「走水の蜃気楼」・・・石ころ蹴りたいアスファルトの幻影・・・
・・・神戸・・・「前川清」の「そして神戸・(1972年・作詞、千家和也・作曲、浜圭介)」・・・「神戸地震(阪神・淡路大震災・1995年(平成七年)一月十七日5時46分52秒)」・・・ 1995年 甲戌(辛・丁・戊) 刑 01月 丁丑(癸・辛・己) 冲 17日 戊申(己・壬・庚)・・・18日丁未(丁・乙・己)? 05時 乙卯(甲・ ・乙) ーーーーー 神=ネ(示)+申→二+亅+八+申(猿・猨・猴・沙流・猱) 戸=一(壱・壹・聿)+尸(屍) イチ=位置・位地・逸・佚・市・鴪・鷸 軼=車+失=イチ・イツ・デチ・テツ すぎる・はなれる・それる 奔軼 すぐれる・まさる 軼材・軼倫 人に知られない 軼事・軼書 逸・うせる・散る・もれる・あふれる 超軼・奔軼 軼詩(イッシ) 軼事(イツジ) 軼=車が列から抜け出る・抜け落ちる 列から抜け出て前に出る・抜きんでる 陣列からぬけ出る 先がけて突撃をする ・・・「青春の蹉跌」・・・振り返っても視えるモノはナニもない・・・「足跡」も、「轍(わだち)」も消え失せるのが当然である・・・前をみても「走水の蜃気楼」・・・「走水神社(はしりみずじんじゃ)・神奈川県-横須賀市-走水・三浦半島の東端」・・・「日本(倭)武尊」と「弟-橘媛命(おと-たちば-な-ひめ-の-みこと)」を祀る神社・・・「三浦按針=ウィリアム・アダムス」・・・ ウィリアム・アダムス(William Adams) 1564年9月24日~1620年5月16日(元和六年四月二十四日) 1564年 甲子(壬・ ・癸) 1620年庚申(己・壬・庚) 支合 09月 癸酉(庚・ ・辛) 05月辛巳(戊・庚・丙) 冲 24日 己卯(甲・ ・乙)申酉 16日壬戌(辛・丁・戊) ーーーーー 慶長五年九月十五日 西暦1600年10月21日) 関ヶ原の戦い 1600年4月29日(慶長5年3月16日) リーフデ号 豊後 臼杵の黒島に漂着 乗組員は 臼杵城主 太田一吉 の出した小舟で上陸 太田一吉は長崎奉行の 寺沢広高に通報し アダムスらを拘束 船内の大砲や火縄銃、弾薬を没収 大坂城の 豊臣秀頼に指示を仰ぐ イエズス会の宣教師たちが オランダ人やイングランド人の 処刑を要求 五大老首座の 徳川家康が指示 船長・ヤコブ・クワッケルナックに代わり アダムス と ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン メルキオール・ファン・サントフォールト らを大坂に護送させ、船も回航させた 5月12日(慶長五年三月三十日) 家康が彼らを引見 イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船 と思い込んでいた家康だったが、 路程や航海の目的 オランダやイングランドなど プロテスタント国と ポルトガル・スペインら カトリック国との紛争を 臆せず説明する アダムスとヤン=ヨーステン を気に入って誤解を解く しばらく乗組員たちを投獄 執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺 引見を繰り返した後に釈放し、 江戸に招いた。 三浦按針を 家康は米や俸給を与えて慰留し 外国使節との対面や外交交渉に際して 通訳を任せたり、助言を求めた 幾何学や数学 航海術などの知識を 家康以下の側近に授けた・・・ 1602年(慶長七年)頃 日本橋 大伝馬町 の 名主で家康の御用商人 馬込勘解由の娘 お雪(マリア) と結婚 息子・ジョゼフ と 娘・スザンナ が生まれた 江戸湾に係留されていた リーフデ(愛)号が沈没 船大工として 西洋式の帆船を建造することを要請され 伊東に日本で初めての 造船ドックを設けて 80tの帆船を建造 1604年(慶長九年)に完成 家康は更に大型船の建造を指示 1607年(慶長十二年) 120tの船舶を完成させた 家康は アダムスを250石取りの旗本に取り立て 帯刀を許し 相模国 逸見に采地も与え 三浦按針の名乗りも与えた 所領は息子の ジョゼフが相続 三浦按針の名乗りも継承 1613年(慶長十八年) イギリス東インド会社の クローブ号が交易を求めて日本に来航 一行に付き添い、 家康らとの謁見を実現させ 貿易を許可する 朱印状を取りつけるなどの手助けをした 1614年(慶長十九年) クローブ号帰還の際 一緒に帰国できる許可が 日英両方から出たが、 同船司令官の ジョン・セーリス と馬(ウマ)が合わず、帰国を見送った セーリス は何事も 日本式を強要するアダムズが気に入らず アダムズは セーリスを 生意気で無礼な青二才として嫌った 後 オランダ商館から 母国イギリス商館の仕事を手伝った 1616年(元和二年)4月 家康が死去 徳川秀忠 と 幕臣たちの方針で 貿易を平戸のみに制限 按針の立場は不遇となり 以降の按針の役目は 天文官のみとなり 幕臣や次期将軍候補の 徳川家光らに警戒され 1620年5月16日(元和六年四月二十四日) 平戸で死去 享年五十五歳 平戸の イギリス商館付近にあった外国人墓地に葬られた ・・・「針供養」とはナニか?・・・「按針」に訊いてみたい! ↓↑ 12月と2月のどちらを 事始め、事納めにするかは 地方によって違う・・・ ↓↑ 事八日 (ことようか) の一環 針供養(はりくよう) 折れ、曲がり、錆びなどによって 使えなくなった縫い針を供養し 近くの神社に納める行事 主に 淡島神社(粟島神社・和歌山市) 淡島神を祀る堂(浅草寺の淡島堂・粟島堂) 走水神社(神奈川・横須賀毎年3月の第2土曜日) がある寺院で行われる 「針供養」・・・針=一つ目、一つ足 12月8日 2月8日・・・ハリセンボン=針千本 (河豚・鰒・鯸)が 海が荒れて 浜に打ち上げられるコトが多い? に行う地域がある 東日本では2月8日 西日本では12月8日 に行われる事が多い・・・ 東北地方の一部で 姑に 針山の針を盗んだと、 無実の罪を着せられて 海に身を投げて死んだ 嫁を供養するために 針供養を始めた・・・とか・・・ ↓↑ 「弟-橘媛命 (おと-たちば-な-ひめ-の-みこと) オト-タチバナヒメ」のハナシだろう・・・ 「橘=陰暦(旧暦)五月(皐月)の別名」 ↓↑ 「枸橘 (からたち)」 「橘=カラタチバナ(ヤブコウジ科の常緑低木 暖地に自生・葉は長くて先がとがり、厚い 夏、白色の小花を開き実は球形で熟すと赤い)」 「ミカン科の常緑小高木 枝に棘(とげ)をもち、葉は小さい 六月ごろ、白い五弁花を開く 実は小さく 黄熟しても酸味が強く苦みもあり 食用にはしない 日本たちばな・倭(やまと)たちばな」 ↓↑ 「橘=木+矞(矛)=大地を覆う木の象形 台座にたてた矛の象形 突き刺す・おどかす 「人を脅かすような 棘(とげ)のある、たちばな」 矞=あなをあける・穿つ・イツ・キツ・ケツ 矞=矛+冏 冏=あきらか・まど・ケイ・キョウ・ソウ 明りとりの窓(穴) 冏=冂+㕣=冂+八+口 ↓↑ 垂仁天皇の時代 田道間守(多遅摩毛理・多遅麻毛理) 天日槍の後裔で 三宅連(三宅氏)祖の 常世国の非時香菓は 橘(たちばな)=蜜柑=みかん=オレンジ=嗚連示 ーー↓↑ーー Orange=オレンジ=蜜柑(ミカン)の木の ↓↑ 棘(トゲ・thorn) 針(ハリ・縫い針=needle=ニードル 似意努留 爾意土留 耳意止留 注射針=hypodermic needle 磁石針=the needle of a compass 留め針=pin 釣り針=hook 計器針=pointer 魚の釣針=prickle 虫の針=sting 縫合針=stitch 時計の針=hand レコード針=needle・stylus ↓↑ オレンジ公ウィリアム・・・「阿蘭陀・和蘭」公ウィリアム オラニエ公ウィレム(ヴィレム) オラニエ=ナッサウ家 ↓↑ の英語名に基づく呼び方 ↓↑ 歴史上の該当人物 ウィレム1世 (オラニエ公)(1533年~1584年)=沈黙公 ↓↑ 関ヶ原の戦い(1600年10月21日) ↓↑ ウィレム2世 (オラニエ公)(1626年~1650年) Willem II van Oranje-Nassau ↓↑(1626年5月27日~1650年11月6日) ↓↑ 11月6日→十一(拾壱)・六(陸) 1600年4月29日(慶長五年三月十六日) リーフデ号 豊後(ぶんご)・・・・文語 臼杵の・・・臼杵(うすき・キュウゴ→九語・救護) 臼(うす・碓)と杵(きね・槌=つち) 黒島に漂着 1620年5月16日(元和六年四月二十四日) 平戸で死去・享年五十五歳 ↓↑ ウィレム3世 ウィリアム3世 (イングランド王)(1650年~1702年) ウィレム4世 (オラニエ公)(1711年~1751年) ウィレム5世 (オラニエ公)(1748年~1806年) ウィレム6世 ウィレム1世 (オランダ王)(1772年~1843年) ーー↓↑ーー 橘=古代の名族 708年(和銅一) 美努(みぬ)王の妻・・・・・美濃・尾濃 県-犬養(あがた-いぬかい-の) 三千代(みちよ・サンゼンダイ) が賜った 橘宿禰の姓を 子の 葛城王(諸兄)らが・・・かつらぎ王 臣籍に下って受け継いだ 諸兄らは 以後の 朝政に重きをなしたが 承和の変 842年(承和九年)に 伴健岑 橘逸勢 が謀反を企て流罪 恒貞親王が廃された 廃太子を伴う政変 で 「逸勢」が失脚し衰退 ↓↑ 漢の 蘇仙公が・・・蘇(よみがえる・ソ) 仙(僊・やまびと・セン) =イ+山(䙴=西一人巳) 䙴=高きに昇る・移るという意 公(おおやけ・コウ)=八+ム 死に臨んで母に遺言し 疫病流行のさい 庭の井戸水 と 軒端の 橘の葉を用いれば治ると告げ 治ったので 医者のことを 「橘井」と云う 昔、巴の人が橘の実を割ってみると 中で碁を楽しんでいる 二人の老人がいたとの伝説から、 碁を打つ楽しみを 「橘中の楽しみ」という・・・ ↓↑ 徳川家康が ウィリアム・アダムスを 外交顧問とした理由 自領の 関東 浦賀-湊(みなと・見名訳・港)に スペイン人鉱夫を招聘し スペイン領メキシコで行われている 金銀製錬法 アマルガム法を導入するためで その交渉に アダムスをあたらせた・・・ オランダとの通商が成立したのは アダムスの日本来航から 9年後の 慶長十四年(1609年)七月 母国イギリスとは 慶長十八年(1613年)八月 家康からの働きかけではなく、 両国の東インド会社の使節が派遣され アダムスの斡旋により成立 家康が浦賀湊の入港を指定したのは スペイン商船のみ 三浦郡浦賀邸 と 逸見村の 采地(領地・知行所)を与えた 浦賀湊にスペイン商船が入港する都度 西国から商人が浦賀に急行し 浦賀は国際貿易港として 賑わい、世界にその名を轟かせた・・・ ウィリアム・アダムスの マニラ(スペイン領)交渉により 浦賀フランシスコ修道院が建立 江戸の修道院とともに 関東における キリスト教伝播の起点となった ウィリアム・アダムスが 外交顧問として その本領を発揮したのは このマニラ渡海・・・ ーー↓↑ーー ・・・「須佐之男(スサノオ) 素戔 男尊 素戔 嗚尊 建速須佐之男命 (たけはやすさのおのみこと たてはやすさのおのみこと) 須佐乃袁尊 神須佐能袁命 須佐能乎命」 は「啼(な)」いたのだ・・・「母の國へ行きたい」と・・・ 母とは「根国(ネのクニ)の伊邪那美(いざなみ)」である・・・ 長姉は「天照大神」、 次姉は「月読命(性別不明?)」、 第三子は「蛭子(死産?)」・・・ 第四子(末っ子)が「須佐之男」・・・ ーーーーー ↓↑ 泣いて(名意出) どう(同・如何)なるのか 神戸(甲部・頭・首・頭蓋骨) 船(附音)の 灯(あかり・灯火=ともしび・ヒ) うつす(比-写す) ↓↑ 夢(ム・牟・戊・武)の続き 見せてくれる 相手 捜すのよ(佐賀素予・相模州之輿) ↓↑ 神=ネ(示)+申→二+亅+八+申(猿・猨・猴・沙流・猱) 戸=一(壱・壹)+尸(屍) ↓↑ 呼んで(読務出) 帰る人か(替えるヒトか・変えるジンか) 神戸(甲部・頭・首・頭蓋骨) 無理に(武利似) 足(あし・脚・蘆・葦・趺)を運び ↓↑ 誰か(垂掛) うまい(旨い) 嘘(鷽・𪀯・宇曽・詐欺・詐偽→鷺)のつける 相手 捜すのよ(佐賀素予・相模州之輿) ーー↓↑ーー ・・・ウソのつけるアイテ(蛙意弖・丫意氐)、ソウシュ(双手・想種)・・・捜(さが=探・佐賀・嵯峨・性)す・・・ ・・・サガミにカミに(自ずから佐の下の六字は音を以って) 「佐賀美邇迦美而(自佐下六字以音)古事記」 「佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之(古事記)」 ーー↓↑ーー 古事記では 「須佐之男」は 「伊邪那岐命(いざなぎ)」が 黄泉(よみ・コウセン)の国から帰還し 日向(ひうが)の 「橘(たちばな・キツ・イツ)」の 「小戸の 阿波岐原」・・・江田神社の宮崎市阿波岐原町? で禊(みそぎ)を行った際に 父親(伊邪那岐)が 「鼻(はな)」を濯いだ時に産まれた・・・ 「はな=花・華・塙・洟」 ・・・葉名(ハナ)は植物図鑑の「花(はな)」? 日本書紀では 「伊弉諾尊(伊邪那岐命・いざなぎ) と 伊弉冉尊(伊邪那美命・いざなみ)」 の間に産まれ 「天照(左目)・月読(右目)・蛯児」の次に産まれた ↓↑ 統治領域 天照大神は天(高天原)=伊弉諾尊が 左の手にした白銅鏡から 大日孁尊(天照大神)を生んだ ↓↑ 月読尊は天、 「滄海原(あおのうなばら)の 潮の八百重=潮汐の流れ・・・海運」 「滄=ソウ・サウ=水の色が青々として広がるさま 滄-県(ソウ-ケン) 中華人民共和国 河北省 滄州市に位置する県 前漢 勃海郡郡治として設置された 浮陽県の前身 後漢で当初、 浮陽侯国とされたが、 浮陽県と改称 南北朝時代の北魏 487年(太和十一年)に 浮陽郡の郡治 598年(開皇十八年) 隋王朝は 清池県と改称 唐代に 滄州の州治 明王朝の 洪武初年に 清池県は廃止 管轄区域は滄州直轄とされ 中華民国 1913年(民国二年)の 州制廃止に伴い 滄県と改称」 「夜の食国」 ↓↑↓↑ 「月読尊=月弓尊・月夜見尊」 =伊弉諾尊が 右の手にした白銅鏡から 月弓尊(月読命)を生んだ 「白銅鏡=ハクドウキョウ=葉句道鏡」 から生まれた? 銅鏡を卑弥呼に与えたのは 「魏の明帝」である・・・? 239年(景初三年) or 238年(景初二年)? 卑弥呼に「親魏倭王」の称号、金印 銅鏡100枚を授けた 景初三年(239年)一月一日 明帝は病死・・・ ・・・なぜ、ココで「月読み」が問題となるのカナ?は・・・ ↓↑ 明帝の死亡日の記録が「旧暦238年1月1日の丁亥日」 ↓↑ 西暦239年1月22日(火)=旧暦238年12月1日の丁亥日 ↓↑ 西暦239年2月21日(木)=現在の旧暦239年1月1日の丁巳日? ↓↑ ボクの造ったコンピュータでは 「旧暦238年12月1日の丁亥日」の 西暦換算は ↓↑ 「景初三年正月初一丁亥日(239年1月22日)赤口・火曜日」 239年 戊午(丙・ ・丁)→弐百参拾九 01月 乙丑(癸・辛・己)→壱・壹 22日 丁亥(戊・甲・壬)→弐拾弐・貮拾貮・念貮 ↓↑ ・・・問題にしたかったのは「古事記・日本書紀」の編纂者も同じだったのカモ・・・暦(こよみ)の数字が合わない・・・しかし「干支歴の日」は「60干支のサイクル」で、お変わりなし・・・ ↓↑ ツクヨミは「日本書紀・第五段第十一の一書」で 穀物の起源として 「保食神」は饗応として口から飯を出したので 「月夜見」尊が「けがらわしい」と怒り 保食神を剣で刺し殺した・・・ ↓↑ 大宜都比売=大気都比売=大宜津比売=大気津比売 は「阿波国=大宜都比売神」 「古事記」では 素戔嗚に汚物を喰わされたと云って殺された 月読尊=大宜都比売・・・??? 素戔嗚尊は「夜の食国(よるのおすくに)」 「海原」の支配が縄張り領域 素戔嗚尊は記述が 月読尊 蛯児(蛭子)・・・「蛯=虫(中ム)+老(十一ノヒ)」 おいる 「蛭=虫(中ム)+至(一ム十一)」 いたる と重なる部分がある・・・「中とム(よこしま)」は重なる・・・ 古事記では 「建速-須佐之男命」は、その支配領域権を断り 母の 「伊邪那美 の 根之堅洲国」・・・根(ね)之堅(かた)洲の国 ↓↑ Cathay=契丹・キャセイの語源 10世紀 中国東北部(満州)の モンゴル高原東部で活動した 契丹人 遼=遼王朝=内モンゴルを中心に 中国の北辺を支配した 契丹人(キタイ人) 耶律氏(ヤリュート氏) の征服王朝 916年~1125年 まで続いた 東胡の後身 ↓↑ 後晋から 「燕雲十六州」=朔州・寰州・応州・雲州・蔚州 新州・武州・儒州・媯州・檀州 順州・幽州・薊州・涿州・瀛州 莫州の計16州 ↓↑ 「燕=燕京(幽州)」・・・北京 を割譲され 開封を占領し 947年 国号を 「遼」とし 1125年 金王朝と宋王朝 に挟撃され滅亡 キタイの複数形が キタン 中国語表記は 契丹 モンゴル系の遊牧民 モンゴル高原東部で ↓↑ 遊牧民 に行きたいと願い、 伊邪那岐の怒りで追放され 「啼(な)いた」・・・喚(わめ)いた・・・ ↓↑ 出雲の 鳥髪山(船通山) へ降った 建速-須佐之男命 八岐大蛇(八俣遠呂智)の 生贄にされそうになっていた 櫛名田比売(奇稲田姫・くしなだひめ) ・・・櫛=歯(棘)が並ぶ髪挿し→「ノ一」=(牛)-(十) 「ノ一」=(午)-(十) と出会い 建速-須佐之男命は、・・・・検束、素佐之於見語訳 櫛名田-比売の姿形を・・・・駆使名拿、比馬(秘め) 「歯(は→針)の多い櫛(くし)」 に変え 髪に挿し、 八俣遠呂智を退治・・・・俣は国字・・・水俣 八俣遠呂智の・・・・・・八イ口二人遠の呂の智 尾から出てきた 草那芸之大刀(くさなぎのたち、紀・草薙剣) を 天照御大神に献上 三種の神器の一つ (愛知県名古屋市の熱田神宮=猿田比古を祀る神社の御神体) 櫛から戻った 櫛名田比売 を妻とし 出雲の 根之堅洲国・・・・契丹人(中国人・遼)移民居住地 にある 須賀(すが)の地(島根県-安来市)・・・安木 で居住・・・ ーー↓↑ーー 「厩・廏・廐」 厩=まや・うまや・キュウ 厂+既 厂+旣 異体字=廏・廐・廄 繁体字=廄・廏・廐 「廏=康煕字典・大漢和辞典の親字 字形は唐代の楷書 から 「殳」が「旡」に変更 「殳=ほこづくり・るまた」 「殳=刃のない棒状の戈(『詩経』毛伝) 棒をもって人を殴り殺すこと(『説文解字』)」 「殳→部首漢字・・・投・骰・役・疫・設・股」 「殳=手で物を持っている形・手で行う動作」 「殳=るまた・ほこ・シュ・ズ 「殳=木や竹の先に装着する 筒状の金属製の武器{刀剣槍} 近寄る敵を突いたり叩いたりする武器」 ↓↑ 「广+旣(既)」←廏 「厂+既(既)」←廏 「广(まだれ)=崖の上の建物」 「厂(がんだれ)=崖 广=家屋の屋根」の象形 「良皀蔞=白+ヒ 艮皀蔞=日+衣=艮(コン)→東北 衣=亠+工+ノ+乀 =亠+イ+一+ノ+乀 =エ+戈 皀→昆(虫) 皍(つける・すなわち・もし・ソク) 即・卽・皍(異体字) 即=卽=卽=皍 「即=皀+卩(卪)」 「皀=食物(食→𠆢の下部) 「卩」はこれに向き合う様 物を食べようとする様子 「旣(既)=食べ終わって 食物から顔を背ける様」 是(正?→「一+ト+人」 昰=これ・シ・ジ・カ・ゲ・ゼ 昰=日+正=是=晸=夏(なつ・カ) 良=白+ヒ 艮=日+ヒ=「旨」の上下の逆字 白+丄+卜==食器に盛った食べ物の象形 「廏=厩」 「殳=手(又)に木(几=机)の杖を持つ」象形 馬小屋で馬を世話するさま 「馬小屋」=「厩」・・・? 「厩」は「廏=廐」の変形 「廏=廐」は 「厩」の旧字・・・? ・・・厂(がけ・カン・ガン→丸・磐・岩・巖・願・眼 がんだれ=雁垂れは既成?→臥懸のイ(人)は隹 厂(ガン・ゲン)は借りた既成のモノ ガン誰(だれ)は既(すでに)に既得? 推古天皇←古きを推理する 典弘(テンコウ) ・・・「テンコウ=転向・転校・天工・天候・・・」 「典弘(のりひろ・テンコウ)・・・弘法大師の経典?・・・ ーーーーー ・・・弘法大師、空海・・・「真魚」・・・ 「佐伯=さえき=差益・三枝木」・・・
・・・「脳ミソ」の記憶量が貧困だし、範囲を広げる目新しいコトも無いから、書き込むコトは同じようなコトの再確認の事象ばかり。しかも、ホトンドが「他人の記録」したモノを添付して、その添付した文字に更に「?」のイチャモンをつける・・・「出典を明らかにしろッ」って云われてもネッ・・・ホトンドが、お目当ての「文字」を即、インターネットで検索すれば、発見出来る・・・出てきたモノは、「オリジナル」なものではない?・・・文字に関しては、特許権があろうハズがない、と思うが、漢字文字、平仮名、片仮名、アルファベットとして「記録された文字、原文」が存在するから当然のコトであるが?・・・デザイン化された「文字」には特許があるらしい・・・イヤァ~ッ、政治屋と役人の茶番劇、彼らの生き方は「文化→文の化」であって、「文明→文の明」ではないらしい・・・「文部省の役人」、「舎人」、「秘書」は昔から「苦労」してきたんだろうな・・・ 「秘書=組織、上司の記録の書類における仕事、職務、職業。 またそれを行う人・共通項は、重要書類を扱う仕事・その他にも上司の身の回りの世話、メールや電話の応対、来客の接遇、スケジュール管理、書類・原稿作成など、総務のすべてを請け負う専門職」・・・ 「秘書」の漢字からすれば「秘密」、「書類」を扱う職種、職人である・・・なんで、「秘密」が必要なんだか、「アベちゃん内閣」、「監房長官のカン」・・・モチつくりには特別な秘密があるらしい?・・・ ーーーーー 「安倍川餅」・・・アベ姓の文字も色々あってねッ・・・ 元々は「布施(ふせ)」だって? 「和菓子・・・・・我餓死(河岸・賀詞)? の一種で 静岡市の名物 本来は つき(搗き)立ての餅に・・・搗=手+島・・・島大臣 黄な粉を塗(まぶ)し、・・・薄緑色に視えるけれど 塗し=まぶし=塗料は漆(七) その上から 白砂糖をかけた物。 現在では、 黄な粉を塗(まぶ)したモノと 濾(こし)餡を 絡めたもの・・・・こし=超し・越し・濾し・漉し・濃し 腰・枯死・古址・輿 虎視の案・・・虎視眈々 古史の行(アン)を絡めた? の二種類を 一皿に盛った物が一般的」 ・・・なるほど・・・意味深い・・・「コシアン」 「柔らかい餅に黄粉をまぶし 上から白砂糖を掛けた食べ物 徳川家康が 慶長年間 (1596~1615) に 笹山金山・・・井川湖の北東側の 笹山金山 今川時代の 享禄年間(1528~31)頃 この金山は 今川氏親の時代に 採金が高まった 梅ヶ島金山は 梅ヶ島村の 日影沢金山 関之沢金山 入島村の 湯ノ森金山 などの総称 井川村の 笹山金山を中心とする 井川金山も含めて 安倍金山・・・安倍の金(族)さん? と呼ばれる などの 御用金山に出向き 安倍川の 滸(ほとり・畔・邊・阿)・・・水滸伝・阿=おもねる で休んだおり 搗(つ)きたての餅を喰った」 ・・・「ウィリアム・アダムス=三浦按針」も喰ったのカナ、アベカワもち・・・「ミ(味)ウラ(有等)アン(編)ジン(壬・尋・訊・盡・陣)」・・・以下は前回、貼り付けたモノだけれど・・・ ↓↑ 徳川家康が ウィリアム・アダムスを 外交顧問とした理由 自領の 関東 浦賀-湊(みなと・見名訳・港)に スペイン人鉱夫を招聘し スペイン領メキシコで行われている 金銀製錬法 アマルガム・・・水銀と他の金属との合金の総称 ギリシャ語の「柔らかい塊り」 古墳時代以来、 奈良の大仏=毘盧遮那仏 Vairocana=ヴァイローチャナ =光明遍照 毘盧舎那仏=盧遮那仏 にも使われた 金鍍金(メッキ)の方法 「消鍍金(けしめっき)」法 アマ(海人・海部・海女・天・雨・飴・甘) ル(留・瑠・婁・盧・流・弄) ガム(臥務・雅武・我務)→噛む・咬む (amalgam)法 を導入するためで その交渉に アダムスをあたらせた・・・ ↓↑ 金山奉行は 大久保長安 (江戸幕府勘定奉行、老中) 天文十四年(1545年) ~ 慶長十八年四月二十五日(1613年6月13日) 別名 藤十郎、十兵衛 天下の総代官(渾名) ↓↑ 大久保長安は 猿楽師・・・・・猿の楽しい師 金春 (こんぱる) ・・・金貼→コンパク=魂魄 金春=キンハル=今春・恨張 七郎 喜然 の子 猿楽師の 大蔵太夫 十郎 信安 の次男 ↓↑ 武田信玄に家臣として 認められ 譜代家老 土屋昌続の与力に任じられ・・・土屋は「新井白石」の主筋? 姓を 大蔵・・・三蔵=Tripiṭaka=トリピタカ・仏典の総称 三蔵(経律論) 律蔵・経蔵・論蔵 衆経、三蔵を 北魏で「一切経」と呼び、 南朝の梁で「大蔵経」と呼んだ・・・ 隋、唐初に及んで両者の名称が確立し 写経の書式も 一行十七字前後と定着 大中小の蔵 から 土屋 に改めた ↓↑ 甲斐(かい)の・・・甲斐=かい=蝦夷・蟹・魁・掛意・解 歌意・回・会・改・繪 武田家家臣団の一 武田勝頼から疎まれ 天正三年五月二十一日(1575年6月29日) 長篠の戦い では生き残り 天正十年(1582年) 織田信長・徳川家康連合軍の 甲州征伐 天目山の戦い(1582年3月11日)で 武田氏は滅亡するが 大久保長安は 既に(?) 徳川家康に仕官して・・・ 大久保-忠隣の与力となり、 名も 大久保と変えた 天正十年六月二日(1582年6月21日) 本能寺の変 信長が死去し 甲斐が家康の領地となり 大久保長安が 旧武田領の復興整備をした ↓↑ 大久保長安事件(おおくぼながやすじけん) 慶長十八年四月二十五日(1613年6月13日) 江戸幕府の粛清事件・・・ 武蔵国の治安維持と国境警備で 八王子五百人同心の創設 旧武田家臣団を中心とした 八王子五百人同心が誕生 慶長四年(1599年) 八王子千人同心となった 慶長五年九月十五日(1600年10月21日) 関ヶ原の戦い 長安は忠次と共に 徳川秀忠率いる徳川軍の 輜重役・・・輜重兵(シチョウヘイ)は兵站の後方支援兵 戦後 豊臣氏の支配下にあった 佐渡金山 生野銀山 などが全て徳川氏の直轄領になり 長安は 同年九月 大和代官 十月 石見銀山検分役 十一月 佐渡金山接収役 慶長六年(1601年)春 甲斐奉行 八月 石見奉行 九月 美濃代官 全て兼任 慶長八年二月十二日(1603年3月24日) 家康が将軍に任命 長安も特別に 従五位下 石見守・・・石(岩・磐・いわ)を見守(みまも)る 違和・・・磐余=神武天皇 に叙任 家康の六男 松平忠輝(幼名は辰千代) の附家老に任じられた 七月 佐渡奉行 十二月 所務奉行(勘定奉行) 同時に 年寄(老中) 慶長十一年(1606年)二月 伊豆奉行 長安は家康から 全国の金銀山の統轄 関東における交通網の整備 一里塚の建設などの一切を任されていた 里程標、 一里=三十六町 一町=六十間 一間=六尺 という間尺を整えた 7人の息子を 石川康長、 池田輝政の娘と結婚させ 忠輝 と 伊達政宗 の長女 五郎八(いろは)姫・・・切支丹 の結婚交渉を取り持ち 松平忠輝・・・家康没後の元和二年(1616年)七月六日 ↓↑ 兄の秀忠は忠輝に改易を命じた 天和三年(1683年)七月三日 幽閉先の諏訪高島城(南の丸)にて死去 ↓↑ 92歳 の岳父となった 政宗とも親密な関係を築いた 長安の所領は 八王子8,000石(実際は9万石) 家康直轄領の150万石の実質的な支配 慶長十七年(1612年)七月二十七日 中風にかかり 家康から 鳥犀円(ウサイエン 牛黄、高麗人参、当帰、川芎 その他、 8種の生薬に蜂蜜を加えた漢方保健剤) を与えられた ↓↑ 佐賀藩・・・・「佐賀-美邇-迦美而」である・・・ 佐賀の乱である・・・相模に掛視し・・・ (サガのラン) 1874年(明治七年)二月 江藤新平(幼名は恒太郎・又蔵) ↓↑ 「人智は空腹よりいずる」が口癖 「戊辰戦争・東征大総督府軍監 西郷隆盛と勝海舟の会談で 江戸開城が決定するや 江藤は城内の スベテの 文書類を接収」 フランスの国法を讃え 「仏国雖蹲其法美 仏国蹲ると雖も其の法は美」 ↓↑ 「哲人不惑敗成痕 哲人は敗成の痕に惑わず」 島義勇 等の反政府闘争 江藤新平がスベテの文書類を接収したはなにか?・・・ ーー↓↑ーー ↓↑ーー 「佐賀美邇迦美而(自佐下六字以音)古事記」 「佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之(古事記)」 ーー↓↑ーー ↓↑ーー の 烏犀圓=中国、宋代の薬方書 「恵民和剤局方」に記載 不老長寿、若返りの妙薬 処方は 佐賀藩において代々、 藩の施薬局にて秘薬として調製 寛政八年(1796年) 八代藩主 鍋島治茂公から 薬種商の野中家へ下賜された伝統薬 天明四年 大飢饉 佐賀藩主 鍋島治茂は 5人の他藩者に薬を作らせたが その中の一人が隠密と疑われ 他国者の製薬、売薬を禁じた 佐賀藩医 上村春庵、久保三圭、西岡俊益 等の願いにより、 藩主は藩民のため 寛政八年(1796) 一手製造、販売の特権を 佐賀市材木町の野中忠兵衛に与えた ↓↑ 大久保長安は 晩年に入ると、全国鉱山からの金銀採掘量の低下 慶長十八年(1613年)四月二十五日 中風のために死去 享年69・・・六拾九・陸足玖 ↓↑ 長安の死後 生前に長安が金山の統轄権を 隠れ蓑に不正蓄財をしていたという理由で、 長安の7人の男児は全員処刑 縁戚関係にあった諸大名も 連座処分で改易などの憂き目にあった (大久保長安事件) ↓↑ 長安は、 家康より政宗のほうが天下人にふさわしいと考え、 政宗の幕府転覆計画に賛同していた・・・? ーー↓↑ーー↓↑ーー ・・・安倍川餅・・・モチに又もや、もどる・・・ ↓↑ 「焼いた餅を湯に浸して柔らかくし、 砂糖入りの きな粉をマブしたもの 安倍川餅 静岡市西部にある安倍川の茶屋の名物 ツキたての餅を小さく千切(ちぎ)って、 黄粉(きなこ)で包んだもの」 「あべかわ(安倍川) 静岡市を南流する川 山梨県との境にある 安倍峠に源を発し、 駿河湾に注ぐ 長さ51キロ」 「安倍川餅 焼いた餅を湯に浸し、 砂糖 をまぜた・・・佐藤を混ぜた一族?・・・岸・阿倍 岸は満州国総務庁次長、商工大臣(第24代) 元、金、清、満州一族 愛新覚羅-氏 (アイシンギョロ・あいしんかくら) 満洲(中国東北部) 建州の女真(女直・満洲)族 ・・・記録原文はフザケて掛けているのかも・・・ 黄粉(きなこ)を マブしたもの」 「静岡市の名物 柔らかい餅に黄粉をまぶし 上から白砂糖を掛けた食べ物 徳川家康が 慶長年間 (1596~1615) に 笹山金山などの 御用金山に出向き 安倍川のほとりで休んだおり ツキたての餅に 豆粉(まめこ・トウフン)を・・・Pules 、bean flour 豆→壹=士冖豆 粉=米+分 マブしたものを出された この豆粉を 金山からとれる・・・・・・・・・遠山金さん? 金の粉にひっかけて 金な粉 と称したのを大いに気に入り 家康が 安倍川餅 と命名した 以来 安倍川のほとりの 弥勒(ミロク)には・・・・・ミロク→味賂句 安倍川餅の 店が並ぶようになった」・・・・店=广+占(ト口) ・・・ナルホド、「金な粉=金粉」・・・デアルかな・・・ 「静岡市 西部 安倍川 河畔の茶店の名物として知られた餅 つきたての餅をちぎって 砂糖入りの 黄粉を塗(まぶ)したもので 慶安年間(1648‐52)にはじまる・・・ 東海道を 度々(たびたび) 往来したことのある 八代将軍 徳川吉宗 はよく知っており 当時の 御賄頭 (おまかないがしら) の 古郡孫太夫・・・・・古い郡の孫の太夫・・・ が駿河から もち米を取りよせて調進したところ 大いに嘉賞されたと 江戸南町奉行でもあった 根岸鎮衛(やすもり・1737~1815) はその 著《耳囊(みみぶくろ)》に書いている」 ・・・なるほど・・・「根岸鎮衛」の「耳囊」・・・ 「静岡市の名物、 きな粉餅 静岡市 葵(あおい)区 弥勒(みろく) の旧東海道(県道208号)が 安倍川にさしかかる所に 数軒の餅屋がある なかでも 石部屋(せきべや)・・・・・石の部の屋・・・ は 慶長年間(1596~1615)の創業で、 15代の暖簾(のれん)を誇る 安倍川餅の由来は、 東海道往還の旅人が、 安倍川の渡しで、 川越 人足 を待つ間に、 茶店で一服の際に供されたのに始まる 焼き餅を湯にくぐらせたうえ 黒蜜(くろみつ)に浸し、 きな粉をまぶして食べさせたのが評判をとり、 全国に伝えられた。 作り方が簡単なので 一般家庭に普及し、 いつしか、きな粉餅そのものを アベカワ と称するようになった。 十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の 『東海道中膝栗毛(ひざくりげ・1809)』にも、 (ほなく 弥勒といへるにいたる。 ここは名におふ 安倍川餅の名物にて、 西側の茶屋、 いづれも きれいに はなやかなり) と繁盛ぶりが描写されているが、 現在の安倍川餅は、 餡(あん)餅や、 静岡名産の 山葵(わさび)を・・・山(やま・サン) 葵(あおい・ギ・キ) キカせた・・・・・・・キカ 醤油(しょうゆ)と 大根おろしの からみ餅も好評である」 ーー↓↑ーー ・・・以上はスベテは「コトバンク」や、「ウイッキペデア」、他人の「ブログ記事」からの抜粋添付・・・「アベカワ」をコンピュータで検索すれば、即、「原文」を眼にするであろうから・・・アシカラズ・・・ ・・・「・・・」内の「?」、イチャモン文だけはボクがカキコンダもの・・・
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