『英 和 対 訳 袖 珍 辞 書』の読み
2023/2/23・木曜日・・・追加添文・・・
「観察するヒト」の
「個々人の立場」と
「観想と感想」の・・・
「異相・相異」・・・「相違」・・・「創痍」?
英(はな)和(わ)対(つい)訳(やく)袖(ふりそで)珍 ↓↑ 「confess =告白する・白状する」・・・? 「Patti Page sings CONFESS」・・・ 「Tennessee Waltz」・・・ 出音思惟・・・倭(和・輪・環・話)留通・・・? ↓↑ 「大久保利通」のロンドンの「スラム街」を観た感想を・・・ 「イザベラ・バード・ビショップ」は知らんかったんだろう・・・??? ↓↑ 岩倉使節団 明治4年7月(1871年8月) 廃藩置県を断行直後の11月に結成 岩倉具視、木戸孝允、大久保利通 伊藤博文 らを正・副使として 各省理事官と随員含め 46名からなる大使節団 60名近くの留学生 米欧回覧の壮途 目的 条約締結各国への 国書奉呈 聘門の礼を修め 欧米先進諸国の制度・文物 を見聞し 明治国家の「国のかたち」を考えること 条約改定期限(明治5年5月26日・1872年7月1日) に向けた締結国との予備交渉 ↓↑ 計画 大隈重信と伊藤博文の建言 背景には政府顧問の グイド・フルベッキ による ブリーフ・スケッチの存在 ↓↑ グイド・ヘルマン・フリドリン・フェルベック (Guido Herman Fridolin Verbeck、Verbeek) 1830年1月23日~1898年3月10日 オランダ出身 アメリカ合衆国に移民 日本にキリスト教オランダ改革派宣教師として派遣 法学者・神学者・宣教師 ↓↑ 1868年6月 フルベッキは 大隈重信に、日本の近代化についての 進言(ブリーフ・スケッチ)を行った 大隈が翻訳し 岩倉具視に見せ 1871年11月に欧米視察のために 使節団を派遣することになった(岩倉使節団) フルベッキが岩倉に助言 1877年 日本政府より勲三等旭日章を授与 ↓↑ 久米邦武 ↓↑ 佐賀藩士 久米邦郷の三男 佐賀藩校 弘道館に学び 大隈重信とも親交 ↓↑ 「イザベラ・バード・ビショップ」は 産業革命のロンドン市内の「不潔」さを観察していなかった・・・ 身近な現実的情景も状況も知らなかった・・・ 遠くは見えた、足元は見えない・・・隣の芝生は枯れているってか? ・・・英(はなしべ)の語(かたり)・・・かたりべ=もののべ・・・? 英国婦人・・・ イザベラ・バード・ビショップ (Isabella Bird Bishop) 伊邪邊等 鳥・鶏 坊主夫人・僧侶夫人? 1831年10月15日 ~ 1904年10月7日 1899年10月(68歳)乙巳偏官 辛┏卯(甲 乙)食神・正官 病⇔甲辰正官・支合 戊┣戌(辛丁戊)劫財・食神 養⇔癸酉偏財・害 己┣未(丁乙己) ・偏印冠帯⇔甲戌正官・破 庚┗午(丙 丁)傷官・印綬建禄⇔庚午傷官・自刑 子丑空亡 ↓↑ 1878年(明治11年)6月から9月 『日本奥地紀行』は執筆 1880年(明治13年) "Unbeaten Tracks in Japan" (日本における人跡未踏の道) として刊行 ↓↑ 『朝鮮紀行』 「Korea and Her Neighbours」 4度にわたり 最末期の李氏朝鮮(朝鮮王朝) を訪れた旅行の記録 ↓↑ 英国(栄国)夫人・・・則天武后(幼名・媚娘)の母 隋王朝の内史、楊達の娘 楊達 武則天の母方の祖父 内史侍郎=首都近郊の行政長官 諡は懿・・・懿徳天皇? ↓↑ 武士彠 と 楊夫人(栄国夫人・英国夫人?) 隋王朝・楊氏の女性(楊達の娘) ↓↑ 長女 韓国夫人 ↓↑ 三女は 郭孝慎の夫人 『郭素慎 婦人』 ・・・「纂序・纂所・蒜如・讃女」? ・・・則天武后の妹の夫は 「郭素慎」⇔「郭務悰」は血縁? ↓↑ 次女 則天武后=媚びる娘・・・袁天綱・人相占師の予言 「猫=ねこ=根子」を懼(怖・恐・畏)れた 「鼠=ねずみ=子」だった・・・「子年」生まれ? 「貞観二年(628)」生まれ・・・? 貞観二年(628年02月17日) ~ 神龍元年(705年12月16日) ↓↑ 大運703年4月(75歳)丙午・傷官 戊子(壬 癸)⇔正財・印綬 病⇔乙巳・比肩 甲寅(己丙甲)⇔劫財・正財 帝旺⇔戊子・正財 乙卯(甲 乙)⇔ ・比肩 建禄⇔壬寅・印綬 壬午(丙 丁)⇔印綬・偏財 長生⇔丙午・傷官・自刑 子丑=空亡 ↓↑ or 「猿女」だったら・・・「蛇(巳=邪=横島)」と合した 「猿田彦」を溺死させた「申年」生まれの「宇受女」? 武徳七年一月二十三日 624年2月17日 ~ 神龍元年十一月二十六日 705年12月16日 大運699年3月(75歳)戊午・偏財 甲┏申(戊壬庚)比肩・偏官 絶⇔乙巳・劫財・支合 丙┣寅(戊丙甲)食神・比肩建禄⇔戊子・偏財 甲┣午(丙 丁) ・正財 死⇔壬寅・偏印・三合 庚┗午(丙 丁)偏官・正財 死⇔丙午・食神・自刑 辰巳空亡 在位期間 690年10月16日~705年2月22日 庚┏寅(己丙甲)偏官・冲 丙┣戌(辛丁戊)食神・三合 壬┣午(丙 丁)偏印・自刑 丙┗午(丙 丁)食神・自刑 ↓↑ 則天武后(幼名・媚娘)・・・媚=女+眉 ↓↑ 眉輪王・・・鼻輪・鼻和・塙 目弱王 鼻から生まれた素戔嗚 ・・・目弱=弱視・色盲・色弱・盲目の人 父 大草香(日下)皇子・・・久坂玄瑞(隋)? (おおくさかのみこ)・・・日下数馬 日下義雄 日下誠 母 中蒂姫命・・・蔕(へた) (なかしひめのみこと)
円大使主(つぶらのおほみ) 『日本書紀』履中天皇二年条 円大臣 (つぶらのおおおみ)『日本書紀』雄略天皇元年条 都夫良意富美(つぶらのおほみ)『古事記』安康天皇 葛城 円(かつらぎ の つぶら)
公 孫 圓=エン=延・猿・燕・淵・袁=長袖(Long sleeves) 長・女・國・ 世 長州 論愚 素理意部 凱 聴衆・徴集・兆周 兆民(中江兆民) ↓↑ 中江 兆民 ↓↑ 1847年12月8日 ~ 1901年12月13日 大運1898年1月(50歳)丙午劫財 ┣害 ┏丁┏未(丁乙己)比肩・比肩冠帯⇔辛丑偏財・冲 干合┃ ┣壬┣子(壬 癸)正官・正官 絶⇔庚子正財 干合支合 ┗丁┣丑(癸辛己) ・偏官 墓⇔乙丑偏印 害 丙┗午(丙 丁)劫財・劫財建禄⇔壬午正官・自刑 申酉空亡 ↓↑ 思想家・ジャーナリスト 政治家・自由民権論者 第1回 衆議院議員総選挙当選者 ↓↑ 中 蒂 姫 命 (なか し ひめのみこと) 蔕=艹+ナ+廿+匕+冖+巾=蒂=艹+帝 タイ・テイ へた・うてな・ねもと・とげ 異体字「蒂=艹+帝」 へた=果実が枝や茎につくところ トマト・柿などの 実についている「萼(がく)」 うてな=花の「がく(萼・蕚・calyx)」 いちご(苺)のヘタ=hull=ハル へた=stem(ステム) 花弁 (petal) 萼片 (sepal) ねもと・ね とげ(棘) さしさわり(差障り) ↓↑ わかめ 若布・和布・稚海藻 裙帯菜 裙蔕菜=わかめ
↓↑ 萼(がく・蕚は異体字・英: calyx) 植物用語 花冠(花弁orその集まり)の外側の部分 ひらがな書きで「がく」 萼の個々の部分を 萼片(がくへん・英: sepal) 花弁(花びら)の付け根にある 緑色の小さい葉のようなもの 萼は花全体を支える 果実に残り付いている萼は 蔕(へた)と呼ばれる 花被(かひ・英: perianth) 萼と花冠が同じように見える場合 ↓↑ 英(はな)の和(わ)・・・英=はなぶさ・ひいでる・エイ) 対(つい)の訳(やく) 袖(ふりそで)の珍(めずらし) ↓↑ 『英 和対 訳 袖 珍 辞書 (えいわたいやくしゅうちんじしょ)』 堀達之助 が編纂した 日本初の刊本英和辞典 ↓↑ 箕作 麟祥(みつくり リンショウ・あきよ) 1846年9月19日 弘化3年7月29日 ~ 1897年(明治30年)11月29日 幕臣・官僚 洋学者、法学者 男爵、法学博士 元老院議官、司法次官 貴族院勅選議員 行政裁判所長官 和仏法律学校(法政大学)初代校長 民法・商法編纂委員 法律取調委員会委員 法典調査会主査委員 ↓↑ 祖父 蘭学者の 箕作阮甫 ↓↑ 父 箕作省吾 阮甫の婿養子 母 しん 阮甫の四女 父・省吾が若死し 祖父・阮甫に養育 阮甫の死後 家督相続 従兄 数学者 の菊池大麓 動物学者の箕作佳吉 歴史学者の箕作元八 大叔父 蘭学者の箕作秋坪 ↓↑ 藤森天山・安積艮斎に漢学 蕃書調所(東京大学)で蘭学 ジョン万次郎(中浜万次郎)に英学 1861年8月5日(文久元年6月29日) 15歳 蕃書調所 英学教授手伝並出役 家塾で 乙骨太郎・鈴木唯一・外山正一 菊池大麓・箕作佳吉・大島貞益 らに英学を教授 1864年(元治元年) 外国奉行支配翻訳御用頭取 福澤諭吉・福地源一郎 らとともに 英文外交文書の翻訳に従事 フランス法学者 英学者 ドイツ語文献も理解 ↓↑ 1867年(慶応3年) ナポレオン3世の パリ万国博覧会 将軍の名代の 徳川慶喜の弟 徳川昭武に 渋沢栄一 らと一緒に随行 2月15日横浜を出発 後 徳川昭武・・・照武⇔武照(曌) とともに フランスに留学 ↓↑ 1868年 明治元年2月24日の帰国後の 明治新政府の下 開成所御用掛から 兵庫県御用掛 新設の 神戸洋学校教授 時の兵庫県令 伊藤博文(伊藤俊介)は 騎馬で出迎え歓迎 翌1869年(明治2年) 外国官(外務省)翻訳御用掛 大学南校(東京大学)大学中博士 開いた私塾 共学社には 岸本辰雄らが学んだ 明治2年5月ころ 家塾で 中江兆民 大井憲太郎 らが入塾 明治4年2月頃中止 ↓↑ 1869年(明治2年) 参議 副島種臣から フランス刑法典の 翻訳を命じられ 1870年(明治3年) 制度取調局長官(司法卿) 江藤新平から フランス民法典(ナポレオン法典) の翻訳を命じられた 1871年(明治4年) 文部省 設置の基礎固めに参画 学制の起草・制定で 主導的役割を果たした ↓↑ 日本で初めて 「権利」 「義務」 という訳語を用いた 「動産・不動産・治罪法・義務相殺・未必條件」 などの訳語を新規創作 フランス諸法典を全訳 『仏蘭西法律書』(1874年) ↓↑ Constitution(国家の根本の法) を 「憲法」と訳した 福澤 諭吉は「律例」 加藤 弘之は「国憲」 井上 毅は「建国法」 とそれぞれ訳していた 1874年 フランスの モロー・ド・ジョンネ の統計学の本を翻訳 「統計学」を出版 明治4年8月 フランスの倫理道徳教科書の翻訳(原典は米書) 『泰西 勧善訓蒙』前編刊行 後編は 1873年9月刊。1873年3月~1874年8月 ウールジー著 箕作訳 『国際法、一名万国公法』刊行 ↓↑ 1873年(明治6年) ボアソナードが来日 彼の下で法典の編纂に従事 1877年(明治10年) 民法編纂委員 商法編纂委員 ↓↑ 民法典論争 実施断行を主張 旧民法典(ボアソナード民法典) の施行延期が決まった後 法典調査会の 主査委員に任命 新民法典の編纂に関わった 1894年(明治27年)10月 法典調査会の副総裁 西園寺公望は 総裁 伊藤博文に対し 副総裁を 箕作に譲りたいと願い出てた ↓↑ 1889年(明治22年) 司法次官 和仏法律学校(法政大学) 初代校長に就任 1897年(明治30年) 死去 ↓↑ 森有礼、福澤諭吉、西周、加藤弘之 らとともに創立した 明六社において 啓蒙活動 1897年(明治30年) 狭心症で急逝・51歳 ー↓↑ーーー 以下の原文は 「地学雑誌 Journal of Geography 103 (2) 166-185 1994 西 洋地 学 の導 入(明 治 元年 ~ 明治24年)<そ の3> -「 日本地学史」稿抄日本地学史編纂委員会* 東京地学協会」 から添付 ↓↑ 地質論 慕維廉(W.Muirhead) 『地理全志』の翻刻本が刊行 安政六年(1859) 実地の地質学的調査研究 お雇い外国人 文久二年(1862)来日の 2人のアメリカ人 ブレーク(W.P.Blake) パンペリー(R.Pumpelly) による 北海道 南西部の 渡島 後志地方 の地質調査 調査には 武田斐三郎 大島高任 が助手として随行 ブレークの報告書は 明治七年(1874) 北海道 開拓使から刊行 調査後 ブレークは上海に赴い アラスカ経由で帰国 パンペリーは清国政府の依頼で 北京郊外の炭田を調査した後 冬のシベリアを横断し パリを経て帰国 渡島・後志地方の地質 古期 岩類として 珪岩・粘板岩・緑岩・石灰岩 片状岩(函館東方に分布) 花崗岩類(久遠・瀬棚付近に分布) 新第三系の 火山礫岩・軽石凝灰岩・石炭(岩内付近) 第四系の 段丘堆積物・沖積層・火山灰・河床礫 などから形成 調査の途次 駒ケ岳・恵山・岩雄登 などの火山を観察 クンヌイ金山 ユーラップ鉛山 イチノワタリ鉛山 などの鉱山も調査 ↓↑ 北海道南部 から始まった日本列島の地質調査は 北海道全域に及ぶ 開拓使に招かれて来日したアメリカの ライマン(B.S.Lyman)は 明治六年(1873)~八年まで 助手の マンロー(H.S.Munroe) や仮学校の生徒らとともに 毎年 北海道各地の地質調査を行ない 18編に及ぶ報告書を提出 ライマンは炭田地域では 5,000分の1 地質図のほか 100分の1 地質柱状図 等高線地形図に 石炭の地下賦存在状態を示す 地下等深線図を描いている ライマンらは炭田開発に貢献 明治九年(1876) 北海道の地質を総括した 200万分の1 「日本蝦夷地質要略之図」 を著した 日本で最初の広域地質図 翌年に その説明書ともいうべき "Ageneral report on the geology of Yesso" を著 これは 明治十一年・・・11年 開拓使により 『北海道地質総論』として刊行 ライマンは 北海道の層序を次のように示した 新沈積層(沖積層・火山灰層) 古沈積層(段丘堆積物) 新火山石層(第四紀火山岩類) 登志別石層(新第三系) 古火山石層(第三紀火山岩類) 幌向石層(含炭古第三系および白亜系) 鴨居古丹石層(変成岩および古期岩類) 北海道南西部地域 がとくに詳しい ライマンによって 初めて北海道の地質の大勢が判明 ライマンらは 明治九年に内務省勧業寮に移り 明治10年~12年 本州・四国・九州の大予察旅行 明治十三年(1880)暮れ 日本を離れ 十五年八月 「日本油田之地質及地形図」を著 これは 200万分の1 日本地図に鉱産地を記入 薩摩藩に招かれた フランスの鉱山地質学者 コワニエ(F.Coignet)は 慶応三年(1867)来日 薩摩・大隅・日向 3国の鉱産地調査 後 明治政府に雇われ 生野鉱山の開発にあたり その間 九州・四国・中国・近畿・東北・北海道 の諸鉱山を調査 明治七年に "NotesurlarichessemineraledeJapon" を著 1.日本地質構造 の概観 2.日本鉱業の現況 3.日本古来の採鉱冶金法 の概観 ー↓↑ーー 661年2月11日00時 斉明天皇七年一月四日 辛酉 庚寅 庚子 月曜日 ↓↑ ユリウス暦 661年2月08日00時 辛酉 庚寅 庚子 丙子 ↓↑ グレゴリオ歴 661年2月11日00時 辛酉 庚寅 癸卯 壬子 ↓↑ 唐 顕慶六年、龍朔元年 ↓↑ 斉明天皇七年 5月 白村江の戦い第一派出発・1万余人 船舶170余隻 指揮官 安曇 比羅夫 狭井 檳榔 朴市 秦造 田来津 豊璋王 を護送する先遣隊 ↓↑ 斉明天皇七年 6月 新羅国 武烈王七年 武烈王(金春秋) 高句麗遠征途中で陣中にて死去 ↓↑ ムアーウィヤ 単独のカリフとなり ウマイヤ朝がはじまる ↓↑ 百済の遺臣は 鬼室福信・・・記史通符句審 黒歯常之・・・国史条詞 らを中心として 百済復興の兵をあげ 倭国に滞在の 百済王の太子 豊璋王 の擁立と 倭国に救援を要請 中大兄皇子(天智天皇・葛城皇子) 承諾 ↓↑ 斉明天皇七年 2月10日 斉明天皇七年一月六日 斉明天皇 百済救済のため船団に乗り 筑紫へ出港 ↓↑ 2月12日 斉明天皇七年一月八日 船団が 備前の 大伯海に停泊 大田皇女 が 大来皇女 を出産 ↓↑ 2月18日 斉明天皇七年一月十四日 船団が 伊予の 熟田津に寄港 額田王が歌を詠む ↓↑ 4月29日 斉明天皇七年三月二十五日 船団が 筑紫の 那の大津に到着 ↓↑ 6月11日 斉明天皇七年五月九日 斉明天皇 朝倉宮に布陣 周辺の神社を壊し その材木で宮殿を建てる ↓↑ 8月24日 斉明天皇七年七月二十四日 斉明天皇崩御 第38代天皇 天智天皇が即位(称制) ↓↑ 11月4日 斉明天皇七年十月七日 天智天皇 斉明天皇の遺体を 難波へ葬送 挽歌を詠む ↓↑ 11月20日 斉明天皇七年十月二十三日 斉明天皇の遺体が難波到着 ↓↑ 12月3日 斉明天皇七年十一月七日 斉明天皇の殯の儀が 飛鳥川原宮で始まる ↓↑ 誕生 2月12日 斉明天皇七年一月八日 大来皇女、天武天皇皇女 元明天皇、第43代天皇 劉知幾、唐の歴史家 ↓↑ 死去 6月 武烈王(金春秋)、第29代新羅王 8月24日 斉明天皇七年七月二十四日 皇極天皇(斉明天皇) 第35・37代天皇 ー↓↑ーーー 和銅 日本元号 慶雲→「和銅」→霊亀 708年~715年 元明天皇 ↓↑ 慶雲五年一月十一日(708年2月7日) 和銅が献じられ改元 和銅八年九月二日(715年10月3日) 霊亀に改元 武蔵国秩父郡(埼玉県 秩父市黒谷) から 和銅(ニギアカガネ) 銅塊が発見され 朝廷に献上され 慶雲から 和銅に改められた ↓↑ 和銅元年 二月 新都造営の詔 十月 伊勢神宮に 平城宮造営を告げる 和銅元年 五月 和同開珎 鋳造 和銅三年三月 藤原京~平城京に遷都 藤原氏 興福寺の造営を発願 和銅四年十月 蓄銭 叙位令 ↓↑ 和銅五年・・・和同語撚? 一月 太安万侶が 古事記を完成、撰上 九月二十八日 出羽国・・・出話(ワ・倭・和・輪・環・吾)語句 を建てる ↓↑ 和銅六年 四月三日 丹後国・美作国・大隅国を建てる 五月 風土記の編纂を命じる 郡・郷名に 好字を付けさせる 和銅七年六月 首皇子、立太子 九月 元明天皇(阿閉皇女)譲位 氷高内親王 が 元正天皇 として即位 ↓↑ 『続日本記』 奈良東大寺 大仏 天平二十一年(749) 鍍金の量が不足 二月 陸奥守(むつのかみ) 百済王(くだらのこにきし) 敬福(きょうふく) が 小田郡で 黄金発見の報告 大赦 二度の改元 天平感宝 天平勝宝 田租・調庸の減免 四月 聖武天皇は 東大寺で 黄金産金を大仏に報告 「陸奥国の小田郡に出た」 ↓↑ 万葉歌碑 越中守 大伴家持 ↓↑ 天皇の御代 栄えむと 東なる 陸奥山に金花咲く 「万葉集」 ↓↑ 天平勝宝四年(752) 多賀城以北の諸郡に 金の貢輪令 同年四月 聖武太上天皇 光明皇太后 孝謙天皇 「大仏開眼会」 挙行 ↓↑ 天平二十一年 百済王 敬福 献上の金の産出地 陸奥国 小田郡 黄金山 箟岳山 黄金山神社付近 成沢地区に 「モチ石」があり 「白い石」は 「金」を含む石英塊 ↓↑ 大仏鍍金は金を水銀に溶かし 金アマルガムを 銅像の表面に塗りつけ 木炭で350度ぐらいに熱し 水銀を蒸発させて 金を銅の表面に鍍金 ↓↑ 黄金山神社 天平の仏道 古瓦出土状態 叙勲された 神主 僧侶 「金を出せる山の神主 日下部 深淵」 「私度の沙弥(官の許可のない僧) 丸子 連 宮 麻呂 (まりこのむらじみやまろ)」 ↓↑ 黄金山神社 現在の拝殿 天保八年(1837)竣工 本殿は 明治四十二年(1909) 愛宕・月山両社を合祀の後 愛宕神社の神殿を移建 ↓↑ 丸子 連 宮麻呂 天平の仏堂 仏堂は直径10m程の 六角円堂 屋根は「天平」の年号の瓦を含む瓦葺き 文様瓦は 多賀城や 陸奥国分寺など 陸奥国府系統の瓦と同じ ↓↑ 牡鹿郡の 金華山・・・鳥居燿蔵 「蛮社の獄」のデッチ上げ おとり捜査の比定現場 遠山景元(金四郎)とも対立 ↓↑ ↓↑ 花井 虎一(はない とらいち・こいち) 幕臣、蘭学者 本名 花井 一好(はない かずよし) 号 大巧・如拙道人 小人目付の 小笠原貢蔵の養女婿 ↓↑ ↓↑ 「蛮社の獄」で 蘭学者 渡辺崋山を 小笠原とともに 宮城県 石巻市沖の・・・・石巻⇔菊石=アンモナイト? 太平洋上に浮かぶ島 金華山(きんかさん)島から ・・・無人島(小笠原諸島)への 渡航を計画したと讒訴、告発 ↓↑ ↓↑ 花井 虎一は 蘭学者の 宇田川 榕庵の弟子で 渡辺 崋山宅にも出入りし探索 ↓↑ ↓↑ 花井 虎一は ガラスの研究の第一人者でもあり 馬場佐十郎が訳した 『ショメール百科事典』 に影響を受け 『和硝子製作編』を著 ↓↑ ↓↑ 鳥居耀蔵から 『戊戌夢物語』の著者の 渡辺崋山の探索を命じられた 小笠原貢蔵は 花井 虎一から情報を得て 渡辺崋山が 金華山(きんかさん)から 無人島渡航を 計画しているとして告発 ↓↑ ↓↑ 同名の 岐阜の「金華山」=斎藤道三 織田信長 ↓↑ 金華山 は 「万葉集のみちのく山」 ↓↑ 江戸時代後期 文化七年(1810) 伊勢 白子 の国学者 「沖安海」は 黄金山神社の地を踏査 「延喜式内」の 黄金山神社を この場所と比定 多くの分野で 産金地の研究が積み重ねられてきた・・・ ↓↑ 以上の原文は 涌谷町の 企画財政課企画班 から添付 ↓↑ 宮城県 遠田郡 涌谷町 字新町 裏153番地2 ー↓↑ーー 蒼頡=蒼=艹+倉=苍=艹+𠆢+㔾(卩) 㔾(卩)=割符・しるし 厄=くるしむ わざわい(災い・禍) 艹+亼+日+丿+口 蒼(あお) 三原色の一 同系統の色の総称 晴れた空の色・深い海の色 ソウ あお あおい しげる 草のあおい色・深い青色 草木が青くしげるさま 年老いたさま・・・蒼穹? 古びる・白髪のまじるさま アワただしいさま アワてる あお=青・蒼・碧 蒼古・蒼枯(そうこ) 長い時間がたったもの(骨董・legend)に 奥深い趣がある様子 ↓↑ ↓↑ 顔面蒼白(がんめんそうはく) 血の気が失せた顔色 古色蒼然(こしょくそうぜん) 古びていて趣のあること 蒼狗白衣(そうくはくい) 変化が速い時世のこと 「蒼狗」=青い犬or黒い犬 空に浮かぶ雲は 犬に見えたかと思えば 白衣に見えるよう 変化が速いという意 蒼然暮色(そうぜんぼしょく) 夕暮れの少しずつ暗くなっていく gradation 「蒼然」=日没で薄暗い様子 「暮色」=日が沈んで薄暗い景色 蒼蠅驥尾(そうようきび) 普通の人でも 賢者の指示に従って行動すれば 功績をあげれること 「蒼蠅」=青ばえ 「驥」=駿馬 一日で千里を走る馬 駿馬の尾に止まれば 青ばえも千里を移動することが出来る 「青蠅驥尾に付す」 謙遜する表現 「驥尾に付す」 天下蒼生(てんかそうせい) 世界の全ての人々 「蒼生」=青々と生い茂っている草木 たくさんの人々 ↓↑ ↓↑ 頡=吉+頁 十+一+口+一+丿+目+ハ カツ キツ ケツ 鳥が舞いあがる・飛びあがる 首をまっすぐにする まっすぐな首すじ 人に屈しないさま かすめる・かすめとる ↓↑ ↓↑
↓↑ サロメ 猿女=さるめ=宇受女・・・鵜(鸕)重女 ↓↑ ペテロ=岩 パウロ=葉 ヨハネ=豫 ↓↑ 余白音 余波子 猿田彦=青面金剛・・・製綿混合・・・混紡(ブレンド) 生地? ジーンズ・・・???
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・・・???・・・
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ももちゃん
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meriya kiri (キリチャン)
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モウ君の総合目次
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コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
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古事記字源
と
虎関師錬
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↓↑
↓↑
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