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シラナイこと・・・わんさか・・・

2022/4/16・土曜日・・・追加添文・・・

 ・・・みんなが知っていることをボクは知らない・・・当然であるけれど・・・「東京砂漠」・・・「東京捌く」、「東京裁く」、「勤皇佐幕」・・・なるほどネッ・・・ミンナが知らなくてダレかが知っている「秘密」・・・「阿毎王朝」は秘密にされた・・・アベちゃん・・・  タケシのTV番組・・・それにしても「年金」は兎に角、「生活保護費支給」・・・寒空の路頭で生活するよりはトリアエズは、「衣食住」が確保されるならば「ホームレス」よりも「生活保護費」をピンハネされても「ギュウギュウ詰めでタコ部屋の暖かい空間」でイノチを長らえることが出来るだろう・・・昔の強制労働のタコ部屋とは異なるのである・・・家賃五万円、食事代七万円の「生活保護費のピンハネ」の「価格」は各々の搾取される側の「価値観」である。情況によっては「パン一個の値段が10万円」でも食えればアリガタイのは「その時の人間の心情」である。ピンハネ屋は「生活保護不案内の手続きをしてくれるアリガタイ人間」なのだ・・・その日の「一ショク一パン」と「住む場所」を確保してくれる「オン」がある人物なのだ・・・役にも立たない一個100万円の「ダイヤモンド・金の塊り」をカエル人間の「価値観」と同じである・・・カネの有る奴は「ガラクタ」にも「キャバレーの一パイの酒」にも100万を払ってもイイと言う「価値観」で生きているのだ。モチロン、情況によっては「タケダ」でも一個100万のパンも買って喰うだろう・・・「価値観のレベル」は「エンゲル係数」が基準のメモリである・・・「アベ」が目指しているのは「デフレ解消」ではなく、「食糧インフレ」である・・・  以下はブログ記事とウイッキペデアを下敷きにして貼り付けて少々改作したもの・・・ダケれども・・・ ーーーーー  渤  ボチ・ホツ・水がわきたつ・・・渤海  溟渤(メイボツ)=果てしなく広い海・大海  渤泛涌   泛=うかべる(浮かべる・泛かべる)     浮かぶようにする・浮かばせる     外面に表す・表面に表し出す     思い起こす・意識に上らせる ーー  真渤特別区(シンボク-トクベツク)          ・・・特別 矩、苦、口、玖、句?  「汪兆銘」の政権  華北政務委員会により設置された  河北省の特別区 ーー  渤渤海楽  天平勝宝元年(七四九)十二月丁亥(二七日)条  奈良時代から平安初期にかけて  日本に伝来した渤海国の楽舞  平安時代以降は  右方(うほう)高麗(こま)楽に編入された  「綾切(あやきり)」  「新靺鞨(しんまか)」  「古鳥蘇(ことりそ)」などの曲 ーー  渤龍・・・上京竜泉府      (黒竜江省       牡丹江市       寧安市       渤海鎮東京城)       龍州・湖州・渤州を管轄       龍(竜)州に府治が設けられた ーー  渤公島・・・無錫(ムシャク)市、        江蘇省南部の都市に存在する        无锡市=無錫市(Wuxi)        「錫(すず)が無(ない)」・・・?        昔は        「有錫」と呼ばれたが        採掘され尽くされて        「無錫」となった・・・?        無錫市域の南部には        太湖が広がり、小さな河川が無数に流れる        江南の水郷        太湖の水産物が豊富で、古来       「魚米の郷」と呼ばれていた・・・ ーー  古代信渤の文字・・・底部外面に「代」という            文字が2箇所記された土器            山形県            飽海郡平田町の            山海窯遺跡から出土            則天文字「 青」 (正)が             1点出土した・・・? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%87%E5%A4%A9%E6%96%87%E5%AD%97 ーー  渤泥(ブルネイ)=文莱  1521年  マゼラン艦隊は・・・墨瓦蘭(マゼラン)  ブルネイ湾内に・・・文莱蘇丹(ブルネイ・ダルサラーム)  2万5千戸の  水上家屋ありと記録  渤騎=将軍の号  渤=氵+孛+力      孛=十+冖+子(孑)      孛=一+宀+一+了  類字「勃(ボツ・おこる)」の借用  「悖」=ハイ・もとる・道理に外れる      悖徳・悖反・悖理・悖戻・狂悖      「背」を代用字とするコトがある  「孛(ハイ)」=彗星・・・バイ・ボチ・ハイ・ホツ    説文解字・ 巻六(段注本)    「彗星の色=孛なり」    「論語・郷党」から「色、孛如なり」    「ほうき星・箒星・帚星」・・・ ー   ↓     帚木(ははきぎ・ホウキギ)     信濃国     園原伏屋にある木     遠くから見れば箒を立てたように見えるが、     近寄ると見えなくなるという伝説の木    「源氏物語・五十四帖・巻名」    「桐壺」に続く第二帖     光源氏と     空蝉が交わした和歌    「帚木の心をしらで     その原の道に     あやなくまどひぬるかな」    「数ならぬ伏屋に生ふる     名のうさにあるにも     あらず消ゆる帚木」  マルコ ポーロ・・・馬哥孛羅・瑪爾哥波羅  「溟渤(メイボツ)・漰渤(ホウボツ)」  「渤耳匿阿(ボルネオ)」  「勃」=ボツ      物事が急に起こる      勃起・勃興・勃然・勃発      盛んにわき起こるさま      勃勃・鬱勃(ウツボツ)  「勃牙利(ブルガリア)」・・・・ヨーグルト   Bulgaria・布加利亞・保加利亞・勃牙利  「牛溲馬渤(ギュウシュウバボツ)」   ウシの洩らす小便、ウマの排便(大便)   溲=シュウ・シュ・ソウ       ひたす・そそぐ・ゆばり・いばり       細長く水をたらしてぬらす・小便   つまらないものや、役に立たない無用なもののたとえ   「牛溲」は牛の小便、馬勃」は馬のくそ(糞)   「牛溲」は下等な薬草のおおばこ・利尿作用がある    「叟」は長老の意    「馬勃」は腐った木などに生える茸の類       ほこりだけ(ホコリ茸・誇り岳)             嶽・他家・竹・武       嶽は「岳(嶽)父」=妻の父・舅・岳翁          ガクフ=楽譜・学府        「牛糞馬涎(ギュウフンバエン)は類語  「混淪鬱渤(コンリンウツボツ」  「混淪」が物体の液状に混ざった存在様態  「鬱渤(勃)」が時間の切迫している様子?      内にこもっていた意気が高まって      外にあふれ出ようとするさま      鬱積を吐き出す寸前      こもった気が盛んに出るさま  「深於溟渤(大海)」・・・吾妻鏡  「古事記・日本書紀」の「須佐之男」の場面  「溟渤以之鼓盪、山岳爲之鳴?、   此則神性、雄使之然也」   ↓

 「李渤」   773年~831年   字は濬之   号は白鹿先生・排行十   殿中侍御史   李钧之の子   洛陽の人   兄と   廬山に隠棲して   白鹿を飼っていた   唐の   穆宗の・・・穆(やわらぐ・ボク・モク)   考功員外郎   元和十五年(820年)   十一月   定京考官   曾、上書言   宰臣   肖免等平庸誤國   其   性情   粗放、・・・・・・「須佐之男」?   令權臣所顧忌。   後に虔州刺史   長慶元年(821年)   調任、江州刺史 ーー↓  渤海  韓国で使用される通称・・・?  渤海国の  建国  粟末靺鞨と・・・アワの末のマッカツ?  高句麗遺民  建国者  大祚栄・・・・・祚(さいわい・ソ・ゾ)  「旧唐書・新唐書」 ーー  「旧唐書」  大祚栄を  高句麗の別種  (渤海靺鞨大祚榮者 本高麗別種也   渤海靺鞨の大祚榮、本は高麗の別種なり)  風俗  高句麗、契丹と同じ  高句麗から派生した種族・・・ ーー  「新唐書」  高句麗の支配下にあった  粟末靺鞨  (渤海 本粟末靺鞨附高麗者 姓大氏   渤海、それ粟末靺鞨にして   高麗に附く者たり。   姓は   大氏) ーー  言語  新羅と、  高句麗・渤海とでは  言語的に隔たり  日本史学界  渤海はツングース民族  満州族の祖先  渤海は、  唐の高宗の代に  高句麗が  唐・新羅の連合軍に討滅された後、  唐の  玄宗から  渤海郡王に封ぜられた  大祚栄氏がつくった  ツングース系の国  高句麗と渤海は  満州族の祖先  高句麗(?~668年)  渤海(698~926年)  渤海国滅亡後  「遼史・高麗史」には  渤海国滅亡前の  政争に敗れた王族や貴族が  高麗へ亡命  契丹による滅亡後  大光顕などの王族や貴族が  契丹に抵抗して  渤海国を再興させたが  民衆を率いて  高麗に亡命した記載  「金史」には  渤海と対立関係にあった  黒水靺鞨が  女真族へと発展  契丹の遼を滅ぼし  金王朝を興すと、  完顔氏は  渤海王の  大氏の子孫であると自称  「大金国史」には  女直(女真)は  粛慎の遺種  渤海の別種  (又曰女直、粛慎氏遺種、渤海之別種也)  遼に囚われていた  渤海人は  女真族の  金王朝に中国文化の担い手として協力  金王朝はこれら渤海人を貴族とした  金帝国において、  渤海系貴族からは  大臣や皇后を輩出したと推察・・・  金滅亡後の金王朝  渤海人貴族は、  モンゴル帝国統治下で  女真人、  契丹人、  高麗人と共に  漢人として分類 ーー  渤海民族(?)  興遼 1029年~1030年  大渤海(大元)1116年  王を称したもの  ↓  後渤海  渤海(復興)928年~976年  渤海(大光顕の勢力)930年~934年  渤海(再興)989年~1018年  定安 938年~1003年  兀惹(烏舎城渤海)981年~996年以後  その他、渤海遺民によるもの  大鸞河の勢力 979年〜984年 ーー  渤海(ぼっかい、698年~926年)  満洲から  朝鮮半島北部、  ロシアの  沿海地方にかけて、存在  大祚栄により建国  唐からは  「海東の盛国(新唐書)」と呼ばれた  最後は  契丹(遼)によって滅ぼされた ーー  渤海は  粟末靺鞨であり  高句麗に従属  姓は  大氏  (渤海 本粟末靺鞨附高麗者 姓大氏   渤海、それ粟末靺鞨にして高麗に附く者たり。姓は大氏) ーー  渤海の名  遼東半島と  山東半島の内側にあり  黄河が注ぎ込む湾状の海域  初代国王  大祚栄が、  渤海沿岸で現在の  河北省南部にあたる  渤海郡の名目上の  王(渤海郡王)に封ぜられた  渤海から地理的に離れているが  国号となった ーーー  690年  武則天(則天武后)  羈縻支配地域は  唐によって  営州都督府の管轄下にあった  松漠都督府(遼寧省朝陽市)の  支配地域に  強制移住させられていた  契丹が暴動  粟末靺鞨人は指導者  乞乞仲象の指揮の下で・・・「乞乞仲象」?  高句麗の残党と共に、  松漠都督府の支配下から脱出  彼の息子  大祚栄の指導の下に  高句麗の故地へ進出  東牟山(吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)に  都城を築き  震国を建てた  この地は後に「旧国」と呼ばれる  大祚栄は  唐(武周)の討伐を  凌ぎながら勢力を拡大し、  唐で  712年に  玄宗皇帝が即位すると、  713年に唐に入朝する事で  「渤海郡王」に冊封された ーー  二代  大武芸は  仁安と言う独自の元号を用いてた  唐と対立して  山東半島の登州(山東省蓬莱)を占領  唐・新羅・黒水靺鞨と対抗するために  日本へ使者を送った ーー  計34回使者が行き来  (渤海使・遣渤海使)  大武芸が没  子の  大欽茂が即位し  大興と改元  父武王の唐との対立した政策を改め  文治政治へ転換  唐へ使節を派遣  (渤海時代を通じて132回)  恭順の態度を示  唐文化の流入を積極的に推進  漢籍の流入を図ると同時に  留学生を以前にも増して送り出す  唐は  大欽茂に初めて  「渤海国王」と従来より高い地位を冊封  大欽茂  治世末期から国勢不振  大欽茂が没し、  その後  王位継承に混乱が生じ  族弟の  大元義が即位後、  国人により殺害  後は  大欽茂の嫡系の  大華璵が即位  短命で死亡  続いて  大嵩璘が即位  大嵩璘は  唐への恭順と  日本との通好  外交問題に力を注ぎ、  渤海の安定と発展の方向性を示した  治世十余年で没し  大嵩璘没後は  大元瑜、・・・瑜?・・・古事記の賢瑜  大言義、  大明忠と短命な王が続いた  6代の王の治世  合計、20数年間 ーー  大明忠が没し、  大祚栄の  弟である  大野勃の  四世の孫  大仁秀が即位  渤海は中興  大仁秀  渤海が統治する  各部族が独立傾向  渤海政権の弱体化を招来  唐は  「安史の乱」後の混乱  周辺諸国に対する支配体制も弱体化  黒水都督府を  9世紀初頭に解体  拂涅部・虞類部・鉄利部・越喜部を攻略、  東平府・定理府・鉄利府・懐遠府・安遠府など  府州を設置  黒水部も影響下に入り、  黒水部が独自に唐に入朝することはなくなった ーー   子の  大彝震  軍事拡張政策から  文治政治への転換  唐との関係を強化  留学生を大量に唐に送り  唐からの文物導入を図った  渤海は、  大虔晃、  大玄錫の代まで保持  十世紀  唐が  藩鎮同士の抗争、  宦官の専横、  朋党の抗争により衰退  農民反乱により崩壊状態  大玄錫に続いて即位した  大瑋瑎、それに続く  大諲譔の時代になると  権力抗争で  渤海の政治は不安定化  唐が滅びた後、  西の  シラムレン河流域において  耶律阿保機によって  建国された  契丹国(後の遼)の侵攻を受け  渤海は  926年に滅亡  契丹は故地に  東丹国を設置して支配  渤海の制度  契丹が中原化していくに際し  唐が参考にされ、  遼の国制の特色とされる  両面官制度に影響を与えた  東丹国の設置と縮小に伴い、  数度にわたって遺民が  渤海再興を試みるが、  契丹(遼)の支配強化によって失敗  遼の保有する  遼西や遼東の各地域へ移住させられ  残留し、  一部は高麗へ亡命し  一部は故地の北方へ戻った  黒水靺鞨(女真)が統合を果たし  金王朝(1115年~1234年)  旧領に残った  渤海遺民は厚遇され  金を滅ぼした  元の代では、  華北の渤海人は  「漢人」として支配された  女真は  満洲として再び台頭 ーー  文籍院  唐の秘書省に相当し、  経籍  図書の管理を担当  長官を  文籍院監と称し、  唐の秘書督に相当する従三品  日本に派遣された  19次遣日大使の  李承英の官名が  「文籍院述作郎」とあり、  唐の述作局に相当する  「述作局」或いは「述作署」が設置されていた ーー   太常寺  唐でも  同名の  太常寺が存在  礼楽・郊廟・社稷の管理  長官は  太常卿と称され、  正三品 ーー  司賓寺  唐の  鴻臚寺に相当し、  外交と周辺の少数民族関連業務を担当  長官は司賓卿と称され、  唐の鴻臚卿に相当する従三品 ーー   大農寺  唐の司農寺に相当し、  農業及び営田、穀倉の事務・管理を担当  長官は大農卿と称され、  唐の司農卿に相当する従三品 ーー  司蔵寺  唐の太府寺に相当し、  財務、貿易の事務・管理を担当  長官は司蔵令と称され、  唐の太府寺卿に相当する従三品 ーー  司膳寺  唐の光禄寺に相当し、  王廷の酒食の担当  長官は司膳令と称され、  唐の光禄卿に相当する従三品 ーー  冑子監  唐の国子監に相当し、  渤海国内の教育を担当  長官は冑子監長と称され、  唐の祭酒に相当 ーー  塩州  現在のポシェット湾岸の  クラスキノ南方の城址に比定され、  日本への出発港が設けられていた  下部に  海陽・接海・格川・龍川の  四県を管轄 ーー  扶余府  夫余の故地に設けられ、  扶州、仙州が設けられていた  扶州は府治が設けられ  扶余、布多、顕義、鵲川の四県を管轄  仙州は強師、新安、漁谷の三県を管轄 ーー  鄚頡府  夫余の故地に設けられ、  鄚州、高州が設けられていた ーー  鄚州は府治が設けられ、  現在の  昌図県  八面城に比定  粤喜、万安の二県を管轄 ーー  定理府  挹婁の故地に設けられ、  定州、潘州が設けられていた ーー  定州は府治が設けられ、  現在の依蘭県城に比定  定理、平邱、岩城、慕美、安夷の  五県を管轄 ーー  潘州は沈水、安定、保山、能利の  四県を管轄 ーー  安辺府  挹婁の故地に設けられ、  現在の双鴨山、宝清、富錦一帯に比定され、  安州、瓊州(けいしゅう)を管轄 ーー  ・・・  「遼史・太祖紀・下」に  節度使来朝の記録 ーー  渤海の司法制度  唐の文宗の時代に  大彝震の治世には法律の運用面で  国内が安定していた事を示す史料  渤海は法律面でも整備  律令格式は他の統治方式同様に  唐制を模倣  司法機関としては  中正台、礼部、大理寺が任務に当った ーー  中正台  渤海最高の監察機関  長官の大中正は官民の監督の他、  王室内部の粛清や、礼部、大理寺と  重要案件を  審議する権限を有していた ーー  礼部  渤海最高の司法機関  徒隷、勾覆、関禁の政令を職責としていた ーー  大理寺  渤海最高の裁判機関 ーー  新羅への交通は  南京府を中心とする  「新羅道」が存在  「三国史記・地理志」には  「新羅の泉井郡より柵城府に至る、凡そ三十九駅」との記載  泉井郡(現在の咸鏡南道の徳源)より  柵城府、則ち上京府までの道路  契丹との交通には  扶余府を起点とする  「契丹道」が設けられていた ーー  渤海の海上交通  唐への交通は  「新唐書・地理志」に  登州より渤海への交通路が記録  登州(現在の蓬莱県)を起点に  亀歆島(現在の砣磯島)を経て  烏湖海(現在の渤海海峡)を渡り、  更に  烏骨江(現在の靉河)を遡上し  西京府に至る  「朝貢道」と称される道程が示されている ーーー  日本への海上交通  「日本道」  起点は  上京府を基点とし  陸路  塩州(現在のクラスキノ)に至り  そこから海上を進む  「筑紫路」  塩州を出発した船は  朝鮮半島東沿岸を南下し、  対馬海峡を経て  筑紫の大津浦(現在の福岡)に至る  日本朝廷は外交を管轄する  大宰府を筑前に設置していたため、  渤海使に対しこのルートの使用を指定していたが、  距離が長くまた難破の危険が大きいルートであった  第二のルート  「南海路」  と称されるルートである  南海府の  吐号浦を起点とし、  朝鮮半島東沿岸を南下し、  対馬海峡を渡り  筑紫に至るルート  776年に暴風雨により  使節の船団が遭難、  120余名の死者を出し  その後は使用されていない  第3のルート  「北路」  塩州を出発した後、  日本海を一気に東南に渡海し、  能登、加賀、越前、佐渡に至るルート ーー  713年  唐は大祚栄を  「左驍衛員外大将軍渤海郡王」に封じ、同時に渤海は羈縻体制下に入る、その後は「渤海国王」と「渤海郡王」と冊封の官称に変化はあったが、原則として唐の滅亡までこの関係は維持された。  招慰を受けた渤海は質子の制度に基づき、子弟を唐に遣している。  大祚栄の嫡子であった  大門芸が派遣されたのが初見  渤海からの質子は単なる人質としてではなく、  皇帝の謁見、賜宴を受け、  皇太子の加冠や謁陵、時節の朝儀などに列席  唐にて客死した場合は  位階の追贈や物品の下賜を受ける  唐滅亡後  渤海は中原王朝との外交関係を継続 ーー  突厥との関係  398年の渤海(当時は「震」)建国当初は  東突厥の躍進期に当たっており、  営州の反乱の後、  東突厥  第二  可汗国の  第二代  阿史那・・・あしな・アシナ  默啜は  唐を支援し  契丹を攻撃  渤海は、  唐による侵攻に備え、  使者を突厥に派遣し支持を獲得  代償として  渤海は東突厥の属国としての地位を甘受  東突厥から派遣される  吐屯(トゥドゥン)により  渤海は統制と貢賦の権限を与えられた  その後  唐との関係が改善  唐が  大祚栄を冊封  東突厥との関係が疎遠  大武芸が即位し  唐と対立した際、  東突厥の支援を得られなかった事で  関係悪化は確定的となり、  唐との和解と同時に東突厥と断交 ーー  734年  東突厥は渤海に使者を派遣  契丹と  奚の挟撃を打診されるが、  渤海はこの要求を拒否、  使者を抑留し唐に移送し処理を委任  東突厥との関係悪化は決定的  東突厥は内紛と唐との闘争により  745年に  回紇により  東突厥は滅亡 --  契丹との関係  720年  唐が渤海に対し  契丹  及び  奚への攻撃を打診  冊封体制下の  渤海は出兵の義務を有していたにもかかわらず、  拒否  唐との関係が改善  渤海と契丹の関係は冷却化  それは  渤海後期に  扶余府一帯に契丹の侵入を防ぐべく  常備軍を駐留させた記録  渤海は契丹人の反逆者の亡命を受け入れる  契丹王室の  轄底が渤海へ亡命  渤海の風俗  「高麗、契丹と略等し」 ーー  926年  契丹人による国家、  遼により滅ぼされ、  その故地には  東丹国が建国 ーー  新羅との関係  698年  震国が建国  新羅はかつての  百済全土  高句麗の一部を領有  北進政策を採用して  渤海の安定を脅かす  渤海は唐と対立しており、  唐の脅威を抑え、  同時に  新羅の北進を牽制するため  新羅に接近する政策を採用  新羅の藩屏と称し、  新羅の五品の官職  大阿飡を授位  渤海と唐の関係が好転するに従い、  渤海と新羅の関係は変質し、  大武芸の時代になると  高句麗の故地の回収が目標となり  両国関係は緊張  721年  新羅が北辺に長城を築城 ーー  渤海と唐が  「登州の役」で対立した際、  新羅は唐の出兵の求めに応じ  渤海を攻撃するが  新羅軍は大損害  唐と新羅の対立を政治的に解消  新羅はこの功績により唐から  寧海大使の地位を与えられ、  浿江以南の  高句麗の故地統治を正式に承認させ  渤海を牽制 ーー  新羅との対立  渤海は  日本と通好  新羅を背後から牽制  安史の乱に際し、  渤海は日本と共同して  新羅挟撃を計画  藤原仲麻呂の乱により計画が頓挫  軍事的解決の姿勢を放棄  新羅側から  790年に  一吉飡(7品)の  伯魚を、  812年に級飡(9品)の  崇正を渤海に派遣  大仁秀の即位  両国の均衡は崩壊  826年  新羅の  憲徳王が  浿江に300里の長城 ーー  両国の関係が好転するのは十世紀の  契丹の勃興という外的要因による。  渤海は契丹に対抗すべく新羅との和解。  当時の新羅は国勢が衰退し、  既に後三国の時代に入っており、  軍事的に渤海を支援し契丹に対抗する力は無く、  渤海の苦境に乗じ浿江以北への侵攻を行った。  新羅は一面で  渤海に同調するそぶりを見せ、  反面  遼に使者を送り方物を献じる二面外交を展開。  遼が王都の  忽汗城を包囲した際には、  新羅は渤海に出兵し、  この軍功により  耶律阿保機により褒賞。  回紇との関係  回紇(ウイグル)は  鉄勒諸部の一つであり、  バイカル湖南方で遊牧生活。  八世紀半ばに東突厥を滅ぼし、  唐を支援して  安史の乱を平定するなどの軍事活動を行った。  経済活動も活発に行われ、  渤海とは経済・文化方面での交流が行われていた。  回紇商人の足跡は上京府以外にも、  率賓府のような辺境地域でも遺物から認められ、  古ウスリーク城からは  突厥文字が刻字された回紇人の遺跡が、  沿海州の  チャピゴウ河岸の渤海寺院跡から出土した  景教の陶牌からも  回紇人の渤海に於ける活動を示している。  文化・経済交流は  840年に  回鶻(回紇)の政権崩壊により消滅した。 ーー  黒水靺鞨との関係  渤海建国  当初は  黒水靺鞨諸部は独立した勢力  唐との対立と、周辺諸部に対する  支配強化を推し進める渤海は  黒水靺鞨に対し懐柔策。  当初は突厥の支配を受けていた  黒水靺鞨であるが、  次第に突厥の支配を脱し  唐へ帰属する路線への転換。  722年に首長の  倪属利稽が朝見  勃利州刺史に冊封され  黒水府を設置するに至ると、  唐と  黒水靺鞨による  渤海挟撃を危惧した  大武芸は黒水靺鞨に出兵。  大欽茂が即位  唐と関係改善し  黒水靺鞨とも緩和。  大仁秀の時代  渤海により海北諸部の討伐  黒水靺鞨は渤海に服属し、  独自に唐に朝見を行うことはなくなったが、  渤海の統治に対する反乱が発生し、  黒水靺鞨中心部に渤海の行政機構を設置し、  直接統治を行う事は最後まで実現しなかった。  9世紀になると、  黒水靺鞨は新羅との連盟を模索  自立の道を探り、  渤海の衰退により  黒水靺鞨に対する統治が弱体化  渤海の従属的地位を脱し、  924年には後唐に使節を送るようになった。 ーー  日本との関係  「渤海使」、「遣渤海使」  渤海と日本の関係は  当初は  新羅を牽制するための軍事的性格  唐から独立した  渤海であるが、  大武芸の時代には唐と対立  周辺情勢は  黒水部は唐と極めて親密  新羅もまた唐に急速に接近  渤海は孤立  大武芸は  新羅と対立していた  日本の存在に注目  727年  渤海は  高仁義  を日本に派遣  初めての渤海使は、  蝦夷とによって殺害・・・?  生き残った  高斉徳  他八名が  出羽国海岸に漂流し、  翌年  聖武天皇に拝謁  引田虫麻呂ら  六十二名を  送渤海客使として  派遣し  軍事同盟的な交流  渤海と唐の関係改善が実現すると、  日本との関係は軍事的な性格から  文化交流的、商業的な性格を帯びる  交流は  926年  渤海滅亡時までの  200年間継続  日本海側の、  金沢、敦賀、秋田城などからは  渤海との交流を示す遺物が発掘 ーー  渤海の漁業  唐へ奉献した方物の中に  「鯨魚睛」と称される  鯨の眼球が含まれていた  特産品として  湄沱湖(現在の興凱湖)の  鯽(フナ・鮒)や、  忽汗海(現在の鏡泊湖)の  「湖鯽」などが記録  文昌魚(鯉の一種)、  鰉魚(チョウザメ・長鮫)、  大馬哈魚(鮭)、  斑魚、  鯔魚などが記録 ーー  貂(てん・チョウ)  日本の貴族間で珍重された  貂皮(チョウヒ) ーー  日本に送った国書の中で  「皮幣」の文字を使用している  873年に日本で貿易を行った際に、  「賜銭」を得て日本の物産を購入  滅亡に際して  耶律阿保機が  「獲る所の器、幣」を将士に分け与えたとあり  貨幣が流通していた ーー  菅原道真と渤海の使者との間で  漢詩の応酬が行われた  上流階級では女子に対する教育も実施  貞恵公主や  貞孝公主の墓碑に  「女師」の文字がある ーーーーー 668年 唐により高句麗滅亡、    平壌に安東都護府を設置。    高句麗遺民は満洲の営州に強制連行される。 671年 唐・新羅戦争始まる 697年 契丹・李尽忠の乱。    靺鞨の乞乞仲象、乞四比羽らが東走。    唐、安東都護府を廃止。 698年 大祚栄、震国建国 705年 大門芸が唐に入侍。    唐による侍御史を震国に派遣。    安東都護府復活。 713年 唐、大祚栄に渤海郡王に冊封 719年 大祚栄卒し、大武芸即位 721年 新羅による東北国境での長城建設 722年 黒水靺鞨が渤海領を通過して唐に遣使 725年 唐により黒水靺鞨に黒水府が設置される 726年 大武芸の弟・大門芸、唐に亡命 727年 渤海、高仁義らを日本に派遣。    蝦夷地に漂着したため    高仁義等多数が殺害され、    残った者が    高斉徳に率いられ入京 728年 日本、送渤海使を派遣 732年 渤海の将    張文休、水軍を率いて    山東の蓬莱港を占領 733年 唐、    大門芸に命じて    渤海を攻撃させるが、    大雪のため失敗 738年 大武芸卒、    大欽茂即位 739年 遣唐判官の    平群広成、渤海使とともに帰国 746年 渤海人及び    鉄利人1100人    出羽国に漂着 749年 この頃、    旧国より    中京顕徳府に遷都 755年 この頃、    中京顕徳府から    上京龍泉府に遷都 762年 唐、    大欽茂を渤海国王に冊封 774年 大興から宝暦に改元 777年 日本の    舞女十一人を唐に献上 779年 渤海人通事、    日本の朝廷で    鉄利人と席を争う 785年 上京龍泉府から    東京龍原府に遷都 790年 新羅、    伯魚を渤海に派遣 793年 大欽茂卒。    弟、    元義が即位するが廃位され、    嫡孫が即位。    都を    東京龍原府から    上京龍泉府に戻す。 798年 唐、    大嵩璘を    渤海国王に冊封 809年 唐、    大元瑜を    渤海国王に冊封 810年 日本からの最後の    第15次遣渤海使 812年 新羅が崇正を派遣 813年 唐、    大言義を渤海国王に冊封 818年 唐、    大仁秀を渤海国王に冊封 821年 王文矩を    日本に派遣 826年 新羅、渤海との国境に長城を築く 830年 大仁秀卒、    大彜震が即位    咸和と改元。 833年 賀守謙を    幽州盧龍節度使に派遣    唐、    張建章の渤海遣使。 853年 張建章が    幽州に戻り    「渤海記」を著す 860年 李居正を日本に派遣 906年 宰相の    烏炤度を唐に遣使。    その子の    光賛、賓貢に及第。 907年 唐滅亡 911年 大光賛を    後梁に派遣 918年 遼に使節を派遣 919年 最後の渤海使を日本に派遣 924年 渤海軍、    契丹軍占領中の遼東に反攻 925年 契丹軍、    渤海の    扶余府に侵攻。    礼部卿の    大和釣ら100戸を率いて    高麗に投降 926年 契丹軍、    上京龍泉府を攻略    渤海滅亡。    契丹、渤海故地に    東丹国設置。 928年 東丹国、遼陽に遷都 929年 東丹国使、来日 930年 日本との通交が絶える。    以後、    東丹国が史料から消滅。 ーーー 1.高王 大祚栄(698年 - 718年) 2.武王 大武芸(718年 - 737年) 3.文王 大欽茂(737年 - 793年) 4.大元義(793年 - 794年) 5.成王 大華璵(794年) 6.康王 大嵩璘(794年 - 808年) 7.定王 大元瑜(808年 - 812年) 8.僖王 大言義(812年 - 817年?) 9.簡王 大明忠(817年? - 818年?) 10.宣王 大仁秀(818年? - 830年) 11.大彝震(830年 - 857年) 12.大虔晃(857年 - 871年) 13.大玄錫(871年 - 895年) 14.大瑋瑎(895年 - 907年?) 15.大諲譔(907年? - 926年) ーー  渤海国の継承国家  皇帝を称したもの  興遼 1029年 - 1030年  大渤海(大元)1116年  王を称したもの  後渤海  渤海(復興)928年 - 976年  渤海(大光顕の勢力)930年 - 934年  渤海(再興)989年 - 1018年  定安 938年 - 1003年  兀惹(烏舎城渤海)981年 - 996年以後  その他、渤海遺民によるもの  大鸞河の勢力 979年 - 984年  契丹によって渤海の故地に設置されたもの  東丹 926年 - 930年  渤海国の王室である  大氏の後裔を自称したもの  (血縁として繋がってはない)  金 1115年 - 1234年  渤海の元号  仁安 : 720年-738年  大興 : 738年-794年  宝暦 : 774年-?年(大興の一時期を改元使用)  中興 : 794年  正暦 : 795年-809年  永徳 : 809年-813年  朱雀 : 813年-817年  太始 : 818年  建興 : 819年-831年  咸和 : 831年-857年 ーーーーー  ・・・?・・・渤海・・・海水が勃起状態になる現象は地震による津波か、海底火山の爆発・・・?

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