奈良麻呂の変  天平宝字八年(764) 藤原仲麻呂の乱 ーー    最初の人物  多治比真人嶋  ・・・多字(持・時・事・耳)比真人問  は  「宣化天皇の玄孫・日本書記」  「三代実録」によると  宣化天皇~恵波皇子~十一王      ~多治比古王~多治比嶋  の系図である ーー  恵波皇子を  読めば、  えなみ=めぐみなみ=ケイハオウジ  とあまりひとつ=ジュウイチオウ  おほはるひこ=タジヒコオウ  「多治・比古・王」は  「多治 彦  王」であろう。  であるならば、  「古」を欠落させた  「多治比」は  「多の治の比」で、  「古(ふるい・いにしえ)」である ーー  大宝元年(701)  正二位左大臣で死亡  享年七十八歳  真人の姓  天武十二年(683)  六十四歳の時 ー   「真人」は  「天武天皇十三年(684)」に  「八色の姓」の制定されたモノだが、  第一真人、第二朝臣、第三宿禰、第四忌寸  第五導師、第六臣、第七連、第八稲置  コレ「以前」のものと比較すべきである・・・ ー    当時活躍していた者  池守、水守、三宅麻呂、県守、広成、広足の  六名  池守は・・・池守???  ↓↑    池田 筑 後 守  長発       (いけだちくごのかみ ながおき)        天保八年七月二十三日       (1837年8月23日)        ~        明治十二年       (1879年9月12日)        ↓↑        備中国松山藩        井原(岡山県)の領主        ↓↑  ↓↑    元治元年(1864年)二月二十三日        文久三年(1863年)        第二次        (第二回遣欧使節         横浜鎖港談判使節団)        遣欧使節団の       「池田長発」隊        仏艦ル・モンジュ号        ↓↑  ↓↑    文久二年十二月二十二日        (1862年1月21日)        第一次        (第1回遣欧使節         開市開港延期交渉使節))        遣欧使節団の        「竹内保徳」隊        英国海軍の        蒸気フリゲート、オーディン号        ↓↑        1862年9月22日        リンカーン・奴隷解放宣言        ↓↑  ↓↑    文久二年九月十一日        (1862年11月2日)        幕府の        第1回留学生が長崎を出帆        (榎本武揚、赤松則良、西周         ら15名)        ↓↑  ↓↑    ロンドン万国博覧会         1862年5月1日~11月1日        開催        ↓↑       「竹内保徳」隊        文久二年十二月十一日  ↓↑    (1863年1月30日)帰国  嶋の第一子、  広成は第五子  広足は嶋の子  「続日本紀」の記録  嶋の子  水守が第二子、  三宅麻呂が第三子  県守は第四子  らしい・・・ ーーーーー  太田 源三郎 (おおた げんざぶろう)?  生年月日 1835年4月18日  江戸時代 明治時代の通詞       1895年没  Mr.Ohataは静岡藩士  1862年~1863年に  ヨーロッパ使節・・・定役格通詞  の通詞、通訳  ↓↑   竹内   下野   守  保徳  (たけうち しもつけのかみ やすのり)  外国奉行、正使  ↓↑  太田 源三郎  横浜語学所の英学教授  教育指導者として  他の藩に派遣される  という制度で  静岡藩の御貸人として  福井藩に雇われた  横浜語学所が閉鎖してしまって  浪人し  勝海舟  の世話で  福井藩に斡旋した  高橋是清  は仙台藩から派遣されて来た  数え年十二歳のときに  横浜へ来て  初めは横浜にいた通訳の  太田源三郎  の所から  ヘボン塾に通った  その後、働きながら  実用的な英語の勉強をした  ↓↑  日下部太郎⇔旧名は八木八十八(やぎやそはち)  22歳の時に海外旅行免許状  (パスポート・幕府の免許状発行が   4番目であることから   当時日本でも留学創成期に   渡米した)を携え渡米  遊学先の長崎から  ジャワを経てアメリカへ向かう  この時に藩主の  松平春嶽から  日下部太郎の名を拝命  (日下部は八木家の先祖の姓)  ↓↑  150日の航海の末  ニュージャージー州  ニューブランズウィック  に到着  ここで1年前に密航で海を渡っていた  伊勢佐太郎  と  沼川三郎  の兄弟に出迎えられる  ↓↑  ラトガース大学入学前に付属中学に入学し  英語と基礎教育を受け  ここの教師をしていた  2歳年上でラトガース大学生でもあった  ウィリアム・グリフィスと出会う  23歳の時ラトガース大学に入学し  2年に編入  ↓↑  グリフィス=「希利比士(グリヒス)」  ウィリアム・エリオット・グリフィス  (William Elliot Griffis)  1843年9月17日~1928年2月5日  アメリカ合衆国出身の  お雇い外国人  理科教師、牧師、著述家、日本学者、東洋学者  ラトガース大学で  福井藩からの留学生であった  日下部太郎と出会い、親交を結ぶ  その縁により  明治四年(1871年)  日本に渡り、福井藩の藩校明新館で  同年3月7日~翌年1月20日まで  理科(化学と物理)を教えた  1876年  アメリカで刊行した  The Mikado's Empire  (『ミカドの帝国』あるいは『皇国』)は  第一部が日本の通史、第二部が滞在記 ーーーーー  「聞く・話す」は表音文字  「読み・書き」は漢字  文字の「書く、読む」  口頭の「聞く、話す」  「聞く、話す」は表音文字で情報交換  福沢と万次郎が  『ウエブストル』を初めて輸入  万延元年(一八六〇)  咸臨丸がアメリカへ渡り  福沢は通弁の中浜万次郎と一緒に買った  安政二年  ペリーが  『ウエブストル』  の字引を持ってき  名村五八郎  というオランダ通詞に与えた  名村五八郎はそれで  complaint(訴訟)という単語を引いた・・・

 訪米から戻った  福沢は  『西洋旅案内』  『条約十一国記』  を書き上げた  (福沢が   『条約十一国記』と題し   国旗とその国の状況を紹介する本)  慶応三年までに  わが国と条約を交換した  十一ヶ国  アメリカ、オランダ、イギリス、ロシヤ  フランス、ポルトガル、プロシヤ、スイス  ベルギー、イタリー、デンマーク  の各国について  簡略な紹介をした小冊子  ↓↑  慶応三年冬に上梓  表紙は本文と共紙の土佐半紙  上部に黄色のリボン  書名  その下に  北アメリカ合衆国  と  デンマークの国旗  が描かれ  見返しは  太罫の匡郭の中を縦三行に割り  「慶応三年丁卯仲冬/   条約十一 国記/ 福沢氏蔵版」  と記し、右側の刊年の下部に  「福沢氏図書記」  または  「慶応義塾蔵版之印」  の長方形朱印が押捺  口絵二丁に  条約各国の国旗を描き  序文一丁、本文二十四丁  ウラ表紙も本文と共紙の無地  この書には京都の  醍醐家で出版した偽版がある  網代模様の  地紋の濃藍  または  黄の厚表紙を用い  左肩に子持罫の枠の中に  「条約十一国記全」  と記した題箋を貼り  表紙の見返しは黄、緑  または鼠色の和紙を用い  太罫の枠の中を  縦三つに割り、中央に  「条約十一国記」  と記し左右はブランク  口絵も序文も本文も真版そのまま  巻末の表紙ウラに  此冊子旧冬  於江戸版成然処依  当春騒擾未弘両三冊流伝  而巳求得之一読了欲令方  今諸人亦一読故急翻刻為蔵版  「醍醐家蔵版」と彫った  大きな長方形朱印が押捺  この本の表紙  20星は厳密には  1818年7月4日~1819年7月3日まで  「星条旗」の紅白の条は  1818年以来  13本だが  11本  アメリカ合衆国の国旗  星条旗(the Stars and Stripes)  正式名は  合衆国旗(Flag of the United States)  白線と赤線の組み合わせの  13本の横縞(赤7本と白6本)  四角に区切った左上部(カントン)は  青地に50の白い星が配置  白は  purity(純粋)  innocence(純潔)  赤は  hardiness(たくましさ)  valor(勇気)  青は  vigilance(戒心)  perseverance(忍耐)  justice(正義)  縞模様は独立当時の  13の入植地  星は現在の州を表す  現在のデザインは  27代目  今までに  26回デザインが更新  ↓↑  「日の丸」の記録  平安時代初期の  延暦十六(797)年に編纂された  「続日本紀」  大宝元(701)年正月元旦の朝賀の儀  「日像の旗」を掲げた・・・ ーーーーー  多(おおの・おほの・タ)  品治(ほんじ・ほむじ・ヒンチ)  生年不詳~  持統天皇十年 (696年八8月?)  姓は  臣、  後に  朝臣  672年の壬申の乱で  大海人皇子(天武天皇)側で戦い、  莿萩野を守った  「多品治(おほのほんじ)」は  「多くの品(ほん)を治(おさ)む」である  「多くのシナをハル」、  これは  「多くの本を修む」である。  壬申の乱が勃発  多品治は  美濃国の  安八磨郡(安八郡)の  湯沐令  (皇子の生計を支える   封戸を管理する役職)  大海人皇子は  六月二十二日に、  村国男依、  和珥部君手、  身毛広  の  三人を美濃国に先行するよう命じた  任務は  多品治と接触、連絡し、  安八磨郡を挙兵させること  美濃の兵三千が  不破道を塞ぐ  美濃国に入った  大海人皇子は、  七月二日に軍を  数万の二手に分け  一軍を伊勢国の  大山越えで大和国へ、  もう  一軍を直接  近江国に入らせることを命じ  多品治は、  紀阿閉麻呂、  三輪子首、  置始菟  とともに  大和に向かう軍を率いた  この後、  品治は別に命令を受け取り、  三千の兵とともに  莿萩野(たらの)に駐屯する  莿萩野の位置は、  伊賀(当時は伊勢国に属す)の北部  大和、伊賀、伊勢、美濃  と続く連絡線のうち  伊賀を守る位置  田中足麻呂が  近江と伊賀を結ぶ  倉歴道を守る位置についた。  これに対して  大友皇子側の将、  田辺小隅は、  五日に倉歴を夜襲  守備兵敗走、  田中足麻呂  は一人逃れた  小隅の軍は翌日  莿萩野を襲おうとしたが、  多品治はこれを阻止し、精兵で追撃  小隅は一人免れて逃げた ーーーー  日本書紀  十二月四日に  勲功の人を選び冠位を増し、  小山位以上を与えた  天武天皇十二年(638年)十二月十三日  多品治は  伊勢王、羽田八国(羽田矢国)  中臣大島とともに、  判官・録史・工匠  といった部下を引き連れて全国を巡り  諸国の境界を定めた。  品治の位は  小錦下 ーー  天武天皇十三年(684年)十一月一日  多臣など  五十二氏に  朝臣の姓を賜う  天武天皇十四年(685年)九月十八日  天武天皇は皇族・臣下と  大安殿で博打  このとき  天皇は  大安殿の  中に、  皇族と臣下は  殿の前に位置し  多品治は  天皇の  衣と袴を与えられた  十人中の一人であった ーー  持統天皇十年(696年)八月二十五日  多品治は  直広壱と  物を与えられた  品治を  太安万侶の父とする説がある  (『阿蘇家略系譜』) ーーーーー

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