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アシカラズ・・・ワタクシの「オリジナル」ではありません

2021/9/26・日曜日・・・添付追加文・・・イイワケ・イイブン・・・

 ・・・昨夜は圧巻の野球ゲームだったが・・・俄か(にわか=似和歌?)旗振り・・・「天地玄黄=黄幢=黄龍旗」・・・「幢(ドウ)=巾+童」=「昔、儀式または軍隊の指揮などに用いた旗の一種・彩色した布で作り、竿の先につけたり、柱に懸けたりした・はたほこ・魔軍を制する仏、菩薩のしるし。また、仏堂の装飾とする垂れ布(たれぎぬ)・古代の儀式に用いる)吹き流し・旗・仏教の経文を刻んだ六角形または円形の石柱=経幢=石製は石幢(セキトウ)」・・・以下はスベテ「黄幢(コウドウ)」に関するブログ記事を参照、参考にして「引用添付」したものデス・・・ワタクシの「オリジナル」ではありません・・・少々改作してある部分と「・・・?」とした処だけが「ワタクシの部分」です・・・「引用」はインターネットの検索でスベテ検索できるモノですから、この「日記」をお読みになっている方は、「黄幢(コウドウ)」の原文は御自分で検索、御確認をお願いします・・・勝手な諸々の「黄幢(コウドウ)」に関する引用も、断りもなく、ご免なさい・・・ ーーーーー  黄幢(コウドウ)  黄幢とは、黄色い吹き流しのような 軍旗  黄幢(コウドウ)(軍の指揮に用いる旗)  黄幢(黄色いはた。 高官の象徴)  黄幢(黄色い旗さし)  黄幢(旗・幡・旛・将)=幡鉾     はた=機・秦・羽田・葉多・波多・波田        秦・畑・畠・傍・側・端・圃  黄幢(黄色い旗ぼこ         =戈・矛・戛・鉾・鋒→殳=ほこ・シュ・ズ)  黄幢(コウドウ→憧は幢に修正・・・???)           「紹煕本」では           「百衲本」の「黄幢」を「黄憧」とする?           「幟」は「のぼり」           「幡」は「はた」・・・八幡(ヤハタ)  黄竜旗=中国清朝の国旗・黄色地に竜を描いたもの  黄龍=チベットの旗=九寨溝 黄龍

 四神相応=風水の地勢や地相   ↓↑  四神に中央に      「黄龍」、「麒麟」を加え「五神」       背後に山、前方に海、湖沼、河川の水が配置されている       背山臨水の地       左右から砂(さ)と呼ばれる丘陵       背後の山よりも低い山で囲むことで       蔵風聚水(風を蓄え水を集める)の形態       四神は、       背後の山が玄武       前方の水が朱雀       玄武を背にして       左側の砂が青龍   ↓↑  右側が白虎   北は黒龍  西は白龍  南は赤龍  東は青龍  中央は黄龍  四海竜王より上  黄竜と合わせて「五竜」  中国皇帝の旗  中央を守る   ↓↑  四方を司る水の神  西遊記や封神演義の物語に登場   ↓↑  封神演義では  リナタ(李哪吒)=ナタク  托塔天王(毘沙門天)の  三男が龍神退治するハナシ   ↓↑  7歳(身長6尺)のとき、  東海龍王敖光の巡海夜叉の  李良と  龍王の  三太子敖丙を殺し  敖丙の背筋を抜き  父の怒りをうけ、  罪をあがなうために  自らの肉と骨を切り自害  死後母親の夢に現れ、  己の行宮を建てるよう頼んだ  神像が  3年間受香すれば再生できるはずだったが、  事の次第が  李靖(唐代の太宗に仕えた軍人・政治家)=李藥師  に発覚し行宮を焼き払われたため、  太乙真人は蓮の花に金丹を入れて肉体とし  哪吒を復活させ、  父とは  燃灯道人がとりなし和解  闡教の道士として父や兄と共に  周陣営に参加し、  以後  商の仙人と闘う  三面八臂の姿を得た   ↓↑  四海竜王  唐の玄宗が、  751年に四海の神を封じ  広(廣)徳王(東海)、  広(廣)利王(南海)、  広(廣)潤王(西海)、  広(廣)澤王(北海)  の称号をそれぞれに授けた   ↓↑  孫悟空にもやられる龍神   ↓↑  長男、東海竜王傲廣  次男、南海竜王敖欽  三男、西海竜王敖閏  末弟、北海竜王敖炎   ↓↑  龍宮(水晶宮)で  エビ(海老・蝦・鰕・螧)や  カニ(蟹)たちに守られ  海を統治し、雲と雨を操り  怒ると、都市を洪水にする  東海竜王が最も大領土をもち  それぞれ別名を有する   ↓↑  東海龍王=敖廣(ごうこう)=廣徳王  南海龍王=敖欽(ごうきん)=敖紹=廣利王  西海龍王=敖閏(ごうじゅん)=廣順王  北海龍王=敖順(ごうじゅん)=敖炎=廣澤王 ーーーーー  龍神か、蛇神か  ・・・辰巳(龍蛇)は南東の「戊己=土」に位置

  ↓↑  伏羲と女媧   ↓↑  伏羲=宓羲・包犠・庖犠・伏戯・伏義・伏儀     三皇の一人     姓は鳳(凤)姓・太皡庖犠氏は風姓?     八卦をつくり     人間に     漁猟を教えた  女媧(ジョカ・Nüwa)=女希氏・媧皇・女皇  古代中国神話の土と縄で人類を創造したとされる女神  笙簧の発明者  縄の発明者、葛天氏と同じく伏羲の号に属  三皇の一人に挙げる説・・・  姿は蛇身人首  姓は風  伏羲とは兄妹で  身は竜体=人首蛇身  同じく竜体の伏羲と下体が相交わる神像  「風俗通義(フウゾクツウギ(後漢末)」には、  女が人間をつくった  彼女は初め黄土を人の形にこねあげ、  人間を丁寧に1人ずつつくっていたが、  作業に骨が折れすぎて休むまもないのに  業(ごう)を煮やし  女は、ついに縄を泥中に浸してそれを引き上げた  そのときに縄から飛び散った  泥のしずくがすべて人間になった  伝承の変化で、  女は三皇の一人  男性神の伏羲(ふくぎ)と夫婦となった・・・  上半身は人間、  下半身が蛇形に描かれ、  女媧は右手に「ぶん回し(コンパス)」  伏羲は左手に「物差し(定規・曲尺)」  を掲げる   ↓↑  中国の黄河=黄竜・・・沙漠の竜巻・・・蜃気楼?  琉球王朝の海人は、  黄色旗や  百足(ムカデ)旗を掲げ  航海の無事を太陽神に祈った  イルルヤンカシュ=ヒッタイトの竜   ↓↑   太極八卦旗  太極四卦旗  「五爪龍旗・四爪龍旗」  朴泳孝が出発前に清朝政府に  中国の  五爪龍旗の使用を打診  清朝は  「潘属国は四爪龍旗の使用しか認められない」  と拒否  中国の使節  馬建忠は  中国伝統の  大極八卦旗を国旗として使用することを勧め、  朝鮮政府も受け入れた。朝鮮の太極旗の始まり  清の国旗の竜は爪が5本  藩属国は4本  牙旗=中国で、旗ざおの先を     象牙で飾り     猛獣が牙(きば )で身を守る形とした     天子または大将軍のいる所に立てる旗     大将旗     牙纛=呉の孫権が・・・・・・旗の色はナニ?        中央軍につねにたてていた        黄竜の牙旗・・・・・・龍は黄色だった?                   黄幡=黄幢?は呉の幡 ーーーーー  ・・・「幢=巾+童(立里)」の類字は「憧撞瞳童」・・・「魏志倭人伝」の著者(?)の漢字使用は周到であるカナ・・・帰化人の翻訳教養・・・サスガだが・・・妄想だが・・・ ーーーーー   ↓↑  「其の六(年?)... 同時期の遼陽の壁画(北薗壁画墓)に   黄幢とみられるものが描かれていた」・・・?   ↓↑  其八年(西暦二四七年=247年)  太守  王祈  到官  倭女王  卑彌呼  與  狗奴國  男王  卑彌弓呼・・・・卑彌弓、呼、素、不和・・・?  素不和  遣倭  載斯烏越・・・・載、斯、烏を越る・・・?  等詣  郡説  相攻撃状  遣  塞曹掾史  張政  等  因斎  詔書  黄幢  拝  假  難升米・・・・難升の米=米を升(はかる)のは難しい?              飢饉だろう・・・  爲  檄  告喩  之  卑彌呼  以死・・・・・殺された・・・死を以て・・・自殺?  大作冢  徑百餘歩  徇葬者  奴婢百餘人  更  立  男王・・・・・狗奴國の「卑彌弓呼」ではない?  國中  不服  更  相誅殺  當時  殺  千餘人  復立  卑彌呼  宗女  壹与・・・・・・壹與、臺與  年十三  爲王  國中  遂定  政・・・・・・・「張政」なのか、政(まつり)なのか?  等  以  檄  告喩  壹与  壹与  遣  倭大夫  率善中郎将・・・・率善か、「率膳」の御膳立てなのか?  掖邪狗・・・・・・掖邪狗(わきやく)なのか、           ワ記の訳なのか?  等二十人  送  政  等  還  因  詣  臺  献上  男女生口三十人  貢  白珠  五千孔  青大句珠二枚  異文  雑錦二十匹   ↓↑  王頎は)塞曹掾史・張政(せんそうえんし・ちょうせい)等を遣わして、詔書・黄幢(こうどう )を(倭に)齎(もたら)し、難升米(なしめ)に拜假(はいか)し、檄(げき)を為して、之を告 喩(こくゆ)す。   ↓↑  其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。  其八年、太守王[斤頁]到官  倭女王卑彌呼 與狗奴國男王卑彌弓呼 素不和、 遣倭載斯烏越等詣郡、説相攻撃状。 遣塞曹掾史張政 等因齎 詔書・黄幢、 拜假 難升米 檄告喩之。   ↓↑  倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。  倭の載斯烏越等を遣わして 郡に詣り、相攻撃する状を説く。  塞曹史張政等を遣わし、  因って  詔書・黄幢を齎し、  難升米に拝仮せしめ、檄を爲してこれを告喩す。   ↓↑  黄幢(こうどう)である・・・  黄幢の幢とは、軍事指揮や儀仗行列に用いられる  旌旗(せいき)・・・?・・・旌=方+ノ一(髪挿し)+生  の一種で、  天子が部下に権限を付与した印しとして与えたものだった。  遼陽北園墓の墓室には、  騎従がもつ幢が描かれている。  幢形のものが二つ重なって描かれている・・・?

  ↓↑  率善中郎将  中郎将とは交代で宿直して宮城を護衛する武官の長  この職は、  秦代に、始まり、  宋代以後には廃止  秩は比二千石  中郎将は郎中令に属し、  五官・左・右の  三中郎将が常置  必要に応じて種種の  「雑中郎将」(匈奴中郎将・建義中郎将等々)が任命された  率善中郎将も、 「雑中郎将」の類に属する  率善の意味・・・帰義候・・・率善=帰義・・・?「率膳」?  中郎将に任ぜられるのは原則として  内臣に限られ  「難升米」の場合はむしろ例外?・・・漢字は「難の升の米」である  239年  「難升米」は  「率善中郎将の位」  245年  黄幢を賜った   ↓↑  奴国男王  卑弥弓呼  素  不和  遣倭  載斯烏越・・・・・・載斯烏越=斯(これ・この・かく・シ)                 烏(カラス・ウ)                 を越えるコトを載せる・・・?  等  詣  郡  説  相攻撃状  遣  塞曹掾史  張政  等因  齎  詔書  黄幢  拝假  難升.  (難升)米  為  激  告喩  之  卑弥呼  以  死  大冢径百余歩・・」   ↓↑  「幢」を、  『後漢書』の  班超伝  にみえる  李賢の注には  「鼓吹・幢麾、皆大将所有」  とあることを確認、  諸橋『大漢和辞典』では、  軍の指揮に用いる  「はた」(はたぼこ=旗+矛)であるとしている・・・  「幢」が「軍旗の一種」で、  少なくとも唐代には、  将軍・刺使の威儀を示した儀飾の一つであった・・・?   ↓↑  「一番古い軍旗としての幢の記録は、   栗原の探したものでは、   『漢書』の   韓延寿伝という」  漢の宣帝のとき、  延寿が東郡太守として在任中、  都試の際に  「幟」を立ててこれに臨んだ・・・「幟」は「幢」か?  自分が考案した  「各種の儀飾り」が、反対派によって劾奏され、  「棄市」という極刑に処せられてしまった      ・・・棄市=公衆の面前で打ち首にして、            その死体を市中に晒すこと  「問われた罪が、幟を立てて都試に臨んだこと」  だというのである・・・?「都試」って、「都の試験」?  「幢」は、  王権の権力行使や軍事権に関わる重要なシンボル・・・  ・・・深く考えなくてもハタならば「重要なシンボル」であろう・・・  「内臣以外の賜幢」の例としては、  「泄帰泥」に与えられたものが一つだけある・・・「泄の帰の泥」・・・排泄物も泥も同じ?  部族をひきいて、  魏に帰属した  「泄帰泥」にあたえたもの・・・  「曲蓋・鼓吹を与えて、元通り住まわせ、   鮮卑族に対抗させた」  という記録である・・・らしい・・・研究、勉強家はスゴイねッ・・・   ↓↑  日本語訳は『三国志』  魏書・烏丸鮮卑東夷伝  『世界古典文学全集24B三国志?』筑摩書房  (現在は筑摩文庫にも収録されている)291頁にある・・・らしい。   ↓↑  武田幸男の黄幢の見解  中央公論社版  『世界の歴史6隋唐帝国と古代朝鮮   第2部朝鮮の古代から新羅・渤海へ』1997年  (中公文庫版は2008年刊 332頁~336頁)   ↓↑  「魏は倭の難升米に黄幢授与することにした。   「幢」というのは、   袋状の軍旗であり、   「黄」色陰陽五行説にいう五行の一つ、   魏の土徳を意味していて、   黄幢は魏の軍事力を象徴した。   黄幢の授与を通じて、   魏は軍事的連携をはかったのであろう。   おりしも、   魏の高句麗攻撃が最高潮にたっし、   母丘倹が東方世界を制圧しかかっていたころである。   帯方郡が   黄幢を届けるまで   三年かかったのも   郡自体が作戦の展開中だったからである。   難升米は魏が注目し、   高く評価した人物であった。   卑弥呼が男弟一人を頼りに   神聖統治の宗教的な統括者として   振る舞う中で、   大夫の難升米は行政実績があり、   すでに外交手腕も認められて、   世俗面を代表する重鎮であった。   魏は外交辞令だけで、   率善中郎将に任じたのではなかった。   今度は、   外臣としての彼に、   軍事的な指導性が期待された。   女王国は、   魏の東方戦略に組み込まれていたのである・・・   ↓↑   卑弥呼の軍団に  外国人の軍事顧問がついたのである。  黄幢の軍事的意味あいは、  当面、  卑弥弓呼の打倒に向けられていたはずである。  結局、  張政が  翌248年に還ったところをみると、  それが少しでも効いたのかも知れない」   ↓↑  ・・・「さすが、武田幸男」ですか?・・・   ↓↑  先の「栗原(論文)」の  黄幢についての見解の紹介で  脱落していた重要な指摘に、  呉が、  公孫淵に与えた詔書の件があった。  三国志呉志の注で、  「裴松之」は  「江表伝」を引用しているところの記述である。  呉王の孫権が  公孫淵に送った詔書のことである。  公孫淵を  「燕王」とするとともに、  「戎事あれば兵馬の  「典蓋・麾幢」を与える」・・・麾(さしまねく・キ                 軍を指図する旗)の幢                 麾下の旗                 靡(なびく)に類字  記されている・・・・そうである・・・   ↓↑  橿原日記  平成20年9月14日  黒塚古墳から出土した  用途不明のU字形鉄製品  原文記事は以下   ↓↑ http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2008_09_15.htm   ↓↑  用途不明のU字形鉄製品  県立橿原考古学研究所(以下、橿考研)  の発掘調査報告書によれば、  大小2本のU字形に曲げられた鉄製品は、  木棺の北小口の外側に置かれ、  石室の北東の隅に立てかけてあった。  2本の鉄棒の間にはV字形をとどめる鉄板製の管があり、  大半は崩落していたが、  U字形鉄棒の間をつないだ形を保つ部分だったと思われる。  この製品の両側に接して、  全長40cm前後の棒状鉄製品が立てた状態で5点、  横にして移動した状態で9点出土したとのことだ。  発掘当時、  この大小2本のU字形に曲げた鉄製品が  何であるか類推できなかった。  そのため調査報告書でも  「用途不明の鉄製品」と記されている。  謎のU字形鉄製品は、  両端がとがった長さ約70cmと57cmの  鉄の棒をU字形に曲げ、  その間に長さ5cmのパイプ(鉄板を丸めたもの)を  V字形に並べパイプの中にひもを通して結びつけていたようだ。  その後、X線撮影で調べてみると、  リボンのような絹織物が巻き付けてあったことが判明した。  そのため、  一種の吹き流しのようなものではなかったかと想像された。  だが、他に出土例がなく相変わらず  その形状や使用目的は謎のままだった。   ↓↑  印綬を授かったのは、  女王卑弥呼だけではない  239年  遣魏使節の  大夫・難升米(なしめ)  次使・都市牛利(つしぐり)・・・都も市の牛の利?  もそれぞれ  銀印青綬を受けている  243年(正始四)に派遣された  大夫・伊声耆(いえせき)・・・伊の声は                 耆(おいる・ギ・シ・ジ                 老人・六十歳or八十歳)                 伯耆国(ほうきのくに)は                 鳥取県  掖耶狗(えきやく)  ら8人もみな  率善中朗将の印綬を受けている   ↓↑   邪馬台国の所在地を示す物的証拠  黄幢(こうどう)である。  黄幢の「幢」とは、  軍事指揮や儀仗行列に用いられる  旌旗(せいき)の一種で、  天子が部下に権限を付与した印しとして与えた  遼陽北園墓の墓室には、  騎従が持つ  幢が描かれている。  幢形のものが  二つ重なり、  上は黒、  下は赤に塗られ、  上のものは  丸い傘状のものの下に  短い垂れ下がりがあり、  下の方は  鳥の長い羽毛が垂れている図である   ↓↑  三国志・魏書東夷伝  245年(正始六)5月  魏の  母丘倹(かんきゅうけん)、高句麗に侵攻  楽浪郡の軍隊とあわせる。  詔して倭の難升米(なしめ)に黄幢を賜い、  郡に付して假授せしむ。  247年(正始八)  太守王斤頁(おうき)、官に到る。  倭の女王卑弥呼、 狗奴國の男王卑弥弓呼  と素より和せず。  倭の  載斯(さいし)・烏越(うえつ)らを遣わし  郡に詣り、  相攻撃する状を説く。  塞曹エン史  張政  らを遣わし、  因って  詔書  黄幢  をもたらし、  難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す・・・   ↓↑  発掘中の黒塚古墳の石室内  U字形鉄製品を見て、  「黄幢」と直感した考古学者がいる。  徳島大学の  東潮教授である。  そのとき、この鉄製品が  難升米が貰った黄幢ならば、  銀印があるかもしれないと、  発掘調査員に話したという。  しかし、棺外の北小口にあった  画文帯神獣鏡付近や棺内から  銀印は見つからなかったとのことだ・・・   ↓↑  中国の三国時代  魏の曹氏  蜀の劉氏  呉の孫氏  と  公孫氏 が、  燕  という国を建てて遼東の地を支配  燕と対峙した  魏は、ひそかに  黄海を越えて  帯方郡と楽浪郡を掌握すると、  燕王の退路を絶ってこれを攻めた。  燕王公孫淵は敗死  彼らが歴代にわたってきた支配領域は  魏の支配する領域となった。  西暦238年、  魏の年号  明帝の  景初二年   ↓↑  239年(景初三)  倭の女王・卑弥呼が 帯方郡を介して  魏の都・洛陽に慶賀の使節を派遣した  238年  魏の  司馬懿が  公孫淵を討伐  高句麗は  燕に援軍を送ったが、燕は滅びた   ↓↑  242年(正始三)  高句麗は西安平地区に侵入  244年(正始五)  魏の将軍  母丘倹(かんきゅうけん)が  高句麗に侵攻し、  国内城を陥落させた  245年(正始五) 楽浪郡太守  劉茂  と  帯方郡太守  弓遵  は、遼東の  濊(ワイ)=氵+歳  が  高句麗についたので、軍を派遣してこれを伐った  同年の  五月  母丘倹は高句麗に侵攻し、  楽浪郡からの援軍と合流して戦った  246年(正始七)  母丘倹は高句麗の領土に侵攻  魏が倭の  大夫  難升米  に  黄幢(こうどう)  を授けたのは、  魏と高句麗が緊張状態にあった最中のこと・・・である・・・   ↓↑  東教授が  黒塚古墳の石室の片隅で見つかった  U字型鉄製品に注目された理由・・・  この鉄製品が本当に  難升米に仮授された  黄幢ならば・・・  倭が魏の  冊封体制に組み込まれ、  倭の軍隊が  広開土王の軍と干戈を交える  150年も前から  高句麗を仮想敵国としていた・・・   ↓↑  ただし、この黄幢に関してはさまざまな疑問がある。  まず、  なぜ倭国の女王である  卑弥呼に対してではなく、  難升米に対して仮授したのか。  また、  「仮授」とは仮に貸し与えることで、  永久に授与するという意味ではない。  つまり、  仮授された  黄幢  は戦争が終われば  返還すべき性質の旌旗であるということだ。  それが  何故古墳に埋納できたのか? ーーーーー  ・・・いやぁ~、以上の考察は面白かったデス・・・  ・・・ナゼですか?  多分、「黄の幢」が巾の童で、「巾の立つ里」だったから・・・  妄想デシタ・・・カナ・・・「天地玄黄=黄幢=黄龍旗」・・・ハタハタの漢字「鰰・鱩・雷魚・燭魚」・・・

 ・・・イヨイヨ(壹與、意予)決戦の時間帯に突入したが、「冬の陣」になるか、「夏の陣」になるかは・・・結果待(俟・ま)ちであるが、29日(甲申)18時30分・・・19時(癸酉)・・・ヤッタァ~西川、三塁打!・・・20時(甲戌)~・・・凄いコトになっているが、4-4・・・21時(乙亥)~22時、押し出し5-4、バース6-4、やったぁ~ッ!!レアード満塁ホームラン10-4・・・22時34分、決着、北海道へ凱旋~ッ・・・前回は「黄幢」の「幢」とは、ナニか?で以下の引用文を添付したが、「黄幢(?)」の「黄・黄色」がマッタク欠落している「遼陽北園墓の墓室には、騎従が持つ幢(?)が描かれいる」とあり、その形状が「幢形(?)」であるらしく、旗の色彩に関してはボクがコラージュして添付した絵の「黄色の飾り旗」と異なっている。スナワチ、「幢形のものが二つ重なり、上は黒、下は赤に塗られ、上のものは丸い傘状のものの下に短い垂れ下がりがあり、下の方は鳥の長い羽毛が垂れている図」・・・ ーーーーー  「軍事指揮や   儀仗行列に用いられる   旌旗(せいき)の一種で、   天子が部下に権限を付与した印しとして与えた   遼陽北園墓の墓室には、   騎従が持つ   幢が描かれている。   幢形のものが   二つ重なり、   上は黒、   下は赤に塗られ、   上のものは   丸い傘状のものの下に   短い垂れ下がりがあり、   下の方は   鳥の長い羽毛が垂れている図である」 ーーーーー  ではなく、

 となるのだが・・・?・・・コレは「黄(色)幢」なのか?・・・  「気概」の「概=木+既(既・旣=白ヒ牙)=槪・槪・槩」は「概(おおむね・だいたい・おもむき・ガイ)」である。「木(き・モク・ボク)」の、「既(すでに・もはや・もとより・とっくに・つきる・ことごとく・キ・ケ)=旣・既」で、「概念」である・・・漢字構成からハヤシ先生の「升の米の表面を均す」とは思えないが・・・「木(偏)」は表面の米面(こめづら)を均す「升の棒」の表意?・・・  「牙(きば・キ・ケ)=器に盛った食べ物を食べ尽くしてノドケル、詰まらせる、むせる、むせぶ、喰い過ぎでゲップ」で、「概」は満足して「木」に寄りかかっている姿であろう・・・  類字は「慨然(ガイゼン)」の「慨(心+既=忄+既・旣=心白ヒ牙)」は「 いきどおる(激しく立腹)・なげく(歎く・嘆く・悲歎・悲嘆)」で、「心の白はヒ(ヒ七匕)の牙」で・・・「慨嘆・感慨・憤慨・慨世・慨然・慷慨(コウガイ)・憤慨」である・・・  「牙」の類字の「无(なし・~するなかれ・ムブ)」は「無」と同意、同義であるが・・・「虚無=万物の根本」は道家の思想だが、「自然科学」としての「底存在するアルものはアル」で、「虚無」とは「人間認識の心の認識思惟能力」の「認識概念の限界」である・・・  イヨイヨ(壹與、意予)決戦の「黄幢」は、「め組の纏(まとい)」・・・「火」消しの仕事は延焼の阻止の家屋の破壊と消火の放水の「水」・・・終わって、北海道で凱旋での宴会はタラフクの「白のヒ(ヒ七匕)」の「牙」である・・・

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