やまし・・・疾しい・疚しい・・・足引きの耶摩
2022/5/17・火曜日・・・追加添文・・・
ああ、君(プーチン・Putin)、観ずや、いくさ場を
聴こえずや、歎息を・・・
兵士の死に場所・・・都市町村の民人の死に場所
くたばれ「腐汚黕」・・・
心中「赤蝦夷=魯(俄)西亜」の道行き
↓↑
黕=黑+冘(イン・ユウ)
黒+冘
里+灬(炎)+宀+儿
冘=宀+儿
イン・ユウ
おこたる・ためらふ
うたがふ・ためらう
ウタがう・タメらう
異体字「𪐨=黑+冗(ジョウ・ニョウ・むだ)」・・・冗談
黑+冖+几
異体字「冘=宀+儿=抌・㪛・㱽・𢻼」・・・冗=冘
↓↑
黕=黑+=垢(あか)・汚れ・真っ黒
↓↑
「ウミゆかば」
海行かば 水浸く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
顧みは せじ
巻十八の四千九十四
大伴家持
↓↑
海行かば・・・海行者
水浸く屍・・・美都久屍・・・美しい都(みやこ)に久しい如かばね
山行かば・・・山行者
草生す屍・・・草牟須屍
大君の・・・・大皇乃
辺にこそ・・・敝尓許曽
死なめ・・・・死米
顧みは・・・・可敝里見波
せじ・・・・・勢自
↓↑
「祁布与利波
可敝里見奈久弖
意富伎美乃
之許乃美多弖等
伊埿多都和例波」
「御民吾
生有験在
天地之
栄時尓
相楽念者」
巻十八の四千九十四
大伴家持
↓↑
海ゆかば (Umi Yukaba)
~If I go away to the sea~ Japanese military song
山師(やまし)
15世紀末~16世紀にかけて生まれた鉱山業者
金山師の略称
山主・山元とも
鉱業の練達者
採鉱経営の請負主
鉱脈の発見・鑑定や鉱石の採掘事業を行う人
山林の買付けや伐採を請け負う人
投機的な事業で大もうけをねらう人
投機師・詐欺師・いかさま師
↓↑
ずり山・ぼた山
採鉱して得た鉱石を主として物理的に選別し
有用な鉱石と
そうでない鉱石
(尾鉱、ズリとも呼ばれる)
を
選別し捨てて積み上げた場所が山になった・・・
↓↑
人間を捨てた「姨捨山」・・・
ハナシは「小説」としての
「創作上のウソ」である・・・
『楢山節考(ならやまぶしこう)』
深沢七郎の短編小説
「民間伝承の棄老伝説」
を題材した「小説」・・・
↓↑
『楢山節考』(松竹)
1958年(昭和33年)6月1日封切
監督・脚本:木下惠介
出演:田中絹代、高橋貞二
宮口精二、市川團子
伊藤雄之助・・・
大嫌いな「悪役俳優」だったけれど
大好きな「役者・俳優」になってしまった・・・
↓↑
足引きの(あしひきの)
および「山」を含む語
「山田・山鳥」などにかかる
枕詞・・・
病(やまい)で
「枕(まくら)・寝床・寝台・布団」
に伏(臥)している
「あしびき」=足の機能が不自由・・・
「足日木」
「安之婢」
「馬酔木(あしび)」
馬が食べると 酔って足がなえ
「足癈(あしじひ)」と記録
癈・・・廃止・廃棄・廃業
癈=疒+發=廃
疒+癶+弓+殳
疒+癶+弓+几+又
ハイ
不治の病・治らない病気
病気や怪我による重い障害
不自由になり動けなくなること
すたれる
廃(すた)れる
廃疾・癈疾(ハイシツ)
回復の難しい病気・不治の病
廃人・癈人(ハイジン)・・・俳人の辞世の句?
・・・徘徊も出来ないが
・・・まだ口だけは達者?
病気や怪我などで
身体(からだ=軆・體・躰・躯・軀)の
機能が不自由になり
通常の生活が出来なくなった人
廃兵・癈兵(ハイヘイ)
戦場で負傷し
身体が不自由になり
戦闘に参加できなくなった兵士
↓↑
山師・・・古代~明治時代の地質学者・・・和銅 ・・・新しい物は慣れるまでは使いずらい・・・ 機能が類似していても使い方の仕様が可なり異なっている・・・ 貼り付けている絵は「ホームビルダー」で作ったモノだが・・・ これが起動せず使い物にならなくなった・・・ ↓↑ 「頁=一+ノ+目+ハ=ケツ・おおがい・ページ=page」 頁(おおがい・いちのかい) ケツ ヨウ かしら ページ こうべ・人間の頭 ページ=書物の一枚の紙の片面 紙を数えるときに用いる 「葉(ヨウ)」と 同音であることから・・・? ↓↑ 頁(かしら) 頁(ページ) 頁岩(ケツガン) 堆積岩の一 粘土が水底で 堆積した地層、岩相の岩 ↓↑ 一枚岩(いちまいいわ) 割れ目などがない一つの大きな岩 ↓↑ 花崗岩(カコウガン)・・・化工元(頑) 深成岩の一種・・・・・・・申請願 石英 長石 雲母 などからなる 主に 白色で黒や灰の点がある 固いことから 土木や建築などに使われる 御影石・・・・・・・・・・音型尺(釋・釈) ↓↑ 火山岩(カザンガン)・・・渡辺 「崋山・華山」願 火成岩の一種・・・・・・・仮性元 溶岩が 冷えて固まってできたもの 玄武岩・・・・・・・・・・言部頑 安山岩・・・・・・・・・・暗算願 読み書きソロバン 算盤・十露盤 ↓↑ 火成岩(カセイガン) マグマ(magma)が・・・万求磨 冷めてできた岩石の総称 石英や長石などから構成 火山岩と深成岩に大別 ↓↑ 奇岩(キガン)・・・・・基岩・祈願・記元 変わった形をしている岩 変成岩・・・・・・・・・編成頑 ↓↑ 凝灰岩・・・・・・・・・業界願・行改元 (ギョウカイガン) 堆積岩の一種・・・・・・泰碩願 火山灰の凝結した岩 ↓↑ 磐余彦=いわれ=神武天皇 神武天皇 辛酉年一月一日~神武天皇七十六年三月十一日 在位 同 明治時代の計算 即位日 西暦 ユリウス暦 紀元前660年2月18日 グレゴリオ暦 紀元前660年2月11日・・・貳解通壱拾壱字通? 660÷60=11・・・・十一=一一 壱拾壱=壹足壹 イチひろうイチ 位置拾一・位地卑陋移置 鄙陋 干支歴 辛酉年・丙寅月・庚辰日・土曜日 「神佑・深憂・神有」念 ↓↑ 諱 彦火火出見(ひこほほでみ) 肥後火火出見? 狭野(さぬ) 若御毛沼命 豊御毛沼命 始馭天下之天皇 ↓↑ 多重の書籍=本の多重のページ 諸石 ↓↑ 岩井の乱 磐井の乱 527年(継体二十一年) 朝鮮半島南部へ出兵しようとした 近江毛野 率いるヤマト王権軍の進軍を 筑紫君 磐井(『日本書紀』筑紫国造) がハバミ(阻み・はばみ)・・・葉羽見? 翌528年(継体二十二年)十一月・・・22年11月・・・? 物部 麁鹿火(もののべ の あらかび・あらかい) もの述べ 新 化備・合等解? 麁=々+鹿=粗・・・粗末 麁(あらい) 麁(おおきい) 麁(くろごめ) 麁(ほぼ) 麤(本字)=鹿+鹿+鹿=ロク+ロク+ロク 肌理(きめ)があらい・粗末な・おおきい ほぼ 玄米 ス・ソ・ゾ あらい、はなれる (木・棒・柱・管・毛・胴・首 など 棒状のものの周りが) 太い・・・ふとい⇔符問い・・・負土肥? 太安万侶 太歳星=木星=辰星=ユピテル・Jupiter 太初・太祖・太子・太古・太鼓 太平・太山 太陽・太陰
太(タイ) 日本語 「アマリにも」 海女里 海毎里 「ハナ-ハダしい」 花環・鼻輪・洟瑞 塙 葉拿恣意 ↓↑ ↓↑ 塙 保己一 華(崋)輪 保記位置? 渡辺崋山 英和 補記意知? ↓↑ ↓↑ 小関三英(こせき さんえい) 天明七年六月十一日 1787年7月25日 ~ 天保十年五月十七日 1839年6月27日 1833年6月(45歳)壬寅正官 ┣支合 丁┏未(丁乙己)比肩・食神冠帯⇔己亥食神 丁┣未(丁乙己)比肩・食神冠帯⇔庚午正財・支合 丁┣未(丁乙己) ・食神冠帯⇔辛亥偏財 丙┗午(丙 丁)劫財・食神建禄⇔甲午印綬・自刑 寅卯空亡 両神相生格 ↓↑ ↓↑ 医者・蘭学者 名 好義 幼名 弁助 通称 良蔵 号 鶴斎・鶴洲・篤斎 出羽国(山形県)庄内地方・鶴岡 出身 コンスブルフの内科書を和訳 「泰西内科集成」 天保三年(1832年) 和泉国 岸和田藩医 幕府 天文方 阿蘭陀書籍和解御用=翻訳係 尚歯会に参加 渡辺崋山に 「耶蘇伝」を口訳した ナポレオン・ボナパルト伝記 リンデン著の 「那波列翁伝」翻訳 他に 「新撰地誌」 「西医原病略」 「輿地誌」
↓↑ ↓↑ 塙 保己一(はなわ ほきいち) 延享三年五月五日(1746年6月23日) ・・・? ~ 文政四年九月十二 日(1821年10月7日) 1821年3月(74歳)壬寅・食神 10月7日死亡 丙┏ 寅(戊丙甲)偏官・偏財 絶⇔辛巳・劫財・空亡・害 三合丙 甲┣ 午(丙 丁)偏財・印綬沐浴⇔丁酉・正官 冲 庚┣ 子(壬 癸) ・傷官 死⇔己未・印綬・害 冲 壬┗ 午(丙 丁)食神・印綬沐浴⇔庚午・比肩・自刑 辰巳空亡 ↓↑ ↓↑ 1746年6月22日・・・? 丙┏ 寅(戊丙甲)⇔辛巳・食神・空亡・害 三合丙 甲┗ 午(丙 丁)⇔丁酉・偏印 己 亥(戊甲壬)⇔己未・比肩 ↓↑ ↓↑ 国学者 幼名 丙寅年生まれにちなみ 寅之助 失明後に 辰之助 一時期 多聞房 雨富検校に入門後・・・雨の富の検校 千弥(せんや) 保木野一(ほきのいち) 保己一(ほきいち) と改名 『群書類従』『続群書類従』編纂 総検校・贈正四位 四男 国学者の 塙 忠宝 ・・・伊藤博文と山尾庸三に 文久二年(1862年) 十二月二十一日 暗殺された ↓↑ ↓↑ 塙 保己一は 武州 児玉郡 保木野村(埼玉県本庄市児玉町保木野) に誕生 塙は師の 雨富須賀一の本姓 荻野(おぎの)氏の出自 近世に帰農した百姓の家系 父 宇兵衛 母 加美郡 木戸村(上里町藤木戸) 名主 斎藤理左衛門家の娘 きよ 弟 卯右衛門(うえもん) ↓↑ 磐井は 物部 麁鹿火 によって鎮圧された ↓↑ 527年(継体二十一)六月三日 ヤマト王権 近江 毛野 6万人の兵を率い 新羅に奪われた 南加羅の 喙己呑(トクコトン) 喙=ついばむ 己=おのれ・よこしま 呑=呑(のみ)込む 奪回するため 任那 へ向かって出発 新羅は 筑紫(九州地方北部) 磐井(日本書紀・筑紫国造磐井) へ贈賄 ヤマト王権軍の妨害要請 磐井は 火の国(肥前国・肥後国) 豊の国(豊前国・豊後国) を制圧し 倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖 朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み 近江毛野軍の進軍と交戦 磐井は 近江毛野に 「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ お前などの指示には従わない」 と言った・・・同僚・・・? ↓↑ 継体天皇 ・・・15代応神天皇の5世孫 越前国の領主 諱 男大迹(ヲホド) 別称 袁本杼命 彦太尊 雄大迹天皇 乎富等大公王 父 彦主人王 母 振媛 皇后 手白香皇女 夫人 尾張 目子媛 ほか は 大伴金村 物部麁鹿火 巨勢男人 らに将軍の人選を諮問 物部麁鹿火 が推挙され 同年八月一日 麁鹿火が将軍に任命 ↓↑ 528年11月11日・・・5+2+8=15=壱拾五 伍陌貳拾(足)捌 十一・壱拾壱・壹拾壹 壱=十+一+冖+匕 壹=十+一+冖+豆 磐井軍 と 麁鹿火 率いるヤマト王権軍が 筑紫三井郡(福岡県小郡市・三井郡付近) で交戦 磐井軍敗北 磐井は 物部麁鹿火に斬殺・・・ ↓↑ 『筑後国風土記』逸文 磐井が 豊前の 上膳県へ逃亡 その山中で死んだ 同年12月 磐井の子 筑紫葛子 葛(くず・カツ)・・・葛城・葛木 子(シ・ス・・・・・・葛城皇子? こ・ね・こ・さね しげ・しげる たか・ただ たね ちか・つぐ・とし ね・み・みる・やす) は連座から逃れるため 糟屋(福岡県糟屋郡付近) の屯倉をヤマト王権へ献上 死罪を免ぜられた ↓↑ 529年3月 ヤマト王権(倭国) 再び 近江毛野 を 任那の 安羅へ派遣 新羅との領土交渉 ↓↑ 『筑後国風土記』逸文 磐井の墓に関する記事 『古事記』 袁本杼命(男大迹王・継体天皇)の没年 丁未四月九日(527年5月26日?) 筑紫君 石井(いわい) が天皇の命に従わないので 物部 荒甲(物部 麁鹿火) 大伴 金村 を派遣し 石井を殺害・・・ 『国造本紀』 磐井 と 新羅 の関係を示唆する記録
ー↓↑ーー 岩石論・・・「古事記・ガンセキ論」・・・? メドゥーサ (Medoūsa・メデューサ)=目動作 ↓↑ ・・・石化⇔化石・アンモナイト=菊石 医師化? 巻貝の化石 古生代シルル紀末期(orデボン紀中期) ~ 中生代 白亜紀末 3億5000万年前後の期間に 海洋に広く繁栄した オウムガイ亜綱 (Nautiloidea)の中から分化した 軟体動物 頭足類の分類群の一 北海道三笠博物館の 展示アンモナイト ギリシア 羊角神アンモーン(Ammōn) 「アンモーンの角(ラテン語: cornu Ammonis)」 アモン大神殿 エジプト南東部 ナイル川東岸 ルクソールにある カルナック神殿の中核神殿 テーベの守護神 アモンが 太陽神ラーと結合 カルナック神殿 中王国時代(紀元前2055~1650年頃) センウセルト1世(紀元前1965~1920年頃) プトレマイオス朝(紀元前332~32年) ローマ支配時代(紀元前30~後395年) まで継続 カルナック神殿 アメン神をその頂点とする新王国時代の テーベ三柱神崇拝の中心地 ↓↑ アメン大神殿 都市テーベ 中王国時代 第11王朝(紀元前2055~1985年頃) 第11王朝 国家神 モンチュ 第11王朝による小さな八柱神 アメンについて記録 第1中間期(紀元前2181~2055年頃) テーベのア 第12王朝(紀元前1985~1795年頃) 王朝の守護神モンチュに代わり 国家神となった アメン=雄羊や鵞鳥(がちょう) アメンの名は隠すという動詞の 「imen」に由来 エジプト語の意 「隠された者・隠された神」 アメンの称号「その姿・神秘なる者」 豊饒神ミン 太陽神ラー などと習合 ↓↑ アメン大神殿建設工事 テーベが統一された古代エジプトの首都 第18王朝(紀元前1550~1295年頃) 新たな建設は 第19王朝(紀元前1295~1186年頃) セティ1世(紀元前1294~1279年頃) ラムセス2世(紀元前1279~1213年頃) 着工され 列柱室の建設は 第18王朝の間に始まった・・・ ↓↑ 女王ハトシェプスト(紀元前1473~1458年頃) 記念物を建造 ヒクソスの占領中に破壊されていた 女神ムトのかつての神域を再構築 カルナック「赤い祠堂」は「聖舟祠堂」とされ 2基のオベリスクの間に建っていた・・・ ↓↑ 西暦323年 コンスタンティヌス1世(306~337年) キリスト教徒の信仰を認め 356年 コンスタンティウス2世(337~361年) 異教神殿の閉鎖 カルナック神殿は 大部分が放棄され トトメス3世祝祭殿の中央の間に キリスト教会を建設 ↓↑ アメン大神殿 ピネジェム1世の巨像(もとラムセス2世像) アメン大神殿(アメン=ラーの神域)は 神殿複合体の神域内のうち最大で テーベ三柱神(アメン、ムト、コンス) の最高神である アメンに捧げられている
↓↑ アンモナイト(ammonite) アンモン(ammon)=太陽神 + アイト(ite)=石 アンモン 頭に渦を巻いた角を持ち その角と化石の形が似ている アンモニウム(ammonium) エジプトの アモン神殿の近くから アンモニウム塩が産出した事による命名 ↓↑ 中国 明代 李時珍(1518~1593) 『本草綱目』(1596)に 石蛇・石燕・石蟹 など、「化石」の記録 ↓↑ メドゥーサの 見たものを石に変える能力を持つ 頭髪は無数の毒蛇 イノシシの歯 青銅の手 黄金の翼 腰に蛇をまいた姿 イノシシの胴体と馬の下半身 の合体した姿で描かれる・・・ ↓↑ 海神 ポセイドーンの愛人 ポセイドーンとの間に 天馬ペーガソス 巨人クリューサーオール(黄金の剣の意) ↓↑ ペルセウスによって 首を切り落とされ 切り落とされたメドゥーサの首から 滴り落ちた血は ペルセウスによって 2つの瓶に集められ アテーナーに献上された 右側の血管から流れて 右の瓶に入った血は 死者を蘇生 左側の血管から流れて 左の瓶に入った血は 人を殺す力があった アテーナーは 死者を蘇生させるメドゥーサの血を アスクレーピオスに授け 彼はこの血を混ぜた薬を使用 ↓↑ コリントスの先住民族の女神 デーメーテールと同一神・・・ 両神共にポセイドーンとの間に 馬形の神霊 アレイオーン ペーガソス を産んでおり ポセイドーンとは夫婦だった・・・ ↓↑ 元々美少女 メドゥーサは 海神ポセイドーンと アテーナーの神殿で交わり アテーナーの怒りをかい 醜い怪物にされてしまった ペルセウスに討ち取られた首は アテーナーの 山羊皮の楯 アイギス (aegis・イージス)・・・医意字素? に嵌め込んだ ↓↑ 美少女で 自分の髪を自慢して アテーナーと美を競って 髪の毛を蛇に変えられた ↓↑ ペルセウスは 鏡のように磨き抜かれた盾を見ながら 曲刀(ハルペー・不死身殺しの武器)で 眠っている メドゥーサの首を掻っ切った メドゥーサの首から出た血は 空駆ける天馬 ペーガソスを生んだ ポセイドーン と メドゥーサ の子である黄金剣を持った巨人 クリューサーオール も生まれた・・・ ↓↑ ペルセウスが 空飛ぶ翼のあるサンダルで 海を渡っている際 包んであったメドゥーサの首から血が滴り落ち それが赤いサンゴになった 切り落としたメドゥーサの首から滴る血が 砂漠に落ち サソリなどの猛毒の生き物が生まれた・・・ ↓↑ ペルセウスは 海から突き出た岩に 縛り付けられた アンドロメダーを発見 母親カッシオペイアが 娘アンドロメダーの方が 海の ニュンペーより美しいと公言し 海神ポセイドーンの怒りに触れ 海の怪物 ケートス(クジラ・海竜姿の怪物) の生贄にされるため 岩に磔になっていた ペルセウスは メドゥーサの首を取り出し 怪物を石に変えた ペルセウスは アテーナー女神に メドゥーサの首を贈り アテーナーは 自分の盾 アイギスに メドゥーサの首をつけ 最強の盾とした・・・ ↓↑ ポンペイ遺跡から発掘された 「イッソスの戦い」のモザイク画に メドゥーサの胸当てを付けた アレクサンダー大王が描かれている ↓↑ 肝硬変 肝臓へ門脈からの血流狭窄 腹壁静脈怒張が 臍を中心として 放射状に蛇行して見られる状態を メデューサの頭と呼ぶ・・・ ー↓↑ーー 地質論・・・知質論 慕維廉(W.Muirhead) 『地理全志』の翻刻本が刊行 安政六年(1859) ↓↑ 箕作阮甫 寛政十一年九月七日 1799年10月5日 ~ 文久三年六月十七日 1863年8月1日 津山藩士、蘭学者 名 貞一・虔儒 字 痒西 号 紫川・逢谷 が 『地質辮證』 蘭書から訳述 文久元年~二年(1861~1862) 明治五年から 文部省の教育施策 翻訳 地質学書刊行 ー↓↑ーーー 幕府天文台翻訳員 ペリー来航時 米大統領国書を翻訳 対露交渉団の一員 蕃書調所の首席教授 幕臣 「安政五カ国条約」に携わった 医学雑誌 『泰西名医彙講』 『外科必読』 『産科簡明』 『和蘭文典』 『八紘通誌』 『水蒸船説略』 『西征紀行』 訳述書は99部160冊余り 分野は 医学・語学・西洋史・兵学・宗教学 ↓↑ 日本で初めて 「地質学」という言葉を作り 地質学・鉱物学書の 『日本記聞 下』を著 その書の中に 「密涅刺羅義(ミネラロギ)」 という見出しで ドイツ語原著 『フリードリヒ・シェドラー博士の自然の本 物理学、天文学、化学 鉱物学、地質学 植物学、動物学 生理学 の科学の基礎入門』 から 「鉱物学」の抄訳がある・・・ ↓↑ ↓↑ 「諳 厄利亜語林 大 成 (あんげりあごりんたいせい)」 本木 庄左衛門(正栄) が中心になって編纂した 日本初の英和辞典 文化11年(1814年)に完成・・・文化壱拾壱撚? 編纂には本木の他 通詞の 馬場貞歴、末永祥守、楢林高美、吉雄永保 らが当たった ↓↑ 古賀 謹一郎 (こが きんいちろう) 文化13年11月11日 1816年12月29日 ~ 明治17年(1884年) 10月31日 儒学者・官僚 本姓 劉 諱 増(まさる) 筑後守 字 如川 号 謹堂・茶渓 沙蟲老人 ↓↑ 天保七年(1836年) 大番役 天保十二年(1841年) 書院番 家塾 久敬舎を父より引き継ぐ 弘化三年(1846年)31歳 昌平黌(昌平坂学問所) 儒者見習 翌年、儒者・15人扶持 ↓↑ 漢訳蘭書による独学で西洋の事情を習得 米国への漂流者から欧米の事情を取材した 『蕃談』を著す(書写本にて流布) 昌平坂学問所の教官 同僚 佐藤一斎、林復斎、安積艮斎 昌平黌 家塾久敬舎 儒学上の門人 阪谷朗廬、重野安繹、原伍軒(市之進) 大野右仲、秋月悌次郎、河井継之助 白洲退蔵、平田東助 ↓↑ 嘉永六年(1853年) ロシアのプチャーチン艦隊の来航 応接掛 目付 筒井政憲 川路聖謨 に随行して長崎でロシア使節との交渉 翌年ロシア艦再来日 伊豆下田で交渉を行い 日露和親条約の締結 ↓↑ 蕃書調所設立 安政二年(1855年)8月30日 謹一郎は阿部より 洋学所頭取(校長)に任命 蘭書翻訳・教育機関の構想を練り 勝麟太郎 らとともに草案作成 9月蕃書調所設立案を提出 安政四年(1857年)正月 蕃書調所が正式開設 ↓↑ 蕃書調所頭取(校長)として 国内の著名な学者を招聘 蘭学者 「箕作阮甫」を教授として招いた 教授見習 三田藩 の川本幸民 周防出身の手塚律蔵 村田蔵六(大村益次郎・当時は宇和島藩出仕) 薩摩藩 の松木弘庵(寺島宗則) 西 周助(西周) 津田真一郎(津田真道) 箕作秋坪 中村敬輔(中村敬宇) 加藤弘之 幕臣のみならず各藩の俊才も含め幅広く採用 ↓↑ 蕃書調所は当初、蘭書の翻訳を目的としたが 英語の隆盛を鑑み 英語・フランス語・ドイツ語 の教授も行わせた 入獄中の 「堀達之助」の才能を惜しみ 便宜を図って出獄させ 日本最初の 英和辞典 『英和対訳袖珍辞書』 を作らせた ↓↑ 文久二年(1862年)五月 御留守居番就任 蕃書調所(洋書調所)→開成所) の頭取を解任された 慶応二年(1866年) 製鉄所奉行 翌年に目付 筑後守に補任 江華島を巡る フランス と 李氏朝鮮 の紛争の仲介任務を託されるが未遂 緒方洪庵の墓碑銘を記す 慶応三年(1867年)十月 大政奉還 滝川具挙 などと共に上京の命 ↓↑ 大学校(昌平黌、蕃書調所の後身) の教授として新政府から招聘されたが 徳川家の駿府転封に伴い 静岡へ移住 中村敬宇(正直) と漢詩の応酬を行う 明治初期のベストセラー 中村の 『西国立志編』 (サミュエル・スマイルズのSelf-Helpの訳書) に序文を寄せた リンネの植物学書などの洋書をまとめた 『蕈説』 (キノコに関する言説をまとめた書) などを著作 ↓↑ 明治六年(1873年) 東京に戻る 明治十七年(1884年)8月20日 高畠五郎が暑中見舞いに訪れ 長茄子、南瓜 球形の 白甜瓜などを持参 胃管狭窄により 弟子の 吉田賢輔に看取られて 67歳で死去 ーーーーー
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