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キャベツ・cabbage・球菜=「タマナ」=「多摩・多磨」名

2022/8/6・土曜日・・・追加添文・・・

豪雨・大雨・洪水・・・山形、新潟・・・

河川は氾濫する・・・最上川・・・

河川工事=堤防工事=ダム工事

黄河の治水者=洪水の治水者

河川を制御する者は「帝王」・・・禹(う・ユィ)

                姓 姒(ジ)

                名 文命

                字 密

黄帝(コウテイ)の玄孫

顓頊(センギョク)の孫

顓=耑+頁

  山+而+頁

  山+一+丿+冂+丨+頁

  セン

  まじめなさま・つつしむ

  よい・善良

  もっぱらにする・ほしいままにする

  独占する

  おろか・融通が利かない

  要領の悪い

  ぼんやりとするさま

  伝説上の皇帝の名

  五帝の一人

  耑=山+而 (しこうして・しかして)

  セン

  タン

  物事の始まり・物の先端・物の端

  もっぱら・ひたすら・いちずに

  而

  形而上(観念)・形而下(物体)

頊=王+頁・・・頁=ページ(page)

         併字・丙字・幣字・兵時・平氏・平治

  キョク

  ギョク

  慎むさま・礼儀正しいさま

  ぼんやりとするさま

 ↓↑

多摩川・埼玉・・・球磨(くま)=球を磨く

多磨川・多摩川・玉川(たまがわ)

玉川上水

玉名・玉奈・玉那・珠名・珠奈・・・

球磨(くま)名

くまな=熊名=くまな=句真名

熊津(くまづ)=熊津都督府(ユウシントトクフ)

 ↓↑

 熊津(ユウシン・ウンジン)

 百済の古都

 万葉仮名では

 「久麻那利(くまなり・こむなり)」

 百済語では

 「固麻那羅(コマナル)」

 「熊川(錦江)」

 の都市で

 忠清南道公州市

 ↓↑

 475年

 高句麗

 「長寿王」

 が百済の国都

 「漢城(ソウル特別市)」

 を陥落させ

 百済の

 「蓋鹵王」

 を処刑

 後

 南方に逃亡していた

 (新羅に救援を求めに行っていた)

 「文周王」

 が即位し

 首都を

 「熊津」

 に移した

 後に

 538年

 「聖王」

 が南方の

 「泗沘(忠清南道扶余郡)」

 へ遷都するまでの63年間、百済の首都

 新羅の統一の後

 「熊川州→熊州」

 という名称を経

 高麗時代に

 「公州」

 に改称された

 公州市には

 「熊津洞」という地名が残る

 ↓↑

 錦江(キンコウ・クムガン)

 大韓民国の中西部に位置

 韓国第三の河川

 百済の古都

 忠清南道公州(コンジュ)

 からは

 熊津江(ウンジンガン)

 忠清南道扶余

 からは

 白馬江(ペンマガン)

 とも呼ぶ

 ↓↑

 「白江・白村江」

 は

 「錦江」

 と推定・・・

  ↓↑

 「錦川(にしきがわ)」

 「山口県内を流れる・・・山口県⇔岸田・岸・安倍・統一?

  二級水系

  錦川」

 の本流

 周南市(旧 都濃郡 鹿野町)を水源

 ~

 岩国市(旧 玖珂郡 錦町)に流れ込み

 支流の宇佐川と合流

 再度、南東に大きく蛇行し

 岩国市内(旧 玖珂郡 美川町・旧 岩国市)

 を経て瀬戸内海に注ぐ

↓↑

660年

唐が百済を滅ぼし

韓国

忠清南道に相当する

百済旧域の管理を目的に設置した植民地

唐が高句麗と百済を滅ぼした後

旧高句麗領を安東都護府

旧百済領を熊津都督府

新羅も藩属国から鶏林州都督府

とし、朝鮮半島全域を

「羈縻州」とした

ー↓↑ー

 錦江(キンコウ・クムガン)

 大韓民国の中西部に位置

 韓国第三の河川

 百済の古都

 忠清南道公州(コンジュ)

 からは

 熊津江(ウンジンガン)

 忠清南道扶余

 からは

 白馬江(ペンマガン)

 とも呼ぶ

 ↓↑

 「白江・白村江」

 は

 「錦江」・・・

 と推定・・・

 ↓↑

 韓国の地名・河川

 熊川=錦江の別名

 熊川=百済の都の名・忠清南道公州市 ⇒熊津

 熊川県(熊川郡)=慶尚南道にあった県(郡)

          鎮海区 (昌原市)

 熊川(こもがい)=高麗茶碗の一種

          韓国

          慶尚南道の

          熊川に由来

 古代

 「伽耶」の領域

 新羅時代

 「熊只県」

 統一新羅

 高麗時代

 「熊神県」

 が設置

 15世紀初頭

 乃而浦倭館

 薺浦倭館

 三浦

 設置

 ↓↑

 660年(顕慶五年)

 百済滅亡

 唐は

 熊津都督府として管轄

 ↓↑

 熊津府(治所・泗沘城=忠清南道扶餘郡)

 馬韓府(古沙夫里城=全羅北道井邑市)

 東明府(熊津城=忠清南道公州市)

 徳安府(徳安城=忠清南道論山市恩津面)

 金連府(周留城=忠清南道瑞山市)

 帯方州(竹軍城=全羅南道羅州市会津)

 を設置

 ↓↑

 熊津都督府

 嵎夷・神丘・尹城(悦已)・麟徳(古良夫里)

 散昆・安遠(仇尸波知)・賓汶(比勿)

 帰化(麻斯良)・邁羅・甘蓋(古莫夫里)

 奈西・徳安(徳近支)・龍山(固麻)

 の13県

 ↓↑

 東明都督府

 熊津・鹵辛(阿老谷)

 久遅(仇知)

 富林(伐音)

 の4県

 ↓↑

 金連府

 平夷県(周留)

 ↓↑

 馬韓都督府

 比利・辟中・布弥支・半古

 4県

 ↓↑

 帯方州

 至留(知留)・軍那(屈奈)

 徒山(抽山)・半那(半奈夫里)

 竹軍(豆肸)・布賢(巴老弥)

 6県を、それぞれ管轄

 ↓↑

 唐軍将領

 「王文度」

 が死去

 ↓↑

 「扶余璋(豊璋)」

 の従子である

 「鬼室福信」

 と

 「黒歯常之」

 らは

 日本(倭国)で人質だった

 「扶余豊(豊璋)」

 の帰国を

 「中大兄皇子=天智天皇」

 に倭軍の援兵と共に要請

 ↓↑

 天智天皇二年

 663年

 3月

 「阿倍比羅夫」

 「安曇比羅夫」

ー↓↑ー

 「朴市 秦 田来津=

 (えち の はた の たくつ)」

 近江国

 愛智郡に移り

 地名を冠し

 「朴市 秦」と名乗った・・・

 延暦年間(782年~806年)

 「依知 秦    公

 (えち はた の きみ)」

 と記された木簡発見

 上蚊野古墳群

 (愛知郡

  秦荘町

  大字上蚊野)

 は

 「依智(依知・愛智・愛知)秦氏」

 の居住地・・・

 滋賀県

 東浅井郡

 浅井町

 湯次山

 誓願寺

 に

 「田来津」

 を

 「秦 河勝」

 の子とし、その子孫を

 誓願寺開基

 「了慶」

 以下誓願寺21世

 「了忍」

 まで繋げる系図がある・・・

 ↓↑

 大化元年(645年)

 「朴市 秦 田来津=

 (えち の はた の たくつ)」

 は

 「古人大兄皇子」

 を擁立し

 「蘇我 田口 川堀」

 「物部 朴井 椎子」

 「吉備 笠垂」

 「倭漢 文麻呂」

 らと謀反を企てた・・・

 ↓↑

 彼らには処罰された形跡はない

ー↓↑ー

 「朴市 秦 田来津」

 は

 「斉明天皇七年」

 (661年)

 九月

 冠位、小山下の

 「狭井 檳榔(後に大山下)」

 と共に兵士5000を率いて

 百済の王子

 「扶余豊璋」

 を百済に衛送

 ↓↑

 「天智天皇元年」

 (662年)

 十二月

 「扶余 豊璋」

 が臣下の

 「扶余 鬼室 福信」

 に

 食糧事情を理由に

 「州柔(つぬ=周留城)」

 から

 「避城」

 への遷都を主張

 ↓↑

 「豊璋」

 は険峻な要害の

 「周留城」

 より

 「避城」

 に住みたがり

 「福信」

 はこれに反対した・・・

 ↓↑

 「豊璋」

 らの主張

 「州柔(つぬ=周留城)

  では土地がやせているため

  兵粮がつきてしまう。

  避城(へさし)

  なら西北に川があり

  東南には堤があり

  一面が田(畑)で

  溝を掘れば雨水もたまる。

  華も実もある作物に恵まれ

  三韓のうちでもすぐれたところである。

  衣食の源があれば

  天地に近いところで

  地形が低いといっても

  都をうつすべきだ」

 ↓↑

 「朴市 秦 田来津」

 らは

 「土地が低いというのが難点であり

  食糧よりも

  敵が近くにいることの方が重要で

  今は険しい山に

  囲まれた要衝である

  州柔にとどまるべきだ」

 と反対し

 百済の

 「黒歯常之」

 らの将軍も同意見であった

 ↓↑

 避城(へさし)遷都は断行

ー↓↑ー

 天智天皇二年

 (663年)

 2月

 新羅人が

 百済南部の4郡を焼き討ち

 徳安などの要地を奪取

 新羅勢力から

 近過ぎる

 「避城~州柔」へ還都

 ↓↑

 天智天皇二年

 663年

 3月

 倭朝廷は

 前軍将軍

 「上毛野 稚子」

 以下27,000人の兵士を

 自由民権運動に参加し

 ↓↑

 天智天皇二年

 663年6月

 百済王

 「豊璋」

 は

 「鬼室 福信」

 の謀反を疑って捕らえ

 その掌を穿って革紐で縛り

 諸臣に対して

 「福信」を斬るべきかと問い

 達率(二品官)

 「徳執得」

 「これは悪逆人であるから

  放しおくわけにはいかない」

 と答えた

 「福信は執得に唾して罵ったが

  豊璋は福信を斬らせ

  その首を塩漬けにした」

 ↓↑

 『三国史記』28巻百済本紀

 『旧唐書』199巻上百済伝

 「豊璋」は

 662年5月(天智天皇元年?)

 に百濟に入国

 「鬼室福信」

 は王を迎えに出て、国政をみな委ねた

 倭国はこの後も

 福信あてに軍需物資を送り

 福信も捕虜の

 唐人

 「続守言」・・・「続・守・言」?

 らを倭国に送った

 7月

 「扶余豊(扶余豊璋)」

 は

 「福信」

 の謀判を察知し殺した

ー↓↑ー

 福信の近親者

 「鬼室集斯」

 は

 天智四年二月(665年)

 (即位元年起算よると天智十年正月)

 に福信の功績によって

 天智天皇から

 「小錦下」

 の位階を与えられ

 百済の民

 男女四百余名

 と

 近江国

 神前郡に住居を与えられ

 天智八年(669年)

 男女七百余名とともに

 近江国

 蒲生郡に移住させられた

ー↓↑ー

 「豊璋」

 は城兵を見捨てて脱出し

 8月13日

 に倭王朝派遣水軍に合流

 ↓↑

 天智天皇二年七月二十日

 663年

 8月27~28日

 「白村江の戦い」

 で

 倭朝廷水軍は

 唐の水軍に敗北

 この時

 「田来津」

 は

 天を仰いで誓い

 歯を食いしばって怒り

 数十人を殺したが

 遂に戦死

 (日本書紀)

ー↓↑ー

 663年

 10月5日

 (天智天皇二年八月二十八日)

 「白村江の戦い

 (唐・新羅連合軍

  vs

  百済・日本連合軍)」

 で倭水軍大敗

 ↓↑

 663年

 10月13日

 (天智天皇二年九月七日)

 百済降伏

 百濟人民が日本へ逃亡

 唐が

 「単于都護府」

 を雲中に設置

ー↓↑ー

 663年

 8月27~28日

 天智天皇二年七月二十日

 「白村江(はくすきのえ)の戦い」

ー↓↑ー

 「白江(錦江?)=黄海に流れ込む海辺」

 「江(え)=入り江=海への河口」

 「はくすき」の

 「き=城(き)・砦=とりで=塞・柵」

 「白江の河口」に

 「白村」という「城・柵(き)」

  があった・・・?

  ・・・「白=新羅=斯盧=辰韓=秦の村」

 「村主=スクリ

    (帰化人の郷長=村長・百済語)」

 「村=すき=長=おさ」

ー↓↑ー

 「周留城」

 を拠点に日本と協力し唐を攻撃

 唐は

 661年(龍朔元年)

 「泗沘」に駐留した唐軍将領

 「劉仁願」

 を

 熊津都督

 帯方州刺史

 に任命

 663年(龍朔三年)

 「白村江の戦い」

 で大勝

 百済復興失敗

 「劉仁願」

 唐へ帰朝し

 「劉仁執」・・・「劉仁軌」とは別人?

 が百済守備に任じられ

 戦乱被害地域の復興に務めた

 665年(麟徳二年)

 各都督府・州・県

 の合併が進められ

 6都督府州は統合され

 「熊津都督府」

 の下で7州

 東明・支潯・魯山

 古泗・沙泮・帯方・分嵯

 熊津13県になり

 府治は

 「泗沘城(忠清南道扶餘郡)」

 に設置され

 前百済太子

 「扶余隆」

 を熊津都督に任命し

 百済故地及び遺民の管理を命じた

 「扶余隆」

 は新羅の侵略を恐れて着任を拒否

 唐軍将領

 「劉仁軌」

 が検校熊津都督として着任

 高句麗滅亡後

 「劉仁軌」

 「劉仁願」

 は帰国

 熊津都督は

 熊津都督府長史の

 「難汗」

 熊津都督府司馬の

 「禰軍」

 により代行された・・・

 ↓↑

 後

 新羅が反乱し

 670年(咸亨元年)7月

 襲撃され

 熊津都督府

 の82城が落城

 百済旧域の大部分は

 新羅が占領

 唐が百済旧域統治の中心地としていた

 熊津

 泗沘

 に迫ったので

 唐は

 「薛仁貴」

 を

 「鶏林道総管」に任命

 「熊津都督府」

 と共同して新羅に対抗したが失敗

 「熊津都督府」

 は新羅に占拠された

 ↓↑

 676年(上元三年)2月

 唐は

 「熊津都督府」

 を

 「泗沘」

 より

 「建安故城(遼寧省営口市蓋州市)」

 に移転

 「安東都護府」

 が管轄する

 「安州都督府」

 と統合

ー↓↑ー

たまな

他真名=他の漢字

 ↓↑

 羽村取水堰で

 多摩川から取水

 武蔵野台地を東流し

 四谷四丁目交差点付近の

 四谷

 大木戸に付設された

 「水番所(水番屋)」

 を経て市中へと分配

 1722年(享保七年)以降

 新田開発

 野火止用水

 千川上水

 など多くの

 分水(用水路)が開削

 武蔵野の農地へも水を供給

 ↓↑

 井の頭の水を利用する為

 鈴木

 秦(久我山)

 の両豪族によって

 井の頭池

 から

 高井戸の区間が掘削

 更に

 高井戸

 から

 北沢用水として

 上北沢方面へ分水

 『玉川上水起元(1803年)』

 承応元年(1652年)十一月・・・壱拾壱解通?

 幕府により

 江戸の飲料水不足を解消するため

 多摩川からの上水開削が計画

 工事の総奉行

 老中で

 川越藩主の

 「松平信綱」

 水道奉行

 「伊奈忠治(忠克)」

 が就き

 庄右衛門

 清右衛門

 兄弟(玉川兄弟)

 が工事を請負った

 資金

 6000両or7500両

 が拠出

 ↓↑

 1653年

 正月

 4月4日に着工とし

 玉川兄弟に

 工事実施の命

 羽村~四谷

 までの標高差が

 約100メートル

 引水工事は困難=水喰土(吸水土)・硬い岩盤

 「松平信綱」は家臣の

 川越藩士

 「安松金右衛門」

 を設計技師に起用


 第1案

 「羽村地内尾作より

  五ノ神村懸り川崎村へ堀込み」

 第2案

 「羽村地内阿蘇官より渡込み」

 第3案

 「羽村前丸山裾より水を反させ

  今水神の社を祀れる処に堰入

  川縁通り堤築立」

 を立案

 ↓↑

 第3案で工事を再開

 高井戸まで掘ったところで

 資金切れ

 兄弟は

 畑や家を売って費用に充てた

 追加資金

 3000両

 着工約7カ月後

 1653年11月15日

 羽村・四谷大木戸間を開通

 1654年(承応三年)六月

 江戸市中への通水が開始

 ↓↑

 庄右衛門

 清右衛門

 功績により

 「玉川」姓を許され

 「玉川上水役」の

 「お役目」に命じられた

 ↓↑

 「安松金右衛門」

 については

 「三田村鳶魚(みたむら えんぎょ)」

 1870年4月17日(明治3年3月17日)

 ~

 1952年(昭和27年)5月14日)

        大運1946年6月(76歳)戊子正官

  庚┏午(丙 丁)印綬・偏官 絶⇔壬辰劫財

  庚 辰(乙癸戊)印綬・正官 養⇔乙巳食神

 ┏癸┗未(丁乙己)  ・偏官 墓⇔庚申印綬

 ┗戊┗午(丙 丁)正官・偏官 絶⇔壬午劫財

    空亡申酉 心宿      危宿

 ↓↑

   本名 万次郎・玄龍

     「江戸学」の祖

      三田村家は元、八王子千人同心

      天保期に商人

      機屋(織物買継商)

 の

 『安松金右衛門』に記録

 「三田村鳶魚」

 清戦争の従軍記者

 報知新聞記者

 江戸風俗や文化を研究

 「鳶魚・三村竹清・林若樹(林研海の子)」

 「江戸通の三大人」

 随筆家の

 「柴田宵曲」が

 「鳶魚」の

 口述筆記を担当

 (「デス・マス」調の著作は概ね口述筆記)

   出素 桝(舛・升・枡)

      ます=鱒・益・増・助・加

      万寿・満寿

      満州・萬素

 ↓↑

 研究著述

 江戸時代の随筆や聞き書きを史料とし

 その時代を論じる・・・

 ↓↑

 原文はスベテ

 by

  フリー百科事典

 『ウィキペディア(Wikipedia)』

 三田村 鳶魚(みたむら えんぎょ)・・・??? 見た叢 多寡 佐仮名

 サン  デン ソン ヱンギョ

 纂(簒)傳  蘇鵡 円 禦=ギョ=御(ゴ・おん)

     ギョ=漁=あさる

        圄=ひとや・牢屋・牢獄

          とらえる

          罪人を閉じこめる

        圉=ゴ・ギョ

          うまかい

          かう(飼う)

          ひとや

          ふせぐ(防ぐ・防禦)

          まきば(牧場)

          ひとや・牢屋・牢獄

          かう・牛や馬、鳥などを飼う

          馬飼い(うまかい)・馬を飼育する人

          ふせぐ・とどめる・禁止する

 ↓↑

 「限界集落株式会社・NHK・土曜ドラマ」  生きている限りヤルことはあるサッ・・・「小ブル社会」・・・  ・・・キャベツ・cabbage・球菜・・・「タマナ」・・・  起業、倒産の「バランスリスク」は・・・「流通市場の価格」・・・  「限界小ブル意識人間協同会社」・・・  ・・・「ミウラ」ですか・・・「氷点」・・・「憑点」・・・   ↓  三浦 綾子(みうら あやこ)  1922年(大正十一年)4月25日   ~  1999年(平成十一年)10月12日  日本の女性作家、小説家、エッセイスト  北海道旭川市出身  旧姓堀田  結核の闘病中に洗礼を受けた後、創作に専念  ・・・ぃやぁ~ッ・・・文献を調べて視るだけでも大変・・・  ・・・「みうら」さん・・・ ーーーーー   ↓  「ウイリアムアダムス」が  「徳川家康」と出会い(1600年)、  「三浦」一族の「氏姓」を得る以前的な流れは・・・?   ↓  家康とは何者・・・タヌキ・・・  幼名は「竹千代」   ↓↑  「得川(えがわ→とくがわ)」、  ・・・ナンで、「世良田(せらた・せらだ)」が出てくるんだか・・・?   ↓  松平 親氏(まつだいら ちかうじ)  室町時代初期の  三河国の武将  江戸時代に作成された系譜において  松平氏・徳川氏の始祖とされている人物  「松平氏由緒書」では名を  「信武」と記している  系譜  新田源氏  「世良田」氏の末裔  新田義重の四男  義季が  新田荘徳川に住して  得川(えがわ→とくがわ)を称した  義季の二男は  「頼氏」といい、・・・「頼山陽」に関係するんだか?  「世良田-弥四郎」と称し、  三河守となった  その二男を  次郎教氏、  その「教氏」の子が  「又+二郎+家時」、  家時の子が  「弥次郎-満義」である  満義のあとを  政義、親季、有親と継いで  有親の子が  「世良田親氏=松平三郎親氏=松平次郎三郎親氏」という   ↓↑  この系譜は徳川家康が  永禄九年(1566年)に  叙任奏請をする際、  世良田氏の系譜と  自らの系譜をつなげた・・・  (日本史学者、渡辺世祐の論証)  ・・・学界では家康によって粉飾された系譜・・・  家康の祖父  清康がすでに  世良田氏を称していて、家康はその影響を受けた・・・  親氏は関東(or信濃国の浪合村)で  鎌倉公方(or斯波氏)の軍勢に敗れ、  足利氏の追捕を避けるために  父の  有親とともに  相模国の  時宗総本山  清浄光寺に入って出家し、  徳阿弥(とくあみ)と称した  「乞食僧」、「一種の」・・・  しかし、清浄光寺での落髪が語られるようになるのは  「武徳大成記」成立後の  元禄期以降であることが、  煎本増夫により明らかにされており、  後世になってから作られたもの・・・  徳阿弥は部下の  石川孫三郎を従えて諸国を流浪し、  三河国  加茂郡  松平郷に流れ着き、  在原氏 or 賀茂氏の血筋を引く  同地の領主  松平信重(太郎左衛門少尉)の客人となった  信重は  徳阿弥の  和歌に通じた教養と武勇を評価して婿養子とした  徳阿弥は還俗して  松平三郎親氏(次郎三郎とも)と名乗った・・・  「松平氏由緒書」では  信重から先祖を尋ねられた親氏が、  「わたくしと申しますのは   東西を定めずに旅する   浪々の者でありまして、  恥ずかしく存じます」と返事をしたとする・・・素性不明  松平郷の領主となった  親氏は、  郷敷城を築き、  嫡子(兄弟説もある)とされる  泰親と協力して  「中山七名」と呼ばれる  近隣の領主たちを滅ぼし、勢力を拡大して  戦国大名松平氏の基礎を築いた・・・  しかし、「松平氏由緒書」の記述から、  実際には買得によって土地を獲得した・・・との説もある  親氏は  領内に菩提寺となる  高月院を初めとして多くの神社仏閣を建立  以上のような  親氏の出自と事歴については、  後世の松平氏・徳川氏の主張に拠っており、  傍証となる同時代史料は無い・・・  生没年  親氏は「松平氏由緒書」によれば、  急逝  地元の松平町(豊田市)の伝承では  明徳四年(1393年)頃に没した・・・  親氏の没年月日の伝承は  10通りある・・・  康安元年(1361年)4月20日  (「法蔵寺由緒」・「大樹寺記録」・「奥平家記録」)  応永元年(1394年)4月20日(『三河海東記』)  応永元年(1394年)4月24日(『高月院記』)  応永二十年(1413年)(「信光明寺縁起」)  応永二十一年(1414年)(「松平総系譜」)  応永二十八年(1421年)(「参陽松平御伝記」)  応永三十五年(1428年)(『東栄鑑・八)  永享九年(1437年)(「瀧村万松寺系図」「梁山妙昌寺位牌」)  康正二年(1456年)(『大三河志』)  応仁元年(1467年)4月20日(『徳川歴代記』)  生年には  永仁六年(1298年)説(「大樹寺記録」)  元弘二年/正慶元年(1332年)説(「高月院過去帳」)  など・・・  後に松平氏の重臣となる  酒井氏の系譜によると、  同氏の始祖広親は、  親氏が松平氏を  継ぐ以前に  三河国  碧海郡  酒井村の領主の婿となって生んだ子である・・・  この説に従えば  酒井氏は松平氏の同族・・・  他説  松平信重の長女が  坂井郷に嫁いだことによって生じたものであるとされる。  いずれにしても  松平、酒井両氏は縁戚にあたる・・・   ↓↑  「徳阿弥親氏」銘板碑  享和元(1801)年  境内の竹林から  徳川将軍家の先祖をさす  「世良田徳阿弥親氏、   応永一四年四月廿日」銘の板碑が発見されたが、  「応永十四年」を「応永一四年」と  記載することは  中世にはありえないことであるという。  島津氏によって自らの先祖と主張する  源頼朝の鎌倉の墳墓が整備されたり、  毛利氏によって  大江広元らの先祖の墓が整備された  19世紀初頭頃の状況と酷似しており、  先祖作りの創作の可能性が高いという  (現在は非公開)  ・・・??・・・   ↓↑  ・・・「太安万侶」の墓碑  1979年(昭和54年)1月23日  奈良県立橿原考古学研究所より、  奈良県奈良市  此瀬町の茶畑から  安万侶の墓が発見され  (北緯34度39分55.0秒東経135度54分25.0秒)、  火葬された骨や真珠が納められた  木櫃と墓誌が出土したと発表された。  墓誌の銘文は2行41字。  左京の四条四坊に居住したこと、  位階と勲等は従四位下勲五等だったこと、  養老7年7月6日に歿したことなど記載。  墓誌銘全文引用は以下の通り。   ↓↑  左亰四條  四坊  従四位下勲五等  太朝臣安萬侶  以  癸亥年七月六日  卒之  養老七年十二月十五日乙巳  ・・・コレも、あやしい・・・のでは・・・ ーーーーー   ↓↑  徳川氏は、  松平氏当主の徳川家康が創始した苗字で、  松平氏の伝承によると、  ルーツは三河国(愛知県)の  庄屋である  松平太郎左衛門信重に  婿養子に入った、  時宗の遊行僧と伝えられる  徳阿弥である  彼は  清和源氏系  河内源氏義国流  得川氏  (徳川氏、   世良田氏)・・・世良田(せらた、せらだ)           セリョウデン=芹生伝・施了傳  の末裔  浪人となり  大浜称名寺  で開かれた  連歌会での出会いが  信重の養子に入るきっかけと伝えられる  (父祖の地   上野国新田郡   徳川郷の   時宗寺院、   徳川満徳寺は   後に   縁切寺とされた)  還俗して  松平親氏と名のった   ↓  三河国に興った松平氏は、  松平清康のとき、世良田氏の後裔を称する。  清康の孫である  家康は、朝廷に働きかけて  世良田氏=得川氏=新田氏=清和源氏の  末裔であるとの公認を得ようと目論むが、  世良田氏ではなく、  世良田義季(得川義季)の末裔ではあるが、  藤原氏支流と自称する徳川氏として、  改姓の勅許を受けた  のちに系譜を改めて整理し  徳川氏は  世良田氏直系の  源姓で  得川氏を復活した氏族であるということにされ、  家康は征夷大将軍に就任した・・・ ーーーーー   ↓  三浦一族  宝治合戦(ほうじかっせん)  鎌倉幕府の内乱  執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立  宝治元年(1247年)6月5日  鎌倉での武力衝突  北条氏と  外戚  安達氏らによって  三浦一族とその与党が滅ぼされた  三浦氏の乱とも呼ばれる  経過を記述する史料は、  「吾妻鏡」のみ  三浦氏(みうらし)  平安時代の  相模国の武家  三浦党(みうらとう)とも呼ばれる  三浦氏は古代から  三浦半島に勢力を持った  在地豪族  相武国造の子孫の  太田部直氏で、  平姓  三浦氏は、  為通・為継・義継・義明・義澄・義村  の  6代に渡って一族を形成  平良文の曾孫である  平忠通(別説として忠光)の代に  初めて三浦の苗字を名乗った  浦為通は  前九年の役  源頼義から  相模国三浦の領地を与えらた・・・  実在を疑う説も・・・  安西氏・宮沢氏  為通の次男・為俊の息子である  為景は安西氏を称した  為俊の養子である  公俊は宮沢氏の祖   ↓  三浦為継  為継の三男・通継は平子氏を称し  周防三浦氏の祖となり、  四男・景継は  安西氏の養子となった   ↓  三浦義継  為継の子  三浦義継(1067年-1159年)は  相模国三浦郡を支配し、  三浦荘司また三浦介を称した  以降、三浦党は  相模の有力在庁官人として相模介  相模東半分と安房に勢力  嫡男は  三浦義明  次男の義行は  津久井氏と称した  三男の  為清は  蘆名氏を称し  孫の  石田為久は  木曾義仲を討ち取った  四男の  義実は  岡崎氏を称し、  その嫡子  佐奈田義忠は  石橋山の戦いで討ち死  次男の  義清は  土屋氏の養子   ↓  三浦義明  義継の嫡男  三浦義明(1092年-1180年)は  義澄とともに  1156年の  保元の乱  1160年の  平治の乱で  源義朝に従う。  平治の乱では義朝が敗れ、  三浦一族は、京都から落ち延び帰国  大番役の行き帰りに  源頼朝の配所を訪ね、源氏との繋がりを保った  義明は父にならい  三浦介と号し、三浦荘(神奈川県横須賀市)  の在庁官人を務める  治承四年(1180年)  頼朝の挙兵に応じて、三浦一族は挙兵  石橋山の戦いで頼朝敗戦の報せを聞き、  義明ら一族は引き返し、籠城戦、  義明は一族を  安房国に逃したあと、  衣笠城合戦で戦死(享年89)  義明の長男  義宗は杉本氏を称するが39歳で没  その息子  義盛は和田氏を称した  長男の義宗没後、  家督は次男の  義澄が継いだ  三男の  義久は  大多和氏を称した・・・?  四男の  義春は  多々良氏を称し、  その息子  家村は  佐久間氏を称した  五男の  義季は  長井氏を称した  六男の  義行は杜氏を称した  十男の  義連は  佐原氏を称したが、  宝治合戦で本家が滅んだ後は、  この家系が嫡流となった  また、  猪苗代氏、北田氏、藤倉氏、蘆名氏、新宮氏、加納氏等、  奥州で栄えた子孫もいる   ↓  三浦義澄(義澄流)  家督を継いだ  三浦義澄(1127年-1200年)は  矢部次郎とも荒次郎とも号した  義澄は  千葉常胤・上総広常・土肥実平らと共に  頼朝の宿老  一族である  和田義盛も侍所別当職  三浦氏は頼朝に従い  平氏追討・奥州合戦に参戦  頼朝の死後は  十三人の合議制のメンバー  和田義盛も入り、  三浦党は鎌倉幕府内で大きな権力を持った  その後、  北条氏により  和田義盛は  建暦三年(1213年)  和田合戦で滅ぼされた   ↓  三浦義村(義村流)  義澄の跡は長子の  三浦義村(?-1239年)が継いだ  義村の弟である  有綱・重澄は、それぞれ山口氏、大河戸氏を称した  義村は評定衆の宿老に就任   ↓  北条氏による滅亡  義村の子には  朝村、泰村、三浦長村、光村、三浦重村、家村、三浦資村、  三浦胤村(のち親鸞の弟子)、  三浦重時、三浦良賢らがいる  義村の長男である  朝村の末裔が  今川氏の家臣である  駿河三浦氏である・・・  次男は  三浦泰村(1184年-1247年)  四男は  三浦光村  泰村と光村は権力を持ち  北条氏を凌ぐほどになったため、  宝治元年(1247年)の宝治合戦で  北条氏と安達景盛らに滅亡させられた  『吾妻鏡』は三浦氏を貶める為に曲筆がなされた・・・  千葉胤綱が三浦義村の和田合戦での変節を  「三浦の犬は友を食らうぞ」と非難したという  『古今著聞集』のエピソードから、より口汚く  「狂犬(マッドドッグ)」と評された  三浦氏は鎌倉幕府内部において、  評定衆として枢要な地位についていたが、  その地位を『悪用』した  滅亡後  家村の末裔と言う  正次が江戸時代に時の  将軍  徳川家光に仕えて若年寄となり  下総矢作藩で大名に列し、  明次の代に  美作勝山藩に封じられ廃藩置県を迎えた   ↓  泰村の長男  景村は  若狭氏を、  次男である  景泰は  沼田氏を称した  三浦朝村の三男  三浦員村は  宝治合戦で惣領の泰村と共に自害したが、  員村の次男  三浦盛明は無事であり、  その子  三浦義継が  石井氏を称した  相模三浦氏による再興  三浦氏は傍流の  佐原氏の  三浦盛時により再興  盛時は宝治合戦前には既に  北条時頼に懐柔・・・  以降の三浦氏は御内人となって幕府内で活躍  盛時の子の  三浦頼盛は  北条時輔の遺子を捕縛して幕府に引き渡している  盛時によって再興された  佐原流三浦氏は  戦国大名の  相模三浦氏   ↓  三浦氏の本拠があった  横須賀市  衣笠の  衣笠商店街では「衣笠さくら祭り」で  三浦氏に扮したパレードを  毎年4月に見ることができる・・・?  北条氏により滅ぼされた後、三浦氏の落人は各地に散った  東北地方には地域の三浦姓の大本家として続く家が残っている  宮城県  本吉地方には、  伝承として、  三浦氏の落人たちが各地に散り散りになる時に約束したという、  「その地に三浦氏の者が住む目印として、   庭に   三浦氏のシンボルである   かやの木を植える」  という風習・・・  三浦氏の祭神である  三浦大明神を祀っている家もある・・・?   ↓  大多和(おおたわ)氏・・・?  桓武平氏三浦氏の一族  三浦義明の子大多和義久が、  領地(相模国三浦郡大多和村)の  名前を名字として称したのが始まり  義久の子  義成は  従兄の  和田義盛の乱には、  義盛に与せず北条氏について生き延び  宝治合戦で一族の  三浦泰村が謀反を起こしたときも、  北条時頼に従っている  1333年  義久の5代目の子孫の  大多和義勝(六左衛門尉義行)は  新田義貞の  鎌倉討伐に馳せ参じてその傘下に入り、  戦功

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 ・・・???・・・

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