わらび=蕨・蕨生・和良比=ワラビ=話等微・・・蕨柄剣
・・・知らない世界を・・・教えてくれるモノ・・・好奇心
流氷の鉄分・・・Fe・・・フェ・・・鉄分・・・ヘモグロビン?
↓↑
ヘモグロビン(hemoglobin)=ヒトを含む全ての脊椎動物や
他の動物の血液中に見られる
赤血球の中に存在するタンパク質
酸素分子と結合し
肺から全身へと
酸素を運搬する役割を担っている
ヘム=2価の鉄原子とポルフィリンから成る錯体
(英語:Haem、米語:Heme、ドイツ語:Ham)
赤色素を有す
グロビン=球状タンパク質の一群
・・・白血病=造血細胞が腫瘍化したもの・・・
↓↑
鉄分が流氷に含有され、
海底の鉄分も流氷の渦巻きで海上に浮遊する
なんで、「鉄=金(キン)を失す(ウス)」?・・・なんだか・・・
「失=𠂉(カミさしの)+一(イチ・壱・壹の)+人(ひと)」の憂い?
「失の「うしなう」という字義とは何の関係もない」・・・?
デワなく、関係、大有りだろう・・・
漢字は「点と線」で記録構成され
表示されること自体が「象形・形象」である
勿論、「同形類字の音声」も伴うが、
「表音文字」ではなく
原則は「視覚認識」される「形象表意文字」である・・・
↓↑
アイヌ民族を支援する新法案を閣議決定
アイヌ民族の地位向上などを目指して
「先住民族」と初めて明記・・・
蝦夷(えみし、えびす、えぞ)
大和朝廷歴代中央政権から見て
日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)
北方(現在の北海道地方)
などに住む人々の呼称
↓↑
俘囚(フシュウ)・・・囚=囗+人=とらえる・とらわれる ・シュウ
↓↑ 繋囚(ケイシュウ)・獄囚・女囚
俘囚(フシュウ)・捕囚(ホシュウ)
幽囚(ユウシュウ)・虜囚(リョシュウ)
罪囚
囚首喪面(シュウシュソウメン)
囚人・囚縛(シュウバク)
囚(とらえる)
囚獄(ひとや)
囚人(めしゅうど)
泅(シュウ)=氵+囚=氵+囗+人
↓↑ 水の上に浮かぶ・泳(およ)ぐ
陸奥・出羽の
蝦夷のうち
朝廷の支配に属するようになった者
日本の領土拡大によって
俘囚となったもの
捕虜となって国内に移配されたもの
二種の起源
戦前戦中に
戦時捕虜の身分にあるもの
↓↑
大和と蝦夷の戦争
大和へ帰服した
蝦夷男女が集団で強制移住させられた
移住目的
同族から
裏切り者として
報復や侵略される危険性があり
生命の安全と生活の安定化を望んだ
公民意識から
皇化させようとした朝廷側の意図
朝廷は国司に
「俘囚専当」を兼任させ
監督と教化・保護養育に当たらせた
↓↑
俘囚は
定住先で生計が立てられるようになるまで
俘囚料という名目で
国司から食糧を支給され
庸・調の税が免除された
実際には移配俘囚が
定住先で自活することはなく
俘囚料の給付を受け続けた・・・生活保護?
↓↑
俘囚は
狩猟、武芸訓練が生活の特徴
俘囚と公民百姓の差異に対応するため
812年(弘仁三)
朝廷は国司に対し
俘囚の中から優れた者を
夷俘長に専任し
俘囚社会における
刑罰権を
夷俘長に与える旨の命令を出し
9世紀
移配俘囚は
国内の治安維持のための
主要な軍事力として位置づけた(国衙軍制)
↓↑
俘囚が有していた 狩猟技術・武芸技術は 乗馬と騎射であり 俘囚の戦闘技術は 武士たちへ大きな影響を与え 俘囚が使用していた 蕨手刀(わらびてとう・わらびてがたな・わらびてかたな) 柄頭(つかがしら、柄の先端部)が 蕨の若芽のような形態を呈する 日本の鉄製刀の一種 初期の形状は柄と刀身が直線的で直刀 後、東北地方では、刃が上を向くように 柄に反りを生じるようになる 蕨 手刀が 毛抜形蕨手刀(太刀の起源) ↓↑ ↓↑ ・・・「毛抜形太刀(けぬきがたたち)」 平安時代中期頃に登場した太刀 日本刀の原型 ↓↑ 「衛府の太刀」、「俘囚野剣」とも ↓↑ に発展し、日本刀の起源の一つ は武士が使用することとなる 毛抜形太刀 へと発展 俘囚の戦闘技術は 武士へと継承されていった ↓↑ 813年頃 出雲国「荒橿の乱」 875年 「下総俘囚の乱」 883年 「上総俘囚の乱」(寛平・延喜東国の乱) など 俘囚による騒乱が発生 原因は 俘囚らによる処遇改善要求 897年(寛平九) 移配俘囚を 奥羽へ送還する政策 全国へ移配されていた俘囚は 奥羽へ還住 奥羽俘囚 陸奥・出羽にとどまった俘囚は 同じ地域の朝廷派の人々と異なり 租税を免除されていた・・・ 陸奥・出羽の国衙から 食糧と布を与えられ 代わりに、服従を誓い、特産物を貢いでいた 俘囚たちは 無税の条件を基盤に 交易をも利用した 俘囚長を称した 安倍氏 (奥州) 俘囚主を称した 出羽清原氏 俘囚上頭を称した 奥州藤原氏・・・ 奥州藤原氏の滅亡後 鎌倉幕府は 関東の武士を送り込んで 陸奥・出羽を支配 俘囚の地位は一般化 ↓↑ 蝦夷外(日本人)の俘囚 『続日本紀』 神護景雲三年(769年)十一月二十五日条 蝦夷ではないのに 俘囚となった例が記述 陸奥国牡鹿郡の俘囚である 大伴部押人 が朝廷に対し 先祖は 紀伊国 名草郡 片岡里の 大伴部直(あたい)といい 蝦夷征伐時に 小田郡 嶋田村 に至り、住むようになったが 子孫は蝦夷の捕虜となり 数代を経て 俘囚となってしまった・・・ 今は蝦夷の地を離れ 天皇の徳の下で民となっているので 俘囚の名を除いて 公民になりたいと願い出たため 朝廷はこれを許可した・・・ 宝亀元年(770年)四月一日条 父祖は天皇の民であったが 蝦夷にかどわかされ 蝦夷の身分となってしまったと主張 敵である 蝦夷を殺し、子孫も増えたため 俘囚の名を除いてほしいと願い出 朝廷がこれを許可・・・ ーーーーー 渡党(わたりとう) 『諏訪大明神絵詞』(1356年)記録 14世紀初頭 蝦夷島に居住していた3つの集団のひとつ 道南 (北海道渡島半島を中心とする地域)の住民 他の2集団は 北海道太平洋側のアイヌ 日ノ本(ひのもと)・・・日本 と 日本海側のアイヌ 唐子(からこ)・・・唐(中国)人の子 ↓↑ 渡党は 「和国の人」と 津軽海峡を往来して交易 渡党は境界的な性格をもつ交易民で 和人系アイヌ・アイヌ系和人 の両属的集団・・・ 逃亡や流刑で 本州から蝦夷島に渡った人々の子孫・・・ ↓↑ 『諏訪大明神絵詞』成立後の 14世紀後半から 和人の北海道への進出が本格化 15世紀には 渡島半島南端に 和人の館が築かれ 『福山秘府』などの松前藩の文献では 道南十二館の館主は渡党 『寛永諸家系図伝』では 松前氏の祖 武田信広は 和多利党(わたりとう)の頭目・・・和の多(おほの)の利 アイヌと交易活動を行っていた ↓↑ 延文元年(1356年)・・・延す文の元(もと)の年 『諏訪大明神絵詞』によると 「蝦夷カ千島」には 日の本 唐子 渡党 の三種が住んで 渡党は髭が濃く多毛であるが 和人に似て言葉が通じ 津軽や外が浜に往来し 交易に従事した・・・ ↓↑ 蝦夷地南部に居住し 活動範囲は 北は 胆振勇払の鵡川から 後志の余市 南は 下北半島 津軽半島一帯に及んでいた
↓↑ 蝦夷(えぞ・アイヌ) 鎌倉幕府 北条氏より 蝦夷管領(蝦夷代官)に任ぜられた 安藤氏(安東氏)の支配下に置かれ 蝦夷と見なされ 配下の武将を 道南十二館に配置していた ↓↑ 康正二年(1456年) 安藤氏の後裔 安東政季は 茂別館館主の 安東家政(下国守護) 大館館主の下国定季(松前守護) 花沢館館主の蠣崎季繁(上国守護) の3名を「守護」に任じ 他の館主を統率させた 長禄元年(1457年) コシャマインの戦い 永正九年(1512年) ショヤ・コウジの戦い を通じ 蠣崎(かきざき)氏・・・蠣=虫+厲=虫+厂+萬=かき(牡蠣) 異体字「蛎・蠇・𧖄」 イタボガキ科の二枚貝の総称 厲=厂+艹+禺(甲冂ム) といし・あらと・とぐ みがく はげしい・きびしい・するどい はげむ・はげます=励・厲行 えやみ・疫病・厲疫 や(病)む・しいたげる わざわい・たたり 災厲(サイレイ)・砥厲(シレイ)・奮厲(フンレイ) 崎=山+奇(大可)=﨑=山+竒(立丁口) 竒=亠+丷(ハ)+可=立+亅+口 =嵜=山+竒 が勢力を拡大 永正十一年(1514年)以降 蠣崎義広が 上国松前 両守護職となり (下国守護 安東氏は既に15世紀末に 蠣崎氏の庇護下) 他の館主に優越 文禄元年(1593年)・・・文の禄の元の年 松前慶広が 豊臣秀吉から 蝦夷島主として承認され 安東氏から独立 江戸時代に 幕藩体制のもと 松前藩が確立 ーーーーー 「参照原文=by ウィキペディア(Wikipedia)」・・・ 「蝦夷カ千島」には 「日の本・唐子・渡党」の三種・・・ 「日の本=日本」
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