からす・・・「方丈記」の繰り返し・・・
・・・なんか、ここは朝から小春日和りってカンジだが、赤とんぼ・・・昨日は5センチくりらいの膨らんだキュウリがぶら下がっていたが、まだ伸びるだろうと思って採らなかったが、今朝は黄色くなって腐っていた。梨は大量に地面に落っこちているが喰い物にはならないか・・・カラスが群れて飛んでいく・・・京都の夏は暑くて、冬は寒い所だったな・・・熊野寮の前にはレストラン「じじばば」と「ソフトクリーム屋」があったが、ムカシ、むかしのハナシ・・・「M」さんも今頃、苦労してんだろうな・・・誕生日までには「カネ」もどうやら底を尽きそうだ・・・ 今現代の世界的状況は「方丈記」である・・・戦争、天変地異・・・何時の時代も同じか・・・ 「烏丸(からすまる)」の地名由来だが、「地名は、かつてあったとされる川に由来」・・・「京都には、東に鴨川と、西にある桂川。昔には今出川や夷川(えびすがわ)もあった」、「鴨川の一支流とみられる烏丸川という小川が流れ、烏丸通に沿って、もうひとつ川が流れ、河原の中洲を、河原の洲=かわらのすと呼び、それがカラスとなり、中州一帯を、河原の洲の間=かわらのすのまと呼ぶようになった」?・・・「烏丸綾小路で弥生時代の住居の遺跡が発掘された」・・・ 「烏丸川の方は応仁の乱後から渇水しがちになり、天正年間までに埋め立てられその姿を消した」、「渇水」は「涸(か)らす」か?・・・「烏丸は、平安遷都の当初はまだ字面通りに「からすまる」と読まれていた」・・・ 「撥音便化」で「からすまん」、 「語尾音が脱落」して「からすま」に転じた・・・? 「今日では烏丸を含む名称のほとんどが カラスマと読まれているが、 旧堂上公家の 烏丸家とその家系に連なる者に限っては 今日でもこれを カラスマル と読んでいる」・・・「からす-まる」だろう? 江戸時代の「烏丸家(からすまるケ)」から・・・ 「烏丸=karasumaru」 マルの発音は、平安末期迄の人達にとって 発音し難いモノだった・・・」・・・? 「後ろの ar が落ちる形の カラスム、或いは ru が n に変化して仕舞う カラスマン、発音に成った・・・ イロハで、 チリヌルの nu-ru を続けて発音して居る事からも、 ン、ナ行とラ行は必要に応じて入れ替わった・・・? 所謂。音便です・・・」 ・・・色々な説があるらしいが、やっぱ、ココは「漢字」から、その地名由来を考えるべきであるカナ・・・「マル」が発音しずらいってのも「?」である。 「円・圓」は「まる」じゃぁなく、「つぶら」で「都夫良意美(つぶらおみ)」は「葛城 円(かつらぎ の つぶら)・?~安康天皇三年(456年)」の人物で「眉輪王・目弱王」を守った人物であるが・・・ 「丸」は「真田-丸」や、「西の丸」の「丸」で「陣地」や、「城」や「砦」の「敷地・領域・区画」だろう・・・ そしては「さる丸」は「猿丸大夫(さるまるのたいふ・さるまるだゆう)」の記録がる。「三十六歌仙の一人。生没年不明・大夫とは五位以上の官位を得ている者の称」らしいが、遊廓(遊郭)、廓(くるわ)の遊女の階級でもあった・・・ 小倉百人一首では 「おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときぞ あきはかなしき」 菅原道真の「新撰万葉集」では 「奥山丹 黄葉踏別 鳴鹿之 音聆時曾 秋者金敷」 「あきやまの もみぢふみわけ なくしかの こゑきく時ぞ 物はかなしき」 地名の「金敷」とは「大和町の金敷城山(佐賀県)←乙文殊→巨石パーク」、そして和歌が詠まれた場所が「宮妻峡、三重県四日市と鈴鹿市に跨る鈴鹿川支流、内部川上流の渓谷。鈴鹿宮妻峡」? 「鴨長明(南大夫・菊大夫)」の「方丈記(?)」には 「・・・アハヅのハラをワケツヽ、 セミウタのヲキナ-ガ-アトを-トブラヒ、 タナカミ河をワタリテ、 サルマロ-マウチ-ギミ-ガ-ハカヲタヅヌ」 というのは、「猿丸大夫の墓をたづぬ」ことで、「サルマロ」は「猿丸」、「マウチギミ」は「大夫」に当たるとの説があるらしい・・・原文は「カタカナ」なのか?以下は「青空文庫」からの抜粋添付であるが・・・ 「もし日うらゝかなれば、嶺によぢのぼりて、はるかにふるさとの空を望み。木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を見る。勝地はぬしなければ、心を慰むるにさはりなし。あゆみわづらひなく、志遠くいたる時は、これより峯つゞき炭山を越え、笠取を過ぎて、岩間にまうで、或は石山ををがむ。もしは粟津の原を分けて、蝉丸翁が迹をとぶらひ、田上川をわたりて、猿丸大夫が墓をたづぬ」 「方丈記」、アマリにも名文で出来過ぎであるカナ? で、「大夫」はカタカナが原文なら「マウチ-ギミ」・・・? 「猿丸-大夫(大臣・側近・内大臣?)」が「サルマロ-マウチ-キミ」と読むなら、「真打(まうち・しんうち)」ですかネッ?・・・「大、中、小」の「納言」であるならば、「マウチ」は「モウス=もうす=申す」ではないのか?「ス」を「チ」との読み違いか、写し違い?・・・それに「セミウタのヲキナ」とは、 第十番(百人一首)の 蝉丸(せみまる)なら、 「これやこの 行くも帰るも わかれては 知るも知らぬも あふ坂の関」・・・「あふ坂の関」と「アハヅのハラ(粟津の原)」って・・・?・・・ 兎に角、「百人一首」は「藤原定家」の撰である。彼の履歴は、 応保二年(1162年) ~ 仁治二年八月二十日(1241年9月26日) 法名 明静 別名 京極殿、京極中納言 官位 正二位・権中納言 主君 二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇 ↓↑ 後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇 ↓↑ 後鳥羽天皇 治承四年七月十四日(1180年8月6日) 午時・五条町亭で誕生 ~ 延応元年二月二十二日(1239年3月28日) 隠岐で死亡 ↓↑ 仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇 「後鳥羽天皇」の「承久の変」・・・承久三年(1221年)に、「後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権、北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱」の宮廷人であった。後鳥羽上皇は隠岐に流され、関係資料を持って隠岐で「隠岐本新古今和歌集」を作り上げた・・・「鴨長明」は「藤原定家」と同時代の「久寿二年(1155年)~建保四年閏六月十日(1216年7月26日 )」で、七歳年上・・・「後鳥羽天皇」より二十五歳年上・・・ 1118年生・・・平清盛・・・1184年死 永久六年一月十八日(1118年2月10日) ~ 治承五年閏二月四日(1181年3月20日) ↓↑ 1155年生・・・鴨長明・・・1216年死 1162年生・・・藤原定家・・1241年死 1221年・・・・承久(三年)の変 1180年生・・・後鳥羽天皇・1239年死 ↓↑ 「後鳥羽天皇(上皇)」の 「後(あと・のち・ゴ)の 鳥(とり・チョウ)の 羽(は・ウ)」である・・・ 「百人一首」の「歌留多」としての普及は「江戸時代」からであるらしい・・・ ↓↑ 「定家から蓮生に送られた色紙、いわゆる小倉色紙(小倉山荘色紙)は、蓮生の子孫にも一部が受け継がれた。室町時代に茶道が広まると小倉色紙を茶室に飾ることが流行し、珍重されるようになった。戦国時代の武将・宇都宮鎮房が豊臣秀吉配下の黒田長政に暗殺され、一族が滅ぼされたのは、鎮房が豊前宇都宮氏に伝わる小倉色紙の提出を秀吉に求められて拒んだことも一因とされる。小倉色紙はあまりにも珍重され、価格も高騰したため、贋作も多く流布するようになった」・・・「贋作(ガンサク)」には需要があった・・・ ↓↑ 「猿丸大夫=さるまるだゆう=猿丸太夫)は「江戸時代」の読み仮名であるらしいく・・・日光山の伝承では「小野猿丸ことは猿丸大夫」とかがあるらしい・・・「沙留・沙流」の名前の記録もあるらしいが、問題は「丸・まる・マル・満留・萬留・〇」である・・・そして、「丸=九+ヽ」は「ガン」である・・・ ↓↑ 烏丸家(からすまるケ) 藤原北家 日野氏流の公家 家格は名家 室町時代の 権大納言 日野資康(裏松資康)の三男 贈内大臣豊光を祖 家業は歌道 江戸時代の石高は1153石 豊光の子 資任は准大臣 室町幕府 八代将軍 足利義政の寵臣 ↓↑ 烏丸光広 藤原北家 内磨流 日野家支流 烏丸家 父=烏丸光宣 正室 鶴姫(江戸 重通の女、結城晴朝の養女) 側室 村上頼勝女 子 光賢、 勘解由小路資忠、 六角広賢 ほか 烏丸光広(からすまる みつひろ) 江戸時代前期の 公卿・歌人・能書家 准大臣 烏丸光宣の長男 官位は正二位権 大納言 細川幽斎から 古今伝授を受けた・・・古今の伝授? ↓↑ 名家(めいけ、めいか) 鎌倉時代以降に成立した 公家の家格のひとつ 羽林家と同列 半家の上の序列に位置 例外 日野家は左大臣 烏丸家 と 万里小路家・・・・・「萬理」? は 内大臣、 柳原家は准大臣に進んだ 日野流は侍従を初任とするが 勧修寺流は 廷中佐(衛門権佐)を 初任とする場合が多く 新家の場合には 弁官のみで 蔵人を兼ねず、 途中で 四府佐や八省輔 ↓↑ 烏丸家(からすまるケ) 藤原氏 北家冬嗣・・・・北の家の冬を嗣ぐ? の流れ 家格は名家 家名は京都の 烏丸に住したのによる 烏丸を名のった 公卿は少なくないが 子孫が 世襲して 称するようになるのは 室町時代 権大納言 日野資康の二子 豊光・・・・・・豊光・・・豊後(ぶんご)? から・・・ 烏丸家 藤原北家の 日野氏流の公家 家格は名家 室町時代の権大納言 日野資康(裏松資康)・・・裏の松の資の康? の三男・贈内大臣豊光を祖 家業は歌道 江戸時代の石高は 1153石 豊光の子 資任は准大臣 室町幕府八代将軍 足利義政 の寵臣 ↓↑ 烏丸光亨・・・・烏の丸の光の亨(とおる)? 1865年 誕生 1884年 伯爵 1909年 死去 ↓↑ 烏丸藤四郎 短刀の銘 吉光 名物は「烏丸藤四郎」 8寸5分半 享保名物帳 所載 烏丸藤四郎 日野資康の三男 豊光(烏丸家祖)が、 院の執権となり、 検非違使の別当を兼ね、 勢力を張る ↓↑ 「丸」と「桓」の漢字の相異(相違)はなにか?・・・ ↓↑ 小烏丸(こがらすまる) 現存する日本刀の中で最も古い時代の物の一 平家一門の家宝 刀工「天国(あまくに)」作と伝えられる日本刀の名 ↓↑ 桓武天皇の時代 伊勢神宮より遣わされた 八尺余りある 大鴉 「八咫烏」が空より舞い降り その羽から出てきたという伝承 「小烏丸」 という名はこの伝承に由来 後に 平貞盛が 平将門、 藤原純友 らの反乱を鎮圧する際に 天皇より拝領した・・・ ↓↑ その後、 壇ノ浦の合戦後行方不明 天明五年(1785年) 平氏一門の流れを汲む 伊勢家で 保管 が判明し、 伊勢家より 刀身及び刀装と伝来を示す 「伊勢貞丈家蔵小烏丸太刀図」 の文書が幕府に提出された 一度は伊勢家により 徳川将軍家に献上されたが 将軍家はそのまま伊勢家に預け、 明治維新後に伊勢家より ↓↑ 対馬の 宗家に買い取られた後、 明治十五年(1882年) 宗家当主の 宗重正伯爵より 明治天皇に献上・・・ 現在はこれが皇室御物 「小烏丸」として、 外装ともに宮内庁委託品として 国立文化財機構で保管 刀工「天国」作という説があるが、 現存するものは 生ぶ茎、すなわち 無銘である・・・ ↓↑ からすまる→からすま ↓↑ 「烏丸(ウガン)」 漢代から魏の時代にかけ 中国北方に勢力を張った遊牧民族 「烏桓(ウガン)」の別表記 中国の正史・二十四史の中で 「三国志」が 「烏丸」と記し、 他は 「烏桓」と記している・・・ ↓↑ 「丸」と「桓」の漢字の相異(相違)はなにか? ↓↑ 「丸」=まる・まるい・まるめる・たま・ガン・グヮン まるい粒・塊 一丸・睾丸・弾丸・砲丸・弾丸・飛丸 丸剤・丸薬・丸太 ひとかたまり・そのまますべて 人・イヌ・刀・船などの名に添える語 丸薬=地黄丸・長命丸 幼名=・・・丸・牛若丸 船名=・・・丸 丸顔・丸首・丸腰・丸太・丸裸 丸子(まりこ) 丸雪(あられ) まる=輐・槫・摶・圝・團・圓・圌 団・円・丸・球 弾丸雨注 弾丸黒子・・・黒子=ほくろ・くろこ 弾丸黒痣 弾丸之地 一瓜実に二丸顔 親方日の丸 胡椒の丸呑み 四角な座敷を丸く掃く 上戸めでたや丸裸 弾丸黒子の地・・・・狭い小さな土地 鼻糞丸めて万金丹 本丸から火を出す・・・本の丸からヒを出す? 坊主丸儲け 丸い卵も切りようで四角 丸くとも一角あれや人心 ↓↑ 「桓」=異体字は「楦=木+宣」 めぐる・うれえる・カン・ガン 桓=郵亭(宿場)の「しるし」として、 宿場の周りにたてた木 棺を墓穴におろすために 四すみに立てる柱 盤桓(バンカン)=うろつく (徘徊・彷徨) ぐずる (未練がましい) 鯢桓之審=大海の水深が深い場所 牝クジラ(鯢) 久志羅・久地楽・櫛羅 ↓↑ 桓因 と子の 桓雄 は下界に興味を持ったので、 桓因は桓雄に下界を治めるよう命じ 桓雄は太伯山(三國遺事で妙香山、白頭山)の 神檀樹に部下3,000人と共に天下って 「神市」という国を築いた 桓雄は ある 「熊」の願いをかなえて・・・「熊・球磨・久万・隈・阿」 女にし、この 熊女(ユウジョ・ウンニョ)との間に子をもうけた これが 檀君王倹(檀君)・・・・・談(譚・探・椴)の訓の応研? 檀君朝鮮を築いた人物・・・ ↓↑ 桓範 (?~249年) 中国後漢末期から三国時代の 武将、政治家 、文学者 魏に仕えた 字は 元則 豫州 沛国の人・・・・沛(氵+亠+巾)の国 妻の名は 仲長・・・・・・仲(イ+中)の長 ↓↑ 魏の家臣 建安年間の末期 曹操に仕え、 丞相府に入り 延康年間に 羽林左監に任じられた 曹丕(文帝)が・・・・・文帝・・・文綴? 禅譲により即位 曹丕(文帝)の命令で 王象達と共に 『皇覧』の編集に従事 ↓↑ 曹叡(明帝)の時代・・・明帝・・・酩酊?・明綴? 中領軍・尚書 征虜将軍・東中郎将、 使持節都督 青徐諸軍事に昇進 下邳に駐屯 徐州刺史であった 鄭岐と争い 節を利用して 鄭岐を斬ろうとしたが 鄭岐が上奏し 裁定の結果 桓範は免職 後、 兗州刺史として復帰 冀州牧に転任させられるという噂を聞き 鎮北将軍の 呂昭は桓範より下位の人物で 才能と実績により 桓範を凌ぐ地位を得ていたが 桓範は 呂昭の配下になることを嫌い 妻に愚痴をこぼし、 妻が桓範の失敗を揶揄したため 桓範は妻の腹を剣の柄で突き 妻は流産 桓範は病気と称して 冀州への転任を辞退 ↓↑ 曹芳(斉王)の時代・・・斉の王 正始年間 大司農に任命 司馬懿と共に 実権を握っていた 曹爽は、 司馬懿を退けた後、 側近達に政治を任せ悪政 王粛は悪政として 桓範の名を挙げた ↓↑ 桓範は 『漢書』を研究し、 『世要論』という書を著し 桓範は、 太尉であった 蒋済と同席し 『世要論』を 蒋済に見せたが 蒋済はそれを見ようともせず 桓範は蒋済に怒りをぶちまけたが 蒋済は返事もしなかった・・・ ↓↑ 正始政変 249年・・・・・・・・卑弥呼(175年~247年、248年頃) 「魏志倭人伝」 曹爽が 曹芳(斉王)に同行して、 曹叡の陵墓の 高平陵を参拝しようとした時 桓範は 首都洛陽を空けることの危険性を説き その同行を諫めたが、聞き入れられなかった 曹爽が都を留守にした隙をついて、 司馬懿が 曹爽打倒のクーデターを決行 洛陽を占拠 司馬懿は 桓範を高く評価しており、 中領軍を任せようとし 桓範がそれに応じようとしたが、 子はそれに反対し、 曹芳(斉王)の下に赴くべきと主張 桓範は 部下の反対を無視し 子の意見に従い、 南の平昌城門・・・平の昌の城の門・・・定紋・条文? まで行ったが 門は閉鎖されていた。 門番の 司蕃に・・・・・・司の「蕃=茂り増える 蕃殖・蕃息 未開の異民族 蕃夷(バンイ) ・蕃俗 外国 蕃茄(バンカ) 蕃書調書・・・洋書調書 1856年(安政三年)発足 洋書調書に改名 文久二年(1862年) 蕃神 諸蕃=三韓の朝鮮半島の国々 高句麗・百済・新羅 訓は「となりのくに」 「もろもろのえびす」 陛下の 詔勅であると 偽って開門させ 桓範はかっての部下 司蕃に対し、 司馬懿の謀反を報せ 同行することを求めたが、 司蕃はこれに応じなかった ↓↑ 桓範は洛陽から脱出し 司馬懿は 「曹爽は内心で桓範を疎んじており、智恵も足りない。 『駑馬短豆を恋う (凡人は、目先の利益にあり付こうとする)』 必ずやその献策を採り上げないだろう」 と言って、相手にしなかった ・・・「駑馬十駕」のコトワザもある・・・ 曹爽の元に 辿り着いた桓範は、 彼に対し 許昌で曹芳(斉王)を擁して 再起を図るよう献策 曹爽は決断せず 桓範は曹爽の弟 曹羲にも決起を勧めたが、 曹爽兄弟は二人とも決断しなかった 曹爽は 司馬懿から、 解任のみを条件にして放免にすると言われ 戦意をなくし 桓範の進言を聞き捨てた上で、 曹芳(斉王)に上奏して 自分達を罷免するよう要求 曹爽兄弟のこの有様を見た 桓範は罪に問われることを覚悟し、 連座により一族が滅亡すると嘆いた・・・ 曹爽が 「自分達は実権を失っても 富貴でいられる」・・・・・なるほど、富貴? と、発言し 桓範は絶望のあまり 「曹子丹(曹爽の父、曹真)は優れていたが お前ら兄弟は 子牛同然ではないか・・・・子牛 孔子・高氏・公(孫)氏 子丑 お前たちのせいで、 族滅の憂き目にあうとは思いもしなかった」 と言い捨てた(「魏氏春秋」)・・・ 曹芳(斉王)が元の御所に戻り 桓範は元の官職に復帰 司蕃が言上し、 桓範が 司馬懿を 誣告したことを告発 司馬懿は激怒し、 役人に刑罰法制を聞いた上で 桓範の罪を確認、桓範を逮捕 曹爽とその一族が 謀反の罪を着せられ処刑 桓範もまた同調したとして 三族とともに誅殺された・・・ ーーーーー ・・・「桓武天皇」って?・・・平家の始祖だが・・・「日本書紀」改竄の張本人か?・・・・ ↓↑ 桓武天皇 天平九年(737年) ~ 延暦二十五年三月十七日(806年4月9日) 第五十代天皇 在位 天応元年四月三日(781年4月30日) ~ 延暦二十五年三月十七日(806年4月9日) 名は 日本根子皇統弥照尊 (やまとねこすめろぎいやてりのみこと) 「桓」とは 『逸周書』謚法解に曰く 「辟土服遠」を表す・・・ 「辟土服遠、曰桓」=武力によって四夷を征服 辟土は僻地 「克敬勤民、曰桓」 「辟土兼國、曰桓」 辟土服遠、克敬勤民、皆曰桓。 又《方言》桓、憂也。 又 木名。 《郭璞云》葉似柳、子似楝。 郭璞(カクハク) 276年~324年 中国西晋・東晋の 文学者・卜者 経学・詩文・暦数に通じ、 「爾雅 (ジガ)・方言・山海経」 に注をつけた 字は景純 本籍地 河東聞喜(山西省) 志怪小説では、 超人的な予言者・妖術師 《玉篇》 皮黃白色。 《山海經》袟周之山木多桓。 又 《酉陽雜俎》無患木、一名桓。 又 盤桓、髻名。・・・髻(もとどり)=髪の毛を束ねた頭 《古今註》長安婦人、好爲 盤桓 髻。 又姓。 《姓苑》望出譙郡、漢、有桓榮 ↓↑ 山部(やまのべ・サンブ)皇子 光仁天皇の 第一皇子 母は高野朝臣新笠(和史乙継の女)・・・和史の乙継の女? 794年 平安京遷都 坂上田村麻呂を征夷大将軍とし 東北地方に派遣 ーーーーー ・・・?・・・「鴉丸・雅丸」でも、「香良洲丸」でもない、「烏丸」で「ウガン」である・・・「マリア・カラス」は・・・ 「Maria Callas Μαρία Κάλλας」 1923年12月2日~1977年9月16日 ギリシャ系アメリカ人のソプラノ歌手・・・
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