まちぼうけ・・・コロリ転げたキの根っ子・・・
・・・「ペリー黒船艦隊」潜入の「伊賀忍者」は「旧約聖書」を読んだか・・・?・・・「栂(とが・つが)」のナゾ?・・・「栂(とが)の木」の由来は咎人(罪人)を磔刑(はりつけ)するのに使った?・・・「木が曲がる・つがう木(組み合わせる木)」の意味から、とも・・・「栂の樹皮からタンニンを取り、漁網を染めるのに使われた」・・・「樅(もみ)の木に似るが樹皮は灰色がかった赤茶色で亀甲状に剥(は)がれる。葉は扁平な針状で、表面は深緑で艶(つや)があり、つぶつぶ状、主軸に沿って窪みがある。先端が少し窪(くぼ)んでおり、葉先が二つに分かれたようになっている」・・・モミ(樅)と混生することがあるが、モミ(樅)が「山腹」に生育するのに対して、栂(とが・つが)は「尾根」筋に生育し、一部の地域では「トガサワラ(栂椹・日本地域固有種で四国南部のみに生育・名前由来はトガ(ツガの別名=栂)に似るが、材がサワラ(椹)に似るための説もある。地方名としてはカワキトガ(乾燥地に生えるツガの意)などとも呼ばれた」などとも混生する・・・「米栂(こめつが)、カナダ(加奈陀・加拿大→掛名拿)栂」・・・「とが=咎・枅・讁・罸・尤・尖」・・・「栂=とがさき・バイ・méi=梅」・・・「尤(ユウ・ウ)」が「とが・とがめる・もっとも・はなはだ・おう」なんだか、「尢+丶」、異体字は「尢・𡯊・犹・ 𣧗・怣・訧・猶」で、声符が「又(ユウ)」である。熟語は「猶太=犹太=尤太=术忽=斡脱」で「以色列」である・・・なんで、「栂」が「梅」の異字体なんだ・・・「文字のワナ」とは「アソビ=阿蘇尾=遊(ユウ)」で、「遊戯・遊技・友誼・友諠」で、「結う祇(祁)」であるらしい・・・ ↓↑ hemlock fir=「栂の木」・・・ ↓↑ Douglas fir=「巨大(Douglas)な樅(fir)の木」 「Douglas・Archibald Lucius (イギリス海兵団中佐・1873年7月 日本政府の招聘で イギリス海軍教師団首長として着任・海軍省雇) 「Douglas・ Lloyd Cassel (処女作『偉大なる妄想』 The Magnificent Obsession (1929) で一躍有名になる) ↓↑ ・・・「ダグラス」名の人物は大ぜい居るが何といっても 「ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)」元帥 である・・・1918年(大正7年)2月 第一次世界大戦、西部戦線に派遣された 「マッカーサー」は 第42師団の「レインボー師団」の参謀長・師団長だった・・・ ↓↑ hemlock=ドクニンジンmaclatum=ヘムロック・毒ヘムロック 小さな白い花や分割葉植物から作られた毒の種類 hemlok、hemeluc chaerophylloides=毒芹=Cicuta bulbiferaL キクータ ウィーローサ=Cicuta virosa 水ヘムロック= Mackenzie's water hemlock (Cicuta virosa) =毒水芹 ソクラテス毒殺に使われた 「毒人参(ヘムロック)のエキス」・・・ ↓ 「ホセア書」 ホセア=ヘブライ語「ヤハウェの救い」を意味 「ホシェア」とも表記 ホセア (預言者)=北イスラエル王国出身で、 ユダ王国で活動した預言者 ホセア (イスラエル王)=北イスラエル王国の最後の王 ↓ ホセア (預言者) ベエリ の子 ホセアとゴメルの結婚 偶像崇拝を 続けるイスラエルに対する 神のへの罪の 裁きと、赦しの「書」 10:4 「彼らは偽の誓いを取って、 空の協定を作り、 空の言葉を口にする。 そのための法的紛争は、 耕されたフィールドの畝で 有毒雑草(栂=つが=hemlock・ヘムロック=毒草) みたいに発芽する」 ↓↑ 「栂=うめ=梅=宇目=楳(バイ)=埋=宇受女」 ↓↑ ーーーーー 伊賀忍者の 「無足人=沢村保祐」 ↓↑ 津藩 藤堂家の領内 伊賀国内において、 藩士とならなかった 伊賀者(忍の者)は 「無足人」として居住 「無足人」とは 俸禄を受けないという意味 実際には 扶持米を支給されていた 身分は 士分や郷士より上位 農民とも区別され、 苗字帯刀を許され 夫役を免除された 「伊賀付差出帳」の記録には 無足人は、 組外衆、 母衣組衆、 鉄砲組ノ衆、 留守居衆、 忍びノ衆 の 5つの組 忍びノ衆 20名のうち、 15石12人扶持を得ていた 「沢村三九郎」の 八代目が 「沢村保祐」 沢村家は、 「狼煙(のろし)役」の家柄 沢村家には 火薬に関する伝書が残る 無足人たちは、 毎年藩主 や 上野城代の前で 武芸一覧という 実地演習を披露 ↓ 嘉永六年(1853年) 八代目 「沢村保祐」に 黒船潜入の命令が下った 相模国浦賀沖に来航した ペリー艦隊に対し、 藩主の 藤堂高猷・・・ナゼ、「高-猷」なのか?・・・「猷=猶」? 先祖の 藤堂高虎は 「日光東照宮(栃木県日光市に所在する神社 幕府初代将軍・徳川家康を神格化した 東照大権現を祀る)」 を 三代将軍から命を受け創建 徳川家光の 諡号は 「大猷院」 戒名は 「大猷院殿・贈正一位大相国公」 から 潜入、探索 するようと 「沢村保祐」に命令 (沢村家文書)
・・・「沢村保祐」はアメリカ軍艦に乗船し、 乗組員から パン2個、 煙草2葉、 蝋燭2本、 書類2通 を貰い、 種々の待遇を受け帰還し 高猷に報告、 高猷の息子 藤堂高潔 から 「パンを1個呉れ」と いう内意を受けて差し上げ、 残りは保存 だが、 「書類以外」 は、いつの間にか消滅した・・・ 書類2通 艦備付けの 透かし年号入り用箋に オランダ語で 1・ Engelsch meid in de bed. Fransch meid in de Keuken,Hollandsch meid de huishouding. (イギリス女はベッドが上手、 フランス女は料理が上手) 2・ Stille water heeft diept ground. (音のしない川は水深がある) と記され、この書類2通は、 「沢村保祐」が隠密活動をした証拠・・・? ・・・「コトバ」はどうしたのか? 「伊賀忍者」は鎖国後から 「天草の乱」以後も 「百姓一揆。叛乱鎮圧の傭兵」として動員され 「御禁制邪教の諜報部隊」だった・・・ 同時に 「隠れキリシタン・転びバテレン」を囲った・・・ 理由は伴天連の「技術」の習得である・・・ ↓↑ 転びバテレン クリストヴァン・フェレイラ=沢野忠庵 日本人妻を娶った 他の棄教した聖職者、転びバテレンとともに キリシタン取締りに当たった 1644年(正保元年)にはキリスト教を攻撃する 『顕疑録』を出版 これとは別に、 天文学書の 『天文備用』 医学書の 『南蛮流外科秘伝』など出版 ↓↑ ジュゼッペ・キアラ=岡本三右衛門 寛永二十年(1643年) 5月 筑前国で束縛、長崎に移送 7月 江戸に移送され、 宗門改奉行 井上政重 の邸に預けられ、 クリストヴァン・フェレイラ(沢野忠庵)が協力し、 詮議 大老 酒井忠勝 老中 堀田正盛 らの邸でも取り調べ 将軍 徳川家光・・・・・・ も自ら検分した 正保三年(1646年) 小石川の山屋敷(切支丹屋敷・文京区小日向)に移され、 同じく入国を企てた仲間と共に収容 幕命により 岡本三右衛門 という 死刑囚の後家を妻として娶り、 そのまま 岡本三右衛門の名を受け継ぎ 幕府からは 十人扶持を与えられ 山屋敷からの出入り禁止され 宗門改方の業務を行った 幽閉40年の後、 貞享二年(1685年)死去 小石川無量院に墓石が建てられた 墓石は明治19年(1886年) 同寺墓地整理のため 雑司ヶ谷へ移され その後行方不明 調布市の調布サレジオ神学院に墓碑がある 無量院と隣接していた 小石川伝通院には、 ジョセフ岡本三衛門の名で供養碑が 建てられている。 キリスト教の教義について解説した 「天主教大意」を著 後、これを研究し 新井白石は 切支丹屋敷へ幽閉した ジョヴァンニ・シドッティ を尋問・・・
↓↑ ペリー艦隊は 翌 安政元年(1854年)、 「日米和親条約締結」の為に再度来航 この時 3月27日 ペリーが 日本側 60余人を 艦内に招待して饗宴 船室等も見学させ アメリカ側の日本遠征記に記録 沢村家文書には何故か ペリー艦隊の 2度の来航が2度とも 嘉永六年のことと記録 保祐が艦内に潜入したことは アメリカ側の記録にはない 少なくとも 1853年に潜入したか 若しくは、 ペリーが日本側を招待した際の 随行員の1人と目されている・・・ なお、 「沢村家文書」は 後年記録されたもの・・・であるらしい? ーーーーー 旧約聖書 約伯 記 ヨブ・・・「与分・余部」記 ・・・・呼ぶ記(紀) 第35章 35:1 エリフ は また 答えて言った、 35:2 「あなたは これを 正しいと思うのか、 あなたは 『神の前に 自分は正しい』 と言うのか。 35:3 あなたは言う、 『これは わたし(わたくし・ム・よこしま・私)に なんの益があるか、 罪を犯したのと くらべ(比較)て・・・句等部出 なんの まさる(勝る・優る) ところが あるか』 と。 35:4 わたし(わたくし・ム・よこしま・私)は あなた および、 あなたと共にいる あなたの友人たちに 答えよう。 35:5 天を仰ぎ見よ、 あなたの 上なる 高き空を望み見よ。 35:6 あなたが 罪を犯しても、 彼に・・・・・・・「彼」とは神のコト? なんの さしさわり(差障り・障害・障碍) があるか。 あなたの とが(咎・罪科)が・・・トガ・訳臥 ↓ 門叶・利賀・戸賀 栂=栂(とが・つが)=木+母 梅の異字→梅里=徳川光圀 水戸黄門 梅=木+毎(𠂉+毋) 毋=なかれ・ブ・ム 母=はは・ボ 毌=つらぬく・カン=貫 紀貫之 「栂」=「とが→塗臥・漆器塗」 「栂」の漢字は 湖南省長沙にある 紀元前2世紀の墳墓 「利蒼(?~紀元前186年)」と その妻子の墓(1972年発掘)の 「馬王堆漢墓」発掘物の中に 使用記録として発見・・・? 副葬品の 漆器に 「軑侯家(タイコウカ)、 封泥(古代中国で文書類や容器を 封じる際に くくった 紐の一部に泥を塗り その上に捺印したもの 中国本土や西域、楽浪 などから出土) に 「軑侯家丞(タイコウカジョウ)」 女性の遺体は 恵帝時代の軑侯家(楚)の女性 「妾辛追」の印から名は 「辛追」 この女性の 胃に 「真桑瓜の種138粒」が発見 帛画、竹簡、帛書など 夫の副葬品に 「利蒼」と刻まれた 玉材私印 「軑侯之印・長沙丞相」と刻まれた 鍍金亀鈕銅印 「木牘」 が発見 ↓↑ 「つが・とが」は「枕詞」で 「トガの木の、いやつぎつぎに 天の下知らしめししを・万葉集 29」 「栂(とが)の木」 「みづ枝さししじに生ひたる 栂(とが)の木 いや継ぎ継ぎに・万葉集・907」 ↓↑ 咎=とが=塗臥=戸賀→伊賀 戸隠→戸田白雲斎 戸沢白雲斎 神道講釈は 天保の改革にも保護 明治に大阪に 玉田玉枝斎 玉田玉秀斎(加藤万次郎) 玉田玉芳斎 三兄弟の二代目 玉田玉秀斎(加藤万次郎) の創作、猿飛佐助の師 百地三太夫=戸沢白雲斎? 百地丹波=百地三太夫 (永正九年・1512年 ~天正九年・1581年?) 天正(七、九年)の伊賀の乱 戦国時代の土豪・伊賀忍術の元祖 幕末のペリー来航の際、 ↓↑伊賀者の ↓↑沢村甚三郎が黒船に潜入・・・? ↓↑ 罪科=ザイカ=財貨 覚以下 覚易化 覚医家(医家) 覚異化 指烏賊(伊香→伊賀→忍者) 多くても、 彼に 何をなし得ようか。 35:7 また あなたは 正しくても、 彼に 何を与え得ようか。 彼は あなたの 手から 何を受けられるであろうか。 35:8 あなたの悪は ただ あなたのような人に かかわり、 あなたの義は ただ人の子に かかわるのみだ。 35:9 しえたげの 多いために叫び、 力ある者の 腕のゆえに 呼ばわる 人々がある。 35:10 しかし、 ひとりとして 言う者はない、 『わが造り主なる神は どこにおられるか、 彼(神)は 夜の間に 歌を与え、 35:11 地の獣よりも多く、 われわれを教え、 空の鳥よりも、 われわれを 賢くされる方である』 と。 35:12 彼らが叫んでも 答えられないのは、 悪しき者 の 高ぶりによる。 35:13 まことに 神は むなしい叫びを 聞かれない。 また 全能者は これを顧みられない。 35:14 あなたが 彼(神)を見ない と言う時は なおさらだ。 さばきは 神の前にある。 あなたは 彼(神)を 待つべきである。 35:15 今 彼(神)が 怒りをもって罰せず、 罪とがを 深く 心に とめられないゆえに 35:16 ヨブ は 口を開いて むなしい事を述べ、 無知の言葉を しげくする」。 ーーーーー ・・・「ヨブの疑問」は「尤(もっと)も」だとは思うが、「エリフ」は、その疑問に何ら「答え」てはいない・・・「神を待つべきである」とは、「毎日、ゴドウを待ち望む人びと」には現れなかった・・・「UFO」は「待ち望む意志が無い人びと」にも現れているのに・・・
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