アキなのにハルを乞う・・・こころ・・・
「曼荼羅」
坊主の「読経は馬の耳に念仏」だが
「お経を絵にしたマンダラ」は
「人の心に萬(よろず)を拿(とらえて)覶(たのしくみる)」・・・
曼荼羅(まんだら・梵語maṇḍala)
(めんでる・チベット語maṇḍal)
་(きんこる・dkyir 'khor)
「密教の経典」の
主尊を中心に
諸仏諸尊の集会(シュウエ)する楼閣を
模式的に示した図像
曼荼羅の意味を説き
その思想を
曼荼羅の絵で構造を表した
古代インドに起源
中央アジア、日本、中国、朝鮮半島
東南アジア諸国などへ伝播
漢字による表記の
バリエーション(variation・変種)
があるが日本では
「曼荼羅」に統一表記
↓↑
両界曼荼羅=両部曼荼羅
日本密教
「大日如来=毘廬舎那仏」を中央に配し
数々の「仏」を
一定の秩序にしたがって配置した絵
「胎蔵曼荼羅=胎蔵界曼荼羅」
「金剛界曼荼羅」
の2つの曼荼羅を合わせたもの
「胎蔵」は客体・・・認識対象?
「金剛」は主体・・・認識主体?
↓↑
個々の「仏」の像を絵画で表した
『大曼荼羅』
1つの仏を
「1文字の梵字(サンスクリット」
で象徴的に表した
『法曼荼羅』
1ずつの仏を
その「仏の内証」を象徴的に表す
「三昧耶形」で描いた
『三昧耶曼荼羅』
↓↑
日本では
インド密教古来の
「地面に描く曼荼羅」
の姿に倣って
仏像を
伽藍内に配置したものを
『羯磨曼荼羅』
これらを総合して
「四種曼荼羅」と呼ぶ
↓↑
胎蔵曼荼羅(大悲胎蔵曼荼羅)
『大日経』に基づき描かれ
↓↑
金剛界曼荼羅
『金剛頂経』
という密教経典に基づいて描かれている
↓↑
七世紀中頃
インドで成立
インド僧
「善無畏三蔵
(ぜんむいさんぞう・637年~735年)」
が
中国人の
「一行禅師
(いちぎょうぜんじ・(683年~727年)」
と共に725年(開元十三年)前後に
「漢訳」したもの
↓↑
『金剛頂経』
7世紀末~8世紀始め
インドで成立
『大日経』が訳されたのと同じ頃
インド僧
「金剛智三蔵(671年~741年)」
と、弟子の
「不空三蔵(705年~774年)」
漢訳された
↓↑
日本密教の伝承
『金剛頂経』は
「十八会(じゅうはちえ)」
「大日如来」
が18回のさまざまな機会に説いた説法を経典とし
それぞれまとめて
「十八本に集大成」
「金剛智三蔵」
と
「不空三蔵」
が訳したのはそのうちの
「初会(しょえ)」のみで
この経典を
『真実摂経
(シンジツショウギョウ)』・・・信実商業?
とも言う
↓↑
『大日経』
と
『金剛頂経』
は同じ大日如来を主題として取り上げながら
系統は違う時期に
インドの個々別々の地方で成立し
中国へも別々に伝播
2系統の経典群の教えを統合し
「両界曼荼羅」
という形にまとめたのは
「空海」の師である
唐僧の
「恵果阿闍梨(746年~805年)」
「恵果阿闍梨」は
密教の奥義は
言葉では伝えることがかなわぬとして
宮廷絵師の
「李真」
に命じて
「両界曼荼羅」等々を描かせ
「空海」に与えた
「空海」は、唐留学を終え
806年(大同元年)
にそれらの曼荼羅を持ち帰った
↓↑
持ち帰った
「彩色両界曼荼羅(根本曼荼羅)」
の原本および
弘仁十二年(821年)に製作された
第一転写本は
「教王護国寺」に所蔵されていたが失われ
京都
「神護寺」所蔵の
国宝「両界曼荼羅(高雄曼荼羅)」
は彩色ではなく
「紫綾金銀泥」で
「根本曼荼羅」
or
「第一転写本」
を再現したもの・・・
↓↑
胎蔵曼荼羅=『大悲胎蔵曼荼羅』
原語には
「界=田(□十)+介(𠆢丿丨)」
コトバが入っていないが
「金剛界曼荼羅」
に合わせて
「胎蔵界曼荼羅」
ともされている
「曼荼羅」は
全部で12の「院(区画)」に分けられ
中心に
「中台八葉院」
8枚の花弁をもつ蓮の花の中央に
「胎蔵界大日如来
(腹前で両手を組む「法界定印」を結ぶ)」
位置
「大日如来」の周囲には
4体の
「如来(宝幢 =ホウドウ
報道・法道?
開敷華王=カイフケオウ
海 部家於得?
無量寿 =ムリョウジュ
務令受?
天鼓雷音=テンクライオン)
天 暗 異音?
を四方に配し
更に4体の
菩薩(普賢 菩薩
文殊師利 菩薩
観自在 菩薩
慈氏 菩薩)
をその間に配し
合計8体が表現表示
↓↑
・・・「念壱拾壱・弐千壱拾壱」日目です。
「2016年3月20日」デス・・・ガンガンの御天気で、「雪解(ゆきどけ・セッカイ)」・・・「春(はる・シュン)」・・・ここ、蝦夷地もナントナク、「はる=葉留・張る・貼る・逴・明・温」の「兆(きざ・チョウ・萌)し」です・・・ハぁルョ、コイ、ハァヤク、コイ・・・アルキはじめたミイ(ミヨ?・相馬御風の長女、文子?)ちゃんが・・・作曲、弘田 龍太郎(1892~1952)。作詞、新潟県糸魚川市出身の詩人、相馬御風(1883~1950)・・・ ーーーーー 大正十二年三月に発表 春よ来い 早く来い あるきはじめた ミイちゃんが・・・・・・視意・未意 赤い鼻緒の ジョジョ(草鞋・鞋)はいて・・・・序助 オンモへ(外)出たいと 待っている・・・・・・音摸 ↓ 春よ来い 早く来い おうちのまえの 桃(もも)の木の 蕾(つぼみ)もみんな ふくらんで・・・・通模視・蔀・莟 ハヨ咲(さき)きたいと 待っている・・・葉与差記他意訳 ↓↑ 大正十二年一月二十日 御風の詩に 弘田龍太郎が作曲 曲と詩が 大正十二年三月一日発行 仏教童話雑誌 『金の鳥(金の鳥社)』三月号で発表 相馬御風著『相馬御風歌謡集(厚生閣)』に 昭和十二年五月発行の「童謡の部」に収録 戦後は毎年春にNHKラジオで放送された ーーーーー そうですか・・・で、 『歌語例歌事典(鳥居正博・聖文社・1988)』 ↓↑ ・・・この「鳥居正博」氏とはなにものか?・・・ボクの使用して居る「エッセンシャル英和辞典」の発行者でもあるんだけれど・・・「怪しい人物?」ではあるかな・・・以下は 「レファレンス事例詳細(Detail of reference example)」 ↓↑ http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000099002 ↓↑ を参照、参考にし、少々改作して一部分を添付したモノに対するボクの「?」です・・・ ↓↑ 「一年に春が二度来た」 という主旨の歌 「古くて有名な歌らしいが、何を調べたらよいだろうか(?)」とは、 ・・・「一年に春が二度来た」とは 旧歴(陰暦)と新暦(太陽暦)に混乱していた 「明治以後のコト」だろう・・・ そして、 「江戸時代」であるならば、 蘭学者にとっては 「オランダ正月を祝うグレゴリオ暦の行事」だった・・・ 更に、空海の時代であるならば、 ネストリア(景教・キリスト教異端)派の人物が 密(ひそか)かに 「太陰、太陽暦のハル(春)」としたカモ・・・ ↓↑ 明治五年(1872)11月9日、 太陰暦を廃し、 太陽暦を採用することの詔書が発せられ、 太政官布告 第337号により公布 1年を365日とし、 それを 12ケ月に分け、 4年毎に 閏年をおき、 1日を24時間としたモノで 旧暦の 明治五年十二月三日を 新暦の 明治六年1月1月とした ーーーーー ↓↑ 「密教=秘密・秘蜜→秘充=ひみつ=日満=斐視通→比観通」 かも・・・密(ひそか・ミツ)かに・・・ 「前島密 天保六年一月七日(1835年2月4日) ~ 大正八年(1919年)4月 27日) 日本の官僚、政治家 号は「鴻爪(コウソウ)」 近代郵便制度の創設者 1円切手の肖像人物 郵便や、切手、葉書 という名称を定めた」 「1866年(慶応二年) 「漢字御廃止之議」という建議書を 将軍徳川慶喜に提出 漢字使用の廃止と云う趣旨内容 国語「国字問題」について 言文一致を提言した人物である・・・ ・・・秘密仏教は「真言」だが・・・確かに「法事=ホウジ=邦字・補得字」で聴く者には坊主の「読経は馬の耳に念仏」であるナッ・・・ ↓↑ 折口信夫(おりくち しのぶ) 1887年(明治二十年)2月11日 ~ 1953年(昭和二十八年)9月3日 ) 民俗学者、国文学者、国語学者 号は 「釈迢空(シャクチョウクウ)」 詩人・歌人 ・・・この人物は「柳田国男」の弟子であったらしいが、彼にとっても「ニホンゴ」は難解であった・・・?・・・一旦、形成された「権威」とは怪しいのである・・・「一般人」にとってはアリガタイ存在になってしまうのは「日常言語の意味付与の権威者」だからであろう・・・まさに、 「釈(解釈)」 「迢(はるか・とおい ジョウ・デウ・チョウ・テウ 遙遠・迢遠・迢遙・迢遞・千里迢迢)」 「逓=遞・だんだん・しだいにダイ・テイ かわる・たがいに 横へ横 へと次々に伝え送る 遞信=郵便、電信などを 順次に送り伝えて、届けること 逓信・逓送・駅逓・伝逓」 「空(そら・から・クウ)」 であるかな・・・まったく、曖昧で混乱を「迢遞」である・・・「迢=辶+召(刀+口)」、「遞(辶+厂+虎)」の「虎=とら=訳等=彪・寅・勾」は崖っぷちの虎の道(辶=シンニュウ)である・・・ ↓↑ http://www.shin-araragi.jp/zakki_bn/bn_08/zakki0809.htm ひそけし、かそけし 釈迢空の 『海やまのあひだ』から引く。 沢なかの木地屋(キヂヤ)の家に ゆく われの ひそけき 歩みは 誰知らめやも ↓ 邑(むら・ユウ)山の 松の木むらに 日はあたり ひそけき かもよ 旅びとの墓 ↓ かの子らや われに知らえぬ妻とりて 生きの ひそけさに わびつゝをゐむ ↓ 谷々に 家居ちりぼひ ひそけさよ 山の木の間に 息づくわれは ↓↑ 迢空流の表記法を廃して 普通の書き方に改めた。 『海やまのあひだ』の巻頭から数頁のところにある 「ひそけき」、 「ひそけさ」 を含んだ作を並べてみたが、 この迢空が好んだと見える用語は まだまだ見えるけれど以上にとどめる。 言うまでもなく 「ひそけき」は、 形容詞 「ひそけし」の連体形。 「ひそけさ」は、 その名詞の形である。 この「ひそけし」が、 一般の国語辞典に 収録されていないということを、 安田純生氏の 『現代短歌のことば』によって教えられた。 なるほど 日本国語大辞典や 広辞苑などには見えない。 ↓ ここで (斎藤)茂吉の使用例を挙げよう。 ↓↑ 号外は「死刑」報ぜりしかれども 行く もろ-つびと・・・多くの人・諸人? 「つび」は「つみなり」 軍法会議で死刑を宣告された軍人 「つび」の字は「また」、 この意味は各人の検索自由・・・ ただに ひそけし『暁紅』 ↓↑ 清涼寺は ひそけく ありき をとめご(乙女児)の・・・・音目語之 尼(あま・ニ)も 居りつつ 悲しからねど『連山』 ↓↑ 秋づくといへば 光もしづかにて 胡麻(ごま)の こぼるる ひそけさにあり『白き山』 ↓ なお (北原)白秋にも 「ひそけさよ 小さき目白の枝越しに 揺りつつきをり まんまろき 柿(かき・シ)を(『風隠集』)」 などがあり、近代歌人の歌集から 「ひそけし」を捜すのは、困難ではないだろう。 一般の国語辞典には確かに収録されていないが、 不可解なのは、 大言海が 「ひそけき」という 連体形のみを見出し語に出して、 「ヒソカナリ。」として 何の用例も示していないことだ。 安田氏は、 『短歌文法辞典・新版(飯塚書店)』に、 この 「ひそけし」・・・・・・・密かに卦詞? を取り上げていると言われる。 それは手許にないが、 同じ発行所の 司代隆三編著 『短歌用語辞典・新版』を見ると 「ひそか」はあっても、 「ひそけし」は、やはり見当らない。 ただ飯塚書店編集部の 『短歌常用語辞典(形容詞・形容動詞編)』 にはこれを取り上げて、 「鎚音に はたと やみたる 蟋蟀(こほろぎ)の また 鳴きつぐを待てばひそけし(終止) (塚原 嘉重)」 ↓ 「ひそけくも 女人唐俑の背丈ほどに 花株埋めし 雪は恥ぢらふ(連用) (大滝 貞一)」 ↓ 「朝食の人らを待ちて ビルの中 ひそけき店を 人は清むる(連体) (田谷 鋭)」 ↓ の三例を示している。 また 鳥居正博編著の 『歌語例歌事典』には 「かそけし・ひそけし」を並べて 「二語とも 中古中世の古歌にはほとんど見えない。」とし 「ひそけし」は 「ひそか」の形容詞化と説いて 「ひそけき 吾が世帯を 書き入るるかな 昼寝より覚め 裸となりて」 という吉田正俊(『天沼』)の 一首を挙げたのが目に止まった。 木俣修編の 『現代作歌用語辞典』には 「ひそけし」は見えない。 要するに 一般の辞書には殆ど見られず、 短歌用語辞典の類には 載せたり載せなかったりの状態なのである。 もう簡単に書くこととして、 角川の 『新編国歌大観』の索引を見ても 「ひそけし」の用例はない。 ただ 江戸時代までの使用例に 「ひそかなりける」 「ひそかにそでの」 「ひそかにひらく」 というようなものが、少ないながら見つかる。 「ひそかに」はあっても 「ひそけし」の形容詞は、 江戸時代までは発生せず 明治以後の近代になって、 ぼつぼつ使用されるようになったものか。 しかし、 「ヒソカ・ヒソヒソ・ヒソマル ヒソム・ヒソメク・ヒソヤカ」という 同源の語があり、 特にヒソカがあれば ヒソケシが導き出されるのは、 ノドカ・ノドケシ、ハルカ・ハルケシ の関係と同様であって不自然ではない。 古典に例がなくても、 近代現代の短歌に 普通に用いられているのであるから、 広辞苑などで採用しないのは、 編集者の怠慢である と言ってもいいのではあるまいか。 ↓ 「かそけし」 についても書く予定だったが余白がなくなった。 この 「かそけし」は 万葉の家持作に二例あり 「吹く風の音の かそけきこの夕べかも」 が有名だがもうひとつ 「夕月夜 かそけき野辺に」 という使用もある。 「かそけし」があれば、 上代にはそれに対応する 「かそか」も存在したのだろう。 しかし文献の記載はないようだ。 平安以後は 「かすか」が使われるようになる。 すると 「かすけし」も派生されそうであるが、 この出現は、やはり 明治以後であるらしい。 明治三十九年発行の 薄田泣菫の詩集『白羊宮』には 「おもひでの吐息 かすけき 面(おもて)やつれ」 とか 「今宵 かすけき囁(ささや)きに」 とか、 「かすけき」がしきりに出て来る。 すると明治の詩人どもが使い始めであろうか。 ここで現代短歌の 「かすけし」の例を挙げたいが、 もう書く場所がなくなった。 筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者 ーーーーー 面白いね、だが、「密(ひそ)か」を明らかにするのはダレかにとって「タブー(taboo)」なのであるから、「言語屋」にとっては当然である・・・ ↓ http://blog.goo.ne.jp/mearikutiari/e/42dc7e9546a6fdf526e90d3bbde065f7 ↓↑ で、問題にしたい 「鳥居=とりい=訳理意」の「姓」だが、 「江戸時代初期の 朱子学派儒学 林家祖の 林 羅山、 諱は信勝、 号が羅山 通称は又三郎。 やっと 又三郎が出てきた。 林家十一世 復斎の通称が 又三郎、 十世 壮軒の通称が 又三郎、 九世 檉宇も通称は 又三郎。 林家十一世 復斎の次男で 林家十二世を継いだ 林学斎(昇)が 又三郎を 通称名としても不自然ではない。 ↓ 林述斎の系図をみていて思い出した。 述斎の三男はあの妖怪こと 鳥居耀蔵 (名は忠耀、 通称は甲斐 のち 胖庵) 学斎とは 伯父甥の関係になる。 ↓ 鳥居甲斐から数えて 四代目子孫の 「鳥居正博」氏が、・・・鳥居甲斐の家筋である この 鳥居甲斐が晩年に 残した日録というか日記を整理し、 頭注・補注を加え 「鳥居甲斐 晩年日録」 として刊行している。 ↓ 晩年日録の 慶応四年十二月廿五日に 林又三、 林右近へ書通とあり、 頭注に 林又三(林又三郎学斎・甥)、 林右近(復斎) とあったが、 林復斎は 安政六年九月に亡くなっている。 明治二年七月十日項に 右近妻 幸女とありこの頭注に 林右近・鶯渓とあった。 明治初期には、 林学斎は 又三郎、 兄の 林鶯渓は 右近を 通称名として使っていたと思われる。 ↓ 新宿区市谷山伏町に 初代 林羅山以下 累代徳川幕府に朱子学をもって 仕えた学者とその一族の墓地が残っている。 ここに林学斎の墓碑がある。 ↓ 幕府大学頭従五位下文 靖林先生墓銘 「先生 諱昇 字平仲 号学斎林氏 徳川幕府儒宗 羅山先生 十二世嫡孫也 考 諱韑 号復斎妣 津田氏 嘉永中 先生以 次男為 嗣子始謁温恭公 安政四年 命助父 学識別給 廩米参百苞 六年襲世職 大学頭家禄 三千五百石 叙従五位下班諸大夫 文久三年 従照徳公入朝 明治維新後徳川氏 更命 為 寺社奉行、、」 と碑文を撰んだのは 東宮侍講でのち 二松學舍を創立した 三島毅。 この市ヶ谷の林墓地の中に 紀年銘が 昭和十二年十二月とある 「林又三郎之墓」がある。 学斎が亡くなったのは 明治三十九年。 そうすると この 林又三郎は誰のお墓なのだろう。 市ヶ谷の林氏墓地は 大正のとき国史跡に指定され、 いまは新宿区で管理、 毎年11月の 初めの 土日2日間だけ公開 ーーーーー ・・・「鳥居耀蔵」とは蘭学者の「目の仇」だった・・・「明治」になっても、この両派の「怨念」みたいなモノが「文字・文章」の中に密かに潜(潛・ひそまれ)ているようであるカナ・・・
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