『条約十一国記』を書き上げた「福沢諭吉」
2022/9/1・木曜日・210日・・・追加添文・・・
動きが定まらない「颱風11号」・・・颱風相場・・・
9月1日、宮古島南東の海上を南西に進んだ・・・
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「戦争兵器の市場の相場」・・・ドローンとミサイル・・・半導体
「兵士の命の市場の相場」・・・少年・青年・成年・中年・老年
・・・儲かるなら「敵」にも「武器」を売るのが常套・・・
商売に敵も味方も無いのはアタリマエ・・・
好き嫌いでは「商売」は成り立たない・・・が・・・
「ロシアのガス相場」・・・
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「アメリカンフットボール
(American football
米式蹴球・鎧球(ガイキュウ)
起源1869年
選手数
グラウンド上で11人)」
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・・・「正義を潰せとは、信じられないカモしれませんが?」・・・
「井の中の蛙 大海を知らず、されど空の深さを知る?」・・・
「尚且つ、空の深さも知らず」では?・・・
「意の中を交わす、他意解をしらす」?・・・
「かわす・かはす=躱す=巧みに避けて逃れる・逸らす・ソラす」・・・
「蛙=かえる=替える・換える・還る
変える・代える・返る
孵る・反る・帰る・買える」・・・
「五代友厚」・・・ゴを代える友の厚さ・・・?
↓↑ 1869年・・・1月27日(明治元年十二月十五日) ↓↑ 旧幕府軍が 「蝦夷共和国」を樹立 6月27日(明治2年5月18日) 箱館戦争(蝦夷共和国戦争)終結 8月15日(明治2年7月8日) 太政官制(職員令 民部省・大蔵省・兵部省・刑部省 宮内省・外務省の二官六省制を採用) 蝦夷地に開拓使を設置 ↓↑ 同時に 蝦夷地は北海道と改められ 正式に? 9月20日(明治2年8月15日) 蝦夷地を北海道と改称 11国86郡が設置 大学校の設立 11月17日 スエズ運河、開通 12月25日(明治2年11月23日) 公衆電報の取り扱い開始(東京~横浜間)
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・・・「沢=さわ・タク=澤=氵+睪(罒幸)」・・・「皐」・・・「訳=わけ・とく・ヤク・エキ=譯(罒幸)」・・・「訳(譯)語田=おさだ」・・・「大津が謀叛の疑いをもたれ大和(やまと)で磯城(シキ)の訳(譯)語田(をさだ)の家を引き出されて、磐余(いはれ)の池の堤で処刑され、二上山に葬られた(大津皇子、24才)」・・・「訳(譯)語田(おさだ)という地名は現在は残っていないが、今の戒重(カイジュウ)という地区にあったらしい」・・・それにしても「訳(譯)語田(おさだ)」は、ナゼ、「訳(譯)語田(わけゴだ・とくゴだ・トゴデン・ヤクゴデン・エキゴデン)」とヨマないんだか・・・ をさだ=訳(譯)語田=他田 =長田=長多=蓬田 =納田=押田=治田 =織田(おだ、おりた、おた、おさだ) =尾定=小佐田・・・「御沙汰」? 御沙汰=おさた・ゴサタ 天皇や貴人の命令・指図 おさばき・ご処置 最高権力者の指示・命令 権力意思に基づいて 行われる官府や裁判などの指示、命令 ーーーーー 「訳(譯)語田・幸玉宮」の所在地・・・譯の語を田(かる) 幸の玉の宮(キュウ) 桜井市「戒重」・・・戒(いましめ・カイ)が重(かさなる) または「太田」・・・太(ふとい・おほ・タイを田(かる・デン) という二つの説 地名は平安時代に 「他田(オサダ)」・・・他(ほか・あだし・タ)を田(かる・デン) 他所(よそ) と表記 奈良時代に 「他田(オサダ)」臣の姓氏があった 「敏達天皇一年(ユリウス暦572年4月30日) 欽明天皇の第二子 訳(譯)語田皇子が即位し 第三十代・敏達天皇」 「敏達天皇・沼名倉太玉敷 訳(譯)語田(他田=おさだ)」 「訳(譯)語田渟中倉太珠敷尊 (おさだのぬなくらふとたましきのみこと 日本書紀) 沼名倉太玉敷命 (ぬなくらふとたましきのみこと 古事記)」 「大永四年(1524)戒重-春日神社を 長田(おさだ)宮」とも 「朱鳥一(686)年八月封400戸を加えられ 同年九月、天武天皇が亡くなると 十月二日、 新羅僧「行心」らに 唆(そそのか)されて謀反を企て 「訳(譯)語田(桜井市-戒重)」 の家で死を賜った 二十四歳 即日、妃の 「山辺皇女」・・・山(やま・サン)の辺(あたり・ヘン) は嘆いて殉死・・・巡視・荀子 準指(準指導員)⇔「准南・淮南」史?
ーーーーー 睾丸(Balls)とも呼ばれ、左右1対 俗称は、金玉、玉、ふぐり(布久利) ↓↑ 睾=丿+睪=丿+罒+幸 =丿+罒+一+辛 =丿+罒+一+立+十 =さわ・たかい・コウ・カウ きんたま・男性の持つ生殖器官・精巣 澤・水辺の低地・・・・澤(沢)⇔譯(訳)・・・睪=尺 高いさま・広いさま 異体字、睪(繁体字)=皐=皋 皐(異体字)・・・「皐月(さつき)」の皐 ・・・「皐魚の泣」の皐 親の死を嘆き悲しんで泣くたとえ 韓詩外伝(カンシガイデン)? 皋(異体字) 訓読み=さつき・さわ・きんたま・おお 睾丸・睾然・睾蘇 蘭=ラン(orchid) ギリシア語で睾丸を意味する ορχις (orchis)に由来 イヌのフグリ 陰嚢(ふぐり)⇔「河豚・鰒・鯸・鮐」詈(理) 背嚢(ハイノウ) 罵詈雑言 ふ-ぐり(くり) す-ぐり(くり)・・・栗=くり=庫裏 ぐり=屈輪・倶利=堆朱、寺院建築などの 蕨 (わらび) 形の曲線の連続文様 ぐりぐり・デキもの・腫れモノ 村主(す-ぐり)⇔勝(すぐり・かつ・ショウ) 勝海舟? 古代の姓(かばね)の一 韓・漢からの渡来人の統率者に与えられた 酸塊(すぐり・サンカイ) =ユキノシタ科スグリ属植物の数種の総称 ユキノシタ=雪の下=虎耳草(コジソウ) 西洋スグリ(グズベリー・マルスグリ) 果実の形状から アボカド スペイン語名aguacateは ナワトル語で睾丸を意味 ahuacatl auacatl に由来との説もある・・・ 皐=皋=臯=曲がりくねった奥深い沢 ↓↑ 九皐=幾重にも曲がりくねった奥深い沢 ↓↑ 鶴九皐に鳴き声天に聞こゆ(詩経 小雅、鶴鳴) 鶴の声は天に聞こえる 賢人は身を隠しても その名声は広く世間に知れ渡る ↓↑ 鶴鳴之士=才能や能力があっても 世のために使われることなく 世間から認められていない賢者 公職についていない賢者 鶴鳴九皐=山奥に隠遁している賢者 山の中から 鶴の美しい鳴き声は聞こえるが 姿を見ることは出来ない (後漢書-楊賜伝) ↓↑ 皐=皋=臯 =曲がりくねった奥深い沢? ↓↑ ↓↑ 「沢(澤)三伯」 ↓↑ ・・・さわじ姫=佐和遅姫 佐波遲比賣命=沙本毘賣命 ↓↑ 高野 長英 文化元年五月五日(1804年6月12日) ~ 嘉永三年十月三十日(1850年12月3日) 江戸時代後期の医者・蘭学者 通称は悦三郎、諱は譲(ゆずる) 号は瑞皐(ずいこう) 実父は後藤実慶 養父は叔父・高野玄斎 江戸幕府の異国船打払令を批判し開国を説く 弾圧を受け死去 1898年(明治三十一年)七月四日) 正四位を追贈 主著に 『戊戌夢物語・わすれがたみ・三兵答古知機』 など オランダ(阿蘭陀・和蘭陀)語の 文献の翻訳も多(さわ・おほい・多) ↓↑ 仲間の 伊東玄朴(名は淵 妻はオランダ通訳の 猪俣傳次衛門の 長女・照) が 長英を階段から突き落としたが 長英は 「GEVAARLIJK!(オランダ語で危ない!)」 と叫んだ GEVAARLIJK=ヒゥヴァールリック ヘフぁーレク 把付嗚呼例句? 蛙鴉例句? DANGEROUS =デンジャぁラス 伝 邪 蛙等素? ↓↑ 岩手県奥州市水沢(水沢市)で 三偉人 高野長英、後藤新平、斎藤実 の一人 ↓↑ 澤=沢=佐和=さわ=多 ↓↑ 稲城の火責めの中で死んだ 「佐波(遅媛)・佐和(知姫)」は 「垂仁天皇の妃(后・皇后)」だった 「藝」の漢字は 聾唖(おし)の 「佐波遲比賣命=沙本毘賣命」の皇子 「品牟都和氣命=本牟智和氣御子」が 「阿藝(あぎ)=今聞高往鵠之音、 始爲-阿藝-登比」 と声を発した時に 記録されている「文字」 「藝(ゲイ)→藝術、技藝」の類字に 「芸(ウン)→香草、芸香(ウンコウ)」 と読ませている漢字 「阿藝」は「あぎ」ではなく 「アウン=阿吽」である・・・? 「大修館漢和辞典(731ページ)」 には 「本の虫食い」を防ぐ「防虫草」で 「草刈・草ぎる→草薙・黄(きい)ばむ・多い」 と説明 「芸(藝)術」の「藝→芸(ゲイ)」は 「新字体」・・・ 同じ「大修館漢和辞典(732ページ)」に 「芸(ゲイ)」が記述されているが 「藝」の漢字は無い 「芸(ウン)←藝→芸(ゲイ)」 は何時から?・・・ 「芸亭(ウンテイ)」は歴史では 「石上宅嗣」が開設した 日本最初の公開図書館である 「芸編(ウンヘン)」は「書物」 「芸閣(ウンカク)」は 「書庫、書斎で、書籍、本の倉庫」である そして 「芸省(ウンショウ)」は 「秘書省・秘書局」で、「局=個室」・・・ ↓↑ 泣沢女神(なきさわめのかみ) 須佐之男命の 御子(みこ)である 八島士妖美神は、 大山津見神の娘である 木花知流比売(このはなちるひめ)をめとり、 布波能母遅久奴須奴神 (…その涙から 泣沢女神(なきさわめのかみ)が生まれた ↓↑ 稲城の火責めの中で死んだ 「佐波(遅媛)・佐和(知姫)」は 「垂仁天皇の妃(后・皇后)」だった ↓↑ 参考は以下に断りも無く添付させて頂きました。申し訳ありません・・・「疑義のある記録文書解読」のお助けと思って・・・お許しを・・・ ↓↑ ーー 尾張国司 多治 比 真人 水守と 面会 『続日本紀』 ー ・・・「多治比=タジヒ」とは「多くを治め比べる」か、「治」の音を採って異字にすれば「多字比」で「多くの字を比べる」、「多くの慈悲・自費」である。 「おおはる」と言う地名も愛知にはある。「愛知県海部郡大治町」の「大治(おおはる)」である。名古屋市に隣接している。 ーー 多治比真人嶋 多治比真人嶋 (たじひ・まひと・しま・624~701) 嶋の次男 「水守(みずもり)」 ーー 「水主」と書いて「かこ」と読ませている場所も名古屋にある。「名古屋市水主町」である。そして「加古」は「過去」で、「賀古←古賀」である・・・「古賀謹一郎」は「蕃書調所(蛮書調所・ばんしょしらべしょ・1856年・安政三年)開所の頭取である・・・ ーー 多治比(丹比)真人(たじひ・まひと) 多治比真人嶋(たじひ・まひと・しま)は 朝廷から 文武四年(700)正月十三日 老齢と勲功をねぎらい 「霊寿の杖」と 「輿」 および 「供人(従者)」を授与される ーー ↑ 人麻呂の「死」に関する歌を 「万葉集」に残した? 多治比真人三宅麻呂の歌? ↓ ーー 万葉集巻二、 223~227に 柿本人麻呂の最晩年の歌 「鴨山五首」 一連の歌の四首目 丹比真人 名闕(欠)く 柿本朝臣人麻呂の意に擬へて 報ふる 歌一首 ー 荒浪に寄り来る玉を枕に置き 吾ここにありと、誰か告げなむ 226 ー ↑ この歌は 多治比真人三宅麻呂の 歌とする説があるらしく 人麻呂の死は 和銅二年ごろ 敢えて名前を伏せる必要があった人物 流罪になった三宅麻呂の可能性が大 ーーー 天武十一年(682)~ 神護景雲二年(768)まで 86年間に記載される 多治比真人一族の名 年代順 嶋、麻呂、池守、水守、三宅麻呂、県守、夜部、広成、 吉備、吉提、広足、占部、屋主、多夫勢、伯、国人、 家主、牛養、祖人、木人、犢養、土作、石足、乎婆売、 若日女、犬養、礼麻呂、鷹主、小耳、長野、乙麻呂、 伊止、古奈祢 総計三十三人 ーー ・・・それにしても、ナマエが「音」からの意味なのか、「文字」からの意味なのか、その双方なのか・・・「誕生地」、「誕生時」、「職業名」は「文字」から推察できるが・・・「小耳」は顔につく「耳の形の大小」なのか、「小耳に挟む」などと言うコトバがあるから「情報通」なのか、とにかく「33人」である・・・ ーー 万葉集の時代の事件 天武元年(672) 壬申の乱 天武十一年(682) 大津皇子の変 天平元年(729) 長屋王の変 天平十二年(740) 藤原広嗣の乱 天平宝字元年(757) 橘奈良麻呂の変 天平宝字八年(764) 藤原仲麻呂の乱 ーー 最初の人物 多治比真人嶋 ・・・多字(持・時・事・耳)比真人問 は 「宣化天皇の玄孫・日本書記」 「三代実録」によると 宣化天皇~恵波皇子~十一王 ~多治比古王~多治比嶋 の系図である ーー 恵波皇子を 読めば、 えなみ=めぐみなみ=ケイハオウジ とあまりひとつ=ジュウイチオウ おほはるひこ=タジヒコオウ 「多治・比古・王」は 「多治 彦 王」であろう。 であるならば、 「古」を欠落させた 「多治比」は 「多の治の比」で、 「古(ふるい・いにしえ)」である ーー 大宝元年(701) 正二位左大臣で死亡 享年七十八歳 真人の姓 天武十二年(683) 六十四歳の時 ー 「真人」は 「天武天皇十三年(684)」に 「八色の姓」の制定されたモノだが、 第一真人、第二朝臣、第三宿禰、第四忌寸 第五導師、第六臣、第七連、第八稲置 コレ「以前」のものと比較すべきである・・・ ー 当時活躍していた者 池守、水守、三宅麻呂、県守、広成、広足の 六名 池守は・・・池守??? ↓↑ 池田 筑 後 守 長発 (いけだちくごのかみ ながおき) 天保八年七月二十三日 (1837年8月23日) ~ 明治十二年 (1879年9月12日) ↓↑ 備中国松山藩 井原(岡山県)の領主 ↓↑ ↓↑ 元治元年(1864年)二月二十三日 文久三年(1863年) 第二次 (第二回遣欧使節 横浜鎖港談判使節団) 遣欧使節団の 「池田長発」隊 仏艦ル・モンジュ号 ↓↑ ↓↑ 文久二年十二月二十二日 (1862年1月21日) 第一次 (第1回遣欧使節 開市開港延期交渉使節)) 遣欧使節団の 「竹内保徳」隊 英国海軍の 蒸気フリゲート、オーディン号 ↓↑ 1862年9月22日 リンカーン・奴隷解放宣言 ↓↑ ↓↑ 文久二年九月十一日 (1862年11月2日) 幕府の 第1回留学生が長崎を出帆 (榎本武揚、赤松則良、西周 ら15名) ↓↑ ↓↑ ロンドン万国博覧会 1862年5月1日~11月1日 開催 ↓↑ 「竹内保徳」隊 文久二年十二月十一日 ↓↑ (1863年1月30日)帰国 嶋の第一子、 広成は第五子 広足は嶋の子 「続日本紀」の記録 嶋の子 水守が第二子、 三宅麻呂が第三子 県守は第四子 らしい・・・ ーーーーー 太田 源三郎 (おおた げんざぶろう)? 生年月日 1835年4月18日 江戸時代 明治時代の通詞 1895年没 Mr.Ohataは静岡藩士 1862年~1863年に ヨーロッパ使節・・・定役格通詞 の通詞、通訳 ↓↑ 竹内 下野 守 保徳 (たけうち しもつけのかみ やすのり) 外国奉行、正使 ↓↑ 太田 源三郎 横浜語学所の英学教授 教育指導者として 他の藩に派遣される という制度で 静岡藩の御貸人として 福井藩に雇われた 横浜語学所が閉鎖してしまって 浪人し 勝海舟 の世話で 福井藩に斡旋した 高橋是清 は仙台藩から派遣されて来た 数え年十二歳のときに 横浜へ来て 初めは横浜にいた通訳の 太田源三郎 の所から ヘボン塾に通った その後、働きながら 実用的な英語の勉強をした ↓↑ 日下部太郎⇔旧名は八木八十八(やぎやそはち) 22歳の時に海外旅行免許状 (パスポート・幕府の免許状発行が 4番目であることから 当時日本でも留学創成期に 渡米した)を携え渡米 遊学先の長崎から ジャワを経てアメリカへ向かう この時に藩主の 松平春嶽から 日下部太郎の名を拝命 (日下部は八木家の先祖の姓) ↓↑ 150日の航海の末 ニュージャージー州 ニューブランズウィック に到着 ここで1年前に密航で海を渡っていた 伊勢佐太郎 と 沼川三郎 の兄弟に出迎えられる ↓↑ ラトガース大学入学前に付属中学に入学し 英語と基礎教育を受け ここの教師をしていた 2歳年上でラトガース大学生でもあった ウィリアム・グリフィスと出会う 23歳の時ラトガース大学に入学し 2年に編入 ↓↑ グリフィス=「希利比士(グリヒス)」 ウィリアム・エリオット・グリフィス (William Elliot Griffis) 1843年9月17日~1928年2月5日 アメリカ合衆国出身の お雇い外国人 理科教師、牧師、著述家、日本学者、東洋学者 ラトガース大学で 福井藩からの留学生であった 日下部太郎と出会い、親交を結ぶ その縁により 明治四年(1871年) 日本に渡り、福井藩の藩校明新館で 同年3月7日~翌年1月20日まで 理科(化学と物理)を教えた 1876年 アメリカで刊行した The Mikado's Empire (『ミカドの帝国』あるいは『皇国』)は 第一部が日本の通史、第二部が滞在記 ーーーーー 「聞く・話す」は表音文字 「読み・書き」は漢字 文字の「書く、読む」 口頭の「聞く、話す」 「聞く、話す」は表音文字で情報交換 福沢と万次郎が 『ウエブストル』を初めて輸入 万延元年(一八六〇) 咸臨丸がアメリカへ渡り 福沢は通弁の中浜万次郎と一緒に買った 安政二年 ペリーが 『ウエブストル』 の字引を持ってき 名村五八郎 というオランダ通詞に与えた 名村五八郎はそれで complaint(訴訟)という単語を引いた・・・
訪米から戻った 福沢は 『西洋旅案内』 『条約十一国記』 を書き上げた (福沢が 『条約十一国記』と題し 国旗とその国の状況を紹介する本) 慶応三年までに わが国と条約を交換した 十一ヶ国 アメリカ、オランダ、イギリス、ロシヤ フランス、ポルトガル、プロシヤ、スイス ベルギー、イタリー、デンマーク の各国について 簡略な紹介をした小冊子 ↓↑ 慶応三年冬に上梓 表紙は本文と共紙の土佐半紙 上部に黄色のリボン 書名 その下に 北アメリカ合衆国 と デンマークの国旗 が描かれ 見返しは 太罫の匡郭の中を縦三行に割り 「慶応三年丁卯仲冬/ 条約十一 国記/ 福沢氏蔵版」 と記し、右側の刊年の下部に 「福沢氏図書記」 または 「慶応義塾蔵版之印」 の長方形朱印が押捺 口絵二丁に 条約各国の国旗を描き 序文一丁、本文二十四丁 ウラ表紙も本文と共紙の無地 この書には京都の 醍醐家で出版した偽版がある 網代模様の 地紋の濃藍 または 黄の厚表紙を用い 左肩に子持罫の枠の中に 「条約十一国記全」 と記した題箋を貼り 表紙の見返しは黄、緑 または鼠色の和紙を用い 太罫の枠の中を 縦三つに割り、中央に 「条約十一国記」 と記し左右はブランク 口絵も序文も本文も真版そのまま 巻末の表紙ウラに 此冊子旧冬 於江戸版成然処依 当春騒擾未弘両三冊流伝 而巳求得之一読了欲令方 今諸人亦一読故急翻刻為蔵版 「醍醐家蔵版」と彫った 大きな長方形朱印が押捺 この本の表紙 20星は厳密には 1818年7月4日~1819年7月3日まで 「星条旗」の紅白の条は 1818年以来 13本だが 11本 アメリカ合衆国の国旗 星条旗(the Stars and Stripes) 正式名は 合衆国旗(Flag of the United States) 白線と赤線の組み合わせの 13本の横縞(赤7本と白6本) 四角に区切った左上部(カントン)は 青地に50の白い星が配置 白は purity(純粋) innocence(純潔) 赤は hardiness(たくましさ) valor(勇気) 青は vigilance(戒心) perseverance(忍耐) justice(正義) 縞模様は独立当時の 13の入植地 星は現在の州を表す 現在のデザインは 27代目 今までに 26回デザインが更新 ↓↑ 「日の丸」の記録 平安時代初期の 延暦十六(797)年に編纂された 「続日本紀」 大宝元(701)年正月元旦の朝賀の儀 「日像の旗」を掲げた・・・ ーーーーー 多(おおの・おほの・タ) 品治(ほんじ・ほむじ・ヒンチ) 生年不詳~ 持統天皇十年 (696年八8月?) 姓は 臣、 後に 朝臣 672年の壬申の乱で 大海人皇子(天武天皇)側で戦い、 莿萩野を守った ー 「多品治(おほのほんじ)」は 「多くの品(ほん)を治(おさ)む」である 「多くのシナをハル」、 これは 「多くの本を修む」である。 ー 壬申の乱が勃発 多品治は 美濃国の 安八磨郡(安八郡)の 湯沐令 (皇子の生計を支える 封戸を管理する役職) 大海人皇子は 六月二十二日に、 村国男依、 和珥部君手、 身毛広 の 三人を美濃国に先行するよう命じた 任務は 多品治と接触、連絡し、 安八磨郡を挙兵させること 美濃の兵三千が 不破道を塞ぐ 美濃国に入った 大海人皇子は、 七月二日に軍を 数万の二手に分け 一軍を伊勢国の 大山越えで大和国へ、 もう 一軍を直接 近江国に入らせることを命じ 多品治は、 紀阿閉麻呂、 三輪子首、 置始菟 とともに 大和に向かう軍を率いた この後、 品治は別に命令を受け取り、 三千の兵とともに 莿萩野(たらの)に駐屯する 莿萩野の位置は、 伊賀(当時は伊勢国に属す)の北部 大和、伊賀、伊勢、美濃 と続く連絡線のうち 伊賀を守る位置 田中足麻呂が 近江と伊賀を結ぶ 倉歴道を守る位置についた。 ー これに対して 大友皇子側の将、 田辺小隅は、 五日に倉歴を夜襲 守備兵敗走、 田中足麻呂 は一人逃れた 小隅の軍は翌日 莿萩野を襲おうとしたが、 多品治はこれを阻止し、精兵で追撃 小隅は一人免れて逃げた ーーーー 日本書紀 十二月四日に 勲功の人を選び冠位を増し、 小山位以上を与えた 天武天皇十二年(638年)十二月十三日 多品治は 伊勢王、羽田八国(羽田矢国) 中臣大島とともに、 判官・録史・工匠 といった部下を引き連れて全国を巡り 諸国の境界を定めた。 品治の位は 小錦下 ーー 天武天皇十三年(684年)十一月一日 多臣など 五十二氏に 朝臣の姓を賜う 天武天皇十四年(685年)九月十八日 天武天皇は皇族・臣下と 大安殿で博打 このとき 天皇は 大安殿の 中に、 皇族と臣下は 殿の前に位置し 多品治は 天皇の 衣と袴を与えられた 十人中の一人であった ーー 持統天皇十年(696年)八月二十五日 多品治は 直広壱と 物を与えられた 品治を 太安万侶の父とする説がある (『阿蘇家略系譜』) ーーーーー ・・・
・・・「あかし=赤石・ルビー(ruby)・明石・灯・証・赤司」・・・「アか・アき・アく・アけ・アこ」・・・「あかじ=赤字・赤地(赤丹?)・赤児・朱地(朱丹)・朱路・・・朱鷺(とき・鴇・Nipponia nippon・ニッポニア・ニッポン)」・・・「赤=十+亦」・・・ 「赤貝(あかがい=蛙化甲斐?=鴉化蝦夷⇔赤蝦夷⇔赤蝦夷風説考(あかえぞふうせつこう)=江戸時代中期の医師・経世家である工藤平助が著したロシア研究書・赤蝦夷(セキカイ・あかえぞ)はロシア人を意味・仙台藩藩医であった工藤平助は、オランダ語通詞、吉雄耕牛、蘭学者、前野良沢らと親交を持ち、北方海防を世に問うべく、本書を上梓・天明初年(1781年)ごろの刊行(上巻序文に天明三年癸卯正月日・上下二巻・天明三 (1783) 年、老中田沼意次に献上)・江戸期の海防貿易論・赤狄風説の事(上巻)・カムサスカ-ヲロシヤ私考之事、ヲロシヤの記事・一名ムスコヒヤ(下巻)・写本に『加摸西葛杜加(カムチャトカ)国風説考』・『魯西亜略説』」・・・ 「赤=赤毛の露西亜(ロシア・魯西亜)人の意味」・・・ 「アカガイ(赤貝・蚶・𧏛・学名Anadara broughtonii Bloody clam) フネガイ目フネガイ科に属する二枚貝の一種 内湾の潮間帯や浅海の砂泥底に浅く潜って生息 殻には42本前後の放射肋がある 他のフネガイ科の二枚貝と同様 呼吸色素がヘモグロビンと同様に鉄 ポルフィリンを補欠分子団とする エリトロクルオリンのため、 血液が赤く、これが名前の由来・・・ 水深0から60mの砂泥底に棲息 主な分布域は ピョートル大帝湾から黄海にかけての区域 日本、朝鮮半島、中国、台湾、極東ロシア」・・・ 「『古事記』に、八十神に大火傷を負わされた 大穴牟遅神(大国主)を救うため 母親の 刺国若比売 (サシクニワカヒメ) 刺国大神の娘 刺国若比売は 天之冬衣神・・・冬衣=防寒着? の妻(配偶神)で 大国主の母親 が 神産巣日(かみむすび)命 に願い 遣わされたのが 𧏛貝比売と 蛤貝比売で 彼を蘇生させた ↓↑ 蚶貝比売(キサカイヒメ)=アカガイ(赤貝) 蛤貝比売(ウムキヒメ)=ハマグリ(蛤・文蛤) 赤貝の殻の粉を 蛤汁で溶いて 火傷(やけど)に塗布し治療した」・・・ ↓↑ 「アカガイと名のつく 他の二枚貝=サツマアカガイ (薩摩)赤貝・Paphia amabilis (Philippi, 1847) (マルスダレガイ(円簾貝)科 (Veneridae) スダレガイ(簾貝)属)」・・・ 「足糸(ソクシ)を出して 砂泥や岩などに自分の体を固定する アカガイも稚貝期には 足糸(ソクシ・byssus)を出す 水管はない」
クラム (clam) は、英語で二枚貝を意味・・・眩む・暗む・句等夢? 日本ではクラムチャウダーの材料 マルスダレガイ科の 主に ホンビノスガイ (hard clam) ? ・・・ 見た目の印象から「白ハマグリ・大アサリ」 という名前で売られてた 「本美之主貝 ・・・本の美、之、主の害(甲斐・害・蝦夷)? と表記し 美之素とはこの貝が ヴィーナス属であることから『ビノス』」?
日本では ハマグリ (common orient clam) 等も使われる・・・ フネガイ目(ふねがいもく) 学名 Arcida は 軟体動物門二枚貝綱翼形亜綱に属する分類群 二枚貝のなかでも起源の古い原始的なグループ オルドビス紀から存在している 学名はフネガイ科のタイプ属 Arca に由来・・・ 元になった属名 「Arca(アカ)」 は「箱」の意で 「ノアの方舟(はこぶね)貝の殻形に由来」・・・? 「閼伽(アカ)は、仏教で仏前などに供養される水で 六種供養のひとつ サンスクリット語の argha(アルガ)の音写 功徳水(クドクスイ)と訳 閼伽井から汲まれた水に香を入れ 閼伽香水とも」・・・ ↓↑ 「フネガイ(舟貝)科は・・・フ-ネガイ? 付-願 い(希い・根害) 「ark clam・ark shell」 日本ではフネガイ科の アカガイ(赤貝)属(Anadara)の アカガイが有名 旧来は シラスナガイ上科が・・・白砂貝 ・・・しらす-ながい? ・・・知らす-長井(永井・長居)? 存在するとされていたが 近年では フネガイ上科に 含むことができると考えられている」・・・? ーーーーー 赤貝=あかがい=赤甲斐・赤蝦夷・赤華夷・赤界・朱加衣? 赤刈=赤害 阿賀カイ? 阿賀(あが)=新潟県の地名 阿賀野川流域の上流〜中流の地域 岡山県 阿賀郡=過去に存在した岡山県の郡 阿賀 (西伯郡南部町) 鳥取県西伯郡南部町の地名 阿賀 (呉市)=広島県呉市の汎称地名 安芸阿賀駅 英賀カイ? 英賀(あが)=兵庫県姫路市飾磨区の地名 飾磨区「英賀」 飾磨区「英賀」清水町 あかし 明石=赤石=紅石=朱石 ↓↑ 日本標準時子午線 Japan Standard Time Meridian 日本の標準時(中央標準時)の基準となる子午線 明治十九年勅令第51号 「本初子午線経度計算方及標準時ノ件」 (1886年)で定められた 東経135度の経線 経度135度では 英国グリニッジ天文台を通る グリニッジ子午線(経度0度線)より 9時間の時差 東経135度は9時間進んでいる 京都府京丹後市から 明石海峡に面した兵庫県明石市 淡路島北端の兵庫県淡路市を通り 和歌山市沖ノ島西端(友ヶ島灯台近傍) をかすめて太平洋に至る ↓↑ 明石-日本標準時間 ↓↑ 明石 元二郎 「日本の諜報 スクープ 最高機密ファイル 2018年5月19日(土) 午後9時00分~9時49分・NHK」 ↓↑ 陸軍中野学校 諜報や防諜、宣伝など秘密戦に関する 教育や訓練を目的とした 大日本帝国陸軍の軍学校 情報機関 所在地は東京都中野区中野4丁目付近 校名の中野は地名に由来 偽装用の通称号は 東部第33部隊 ↓↑ 岩畔、秋草俊、福本亀治各中佐を中心とし 1938年(昭和13年)3月 「防諜研究所」として新設 秋草 俊(あきくさ しゅん) 1894年(明治27年)4月6日~1949年(昭和24年)3月22日) 甲午(丙・ ・丁)⇔己丑(癸・辛・己) 戊辰(乙・癸・戊)⇔丁卯(甲・ ・乙) 戊寅(己・丙・甲)⇔辛亥(戊・甲・壬 申酉=空亡 ↓↑ 陸軍少将 陸軍士官学校(26期)卒 陸軍中野学校校長(初代) 同年7月より 特種勤務要員(第一期学生19名)の教育開始 1939年(昭和14年)5月 「後方勤務要員養成所」に改編 7月には第一期学生の卒業 1940年(昭和15年) 「陸軍中野学校」と改名 1941年(昭和16年) 参謀本部直轄の軍学校へ転身 1945年(昭和20年)2月1日 ハルピン特務機関長 ソ連抑留ウラジミール監獄で死亡 ↓↑ 錬成要領 「外なる天業恢弘の範を 明石大佐にとる」 明石元二郎(大佐は日露戦争当時の階級) の報告書『革命のしをり』を基本教材とし 神(アマテラス)の意志にもとづいて 世界人類の平和を確立する 諜報工作戦士を養成 ↓↑ 明石 元二郎(あかし もとじろう) 元治元年8月1日(1864年9月1日) ~ 大正8年(1919年)10月26日) 甲子(壬・ ・癸)⇔己未(丁・乙・己) 壬申(己・壬・庚)⇔甲戌(辛・丁・戊) 己巳(戊・庚・丙)⇔辛亥(戊・甲・壬) 戌亥=空亡 陸軍軍人 陸軍大将正三位勲一等功三級男爵 第7代台湾総督 福岡藩出身 夫人は国子 後妻は黒田信子(黒田一葦の娘) ↓↑ 福岡藩士・明石助九郎の次男 福岡藩の大名町で誕生 藩校-修猷館(福岡県立修猷館高等学校)を経 明治十六年(1883年) 陸軍士官学校(旧陸士6期)を卒業 明治二十二年(1889年) 陸軍大学校(5期)を卒業 ↓↑ ドイツ留学、仏印出張、米西戦争のマニラ観戦武官を経 明治34年(1901年) フランス公使館付陸軍武官 明治35年(1902年) ロシア帝国公使館付陸軍武官に転任 首都サンクトペテルブルクの ロシア公使館に着任後 日英同盟(1902年1月30日・1905年と1911年に改定) に基づいた情報協力により イギリス秘密情報部のスパイである シドニー・ライリーと接触 明石の依頼により ライリーは 明治36年(1903年)から 建築用木材の貿易商に偽装して 戦略的要衝である旅順に移住し 材木会社を開業 ロシア軍司令部の信頼を得て ロシア軍の動向に関する情報や 旅順要塞の図面などを イギリスおよび日本にもたらした 1904年(明治37年)2月8日~1905年(明治38年)9月5日) 日露戦争 ↓↑ 第一次世界大戦で日英同盟で 日本は 1914年(大正3)8月23日 ドイツへ宣戦布告 1917年(大正6)2月から 駆逐艦や巡洋艦からなる 三つの特務艦隊を インド洋、地中海、南太平洋などに派遣 788隻の連合国側の輸送船や病院船を護送 兵員70万人を輸送 Uボートと35回交戦 駆逐艦「榊」が魚雷攻撃を受けて大破 艦長ら59人が死亡 Uボートの攻撃を受けた船から7千人以上を救出 戦後はUボート7隻を戦利品として日本まで運んだ・・・ ↓↑ 1904年(明治37年)2月8日~1905年(明治38年)9月5日 日露戦争 開戦で 中立国スウェーデンに移り そこを本拠として活動 明石大佐は日露戦争中に 当時の国家予算は 2億3,000万円程であった中 山縣有朋 により 参謀本部から当時の金額で 100万円(今の価値では400億円以上)を 工作資金として支給され ロシア革命支援工作を画策 ↓↑ ーーーーー 「…はカイ…」・・・日本が日露戦争の負債を返しきったのは昭和61年(1986年)・・・日露戦争時の借金を82年間かけて返済・・・ 1986年2月25日 フィリピンのマルコス大統領が国外脱出 アキノ大統領が就任(エドサ革命) 3月5日 青函トンネルの本州と北海道が結合 3月16日 スイスが国民投票で国際連合加盟を否決 4月15日 アメリカによるリビア爆撃。 4月26日 ソ連の ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の チェルノブイリ原子力発電所で 大規模な爆発事故発生 (チェルノブイリ原子力発電所事故) 6月5日 新潟県佐渡島のトキが2羽に 11月3日 レバノンの雑誌が レーガン政権の イランへの秘密の武器輸出を報じ イラン・コントラ事件が発覚 ーーーーー ???・・・儲かるなら「敵」にも「武器」を売るのが常套・・・ 商売に敵も味方も無いのはアタリマエ・・・ 好き嫌いでは「商売」は成り立たないが・・・
・・・「アメリカンフットボール(American football・米式蹴球・鎧球(ガイキュウ)・起源は1869年・選手数、グラウンド上で11人)」・・・「正義を潰せとは、信じられないカモしれませんが?」・・・「井の中の蛙 大海を知らず、されど空の深さを知る?」・・・「尚且つ、空の深さも知らず」では?・・・「意の中を交わす、他意解をしらす」?・・・「かわす・かはす=躱す=巧みに避けて逃れる・逸らす・ソラす」・・・「蛙=かえる=替える・換える・還る・変える・代える・返る・孵る・反る・帰る・買える」・・・「五代友厚」・・・ゴを代える友の厚さ・・・? 1869年・・・1月27日(明治元年十二月十五日) ↓↑ 旧幕府軍が 「蝦夷共和国」を樹立 6月27日(明治2年5月18日) 箱館戦争(蝦夷共和国戦争)終結 8月15日(明治2年7月8日) 太政官制(職員令 民部省・大蔵省・兵部省・刑部省 宮内省・外務省の二官六省制を採用) 蝦夷地に開拓使を設置 ↓↑ 同時に 蝦夷地は北海道と改められ 正式に? 9月20日(明治2年8月15日) 蝦夷地を北海道と改称 11国86郡が設置 大学校の設立 11月17日 スエズ運河、開通 12月25日(明治2年11月23日) ↓↑ 公衆電報の取り扱い開始(東京~横浜間) 1869年 干支己巳・・・己の巳=オノレ(私)のヨコシマ(邪) 日本(天保暦) 明治、元年11月19日~明治2年11月29日 元・・・十一・十九(拾九・足玖)・二十九(念玖) 皇紀2529年 清朝、同治7年11月19日~同治8年11月29日 七・・・漆・十九(拾九・足玖)・二十九(念玖) ・・・明字(明事・明時・明示・明地)・・・ ・・・同字(同事・同時・同示・同地)・・・ ーーーーー 五代友厚・・・語代有効? 天保六年十二月二十六日(1836年2月12日)・・・? ~ 明治十八年(1885年)9月25日(満49歳没) 丙申(己・壬・庚)⇔乙酉(庚・ ・辛) 庚寅(己・丙・甲)⇔乙酉(庚・ ・辛) 辛巳(戊・庚・丙)⇔癸未(丁・乙・己) 申酉=空亡 ↓↑ 別名 徳助(幼名)・才助(通称) 諡号 松陰・・・?・・・吉田松陰も同じ「松陰」・・・? ーーーーー ・・・明字(明事・明時・明示・明地)・・・ ・・・同字(同事・同時・同示・同地)・・・ ↓↑ 兵庫県 明石市中崎一丁目5番1号 北緯 34度38分35. 3秒 東経134度59分 50秒 ↓↑ 明石町(あかしちょう、あかしまち) 自治体 兵庫県 明石郡にあった自治体・・・字事体・字字体・字字帯・自辞退 町・字 明石町 東京都中央区 明石町 神奈川県平塚市 明石町 新潟県十日町市 明石町 愛知県碧南市 明石町 兵庫県神戸市中央区 明石町 台湾・台北市の日本統治時代の地名 ーーーーー タロットの正義の番号は「十一」or「八」? 11・正義=JUSTICE・・・「十一・拾壱・足壹」の正義? マルセイユ版タロットの正義(カード番号「8」) 「8=∞=○+○=天秤の2つの皿を垂直に並べた形」 タロットの正義 正位置 「公正・公平、善行、均衡、誠意、善意、両立」 逆位置 「不正、不公平、偏向、不均衡、一方通行、被告人」 ーーーーー 正義の異邦人(Righteous foreigner) 非ユダヤ人はノアの法に示される 比較的緩やかな 倫理上の 徳義を守るべきだとされている・・・?・・・徳義=正義? ↓↑ 「諸国民の中の正義の人」 「名誉の壁」にその氏名が記される ↓↑ 経済的困窮の状態にある諸国民の中の正義の人は、 たとえどこに居住していても、 正義の人のための ユダヤ人基金によって 経済的援助を受けることが出来る。 この基金はニューヨークに拠点を構える 慈善団体であり、 この目的のために設立・・・ ↓↑ 日本がアジアに進出した 1941(昭和16年)/12/8 ~ 1942(昭和17年)6月5日-7日 ミッドウェー海戦 日本海軍の 空母赤城、加賀、蒼龍、飛龍が撃沈 ~ 1945(昭和20年)/8/15 の「結果」 ベトナム 1885年からフランスの植民地 1945年独立 フィリピン 1900年からアメリカの植民地 1946年独立 マレーシア 1895年からイギリスの植民地 1957年独立 インドネシア 19世紀中頃からオランダの植民地 1945年独立 カンボジア 1863年からフランスの植民地 1945年独立 ラオス 1899年からフランスの植民地 1953年独立 ミャンマー 1886年からイギリスの植民地 1943年独立 インド 19世紀中頃~イギリスの植民地 1947年独立 パキスタン 19世紀中頃~イギリスの植民地 1971年独立 バングラディシュ 19世紀中頃~イギリスの植民地 1971年独立 ↓↑ Righteous among the Nations 「正義の異邦人」 あるいは 「諸国民の中の正義の人」という用語 本来ユダヤ人の伝統において 良心のある 「非ユダヤ人」を 呼ぶために使用されていた ↓↑ ユダヤの伝統によると モーセ五書、タルムード 口伝律法に 入っている 一連の諸法や諸訓示は 「ユダヤ人」に対して要求されたもの・・・? 「非猶太人」は「外人・異人種・異邦人」であり 「神の選民人種」ではない・・・? ・・・差別は区別ではない・・・? ↓↑ リーベラ(Libera)・the statue of Liberty ↓↑ ・スタチュー・オブ・リバティー スタチュゥ=銅像 「自由の女神」の「像」で女神自身ではない ラテン語=Libra 黄道十二宮の天秤宮・・・七番目 左手の天秤は、均衡を保っているにもかかわらず 左右の受け皿の大きさを変えて描かれている 「公平」とは 常に 「左右対称(平等)」を示すものではない・・・ 「8=∞=○+○=天秤の2つの皿を垂直に並べた形」 ↓↑ 天秤=古代から人の罪悪の計測器という 神話・宗教的なシンボル エジプト神話で オシリス主宰の 『死者の法廷』 ギリシャ神話で 正義の女神 アストライアーの持物 として登場 天秤座の天秤は アストライアーの天秤に由来 アストライアーを起源とする 裁判の守護女神 『審判の女神』の象徴
アストライアー(Astraiā) ゼウスとテミスの娘 他説では 星空の神アストライオス と 暁の女神エーオースの娘 アストライアーの名は 「星のごとく輝く者」 「星乙女」 の意味で ホーラ(ホーライ)三女神の一柱 正義の神格化である ディケー女神と同一視された 有翼の女性として表され ラテン語形は アストライアー(Astraea) アストレア ローマ神話の 正義の女神である ユースティティアと同一視された てんびん座(天秤座、Libra) 黄道十二星座の1 トレミーの48星座の1つ 元々はさそり座の はさみの部分 てんびん座として独立したのは 紀元前1世紀頃・・・ 古代ローマでは 昼夜の長さを等しく計る天秤・・・ 神話 ギリシア神話で 正義と天文の女神 アストライアーが 手に持っている 正義を計る天秤 隣にある おとめ座が アストライアー をかたどったものとする説も・・・ ーーーーー ↓↑ 勧善懲悪? 正義の仮面ライダー・・・人間の自由を守る戦士? 鞍馬天狗? 近藤勇? アンパンマン? ーーーーー 松方正義・・・松の方が正義? 天保六年二月二十五日(1835年3月23日) ~ 大正十三年(1924年)7月2日 ↓↑ ↓↑ 乙未(丁・乙・己)⇔甲子(壬・ ・癸) 己卯(甲・ ・乙)⇔庚午(丙・ ・丁) 甲寅(己・丙・甲)⇔壬午(丙・ ・丁) 子丑=空亡 薩摩(鹿児島)藩出身 幼名は金次郎 通称は助左衛門 号は海東 13歳にして両親を亡くす 島津久光の側近として 生麦事件 寺田屋事件等に関係 長崎裁判所参議 日田県知事に転任 大蔵省官僚として財政 内務卿・大久保の下で地租改正 松方は 大隈が進める外債による 政府紙幣の整理に反対し 伊藤博文の配慮によって 内務卿に転出 ↓↑ 明治十年(1877年)に渡欧 明治十一年(1878年)3月~12月 第三共和制下のフランスに滞在 フランス蔵相 レオン・セイ (「セイの法則」で名高い フランスの経済学者の ジャン=バティスト・セイの孫) から3つの助言を得る 第一 日本が発券を独占する中央銀行を持つべきこと 第二 フランス銀行やイングランド銀行は 古い伝統故にモデルとならないこと 第三 最新のベルギー国立銀行を精査模範 ↓↑ 明治13年(1880) 内務卿 明治14年(1880) 参議兼大蔵卿に就任 日本銀行を設立 金本位制を確立 ↓↑ 明治期に内閣総理大臣を 二度(第4・6代) 大蔵大臣を 七度(初・第2・ 第3・第4・第6・第8・第11代) ↓↑ 元老会議 日英同盟締結・明治35年(1902年)1月 ↓↑ 91~92年と 96~98年に内閣を組織 1900年元老 1903年に枢密顧問官 1917年内大臣 ーーーーー ・・・
・・・「たましぎ」?・・・「水蜜・蜜柑・蜂蜜・蜜蜂・蜜腺・花蜜・蜜蝋・蜜月・蜜豆・餡蜜(アンミツ)・糖蜜(トウミツ)」・・・「密柑」?・・・「三密≠三蜜・密教」・・・「機密・密閉・親密・疎密・密度・稠密・濃密・過密・疎密・密造」・・・スゴイね「カケ」も「カントク」も「コーチ」も・・・それに「メリケン王国のカケヤ、アキンド」も・・・「NK王朝のキンさん」も、「SK王国のトラさん」も・・・もちろん、「密(宀+必+山)」と「蜜(宀+必+虫)」がなければ、ボクも・・・「蜜語・密語」が無ければ生きられない・・・カモ・・・ 「秘密・枢密・密閉・密談・密謀・密策・密命・密約・隠密・慎密・密契・密使・密栓・気密・機密・稠密・緻密・密詔・詳密・細密・密葬・密偵・密輸・密航・密行・密室・密告」・・・ 「密集・密生・密着・密度・密閉・密林・過密・気密・緊密・親密・稠密 (チュウミツ)・厳密・周密・精密・綿密」・・・ 「顕密(ケンミツ)・台密・東密・舎密 (セイミ)」・・・ 「密=たかし(なのり)」・・・ 「前島密(ひそか)」・・・ 「天保六年一月七日(1835年2月4日) ~ 大正八年(1919年4月27日)」は、 ↓↑ ↓↑ 甲午(丙・ ・丁)⇔己未(丁・乙・己) 丁丑(癸・辛・己)⇔戊辰(乙・癸・戊) 丁卯(甲・ ・乙)⇔己酉(庚・ ・辛) 戌亥=空亡 ↓↑ ↓↑ 官僚、政治家・号は鴻爪(コウソウ)」、1866年(慶応2年)に「漢字御廃止之議」の建議書を将軍徳川慶喜に提出」・・・ 三密瑜伽=サンミツユガ・・・「三密=身密、口密、意密」 周密精到=シュウミツセイトウ・隅々まで行き届いていること 人口稠密=ジンコウチュウミツ ジンコウチョウミツ 旦暮周密=タンボシュウミツ・・常時警戒注意 密雲不雨=ミツウンフウ・・・・雲、密集すれど、雨、降らず ・・・前触れ・前兆・予兆 ・・・雲の秘密は雨にアラズ アメには無い 密(宀+必+山) ・・・密の雨が云うは雨に不(あらず) 不=…でない・…しない・…がない …がわるい・…がよくない 兆しはあるのに 未だ事、起こらず 恩恵が全ての人に行き渡らないことの喩え 雨雲が空を覆っているが 未だ雨は降らず ・・・「隠密剣士・秋草新太郎」・・・「私が守るのは将軍家でもなければ徳川の権力でもない。この世の中に生きる民百姓の安らぎを守るため」・・・本当かな・・・「シンタロウでも、シンゾウでもない」コトは・・・カモ・・・ 「秋草 俊」、「明石 元二郎」・・・ 「リヒャルト・ゾルゲ(Richard Sorge) 1895年10月4日~1944年11月7日」はどうだったのか?・・・ 乙未(丁・乙・己)⇔甲申(己・壬・庚) 乙酉(庚・ ・辛)⇔乙亥(戊・甲・壬) 甲申(己・壬・庚)⇔乙亥(戊・甲・壬) 午未=空亡 ・・・???・・・年月日が「乙乙甲⇔甲乙乙」の逆・・・ ーーーーー 枢密=木+区+宀+必+山 =樞密=木+匚+品+宀+必+山 枢=とぼそ・くるる・開き戸の回転軸 かなめ・物事のたいせつなところ・中心・枢機 枢=樞=くくる・スウ 開き戸を開閉する軸 物事のかなめ 枢機・枢軸・枢密・枢要・中枢 区=區・・・ハコの中の品・・・「メ=品(口口口)」? ↓↑ 枢密院(スウミツイン) 国王・皇帝の諮問機関 大統領が 元首を務める共和制国家には このような機関はない・・・ 「枢密」とは機密や政治上の重要な 秘密のこと 枢密院 (中国) =主として 軍制を掌った中国歴代王朝の 国家機関、「枢密院」の語源 憲法問題も扱い 「憲法の番人」とも ーーーーー 枢密院 1888年(明治21年) 憲法草案審議を行うため 枢密院官制及枢密院事務規程に基づいて 創設され(明治21年4月30日勅令第22号) 1889年(明治22年) に公布された大日本帝国憲法で 天皇の最高諮問機関とされた 初代議長は、伊藤博文 藩閥・官僚制政治の牙城 ーーーーー ↓↑ 1931年(昭和6年) 満州事変(滿洲事變) 1931年(昭和6年、民国20年)9月18日 中華民国奉天(瀋陽)郊外の 柳条湖で関東軍が 南満州鉄道の線路を爆破した事件 (柳条湖事件) 以後、軍部の台頭で 枢密院の 影響力は低下 ↓↑ ーーーーー 田中 義一(たなか ぎいち) 1864年7月25日(元治元年6月22日) ~ 1929年(昭和4年)9 月29日) ーーーーー 甲子(壬・ ・癸)⇔己巳(戊・庚・丙) 辛未(丁・乙・己)⇔癸酉(庚・ ・辛) 辛卯(甲・ ・乙)⇔丁丑(癸・辛・己) 午未=空亡 ーーーーー ↓↑ 政治家・陸軍大将・男爵 20歳で陸軍教導団 陸軍士官学校(旧8期) 陸軍大学校(8期) 日清戦争に従軍 ロシア留学 日露戦争で 満州軍参謀として 総参謀長 児玉源太郎のスタッフを務めた 陸軍大臣・貴族院議員・内閣総理大臣(第26代) 外務大臣(第42代)、内務大臣(第45代) 拓務大臣(初代)などを歴任 ↓↑ 1927年(昭和2年)3月 第1次若槻内閣 全国各地の銀行で取り付け騒ぎ (昭和金融恐慌) 若槻内閣 4月17日に総辞職 立憲政友会総裁の 田中が 4月20日 田中内閣組閣 ↓↑ 1928年(昭和3年)2月 第1回普通選挙 3月 全国の社会主義者 共産主義者を一斉検挙 (三・一五事件) ↓↑ 辞意を表明した閣僚を 昭和天皇に慰留させ 天皇を政局に利用したと批判され (水野文相優諚問題) 貴族院は 田中首相問責決議を可決 ↓↑ 1928年 張作霖爆殺事件 容疑者を・・・容疑者って「日本人」? 軍法会議によって 厳罰に処すべきと主張し 天皇に奏上したが 陸軍の反対で頓挫し 野党の 立憲民政党に批判され 中野正剛は 尼港(ニコラエフスク)事件 ↓↑ ・・・シベリア出兵中の日本軍隊と ソビエト・パルチザンとの間の紛争事件 1920年2月アムール川河口のニコライエフスク (尼港) を 占領中の日本軍は ソビエト・パルチザンの攻撃を受け降伏 将兵および居留民は捕虜となった 日本軍、邦人はパルチザン部隊と降伏協定を結んだが 3月、日本軍はそれを破って奇襲したが敗北 122名が捕虜 5月、捕虜救出に日本軍がくることを知った パルチザンは捕虜全員 351名の将兵 副領事を含む 383名の日本居留民を殺害、市内を焼払って逃亡 ソ連革命政府はパルチザンの責任者を処刑 日本政府は賠償を要求し 北樺太(からふと・サハリン)を保障占領 ↓↑ 1925年日ソ国交回復して撤退 の際に 田中が 「断じて臣節を全うす」 と称して 陸軍大臣の職を辞した 済南事件・・・1928(昭和3)年5月3日午前9時半 ↓↑ 中国山東省「済南」で起きた日本人居留民虐殺事件 国民革命軍の一部による日本人襲撃 日本の権益と日本人居留民を保護するために 派遣(第二次山東出兵)された 日本軍と、北伐中であった 蒋介石率いる国民革命軍(南軍) ↓↑ との間に起きた武力衝突事件 の責任を 福田司令官に帰し 満洲事件を 村岡司令官に帰した 田中が 「この如き事に責任を 負うたら総理大臣は 何万居っても足らぬ」 と豪語したが 政略出兵の責任を 軍部に転嫁するような 総理大臣がいたら 日本帝国の国軍は 何百万人居っても 足らないこととなると 糾弾された ↓↑ 1929年(昭和4年)6月27日 関東軍は 無関係であったと 田中が 天皇に奏上したが 天皇は 「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」 と田中を直接詰問 田中は 7月2日に内閣総辞職 ↓↑ ーーーーー 枢密院は 日本国憲法施行の前日の 1947年(昭和22年)5月2日に廃止 ーーーーー 各国の 枢密院 (中国) 主として軍制を掌った中国歴代王朝の 国家機関で、「枢密院」の語源 枢密院 (イギリス) イギリス国王の諮問機関 枢密院 (カナダ) カナダ国王の諮問機関 枢密院 (日本) 1888年(明治21年)~1947年(昭和22年)まで 存在した天皇の諮問機関 最高枢密院(ロシア帝国) 皇帝の諮問機関 枢密院 (タイ) 王国の諮問機関 ーーーーー ・・・今日の世界情勢と日本の政治的状況は、第二次世界大戦前夜に似ているカモ・・・ イラン・コントラ事件(Iran-Contra Affair) アメリカ合衆国の ロナルド・レーガン政権が イランと裏取引をし 同国への武器売却代金を ニカラグアの 反共ゲリラ「コントラ」の援助に流用 1986年に発覚 ↓↑ 1985年8月 アメリカ軍の兵士らが レバノン(内戦中)での活動中 イスラム教シーア派系過激派の ヒズボラに拘束、人質 人質を救出する為 共和党の ロナルド・レーガン アメリカ政府は ヒズボラの後ろ盾 イランと非公式ルートで接触 イラン・イラク戦争で イラクと戦って劣勢であった イランに 極秘裏に 武器を輸出する事を約束 イランへの武器の輸出の提案は ヒズボラおよび西欧諸国での 爆弾テロを支援したグループに対する 影響力を持つ イランの歓心を買った ↓↑ 1983年12月 アメリカ国防総省の ラルフ・ブローマン中佐 CIAの ポール・カッター は、イランへの兵器売却を目的に、 ヨーロッパ・ディフェンス・アソシエイツ(EDA) という会社を設立 数億ドルにおよぶ兵器を イランに売り込もうとした フランス人兵器ディーラーの ベルナール・ベイヨ イラン人仲介者の マヌチェル・ゴルバニファー が絡んでいた・・・ ↓↑ イランの ホメイニーの革命 1979年1月に イラン国王を追放 ↓↑ ホメイニー革命の10ヶ月後 ホメイニーの信者が イランのアメリカ大使館を占拠 大使館員を人質 アメリカ大使館人質事件により カーター大統領は 経済制裁を課し 兵器禁輸の措置 イランとの 国交断絶 イランに対する 武器輸出禁止 政治家や官僚、軍人による 公式な交渉も禁止 ↓↑ アメリカの イランに対する 武器輸出は イランの敵国である イラクと アメリカは国交があり アメリカとイラクとの 外交上の問題は必至となる・・・ アメリカの人質は カーターに勝った レーガンが大統領就任日に解放 ↓↑ アメリカは兵器禁輸を続行 イラン軍は 国王時代に 大量の アメリカ製兵器を購入しており 部品、メンテナンスが必要だった ↓↑ ロナルド・レーガン大統領 の承認を受け 極秘に イランに対して 武器を輸出 ↓↑ 国家安全保障担当補佐官の ジョン・ポインデクスターと 国家安全保障会議軍政部次長の アメリカ海兵隊の オリバー・ノース中佐 らが イランに 武器を売却し その収益を 左傾化が進む ニカラグアの 反政府戦争(コントラ戦争)を行う 反共ゲリラ 「コントラ」に与えた ↓↑ 中南米の ニカラグアは 1979年 ニカラグア革命で 40年以上続いた 親米の ソモサ王朝独裁政権が崩壊し キューバおよびソ連に支援され 「社会主義(?)」寄りの サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)政権 が統治 ↓↑ アメリカ政府の イランへの武器輸出と 「コントラ」反共ゲリラ への資金流用行為は アメリカ議会の了解を取っていなく 民主党が多数を占めた 議会の議決に反していた ↓↑ アメリカ政府の イランと コントラの 双方の交渉窓口は ロナルド・レーガン政権の 副大統領だった ジョージ・H・W・ブッシュ(後の大統領) の関与が 後の民主党政権下の 連邦議会における 公聴会で取りあげられたが その真相は不明・・・? ↓↑ 同事件において 1986年11月 ノース中佐は レーガン大統領直属 ↓↑ ノース中佐は 武器ブローカーを通して イランへ 武器を 密輸する 計画責任者を務め 得られた資金で ニカラグアの 反政府組織 コントラへ資金援助の 秘密ネットワークの設置に関与 ↓↑ 1987年 ノース中佐は イラン・コントラ事件を 調査するために設定された 両院協議会の テレビ公聴会に 先立って 証言のために召喚 聴聞の間 ノース中佐は 議会に対し 虚偽の証言をしたことを認め 後に告訴された ↓↑ ノース中佐は 「自分が『自由の戦士』と見なした コントラを援助する目的が正しいと信じている」 と述べ自身の行為を弁護し 非合法の イラン・コントラ計画を 「素晴らしいアイデア」 と述べた・・・ ↓↑ 1979年1月イラン革命 ↓↑ イラン・イラク戦争 1980年~1988年 1980年9月22日未明 イラク軍が イランの10の空軍基地を爆撃 イラン軍が迎撃 東西諸国共に対イラン制裁処置を発動 イランは物資、兵器の補給などが滞り 孤立したイランはイラクへの降伏も・・・だが イラン国民は20万を越える義勇兵を前線に送って奮戦 ↓↑ アメリカ政府は テヘランの アメリカ大使館占拠事件での 人質の解放 同時に ニカラグアの傭兵右派ゲリラの コントラへ イランに対して武器輸出で 得た資金を秘密裏に援助した ↓↑ イスラエル⇔敵国⇔イラク・イラン イラク⇔交戦敵国⇔イラン イスラエル⇔敵国イランに武器援助 イラン⇔断交敵国⇔アメリカ イスラエル⇔武器売買⇔アメリカ イスラエル⇔敵国イランにアメリカ制の武器売買援助 イラン⇔戦争⇔イラク アメリカ⇔国交国イラク(ソ連寄り) アメリカ⇔断交国イランにイスラエルを仲介し武器援助 アメリカ⇔断交国イランに秘密武器援助 アメリカ⇔武器売買で得た資金を ⇔ニカラグア「右翼ゲリラ・コントラ」に援助 ↓↑ イスラエルは アメリカによる 極秘裏の支援が開始される以前から イランを支援し 武器を密輸出 ↓↑ イラン革命の直後に イラクに 攻撃された イランは 国際的には敗北必至と判断され 実際に戦死者は イラクをはるかに上回っていた 革命後のイランは 「反イスラエル・反シオニズム」 が国是であったが 戦争敗北の恐れから イスラエルからの 武器援助を承諾し 戦争時 イランの 武器輸入総額は半分が イスラエルからのものであった イスラエルが イランに 販売した武器は 友好国である アメリカや西欧諸国 の軍が使用する数多の 最新兵器であった ↓↑ アメリカ政府 アメリカ人人質解放のために 身代金として アメリカの武器を イランへ輸出するように要請 ↓↑ イランとの 武器貿易を公式にしたい イスラエルにとって望むところで アメリカは イスラエルによる イランへの武器輸出を承認し 密貿易は 公式な間接貿易となった これによって アメリカの人質の一部が解放されたが イスラエルは アメリカの代理人として イランへ武器を輸出することを 渋るようになった・・・? ↓↑ その後 アメリカ政府は 直接 イランに対しての 武器の密輸出が 発覚し スキャンダル・・・になった ↓↑ ニカラグアの 「コントラ」に対して 左傾化が進む中南米で ニカラグアをはじめとする 複数国で イスラエルが 単独で 右派ゲリラを積極的に支援し アメリカも 1970年代前半は 反共ゲリラを 公式に支援していたが 民主党左派である ジミー・カーター大統領 によって 反共支援は 非合法化され 後に レーガン大統領の アメリカは イスラエルを介して 間接的に援助し イスラエルは 数重にわたって アメリカの代理人となり 反共ゲリラに対して アメリカの 最新兵器を輸出した レーガン政権は イスラエルの外交を利用し イランと ニカラグアの右派ゲリラを 支援し 双方と接触したが 暴露された・・・ ↓↑ イスラエルは 暴露の前に アメリカとの 取引を清算し スキャンダルによって 攻撃されることは免れ その後の イランの政治状況の変化を受け 一転して イスラエルは 反イランの姿勢を強めた・・・ ↓↑ ニカラグア事件で サレム・ビンラディン (ウサーマ・ビン・ラーディンの兄で 支援資金の洗浄をしていた アル=ハラム・モスク占拠事件にも関与 1988年に飛行機事故で死亡)・・・? ーーーーー ・・・?????・・・
ー↓↑ー--
「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
+
(表紙・画像・音楽)」の
移転先・・・
↓↑
ボクの「古事記字源」の発端・・・
↓↑
干支歴
↓↑
追加添文
「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
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