コジキシャホン以前・・・有無=うむ=勌・倦・娩・膿
2022/3/21・月曜日・・・追加添文・・・
・・・護るべきモノは・・・
「存在の継続・連続継承」・・・乞食になっても存在追求の修行・・・?
「普通の生活」ってナニ・・・「存在の新陳代謝」・・・
「存在の新陳連鎖」・・・
「自己存在は他者存在の否定の否定」・・・「自己と他者」の相互の新陳代謝?
「自己存在の否定(戦死)」が「愛国者」だってか?
煽りオトコ
自己陶酔者=ナルシスト=narcist・・・ナルシスト・・・奈留詞素訳?
ハゲのジィヂィのナルシストが、プーチンだってか・・・?
鬱陶しいヤツだな
↓↑
陶=阝+匋
阝+勹+缶
トウ・ヨウ
すえ・すえもの・やきもの
やきものを焼く
みちびく・教化する。
よろこぶ・たのしむ・心地よい
うれえる・心をふさぐ
くつろぐ・やわらぎ楽しむ
↓↑
「皐陶(コウヨウ)」
「帝舜(シュン)の臣
法の原理を研究
法律をつくり刑を制定
刑務所を設け
司寇(シコウ=獄官の長)となった
別名 「咎陶(コウトウ)」
「皋繇・咎繇」
「顓頊」の子
「皋」は「皐」の字の本字
繇=䍃+系
爫+缶+丿+糸
爫+缶+丿+幺+小
ユウ
チュウ
ユウ
ヨウ
よる・より・付き従う
みち・道理
茂る・草木が生い茂る
揺れ動く
うた・歌謡
占いのコトバ・・・ことば?
䍃=爫+缶
土器の名・もたい・かめ(甕・瓶)
司法の官吏(司空・司寇)
どのような事件に対しても
公平な裁決につとめた・・・基準はナニ?
正しい者を判別して示すという霊獣
「獬豸(カイチ)」を使った・・・
司法官のかぶる帽子を
「獬豸冠(カイチカン)」と称した由来・・・
豸=むじな・むじなへん
ジ・タイ・ダイ・チ
ながむし・はいむし
足のない虫の総称
解ける・ゆるめる
「解豸(カイチ)」=神獣
日本で
「皋陶」の像が神像とし祀られていた
何の像か分からなくなってしまい
「閻魔」像として扱われてしまった・・・
↓↑
薫陶(クントウ)=徳によって人を感化
作陶(サクトウ)=芸術品としての陶器を造作
陶画(トウガ)=陶器に描いた絵画
陶器(トウキ)=吸水性のある粘土質の素地(きじ)に
釉薬(うわぐすり)を施した焼き物
磁器にくらべてやわらかく
非透光性
陶酔(トウスイ)=酒に気持ちよく酔うこと
陶製(トウセイ)=焼き物それ自体
↓↑
瓦鶏陶犬(ガケイトウケン)
格好だけで実際に役に立たないこと
素焼きの鶏と陶製の犬のこと
作ったものでは家を守ったり
夜明けを告げたりなどの
役目を果たすことができないこと
陶犬瓦鶏
↓↑
自己陶酔(ジコトウスイ)
自分自身の言葉や考えなどに
自分自身が酔いしれること
「陶酔」=心地よい気分に浸ること・・・鬱陶しい
↓↑
陶朱猗頓(トウシュイトン)
膨大な財産・大富豪のこと
「陶朱」=春秋時代の越の王
「勾践」に仕えた
「范蠡」の別名
「猗頓」=春秋時代の大金持ち
巨万富豪
「范蠡」に
資産家の教えを受けた
「猗頓」は
牛や羊を飼い
塩を作って富を築き
金持ちといえば
「猗頓」と人々に言われた
↓↑
陶潜帰去(トウセンキキョ)
厭世家の
「陶潜」は、官職を辞めて故郷へ帰った
「陶潜」は東晋の人で、自然を愛した詩人
県の長官になったが
巡察に訪れた役人に頭を下げることを嫌い
官職を辞めて故郷へ帰って
「帰去来辞」という詩を作った
↓↑
「プーチン」、お前の存在は・・・「芸術家?」の・・・「皇帝ネロ」以下・・・
「プーチン」、「ハエ(蝿・蠅)」にアヤマレ・・・
「蝿伊呂泥(ハエイロネ)」=「蝿伊呂泥(ハエイロネ)」
「意富 夜麻登 久邇阿札 比売
(オホ ヤマト クニアレ ヒメ)」
も、オヌシの言辞と仕業にご立腹だぞ・・・
↓↑
・・・生活基盤の喪失・・・
生産手段の喪失・・・
生産関係の喪失・・・
労働手段の喪失・・・
生産物交換市場の喪失
生命手段の喪失・・・
生命存在場の喪失・・・
地球崩壊・・・
オレの認識出来ない地球に意味がナイ
認識主体のオレがイナイ宇宙に意味がナイ
破壊者、崩壊者
プーチンの存在抹殺は
地球生命体に意味がある・・・?
↓↑
↓↑
・・・コジキ「原本・元本・元品・源本」のネンダイ・・・ 712年3月9日(和銅五年一月二十八日) 和銅五年一月二十八日 712年3月13日g 712年3月09日y ↓↑ 壬┏子(壬 癸)正官・正官 絶 癸┏卯(甲 乙)偏官・印綬 病 丁┗酉(庚 辛) ・正財長生 丙┗午(丙 丁)劫財・劫財建禄 辰巳空亡 「古事記」完成、元明天皇に献上
↓↑ 『古事記』最古の写本 「伊勢本系統」の 南朝 建徳二年(1371年)~文中元年(1372年) 北朝 応安四年(1371年)~応安五年(1372年) 真福寺の僧 「賢瑜」によって写された 「真福寺本『古事記』三帖」 奥書 祖本の 上・下巻 「大中臣 定世」本 中巻 「藤原 通雅」本 ↓↑ 「大中臣 定世」の「古事記」 ・・・大中臣 定世 一 人 中心 宀疋七廿? 位置の日都は中津、定めの世(丗)? ↓↑ 大中臣 定世 ?~1297・・・1297-712=585 1372-1297=75 父 伊勢神宮祭主 岩出 隆世・・・磐の出の隆の世・・・? ↓↑ 大 中臣 氏(おほ なかとみ うじ) 中臣 鎌足が 藤原姓を賜った後 その子 藤原 不比等 が幼かったため 鎌足の 甥で婿養子 「中臣 意美麻呂」 が藤原氏を継ぎ 後 藤原 不比等に 文武天皇の勅が下り 藤原姓は 鎌足の嫡男 不比等とその子孫のみとし 他の者は 中臣氏に復するように命じた 意美麻呂も中臣姓に戻った 不比等の後押しで中納言に昇進 意美麻呂の息子の ↓↑ 「中臣 清麻呂」 大宝二年 (702年) ~ 延暦七年七月二十八日 (788年9月6日) ↓↑ ↓↑ ↓↑ ・・・・同名に「和気 清麻呂」・・・? 天平五年 (733年) ~ 延暦十八年二月二十一日 (799年4月4日) 「和気清麻呂」の先祖 和気氏は 第十一代 垂仁天皇の第五皇子 「鐸石別命」が祖・・・鐸 石別命 金睾石捌見事? ↓↑ 「中臣 清麻呂」 は 天平宝字八年(764年) 「藤原 仲麻呂(恵美押勝)の乱」 孝謙上皇に就いて昇進 神護景雲三年(769年)六月 「大中臣 朝臣」を賜姓 「大中臣 朝臣 清麻呂」 正二位、右大臣 後 「三門(『中臣氏系図』)」 平安時代 これらの家々に対しても 「大中臣」氏の名乗りが許された ↓↑ 大中臣氏 「清麻呂」の系統・・・和 気⇔大中臣? ↓↑ ↓↑ 清麻呂⇔清麻呂? 神祇伯 伊勢祭主 を世襲 平安時代 「大中臣 能宣」とその子 「大中臣 輔親」その孫 「伊勢大輔」 は歌人 ↓↑ 平安時代中期 「中臣 逸志」 を最後に 中臣氏(大中臣氏)の 神祇伯は消滅し 「白川」家が 神祇伯を世襲 嫡流子孫は 江戸時代に 「藤波家」を称する ↓↑ 大 中 臣 清麻呂 (おほなかとみ の きよまろ) 公卿・歌人 名 清万呂・浄万呂 姓 中臣 朝臣 大中臣 朝臣 中納言 中臣 意美麻呂の七男 官位は正二位・右大臣 ↓↑ 三河掾・式部大丞・神祇大祐・神祇少副 などを経 天平十五年(743年) 従五位下・神祇大副 ↓↑ 聖武朝末 天平十九年(747年) 尾張守 孝謙朝 天平勝宝三年(751年) 従五位上 天平勝宝六年(754年) 神祇大副に還任 左中弁 ↓↑ 天平勝宝九歳(757年) 正五位下 天平宝字三年(759年) 正五位上 「藤原 仲麻呂(恵美押勝)」 政権下で昇進 天平宝字六年(762年)正月 従四位下 十二月 仲麻呂の子 訓儒麻呂・朝狩・・・訓儒⇔儒教の訓(よみ)? と共に参議 八月 葉の知の解通? 藤原 訓儒麻呂・・・儒の教のマルの訓(よみ)? 上道 正道 らと共に 中宮院で 淳仁天皇の勅旨の宣布・伝達 天平宝字七年(763年) 左大弁 摂津大夫 天平宝字八年(764年)正月 従四位上 ↓↑ 九月 「藤原 仲麻呂(恵美押勝)の乱」 孝謙上皇側について 正四位下に昇叙 ↓↑ 天平神護元年(765年) 勲四等 称徳天皇 重祚後 大嘗会に神祇伯 従三位 ↓↑ 称徳朝~光仁朝 神護景雲二年(768年) 中納言 神護景雲四年(770年) 正三位 大納言 ↓↑ 宝亀二年(771年) 左大臣・藤原永手の薨去 右大臣・吉備真備の致仕 従二位 右大臣に叙任 ↓↑ 宝亀十一年(780年)末 太政官首班 ↓↑ 宝亀二年(771年) 皇太子 他戸親王の東宮傅 宝亀三年(772年) 他戸親王が廃皇太子 東宮傅を免官 宝亀四年(773年) 山部親王(桓武天皇) 立太子し 東宮傅に還任 神護景雲三年(769年) 中臣朝臣 から 大中臣朝臣姓 に改姓 ↓↑ 宝亀三年(772年) 正二位 天応元年(781年) 桓武天皇の即位後 致仕 延暦七年(788年)七月二十八日 薨去・享年87 前右大臣正二位 文武朝~桓武朝 の九朝に亘って生き 聖武朝~桓武朝 の六朝に仕えた 『万葉集』に五首採録 ↓↑ 父 中臣 意美麻呂 母 多治比 阿伎良(多治比嶋の娘) ↓↑ 妻 多治比 子姉(乙奈子) 従二位・尚侍 四男 大中臣 諸魚(743~797) ↓↑ 生母不明子女 長男 大中臣 宿奈麻呂 次男 大中臣 子老(?~789) 三男 大中臣 継麻呂 五男 大中臣 老人 六男 大中臣 今麻呂 女子 藤原 瀧麻呂室 ーー↓↑ーー 中 臣 意美麻呂 (なかとみ の おみまろ) 臣万呂=臣萬呂 臣麻呂 とも書く 大錦上 中臣 国足の子 氏姓 中臣朝臣 藤原朝臣 中臣朝臣に復姓 官位 正四位上・中納言 ↓↑ 朱鳥元年(686年) 大舎人 「大津皇子の謀反」に加担 捕らえられるが 罰されることなく赦され 持統天皇三年(689年) 藤原不比等 らと共に 刑部省 判事に任ぜられた (冠位は務大肆) 持統天皇七年(693年) 冠位 四十八階の十六位 ・・・敢為肆拾捌甲斐の壱拾陸意? 「直広肆(ぢきくわうし・チョクコウシ?)」 ↓ ↑ 肆=長+聿 シ ほしいまま・かってきまま 肆意・放肆 類 恣(シ) つらねる・ならべる みせ・品物をならべて売る店 「書肆」 数詞の「四」の代用字 ↓↑ 文武天皇二年(698年) 藤原 鎌足に与えた 藤原朝臣姓は 鎌足の子である 不比等のみに継承詔勅 「意美麻呂」 は中臣氏の世業である祭祀を掌っているとし 藤原朝臣から 中臣朝臣姓に戻され 文武天皇三年(699年) 初の「鋳銭司」長官 ・・・鋳銭司=ジュセンシ=受洗司? 大宝元年(701年) 正五位下 慶雲二年(705年) 従四位上・左大弁 元明朝 和銅元年(708年)・・・禾口金同本念? 正四位下 中納言 兼 神祇伯 和銅四年(711年)四月・・・七壱拾壱念? 正四位上 閏六月二十二日 卒去 中納言正四位上 兼 神祇伯 ↓↑ 『出雲国風土記』の記録、神官の 猪麻呂(いのまろ)が 意美麻呂(いみまろ) と同一人物・・・説? ↓↑ 官歴 『六国史』 朱鳥元年(686年)十月二日 見大舎人 和銅元年(708年)三月十三日 中納言兼神祇伯 和銅四年(711年)四月七日 正四位上 ↓↑ 「意美麻呂」の 系譜 「中臣氏系図・『群書類従』巻第62所収」 父 中臣 国足 母 不詳 妻 藤原 斗売娘=藤原鎌足の娘 男子 中臣 東人 中臣 安比等 妻 紀 奈賀岐娘=紀 大人の娘 ↓↑ 紀 麻呂の妹 ↓↑ ・・・紀 貫之(紀望行の子) 貞観八年 (866年) or 貞観十四年 (872年)頃? ~ 天慶八年五月十八日 (945年6月30日)? 「阿古久曽(幼名)~貫之」 あこくそ? ↓↑ 男子 中臣 広見 ↓↑ 妻 異妹 東子 男子 中臣 長人 中臣 豊人 中臣 豊足 ↓↑ 妻 多治比 阿岐良・多治比 嶋の娘 男子 大中臣 清麻呂(702~788) 生母不明 男子 中臣 泰麻呂 ーー↓↑ーー 和気 清麻呂 (わけ の きよまろ) 奈良時代末期~平安時代初期の貴族 ↓↑ 磐梨別 乎麻呂・・・をまろ? (平麻呂)・・たいらまろ? の子 ↓↑ 生誕 天平五年(733年) 死没 延暦十八年二月二十一日 (799年4月4日) 改名 穢麻呂(処罰に伴う改名) 別名 濂麻呂 神号 護王大明神 墓所 護王神社 官位 従三位・民部卿 贈正一位 主君 称徳天皇→光仁天皇→桓武天皇 ↓↑ 氏族 磐梨別氏(磐梨別公) →藤野(輔治能)氏(藤野真人) →和気氏(和気宿禰、和気朝臣) 父 磐梨 別 乎麻呂(平麻呂) をまろ たいらまろ・・・? 兄弟 広虫(姉) 清麻呂 妻 和気 嗣子 子 広世(長男) 達男 磐梨 為綱(妙運) 真綱(783~846) 仲世(784~852) 藤原 葛野麻呂 室、ほか ↓↑ 備前国 藤野郡(岡山県和気町)出身 天平宝字八年(764年) 「藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱」 孝謙上皇側に参加 天平神護元年(765年) 正月 功労で勲六等の叙勲 三月 藤野別 真人 から 吉備 藤野 和気 真人 に改姓 右兵衛少尉 天平神護二年(766年) 従五位下 近衛将監 ↓↑ 神護景雲三年(769年)七月 宇佐八幡宮の神官 大宰府の主神(かんづかさ) 中臣 習宜 阿曾麻呂が 宇佐八幡神の神託として 称徳天皇の寵愛していた 道鏡を皇位に就かせれば 天下太平になる、と奏上 ↓↑ 称徳天皇は 神託を確認するため 側近の尼僧 和気広虫(法均尼) を召そうとしたが 法均では長旅は堪えられないため 弟の 清麻呂を召して 宇佐八幡宮へ赴き 神託を確認するように勅した ↓↑ 清麻呂が宣命を読もうとした時 神が禰宜の 「辛 嶋 勝 与曽女 (からしまのすぐりよそめ)」 に託宣、宣命を聞くことを拒む 清麻呂は 与曽女とともに 大神の神託 「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ 無道の人(道鏡)は 宜しく早く掃い除くべし」 を朝廷に持ち帰り、称徳天皇へ報告 称徳天皇は怒り 清麻呂 を因幡員外介に左遷 「別 部 穢 麻呂 (わけべ の きたなまろ)」 と改名させ 大隅国へ流罪 ↓↑ 神護景雲四年(770年) 八月 称徳天皇崩御 道鏡失脚 九月 清麻呂は 大隅国から入京を許され 宝亀二年(771年)三月 従五位下に復位 九月 播磨員外介に次いで 豊前守に任ぜられた 祖先四名と 清麻呂を 美作 備前 両国の国造 とする詔が出された ↓↑ 延暦七年(788年) 備前国 和気郡 吉井川の西側の人民から 人民の居住地と藤野郷にある 同郡の役所の間に 大きな吉井川があるため 雨で増水が発生するたびに 公務が果たせなくなるとの訴えがあった 河の西側を 磐梨郡 として独立させて新役所を設置 水難を避けるとともに 人民の負担に 不公平がないよう 和気郡 藤野郷にある駅家を川の西側に移転 ↓↑ 延暦十八年(800年) 備前国にあった 私墾田100町を 子息の 広世 が賑給田として寄進 ↓↑ 天応元年(781年) 桓武天皇即位 四階昇進し 従四位下 延暦二年(783年) 摂津大夫 延暦三年(784年) 従四位上 ↓↑ 延暦四年(785年) 神崎川と淀川を直結させる工事 大阪湾から長岡京方面への物流路を確保 延暦七年(788年) 大和川を大阪湾に直接流入させ 水害を防ぐことを目的に のべ23万人を動員 上町台地の開削工事を行ったが 費用が嵩んで失敗 摂津大夫を務め 民部大輔 民部卿 を務め 民部大輔 菅野真道 とともに民政の刷新 『民部省例』20巻を編纂 延暦七年(788年) 中宮大夫 皇太夫人系譜」 を編纂 『和氏譜』 として撰上 延暦三年(784年) 長岡京に見切り 山背国 葛野郡 宇太村 を選んで 平安京への遷都を進言 延暦十二年(793年) 造宮大夫 延暦九年(790年) 正四位下 延暦十五年(796年) 従三位 延暦十八年(799年)二月二十一日 薨去・享年67 従三位 行民部卿 兼 造宮大夫 美作備前国造 即日 正三位の位階を贈 ーー↓↑ーー ・・・混乱・混符諭得事・・・???・・・ ーー↓↑ーー 「応神天皇の条」 渡来漢人系 阿知使主 を氏祖とする 帰化系氏族集団 東漢氏=集団の総称 「応神天皇二十年九月の条」 「倭漢直の祖の 阿智使主 其の子の 都加使主は 己の 党類十七県の人々を率いて来帰」 『続日本紀・延暦四年(785年)六月条』 「阿智王は 七姓(朱・李・多・皀郭・皀・段・高の漢人) と共に渡来 『古事記(応神天皇)』応 「秦造の祖、漢直の祖、が渡来」 ↓↑ 漢氏 東漢氏・西漢氏 漢氏 (あやうじ) 東漢氏(倭漢氏、やまとのあや) 西漢氏(河内漢氏、かわちのあやうじ)=王仁後裔 今来漢人(新漢人・いまきのあやひと) 阿知使主末裔の漢氏 飛鳥に近い檜隈を拠点 大和に居住する漢氏は 東漢氏(東文氏)となり 河内に本拠を持っていた漢氏は 西漢氏(西文氏・西書氏)となった 織物工芸に長け 両氏とも 「漢」と書いて 「アヤ」と読む ↓↑ 東漢氏 後漢帝国に由来 霊帝の末裔・・・ 『続日本紀・延暦四年(785年)六月条』 「神牛の導き」で 中国漢末の戦乱から逃れ 帯方郡へ移住 聖王が日本にいると聞いて渡来・・・ ↓↑ 百済から 五経博士「漢高安茂」 という人が派遣され それ以前に派遣されていた博士 「段楊爾」と替えたいと 百済が申し出・・・ ↓↑ 東漢氏 先来の秦氏と同じく 漢土由来の 製鉄技術をもたらした 土木建築技術 織物技術者 が居た 東漢氏の一族 東文氏 7世紀~8世紀頃 内蔵省・大蔵省などの官人に就く ↓↑ 東漢氏 軍事力 蘇我氏の門衛や宮廷の警護などを担当 『肥前国風土記』 602年 新羅征討計画の際 兵器製作を担当 崇峻天皇暗殺 東漢氏の 東漢駒(東漢直駒)が暗殺実行 壬申の乱の際 蘇我氏と袂(たもと)を分ち 奈良時代以降 武人 平安時代初期には 蝦夷征討で活躍した 坂上苅田麻呂 田村麻呂 親子が登場 ↓↑ 阿智使主の直系の子孫 天武天皇より 「忌寸」の姓を賜り 他の氏族とは姓で区別 ↓↑ 「掬」の代に 「東漢直」姓を賜った ↓↑ 東漢氏 坂上氏 書(ふみ)氏(文氏) 民氏 池辺氏 荒田井氏 などの 直姓氏族に分かれ 「八色の姓」で 「忌寸」姓に改められた 8世紀~9世紀 坂上氏が台頭 宿禰・大宿禰 を賜った ↓↑ 坂上氏 東漢氏の宗家 坂上直姓初代 坂上直志拏の兄 東漢直山木 曾孫 東漢駒が 蘇我馬子の指図で 崇峻天皇暗殺 天皇の妃 河上娘と不倫関係で 東漢氏の宗家は没落 東漢氏の宗家は次男の 志拏の系統 家坂上氏 にもたらされた・・・ ↓↑ 東漢直駒は 坂上氏初代とされる 志拏の子で 坂上宿禰田村麻呂の直系の先祖 坂上直駒子に比定・・・説 坂上氏が蘇我氏と袂を分かった理由 坂上駒子を 蘇我馬子が口封じに殺害したため 坂上氏が蘇我氏に対して恨んだから・・・ ↓↑ 坂上氏 東漢氏の宗家ではなく 東漢氏は末弟の 「東漢直 爾波伎」が継ぎ 東漢直角古 東漢直久爾 東漢直福因 と続き 東漢直福因(倭漢直福因)は 608年 小野妹子の遣隋使の際に 留学生として同行 623年 帰国 「唐国に留まる学者は 皆学びて成業したので 帰国せしむるべきであり 大唐国は 法式備わり定れる国であるゆえ 常に通交すべきである」 と朝廷に奏上 ↓↑ 坂上氏のほかに 東漢氏から出た諸氏には 平田氏、内蔵氏、大蔵氏 丹波氏、調氏、文部氏 谷氏、佐太氏、井上氏 などがある・・・ ーーーーー ・・・ 桓武天皇の前で 藤原緒嗣・・・糸(いと)の者(もの)を嗣ぐ? (ふじわら の おつぐ・号=山本大臣) 纂本の大尽・意富? 緒保頓? との間で 「徳政相論」 ↓↑ 大同元年(806年)・・・大の同の元の年? 平城天皇即位 正四位上 大同二年(807年)・・・題(多・他・田・足・太)は同? 観察使 制度の設立・・・観察の詞? 山陰道 観察使・・・・・纂隱同 観察の詞? 大同四年(809年) 従三位 東海道 観察使 ↓↑ 嵯峨朝 弘仁二年(811年) 参議を致仕 弘仁五年(814年)六月二十九日 薨去・享年74 常陸守・従三位 ↓↑ 藤原 継縄 秋篠 安人 と『続日本紀』の編纂 延暦十六年(797年) 全四十巻完成 桓武天皇の命で 藤原 内麻呂 と共に「格式」の編纂を進めた・・・書く私記? ↓↑ 平城天皇時代 地方政治の再建 参議 藤原 園人と 観察使制度を設置 地方政治の運営を 中央政府の高官が 直接監視する新制度を導入 大同二年(807年) 参議の官職自体を廃止し 参議クラスの高官達を 観察使専任 ↓↑ 大同三年(808年) 藤原 緒嗣は 中納言 坂上 田村麻呂・・・坂上=百済系帰化人 の後任とし 陸奥 出羽 按察使を兼務 「蝦夷平定に反対」した前歴があり 3度に亘って辞表を提出したが 辞意が認められることはなく 大同四年(809年) 現地に赴いた 在任中一度も軍隊を動かす事はなく 現地役人や兵士・民衆の 保護政策に専念・・・? ↓↑ 嵯峨朝 一年半後 参議 文室 綿麻呂に 陸奥 出羽 按察使 の職を譲って都に戻る 平城天皇の譲位 「薬子の変」・・・810年(大同五年) 平城上皇と嵯峨天皇とが対立 緒嗣の従兄弟・故藤原種継の子 「尚侍・薬子」・・・「薬子の変」はあったのか? ・・・「尚侍(ないしのかみ・ショウジ) 律令制における官職 内侍司の長官(かみ)を務めた女官の官名 「尚侍=なおじ=直字・・・直す字? 薬子=やくし=譯詞」・・訳す字? 平城上皇の愛妾であった 「薬子」 と兄の 「参議・藤原仲成」 の兄妹が事件の首謀者として殺された・・・ 「大同五年(810年)九月十一日」の夜 ・・・大同語粘(810年=捌百拾撚)句解通拾壱比? 「藤原仲成」は「死刑」として射殺された・・・? 以後、死刑は「保元の亂(1156年)」まで、 346年間一件も無かった・・・? ↓↑ 緒嗣の 藤原 式家の政治的地位低下で 観察使制度が廃止 参議復活 藤原 緒嗣は参議に復帰 藤原 緒嗣の改革政策は挫折 ↓↑ 一歳年下の 藤原北家の 藤原冬嗣が 新設された 蔵人頭に任命され 政治の中枢に立ち 弘仁五年(814年) 従三位に昇進 官位で 藤原 緒嗣を抜き 北家が台頭 ↓↑ 弘仁八年(817年) 中納言 ↓↑ 弘仁十二年(821年) 大納言 弘仁九年(818年) 右大臣・藤原 園人 中納言・藤原 葛野麻呂 の死去により 太政官において首班である 藤原 冬嗣に次ぐ地位 ↓↑ 『新撰姓氏録』・・・姓氏の記録? 『日本後紀』・・・・似本所記の後期? の編纂事業に参画 ↓↑ 往来通過で住民を煩わせる 「渤海」使者の制限を提案 ・・・渤海=「満州=燕国=高麗」地域・・・ ↓↑ 弘仁十四年(823年) 甥(姉・旅子の子)の 大伴親王が即位(淳和天皇) ↓↑ 天長二年(825年) 右大臣 天長三年(826年) 藤原 冬嗣 死亡 藤原 緒嗣は 淳和天皇を助けて政治の中枢に立つ ↓↑ 嵯峨朝~仁明朝 「崇文の治」 安定治世の期間 嵯峨天皇が 自らの皇子 正良親王(仁明天皇) に譲位せず 弟の 大伴親王(淳和天皇)に譲位し 両親王派の派閥を生む ↓↑ 承和九年(842年) 「承和の変」 中納言 藤原吉野(緒嗣の従兄弟の子) が流刑 承和十年(843年) 正二位・左大臣の官に就いて 病死・享年70 従一位贈呈 ーーーーー ・・・???・・・
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