ウマ・ウシ・・・午牛・馬丑・・・
つしま=対馬=對馬=対島=但馬=たじま=多嶋=太島 対=文+寸 亠+乂+一+亅+丶 音を重ねる初め、カギはテン 馬=司馬・志摩・縞・揣摩・死魔 馬太(マタイ)=Matthew・マチュゥ・マシュー ・・・収税人 マタイオス (Μαθθαιος・Matthaios) マテオ・マトフェイ 馬可(マルコ)=Marcus・マーカス・マークス・マルクス 馬利亜(マリア)=Maria=未艶 「マ・ミ・ム・メ・モ」+「リア」 うま・め・バ・・・・ うば=乳母・姥 めのと=乳人・女の都 馬屋=厩(うまや)・・・厩戸王子 ↓↑ 対=文+寸=對 ・・對=「丵=入墨(刺青・文身・黥)の針で 一を寸(細かく刻む)」 亠+乂+一+亅+丶 タイ ツイ むかう・つれあい こたえる・そろい タイ こたえる・応じる 相手(特に目上の人)の問いに 応える・答える・堪える? むかう・向き合う・向かい合う つれあい・相手 そろい・二つで一組になるもの 對=丵+一+寸=對 對=业+丷+一+土+寸 異体字「對・对・𡭊」 類字「丵業菐撲対(對)樸璞」 丵=掘鑿に使う道具 菐=「丵+廾」?=丵を両手で持つ =「业+丷+一+夫」 「业+丷+二+人」 丵を持って打つ ↓↑ 撲=相撲(すもう・ソウボク)=格闘技 業=家業・稼業・課業・歌業 職業=諸々の業種・・・? 商業・工業・農業・漁業 産業・陶業・林業・興業 懟=對+心 业+丷+一+土+寸+心 タイ ツイ 恨む 相手の不幸を望む 不快な気持ちを抱く ー↓↑ーー↓↑ーー 234年・甲寅 新羅が 倭国と和解(新羅本紀) 新羅が 魏に使いを出して 和親(高句麗本紀) ↓↑ 236年・丙辰 呉の 「孫権」 が 燕(公孫氏)に 使者派遣 和親を乞う 王(公孫氏)は その(呉)使いを斬り 首を 魏に伝えた(高句麗本紀) 「公孫淵」 は 魏から受けた 大司馬・楽浪公の地位を不足とし 魏の皇帝 「曹叡」 から 上洛を求められたが拒否 ↓↑ 237年(景初元年)・丁巳 七月 戊申 「公孫淵」は 呉の 「孫権」に 呼応して 魏に反旗を翻し 独立宣言 遼東の 襄平城で 「燕王」を自称 年号を 紹漢・・・・紹=糸+召 幺+小+刀+口 幺+ハ+亅+刀+口 ショウ つぐ・受けつぐ・引き継ぐ・継承する 引き合わせる・紹介 間をとりもつ と定め 近隣部族に 印璽を与えた 帯方郡・・・帯(たらし・おび・タイ) 楽浪郡・・・楽=冫+白+冫+木(十八) も 燕に属したが 帯方郡と楽浪郡の 太守は 燕の建国時に 魏に逃げ戻った・・・327年~328年の何時か? ↓↑ 公孫淵が 司馬懿との戦いの間に 帯方郡と楽浪郡を 奪還する密命を (郡の太守)は 受け 甘言を弄して 韓国(三韓諸国)を味方にした ↓↑ (公孫淵) 魏に使いを出し 年号を改めたのを祝賀した(高句麗本紀) ↓↑ 238(景初二年)・戊午 正月・・・ 魏の大尉 「司馬懿」 が四万の軍勢を率いて燕に出撃 九月・辛酉 「公孫淵」 を討ち滅ぼした ↓↑ 帯方郡は 「後漢→魏→燕」と 所属に変遷があったが 実質的は一貫して 「公孫氏の領有下」にあった ↓↑ 魏が 公孫淵(燕) を討つので 王(高句麗王?)は 主簿大加 を派遣してこれを助けた(高句麗本紀) ↓↑ 238年 六月・・・ ↓↑ 六月・戊午 七月・己未 八月・庚申 九月・辛酉 「公孫淵」滅亡 ↓↑ 238年 六月・・・九月・辛酉「公孫淵」滅亡3ヶ月前 倭の 女王(卑弥呼)が 大夫 難升米 等を遣わし 帯方郡に到来し・・・六月には「公孫淵」は 九月・辛酉までは生存し 帯方郡は その支配下・・・? 天子に詣うで 朝献したいと要請 太守 「劉夏」・・・・・・六月には「劉夏」は帯方郡にいたか? は使いを遣わし 彼らに随行させ都に詣でさせた ↓↑ その年(景初二年)・戊午(238年) 十二月・・・・甲子月 以下の文書を 倭の女王に送った 「親魏 倭王 卑弥呼 に申し伝える 帯方郡の太守 劉夏 は使いを使わし 貴方の 大夫 「難升米」・・・・難の升の米 次使 「都市牛利」・・・都市の牛利 を送らせ 貴方の献上した 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈 を奉って到着した 貴方がいる所は 遙かに遠いにもかかわらず 使いを派遣して来た これは貴方の 忠孝の表れであり、うれしく思う ↓↑ 今 貴方を 「親魏倭王」 としてたたえ 「金印紫綬(シジュ)」 を授け 封印した後 帯方郡の大守 に授けさせる 貴方は それを人々に示し 人民を服従させよ 貴方の使者 「難升米」 「都市牛利」・・・「都市の護利(義勇)」? は、遠い所を渡って来て長旅をしてきた 今 「難升米」を 率善中郎将・・・善=譱 善=羊+䒑+口 羊+丷+一+口 譱=羊+誩 羊+言+言 とし 「牛利」を 率善校尉として 銀印青綬を授け 引見して労をねぎらい (倭へ)帰す事にする ↓↑ 240年(正始元年) 魏は太守 「弓遵」・・・弓の遵=尊+辶 建中校尉 「梯儁」・・・梯=十+八+弟 の 儁=イ+隹+凹 儁=俊 等を派遣し 詔書・印綬を捧げ持って 倭国を訪問 倭王に拝謁 ならびに 詔をもたらし 金帛・錦ケイ・刀・鏡・采物 を授けた 倭王は、使に答えて上表し謝意を示した ↓↑ 242年 高句麗は 遼東 西安平 を襲って破った(高句麗本紀) ↓↑ 243年 倭王も使大夫 「伊声耆」・・・伊の声の耆 ・・・イの尹(臣)の声の「キギ・おい」 「掖邪狗」・・・掖の邪の狗・・・和記の譯 等八人を(魏へ)派遣し 生口・倭錦(わきん) 絳青ケン(こうせいけん) 緜衣(めんい) 帛布・丹・木フ・短弓矢 を献上 「掖邪狗」 等 率善中郎将の 印綬を授かった(壱拝す) ↓↑ 244年 魏の将軍 毌丘倹 による1回目の 高句麗侵攻 高句麗 東川王(位宮・イキュウ) は2万の兵を率いて迎え撃ったが 連敗し 「丸都城」・・・丸の都の城 を落とされ千人が斬首された 「毌丘倹(カンキュウケン)」 は将兵の 墳墓破壊を禁じ (高句麗の?) 捕虜と首都を返還したが 高句麗は 服属しなかった ↓↑ 245年(正始六年) 高句麗は再び 魏軍の侵攻を招いた 魏軍は南北の2方向から侵攻し 高句麗を大いに打ち破り 全土の村々を落とすと 東川王は 南沃租 へ逃げたが更に追撃を受け 北方にある 粛慎との境いまで逃れた この戦いにより 3千人が捕えられて斬首 従属させていた 東濊も 高句麗を離れ 魏に服属 魏に 従軍した 韓は 戦いの後 辰韓八国を楽浪郡へ編入され 韓を魏の植民地にした 激怒した 韓族が 帯方郡の 崎離営を襲ったが 「弓遵」と 楽浪太守の 「劉茂」 が兵を興して討ち 三韓は 漢族によって滅亡 この戦いで 「弓遵」は戦死 東川王は 魏軍が引き上げた後 平壌城を築城した ↓↑ 軍を出して 新羅の北辺を侵した(高句麗本紀) ↓↑ 倭の 難升米が 黄幢(コウドウ)を賜わり (帯方)郡経由で仮授した ↓↑ 247年(正始八年) 太守王キ官に到着 倭の女王 「卑弥呼」 もとから 狗奴国の男王 「卑弥弓呼」 とうまくいってなかった 倭は 「載斯烏越」・・・載斯の烏越(カラス越え) 等を派遣して 帯方郡を訪問させ 戦争状態を報告 ↓↑ 248年 新羅が使いを派遣し和を結んだ 東川王 没 中川王 即位(高句麗本紀) ↓↑ 249年 卑弥呼 死? 四道将軍派遣 崇神十一年 四道将軍復命 魏の 張政 来日 ↓↑ 塞曹掾史 「張政」 等を派遣して、詔書・黄幢をもたらし 「難升米」に授け 檄文を為(つく)って戦いを告喩 ↓↑ 卑弥呼 死 大きな冢を造り 男王を擁立 国中が混乱 戦いで千余人が死んだ 卑弥呼の 宗女 壹與 歳十三才を擁立 国中が遂に治まった 政等は 檄文を以て 壹与を激励 ↓↑ 卑弥呼 魏に朝貢 ↓↑ 「公孫」氏滅亡 ↓↑ 「公孫康」 の死後(215年頃) その子 「公孫淵」 が幼いために 「公孫康」 の実弟 「公孫恭」 が後を継ぎ 後漢の 「献帝」 から 禅譲を受けた 魏朝の 「文帝(曹操の子・曹丕)」 により 車騎将軍 襄平侯に封じられた 228年 成長した 「公孫康」の子の 「公孫淵」は 「公孫恭」の位を奪い取り 魏の 「曹叡(明帝)」から 揚烈将軍 遼東太守 に任ぜられた ↓↑ 「公孫淵」は 魏から受けた 大司馬 楽浪公の地位を不足とし 236年 魏の皇帝 曹叡 から上洛を求めらたが拒否 237年七月 「公孫淵」 は呉の 「孫権」 に呼応して 魏に反旗を翻して独立 遼東の襄平城で 燕王を自称 年号を 紹漢と定め 近隣部族に印璽を与えた ↓↑ 帯方郡 楽浪郡 は 燕に属したが 帯方郡と楽浪郡の太守は 燕建国時に魏に逃げ 魏は 「公孫淵」に怒り 帯方郡 楽浪郡 の奪還を目指した ↓↑ 238年 正月 魏の大尉 「司馬懿」が四万の軍勢を率いて出撃 九月 「公孫淵」 を討ち滅ぼした ↓↑ 公孫淵 と 司馬懿 との戦闘中に 帯方郡と楽浪郡の太守は 帯方郡・楽浪郡を奪還する密命を受け 両太守は 甘言を弄して 韓国(三韓諸国)を味方にし 帯方郡・楽浪郡 を奪取した ↓↑ 新羅は 204年 帯方郡の属国になった 新羅 と 倭国・伽耶諸国・百済 は 234年まで戦った 234年 新羅は降伏・・・ ↓↑ 魏への朝貢の意図 ↓↑ 卑弥呼の使者 帯方郡を訪問 238年 6月 帯方郡太守 「劉夏」が 韓国の手を借りて 帯方郡を奪還した直後 ↓↑ 238年の朝貢 に対する返事が 240年 ↓↑ 243年の朝貢 に対する返事が 245年 ↓↑ 247年の朝貢 に対する返事・・・ (張政の派遣)は 249年 ↓↑ 卑弥呼の死 249年(崇神十年)・・・ ↓↑ 狗奴国との戦い 247年の朝貢時 狗奴国の男王 卑弥弓呼との戦争状態を報告 247年=崇神六年・・・ ↓↑ 球磨国=狗奴国・・・? 219年(開化十年) 247年 でも戦闘 第十二代 景行天皇の時代 仲哀天皇の時代 も戦闘 ↓↑ 新羅本紀 234年 和解・・・ 278年(崇神三十年) 「倭女王 卑弥呼 が和を乞うた」 ・・・ 壹(臺)與=卑弥呼・・・ ↓↑ 新羅 234年 倭国に降伏・・・ 240年 狗奴国=球磨国 ↓↑ 245年 開化天皇死亡 第十代 崇神天皇即位 ↓↑ 245年 244年前後 高句麗が 魏に侵攻され 魏軍は 高句麗を打ち破り 全土の村々を落とす 東川王は 南沃租へ逃げ 追撃を受け 北方の 粛慎との境いまで逃れた 東濊も 高句麗を離れ 魏に服属 245年3月 日本海地方(辰韓)の人々が 美女を献じた後宮に入れた 245年10月 新羅の北辺を犯す 248年2月 新羅と和を結んだ ↓↑ 倭国が魏の朝貢国 楽浪郡は倭国と友好関係 楽浪郡に編入された韓は 楽浪郡に対抗しようと 高句麗に対して美女を献じ 高句麗の援助を受けようとした 高句麗は 辰韓諸国の後援に回った 辰韓諸国の 新羅に手を出し勢力拡大を画策 ↓↑ 球磨国 伊都国 倭国 魏 楽浪郡 新羅 高句麗 ↓↑ 248年2月 新羅は高句麗と和 ↓↑ 正始八年(247年) 韓族との戦いで戦死した 「弓遵」から引き継いだ 太守 「王頎」は 倭の使者から 邪馬台国 と 狗奴国 との交戦の報告を受け 自ら上洛して官の決裁を仰ぐが 魏の 少帝の詔書と黄幢を携えた 塞曹掾史の 「張政」が派遣 ↓↑ 卑弥呼 死亡 249年 ↓↑ 「武諸隅」 海部氏系図に 「饒速日尊7世」に 「武諸隅」 丹後国 熊野郡 三嶋田神社の記録に 孝靈天皇の御宇 武諸隅命(海部直の祖) 生嶋に 大山祇命 上津綿津見命 表筒男命 を祀りて三嶋神社と稱し奉る 武諸隅命は 孝霊天皇 と同世代 『勘注系図』で 「饒速日尊 六世孫 建田勢命」 「七世孫 建諸隅命」 「八世孫 日本得魂命」 尾張氏の人物 「建田勢命」は 七代孝霊天皇に 建諸隅命は 九代開化天皇に 「日本得魂命」は 十代崇神天皇に 奉仕 『勘注系図』は 「建諸隅命」 の亦の名を 「由碁理」とする 「由碁理」と云う人物は 『古事記』にも登場し 九代開化の妃となった 「竹野比売」の父親 「古事記」は 「由碁理」を 「丹波大縣主」 としている ↓↑ 日本書紀 崇神天皇60年の記事 出雲神宝検校に 「武諸隅」が登場 出雲神宝検校は 孝霊天皇の頃の 「出雲振根」が登場し 孝霊天皇の時も 神宝検校が行われ 両者の記事が重なった・・・ ↓↑ 魏志倭人伝 238年 「卑弥呼」は 「都市牛利」を派遣 都市牛利=武諸隅・・・? ↓↑ 難升米 伊聲耆 ↓↑ 中臣氏の系図に 梨迹臣、伊世理 難升米=梨迹臣、伊聲耆を 伊世理・・・ 両者は神武天皇と同世代の 菟狭津媛の4世孫で 開化天皇と同世代・・・ ↓↑ 邪馬台国の官 ↓↑ 伊支馬 彌馬升 彌馬獲支 奴佳是 ↓↑ 伊支馬=崇神天皇 第十代 崇神天皇 ミマキイリヒコイニエ ↓↑ 伊支馬「イキメ→イニエ」 「イシマ⇔石磨」 ↓↑ 「オホキミ=阿輩鶏彌」 「伊支馬=イキメ→オキミ」 ↓↑ 彌馬升 (ミマシ) =彦坐王 (イマス)? 彌馬獲支(ミマカキ)=御間城姫(ミマキ)? 奴佳是 (ヌカテ) =建沼河別(ヌナカワ)? ーーーーー ・・・???・・・重複・・・コムふゆゥず・・・ confusion・disorder・・・
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