「魯(魯西亜)?」の年代記「春~秋」の「秋~冬」
2022/9/26・月曜日・・・追加添文・・・
アキの9月も27・28・29・30
「春秋戦国」の「語源」・・・
春秋戦国時代
中国古代の時代区分
前770年
周の東遷から
前221年
秦の統一までの
約5世紀半の間
前403年
韓・魏・趙が
晋を3分した時を境に
前半を春秋時代(《春秋》の名に由来)
後半を戦国時代(《戦国策》の名に由来)
に分ける
春秋(シュンジュウ)・・・
「魯国」・・・ロシアの秋~冬・・・?
の年次によって記録された
中国春秋時代に関する
編年体の歴史書
この歴史書に
「孔子」
が注釈をつけた
中国、東周の前期
紀元前七七〇年の
周室の東遷から
紀元前四〇三年まで
晉の
韓・魏・趙
の独立によって
戦国時代のはじまるまでの時代
魯の年代記「春秋」
「魯国」の史官の編年体の
「春秋」に扱っている
前722年から前481年までの記録
「巧言 令 色鮮 仁」・・・コロナ祀り・・・ 再三の思考・・・モウソウ・・・giraffe(ジラァフ)=qilin=Kirin・・・希臨? 麒麟(きりん)=首長鹿・・・主調の詞歌(化)
↓↑
英語=ジラフ =giraffe・・・字等附?
獨語=ギラッフェ=Giraffe・・・戯玀通歩柄?
仏語=ジラフ =girafe・・・時等附?
伊語=ジラッファ=giraffa・・・時等通附蛙?
西語=ヒラーファ=Jirafa・・・比良蛙附鴉?
葡語=ジラーファ=Girafa・・・字等蛙附倦?
ー↓↑ーーーー
鮮卑(センピ・拼音:Xiānbēi) 鮮=魚+羊・・・あざやか・新鮮 痣やか・字やか 鮮・・・論語の 「巧言令色鮮仁」 ↓↑ 色(いろ)を 令(よ)くす 鮮(少なし)・・・? ・・・「巧言」とは ・・色=⺈+巴=象(elephants) の形象の 「顔・頭」に出っ張った 長い鼻(はな)は 「巴=巳(蛇)」の 蜷局、丸まった形象 ↓↑ 巴=𠃜・・・象の鼻の形象? see the elephant・・現実を見る see pink elephants・・幻覚を見る white elephant・・無用の長物 elephant in the room・知らんふり ↓↑ 𠃜=尸・𨻰也・・・陳述 敶、列也 尸=屍 象臥之形 臥下 曰 伏也 此字 象 首俯 而 曲背之形・・・? 長鼻だろう・・・ (說文) ↓↑ 尸=舒 のばす 巻いたもの かたまったモノを のばし広げる 横にのびる 心中の思いをのべる ↓↑ 骨節解舒 不能復自勝斂也 (釋名) ↓↑ 公尸來燕來寧 (大雅)
↓↑ 眉=𠃜+目 睂=仌+丨+厂+目 仌+丨+丆+目 人+丨+厂+目 人+丨+一+丿+目 ↓↑ 肩=𠪃=𠂆+眉=𠂆+𠃜+月 ↓↑ 声=士+𠃜 異体字「𡔜・聲・磬 䃘・殸・硁 硜・𥑒・𥓕 𡔝=士+ノ+吅 士+ノ+コ+口」 磬=ケイ・石、玉製打楽器の音 ↓↑ 色=五感の認識対象の 色彩をおびた形象の すべてのモノ モノ色・色彩 ↓↑ 「鮮=あざやか」に 「仁」を 「令(をさせしむ)」 令=亼+龴 亽+龴 人+一+龴 人+丶+龴 レイ リョウ いいつけ おさ よい いいつけ 上の者からの指示 おさ・長官 よい・すぐれた・立派な 相手の親族を 敬っていうことば のり・おきて 決まり・法律 ~しむ・~せしむ 「令甲乙~」 「甲をして乙せしむ」 、「甲に乙をさせる」 仁=ジン ニ ニン いつくしみ おもいやり・したしみ ひと=人 ひとの心・人道 さね・果実の種 ↓↑ 「剛毅木訥(ゴウキボクトツ) 仁(ジン)に近(ちか)し」 論語(子路)・・・音の呂? 「朝(みつぎもの)鮮(すくなし)」 鮮=稀(まれ)・時々 たまあに=偶(たまァ)に たまさか・適さか・適々 時偶・適適・たまたま・珍しく ↓↑ 『論語』「学而(ガクジ) 陽貨(ヨウカ) 陽虎の別名 陽虎と孔子の容貌は 似ていた)」・・・? ↓↑ 『論語』「公冶長(コウヤチョウ) 孔子は公冶長に 自分の娘を嫁がせた)」 「公冶長は鳥と会話が出来た その能力で死体の場所を 知ることができたが 殺人犯と疑われ獄中に 入れられたが 雀の言葉を理解できることを 実証し釈放された」 ↓↑ 「巧言令色 足恭(スウキョウ)」 「足恭=慇懃丁寧 便辟の貌(さま)」 便辟=媚び諂(諛) こびへつらい 弁舌だけウワベだけの追従者 「仁=人+二(弐・貳・貮・亨)」 は人が「フタリ」で 二人の間の約束・ルール 夫婦、男女の間のルールだろう 発情期 求愛、承諾、セックス 出産、養育、子育て この期間の衣食住確保の約束 ↓↑ 鮮=魚+羊・・・痒(かゆ)い=疒+羊 掻(か)く =扌+蚤(叉虫) ・・・共通項は赤(あか)+桃+色 =⺈+田+灬+羊 セン あざ(やか) あたら(しい) すく(ない) さかな・生き魚・生(なま)魚 魚のなます あたらしい・生き生きとしている あざやか・はっきりしている・明らか よい・美しい・みめよい・あでやか すくない まれ(稀)である ↓↑ 蘚=艹+魚+羊・・・・・蘇=艹+魚+禾 セン・こけ(コケ)=苔 こけ=鱗(うろこ・リン) ヒカリゴケ(光苔)=光鱗・・・隣 洞窟のような暗所で 金緑色(エメラルド色)に光る luminous moss ルミナス モス ・・・発光体・反射体 ・・・鱗=うろこ 隣=阝+粦 阝+米+舛・・・そむく=背・叛・迕 背反・背信 阝+米+タ+ヰ(ゐ) 旧字体「鄰」 厸 邻 舛=夕+㐄 「僢」の異体字 セン いりまじる そむく たがう・たがえる・食い違う 入り混じる・乱れる ます=升 粦=米+舛・・・アメリカ(米国)の 背反、裏切り・・・ 当然にも「大日本帝国」に対する 裏切り、背反である・・・ 第一次大戦後の 「ウィルソン」の 「国際連盟(League of Nations)のウラギリ」・・・ そして、 「ルーズベルト」 「ハル」ょッ、コイ、である・・・ ーーーーー 舛+α 桝=木+舛・・・舛添・・・朝まで何某の奴? 磔=石+桀・・・磔刑 傑=イ+桀・・・怪傑 瞬=目+桀・・・瞬時 隣=阝+粦・・・鄰人 鄰=粦+阝・・・隣人 舞=𠂉+卌+一+舛・・・舞台 舞=𠂉+卌+一+舛・・・舞踊 㘶荈桝桀曻粦椉嵥滐亃 傑舜䑝㷠㔂㻧榤搩僲舞 粼僢噒獜僯嫾鄰疄撛䑞 嶙潾辚隣暽磔橓䢬膦憐 蕣橉燐謋㵲儛斴甐遴璘 䗲䢯繗瞵翷磷瞬䚏蹸䚬 轔䮪鳞䒉躌 ーー↓↑ーー 麟 徳 殿・・・麟=鹿+粦(米舛) (リントクデン) 麒=鹿+其・・・鹿=覇王の象徴 麟=鹿+粦 广+比+米+舛 广+比+米+夕+㐄 リン きりん 「麒麟(きりん)」・想像上の動物 聖人が世に現れたときに姿をみせる 「麒」が雄 「麟」が雌。 「麟麟(りんりん)」=光りかがやくさま 則天武后(623?~725年) ↓↑ 701年 「大宝度の遣唐使」 が 中国皇帝に渡した文書とは相違 初めて 国名として 「日本」 と記録 ↓↑ 長安三年(703年) 粟 田 朝臣 真人 (あわたのあそんまひと) 唐朝に国の産物を献上 朝臣真人=中国の戸部尚書 (トブショウショ) 進 徳 冠 (シントクカン) をかぶっていた 冠の頂は花形 四枚の花は びてなびらが 四方に垂れるつくり 身には紫色の上衣を着用 白絹の帯をしめていた 真人は 経書や史書を好んで読み 文章をつづることもでき ものごしは穏やかで 雅(みやび)ていた ↓↑ 則天武后は 麟 徳 殿・・・麟=鹿+粦(米舛) (リントクデン) に彼を招いて宴を催し 司膳 卿 (シゼンケイ)の官を授け 留めおくことなく 本国に帰還させた ↓↑ 粦(米舛)+α・・・隣舜遴粼斴鄰 ↓↑ 則天武后(623?~725年) 皇后時代 百済征討(660年) 白村江の戦い(663年) 唐・新羅連合軍で 倭国・旧百済連合軍を撃破 ↓↑ 玄宗 開元年間(713~741年) 玄宗は 四門 助 教 (シモンジョキョウ) の 趙 玄 黙 (チョウゲンモク) に命じ 鴻 臚寺 (コウロジ) に呼んで教えさせた 日本の使者は 玄黙に 広幅の布を贈って入門料とした 布には 「白亀(ハクキ)元年の調布」 と書きつけてあった 唐人は 日本で調として布を 納める制度があろうなどとは 嘘だと疑った 使者は もらった贈り物のすべてを投じ 書籍を購入し 海を渡って帰っていった ↓↑ その時の副使の 朝臣仲満(なかまろ)は 中国の国ぶりを慕って そのまま帰国せずに留まり 姓名を 朝衡(チョウコウ) と改め 唐朝に仕えて 佐補闕(サホケツ) 儀王璲(ギオウスイ)の 学友を暦任 衡は都に留まること五十年 書物を愛し 自由を与えて 故国に帰らせようとしても 留まって去ろうとしなかった・・・? ↓↑ 玄宗 天宝十二年(753年) 日本はまた使者を遣わし貢物を献上 ↓↑ 粛宗(シュクソウ) 上元年間(760~762年) 朝衡を抜擢 左散 騎常 侍 (ササンキジョウジ) 鎮 南 都護 (チンナントゴ) に任じた ↓↑ 徳宗(トクソウ) 貞元二十年(804年) 日本からの使者来朝 学生の 橘 逸 勢 (たちばなのはやなり) と学問僧の 空海 を中国に滞在させた ↓↑ 元和元年(806年) 日本国 使判官 高 階 真人 (たかしなのまひと) が日本国帰国願の奏上 帝は許可 ↓↑ 文宗 開成四年(839年) 日本は使者を遣わし 貢物を朝廷に献上 ↓↑ 701年 「大宝度の遣唐使」 が 中国皇帝に渡した文書とは相違 初めて 国名として 「日本」 と書いてあった ーーーーー 701年 文武天皇から 節刀を授けられた 粟田真人 を 執節使(大使より上位) として任じられるが 暴風雨で渡海できず 702年6月 に出立 高橋笠間 は別の任(大安寺造営)に充てられ 渡航せず 参議の 粟田真人を大使として出立 楚州に到着 唐は 武則天(則天武后)の 周王朝となっていたことを知らず 混乱 ↓↑ 対外的に 「日本」の国号を使用し 首都を藤原京と定め 大宝律令を制定 白村江の戦い以来の 正式な国交回復を目的 ↓↑ 大宝三年(703年) 長安に到着 武則天 に謁見 唐人からは 「好く経史を読み 属文を解し 容止温雅なり」 と評された・・・ 武則天からは 「司膳員外郎」・・・司は膳の員 に任ぜられた ↓↑ 粟田真人 慶雲元年(704年)7月 白村江の戦いで 捕虜になっていた者を連れて 五島列島 福江島 に漂着帰国 副使 巨勢邑治 は残留し 707年3月 帰国 大使 坂合部大分 も残留し 次の遣唐使の帰国船に同行 この遣唐使が 唐の実運用されている 律令制や都市作り実見 大宝律令の修正 貨幣鋳造(和同開珎) などの 「慶雲の改革」 平城京遷都の下敷きとなった 粟田真人 の乗船「佐伯」に対し 従五位下の位が授けられた ↓↑ 養老元年(717年) ↓↑ 養老二年(718年) 多治比縣守(押使) 大伴山守(大使) 藤原馬養(藤原宇合・副使) 残留 阿倍仲麻呂 吉備真備 玄昉 井真成 羽栗吉麻呂(阿部仲麻呂の従者) 総勢557人 ↓↑ 霊亀二年(716年)八月 縣守が 押使に任命 ↓↑ 翌霊亀三年(717年)三月 節刀を授けられ 出発 南路を選択 716年9月 阿倍安麻呂 に代えて 大伴山守 が 遣唐大使 ↓↑ 養老元年(717年)十月一日 長安着 残留留学生を除き 翌年 養老二年(718年)十月 使節は全員 大宰府に帰還 道慈 も帰国 十二月 県守 は朝廷に復命 翌 養老三年年正月十日 一同が 唐で与えられた朝服で 天皇に拝謁 藤原馬養 唐滞在中に 「宇合」・・・宇宙を合わせる? 宇=宀+于(二+亅・亏亐) 合=亼(𠆢一)+口 と漢字を改名 ↓↑ 天平五年(733年) 天平六年(734年) 多治比広成(大使) 中臣名代 (副使) 平群広成 (判官) 秦朝元 (判官) 田口養年富(判官) 紀馬主 (判官) 大伴古麻呂(留学生) 秦大麻呂 (請益) 栄叡 普照 ↓↑ 多治比広成 前回押使の弟 4隻の船で 難波津を4月に出帆 往路は4隻無時で 蘇州到着 734年4月 唐朝に拝謁 大伴古麻呂 は帰国にあたって 唐人 の陳延昌に託された 大乗仏典を日本にもたらした 帰路 734年10月 同時に出航 各船遭難 第1船の 多治比広成 は 11月 種子島 に帰着 吉備真備・玄昉帰国 羽栗吉麻呂・翼・翔親子も帰国 3月 節刀返上 第2船の 中臣名代 は唐に流し戻され 735年3月 長安に戻された 唐の援助で船を修復し 11月 唐人 ペルシャ人 らを連れて帰国 736年8月 都に帰還 第3船 平群広成は難破 崑崙国(チャンパ王国、南ベトナム) に漂着 襲撃を受けて 100余名が4人となり 抑留されるが脱出 唐に滞在していた 阿倍仲麻呂 により 唐から海路 渤海国に入り 天平十一年(739年)五月 渤海大使 胥要徳 と共に 渤海船2隻で日本海を渡るが 1隻が転覆 胥要徳ら40人が死亡 1隻は 平群広成 渤海副使の将軍 己珎蒙 と共に 7月 出羽国へ到着 10月27日 帰京 第4船は行方不明 ーーーーー 筑紫 鴻臚館 筑紫(福岡県西部) の外交施設 魏志倭人伝の 糸島半島の 伊都国・・・ 筑紫館 磐井の乱(527年~528年)後 宣化元年(536年) 那津のほとりに 「那津官家(なのつのみやけ)」 を設置 ↓↑ 推古十七年(609年) 筑 紫 大 宰 (つくしのおほみこともちのつかさ) 白村江の戦いの翌年(664年) 行政機能は内陸の 大宰府(太宰府市)に移転 那津のほとりに 大宰府の機関の分所として 海外交流 国防の拠点施設が残された ↓↑ 筑 紫 館 (つくしのむろつみ) 唐・新羅・渤海 の使節を迎える 迎賓館兼宿泊所として機能 海外使節は 鴻臚館に入館し 大宰府や都へ上ることとなっていた ↓↑ 持統二年(688年) 筑紫館で 新羅国使 全霜林を饗した ↓↑ 天平八年(736年) 新羅派遣の 遣新羅使が 筑紫館で詠んだ歌が 『万葉集』に収録・・・ 律令制で 治部省 玄蕃寮の管轄 筑紫館は 外国商人らの 検問・接待・交易などに用いられた ーーーーー 大宰 鴻臚館・・・ 鴻臚は入唐留学僧 円仁 『入唐求法巡礼行記』 承和四年(837年)の記述に初見 承和五年(838年) 第19回 遣唐使の副使 小野篁 が唐人 沈道古 大宰 鴻臚館にて詩を唱和 承和九年(842年) 太政官符にも鴻臚館の名が記載 嘉祥二年(849年) 唐商人53人の来訪 大宰府から朝廷へ報告 ↓↑ 天安二年(858年) 留学僧 円珍・・・円の珍(うず) が商人 李延孝・・・李(木之子)を 延す 孝(ツチノコ) の船で帰朝 鴻臚館 北館門楼で歓迎の宴 貞観三年(861年) 貞観七年(865年) 李延孝 が再び鴻臚館を訪問 寛平六年(894年) 菅原道真の 遣唐使が廃止されたのちに強まった・・・ ↓↑ 鴻臚館 での通商は官営 商船の到着が 大宰府に通達され 大宰府から朝廷へ急使 朝廷から 唐物使(からものつかい)の 役人が派遣され 経巻 仏像仏具 薬品 香料 などの中央貴族の要望商品を買い上げ 残った商品を地方豪族や有力寺社が購入 商人は到着から通商までの 3か月から半年間を 鴻臚館内で滞在 宿泊所や食事は 鴻臚館側が供出 延喜三年(903年) 太政官符には 朝廷による 買上前の貿易が厳禁されており 貿易が官営から私営に移行 延喜九年(909年) 唐物使に代わって 大宰府の役人に 交易の実務・・・ ↓↑ 貞観十一年(869年) 「新羅の入寇」後 警固所として 鴻臚 中島館を建設し 大宰府の兵や武具を移した 1019年 「刀伊の入寇」後 山を背にした地に防備を固めた ↓↑ 北宋・高麗・遼の商人とも交易 11世紀には 聖福寺・承天寺・筥崎宮・住吉神社 ら有力寺社や有力貴族による 私貿易が盛ん 博多から箱崎の海岸が貿易の中心 大宋国商客宿坊と名を変えた 鴻臚館での貿易は衰退 永承二年(1047年) 放火 寛治五年(1091年) 宋商人 李居簡 が鴻臚館で写経した記述を最後に 文献上から消えた ↓↑ 難波の鴻臚館は 難波津(渡辺津)にあった ↓↑ 古墳時代 難波津に外交施設として 難 波 館 (なにわのむろつみ) があり 継体六年(512年)十二月 百済 武寧王 の使者が調を貢献 任那四県の 割譲を求めて館に留まった・・・ ↓↑ 欽明二十二年(561年) 難 波 大 郡 (なにわのおおごおり) で 百済と新羅の使者を接待 推古十六年(608年)四月 隋 煬帝 の使者 裴世清が来訪 筑紫に滞在させ その間に 「高麗館(こまのむろつみ) の上に新館を造る」 ことで歓迎の準備 斉明六年(660年)五月八日 高句麗使 賀取文 が難波館に到着 ↓↑ 承和十一年(844年)十月戊子条 難波の鴻臚館が 摂津国国府の政庁に転用され廃止 ↓↑ 道慈律師 (ドウジリッシ) 大安寺 伽藍の造営を勾当した 大和国 添下郡 額田氏の出自 大宝二年 遣唐船で入唐 粟田真人 山上憶良 などが使節として同乗 南海路を取り 揚州から入唐 ↓↑ 長安の 西明寺に留まり 十六年間学ぶ 西明寺は迎賓館の性格名刹 道慈はその伽藍を模して 大安寺を造営 後に大安寺に住した 弘法大師空海は 「大安寺は是兜卒の構え 祇園精舎の業なり云々」 賞賛 ↓↑ 養老二年(718年) 帰国 在唐中、経典を渉覧し研鑚 三論に精通、工巧にすぐれた 金光明最勝王経 虚空蔵菩薩求聞持法 をもたらした・・・ 天平元年(729年) 律師 数年後 凶作 疫病 藤原四兄弟死亡 道慈は 大般若経を転読 大安寺における恒例の 大般若会が開始 「続日本紀」編纂に参加 天平十六年(744年) 竹渓山寺に隠棲 死亡 大安寺は インド僧 菩提僊那 ベトナム僧 仏哲 唐僧 道セン などが住し 仏教教学の中心となった・・・ ーーーーー ・・・???・・・「大安寺」・・・ 「太安」万侶の「字・事・時・爾・辞・地・児」? ーー↓↑ーー 廯=广+魚+羊 セン ↓↑ 㶍=氵+魚+羊 セン 水・川・小川・水路・細流 stream ↓↑ 䇁=宀+魚+羊 セン cave・hole 穴也 又水名 出趙國,襄國,東入湡 水厓爲䇁 ↓↑ 䇁=穴+鮮 宀+八+魚+羊 洞窟の光苔=光蘇? ↓↑ 癬=疒+魚+羊 セン たむし ひぜん・・・イッチング=itching・・・蚤の市? かゆみを伴う皮膚病の一種 乾癬=肌が少し盛り上り 赤い発疹上に 銀白色の垢が付いて ポロポロとはがれ落ちる病気 疥癬(カイセン・かいせん・scabies) 痒い(かゆい)・掻く(かく)・・・カクカクしかじか・・・ itchy・itching=イチイング ↓↑ 䉳=竹+魚+羊 セン ダマサイル=domicile=住居・本籍 竹名・今人 戸版籍也 ーーーーーー ・・・再思考・・・再モウソウ・・・
蘇我・・・蘇因・・・蘇鉄・・・蘇軾・・・蘇州夜曲
蘇定方・・・???・・・蘇我・・・??? 蘇 定 方 よみかえる・・・ジョウホウ・テイホウ ↓↑ ↓↑ 綴 方=『貞観政要』? 定法・常法・浄法・情報 乗法 (multiplication・掛け算) ? 乗法の結果の答えは 積(セキ・つむ・product) n × m = n times m=n multiplied by m multiply=mʌ'ltəplɑi =マァルタァプ ラァイ 真阿留多有譜 羅合意? =マ ルティプ ラィ 丸 太 浮(符・付・普=暜・譜) 等意? 円(圓)=まろ=磨呂・万侶・萬侶 太(ふとい・おほ・タイ) multi-ply(-plied, ~・ing) …を掛ける …を増やす・増大、増加させる …を多様、多面的、複合的にする
蘇鉄=ソテツ(蘇鉄、学名:Cycas revoluta) 裸子植物ソテツ科の常緑低木 ソテツ類の中で 日本で自生する唯一の種 自然分布では日本固有種 鉄蕉 鳳尾蕉 「蘇鉄」 枯れかかった時に 「鉄釘」を打ち込むと 蘇るという伝承に由来・・・? ・・・鉄=金+失(うす・うしなう・あくび・シツ) 失=𠂉(髪挿し・櫛)+一(イチ)+人 神指しの壱(壹・臺)のヒト 釘=金+丁 丁=一+亅 チョウ テイ トウ あたる ひのと 十干四番目 五行の火 方位は南 つよい・さかん 働き盛りの男性・壮年の男性 しもべ・下働き、雑用の男性 出遭う・遭遇する よほろ(よぼろ) 公用に徴発された男子 斧などで木を切る音 書物の枚数を数える語 町を細かく分けた区分 ~丁目 長さ・面積の単位 「町」 一丁=六十間・約109メートル サイコロの目の偶数 丁か半か? 丁抹(デンマーク) 豆腐・拳銃などを数える語 飲食物を数える語 一丁あがり
↓↑ 蘇定方(592年~667年) ↓↑ 蘇我 馬子 欽明天皇十三年 551年 ~ 推古天皇三十四年五月二十日 626年6月19日 蘇定方(645-592年=52歳) ↓↑↓ ↓↑ 645・・・「乙巳の変(645年)」 蘇我入鹿・・・・・大王(鹿)に入る? 推古天皇十九年 611年 ~ 皇極天皇四年六月十二日 645年7月10日 ↓↑ 蘇我蝦夷・・・蝦夷(えみし・えぞ・カイ) 用明天皇二年 586年 ~ 皇極天皇四年六月十三日 645年7月11日 蘇定方(592年~667年) ーー↓↑ーー↓↑ーー 貞観(貞觀) 日本元号の一 天安の後、元慶の前 859年~877年 天皇は清和天皇、陽成天皇 ↓↑ 貞観(貞觀) 唐代 太宗の治世の元号 627年~649年・・・・・蘇定方(592年~667年) 突厥との防衛戦に勝利 後世の治政の範とされ 『貞観政要(全十巻四十篇)』 ・・・「呉兢」が編纂 (太宗と名臣たちの論議の記録書 唐王朝 二代目の 太宗(李世民)の治世) ↓↑ 『貞観政要(全十巻四十篇)』 中宗の代に上呈したもの 玄宗の代にそれを改編したもの 2種類 第四巻の内容が異なる 伝本には 元の 戈直(カチョク) が 欧陽脩 司馬光 による評を付して整理し 明代に発刊された 「戈直本」 唐代に日本に伝わった 旧本の二系がある 朝鮮・女真・西夏 の周辺諸語に訳された ↓↑ 太宗 と 臣下 魏徴・房玄齢・杜如晦・王珪 ら重臣45名との政治問答 ↓↑ 編纂 呉兢 による 太宗の死後40~50年 武則天(周王朝) が退位し 中宗が復位 唐朝が再興した頃 貞観の政道の手本とし 『貞観政要』を編纂し 中宗に上進 後 玄宗の宰相 韓休(672年~739年) が後世の手本となるように 呉兢 に命じて改編上進させた 中宗に上進した 初進本は 中宗個人を対象とした 天子が心得るべき篇 輔弼篇 直言諫諍篇 があり 玄宗 への再進本は 後世の手本とするものなので 太子や諸王を 戒める篇に改められている ↓↑ 鎌倉時代 北条政子が 菅原為長 に命じて和訳 日蓮 もこれを書写した 江戸時代初期 徳川家康 が 藤原惺窩 を召して講義させ 足利学校の 閑室元佶 に命じて 活字版を発刊させて普及に努めた 明治天皇も 侍講の 元田永孚 の進講を受けた ーー↓↑ーー↓↑ーー 蘇定方(592年誕生~667年死没 七十五歳) 592年(壬子) 蘇我馬子が崇峻天皇を殺害 推古天皇即位 593年(癸丑) 聖徳太子が二十歳で摂政 難波に四天王寺建立 594年(甲寅) 仏法興隆の詔が出される 596年(丙辰) 法興寺(飛鳥寺)が完成 600年(庚申) 隋に使いを送る(第一回遣隋使) 601年(辛酉) 聖徳太子が斑鳩宮を作る 603年(癸亥) 秦河勝が蜂岡寺(広隆寺)を建立 604年(甲子) 十七条憲法、冠位十二階の制定 隋の煬帝即位 607年(丁卯) 小野妹子を隋に派遣し、国書を届ける 608年(戊辰) 隋が大軍をもって高句麗を攻める 「小野妹子=蘇因高」が 隋使 斐世清らを伴い帰国 妹子は8人の留学生を連れ再び隋へ 610年(庚午) マホメットがイスラム教 高句麗の僧 曇徴が来日 紙・墨・彩色などの製法を伝える 611年(辛未) 聖徳太子の『三経義疏』の 『勝鬘経義疏』ができる 613年(癸酉) 聖徳太子の『三経義疏』の 『維摩経義疏』ができる 614年(甲戌) 犬上御田鍬を遣隋使として派遣 615年(乙亥) 聖徳太子の『三経義疏』の 『法華経義疏』ができる 618年(戊寅) 隋が滅び唐が興る 620年(庚辰) 聖徳太子、蘇我馬子らによって 『天皇記』『国記』 などができる 622年(壬午) 迫害のマホメット メッカからメディナに逃れる 聖徳太子死没 624年(甲申) 唐が「租庸調」の税制を布く 626年(丙戌) 蘇我馬子没 蘇我蝦夷が跡を継いで大臣 629年(己丑) 玄奘三蔵が経典を求めてインドに向かう 舒明天皇即位 630年(庚子) 犬上御田鍬の第一回遣唐使派遣 642年(壬寅) 皇極天皇即位 643年(癸卯) 山背大兄王らが 蘇我入鹿に攻められ 斑鳩宮で自害 645年(乙巳) 大化一年 中大兄皇子、中臣鎌足ら 蘇我入鹿を大極殿で暗殺 蘇我蝦夷は自害(乙巳の変) 孝徳天皇即位 中大兄皇子が皇太子 初めて年号(大化)制定 646年(丙午) 大化二年 改新の詔を宣する 647年(丁未) 大化三年 冠位改正、七色十三階とする 651年(辛亥) イスラム帝国が ササン朝ペルシアを滅ぼす 652年(壬子) 白雉三年 班田の終り・戸籍を作成 難波長柄豊碕宮が完成 653年(癸丑) 孝徳天皇と中大兄皇子の対立 皇子は母妹を連れて大和に帰る 655年(乙卯) 斉明天皇即位 658年(戊午) 阿倍比羅夫が蝦夷討伐 有間皇子が謀反の疑いで殺害 661年(辛酉) ウマイヤ王朝が イスラム帝国確立 663年(癸亥) 上毛野稚子が 新羅に向い 「白村江の戦い」で 唐・新羅の連合軍に敗北 664年(甲子) 冠位二十六階制定 九州に防人を置き 水城を築き防御 667年(丁卯) 近江の大津京に遷都 蘇定方死亡(592年~667年) ーー↓↑ーー↓↑ーー 668年(戊辰) 中大兄皇子=天智天皇として即位 中臣鎌足が近江令を作る 670年(庚午) 全国的に戸籍を作る(庚午年籍) 法隆寺が炎上 671年(辛未) 近江令の施行 天皇が漏刻を元に 鐘楼を鳴らし時を知らせる 672年(壬申) 天智天皇没 大海人皇子が 大津京の大友皇子を滅ぼす (壬申の乱) 飛鳥浄御原宮に遷都 673年(癸酉) 大海人皇子=天武天皇として即位 676年(丙子) 新羅が朝鮮半島を統一 681年(辛巳) 浄御原律令の編纂開始 684年(甲申) 八色の姓、制定 686年(丙戌) 天武天皇没 大津皇子が 謀反の疑いで捕らえられ自害 687年(丁亥) ピピンがフランク王国の実権を握る 690年(庚寅) 持統天皇即位 飛鳥浄御原令が施行 高市皇子が太政大臣 戸令により庚寅年籍 694年(甲午) 藤原京に遷都 697年(丁酉) 東ローマ帝国がイスラム軍と戦う 持統天皇譲位し、文武天皇即位 700年(庚子) 刑部親王、藤原不比等らが律令を作る 701年(辛丑) 大宝1年大宝律令の撰定完成 702年(壬寅) 大宝二年 遣唐使、粟田真人、山上憶良らを派遣 707年(丁未) 慶雲四年 文武天皇没 元明天皇即位 708年(戊申) 和銅一年 武蔵国から銅を献上 和銅と改元 始めての貨幣「和同開珎」発行 ーー↓↑ーー↓↑ーー 蘇定方 唐の軍人・・・唐(トウ・当・問答)の意句差(いくさ)の比斗 名は烈・・・・烈=列+火 字は定方・・・蘇(読み替える)定方(定め方)? 諡は荘 本貫は 冀州・・・・・冀(北の異なる)州(國・国) 紀州・既習・奇習・季秋・貴秋 武邑県・・・・武の邑の県=「武遊・武勇」を懸ける ーーーーー 「太秦わたりに 大輔が侍りけるに つかはしける」 「限りなく 思ひ入り日のともにのみ 西の山べを ながめやる哉」 ↓↑ 売買=賣買⇔讀=言+賣・續=糸+賣 賣=士+四+貝 坴の上部⇒士+囧(窓)⇒四⇒續 売=バイ・ショク・トク・イク ↓↑ 小野道風(894~966年) 木工頭(きくのかみ)に任ぜられ 弟 小野頼風は武士となった ↓↑ 小野道風(894~966) 遣隋使の小野妹子を祖 藤原純友の乱を鎮圧した 小野好古の弟 小野小町の従姉妹 ↓↑ 尾張藩の国学者 天野信景(1663~1733)は 『塩尻』に 「春日井郡松河戸の村民伝云 松河の里は道風の生れし地なりと云云」 と記録 松平君山が 「張州府志」に 誕生地と伝え 尾張藩諸学者の通説・・・ 誕生地と伝えられる 松河戸町に 尾張藩の儒学者である 秦鼎(はたかなえ) (1761~1831)撰文の 「小野朝臣(道風)遺跡之碑」 が 文化十二年(1815)に建てられ 「松河戸の村民はみな道風がここで生まれた」 ということ伝をえている・・・ (観音寺所蔵) 伝承で 「父の小野葛絃(くずお)が 何らかの理由で 松河戸に滞在していたとき 里人の娘との間に生まれたのが道風で 幼少時代を松河戸で過ごし 十歳ころ 父とともに京に上り、書で身を立てた」 ・・・ 小野氏 遣新羅使に任命された者 大宰府の官人となった者 外交に携わったと目される人物 文化の面でも人物を輩出 奈良時代 大宰大弐に任ぜられた 小野老(おののおゆ) の詠んだ万葉歌 「青丹(あおに)よし 寧楽(なら)の 京師(みやこ)は 咲く花の 薫(にお)ふが如く 今盛りなり (『万葉集』3―328)」 ↓↑ 小野篁(たかむら) 勅撰漢詩集 『経国集』 などに多くの漢詩を残し 孫の 小野道風(とうふう)は 藤原行成 藤原佐理(すけまさ) と共に「三蹟」と称され 和様の能書家 指定されている ↓↑ 小野妹子が2度目に隋に渡った6年後 614年 犬上御田鍬(いぬかみのみたすき) が最後となる遣隋使に任命され 隋から唐に替わった後 最初の遣唐使に任命され 630年 唐に渡ったのも 犬上御田鍬 斉明天皇元年(655) 「犬上白麻呂」 が 遣「高句麗使」に任ぜられ 近江国犬上郡(滋賀県犬上郡、彦根市) を本拠とした 同郡豊郷(とよさと)町に 犬上神社があり 犬上氏の祖とされる 稲依別(いなよりわけ)王 (日本武尊の子)を祭っている 犬上氏は百済からの渡来人・・・ 隣接する愛知(えち)郡に 依智秦氏(えちのはたうじ) 渡来系氏族が居住し、湖東の地域を開発 ↓↑ 第十一首 参議篁(小野篁) 「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣り舟」 ↓↑ 太秦(うずまさ) 雄略天皇の御世 渡来系の豪族 秦氏(秦酒公)が 絹を 「うず高く積んだ」ことから 「禹豆満佐=うずまさ」の号を与えられ 「太秦」の漢字表記を当てた・・・? 秦氏は機織りの技術者集団 絹布を租税としていた この地には絹布が 「うず高く」積み上げられ 朝廷から 「兎豆満佐(うずまさ)」の姓を与えられた 「うずまさ」に 「太秦」の文字に当てた・・・? ↓↑ 奈良時代 716年 旧高句麗(高麗)の 遺民1,799人が 武蔵国に移住し 高麗郡が設置 日高市 と 飯能市 の一帯が 高麗郡 ↓↑ 冀州(キシュウ) 中国の行政区分の一 山西、遼寧、河北、北京、天津 フフホト(呼和浩特) ウランチャブ(烏蘭察布) 等七つの省市に分属 ↓↑ 隋朝 開皇初年に 設置された 長楽県を前身 隋の時代は 西部が 沢城県と呼ばれていた 606年(大業二年) 信都県が廃止 ↓↑ 紀元前106年(元封五年) 漢の武帝が 全国十三州に分割し 各州に 刺史を置いた 河北省を中心とする地域を 冀州刺史部とし 魏・鉅鹿・常山・清河・趙 広平・真定・中山・信都 の九郡国を属させた ↓↑ 前漢滅亡後 軍閥の 王郎が 邯鄲に拠って冀州を支配 光武帝の侵攻により敗死 後漢に入って 高邑を州治とした ↓↑ 北魏 皇始二年 定州 太和十一年 瀛州 熙平二年 滄州 に分割 劉宋の代に 山東省の領域内に 僑州として 「冀州」 あるいは 「南冀州」 の省置が繰り返された ↓↑ 隋代 当初は二郡を管轄 607年(大業三年) 郡制施行に伴い 冀州は信都郡と改称 下部に12県を管轄 ↓↑ 唐朝 信都郡は冀州と改称 河北道の管轄 662年(龍朔二年) 冀州は魏州と改称 同時に魏州が冀州と改称 672年(咸亨三年) 冀州と改称 742年(天宝元年) 郡制施行で 信都郡とされ 758年(乾元元年) 再び 冀州と改称・・・??? ーー↓↑ーー 蘇邕の子 隋末 蘇邕は郷里の数千人を率いて 叛乱の討伐 定方は15歳で父の下で従軍 蘇邕の死後 部衆を引き継ぎ 劇県の叛乱軍の 張金称・・・金を張(葉瑠)る称 楊公卿・・・楊(やなぎ・栁・柳)の公卿⇔小野道風 ヤナギにカエル・・・八名義を変える? 「太秦(うずまさ)わたりに 大輔が侍りけるに つかはしける」 「限りなく 思ひ入り 日のともにのみ 西の山べを ながめやる哉」 らを撃破 後に 竇建徳・・・竇=穴+賣・・・穴の売(賣) 売買=有償契約・双務契約の典型 穴+士+買 宀+八+賣 穴+士+罒+貝 宀+八+士+買 宀+八+士+罒+貝 宀+八+十+一+罒+目+ハ トウ トク ドク ズ あな あなぐら みぞ 物をたくわえておく穴 くぐり戸 みぞ・水道・水路 建=廴+聿(イツ・イチ 筆・書く とうとう・ついに 自分から・自ら 修める・述べる すばやい・すばやく走る 共に・従う) 廴+肀+二 廴+肀+一+一 廴=引き伸ばす・延長 ケン コン たつ たてる くつがえす・・・・?・・・覆す たてる・定める おこす はじめる 建物をたてる・建物がたつ 申し立てる・意見を出す 北斗七星の柄が指すある方向 十二支のいずれかの方向 陰暦・月建(朔) 一月は「建寅(寅の方向)」 二月は「建卯(卯の方向)」 など くつがえす・・・覆す こぼす・・・・・溢す・零す 徳=德=悳・・・得 の麾下 竇建徳の部将の 高雅賢の養子となった 高雅賢 劉黒闥 が死ぬと 定方は郷里に帰った。 ↓↑ 貞観初年 匡道府 折衝 李靖 の下で二百騎を率いて 突厥を攻撃の先鋒 霧の中で 牙帳を襲撃 突厥の 頡利可汗 は逃亡 李靖が到着すると 突厥の一党はことごとく降伏 凱旋すると 定方は 左武候中郎将 永徽年間 左衛勲一府中郎将 程名振・・・・・・程の名の振? とともに 高句麗出兵し破った 右屯衛将軍 臨清県公 に封ぜられた ↓↑ 656年 程知節・・・・・・程の知の節? に従って 前軍総管をつとめ 阿史那・・・・・・ 賀魯・・・・・・・ を攻撃 鷹娑川にいたった 阿史那賀魯 が2万騎を率いて対陣 定方は 総管の 蘇海政・・・・・・ とともに連戦 突厥の別部の 鼠尼施・・・・・・ らが2万騎を率いて敵方に来援 定方は騎兵の精鋭500を率い 山嶺を越えて敵陣に討ち入って破り 1500人あまりを殺害 多くの武具や牛馬を鹵獲 唐の軍中では 副大総管の 王文度 が味方の疲労と士気の低下を見て 深入りを諫め 定方は追撃を主張 程知節が 怛篤城にいたり 胡人を降伏させると 王文度は 降胡を殺して財貨を奪うことを主張 定方はこれに反対 王文度は奪った財貨を分配したが 定方はひとつも取ることがなかった 高宗がこのことを知ると 程知節 らが帰還した後 王文度 を庶民に落とした。 ↓↑ 657年 定方は 伊麗道 行軍 大総管 再び 阿史那 賀魯 を攻撃 任雅相 と 回紇の 婆閏 が副大総管をつとめた 定方は アルタイ山の北に出て 処木昆部を撃破 俟斤の 嬾独禄を降した 定方は 麾下の1000騎と 回紇の1万人を率いて 曳咥河に進軍 阿史那賀魯と会戦 定方の兵が少ないのをみて 左右両翼を伸ばして包囲 定方は歩兵に高所に拠らせ 自らは精鋭の騎兵を率いて 北原に陣した 阿史那賀魯の軍は 三たび唐の歩兵の陣を 突き崩そうとしたが崩すことができず 定方は 騎兵で三十里をめぐって戦うと 阿史那賀魯の軍は崩れて潰走 唐軍が追撃 数万の人馬を殺した 翌日、定方が兵を進軍させると 五弩失畢が部族こぞって唐に降伏 阿史那賀魯 と 処木昆の 屈律啜の数百騎は西方に逃走 定方は副将の 蕭嗣業 と 回紇の 婆閏に 邪羅斯川 に向かわせて追撃 定方 と 任雅相 は新たに帰順した兵をまとめて、後詰め 大雪で 軍吏に進軍の中止を求められたが 定方は兵を 雙河まで進め 阿史那弥射 や 阿史那歩真 の軍と合流し 阿史那賀魯の陣に迫った 阿史那賀魯は狩猟の最中で 定方はこれを襲撃して破った 阿史那賀魯 は 石国・・・・? に逃れたが 阿史那弥射の子の 阿史那元爽が 蕭嗣業と合流し 阿史那賀魯を捕縛 定方は 左驍衛大将軍に任ぜられ 邢国公に封ぜられた 子の 蘇慶節も 武邑県公に封ぜられた ↓↑ 659年 思結闕俟斤都曼が 諸部を扇動し 疏勒・朱倶波・渇槃陀 の三カ国が唐に叛くと 定方は 安撫大使となって討伐 葉葉水 にいたり 都曼が 馬頭川 を守ると 定方は歩兵の精鋭1万と騎兵3000を選抜し 昼夜分かたず三百里を駆け抜け 都曼の陣の前に現れ 都曼は驚いて城に逃げ込んだ 唐軍がこれを攻め 都曼は自らを縛って降伏 パミール高原より 西の地方も唐の勢力圏に入った 定方が捕虜を 乾陽殿に献上 邢州鉅鹿の 三百戸の食邑を加えられ 左武衛大将軍 ↓↑ 660年 熊津道大総管 百済の征討 城山から海をわたって 熊津口に上陸 百済軍を撃破して 真都城に進軍 百済に勝利 百済王 義慈や 太子の 隆は北方に逃走 定方が 泗沘城を包囲すると 義慈の子の 泰が自立して王を称した 泰は抗戦を続けようとしたが 義慈は開門し降伏 百済の将軍の 禰植 と 義慈 は唐軍に降り、泰も捕らえられ 百済王 義慈や 隆・泰 らは東都洛陽に送られた ↓↑ 定方は 三カ国を滅ぼし 子の 蘇慶節 は尚輦奉御の位を加えられた ↓↑ 663 年 3月 阿倍比羅夫ら、新羅征討のため出発 6月 百済の余豊璋 謀反心の 鬼室福信を斬り 首級を塩漬けにする 10月5日(天智天皇二年八月二十八日) 白村江の戦い (唐・新羅連合軍 対 百済・日本連合軍) 10月13日(天智天皇二年九月七日) 百済が降伏 百済人民が日本へ逃亡 唐が 単于都護府を 雲中に設置 ↓↑ 663 年10月 天智2年8月 白村江の戦い (はくそんこうのたたかい、はくすきのえのたたかい) 天智2年8月(663 年10月) 朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近) 日本・百済遺民の連合軍と 唐・新羅連合軍との戦争 ↓↑ 定方は 遼東道行軍大総管となり 平壌道行軍大総管に転じた 高句麗の軍を 浿江で破り 馬邑山の敵営を落とし 平壌を包囲 大雪で包囲を解いて帰還 涼州安集大使に任ぜられ 吐蕃 吐谷渾 と戦った ↓↑ 667年 76歳で死去 高宗は 左驍衛大将軍 幽州都督 の位を追贈 ↓↑ 伝記資料 『旧唐書』巻八十三 列伝第三十三 「蘇定方伝」 『新唐書』巻百十一 列伝第三十六 「蘇定方伝」 ・・・原文は「ウィキペディア(Wikipedia)」・・・ ↓↑ 蘇(ソ)=チーズ 流蘇(ふさ)・鳥の尾や糸でつくった垂れ飾り 屠蘇(トソ) 蘇士(スエズ) 蘇芳・蘇方・蘇枋(スオウ) 蘇民書札(そみかくだ) 蘇葉(ソヨウ) 蘇婆訶(ソワカ) ↓↑ 甘栗=天津栗=板栗 平安時代、大臣に新任の大饗(たいきよう)などのさい 朝廷から蘇(そ)と甘栗を賜るならわしがあった それを届ける勅使を 蘇甘栗使(そあまぐりのつかい)と呼んだ この甘栗は干栗(ほしぐり)・・・ 「延喜式」に搗栗(かちぐり)・平栗(ひらぐり) と記録・・・ ↓↑ 蘇=ソ(漢)・ ス(呉) よみがえる・ 生きかえる・よみがえる 「蘇生」 草の名 紫蘇 (しそ) 蘇 (コケ・苔) 蘇芳(すおう) 蘇格蘭(スコットランド) 蘇維埃(ソビエト) 耶蘇(ヤソ) ↓↑ ↓↑ 蘇軾 景祐3年12月19日 (1037年1月8日) ~ 建中靖国元年7月28日 (1101年8月24日) 北宋の政治家・文豪・書家・画家・音楽家 ↓↑ 東坡居士 蘇東坡(ソトウバ) 字は子瞻(シセン) 坡公・坡仙 諡は蘇文忠 蘇洵の長子 弟は蘇轍 ↓↑ 「古文」の唐宋八大家 蘇文忠 蘇洵 蘇轍 韓愈・柳宗元・欧陽脩・曽鞏・王安石 ↓↑ 子に 蘇邁、蘇迨、蘇過、蘇遯 曾孫は 蘇公弼(威州刺史) 玄孫娘は 耶律楚材の夫人 (蘇公弼の娘、耶律鋳の生母) ↓↑ 眉州眉山(四川省眉山市東坡区)の出身 嘉祐二年(1057年)22歳 弟・蘇轍とともに 進士となる 科挙試験委員長は 欧陽脩 蘇軾、蘇轍、曽鞏の3名のみ合格 ↓↑ 神宗時代 唐末五代の混乱後の国政の改革 王安石 改革「新法」の施策 具体的に ↓↑ 『周礼』の 「一国万民の政治理念」・・・日本人的発想? 「万民を斉しく 天子の公民とする」 ↓↑ 斉民思想に基づき・・・「日本人的発想」? 均輸法・市易法・募役法・農田水利法 など 経済政策 科挙改革 学校制度整備 などが行われた ↓↑ 蘇軾は 欧陽脩・司馬光 らとともにこれに反対し 二度、流罪、追放・・・左遷 元豊二年(1079年) 蘇軾44歳 湖州の知事 国政誹謗罪で逮捕、尋問調書 御史台の取り調べの際に 蘇軾が残した供述書は 「烏台詩案」 と呼ばれた 神宗の取り計らいで 黄州(湖北省黄州区)へ左遷 左遷先の土地を 東坡と名づけ 東坡居士と名乗った 黄州生活は5年 黄州時代の傑作が 『赤壁賦』 赤壁=三国時代の古戦場 西暦208年 呉と蜀の連合軍が 魏の水軍を破った場所 黄州~長江を遡った 南岸の嘉魚県の西にあった 元豊八年(1085年) 神宗死去 哲宗が即位 幼い哲宗に代わって 宣仁太后の 垂簾朝政が八年間続き 彼女の後押しで 旧法党の官僚は要職に就き 元豊九年(1086年) 司馬光が宰相 蘇軾も名誉を回復され 五十歳で中央官界に復帰し 翰林学士を経て 礼部尚書に昇進 ↓↑ 司馬光=新法を全て廃止方針に対し 新法でも募役法のように 理に適った法律は存続 旧法派の内部の分裂・・・ ↓↑ 司馬光の死後 蜀党=蘇軾、蘇轍兄弟 と 洛党=程頤、程顥兄弟 が党争 ↓↑ 紹聖元年(1094年) 再び新法派が力を持つと 蘇軾は再び左遷(59歳) 恵州(広東省)に流刑 62歳 海南島に追放 66歳 哲宗が死去し 徽宗が即位 新旧両党の融和で 許され 都に向かう途中病を得 常州(江蘇省)で死去 ↓↑ 蘇軾は北宋最高の詩人 『蘇東坡全集』に纏められている ↓↑ 題西林壁 (西林壁に題す) 横看成嶺側成峰 (横より見れば嶺を成し、傍らよりは峰となる) 遠近高低各不同 (遠近・高低いつも同じきは無し) 不識廬山真面目 (廬山の真面目を知らざるは) 只縁身在此山中 (ただ身のこの山中にあるによる) ↓↑ 王安石とは政治的に対立していたが 詩文を通じた交流 要職を退いた後 王安石は 蘇軾に対して七言絶句を送った ↓↑ 北山 北山輸緑漲横陂 (北山緑を輸横陂漲る) 直塹回塘艶艶時 (直塹、回塘、艶艶たる時) 細數落花因坐久 (細かに落花を數ふるは 坐すること久しきに因る) 緩尋芳草得歸遲 (緩やかに芳草を尋ねて 歸ること遅きを得たり) ↓↑ 蘇軾はこれに対して 次荊公韻 (荊公の韻に次す) 騎驢渺渺入荒陂 (驢に騎って渺渺として荒陂に入る) 想見先生未病時 (想見す先生の未だ病まざりし時を) 勧我試求三畝宅 (我に勧めて試みに三畝の宅を求めしむ) 従公已覚十年遅 (公に従うこと已に十年遅きを覚ゆ) と、答えた 「荊公」=「王安石」のこと ↓↑ 書家として 米芾・黄庭堅・蔡襄 とともに 宋の四大家 蘇軾は 二王(王羲之と王献之)を学び 後に 顔真卿・楊凝式・李邕を学んだ 「赤壁賦」 『黄州寒食詩巻』=『寒食帖』 ↓↑ 蘇軾=祖父 蘇序=父親 蘇洵、唐宋八大家の一人 母親=程夫人 眉山の富豪、程文応の娘 程濬の妹 妻妾=王弗、16歳の時に19歳の蘇軾と結婚 結婚後11年で死別 王閏之、王弗の妹 王弗が逝去三年後、蘇軾に嫁いだ 王朝雲、蘇軾の妾 紹聖三年、享年34で逝 ーーーーー ・・・???・・・今フユーズ・・・ 窮猿投林・・・蒼穹(ソウキュウ)=青空・大空・蒼天・碧空 2017-11-10 02:02:09
・・・移民、植民地=コロニー(colony)・・・「群体=分業協働体・分業共棲体」?・・・村落共同体、協同体・・・「村=むら=邑=群・叢・邨」ではない・・・「落ちたモノがある場所に集まり、落ち着く場所に落ち着いて、何かの形が出来上がって、きまりがつく」?・・・「分業=家族・私有財産・国家の起源」?・・・「分業が進んで、私的所有が共同所有に優り、財産相続も私的所有の分轄継承になる」・・・?・・・「原始共産制(primitive communism)=私有制が普及する以前の人類の社会体制であり、共産制の1形態とされる」?・・・いい加減なコトを云う奴が多いのが・・・この世の中の認識機能のサダメ・・・ 「原始共産制社会」? 全ての人間は 食料の 獲得に従事し・・・「全ての人間」じゃぁないだろう・・・ 狩猟や収集により 産み出されたものを・・・狩猟や収集で得たモノを材料に 加工されたモノを?・・・だろう 狩猟や収集で得たモノが「食糧」なら 人間によって 「産み出されたもの=生産されたもの」 ではなく 「採取されたモノ」だろう・・・ 全員が共有する・・・・・「全員の共有」かどうかは「?」である 「分配の大小を決定する」 のはダレか? 原始的な社会では 産み出されたものは・・・「採取された食べモノは」 即座に 消費されるため、・・・「即座に消費」されるかどうかは「?」で 「消費される食糧」以外の 「生活の諸道具」は 予備とされるカモ、であるから 余剰は 産み出されず、・・・産み出されて「余剰となる」だろう 衣服などの 個人的な物品・・・「個人的な物品」は「私有財産」だろう を除けば 私有財産は ほとんど・・・・・「ほとんど」とは「少し」ではあるが 存在しなかった・・「存在した」のだ・・・ であろう 長い時間 存在したものは・・・「存在したもの」=「私有されたモノ」 道具や家など わずかであり それらは 共同で保持された・・・共同か私有かは「?」である そして 「国家は存在しなかった」 であろう・・・当たり前だ・・・ 「国家の条件」を明らかにしないで「国家云々」は無理である 「人間社会協同体の出発点」は 「男と女」の「生殖(分業)関係」としての「家族」であるが 必ずしも「男女の合意」から始まるとは限らない 子供が生まれての「親子関係としての家族」は 「序列関係」で「両親」が その子供の「養育」で 命令権を有するのは当然である 条件的に 「鄙びた村=むら=邑・群」には 「家族」の構成機能、個々の家族集合としての「村落」の構成機能として「分業」は当然で、「国家機能的」なモノはあった・・・ そして「外敵」が存在する限り、防衛武力としては「七人の侍」を「一日の飯」を提供して雇うか、自前で武装と、武装教育をする必要がある・・・「外敵の存在」がある限り・・・ 「共同体」としてだけではなく、「共同体内」の個々人としても自分自身を害するモノが存在する・・・「自然の生物界」では「生殖の優先順位」を巡っての同性、異性の争いで自己の存在を賭けて肉体的実体を害し合うのは「宿命」である・・・「人間社会」も基本的には同じである・・・個々人の配偶者の選択は「分業-協同体の意志」でもあり、生存圏の縄張りの拡大でもある・・・ 「協同体」を防衛する為に何が必要なのかは「人類の歴史」というよりは「生物の生態系の歴史」をみれば明らかだろう・・・ 「マングースの縄張り争い」の原因はナニか? 「蜜蜂」や「蟻」の生態に 「人間の社会形態」を重ねるコトが出来るのか?・・・ 「人類の社会体制(形態)」として、 そんな「モノ(原始共産制)」としては 「自然弁証法・唯物史観」、 その認識としての 「生物の生態論」、 「現実論」として 重ねるコトは出来ないのはアタリマエである・・・ スベテのモノの諸関係性に於ける「相互変化・動的変化」が自然界の根本原理である・・・アルベキモノとして、固定的、静的存在としは存在しえない・・・ そして、静的な「自由・平等・友愛」はありえない・・・ 「自由、平等、友愛(Liberté=リベルテ・Égalité=エガリテ・Fraternité=フラテルニテ)は、 フランス共和国の標語」 現実存在は 動的な「自由⇔不自由・平等⇔不平等・友愛⇔非友愛」・・・ 「誤解」が「後甲斐、誤甲斐」であるように「ゴカイ」であるようだ・・・ 「ゴカイ(沙蚕・Ragworm・lobworma worm・called lobworm)=環形動物門-多毛綱に属する動物の一種・体は紐状で、体長5~12センチ・70~130個の各環節の両側に剛毛の生えた疣(いぼ)足がある・河口や内湾の泥底にすみ、釣りの餌にする・ゴカイ科にはイトメ・ジャムシなども含まれる」・・・「沙蚕=ササン・シャサン」・・・「沙=水+少」、「蚕=天中ム」・・・・ 「近縁な複数の種の複合体であることが判明、 ヤマトカワゴカイ(Hediste diadroma)=大和(倭)川沙蚕 ヒメヤマトカワゴカイ(H. atoka)=媛大和(倭)川沙蚕 アリアケカワゴカイ(H.japonica)=有明川沙蚕 の3種に分割」・・・ 「多毛類(タモウルイ)=環形(カンケイ)動物門多毛綱(学名: Polychaeta)に属する動物の総称・ゴカイ、荊鈿(簪・釵・笄)=イバラカンザシなどが含まれる非常に多様性の高い分類群である。一般にはゴカイ類と呼ばれる」・・・ ↓↑ 「一件落着」の「落」、「落石」、「剥落・剝落・落丁・落潮」、「墜落・落馬・落語・落後・落伍」、「落城」、「洛陽・落陽=ラクヨウ=落葉」・・・ 「溝落(みぞおち)・水下・鳩尾」、「みぞおち=心窩」、「窩=穴=室・窩=カ(クヮ)・ワ・あな・あなぐら・腋窩(エキカ・エキワ)・眼窩(ガンカ・ガンワ)・蜂窩(ホウカ)」・・・「窩主(ケイズ)買い=盗品と知りながら売買すること・また、その商人・故買(コバイ)・系図買い」・・・ 「水落(みずおち)=飲んだ水が落ちる所・噴門(フンモン→胃体)」・・・「溝落(みぞおち・gutter)」・・・「屋根の樋、車道と歩道との境の溝(みぞ)、排水溝、側溝、どぶ、 ガター、どん底の生活、貧民街」・・・ 「落合=水が集合して流れ、瀧壺に落下」・・・ 「人々がある場所に集まって、そこである形のもの=ムラやサト=ができたもの」、それが「聚落(集落)」や「村落」・・・? ・・・多分、漢字を分解し、その個々の意味を読みとって、文章化したモノ、そのものだろう・・・流木が流れつく下流の低地・・・ 「村落=村(木を寸る・十の八を寸る)+落(艹氵各・艹氵夂口)→日下の山水が各々に集合」、「聚落=聚(耳又乑)+落(艹氵各・艹氵夂口)」・・・「乑=ならびたつ・ギン・ゴン・シュウ」・・・ ーーーーー 洛=身も心もやすらかなこと・安楽 ↓↑ゆっくりくつろぐこと・身も心もゆったいること ラク・中国の川の名・洛水 洛河(洛水・雒水) 洛水の北岸にある都市の名 洛陽・都・京都 洛中・洛北・花洛・帰洛・京洛・上洛・入洛 洛水 中国、陝西省南部にある 華山に源を発し 河南省に入って北東に流れ 洛陽の南を通り黄河に注ぐ川 中国、陝西省北西部にある 白于 (ハクウ) 山地に源を発し 南東に流れ ↓↑渭水 (イスイ)に合流して黄河に注ぐ川 「洛=京・都」 「洛中、洛外」はそれぞれ「都の中、都の外」 「洛南=都の南」 「上洛(ジョウラク)」=京都に入ること 「洛中・洛北・花洛・帰洛・京洛・上洛・入洛」 ・・・権力者の野(里予)望(亡月王)・・・ 信長(大うつけ)・秀吉(猿・針鼠)・家康(貍)・・・ ↓↑ 生誕 天文3年5月12日(1534年6月23日u) 西暦1534年7月3日g 甲午(丙・ ・丁)年 庚午(丙・ ・丁)月 戊寅(己・丙・甲)日 仏滅・火曜日 ↓↑ 天文3年5月28日(1534年7月9日u) 西暦1534年7月19日g 甲午(丙・ ・丁)年 辛未(丁・乙・己)月 甲午(丙・ ・丁)日 友引・木曜日 ↓↑ 死没 天正10年6月2日(1582年6月21日u) 西暦1582年7月1日g 壬午(丙・ ・丁)年 丙午(丙・ ・丁)月 戊子(壬・ ・癸)日 先勝・木曜日 大陸侵攻計画 「信長は日本を統一した後、 対外出兵を行う構想があり、 「日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、 一大艦隊を編成して明(中国)を武力で征服し、 諸国を自らの子息たちに分ち与える考え」 を持っていた・・・(『フロイス日本史』第55章)
「秀吉所用と伝える金彩の豪華な扇 おもては日本と明・朝鮮を描いた地図 裏面には 「なちうらい(拿酒来)さけもってこい」 といった日常的な口語体の短文が 中国語と日本語の 対訳形式で書かれている 「文禄の役の講和交渉」に際 明国使節との会見にそなえて 秀吉が作らせたもの」・・・らしい ーー↓↑ーー 「高椋の玄理(北方の理)」・・・「原理(源里・元の理)」・・・「高木之神=高御産巣日神(タカミムスビ)」、「別天津神の一柱」、「高御産巣日神(たかみむすびの かみ)・古事記」、「高皇産霊尊(日本書紀)」、「葦原中津国平定・天孫降臨の際に高木神(たかぎのかみ)」・・・「高御産巣日神・高皇産霊神」・・・「高御産日神・高御魂神・高皇産霊尊・高御魂命・高魂命・高木神(たかぎのかみ)」・・・「北-Korea」・・・? ーー↓↑ーー ・・・神が「(藭」に文字化けするとは不届き千万!! 「故爾、天照大御神(藭=文字化けの漢字)・高御產巢日神(藭=文字化けの漢字)、亦問諸神(藭=文字化けの漢字)等 「天若日子、久不復奏。 又遣曷神(藭=文字化けの漢字) 以問 天若日子之淹留所由」 於是、諸神(藭=文字化けの漢字)及思金神(藭=文字化けの漢字)、答白 「可遣 雉名(キジのナ・記字名) 鳴女(及所)」時、 詔之 「汝、行問(行を問え) 天若日子狀者、汝所以使 葦原中國者、 言趣和 其國之荒振神(藭=文字化けの漢字)等 之者也、 何至于八年不復奏」 故爾 鳴女、自天降到、居 天若日子 之 門湯津楓上而、 言 委曲如 天藭之詔命。爾 天佐具賣此(三字以音) 聞 此鳥言而、語 天若日子言 「此鳥者、其鳴音甚惡。故、可射殺」云進、 卽 天若日子、持 天神(藭=文字化けの漢字)所賜 天之波士弓・天之加久矢、 射殺 其雉。爾 其矢、自 雉胸通而、逆射上、 逮坐 天安河之河原、 天照大御神(藭=文字化けの漢字) 高木神(藭=文字化けの漢字)之御所。 是 高木神(藭=文字化けの漢字)者、 高御產巢日藭 之別名。 故、高木神(藭=文字化けの漢字)、 取 其矢見者、血著 其矢羽。 於是、高木神(藭=文字化けの漢字) 告之 「此矢者、所賜 天若日子之矢」 卽示諸神(藭=文字化けの漢字)等、 詔者 「或 天若日子、不誤命、 爲 射 惡神(藭=文字化けの漢字)之矢之至者、 不中 天若日子。或有 邪心者、天若日子、 於此矢 麻賀禮(此三字以音)」云而、 取 其矢、自其矢 穴衝 返下者、 中 天若日子 寢朝床之高 胸坂以死。 此還矢之本也。 亦 其 雉 不還、故於 今諺曰 「雉之頓使(記事の頓使)」是也」 ・・・「キジのトンシ」、これナリ・・・ 「藭=艹+穴(宀八)+躬(身弓) =「芎藭(キュウキュウ)」はセリ(芹)科の多年草 ハマゼリ(浜芹)属・花は白色 ↓↑ 五臭=五香(草木)の一 薜茘 (ヘイレイ)・イタビカズラ(葛) イタビ=崖石榴・犬枇杷の別称 以多比・無花果(イチジク) クワ科の常緑低木 薜=コケ(苔・蘚)、蘇苔類 地依類・菌類などの総称 白芷 (ビャクシ)・鎧草(よろいぐさ)の漢名 花独活(はなうど)の漢名 椒 (ショウ)・・・胡椒・山椒 蓮 (レン)・・・・蓮華 ↓↑ 蘼蕪 (ビブ)・・・・薔蘼 ・・・蘼=艹+靡(なびく・ビ)邪馬台国 蕪=艹+無(ない・ム)莫・无 無効=ムコウ=向日 日向→向 高向→たかむく・コウコウ =藭=芎藭は四川省産のものが良品 別名は川芎 =血を補い、血液の循環をよくする生薬 婦人の月経不順にも使用 冠状動脈硬化性の 心臓病による狭心症にも応用 「藭・芎」の字は葉柄が弓状に曲がった様を表す 「神農本草経には 芎藭(根茎)と蘼蕪(ビブ・苗・蘪蕪)が収載」 ↓↑↓↑ 蒼穹(ソウキュウ)=青空・大空・蒼天・碧空 穹=あな・おおきい・おおぞら・キュウ =穴居住・洞窟住 ・・・「藭=艹(くさ)の穴(あな・宀八)の身の弓」・・・「句差の蛙(かえる)名の化(加)等拿の由観(喩実)」?・・・ =窮 きわめる・きわまる・つきつめる・キュウ 「窮極・窮理」・究・行きづまる・身動きできない 苦しむ・「窮地・困窮」・「貧窮・無窮」・・・ 「窮猿投林(キュウエントウリン)=困っているときには、選択の余地はない、貧窮しているときには俸禄や官職などをえり好みしている余裕はないたとえ・窮猿=追いつめられた猿、投林=林に飛び込む」・・・ ・・・「窮猿=求猿・旧縁・救援・・・追いつめられた猿、「投林=トウリン=東海」の「林=はやし=隼士(隼志)・悋(リン)=物惜しみ・悋嗇・やきもちを焼く」・・・猿田彦の死亡・・・「白村江の海戦、撃沈、沈没」・・・「ウミザル(海猿)」は「海援隊」、「海役=阿倍比羅夫・安曇比羅夫」・・・坂本竜馬・・・ 「逃げ場の無い状況に追い込まれた猿が、林の中に飛び込んだ時、逃げるために木々を選ぶ余裕はない(晋書・李充伝=東晋の李充・選ぶなら名誉職(将軍参謀)よりは喰える(金=報酬の多い)地方官)」・・・ 「窮境」・「きわまる・終わる・終わりになる・限度・限界に達する・止まる・ふさがる・詰まる・苦しむ」・・・ 窮猿投林(キュウエントウリン) 窮山幽谷(キュウザンユウコク) 窮措大(キュウソダイ)=貧乏書生・貧乏学者 窮鼠、猫を嚙む 窮鳥懐に入れば猟師も殺さず 窮途末路(キュウトマツロ) 窮年累世(キュウネンルイセイ)=自分から子々孫々まで 窮年=一生・累世=代々 窮余の一策(キュウヨのイッサク) ーー↓↑ーー 高向玄理・・・高椋の玄理(北方の理) 原理(源里・元の理) 椋=木+京=むく・リョウ ムクノキ・ムクドリの略 (ニレ科の落葉高木) 椋木・椋の木・樸樹 aspera・アサ科ムクノキ属の落葉高木 ムクエノキ(椋榎)とも云う やや堅く粘りがあるが、耐久性は低い 道具材、楽器材などに使用 葉の裏のザラつきを利用し 漆器の木地を磨くのに使われる 元々は「ちしゃ」の木を意味 =「蔵・倉」の意味もある・・・高倉下 押使として唐に赴く 新羅道経由で 莱州に到着 長安に至って 3代目皇帝 高宗に謁見 病気になり客死 ーー↓↑ーー 孝徳天皇 諱は軽(かる)・・・「文武天皇=珂瑠(かる)皇子」 和風諡号は天万豊日天皇 (あめよろずとよひのすめらみこと) ↓↑ 皇極天皇=斉明天皇 ↓↑ ーーーーー 最初に 用明天皇 橘豊日天皇 (たちばなのとよひ の すめらみこと) の孫の 高向王(たかむこのおおきみ) の妃となり 漢皇子(あやのおおきみ)を生む 後、 舒明天皇 息長足日広額天皇 (おきながたらしひひろぬか の すめらみこと) の皇后とし 再婚 二男一女 を生む 「高向王の正体が不明 高向王の父母が不明 漢皇子の死亡が不明」 ーーーーー ↓ 斉明天皇 和風諡号 天豊財重日足姫 ↓↑ 父親 母親 吉備姫王 配偶者 高向王 舒明天皇 子女 漢皇子 天智天皇 間人皇女 天武天皇 ↓↑ 「天武(漢皇子)」 「九州 倭国王 筑紫君 薩野馬(大皇)」・・・薩摩? の 「大海人皇子(大皇弟)」・・・阿毎王朝 「天智(翹岐王)」 は 「百済武王(舒明)」 と 「新羅王女の宝皇女(皇極=斉明)」 の子 「漢皇子=宝皇女の連れ子」 「漢皇子=大海人皇子=天武天皇=阿毎王朝」 「推古(豊御食炊屋姫)」天皇 (第33代)=欽明の中女 用明の同母妹 「舒明(息長足日広額天皇) (第34代)=敏達の孫 押坂彦人大兄皇子の子 母は糠手皇女 「皇極(天豊財重日足姫) (第35代)=敏達の曾孫 押坂彦人大兄皇子の孫 茅渟王の女 母は吉備姫王。 「孝徳(天万豊日天皇) (第36代)=皇極の同母弟。 「斉明(天豊財重日足姫天皇) (第37代)・・・ 「天智(天命開別天皇) (第38代)=舒明の太子 母は皇極 「弘文(大友皇子・伊賀皇子)」 (第39代)=母は伊賀采女宅子娘 妃は十市姫 男子は葛野王 娘は壱志姫王 (いちしひめ) 「本朝皇胤紹運録」 「従四下、 母大織冠(鎌足)女 耳面刀自」の注記 伊勢国 一志郡に興る 壱師君(後に宿禰)が扶養者・・・ 兄弟 建皇子・川島皇子・志貴皇子 姉妹 大田皇女・鸕野讃良皇女(持統天皇) 新田部皇女・大江皇女 (以上、夫は天武天皇) 明日香皇女(夫:忍壁皇子) 御名部皇女(夫:高市皇子) 阿陪皇女(元明天皇、夫:草壁皇子) 山辺皇女(夫:大津皇子) 泉皇女・水主皇女 明治三年(1870年) 七月二十三日に贈諡号 「天武(天渟中原瀛真人天皇)」 (第40代)=天智の同母弟 「持統(高天原広野姫天皇) (第41代)=天智の第二女 母は遠智娘 ーーーーー ・・・???・・・窮猿投林・・・センタクのヨユウはナイ・・・ 景気はドウ? 2017-06-18 22:40:54
・・・「2017/06/17(土曜日)」・・・昨日は「(垂仁)59年8月28日=(グレゴリオ暦)30年10月11日=(ユリウス暦)30年10月13日金曜日」に言及したが・・・「景教の景況・景色」・・・「高橋=たかはし=鷹嘴・高階・高梁→高粱(コウリャン)」・・・ ーーーーー 「高橋景保(かげやす) 天明五年(1785年) ~ 文政十二年二月十六日(1829年3月20日) 塩漬けの刑」・・・日本地形の緒言・・・・ ーーーー 古事記 ↓↑ 伊邪那岐命と伊邪那美命 於是 天神、諸命以、 詔 伊邪那岐命・伊邪那美命 二柱神 「修理固成是多陀用幣流之國」 賜 天沼矛 而言依賜也。 故、二柱神、立訓立云 多多志 天浮橋 而指下其 沼矛 以畫者、 鹽(塩・盬・しお) 許々袁々呂々邇(此七字以音) 畫鳴、訓鳴、 云、那志、而引上時、 自其 矛末 垂落・・・垂落 ・・・垂訓=キリスト ↓↑ ↓↑ マタイ伝・・・又の意はとてもじゃぁないがネッ? 5:1-2 イエスが悪魔払いにより 病人を治したため 群集が集まってくる。 そこでイエスは山に登り、 彼らに教えて言う。 5:3-12 幸福の説教(真福九端=真福八端)。 5:13-16 信者を 「地の塩」と 「世の光」になぞらえる。 5:17-48 律法、モーゼの十戒への論評。 6 善行を見せびらかすな。 施し、祈り(主への祈り)、 断食は隠れてせよ。 物のことで悩むな。 6:25-33 野の花を見よ。何を食べようか、 何を飲もうか思いわずらうな。 6:34 明日のことを思いわずらうな。 一日の苦労は、 その日一日だけで十分である。 7:1-5 人を裁くな、 あなたがたも裁かれないために。 7:6-29 聖なるものについて。 偽預言者に気を付けなさい。 ↓↑ ↓↑ ↓↑ ルカ伝・・・瑠掛の意はとてもじゃぁないがネッ? 6:20-23 あなたがたは幸福だ。 貧しき人々。 飢えている人々。 今泣いている人々。 いじめられ迫害されている人々。 6:24-25 あなたがたは不幸だ。 富んでいる人々。 満腹している人々。 今笑っている人々。 すべての人から ほめられている人々。 6:27-36 あなたがたの敵を愛し、 あなたがたを 憎む者に親切にしなさい。・・・ムリムリ・・・ 自分を愛してくれる人を 愛したところで、 あなたがたに どんな恵みがあるだろうか。・・・膨大である・・・ 自分によくしてくれる人に 善いことをしたところで、 どんな恵みがあろうか。・・・・・甚大である・・・ 6:37-38 人を裁くな。 そうすれば、 あなたがたも 人から・・・・・・・・・・人とはダレのコトか? 裁かれることがない。・・・裁かれるのが鉄則である 人を赦しなさい、 そうすれば、 あなたがたも赦される。・・・ムリムリ・・・ 6:39-42 盲人が盲人を道案内するたとえ。 6:43-45 良い実によって良い木を知る。 悪い実によって悪い木を知る。 人の口から出てくる その言葉で その人がわかる。・・・・ウソツキも多い 6:46-49 良い土台の上に家を建てた人と 土台なしで家を建てた人のたとえ。 わたしの言葉を聞いたら、 それを行いなさい。 聞いても行わない人は 土台なしで・・・・・・掘立小屋も必要だ・・・ 家を建てる人である。 ↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑ 垂廉=則天武后 垂仁=第十一代天皇 =崇神天皇の第三皇子 =活目入彦五十狭茅尊 =活目尊等 =伊久米伊理毘古 ↓↑ 垂=たれる・たらす・しだれる・しずる なんなんとする・スイ 下の方にたれ下がる・たらす 垂涎 (スイゼン)・垂直・懸垂・胃下垂 上位者が下位者に教えを示す 垂訓・垂示・垂範 垂死=今にも…しそう 四垂・辺垂=国の果て しげる・たり・たる・たれ 垂(しだ) り尾 垂乳根(たらちね)の母 垂木(たるき)=棰・椽・架 屋根板を支えるために 棟木から軒先に渡す長い木材 直垂(ひたたれ) ↓↑ 睡魔=眠気 睡蓮=はす(鰣)・草の名・水草で自生 葉は円形で水面に浮く 夏、淡紅色、白色の花が咲く はちす、はすの実 ヒツジグサ(羊草・未草)の漢名 ↓↑ 開花の時間が未の刻(午後2時) 之 鹽 累積、 成嶋、 是 淤能碁呂嶋。(自淤以下四字以音)。 ↓↑ オノゴロ島=「自凝島(ジギトウ)」→「字義・時宜」問、答 「自(おのず)から凝り固まってできた島」 「自(みず)から凝り固まってできた島」 の意 =小野頃の(ト・ウ→問・答)訳得 小野妹子=蘇因高 ↓↑ 日本書紀 ↓↑ 磤馭慮島(おのころじま) ・・・磤=石+殷(㐆+殳=雷鳴) ・・・磤=石を砕く削岩の時の音波、震動? 声母が「影(エイ)」 声訇(訇=𧥻𠣭・コウ・訇=勹+言) 大きな音や叫び声の形容 匉訇(ホウコウ)=大きな声や音 説明し教える、 順を追って教え悟らせる 上位者の下位者に対する教えや指示 字句の意味や読み 其若震=雷鳴の振動(震動)?・・・弱震 磤=石+㐆+殳=石を砕く雷電?・・・削岩 馭=馬+又=馬を操る・馭者・御者? 慮=虍+思=𧆨+心=虎+田+心 おもんばかる・思いめぐらす・深く考える・遠謀深慮 計画を立てる・よくない事を計画する 考慮・思慮・憂慮 ーー↓↑ーー 仁徳天皇=大雀命 ーー↓↑ーー 古事記(下巻) 黒日売(くろひめ)が 吉備の国へ帰郷した際に、 大雀命(仁徳天皇)は、彼女を追い 吉備の国へ行幸し 道中で詠った歌に 「オノゴロ島(淤能碁呂志摩)」 が記録された・・・ ーー↓↑ーー 於是天皇・・・・是(ここ)に天皇 戀、其黒日賣・・其(そ)の黒日賣を恋ひ 欺大后曰・・・・大后欺き、いわく 「欲見淡道嶋而」・淡道嶋を見むと欲(おも)ふ」と 幸行之時・・・・・幸行する時 坐淡道嶋・・・・・淡路島に坐(いま)して 遙望歌曰、・・・・遥に望みて歌ひて曰く 『淤志弖流夜・・・山の垂に於いて志ざすは弓の一流の世? (おしてるや)・・押してるや 那爾波能佐岐用 (なにはのさきよ)・難波の崎から 伊傳多知弖 (いでたちて)・・・出で立ちて 和賀久邇美禮婆 (わがくにみれば)・我が国見をすると 阿波志摩 (あはしま)・・・・アハ島 淤能碁呂志摩 (おのごろしま)・・オノゴロ島 阿遲摩佐能 (あじまさの)・・・アジマサの 志麻母美由 (しまもみゆ)・・・島も見える 佐氣都志摩美由 (さけつしまもみゆ)・サケツ(先つ)島も見える』 乃、 自其嶋傳・・・・・乃(すまわ)ち其の島傳(つた)いて 而幸行・・・・・・しこうして、幸行する 吉備國・・・・・・吉備の国に幸行する。 ・・・「国見とは国の地勢や景色、人々の生活状態などを、 地位の高い人物が望み見ることを言う」・・・ ・・・地図を俯瞰する時はドウなのか・・・ ・・・光景・・・???・・・景況・・・景教・・・ ーー↓↑ーー 高橋景保 至時の子 字は子昌、名は作左衛門、 号は観巣、玉岡、求己堂主人 オランダ名(洗礼名?)「グロビウス」 ・・・グロビウス・・・ ↓↑ 英国海軍中佐・探検家 James Kingston Tuckey(1776-1816)の著作 『海洋地理学と統計』 (Maritime geography and statistics) のオランダ語版。 「チュケイ地理書」と称されているもの。 シーボルトから高橋景保に贈られた。 見返しにはシーボルト自筆で 「医学博士 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト より江戸 王室天文台の敬愛する グロビウス君へ記念として贈る 1826年5月」 という内容のオランダ語献呈辞が書かれている。 「グロビウス(Globius)」とは ドゥーフが命名した 高橋景保のオランダ名・・・ ↓↑ 1810年代の出島では、 オランダ商館長 ドゥーフが、・・・ヘンドリック・ドゥーフ ↓↑ (Hendrik Doeff) 1777年12月2日~1835年10月19日 オランダが フランス革命軍に占領され、 オランダ東インド会社が解散した後の 1803年~1817年に、 出島のオランダ商館長(カピタン)に就き ドゥーフが商館長在任時に ↓↑ 文化五年八月(1808年10月) フェートン号事件が起きた 就任前の 1797年からすでに長崎の出島で スタートしていた日米貿易を 1808年まで引き継ぎ 米国船が入港する際、 オランダ国旗を立てさせて オランダ船に偽装させて行われた・・・ ↓↑ 米国船と貿易を行った・・・ オランダ独立後の2年後、 1817年にオランダ船が長崎港に入港し、 ドゥーフは国の名誉を守ったとして、 オランダより最高の「オランダ獅子士勲章」 を賜わり、17年ぶりに故国オランダへ帰国 17年の長期間、亡国の国民で オランダ人としての誇りを失わずに ↓↑ 他国で生き抜いた・・・ 『波留麻和解』のもとになった フランソワ・ハルマの 蘭仏辞典の 日本語訳を独自に開始し、 ドゥーフ帰国後の 天保四年(1833)に、 長崎通詞たちの手で 『ヅーフハルマ』(「長崎ハルマ」) として完成した。 この『ヅーフハルマ』は 写本の形で西日本を中心に流布した ↓↑ 天明五年(1785年) ~ 文政十二年二月十六日(1829年3月20日) 1829年 03月 20日 ↓↑ 文化八年(1811年) 蛮書和解御用の主管 「厚生新編」を訳出を始めた 文化十一年(1814年) 書物奉行 兼 天文方筆頭に就任 文政十一年(1828年) シーボルト事件に関与 十月十日 伝馬町 牢屋敷に投獄 文政十二年(1829年)二月十六日 獄死 享年四十五 獄死後、 遺体は塩漬けにされて保存され、 文政十三年(1830年)三月二十六日 遺体は引き出され 罪状申し渡しの上 斬首刑 に処せられた・・・公式記録で死因は斬罪・・・ 墓は上野の源空寺 高橋至時・伊能忠敬・高橋景保 の 「大日本沿海輿地全図」組 三人頭の墓地が並ぶ・・・ ーー↓↑ーー (垂仁)59年8月28日 (グレ)西暦30年10月11日 (ユリ)西暦30年10月13日金曜日 庚寅年 丙戌月 甲午日金曜日・・・三合丙局・・・子支の年月日時を「沖」 大安 金曜日 ーー↓↑ーー 「景教」 ネストリウス派とは、古代キリスト教の教派の1つ コンスタンティノポリス総主教 ネストリオスにより説かれた 431年 エフェソス公会議において 異端認定され、排斥 以後 ネストリウス派は ペルシャ帝国へ移動 7世紀ごろ 中央アジア・モンゴル・中国へ伝播 ↓↑ 大 秦 景 教 流 行 中 国 碑 (だいしんけいきょうりゅうこうちゅうごくひ) 明朝末に 長安の 崇聖寺の境内で発掘された古碑 ネストリウス派(景教)の 教義や中国への伝来などを刻す 唐代781年(建中二年) 伊斯が建立した 景浄が碑文 古代キリスト教関連の古碑 ↓↑ 景教 5世紀 コンスタンチノー プル (イスタンブール) の司教 ネストリウス によって唱えられた キリスト教の一派 (ネストリウス派) の中国名 シリア、メソポタミアから イラン、トハリスタン (アフガニスタン)に伝播 ↓↑ 803年 空海(弘法大師) は 最澄と共に入唐 景教を身につけ 潅頂(頭に潅ぐの意で、キリスト教の洗礼)を受け、 「遍照金剛」 という洗礼名を受けた 「あなたがたの光を人々の前で輝かせ」 という、 「マタイ5:16の漢語聖書」に記録された意訳 ↓↑ 景教の教典 「世尊布施論」の 「山上の垂訓」の箇所 「世尊」とは、「シャカ(釈迦)」ではなく 「イエス・キリスト」・・・ ーー↓↑ーー 親鸞上人が読んだという 「世尊布施論」とは 中国の景教、キリスト教の書物・・・ マタイ(馬太)による 福音書「山上の垂訓」 第五章から七章・・・・・・・垂訓でナニを云った? 「胎蔵界大日如来」 を表す装飾された 荘厳体 「阿字五点具足(アーンク)」・・・ ↓↑ 483年 Beth Rapat(グンデシャープール)で 宗教会議が行われ、 その後の会議の含めて論争が行われ、 他の宗派ともども、 ネストリウス派は 単性派に破られることになった (単性派は451年の カルケドン公会議で排斥され、 正教派に破れ、 ネストリウス派は、 それより先の 431年のエフェソス宗教会議で 西方教会から排除されていた) ↓↑ ササン帝国における キリスト教 ペーローズの支配の終わりには ネストリウス派が 帝国のキリスト教の支配的な教義となり ペルシャ人教会を作り、 ビザンツ教会に反対の立場をとった 484年の春 首都で持たれた教会会議で宣言され、 イランでのキリスト教の広まりは、 ビザンツの敵の信仰としてではなかった。 ネストリウス派の 反君主的信条は ペルシャ教会において 騒乱をもたらしたが ササン朝国家にほとんど影響なかった。 ーーーーー ・・・???・・・漢字からして、 「景教」、「刑教」、「景況」、「景気」・・・ 「景保」の「景色」・・・???・・・
ー↓↑ー--
・・・???・・・
↓↑ ↓↑
「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
+
(表紙・画像・音楽)」の
移転先・・・
↓↑
ボクの「古事記字源」の発端・・・
↓↑
干支歴
↓↑
追加添文
「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
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