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「郭務悰」とはダレか・・・「郭」の氏姓?

2022/10/31・月曜日・・・追加添文・・・

「郭務悰」とはダレか・・・カク・つとめる・悰=心のウを示す?

 ↓↑

「郭伋」・・・?・・・「郭」の「伋」

 伋=亻+ 及

   キュウ

   忙しい

  「孔伋=孔子の孫=子思(シシ)」

 及=キュウ

   およぶ

   および

   およぼす

   ならびに

   ふたつ以上のものを並列させる

   およぶ・いたる・追いつく・達する

   およぼす

   行きわたる・行きわたらせる

   いきわたる=行記亘理

         行基渉

   壱岐渡

     亙・互・旦・渡・度

     わたる=亘理・倭・和太留

 ↓↑

 行基(ギョウキ)

 天智天皇七年(668年)

 天平二十一年二月二日(749年2月23日)

 仏教僧

 朝廷が

 寺や僧の行動を規定し

 民衆へ仏教の

 直接布教を禁止していた当時

 その禁を破って

 「行基集団」

 を形成

 畿内(近畿)を中心に

 仏教を説き

 困窮者の救済、社会事業を指導

 布施屋9所

 道場、寺院を49院

 溜池15窪

 溝と堀9筋

 架橋6所

 を各地に整備

 当初

 朝廷から度々弾圧や禁圧を受けた

 後

 大僧正(日本初の最高位の大僧正)

 聖武天皇により

 奈良の大仏(東大寺)造立の

 実質上の責任者として招聘

 東大寺の「四聖」の一人

 ↓↑

 天平二十一年(749年)

 行基の弟子の

 真成

 が

 行基の骨をおさめた銅製骨臓器瓶に

 師の伝記を刻んだ

 『大僧上舎利瓶記』に

 「俗性は高志氏にして

  その考(ちち)の

  諱は才智

  字は知法君

  の長子なり

  もと

  百済国の王子

  王爾

  のすえなり

  その妣(はは)は

  蜂田氏にして

  諱は古爾比売

  河内国

  大鳥郡の

  蜂田首

  虎身の

  長女なり」

 中国系帰化人(百済に帰化していた中国人)

 の氏族

 百済後裔は系譜のの装飾・・・

 『日本現報善悪霊異記』

 越後国

 頸城郡

 出身・・・説

 ↓↑

 天智天皇七年(668年)

 河内国

 大鳥郡

 (天平宝字元年(757年)

 に和泉国へ分立・大阪府堺市西区家原寺町)

 父 高志 才智

 母 蜂田 古爾比売

 の長子

 『大僧正舎利瓶記』

 「飛鳥の朝の壬午の歳に至り、出家」

 天武天皇十一年(682年)

 15歳で

 大官大寺で

 得度を受け出家し

 「法行」

 と称し

 持統天皇五年(691年)

 24歳で

 戒師の

 高宮寺

 徳光禅師のもと受戒

 飛鳥寺、次に薬師寺で

 法相宗を主として教学を学び

 名を

 「行基」と改名

 ↓↑

 弟子の

 「道昭」

 は、入唐し

 「玄奘」

 の教えを受けた

 ↓↑

 井戸を掘り

 渡しや港に船を備え

 橋を架け

 後の行基の事業への影響を指摘

 行基が道昭に師事したという伝承・・・

 行基の遺骨を納めた瓶

 『舎利瓶記』

 『日本現報善悪霊異記』

 には記録が無い

 ↓↑

 大宝四年(704年)

 生家を

 家原寺に改め

 母と大和国の

 「佐紀堂」

 で暮らす

 40歳で

 生駒山

 草野仙房

 に母親と移り修行

 43歳で母を亡くし3年間喪に服す

 ↓↑

 「知識結」

 僧俗混合の宗教集団を形成し

 近畿地方を中心に

 貧民救済

 治水・架橋

 などの社会事業に活動

 養老元年(717年)四月二十三日

 宗教集団を

 寺の外での活動を禁じた

 「僧尼令」に違反とされ

 糾弾、弾圧を受けた

 ↓↑

 天平二年(730年)九月

 平城京の東の丘陵(天地院と推定)で

 数千人~1万人を集めて説教し

 民衆を惑わした(『続日本紀』)

 天平三年(731年)

 に弾圧を緩め

 翌年

 河内国

 狭山池の築造に

 行基の技術力や農民動員の力量を利用

 天平八年(736年)

 インド出身の僧

 「菩提僊那」

 が

 チャンパ王国出身の

 僧・仏哲

 唐の僧

 「道璿」

 とともに来日

 九州の大宰府に赴き

 行基に迎えられた後に

 平城京に入って

 大安寺に住し

 「時服」・・・字伏(フク=複・覆・葺)?

 を与えられた

 天平十年(738年)

 朝廷より

 「行基大徳」

 の諡号が授けられた

 (日本で最初の

  律令法典

  『大宝律令』の注釈書記録)

 ↓↑

 三世一身法が施行され

 灌漑事業

 聖武天皇の依頼で

 740年(天平十二年)

 東大寺盧舎那仏像(大仏)建立に協力

 741年(天平十三年三月)

 聖武天皇が

 恭仁京郊外

 泉橋院で

 「行基」と会見

 743年(天平十五年)

 東大寺

 大仏像造営の勧進に起用

 745年(天平十七年)

 「大僧正」の位を贈られた

 (『続日本紀』)

 749年(天平二十一年)

 喜光寺(菅原寺)で81歳で入滅

 往生院で火葬後

 竹林寺に納骨

 多宝塔を建て墓所とした

 朝廷より

 菩薩の諡号

 「行基菩薩」と言われ

 行基は

 「文殊菩薩の化身」

 とも言われている・・・

 ↓↑

 行基が建立した寺

 長岡院の候補

 菅原遺跡(奈良市)で

 円形構造の

 回廊跡と塀跡が発掘

 柱穴15カ所による直径は

 約15メートルで

 円堂(他では八角堂)で

 多宝塔・・・

 行基を供養した建物跡・・・

 ↓↑

 「菩提僊那」

 752年(天平勝宝四年)

 聖武上皇の命で

 東大寺大仏開眼供養の導師を勤めた

 ↓↑

 773年(宝亀四年)

 行基没後の宗教集団に

 国家の援助を与えたが

 布教を禁じた

 東大寺大仏殿再興の勧進に

 重源

 や

 公慶

 が語るが

 仏教団体や教理などの表面から消え

 民衆の伝承や寺院の

 開基伝承などに伝えられている

 ↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑

 建武二十二年(46年・丙午)・・・建(たける)武(たける)

                 似拾爾撚  「郭伋」  は老病であると上書し  并州・・・併修・併集・併拾・・・併合し改修

 牧

 の罷免を願った  光武帝は  「郭伋」を  「太中大夫」・・・「太安万侶」?  に任命し

 朝廷へ召還  光武帝は莫大な財を  「郭伋」に与えたが、  自らの死期を知って  「郭伋」はすべての財産を  親族へ分け与えた  翌

 建武二十三年(47年・丁未)  激動の時を生きた  「郭伋」  は八十六歳で死没  光武帝は葬式に列し  郭伋の死を悼み、墓を下賜  「後漢書・列伝二・盧芳伝」・・・

 ↓↑

以上も以下も

すべて参照、参考の出典は

by「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」

による

 ↓↑

 ・・・「もののあはれ(もののあわれ、物の哀れ)」って?      モノの泡 例・・・bubble(バブル)の膨張破壊、崩壊        「阿波・安房」の例・・・                レイ=lei=ハワイ語「Leiは愛しい人                   絆・親愛・首にかける花輪」の意

  ククイの実・・・「苦悔の身」・・・アロハ、ッ?  ・・・諸行無常(巴:sabbe saṅkhārā aniccā)     この世の現実存在(森羅万象)は     すべて、すがたも本質も     常に流動(循環)変化するものであり     一瞬といえども     存在は同一性を保持することができない・・・     と、認識思考するのは生きている「人間の脳ミソ」・・・    「諸行」とは・・・言(ことば)の十一の日は云い歩く?     ↓↑         言葉を 拾う始めのヒの行(アン)             説法者の安行・・・生知安行?       ・・・諸=言+者(もの・は・シャ)          行=彳(テキ・少し歩む            +  彳+亍=少し歩いて立ち止まる)            亍(チョク                とどまる・たちどまる                すこし歩く・狭い歩幅で歩く)            彳+一+丁            ギョウ・・・行間・行政・行幸・行事            コウ・・・・銀行            アン・・・行灯・行燈            いく・ゆく            おこなう            しぬ            みち            やる            ゆく・いく・歩く・進む・めぐる            動かす・やる・ゆかせる            行為・行動            おこなう・する・なす            みち・道路・みちのり            ゆくゆく・歩きながら            みちすがら・ゆきゆきて            たび・旅行・航行・孝行            経る・経過する・巡(めぐ)る            行書            おこない・ふるまい・よいおこない            ならび・行列・文字列・行間            みせ・商店・仲介所・行商     ↓↑      兄弟の順序     因縁によって起こる     この世の     現象(サンカーラ)・・・太陽の光彩?・・・色     を指し    「無常」とは     一切は常に変化し・・・一切合財=一切合切=全部?     ↓↑          合財袋・信玄袋・明治歩兵の背嚢                背負い行李(桑折)           ランドセル=オランダのランセル(ransel)の訛った語           高野長英の『三兵答古知幾( 1850年)⇔戦争論』           に「担筪(らんとるす)=背負い鞄(カバン)」          「school satchel・school bag」           リュックサック          (独 Rucksack・蘭 rugzak・英 rucksack・背に負う袋)           モッコ           畚(もっこ・ふご)=縄、竹、蔓(つる)などを                     網状に編んだ運搬用具           おんぶもっこ・子守帯         「行嚢(コウノウ)」=郵袋 (ユウタイ) の旧称(郵便袋)     ↓↑    「巾着袋=外交行嚢(外交封印袋)」           笈(おい・キュウ・キフ             おいずる・ふみばこ)           背に負う物           修験者、山伏などが           仏具・衣服・食器などを           収めて背に負う箱           笈           本を入れて背負う箱           荷物や書籍を入れて背負う竹製の箱          「書笈・負笈(フキュウ)」           箱笈・板笈           箱笈は内部が上下2段に仕切られ           上段に五仏を安置           下段に念珠,香合,法具を納める           扉には鍍金した金具を打ったり           木彫で花や鳥を表わし           彩漆 (いろうるし) で彩色し           鎌倉彫の装飾を施したものも           正先達の負うものを縁笈           初心者の負うものを横笈           板笈           背負子(しよいこ)を改良           枠を組んで板をはり           背板に品物を縛りつけて檀板でしめ           反対側に背負い紐をつけたもの           箱笈           縦長の四角い箱に短い4本足をつけたもの           行脚僧(あんぎゃそう)           修験者(しゅげんじゃ)           などが旅をするときに背負って用いた     ↓↑     不変のものはない(アニッチャ)という意・・・?              豈 土 哉?             ・・・土=戊己=十+一=拾う始め(初・肇)  ・・・ソウですか・・・  ・・・執拗に「郭=享+阝=亠+口+了+一+阝」を調べる・・・執着           享=うける・あたる・あてはまる・かなう          星亨(ほし・とおる)=刺客、伊庭想太郎に暗殺          嘉永三年四月八日(1850年5月19日)          ~          明治三十四年(1901年)6月21日  ↓↑      ↓↑          庚戌(辛丁戊)比肩・偏印 衰⇔辛丑          辛巳(戊庚丙)劫財・比肩長生⇔甲午          庚午(丙 丁)  ・印綬沐浴⇔庚午           戌亥空亡   大運1896年5月⇔丙戌・偏官          壬午(丙 丁)食神・印綬沐浴⇔甲申  ↓↑       ↓↑          江戸築地の小田原町(東京都中央区築地)          左官屋の子          維新後に横浜税関長          渡英して弁護士資格を取得          明治十五年(1882年)          自由党に入り         「自由新聞」により藩閥政府を批判          明治十六年(1883年)          福島事件で          河野広中を弁護          明治十七年(1884年)          官吏侮辱罪に問われ          明治二十年(1887年)          保安条例発布で東京を追われた          明治二十一年(1888年)          出版条例違反で入獄          明治二十五年(1892年)          第2回総選挙で当選          衆議院議長          第4次伊藤内閣で          逓信相          東京市疑獄事件で辞職          明治三十四年         (1901年)6月2日午後3時過ぎ          東京市議会議長であった時          収賄などの噂?で  ↓↑       伊庭想太郎に刺殺・・・  郭文貴・・・?・・・ダレ?  ↓↑  「ニュースの解説」って?  「タマネギ談釈」か?「法螺吹きダンシャク」か?  Kuk Cho・・・?・・・ダレ・・・  プチブル社会主義者の妄想と現実・・・?  ↓↑  「ニュース(news・報道・情報)=new+s」   ・・・「ニューズ(英)・ヌーズ(北米)」       語源=方角の「北東西南」の      「North、East、West、South」       の頭文字だという意は誤解       知らせ・情報・変わったこと       消息・便り・噂(うわさ)・風聞  ↓↑    ↓↑      nouvelles(仏)     ヌーベルバーグ(仏語 Nouvelle Vague)             仏=イ+ム=佛=イ+弗                 ム(よこしま)=弗(ドル)     1950年代後半~1960年代前半     フランス     商業映画に束縛されず     自由な映画制作を行なった     若手グループの映画    「新しい波」の意     ヌーヴェルヴァーグ    (フランス語 Nouvelle Vague)     ヌーベルバーグ     ヌーヴェル・ヴァーグ     とも     ゴダール(Jean-Luc Godard)     ハンス・リュカス(Hans Lucas)    『勝手にしやがれ    (A bout de souffle・Breathless1959年)』  ↓↑    ↓↑     庚午(丙 丁)正財・比肩建禄⇔己亥 食神     丁亥(戊甲壬)比肩・正官 胎     丁亥(戊甲壬)  ・正官 胎      午未空亡    1952年6月 庚寅 正財     丙午(丙 丁)劫財・比肩建禄  ↓↑    ↓↑       neues(独)       novedades(西班牙)       novita(伊)・・・ノビタ⇔伸太?  ↓↑    ↓↑       ニュースアナリスト(news analyst)       announce       アナウンス・伝える・知らせる       ニュースや案内などの告知・御布令       情報伝達       公表・発表・・・周知       announcement       アナウンスをする       告示・告知・予告・公告       make an announcement       アナウンスを繰り返す       repeat an announcement       アナウンスメントゥ       announcement       アナウンス効果       announcement effect.       ニュース解説者       announcement  ↓↑  の  「解説(commentary・explanation)      synopsis・summary(梗概・要約)」   ・・・news commentary   ・・・news commentator   ・・・解説委員(news commentary)  って、ナニ・・・?・・・事実の説明者・・・屁理屈者?  ・・・「事実に説明」が必要らしい・・・ナゼ?  ・・・「状況、事態の発端、過程、結果      現実、事実の因果関係の      是非、真偽、真贋の可否を      自分の脳味噌のコトバで判断      理解出来ない」から・・・      ・・・Vocaboly(ボキャボリー・語彙)不足      ・・・言語文法の理解力不足  で、売文、売言の  ・・・「屁理屈・法螺吹き」のコトバの補強が必要・・・?  他にも・・・「unveil・reveal」・・・「暴く」がアル・・・?  ↓↑  by ja.wikipedia.org/wiki/  ↓↑  ロバート・クオック  (Robert Kuok Hock Nien   郭鶴年・・・郭(くるわ)の鶴(つる)の年(とし)  (カクカクネン)   1923年10月6日~)   マレーシアのクオック・グループ   香港のケリー・プロパティー   郭一族は東昇公司時代に   ジョホールの   スルタン・イブラヒム   親密な関係を築き   後も   スルタン・イブラヒムの孫   がPPBの総務部長兼取締役   トゥンク・オスマン(Tunku Osman Ahmad)   がプランギ社(Pelangi Bhd.)の会長   アジアの   製糖業・・・・・砂糖(サトウ)・・・甘いサトウ・・・   に影響力を有す・・・あまいザイバツらしい・・・  ↓↑  郭淮  ↓↑  by Wikipedia  郭 淮(カクワイ・? ~255年)  後漢末期から三国時代の  武将・政治家  魏に仕えた  『三国志・魏志「満田牽の郭伝」』    ・・・魏志「満・田・牽・郭・伝」  字は伯済・・・百済?  并州太原郡・・・并の州の太の原の郡  郭淮の一族  晋代にはそれぞれ高官  小説『三国志演義』では  自分で射た矢を  ↓↑  姜維・・・姜維(キョウイ・かんい?)  ↓↑    建安七年(202年)       ~        景元五年一月十八日(264年3月3日)       魏・蜀漢に仕えた       字は伯約       涼州       天水郡       冀県の出身       父は姜冏       妻は柳氏  ↓↑    子孫に唐の姜恪  姜維・・・  に射返され落命(『三国志演義』)  ↓↑  祖父は郭全  父は 郭縕  弟は 郭配(賈充・裴秀の妻の父)・郭鎮  子は 郭統  孫は 郭正  甥は 郭奕  姪は 郭槐(賈南風の母)  ↓↑  建安年間(196年~220年)・・・建(たける)を                  安(やすんじる)  孝廉・・・孝(十一の了と一)の       廉(廉価・かど=理由・・・事件のカド         取り上げるべき事項・理由となる事柄)  で推挙され  平原の丞  曹丕  が五官将になると  郭淮  は召し出され  門下賊曹  に加えられたが  間もなく  曹操へ付き  漢中征伐に随行  漢中制圧後  夏侯淵の司馬  としてその地に残り  劉備に備えた  劉備軍侵攻の際は病気で不参戦  219年  定軍山の戦い  夏侯淵が討たれると  郭淮  は混乱する兵士を取りまとめ  杜襲  と協力して  張郃  に司令官を代行させ  劉備の侵攻を防いだ  曹操は漢中に到着し  張郃・・・・・・・・張=弓+長  ↓↑         郃=合+阝              亼+口+阝              人+一+口+阝              コウ           「郃陽」=陝西省県名  ↓↑         陝西省を流れる川の名  に仮節し  漢中駐留軍の司令官とした上で  郭淮  をその司馬に任じた  ↓↑  220年  曹丕  が王位につき  郭淮  は関内侯の爵位を与えられ  鎮西長史(曹真の長史)に転任  征羌護軍も兼任し  張郃・楊秋を監督  賊を討伐し  関中に平和  民衆を安んじた  ↓↑  同年  曹丕(文帝)が  帝位に就く祝賀に出向いたが  途上で病気に罹り  彼が参内した頃には祝宴が行われ  曹丕は彼を咎めた  古の例を取って非難する曹丕に対し  郭淮はそれを逆手にとって弁明  曹丕に気に入られ  仮の雍州刺史に任命され  5年後に正式な雍州刺史となった  羌族らの反乱を鎮圧し  降伏者が訪れてきた  予め相手の親族関係などを  調査してから面会し  ↓↑  228年・・・・・・・干支=戊申            神功皇后摂政二十八年            皇紀888年            魏 : 太和二年            蜀 : 建興六年            呉 : 黄武七年          高句麗 : 東川王二年          新羅 :  奈解王三十三年          百済 :  仇首王十五年  蜀漢軍が祁山に侵攻  郭淮は  上邽に馳せ還った  諸葛亮は  街亭に  馬謖を派遣し  列柳に  高翔を駐屯させたが  張郃が馬謖を  郭淮が高翔を攻め  これを破った(街亭の戦い)  隴西郡の  羌族を  枹罕で破り  建威将軍に任命  ↓↑  229年  蜀の  陳式が武都・陰平を攻撃  迎撃したが  諸葛亮自ら  建威に出陣してきたため敗れ  両郡を奪われた(諸葛亮伝)  ↓↑  230年  蜀の  魏延が  羌中に侵攻  費耀と迎撃に出たが  陽谿で敗れた(魏延伝)  ↓↑  231年  諸葛亮が  鹵城に攻め  曹真  に代わって指揮官となった  司馬懿の下  戴陵や費耀とともに  上邽で  諸葛亮を迎撃したが敗れた  (「諸葛亮伝・漢晋春秋」)  羌族を手懐け兵糧を提供させ  揚武将軍に任命  ↓↑  234年  斜谷に攻めてきた  諸葛亮は  蘭坑で屯田を始めた  長安方面への攻撃計画を見破り  迎撃して防衛に貢献  諸葛亮が西方に軍を進めると  陽遂が攻撃されると予想し  これを防いだ  ↓↑  238年・・・・・  蜀の  廖化が守善羌侯の宕蕈を攻撃  王贇・游奕に廖化を挟撃させた  郭淮の上奏を受け  曹叡(明帝)は  「軍隊の配置は分離を避けるもの」  として急ぎ詔勅を下したが  届く前に  王贇・游奕は廖化に敗れた(「明帝紀」)  ↓↑  240年・・・正始元年(240年)        帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ        詔書、印綬を奉じ        倭王に拝受させた  蜀の  姜維が隴西に侵攻  これを防いだ  羌族の  迷当を攻撃  氐族3000余部を降参させ  関中に強制移住させた  左将軍に昇進  涼州の  休屠胡である  梁元碧が  雍州に帰順  郭淮は  安定郡高平に移住させることを要請  彼らのために  西州都尉の職を設置するよう取り計らった  後に前将軍へ転任となったが  州の宰領は元通り執り行なった  ↓↑  244年・・・正始四年(243年)12月        倭王は大夫の伊聲耆        掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣        掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた        正始六年(245年)        難升米に黄幢を授与        正始八年(247年)        倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣        狗奴国との戦いを報告        魏は張政を倭に派遣し        難升米に詔書、黄幢を授与  曹爽  が蜀征伐の軍を起こす  郭淮  も夏侯玄の下で先鋒として従軍  形勢不利で  郭淮は味方の軍を脱出させ  大敗させずに済んだ(興勢の役)  帰還後、仮節された  ↓↑  247年~248年・・・卑弥呼(生年不明?242年~248年)  ↓↑        姜維  と  廖化  は  蛾遮塞  治無戴  といった  羌族と手を結び  魏に侵攻  諸将が  郭淮の  軍を分けて  廖化を攻めるべきという判断に反対  郭淮はそれらの反対を退け廖化を攻撃  夏侯覇を  姜維に当たらせた  結果  郭淮の読み通り  姜維は廖化を救援し  そのまま敗走  都郷侯に昇進した。  ↓↑  249年・・・・・・卑弥呼(生年不明?~242年~248年)  夏侯玄に代わって  征西将軍・都督雍涼州諸軍事  対蜀軍戦線の総司令官  不仲だった  夏侯覇は不安を覚え  蜀に亡命(「諸夏侯曹伝・魏略」)  陳泰と協力し  蜀の  句安らを降参させた  ↓↑  250年  車騎将軍・儀同三司に昇進  都督雍涼諸軍事を兼務  陽曲侯に封じられ  子が亭侯に採り立てられた  ↓↑  251年  王淩が  皇帝廃立を目論んで  司馬懿に討伐され  自害(王淩の乱)  郭淮の妻が王淩の妹で  妻は罪人として  中央に赴くよう要請  郭淮の配下や周辺の部族長が  挙って郭淮の下へ押し寄せ  助命を嘆願したが  郭淮は聞き入れなかった  妻が雍州を離れることになった際  子供たちが額から血を流すほどに  叩頭して請願したため  郭淮はそれを見過ごすに忍びず  妻を取り返した  司馬懿に言上し  司馬懿はその言を受け  彼らの罪を不問とした(『世語』)  ↓↑  255年  死去  大将軍を追贈  貞侯と諡された  子が跡を継いだ  郭淮の一族は  晋代にはそれぞれ高官に昇った・・・ ーーーーー  郭淮 (カクワイ)  妻は王夫人で王凌の妹  王允の姪にあたる女性  郭淮との間に5人の男子を儲けた  後に王凌はクーデターを画策し  自殺  弟に郭配、郭鎮、郭亮  甥たちも含めた  郭一族は  魏晋に栄達 ーーーーー  郭解の子孫  郭解は一族皆殺しにされたはずであるが  子孫を名乗る者が後漢書に立伝  ↓↑  郭 伋・・・「イ+ 伋」、汲、級、吸、扱  字を細侯  郭解が移住した茂陵の人  郭解の玄孫(孫の孫)  父の  郭梵は蜀郡太守  ↓↑  郭 伋  字を細侯  郭解が移住した  茂陵の人  郭解の玄孫(孫の孫)  父の  郭梵は蜀郡太守  ↓↑  郭 伋  前漢哀帝・平帝の間  三度遷って  漁陽都尉・・・現在の北京市、天津市、河北省の一部に相当  ↓↑  王莽  新王朝時  上谷の太守  并州牧に遷った  (漁陽・上谷は隣接   匈奴・烏桓と境を接し   侵略が多く統治の難しい場所   并州は漁陽らが含まれる   幽州の隣であり   異民族に悩まされていた州)  ↓↑  新王朝が滅び  更始帝  更始帝は  郭伋を召して  左馮翊に任命し  民を鎮撫させた  ↓↑  更始帝が破れ  光武帝が即位  雍州牧として  異民族と境を接する  涼州へ赴任し  呼び戻され  尚書令に任命され度々諌争した  ↓↑  建武四年(28年・戊子)・・・建武                後漢の光武帝劉秀の                最初の元号  中山太守  建武五年(29年・己丑)  漁陽太守に遷った  ↓↑  郭伋は信賞必罰を徹底  盗賊の首領を次々と誅した  ↓↑  匈奴に対し  兵と馬を整備し  攻守の計略を徹底した  在職五年間で人口は倍になった  ↓↑  建武九年(33年・癸巳)  潁川郡で盗賊が多発  郭伋が太守として赴任  ↓↑  郭伋  潁川郡に到着し  群盗の罪を赦すと言い招き寄せ  赦しを乞うた群盗を  郭伋はみな帰農させた  ↓↑  郭伋は勝手に群盗を赦したことを  光武帝が咎めることは無かった  ↓↑  郭伋の名は  江南まで及び  昔赴任した  幽州冀州からも続々と  盗賊が降服  ↓↑  建武十一年(35年・乙未)  光武帝に従わない  盧芳が北方を占拠し  再度  郭伋を并州牧とし対抗させ  光武帝は  盧芳  匈奴  の難に対処できるのは  郭伋  しかいないと  朝廷へ召還することはなかった  ↓↑  盧+α・・・  ↓↑  鸕鶿草葺不合(うがやふきあえず)尊  鸕鷀草葺不合  鵜葺草葺不合  ↓↑  天津日高日子波限建-鵜葺草葺不合命  彦波瀲武     -葺不合命  彦波瀲武     -鸕鶿草葺不合尊  日子波瀲武    -葺不合命  ↓↑  鸕=盧+鳥  ↓↑  盧芳・・・新代~後漢時代初期の武将  ↓↑   字は君期       涼州安定郡三水県      (寧夏回族自治区同心県)の人       兄は盧禽       弟は盧程       北方辺境で活動       一時、皇帝を自称       新末後漢初の群雄の1人       王莽の統治期       盧芳は       武帝の曾孫・劉文伯を自称       三水県の北方民族と共に挙兵       更始二年(24年・甲申)・・・更の始、甲の申(猿)       更始帝(劉玄)が長安に遷都       盧芳は騎都尉に任命され       安定以西の鎮撫を命じられた       更始三年(25年・乙酉)       更始政権滅亡       三水の豪傑たちは       漢の皇族を自称していた       盧芳を上将軍、西平王として擁立       西羌、匈奴と和約を結び       匈奴の       単于(単于與)は配下の       句林王をして       盧芳、盧禽、盧程を       匈奴支配地域に招き       盧芳を漢の皇帝として擁立       建武四年(28年・戊子)       単于輿は       無楼且渠王を遣わし       李興、閔堪など       并州に割拠していた群雄と和親       盧芳を漢皇帝として       内地に還したいと告げ       建武五年(29年・己丑)       盧芳は       李興、閔堪らから迎え入れられ       九原県(五原郡)を根拠地とし       北方辺境を割拠し       五原、朔方、雲中、定襄、雁門       5郡を占領       建武六年(30年・庚寅)       盧芳       は腹心の五原太守       李興とその兄弟を誅殺し       腹心の       朔方太守       田颯       雲中太守       橋扈が       盧芳に反して       光武帝(劉秀)に降った       盧芳は       後漢の       大司馬呉漢や       驃騎大将軍杜茂の度重なる討伐を撃退       建武十二年(36年・丙申)       盧芳が雲中を攻略でず       部将の      「随育」       から光武帝に降伏するよう脅され       盧芳は軍を放棄し       匈奴の支配地に逃げ込んだ       建武十六年(40年・庚子)       盧芳は高柳(代郡)に入り       閔堪とその兄       閔林を使者とし       光武帝に降伏を申し入れ       光武帝は盧芳を代王に封じ       閔堪を代の相       閔林を代の太傅       に任命       盧芳らに匈奴との修好を担当させた       建武十七年(41年・辛丑)       入朝を求める       光武帝からの詔を受け       盧芳は洛陽へ向った       途中で       光武帝は       入朝は次の年      (建武十八年・壬寅)に延期       疑心を抱いた       盧芳は       代に戻って再び反逆       部下の       閔堪や閔林と数ヶ月にわたって       攻防戦       匈奴の救援を受け       妻子と共に匈奴支配地域へ引き返し  ↓↑    盧芳は、10年余り後に同地で病没  盧芳の将であった  随育(隋育・ズイイク)・・・随の育?  が寝返り  盧芳は匈奴の地へ落ちた  ↓↑  建武二十二年(46年・丙午)  郭伋  は老病であると上書し  并州牧の罷免を願った  光武帝は  郭伋を  太中大夫  に任命し、朝廷へ召還  光武帝は莫大な財を  郭伋に与えたが、  自らの死期を知って  郭伋はすべての財産を  親族へ分け与えた  翌建武二十三年(47年・丁未)  激動の時を生きた  郭伋  は八十六歳で死没  光武帝は葬式に列し  郭伋の死を悼み、墓を下賜  「後漢書・列伝二・盧芳伝」・・・ ーーーーー  郭文貴・・・?  「江沢民ファミリーの   海外資産は   1兆ドル」・・・???  郭文貴  が暴露 (2019年6月4日)  米国に亡命した中国の富豪  郭文貴は  自身のSNSで  江沢民一族が海外で  1兆ドルもの資産を有していると述べた  そのうち  5000万ドルはすでに洗浄  郭氏  4月13日  ユーチューブで発表  ↓↑  郭嘉  郭鎮、郭賀と郭禎、郭禧、郭鴻  『後漢書』列伝2・盧芳伝  ・・・???・・・


 甜瓜(テンカ)・・・千の口の爪の厶がメロンって?

 瓢箪(ひょうたん)

も瓜(うり)の類(たぐい)だけれど・・・  ↓↑  マクワウリ(真桑瓜・Oriental melon)  北アフリカや中近東地方の原産で  紀元前2000年頃に栽培が始まり東西に伝わった・・・  SK・NK・一K・・・「チャメ」?・・・「うり」は帰化人だったろう?  「近親の利害関係の愛も憎悪怨恨」も「他人の比」じゃないから・・・?  ↓↑  敦化市(トンカシ)・・・敦煌・敦厚・惇厚  ↓↑          呉郭魚=鰉=かわスズメ              ナイルティラピア=イズミダイ・チカダイ              1946年台湾でシンガポールから              カワスズメが導入され              導入者である              呉振輝              と              郭啓彰の姓を取った              呉郭魚              の名で養殖された               鰉=ひがい・ カイ・テラピア(Tilapia)  ↓↑              異体字「鳇・鱑=魚+黄」  吉林省  延辺  朝鮮族自治州の県級市  朝鮮族が人口の約5%  市名の由来は中庸に  「大徳敦化」  あるのによる  古代  渤海国  初期の都城が所在した  ↓↑  敦煌・・・北緯40度06分 東経94度39分  (とんこう・ドゥンファン・Dūnhuang)  中国と西域との出入口  甘粛省  北西部の都市  酒泉市の管轄下の県級市  シルクロードの分岐点として  栄えたオアシス都市  近隣にある  莫高窟  敦煌文書は有名  歴史的な敦煌は  敦煌市  と  瓜州県・・・瓜(うり)の州の県(懸)  を合わせた  領域に  ほぼ重なる  ↓↑  紀元前2世紀前半  匈奴の  冒頓単于が  月氏を攻めて支配した  武帝の代  西域に積極遠征を行い  敦煌郡を設置  設置年代は  紀元前111年・・・壱壱壱・百拾壱  だが  紀元前92年ごろの  李広利  将軍の  大宛(フェルガナ)遠征の際に設置・・・説  この地の住民  漢政府により送り込まれた  窮迫農民  犯罪者で  敦煌の住民が  漢の中心地へと帰ることは禁じらた  ↓↑  五胡十六国時代  中央から自立した  西涼の首都  沙州(敦煌市沙州鎮)  瓜州(敦煌市)  と呼ばれ  西涼は  北魏  によって滅ぼされた  魏晋南北朝時代  仏教が中国に布教した時代で  この地では  竺法護などの僧が  西方よりやってくる経典の訳に励み  布教に貢献  366年  僧楽僔(らくそん)  によって  莫高窟  の掘削が始まった  五胡十六国時代から  敦煌は  張氏・索氏・令狐氏・范氏・宋氏  五家の名族によって実質支配され  名族社会を形成  ↓↑  唐代  西域への玄関口  安史の乱で  唐政府の統制力が弱まり  781年  吐蕃の侵攻を受け  786年以後70年間  吐蕃の支配下  摩訶衍  が吐蕃へ禅を伝えたが  カマラシーラ(蓮華戒)  との  サムイェー寺の宗論に敗れ  中国仏教は追放された  吐蕃が唐と対立すると  吐蕃の支配下では交易が行われず  敦煌は衰退  851年  漢人の  張議潮  が  吐蕃に反乱を起こし  独立し  唐に帰順して  帰義軍節度使に任じられた  唐政府の権威は衰え  実質的には独立勢力であった  張議潮勢力の下で交易は再開された  曹氏が・・・曹?  帰義軍  の勢力を引き継いだ  ↓↑  北宋代  タングートが  西夏を建て  1036年にこの地を占領  敦煌文書が  莫高窟の  耳窟  の中に放り込まれ  入口を塗り込められた  1227年  モンゴル帝国が  西夏を滅ぼし  元の支配下に入る  中国と西方を結ぶルートが  シルクロードから  南方の海の道へと移行し始め  寂(さび)れた  ↓↑  1900年  この地にいた  道士  王円籙(オウエンロク)  が  莫高窟中の  第16窟の壁の中に隠されていた  耳窟(第17窟・蔵経洞)  から大量の文献を発見  地方官と  王円籙は学術的見識を有さず  文書は放置された・・・  ↓↑  ウズベキスタン・ソグゾ(粟特・古波斯語・Suguda・Sogdiana)          ソグディアナ  ↓↑  桜蘭=クロライナ    (クロラインナ、Kroraina、Kroraimna)の音訳     鄯善国の首都  楼蘭(Loulan・現地名はクロライナ Kroraina)  中央アジア  タリム盆地の  タクラマカン砂漠北東部  (新疆ウイグル自治区チャルクリク)  かつて存在した都市、国家  「さまよえる湖」  ロプノールの西岸に位置  シルクロードが  西域南道と天山南路に分岐する要衝にあって  栄えた  紀元前77年  漢の影響下で国名を  鄯善(shan shan・ゼンゼン)と改称  楼蘭の名は長く用いられた  4世紀頃  ロプノールが干上がり  国力も衰え、やがて砂漠に呑み込まれた  1900年  スウェーデンの探検家  ヘディンによって遺跡が発見  ↓↑  手紙は匈奴の君主  冒頓単于が  前漢の  文帝に宛てて送ったもの中に  冒頓単于は月氏に対して勝利し  楼蘭(ロウラン)  烏孫(ウソン)  呼掲(コケイ)・・・「袁紇・烏護・韋紇」などとも記録  及び近隣の26国を平定したと宣言  この手紙は  文帝の四年(紀元前176年)に送られたもので  楼蘭は少なくとも  紀元前176年以前に形成され  月氏の勢力圏にあった  紀元前176年頃  匈奴の支配下に入った  『漢書』西域伝  西域を支配下にいれた匈奴は  焉耆、危須、尉犁  の間に  僮僕都尉を置き  楼蘭を含む西域諸国に賦税し  河西回廊に数万の軍勢を置いて  交易を支配 ーーーーー  ・・・???・・・  葛籠(つづら)  ツヅラフジのつるで編んだ  蓋つきの籠の一種  竹を使って網代に(縦横の組合わせ)  編んだ四角い衣装箱  ↓↑  つづら=葛篭・防己・黒葛・黒桂・綴ら  ↓↑  西域・・・中国洛陽、日本からみた西  高昌国  楼蘭  敦煌・瓜州・・・メロンの特産地だった?  莫高窟(バッコウクツ・Mogao Caves)      敦煌石窟  ↓↑  火焔山  烏魯木斉(ウルムチ)・ウル・ウルク            ・うり・うりく  ウズベキスタン(Uzbekistan・・・渦壁州旦?                  碓(摸)経記州譚?          オズベキスターン・Oʻzbekistoni)          北緯37度~46度          東経56度~74度          月即別・月祖伯          烏茲別克斯坦          烏茲別克  ↓↑  主要都市  首都タシュケント  アンディジャン・ブハラ  サマルカンド  ナマンガン・ヒヴァ  ↓↑  敦煌  楼蘭  キョウダン=杏壇・・・孔子廟       =教団・凶弾・教壇        狂壇・経壇・兇弾  ↓↑  粟=覀+米     ショク     ソク     ゾク     あわ・・・慌(あわ・あは)てる     ふち     もみ     イネ科の一年草     ふち・扶持米     もみ・穀物の外皮がついたままの実     つぶ・あわつぶに似たもの  ↓↑  ↓↑     地名     粟 (あわ)     粟井(あわい)・粟佐(あわさ)     宍粟(しさわ)・白粟(しらわ)  ↓↑  ↓↑     諺・・・粟(あわ・ゾク)     貫朽粟陳(カンキュウゾクチン)         財産の貯めすぎで腐る  ↓↑  ↓↑     滄海一粟(ソウカイのイチゾク)         大海一滴・九牛一毛  ↓↑  ↓↑   粟散辺地(ゾクサンヘンチ)         辺境にある小さな国   粟散辺土(ゾクサンヘンド)     辺地粟散(ヘンチゾクサン)  ↓↑  ↓↑     粟粒一炊(ゾクリュウイッスイ)         人の世界での繁栄は儚い        『枕中記』         一炊之夢         栄華之夢         邯鄲之夢         黄粱之夢         盧生之夢  ↓↑  ↓↑   ↓↑  ↓↑   斗粟尺布(トゾクシャクフ)     尺布斗粟(シャクフトゾク)         兄弟の仲の悪さの災い  ↓↑  ↓↑   布帛菽粟(フハクシャクゾク)         衣食をする上で必要なもの ーーーーー  申し訳ない・・・  ・・・滅茶苦茶な自己納得の蘿、蔦、葛のような文字の羅列・・・?  ↓↑  ↓↑  「葛=本草和名(918 年)」  vine=つる植物・つる草・かずら     自らは直立できず、他の植物に絡んだり     物の表面をはって伸びる植物の総称     vain(ヴァイン・ワイン)  それでも・・・  vine nursery=ブドウ園  vine of ore=金脈単語帳  vine peach=マンゴーメロン  vine snake=ツル蛇  vine tomato=枝付き赤茄子(トマト・苫と)  balloon vine=風船カズラ  black vine weevil=キンケクチブトゾウムシ(金毛口太象虫)           果樹につく害虫  chocolate vine=木通(アケビ)・通草  cinnamon vine=長芋(ナガイモ)  clinging vine=まとわりつく蔓         他人にまとわりつく人         そばを離れない人         ベッタリくっつくヒト         うっとしい(鬱陶しい)迷惑なヒト         邪魔になってうるさい・煩わしい         しつこい  grape vine trellis→ grapevine trellis  ivy vine=ツタのつる  jade vine=翡翠葛(ヒスイカズラ)  kudzu vine=クズ  lace-flower vine=レースフラワーバイン          イワたばこ  love vine=ネナシカズラ(菟糸=役立たず)・・・訳立たず?  Madeira vine=アカザカズラ( 藜蔓)         ウンナンヒャクヤク(雲南百薬=ユンナンパイヤオ)         オカワカメ(陸若布)         リュウキュウヒャクヤク(琉球百薬)         マデイラカズラ  matrimony vine=クコ(枸杞)  muscat vine=マスカット  ↓↑  ↓↑  蘿、蔦、葛(arrowroot・クズウコン=葛鬱金・宇金・郁金・玉金      アロールート)は  薬(くすり)  葛籠(つづら)の原材料・・・  藤原(鎌足・中臣鎌子)  葛城皇子(中大兄皇子・天智天皇)・・・  葛=くず=屑・国栖・頽・九頭・・・? ーーーーー  ・・・アンタは人間のクズ、ってか・・・

ーーーーー  ・・・???・・・  ボクの「毀損HP」の「逃避先HP」 https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2021/09

ー----   ・・・???・・・    ↓↑   ↓↑  「プラトン古事記をカタル(古事記字源)   +  (表紙・画像・音楽)」の   移転先・・・ https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12  ↓↑  ボクの「古事記字源」の発端・・・ https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/10  ↓↑  干支歴 http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html  ↓↑  追加添文  「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」 https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB

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