「n角形の内角の和=180×(n-2)」・・・
2023/1/5=弐千弐拾参年壹月伍日
木曜日・・・追加添文・・・
木=甲乙⇔十+八=壹拾+八(捌)
丌(キ)⇔兀(ゴツ・ゴチ)⇔n(Π・パイ)
⇔Л=л(エル)
n=N(エヌ)→⤵ Z(ゼット)
→乙(オツ・イツ)→乚(イン)
⇔L(エル)=ℒ=ℓ(リットル)=l⇔I(アイ・i)
・・・Ⅰ=1=一=壹=壱
・・・「三角関係」・・・「(高さX底辺)/2=三角形の面積」・・・「多角関係」・・・「多角形の面積」・・・「円関係」・・・「円の面積=(半径)×(半径)×3.14=S=πr²」・・・「台形の面積=(上底+下底)×(高さ)÷2=S」・・・「ひし形の面積=(対角線)×(対角線)÷2=S」・・・「平行四辺形の面積=(底辺)×(高さ)=S」・・・「n角形の内角の和=180×(n-2)」・・・ ーーーーー 大和三山 神代に恋争いをしたという伝説 額田王をめぐる 天智天皇(中大兄皇子) と 天武天皇(大海人皇子) との三角関係 ↓↑ 出雲の アボニカミ(阿菩大神)という神様が 香具山 と 耳成山 の二人の男が 畝傍山 を妻にしようと争っているのを聞いて 仲裁のため 播磨の国まで来たところ 争いがおさまったので この国にとどまった ↓↑ 「万葉集」巻一 香具山 と 耳梨山 と争(あ)いしとき 立ちて見に来し 印南国原 (香久山と耳成山が妻争いをしたとき、 阿菩の神が、 この印南原まで見にやって来た) ↓↑ 「万葉集(巻一)」 香具山・耳成山が女で畝傍山が男。 香具山・耳成山が男で畝傍山が女。 香具山が女で畝傍山・耳成山が男。 ↓↑ 香具山は 畝火 愛(お)しと 耳梨と 相争いき 神代より かくにあるらし 古昔も 然にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を 争うらしき (巻一) ↓↑ 大和三山・・・ 神々しく聳(そびえ)立つ・・・聳=従(从・從)+耳 「従う耳」・・・ウサギと兎のミミ・・・半島地図・・・ ワニ(鰐・和邇・和仁)=倭人 ウサギ(兎・兔・宇佐戯)=加羅(唐・韓・漢)人 ーーーーー ・・・???・・・戯誤植・・・魏・呉・蜀・・・ 唐土(中国)・天竺(印度)・本朝(日本=倭国)・・・ 辰韓⇔新羅、馬韓⇔百済、弁韓⇔加羅(伽耶)諸国が分立・・・ 高句麗(扶余・女真) 新羅(斯盧・シラ) ・・・ 百済(伯済・月支国王=辰王) 新羅(斯盧・シラ)・・・秦の難民(陽侯)? 加羅(金官・任那)・・・倭(九州・阿毎)? ーー↓↑ーー 天日槍命が 第十一代 垂仁天皇三年(初期紀年BC27年) 新羅国よりやってきた ↓↑ 「三角、四角、五角、六角、七角、八角、九角」関係 「n角形の内角の和=180×(n-2)」・・・ (N-2)×180・・・ ↓↑ 葦原志挙乎命=伊和大神=大己貴命=大国主 (あしはらのしこおのみこと) と 天日槍命 の 秋津島、領土争奪戦・・・ ↓↑ アメノヒボコ 古代朝鮮からの渡来人 『日本書紀』では 「天日槍」 『古事記』では 「天之日矛」 他文献では 「日桙(ひぼこ)」 「天日槍命」 「天日桙命」 「海檜槍(あまのひぼこ)」 とも 新羅王子 『日本書紀』 垂仁天皇三年三月条 新羅王子の 天日槍が渡来 ↓↑ 天日槍は初め播磨国に停泊し 宍粟邑にいた 天皇は 大友主(三輪氏祖) 長尾市(倭氏祖) を播磨に派遣し 天日槍の尋問をさせた 自分を新羅国王の子であるといい 日本に聖皇がいると聞いたので 新羅を 弟の知古(ちこ)に任せ 自分は 日本への帰属を願ってやって来た と語った 天皇は 播磨国宍粟邑 淡路島出浅邑 の2邑に 天日槍の居住を許した 天日槍は 諸国を遍歴し適地を探すことを願った 天日槍は 菟道河(宇治川)を遡って 近江国吾名邑にしばらくい 近江から若狭国を経て 但馬国に至って居住 近江国 鏡村の谷の 陶人(すえびと)が 天日槍の従者となった 天日槍は 但馬国出島(出石)の 太耳の娘の 麻多烏(またお)を娶り 麻多烏との間の子に 但馬諸助(もろすく)を儲けた 諸助は 但馬日楢杵(ひならき)を儲け 日楢杵は 清彦(きよひこ)を 清彦は 田道間守を儲けた・・・ ↓↑ 『日本書紀』 垂仁天皇八十八年七月条 新羅王子の天日槍が持って来た 但馬の神宝を見たいと 天皇が言ったので 使者を遣わし 天日槍の曾孫の 清彦に勅命を下して献上させた 5物、 羽太の玉 1箇 足高の玉 1箇 鵜鹿鹿の赤石の玉 1箇 日鏡 1面 熊神籬 1具 これらとは別に 「出石(いづし)」 という名の 小刀1口があったが 清彦は献上を望まなかったので 袍の中に隠して身に帯びていたがバレて 神宝の1つであることを言上 天皇はこれと他の神宝とを一緒にして 神府(みくら・奈良県天理市 石上神宮) に納めた 天皇が神府を開くと 小刀がなくなっており 清彦に人を遣わして問いただすと 小刀が自然と清彦の家に来たが その日の朝にはなくなったと言った 天皇は畏れそれ以上は 小刀を求めることをやめた 小刀はのちに自然と 淡路島に至り発見され 島人により祠に祀られた・・・ ↓↑ 天日槍が小舟に乗って 但馬国に停泊し そのまま但馬に留まった 天日槍は 但馬国の 前津耳(一云に前津見または太耳) の娘の 麻拕能烏(またのお)を娶り 麻拕能烏との間に 但馬諸助を儲けたとし これが清彦の祖父であるという ↓↑ その他 『古事記』では 比売碁曾社(比売許曾神社) の由来が 天日槍 と 阿加流比売神 の伝承として記述 『日本書紀』では 垂仁天皇二年条の注に 「都怒我阿羅斯等」と その妻の伝承として記述・・・ 『古事記』応神天皇記では 新羅の国王の子の 天之日矛が渡来した 新羅国には 「阿具奴摩(あぐぬま、阿具沼)」 という名の沼があり そのほとりで 卑しい女が1人昼寝をしていた そこに日の光が虹のように輝いて 女の陰部を差し、女は身ごもって 赤玉を産んだ この一連の出来事を窺っていた 卑しい男は、その赤玉をもらい受け 男が谷間で牛を引いていて 国王の子の 天之日矛に遭遇し 天之日矛に牛を殺すのかと 咎められたので 男は許しを乞うて 赤玉を献上 天之日矛は玉を持ち帰り それを床のあたりに置くと 玉は美しい少女の姿になった そこで 天之日矛はその少女と結婚し 正妻とした ある時 天之日矛が奢って女を罵ると 女は祖国に帰ると言って 天之日矛のもとを去り 小船に乗って難波へ向い そこに留まった これが 難波の 比売碁曾(ひめごそ)の社の 阿加流比売神である (大阪市の比売許曾神社) ↓↑ 天之日矛は妻が逃げたことを知り 日本に渡来して 難波に着こうとしたが 浪速の渡の神(なみはやのわたりのかみ)が 遮ったため入ることができなかった 再び新羅に帰ろうとして 但馬国に停泊したが そのまま但馬国に留まり 多遅摩之俣尾(たじまのまたお) の娘の 前津見(さきつみ)を娶り 前津見との間に 多遅摩母呂須玖(たじまのもろすく)を儲けた 多遅摩母呂須玖から 息長帯比売命(神功皇后・第14代仲哀天皇皇后) に至る系譜を伝える 天之日矛が伝来した物は 「玉津宝(たまつたから)」と称する八種 これらは 「伊豆志之八前大神 (いづしのやまえのおおかみ)」 と称される (兵庫県豊岡市の出石神社祭神) 『古事記』では 続けてこの 伊豆志大神についての物語が記される ↓↑ 『播磨国風土記』では 天日槍について 地名起源説話が記録 ↓↑ 揖保郡揖保里 粒丘条 客神(外来神)の 天日槍命が 韓の国から海を渡って 宇頭川(揖保川・林田川の合流点付近) の川辺に着き 当地の長たる 葦原志挙乎命 (あしはらのしこおのみこと)に 宿所としての土地を求めると 志挙は海中に宿ることのみを許した これを受けて 天日槍命 は剣で海をかき回し、出来た島に宿った 志挙はその霊力に畏れをなし 天日槍命よりも先に 国を抑えるべく北上し 粒丘に至って食事を取った その時に口から飯粒が落ちたため 「粒丘(いいぼおか)」と称される (たつの市揖保町揖保上の北のナカジン山) 宍禾郡比治里 川音村条 天日槍命が村に泊まって 「川の音がとても高い」 と言ったので 「川音村(かわとのむら)」と称される (宍粟市山崎町川戸付近) ↓↑ 宍禾郡比治里 奪谷条 葦原志許乎命 と 天日槍命 の2神が谷を奪い合ったので 「奪谷(うばいだに)」と称される ↓↑ 宍禾郡高家里条 天日槍命が 「この村の高さは他の村に優っている」 と言ったので 「高家(たかや)」と称される (宍粟市山崎町庄能から山崎付近) ↓↑ 宍禾郡柏野里 伊奈加川条 葦原志許乎命 と 天日槍命 が土地の占有争いをした時 いななく馬がこの川で 2神に遭遇したため 「伊奈加川(いなかがわ)」と称される (菅野川) ↓↑ 宍禾郡雲箇里 波加村条 伊和大神の国占有の時 天日槍命が先に着き 大神は後から来たが 大神が 「対策を はかりも(考えも)しなかったから 天日槍命が先に着いたのか」 と言ったので 「波加村(はかのむら)」と称される (宍粟市波賀町安賀・有賀・上野付近) ↓↑ 宍禾郡御方里条 葦原志許乎命 と 天日槍命 が黒土の 志尓嵩(くろつちのしにたけ)に至り それぞれ黒葛を足に付けて投げた 葦原志許乎命の黒葛のうち 1本は但馬気多郡 1本は夜夫郡(養父郡) 1本はこの村 に落ちた そのため 「三条(みかた)」と称される 天日槍命の黒葛は 全て但馬に落ちたので 天日槍命は 伊都志(出石)の土地を自分のものとした 別伝として 大神が形見に御杖を村に立てたので 「御形(みかた)」と称される (宍粟市一宮町の北半部) ↓↑ 神前郡多駝里 粳岡条 伊和大神 と 天日桙命 の2神が軍を起こして戦った際 大神の軍が集まって稲をつき その糠が集まって丘となったが その箕を落とした糠を墓といい 「城牟礼山(きむれやま)」というとする (姫路市船津町八幡の糠塚) ↓↑ 神前郡多駝里 八千軍条 天日桙命の軍兵が8,000人あったため 「八千軍野(やちぐさの)」と称される (神崎郡福崎町八千種付近) ↓↑ 筑前国風土記 『筑前国風土記』逸文(『釈日本紀』所引) 足仲彦天皇(仲哀天皇)による 球磨・囎唹(くま・そお:総じて熊襲) 征伐のための 筑紫行幸の際 怡土県主(いとのあがたぬし 福岡県糸島市付近) らの祖の 五十迹手(いとで)が出迎えた 五十迹手はその言の中で 自分を 高麗国(朝鮮)の 意呂山(一説に蔚山)に 天降った 日桙の後裔・・・ ↓↑ 『摂津国風土記』逸文(『萬葉集註釈』所引) 応神天皇の時 新羅国の女神が 夫のもとを逃れ 筑紫国の 「伊波比乃比売島」に住んだ (豊後国ながら大分県の姫島) この島はまだ新羅から遠くないため 男がやって来るだろうと 摂津国の 比売島松原に移った その地名 「比売島」は元の島の名に由来 ↓↑ 『豊前国風土記』逸文(『宇佐宮託宣集』所引) 新羅国の神がやって来て 田河郡鹿春郷の付近に住み 「鹿春の神(かはるのかみ/かわらのかみ)」 と称された (福岡県田川郡香春町の香春神社) ↓↑ 古語拾遺 大同二年(807年)編纂の 『古語拾遺』では 垂仁天皇条において 新羅王子の 海檜槍(あまのひぼこ)が渡来し 但馬国出石郡に大社(出石神社) をなした ↓↑ 霊廟 アメノヒボコに関わる神社 但馬国一宮の 出石神社(兵庫県豊岡市出石町宮内) この神社は『延喜式』神名帳では 但馬国出石郡の名神大社として 「伊豆志坐神社八座」と記載 これは 『古事記』の 「伊豆志之八前大神」とも一致 アメノヒボコが将来した 八種神宝の神霊が 「伊豆志八前大神」として祀られ アメノヒボコの神霊が併せ祀られている この出石神社の創祀は 社伝を別とすると 実際には アメノヒボコを奉じる 朝鮮系渡来人の一族が その将来した宝物を祀った 但馬地方では 出石神社のほかにも関係社数社の分布 ↓↑ 後裔氏族 アメノヒボコは 『日本書紀』『古事記』では 但馬諸助(多遅摩母呂須玖) から 神功皇后に至る諸人物の祖 『筑前国風土記』逸文では 怡土県主らの祖とされる・・・ ↓↑ 『新撰姓氏録』では 後裔は 左京諸蕃 橘守 三宅連同祖。天日桙命の後 右京諸蕃 三宅連 新羅国王子の天日桙命の後 大和国諸蕃 糸井造 三宅連同祖。新羅国人の天日槍命の後 摂津国諸蕃 三宅連 新羅国王子の天日桙命の後 ーーーーー ・・・???・・・角がアル人々の関係の和・・・参百六拾度・・・
・・・始皇帝=シコウテイ=思考綴=試行綴=嗜好定=指向定・・・「呂不韋」・・・「太安万侶の不意・符意」・・・法治でアラずば・・・韓の子にアラず(非)・・・? 「李氏」の末裔も・・・法家の「李斯」ではない・・・? 「郢書燕説(韓非子外儲説左上)」・・・? ーーーーー 呂氏春秋 中国の戦国時代末期 秦の呂不韋が食客を集めて 共同編纂させた書物 呂覧(リョラン)とも 秦の始皇八年(紀元前239年)に完成 天文暦学、音楽理論、農学理論 など自然科学的な論説が多く 自然科学史において重要な書物 ↓↑ 呂不韋 賓客を延き集め 各々聞く所によりて 「月令」を選し 円道を明らかにし、人事を証す 天地・陰陽・四時・日月・星辰・五行・礼儀 の類を載せ 名づけて 「春秋」という
↓↑ 呂不韋=「韓」の大商人、 「呂不韋(リョフイ)」は関係アリやナシや・・・? ↓↑ 大韓帝国(テハンジェグク) 1897年~1910年まで 李氏朝鮮の使用国号 ↓↑ 周王室 武王より三十七世八六七年に滅亡 (前256) ↓↑ 秦 昭襄王死後 子楚の父 孝文王が即位・・・孝文=コウブンオウ =「構文・公文・弘文・行文」意宇 子楚が太子となった 趙国は 子楚の妻子を 鄭重・・・鄭=奠+阝=ねんごろ・テイ・丁寧 通仮字「丁」 異体字「𨞀・奠・郑」 鄭袖=楚の懷王の寵姫 重=かさねる・かさなる・チョウ・ジュウ に送りとどけてきた 孝文王は一年にして死去し 子楚=荘襄王が位につく(前250) 呂不韋を 丞相(宰相)に任じ 文信候に封じ 洛陽の十万戸をあたえた 前249年 魯が 楚にほろぼされた 魯・・・魯=魚+日=ロ・・・呂・侶・盧 周公より三十四代、八五〇年 ↓↑ 荘襄王 在位三年にして死去(前247) 十三歳 太子の 政=秦王が即位・・・始皇帝・・・指向定 政治は母の 太后(荘襄王の后) と 呂不韋 が執政 呂不韋は相国(宰相) 仲父(チュウホ=父親に準ずる待遇)とよんだ 太后は むかしの 呂不韋の愛人 呂不韋の執政時代 韓、魏、趙の領土の一角を奪い 秦の領土の東端は拡張し 斉国と接した 各地から食客を招き三千人 食客たちに、それぞれ見聞を述べさせ それを編集して 二十余万字にのぼる 書物を編纂 『呂氏(リョシ)春秋』と名づけた (前239) 咸陽(カンヨウ)の 市場の門前に展示し 賞金をかけて内容を批判させた 「一字でも増減できる者があれば 千金をあたえよう」と これが 「一字千金」の由来 呂不韋と太后の関係が噂になり 別の男を太后に推挙し太后の気をひかせ 男に宮刑をほどこしたことにし 宦官に仕立て 太后の側近に侍らせ寵愛させ 二人の子を出産 太后は離宮にかくれ 仕事は その男によって決裁させ 長信侯の位・・・長信侯(のぶながこう)? をたまわり 下僕は数千人 食客も千余人におよんだ 政が即位して 九年(前239) 二十二歳 成人の冠礼をおこなった これをおそれた 長信侯が 反乱をおこして 王宮を攻めて 占拠をくわだてたが 密告され 王は 兵を発し一党をほろぼし 長信侯らを 車裂(シャレツ)の刑にした 太后の 不義の 二子も殺された 事件に 呂不韋も関係したが 王は 呂不韋 が先王につくした 大功をおもんばかり 不問に付した 翌年に 呂不韋の職(相国)を免じ 都から追放し 洛陽の領地においたが 呂不韋には声望があり 洛陽におもむく賓客は多かった 秦王政は謀叛をおそれ 蜀にうつることを命じた 呂不韋は毒をあおって自殺 ↓↑ 秦 燕に侵攻 ↓↑ 燕の太子の 「丹」は かつて 趙に人質となっており 趙でうまれた 秦王政 とも、仲がよかった 政が即位し 「丹」は秦へ人質となったが 秦王政の待遇はつめたく 「丹」はうらんで逃げかえった 秦の将軍の 樊於期(ハンオキ)が 罪をえて 燕に逃げ 「丹」は、これを館舎にむかえ厚遇した 秦王政の怒りを恐れ 群臣がいさめたが、 「丹」太子は聞かなかった 更に 「丹」太子は勇士をもとめて 荊軻(ケイカ)という男をえ 上卿(上席の大臣)とした 「丹」は 荊軻に 秦王政の暗殺、刺し殺すことを要請 ↓↑ 荊軻は 衛の人で 読書と撃剣をこのみ 感情的性格の男で 燕にうつってからは 町の酒飲みたちと交遊し 遊歴した土地で 賢人や豪傑や長者と親交した ↓↑ 荊軻は 樊於期(ハンオキ)の首と 燕の 督亢(トクコウ)の 地図を持参したい、と願った 督亢は 燕の要地にして 秦がもっともほしがっている場所 樊於期(ハンオキ)の首・・・ 「丹」太子は 自分をたよってきた樊を 私利のために殺すには忍びなかった 荊軻は 樊於期に会って、うったえた 秦においては 樊の父母をはじめ 一族をすべて殺し 樊於期の首に 莫大な懸賞をかけている 一言にて燕国の憂いをとき 樊於期将軍のあだをむくいる策・・・ 樊於期将軍の首を 秦王に献じたなら 秦王は よろこんで自分を引見するハズ その時 自分は 左手に秦王の袖をとり 右手で秦王の胸を刺す・・・ これを聞いた 樊於期は 片肌をぬいで腕をにぎり みずから首はねて死んだ 「丹」太子は駆けつけ 屍体にうちふし 大声をあげて泣いた・・・ ↓↑ 首を箱にいれて封じ 鋭利な匕首(あいくち)をもとめ 毒薬を刃にぬって人にためし 秦王暗殺支度はととのえた ↓↑ 燕のうまれで 秦舞陽(シンブヨウ)という勇士は 十三歳で殺人を犯した無頼 「丹」太子は 秦舞陽を、荊軻の副え人とし 秦舞陽をともなわせて出発させ 事情を知っている者たちは 白い装束(喪服)を着て見送った ↓↑ 易(エキ)水のほとりまで 荊軻は 筑(ちく=琴に似た楽器、竹で絃を打つ)・・・筑紫 筑は神功皇后が新羅討伐の占いに使用した に和して歌った 風蕭蕭兮易水寒 壮士一去兮不復還 ↓↑ 秦につき 千金のねうちの贈りものを 王の側近にささげ、来意を通じた 秦王政はよろこび 威儀をただして 燕の使者を引見 荊珂は 樊於期の首箱を持ち 秦舞陽は地図の小箱をささげた すすんで陛(きざはし)にいたると 秦舞陽は 顔色をかえて ふるえだし・・・ ↓↑ 大化の改新の実行犯 「佐伯子麻呂」の様子、態度に類似 古麻呂とも 姓は連 佐伯丹経手の子」とする系図がある? 「佐伯の丹の経の手」・・・「丹」の経? 「佐伯 丹経手=姓は連 内臣・佐伯戸難目の子」 とする系図・・・? ↓↑ 佐伯「戸難目→丹経手→子麻呂(古麻呂)」 となめ にへて こまろ 「佐伯子麻呂」の 兄弟は 東人 子麻呂 百枝 子は 大目 歳主 645年11月(九月) 中大兄皇子に命じられ 阿倍渠曽倍と共に40人の兵士を率いて 入鹿暗殺後に出家し吉野に隠棲していた 古人大兄皇子を攻撃 皇子とその子息を殺害・・・ ↓↑ 「丹」は「燕国の太子」・・・丹後・丹波・但馬 群臣があやしんだので 荊軻は顧みて笑い 「北方の蛮夷の鄙人(ヒジン) いまだ天子に見(まみ)えたことなく ゆえにおそれ、ふるえたのでございます 願わくは大王、これをゆるさせたまえ」 「その者の持っている地図を見せよ」 ↓↑ 秦王の言により 荊軻は地図の巻物を収りだし 王にささげ 王が地図をひらき 図のおわるところに 匕首(あいくち)があらわれた 荊軻は 左手で秦王の袖をとらえ 右手に匕首を持って、突きだした おどろいた王は身を引いて立ちあがり袖が切れた 王は剣をぬこうとしたが 剣は長く鞘(さや)から抜けず 鞘に収まったままにぎった・・・ あわてて剣を竪(たて)にしたまま すぐには抜けなかったが、抜刀して 荊軻と対峙した・・・。 ↓↑
秦は 魏、楚、燕をほろぽし 斉もほろぼして天下を平定 秦王政は三十九歳 即位二十六年 (前221) 皇帝の 命を「制」 令を「詔」 自称を「朕(チン)」とした ↓↑ 廷尉(司法、検察の長官)の 李斯(リシ)が 法治主義(法家) 郡県主義(直轄中央集権)を採用 李斯・・・李斯(?~紀元前208年) ↓↑ 秦代の宰相 字は通古 子は李由 法家を思想的基盤に 度量衡の統一 焚書などを行い 秦帝国の成立に貢献 始皇帝の死後 権力争いに敗れて 趙高(宦官)によって処刑 「馬鹿の趙高」は独裁国家の見本・・・ ↓↑ 趙高も「子嬰(秦終皇帝?)」に殺された 楚の出身 荀子の教えをうけ 秦におもむいて 呂不韋につかえ 呂不韋の推挙で 始皇帝(秦王政) に重用された ↓↑ 法家 法による支配 楚での 同門に 韓非子(カンピシ)・・・・・・韓の子にアラず(非)? 始皇帝は 彼の著書 「孤憤篇」 「五蠹篇」の二篇 の 君主独裁の 刑(刑罰) と 徳(恩賞) の政治思想に傾倒した・・・ ↓↑ 亡徴(第十五) 「〜〜者、可亡也」 (〜〜というような場合、 政治は危ない、滅びかねない) という形の47条の文を列挙・・・ ↓↑ 備内(第十七編) 「人を信じることは、君主にとって禍の源である 人を信じればその人にしてやられる 臣下が君主のいうことを聞くのは 権力によってやむを得ず 従っているというだけのことであり 臣下は常に君主にあだをなそうと狙っている」・・・ ↓↑ 「郢書燕説=辻褄の合わないことに もっともらしい理由をつけること」 ↓↑ 韓非は 性悪説を説く 儒家の荀子に学んだが 非違の行いを 礼による徳化で矯正するとした 荀子の考えに対し 法によって抑えるべきだと主張 韓非は分断され乱脈化した君主の権力を 法によって一元化し 体系化することにより 強国になるべきと考えた ↓↑ ・・・韓非は咸陽に着き 蘭陵で学んだ頃の同窓の 李斯を訪れた 彼は韓国の特使として 秦国にきて駐在していた 理由は 秦の師団が突然東進し 韓を攻め 三十万の大軍が国境を鎮圧 韓王は恐れ 和議を求めて 土地を納め御璽を献上 藩臣を擁護することを請うた 韓非子はこの和義の使節だったが ↓↑ 李斯にハメラレる 始皇帝にもちいられた 李斯の両策によって 無実の罪におとしいれられ 投獄され、自殺 ↓↑ 秦の郡県となって統一 諸公子や功臣は、あつく待遇すれば、それでよい 天下に異心をいだく者のないのが安寧の術 諸侯をおくことは便法とはいえない ↓↑ これを始皇帝は採用 天下をわけて三十六郡 中央から官吏を派遣して治めさせ 皇帝の直轄とした 郡の下は 数十の県にわけた 一つの県はおよそ一万戸の人口 郡の戸口は数十万戸・・・ 始皇帝の中央集権体制 「郡県制度」とよばれ 中国統治方式の基本とされた 周の封建制度 「王」たる天子と諸侯とのあいだに 画然とした身分の差はなかった 「王」は至上なる神の代理者 天子として地上を統治 諸侯は「王」に服しているものの その領土の内では 王と同じ性格の統治者であった ↓↑ 度量衡の単位の統一 度(ものさし) 量(ます) 衡(はかり) 秦のものに一定化 国定の量(ます)や権(おもり)を 全国に頒布 車輪、道幅を一定にした ↓↑ 文字を統一 秦と六国とでは ちがった文字をもちいていた 秦の文字が大篆(ダイテン)で 始皇帝は李斯に命じ あらたに 小篆という書体をつくらせた 篆書(テンショ)である しかし篆書にしても、まだ複雑で 隷書(レイショ)が発明され 漢代には一般に通用文字となる ↓↑ 貨幣の統一 斉や燕など北方の国は 「刀(トウ)」をもちい 韓魏趙などは 「布(フ)」(農具のスキの形) 楚では「貝(バイ)」 秦では円形の銭をもちいていた 始皇帝は 重さ半両の円形の穴あき銅貨を 標準の貨幣として定め全国に通用させた 半両銭は 後世にいたるまで貨幣の基本の形となった ↓↑ 政令は 都の咸陽(カンヨウ)から発せられ 咸陽は帝国の中心となった ↓↑ 民の武器の携帯、携行は禁止 天下の武器をおさめて これを城蒲にあつめ 熔かして 鐘鐻(ショウキョ=鐘などをかける台) 金人(銅製の大きな人形) を十二体つくった 重さは、おのおの千石(たん=三〇トン) ↓↑ 天下の 富豪十二万戸を 咸陽に移住させた ↓↑ 宮殿の壮麗化 各国をほろぼすごとに その宮殿と同様のものを 咸陽につくっていった これらの宮殿は、みな渭水の北にあった 上林苑という大遊園地や 祖先の廟は みな渭水の南にあった その間には大きな橋がかけられ また宮殿と宮殿との間は 複道という二階建ての道路によってむすばれた ↓↑ 統一の翌年から 始皇帝は巡遊をはじめ 専用の道路の造成 天子の馳道(チドウ)とよばれ 幅が約七〇メートル しかも地上より高く 道の両側には約七メートルごとに 松の並木 天下の巡遊は 五回 東は斉の山東から 北は燕の北境 南は楚の地をへ 越(エツ)の 会稽山まで巡った ゆくさきざきで盛大な儀式や宴会 ↓↑ その間 六ヵ所に記念の石碑に 始皇帝の功業をしるした文を彫りこんで建てた 随行した 李斯が 小篆の書体でしるした 泰山 と 琅邪台(ロウヤダイ)の刻石が もっとも古い(前219) 刻石を建てて、名を永世に伝えようとする石碑も 始皇帝がひらいた ーーーーー 大和三山 神代に恋争いをしたという伝説 額田王をめぐる 天智天皇(中大兄皇子) と 天武天皇(大海人皇子) との三角関係 ↓↑ 出雲の アボニカミ(阿菩大神)という神様が 香具山 と 耳成山 の二人の男が 畝傍山 を妻にしようと争っているのを聞いて 仲裁のため 播磨の国まで来たところ 争いがおさまったので この国にとどまった ↓↑ 「万葉集」巻一 香具山 と 耳梨山 と争(あ)いしとき 立ちて見に来し 印南国原 (香久山と耳成山が妻争いをしたとき、 阿菩の神が、 この印南原まで見にやって来た) ↓↑ 「万葉集(巻一)」 香具山・耳成山が女で畝傍山が男。 香具山・耳成山が男で畝傍山が女。 香具山が女で畝傍山・耳成山が男。 ↓↑ 香具山は 畝火 愛(お)しと 耳梨と 相争いき 神代より かくにあるらし 古昔も 然にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を 争うらしき (巻一) ↓↑ 大和三山への 心情を歌った 万葉集の長歌 藤原宮御井の歌として、 青々とした香具山は 宮の東の御門に春の山のように茂り、 畝傍の瑞々(みずみず)しい山は 西の御門に鎮まる瑞祥(ずいしょう)の山。 耳成の青菅の山は 背面の北御門に神々しくそびえ立つ・・・ ーーーーー 尾張(おわり・糸冬) 名古屋(名護屋・名児耶・奈古谷・那古屋)は 「シロ(新羅・斯盧)」で持つ? ↓↑ 興正寺 貞享三年(1688) 天瑞-圓照(テンズイ-エンショウ)和尚 が真言密教の道場として草庵を結んだ 尾張二代目藩主 徳川光友 の帰依を受けて 講堂を建立 ↓↑ 中門は 女人門と呼ばれていた 興正寺は 東山と西山に分かれており 東山は女人禁制 この門から先に女性は入ることは禁止 中門のすぐ奥に 五重塔(30メートル) 文化五年(1808)に建立 名古屋市内で残っている唯一の五重塔 ↓↑ 宝暦十一年(1761) 徳川宗春より 「八事山」の三文字の親書を賜り それ以降 「八事山 興正寺」 と呼ばれる ↓↑ 「八事」 『尾張国地名考』によると 「八事」は 「岩之田(やがた)」が ↓↑ 八咫烏(やたがらす、やたのからす) 磐余彦(伊波礼毘古)=神武天皇 神武天皇 『日本書紀』 神代第十一段 第三の一書は第三子 第四の一書は第二子 在位 庚午年一月一日(紀元前711年)? ↓↑ 即位 辛酉年一月一日(紀元前660年) 橿原宮に初代天皇として即位 G紀元前660(辛酉)年2月11(庚辰)日 Y紀元前660(辛酉)年2月18(庚辰)日 ~ 神武天皇七十六年三月十一日 G紀元前585(丙子)年4月3(甲辰)日 Y紀元前585(丙子)年4月9(甲辰)日 「磐余の地の旧名 片居または片立という 大軍集(つど)いて その地に満(いは)めり。 因りて改めてその地を 磐余 とする」・・・ ↓↑ 鎌倉時代から室町時代にまでに転訛した 『尾張名所志』にある 「石田里(いしだのさと)」 もこの八事だった・・・ 「八事」は 「岩之田・石田」 であった 「石の多かった田」とういう意味 「岩之田」「石田」が 「八事」に転訛したもの 「岩の田」よりも 縁起のいい末広がりの 「八」を使うようになった・・・ ・・・ 「岩・石・磐・イワ」⇔「八」に転化(転嫁)? ↓↑ 『尾張地名考』に 「音聞(おときき)の松」の話 八事村の東南にある 島田村に 「音聞山」という山があり 「音聞の松」があった 享保の頃(1716~1735) 枯れてしまったが 後その跡に 若木を継いで 今は「千歳の松」ともいう・・・ ↓↑ 風ふけは 鳴海の浦による波の おときヽ山の やまの名よしも ↓↑ 「音聞の松」が聞いたのは 鳴海の浦に打ち寄せる波で そこから「音聞山」という名が起こった 「音聞山」(天白区)という町名が残されている ↓↑ 天白川の名前 緑区の三王山という場所に 山王社という小さな神社があり その中に 天白社という社があって由来となっている ↓↑ 山王神社 比叡山の東にある 日吉大社の別称 神仏習合時代に 山王権現と呼ばれた ↓↑ 天白社 正体が不明 本州のほぼ 東半分にみられる民間信仰 星・水・安産 祈願など ↓↑ 星の信仰 天白 天一神と太白神から出たもの 星の神 伊勢神宮に 天白が星の神である 「てんはくのうた」 という神楽歌が伝わる・・・ 天白を 太白星(金星⇔金生・金姓)と考えていた・・・? ↓↑ 白浪滔天=白浪が山のように高い 不分鄢天白日地干=昼夜を分かたず働く 大天白日=真っ昼間に強盗を働く ↓↑ オシラサマ信仰 「てんぱく」と音読みされる以前は 「おしら様 (オシラサマ)」=蚕神、農業神、馬神 と呼ばれた 桑の木で作られ二体一組の偶像 道教と習合されて 天白神信仰になった・・・ 「オシラサマ」は アイヌの 「シランパカムイ」 ↓↑ 白髭神社 古代の 新羅系渡来人が 自分達の祖先を 「新羅明神」として祭ったものが元 「新羅(しらぎ)」=「白(しろ)」 古代の有力氏族の 「白猪(しらい)」氏も渡来系 ↓↑ ・・・伊吹山の白猪神は日本武尊の敵対者 ↓↑猪名部 真根=天皇や氏族に隷属する品部 (いなべのまね)・・・ 猪名部御田 (いなべのみた) 猪名部は 土木技術の工匠集団 その部民の伴造で工匠集団の長は ↓↑新羅系の渡来人が任命されていた・・・ 白猪氏から分かれた 荒田井氏は 緑区鳴海の辺りに住んでいた・・・ ↓↑ 民俗学者 柳田国男は 天白は風の神かも・・・ ↓↑ 緑区の三王山のすぐ近くに 隕石に由来する 星崎がある 志摩市 大王町の 天白信仰も、隕石に関係する 東日本に分布 「てんばく」 原住民の信仰・・・ 志摩の大王町 天白川 近くにも 旧石器時代の遺跡 ーーーーー 雄略天皇 蘇我満智が 国内の献納物を納める 大蔵の取締りを命じられ その配下の 秦氏出納 東漢氏、西文(カワチ)氏は記帳をした ↓↑ 王辰爾の子孫 白猪・・・伊吹山の神・日本武尊に祟る ↓↑ ↓↑ 二十一代 「雄略天皇=日本武尊」? 大泊瀬幼武 (おおはつせわかたけ) 大泊瀬幼武尊 (おおはつせわかたけるのみこと) 大長谷若建王 (おおはせわかたけるおう) 「武=ワカタケル・タケル=建=若建」 「獲加多支鹵・多支鹵」 ↓↑ ↓↑ 熊本県の江田船山古墳出土鉄剣銘文 「治天下犭复□□□歯大王」 「多遅比弥都歯別」 (タジヒノミズハワケ) 十八代反正天皇(書紀) 水歯別(古事記) ↓↑ ↓↑ 埼玉稲荷山古墳出土の鉄剣銘文 「治天下獲□□□鹵大王」 「獲加多支鹵大王」 ワカタキル・・・鹵⇔ロ⇔ル ・・・鹵=ロ(ろ)=鹽=塩 塩=土+𠂉+口+皿 鹽=臣+𠂉+鹵+皿 𦣪=𥂁・䀋・盐・𨣎・𪉟・𪉩・𪉹 ↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑ 「獲加多支鹵大王」 ワカタケル 大長谷 若 建 =雄略天皇 ↓↑ ↓↑ 『宋書』本紀 順帝紀 昇明元年(477年)十一月己酉条 倭国が遣使し方物(地方名産物)を献上 ↓↑ ↓↑ 「倭王武」が「南朝宋」に上表 477年 「使持節 都督倭・百済・新羅・任那・加羅 秦韓・慕韓七国諸軍事 安東大将軍 倭国王」 と自称し 478年=昇明二年五月戊午条 「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅 秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」 と 「順帝(南朝宋の末代皇帝・姓は劉、諱は準 第6代明帝の第三子 第7代後廃帝の弟 沈約の『宋書』后妃伝で 実際には 明帝の弟・桂陽王、劉休範の子)」 から叙された ↓↑ ↓↑ ↓↑ 「雄略天皇=日本武尊=倭建=倭男具那=日本童男」 (ヤマトオグナ) 「小碓命(おうすのみこと)」 は 白猪=猪名部=新羅の技術者集団に殺された? 白猪氏 船氏 津氏 は河内の 古市に住み 西琳寺は西文氏 葛井(ふじい)寺は白猪(しらい)氏 野中寺は船氏 の氏寺 漢人、阿智の使主の末裔 東漢氏で檜隈に住む 檜隈寺は東漢氏 の氏寺 ↓↑ 大和、河内、山城の地域 帰化人の人口は全体の35%超 5世紀後半 今来の漢人 鞍作、錦織、金作諸氏 百済より渡来し 蘇我稲目を支援 天皇家は彼らを使用 雄略天皇以降 蘇我→韓子、高麗、稲目、馬子 と天皇に仕え 帰化人たちを統括した 韓子、高麗、稲目、馬子 が半島由来の名 ↓↑ 蘇我石川宿禰 満智(まち)-韓子(からこ)-高麗(こま)-稲目 蘇我氏は百済系渡来人の総領家 漢(あや)氏や秦(はた)氏を従えた 財政官僚 大伴氏や物部氏らは 軍事官僚 ↓↑ 小姉君(小兄比売)は渡来人の ペルシャ(波斯)人or白人(新羅)との混血・・・? 『新撰姓氏録』に 「弓月の君」 に率いられてきた一族に 「秦氏」 ↓↑ 蘇我小姉君(そがの おあねのきみ) 蘇我稲目の娘 姉妹 蘇我堅塩媛 兄弟 蘇我馬子 欽明天皇の妃 ↓↑ 子供 茨城皇子 葛城皇子 穴穂部間人皇女 穴穂部皇子 泊瀬部皇子(崇峻天皇)・・・東漢直駒に殺害 ↓↑ 孫 聖徳太子(厩戸皇子) 来目皇子 殖栗皇子 茨田皇子 麻呂子皇子 酸香手姫皇女 蜂子皇子 錦代皇女 佐富女王・・・皇女、王女でなく女王? ↓↑ 女王は女帝、女支配者? 女性の王 王の后 内親王の宣下のない皇族の女性 皇族で3世以下の嫡男系嫡出の女性 ↓↑ ↓↑ ↓↑ 佐富女王(さとみのひめみこ さふのひめみこ さほのひめみこ) ↓↑ ↓↑ ↓↑↓↑ 狭穂 姫命 (さほひめのみこと) 沙本 毘売命 佐波遅比売命 (さわじひめのみこと) ↓↑ 垂仁天皇五年十月薨 垂仁天皇の皇后 (垂仁天皇二年二月九日立后) 皇子 誉津別命(本牟智和気御子) 同母兄 狭穂彦王(沙本毘古) ↓↑ ↓↑ ↓↑↓↑ 父は田目皇子(多米王) ・・・駄目・試・同目・多目 母は穴穂部間人皇女 穴穂部間人皇女は 田目皇子(多米王)の父 の用明天皇の皇后で 用明天皇の崩御後に 田目皇子(多米王)と再縁し 佐富女王を産んだ 聖徳太子の異母兄の娘かつ異父妹 甥で、従兄弟に当たる 長谷王 (聖徳太子と膳部菩岐々美郎女の子) と結婚し 葛城王 多智奴女王・・・? 女王⇔多くを智(知日)る奴 を産む ーーーーー ・・・紀元前722年~紀元前660年=神武元年 ↓↑ 徳公(トクコウ) 紀元前710年~紀元前676年 ・・・紀元前722年~紀元前660年=神武元年 ↓↑ 722-660=62=六拾弐=陸拾貳 秦の第六代公 憲公の次子 ↓↑ 武公二十年(前678年) 同母兄の武公が死んで 徳公が 秦公となった 33歳 ↓↑ 徳公元年(前677年) 雍城の大鄭宮に住み 犠牲 三百牢を供えて・・牢=家畜化された牛 鄜畤(フジ)・・・夢から覚めた 文公は 鄜に祠廟を建てて 白帝(中国の神様)を祀った (紀元前756年) 白帝は西方角と五行金徳の神 を祠った この年 梁伯・芮伯が来朝した ↓↑ 徳公二年(前676年) 初めて 伏の節・・・伏=イ+犬=ふす・フク ↓↑ 圧伏・畏伏・帰伏・屈伏 降伏・承伏・信伏・説伏 夏の最も暑い時期 「伏日/三伏・初伏」 仏法の力で人を ↓↑ 降伏・折伏・調伏 を行い 狗(いぬ)を殺して 蠱(コ・悪気)をふせいだ・・・穀物につく虫 この年に死に 長子の宣公が立って 秦君となった ↓↑ 蠱(コ)=まじないに使う虫 ↓↑ 人を害する呪いや毒薬 蠱毒・巫蠱(フコ) 惑わす・乱す 蠱惑(コワク)・・・ 「怖い・恐い・強い」+句? 易の六十四卦の一 上卦は艮(ごん)(山) 下卦は巽(そん)(風) 山風蠱とも 蠱は故(こ)の音通 事の意 風が吹いて山林中の 汚気を一掃 旧弊を一新 ↓↑ 蠱物(まじモノ)=まじないをしてのろうこと まじない術・まじ 「畜(けもの)仆(たふ)し、蠱物する罪」 (祝詞・六月晦大祓) 人を惑わすもの・魔性のもの ↓↑ 蠱毒(こどく)=古代中国の呪術 動物を使うもので、華南の少数民族の間で 受け継がれ 蠱道、蠱術、巫蠱(フコ) ーーーーー ・・・???・・・韓非子(カンピシ)・・・ 法治でアラずば・・・韓の子にアラず(非)・・・?
ーーーーー ・・・???・・・ ↓↑ ↓↑ 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
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モウ君の総合目次(倉庫入り昔のぺ-ジです)では若干覗(覘)けるカモ・・・
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コジキ姫「壱与」、カンジて赤い絨毯にのり、空をカケメグル 「古事記・字源」物語
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・・・興味があるなら・・・ドウゾ・・・
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