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セカイをアナロジィでカンジてトク・・・

2022/5/2・月曜日・・・追加添文・・・

「ロシアTV、核攻撃前提のプロパガンダ?」・・・

 自然界で

 限られた時間枠での「個々人の人生」

 「どうせいずれは皆死ぬ」・・・

 人間界で

 独裁者に「生殺与奪」を委ねた最後でも

 「我々(プーチン追従者)は天国に行ける」・・・?

 ・・・オマエの存在が蒸発して「塵」に舞うだけだろう・・・

 「ロシアTV、核攻撃前提のプロパガンダ?」

 「他国の介入を阻止するには第三次大戦しかない」

↓↑

イノチの限界に漸進している

「プーチン」

「道連れしたい奴ら・不逞の輩(やから)」・・・

不逞=不+逞

     逞=辶+呈

       辶+口+王・・・王=三+丨

       辶+口+壬・・・壬=千+一

                ㇒+十+一

               ヘチ・ ヘツ

               えい・よう

               ひく

              「丿・ノ」=舟が左に揺れる

              「乀・」=舟が右に揺れる

              「ノ+乀・ハ」=舟が左右に揺れる・・・

               舟の二本の「かい=櫓・櫨・樐・㯭

                        艪・艣」

               穭=禾+魯

                 禾+魚+日

                 禾+⺈+田+灬+日

                 リョ

                 刈り取った株から生える稲

                 稲孫(ひつじ)・・・?

       辶+口+丿+十+一

    たくましい・勇ましい

       たくましくする

       こころよくする・思いのままにする

       とおる・速くとおる・とどく

       とく・ときはなつ・ゆるめる・放す

世界を 亜耶魯辞意 出 漢字 堆 説く

施改を 阿奈鹵字意 で 関じ て 讀・・・

↓↑

アナロジー(Analogy)=類推・類比・比論

ギリシャ語の「アナロギア」

似ていることを根拠にして

違う物事を推し量ること 

未知の物事・深く知らない物事を

既知の物事に当てはめて

推論する思考方法

メタファー(希:μεταφορά・羅:metaphorá・独:Metapher・英:metaphor)

隠喩 ( インユ )・暗喩 (アンユ )・比喩(ヒユ)

二つの概念に正確な境界線は無い

 ↓↑

 「郢書燕(エイショエン)説」

 こじつけ、牽強付会

 春秋戦国時代

 楚(ソ)の都

 「郢」からきた手紙に対して

 燕(エン)の国の人がとった解釈・・・

 「郢(エイ)=楚(ソ)の都」

 「郢曲(エイキョク)」

 平安時代~鎌倉時代

 日本宮廷音楽のうち「歌いもの」の総称

 「楚の首都

  郢(エイ)で

  歌唱されたていた卑俗な歌謡」・・・「卑族」な歌謡・・・?

 「郢(エイ)は享楽的な都」で、俗に「みだら」の意

 「湖北省江陵県北部

  湖北省

  荊州市

  荊州区・・・紀南城遺跡」

  郢=口+壬+阝(邑)

 ↓↑

 モノの解釈で

 あれこれこじつけて

 道理にあっているように説明すること

 ↓↑

 「辻褄の合わないことに

  もっともらしい理由をつけること」

 「関連のない物事を無理に関連付けて説明すること」

 ↓↑

 『韓非子』外儲(ガイチョ)説

 「韓非子 『外儲説左上』」

 牽強付会=無理なコジツケ

 堅白異同=白を黒という詭弁

     「公孫竜」の説いた詭弁

      堅白同異

      sophism(ソフィズム・サァフィズム ・)

      sophistry

      quibble(クイブル)=揚(あ)げ足取り

      quibbling(クゥイブリィング)

 断章取義=前後の文章部分を切り取って歪曲解釈

      「主語=名詞」の説明

 ↓↑

 ・・・「英(エイ)」の漢字「重意(エイ)」、「英国」、「英王」、「英雄」・・・「英國=春秋時代の諸侯国」・・・「英吉利=𠸄咭唎=英吉利西」じゃぁないから混乱する・・・ボク的にはマッタク、音もスペルも「音愚留素の滑る、総べる、總(すべる)、綜(すべる)」の「寅具留蘇(イングルス)」である・・・「文字」に記されるからには、それらの「理由」があるのはアタリマエだろう・・・ましてや、「同じ漢字」なら、なんらかの「共通項」を有するのは尚更ではある、「同じ音の文字」も、そうカモと思うのだが・・・これって、「郢書燕説(エイショエンセツ)」なのか?・・・既知=キチ=吉・危地・窺知・奇知・・・既に「意味のチガイ」を知っている人ならサイワイである、が・・・知っていてもヤクにタタナイときがある・・・曲解、誤解してヤクにタツときもある・・・「違い=チガイ=治外=智(知)害」・・・知っている、ってコトは最大の「不幸」カモ・・・無知は無垢じゃぁないョッ、でもサッ・・・「感知」し、「認識-記憶-思惟-思考」し、「判断」し、蠢いていくモノ、無自覚な部分もあろうが、新陳代謝の「生き物の宿命」である・・・だが、「家畜=カチク=価値句」が己の存在を「自覚」したなら「人間」は殲滅されるに違いない・・・「自覚する羊たち」は「沈黙」しないだろう・・・ ーー↓↑ーー↓↑ーー  英=艸+央=はな・はなぶさ  ↓↑    ひいでる・ひで        エイ・エ・ヨウ・ケイ    「エイ=叡・穎の代用字」  ↓↑ ↓↑    ↓↑       比叡山・叡智    ・・・愛知・愛智・英知       philosophy       英彦山(ひこさん)は       福岡県-田川郡-添田町       と       大分県-中津市-山国町に       跨(またが)る山で       耶馬日田英彦山国定公園の一部       英山(はなぶさやま)は       九州・沖縄に存在し       英山=佐賀県西部       有田町に聳(そび)える       岩頭  ↓↑   英山号の鐘=アポイの鐘は       1979年10月20日       北海道様似町平宇沖で座礁し、      「呉漢虎」船長以下47名の乗組員が       全員救助された中国貨物船、       英山号(836トン)の警鐘及び時鐘       英山号の鐘       北海道-様似郡-様似町       日高山脈支稜線西南端に位置       一等三角点(点名「冬島」)の山      「アポイ山」の       地名由来はアイヌ語の      「アペ・オ・イ(火のあるところ)」    ・・・阿倍(アベ)は「おい=甥・老い・負」?・・・  ↓↑    ↓↑   ↓↑        穎=匕+禾+頁          ほさき・すぐれる          かしこい          エイ          頴=匕+示+頁            匕+二+亅+八+頁            頁=一ノ目八          穎悟・穎才・穎哲          穎悟・穎脱   稲の穂先=穎果          錐 (きり)、筆など、          尖(とが)った物の先・尖端          穎脱・毛穎          才知が鋭い・穎悟・穎才  ↓↑     「英」を代用字にする場合がある  英=艸+央 英才・英断・英雄 育英・俊英     石英・落英    =首枷(かせ)を付けられた人?・・・政治犯?    =光り輝くの象形=真ん中     光=景=日+亠+口+亅+八       景行・景行天皇・・・日本建(小碓命)の父       景保・高橋景保・・・シーボルト事件に連座       傾向       経口       径行       携行  ↓↑   蛍光  英=艸+央 英國=春秋時代の諸侯国  ↓↑ =周代に存在した諸侯国     皋陶(コウヨウ)=帝堯、帝舜の時、               公平な裁判をおこなった人物 司法官吏(司空・司寇)      の後裔によって樹立 春秋時代に 楚の付庸国 後、 楚の      成王(熊惲=ユウキ)      によって滅ぼされた 史記・十二諸侯年表 楚の成王      熊惲(ユウキ)=成王(?~紀元前626年10月20日)  ↓↑ ↓↑  春秋時代の楚の王         姓は羋、氏は熊         諱は惲、or頵         紀元前672年         兄の荘敖に殺害殺害されそうになり        「隨」に亡命し、隨の国人の援助で     ↓↑  荘敖を襲撃して殺害し、楚王に即位 成王26年      楚国は 英国、及び  ↓↑  六国を滅ぼしたと記載・・・「六英を滅」   瑛=王+英     玉の光・水晶玉     美瑛・玉瑛  ↓↑  英=艸+央  「はな(花)・実のならない花   英華」  「はなぶさ(花房)・藤(フジ)の花   花が群がり垂れて咲く花」  「はなしべ(蕊・蘂・蕋)   雄しべと雌しべ)」     ・・・占部・志部・士別  「花びら(瓣・花弁・落英)  「美しい=英英」  「優れている・秀でている・優れた人物」   ・・・英才・英雄  「ほまれ(名誉)・優れた評価」   ・・・英華  「芽・芽生え」  「英吉利(イギリス)」   ・・・英語・英国   ・・・「和英。和英」辞典 [f:id:naie:20170716091850j:image]  「国君の姓、偃姓・国都は安徽省-六安西南湖北省-英山県・始の封國者は不詳」・・・じゃぁ、「韓国」は・・・ ーーーーー  韓室の祖先  春秋時代の  晋の公族  穆侯の子  桓叔の諸子の  韓万(韓武子)・・・韓萬(満・曼・瞞)  が  韓原の地(陝西省韓城市)  に封じられた  姫姓  を姓とする  韓武子・・・・・・「韓の武の子」?  の一族が  韓氏を称すのは  領地名に因んだもので  これ以前にも  同名の  「韓」という国があった  (周王朝系の韓 (西周))  こちらも  「韓原を地盤」としていた  ↓↑  紀元前620年  韓万の  玄孫  韓厥(カンケツ)・・・簡潔な人物?  が司馬に登用  趙氏の再興に尽力し  紀元前573年  韓厥  が  正卿・中軍の将になった  ↓↑  紀元前541年  子の  韓起も正卿となり  韓氏は政治を司る  六家(六卿)の一つとなった  春秋末期  韓虎(カンコ)が・・・韓のトラ(訳等)  趙氏・魏氏などと共に  智氏を  紀元前453年  に滅ぼし  魏・趙と共に  晋の領地を  三分割して独立・・・三分割の時代は朝鮮半島にもあった            三韓時代(馬韓・弁韓・辰韓)           「韓有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韩            ・・・凡七十八国・・・皆古之-辰国也」            高句麗・百済・新羅  紀元前403年  周の王室から  正式に諸侯として認められた  ↓↑  紀元前375年  鄭を滅ぼしたが  韓は  七雄の中では最弱で  西の  秦からの侵攻に怯えていた  ↓↑  申不害(? - 紀元前337年)・・・申す(猿)、我意ではない?  を宰相に抜擢した  釐侯の治世は  国内も安定し、最盛期を築けた  次代  宣恵王が  紀元前323年  初めて王を名乗ったが  申不害  の死後は再び  秦の侵攻に悩まされた  公子の  韓非  は国を強くする方法を  『韓非子』・・・法家である韓非の著書  ↓↑      法治による権力の扱い方、保持          君主の権力を法によって  ↓↑      一元化、体系化する思想  に著述  韓非子の成語  矛盾  想像(群盲、象を撫でる)  功詐不如拙誠・・・巧詐は拙誠に如かず           コウサはセッセイにシカず           巧みに詐る(詐称)ことは           拙(まず)くとも           誠実であることには及ばない・・・?  守株・・・・・・・待ちぼうけ、コロリ転げた木の根っ子  逆鱗  箕子の憂い・・・小さな動向を見て大局を見ることができる  ↓↑     「象箸玉杯」         「キシのウレイ」は         「岸(吉師)の憂い」だったのか?         「岸舞い」は「阿倍」の管轄?  ↓↑   ・・・吉志舞(キシまい)=大嘗祭などで      安倍氏の当主等が監督し、闕腋袍(ケッテキのホウ)等、      主に武官の服装で、踊られた舞楽      吉師舞、吉士舞等とも表記      舞い方自体は伝承されていない  ↓↑  楯節舞(たてふしまい・楯伏舞・楯臥舞)等とも表記  郢書燕説(エイショエンセツ)  ↓↑  「辻褄の合わないことに       もっともらしい理由をつけること」       という意       楚の国都である郢(エイ)の人が       燕国の大臣に宛てようと       手紙を口述筆記させていた最中       暗いので      「明かりを掲げよ」と書記に命じたところ       手紙の記述内容だと誤解し      「明かりを掲げよ(挙燭)」と誤記し       手紙を貰った「燕国の家臣」は      「挙燭=賢人の重用」と解釈       韓非は      「古典の中で分からないことが出てきた時       自分なりに解釈しようとするが  ↓↑   それが作者の意に沿ったものとなるとは限らない」と  唯々諾々=いイだくダク→epigone=エピゴーネン  ↓↑  =追従者・追随(隋)者      =逆らわずに他人の言いなりになるさま       主君の意向に先回りし       様子や顔色をうかがって       主君の心に先回りしようとする者たち      「忖度(ソンタク)」する者たち?  ↓↑  「ワルイ親」に「イイ子」として従うと・・・?  韓非の言説は  母国では受け入れられず  秦の始皇帝により実行され  韓は滅ぼされた  ↓↑  韓は  鄭国(人物名)を送って  ↓↑・・鄭=奠+阝      鄭(ねんごろ・テイ)      鄭重・丁寧・周代の国名      鄭声      鄭衛桑間=殷の紂王の淫靡な音楽?      鄭衛之音=鄭衛の音→鄭も衛もユダヤ人の音(立日)?      鄭衛之声=鄭衛の声→鄭も衛もユダヤ人の                歎きの声(十一巴→拾壱巴)?      殷=バビロン?・・・・・・・葉(罵)備賂務?      紂王=ネブカドネザル?・・・音部掛度音作留?  ↓↑  ユダヤ=猶太の國?        猶=犭+八+酉        猶(なお)・猶子(ユウシ)・猶予(ユウヨ)        奠=酋+大(一人)→乞巧奠(キッコウデン)=七夕 尊=酋+寸→みこと        遵=酋+辶→遵法        酋=八+酉  ↓↑      酋長=シュウチョウ=周長  秦に灌漑事業を行わせ  秦の国力を疲弊させようとしたが  発覚  この工事で作られた水路が  鄭国渠と呼ばれ  中国古代3大水利施設の一つとなり  秦は疲弊ではなく豊かにさせた  紀元前230年  韓の  首都  新鄭を失陥  六国の中で最も早く滅亡  ↓↑  秦は  潁川郡(エイセングン)・・・英撰具務(組)?  と呼び  改め統治下に置いた  ↓↑  紀元前226年  旧都  新鄭で起きた  秦への反乱は鎮圧され  韓王安・・・桓恵王の子  は処刑  ↓↑  劉邦の配下  張良は  韓の宰相の家柄・・・  生国である  韓を滅ぼされた恨みから  始皇帝暗殺を企て失敗  後に  秦末の動乱から  楚漢戦争期に  張良は  韓の旧王族から  韓王成  韓王信  を擁立  ↓↑  武子(韓万)  賕伯  定伯(韓簡)  韓子輿(韓輿)  献子(韓厥)  宣子(韓起)  貞子(韓須)  簡子(韓不信)  荘子(韓庚)  康子(韓虎)  ↓↑  武子(韓啓章)  (紀元前424年~紀元前409年)  景侯(韓虔)  (紀元前408年~紀元前400年)  烈侯(韓取)  (紀元前399年~紀元前387年)  文侯(韓猷)  (紀元前386年~紀元前377年)  哀侯(韓屯蒙)  (紀元前376年~紀元前374年)  共侯(懿侯、韓若山)  (紀元前374年~紀元前363年)  釐侯(昭侯、韓武)  (紀元前362年~紀元前333年)  宣恵王(威侯、韓康)  (紀元前332年~紀元前312年)  襄王(韓倉)  (紀元前311年~紀元前296年)  釐王(韓咎)  (紀元前295年~紀元前273年)  桓恵王(韓然)  (紀元前272年~紀元前239年)  王安(韓安)  (紀元前238年~紀元前230年) ーー↓↑ーー  ・・・突然ですが、「唐、武周」に跳ぶ・・・「Korea」でない「韓国夫人」の「韓国」とはナニか、を知りたいがため?の前文・・・モチロン、「the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland」ではない「英国」も・・・  ↓↑  武則天は  姪の  魏国夫人  が  高宗の寵愛を得ていること嫉妬し  高宗が泰山での封禅を終え  長安に戻ったことを利用し  武則天は  魏国夫人を毒殺  ↓↑  690年  武后は  睿宗から  皇帝位を禅譲され  周王朝を起こした  「武周」革命・・・  ↓↑  690年  干支=庚寅  日本  持統天皇四年  ↓↑  中国  唐=載初元年  武周=天授元年  在位期間  690年10月16日~705年2月22日  武則天が帝位  国号を周とし  聖神皇帝と称する  ↓↑  日本  1月23日  持統天皇3年12月8日  持統天皇、双六を禁止  2月14日  持統天皇4年1月1日)  天武天皇の崩御後  鸕野皇女が即位し  第41代天皇  持統天皇となる   ↓↑  中国  神龍元年(705年)二月  日本  慶雲二年  ↓↑  遣新羅使帰還(大使は幡文通)・・・播磨の文通  新羅貢調使来朝(大使は金儒吉・・・金の儒教は吉          副使は金今古)・・金の古今(集)→金槐集?                   金槐和歌集                   源実朝の家集(歌集)               建暦三年(1213年)十二月十八日頃  令外官として中納言を新設  ↓↑  武周  705年・神龍元年二月  病床に臥せがちであった  武則天に対して  宰相の  張柬之(チョウカンシ)・・・・鳥瞰視?  が退位を迫り  再び  李氏唐朝  になった  (神龍革命・705年2月22日)  705年12月16日?  (神龍元年11月26日)  武則天(則天武后) (624年2月17日)623年?~  則天武后は  権力を奪われたが  殺されず  死後は  遺言通り  夫である  高宗の横に葬られた  ↓↑  顕慶四年(660年)  皇帝を天皇  皇后を天后  とした ーー↓↑ーー  太平公主(タイヘイコウシュ)  麟徳二年(665年?~713年)  唐の皇帝  高宗の末の娘  母は武則天(則天武后)  ↓↑  八歳  太平の号を授けられた  ↓↑  681年  薛紹(城陽公主の息子で従兄弟)  に嫁して二男二女を生むが  夫が  李沖  の謀叛に連座し獄死  690年  武攸曁  に嫁いで  二男二女を生んだ  ↓↑  太平公主は  母の武則天が  垂簾政治を執り始めると、  武則天政権の一翼を担う  690年  母の  則天武后  皇帝に即位  武周王朝を建国し  太平公主  も隠然たる勢力を持っ  母が病に倒れた後  その愛人であった  張易之  張昌宗  兄弟が専横していたが  705年  太平公主は  張兄弟を倒し  兄の  中宗を即位させた  宰相  張柬之  により  武則天は退位(705年2月22日)  唐王朝に復帰  張兄弟  と組んでいた従兄弟の  武三思  が  張柬之  を失脚させ  安楽公主(中宗と韋皇后の娘)  と結び  701年  不倫の暴露を恐れた  安楽公主  が  韋后  と組んで  中宗を毒殺  ↓↑  韋后  が  温王  李重茂(殤帝)  を擁立し傀儡としたのを危ぶみ  太平公主は  甥の  李隆基(玄宗)と謀り  韋后  安楽公主  その一族を誅殺  隆基  の父の  相王李旦(睿宗、太平公主の同母兄)  を即位させた  ↓↑  皇妹としての  太平公主  の権勢は  宰相の  姚崇  張説  を左遷させるなど専権  次第に  皇太子  隆基(玄宗)と対立  ↓↑  712年  睿宗  が皇太子  隆基  に譲位  皇帝(玄宗)  と  太平公主の対立が激化  公主は  玄宗の廃立を図るが  陰謀が露顕  713年  皇帝自ら兵300余を率いて  太平公主一派を倒し  公主に死を賜った  以後  玄宗の独裁体制が確立  「開元の治」  と呼ばれる  唐朝の最盛期へ ーー↓↑ーー↓↑ーー  韋皇后(イコウゴウ)  ?~唐隆元年六月二十日(710年7月21日)  唐の  中宗の皇后  韋玄貞の娘  京兆万年(陝西省西安)出身  韋后とも呼ばれる  ↓↑  神龍元年(705年)  武則天より譲位され  中宗が復位  武三思  らと結託し、  従兄の  韋温  とともに朝政を掌握  景雲四年(710年)  自らの即位を意図し  娘の  安楽公主  とともに  中宗を毒殺  温王  李重茂(殤帝)  を皇帝に擁立したが  李隆基(玄宗)  が政変を起こし  彼の父である  相王  李旦(睿宗)  が復位  韋后は殺害され、  身分も庶人に落とされた  ↓↑ ↓↑  韋后の  子女  男子  李重潤(太子)  女子  長寧公主  永寿公主  李仙螵(永泰公主)  李裹児(安楽公主) ーー↓↑ーー↓↑ーー  韋貴妃(イキヒ)  597年~665年9月28日  唐の太宗  李世民の妃  名は珪  字は沢  本貫は  京兆杜陵  紀王  李慎  や  臨川公主  を産み  紀国太妃・・・・紀国の太の妃?  に立てられた  ↓↑  韋貴妃は  韋円成  の娘として生まれ  北周の  太傅  韋孝寛  の曾孫  前の夫は  李萊  良家の娘として選出され  李世民の妃  627年4月1日  貴妃に冊立  650年1月29日  紀国太妃  に立てられ  665年  河南の  敦行里  の邸で死亡  666年12月29日  昭陵に陪葬  ↓↑  中宗  唐の  第4代・第6代皇帝  諱は顕  高宗の七男  周王に封じられ  後に  「英王」・・・・・・「英王」とは何か?  に改封  ↓↑  同母兄である  李弘  の急死  李賢  の廃立の後、  代わって立太子され  高宗の崩御により即位  ↓↑  即位後  生母の  武則天  に対抗すべく  韋皇后  の外戚  韋后の父である  韋玄貞(元貞)  を  侍中に任用するつもりが  武則天が信任する  裴炎  の反対に遭い  中宗  は怒りの余り、  希望すれば  韋元貞  に天下を与えることも可能であると発言  この発言で  即位後54日で廃位  湖北に流された  ↓↑  代わって  同母弟の  李旦(睿宗)が即位  690年  睿宗を廃立し  母親の  武則天が自ら即位  武周時代となった  ↓↑  699年  李顕は  武則天により  再び立太子され  705年  武則天は  李顕  に譲位  唐の国号を復活  ↓↑  中宗(李顕)は  韋后を信任し  朝政に参加させ  その父を王に封じ  韋后との間にもうけた  安楽公主  も朝政に参加させ  安楽公主  は自ら  皇太女  皇帝  となることを狙い  韋后も  武則天に倣い  帝位を求めた・・・  ↓↑  710年  韋后の淫乱な行為が告発され  韋后は追及を恐れ  安楽公主  と共に  中宗(李顕)を毒殺  末子  重茂(殤帝)  を擁立  ↓↑  1ヵ月後  李旦(睿宗)の息子  李隆基(玄宗)  に  韋后  と  安楽公主  は殺害され  殤帝  は廃位  中宗は定陵に埋葬  ↓↑ ↓↑  后妃  ↓↑  和思趙皇后・・・和を思い、趙の皇后  韋皇后・・・・・韋(イ)→葦(あし・よし)=蘆?  ↓↑  貴妃楊氏  淑妃于氏  徳妃于氏  昭容上官婉児  昭儀陳氏  充儀閻氏  充容陸氏  修儀崔氏  ↓↑  男子  譙王 李重福  懿徳太子 李重潤・・・懿徳=日本の第四代天皇             和風諡号             大日本彦耜友・・・彦=亠八厂彡 (おおやまとひこすきとも) 大倭日子鉏友  節愍太子 李重俊・・・・・・愍=民攵心=あわれむ・ミン・ビン  北海王 李重茂(殤帝)・・・北海王・・・北海道?  ↓↑  女子  新都公主  宜城公主  定安公主  長寧公主  永寿公主  永泰公主 李仙螵  安楽公主 李裹児  成安公主 李季姜 ーー↓↑ーー↓↑  韋貴妃  阿史那忠墓誌(阿史那貞公墓誌)・・・阿史那の忠?                突厥族(匈奴の別種)  によると  陳州  刺史  円成の娘  韋孝寛  の孫  隋の戸部尚書  李子雄  の子の  李萊  にとつぎ  娘ひとり  (定襄県主、阿史那忠の夫人)・・・阿史那の忠?               突厥族(匈奴の別種)  を産んでいる  韋貴妃は再婚者であった ーー↓↑ーー  安楽公主  嗣聖元年(684年)   ~  唐  隆元年六月二十日  (710年7月21日)  唐の  中宗の娘  母は  韋皇后  本名  李裹児・・・李の裹(うら・リ)の児(こ・ジ)  ↓↑    出生時に        中宗が自らの衣服を脱いで        安楽公主を包んだことより  ↓↑    命名  聡明で美人  韋后より寵愛され  成年後  武三思・・・武の三の思?→武の纂(簒)を思考、思惟、思索  の子  武崇訓・・・武の崇の訓?→タケルをウヤマウ、タタル?  に下嫁  武崇訓  の死後  安楽公主  は  武延秀・・・武を延(のば)し秀(ひいでる・比意出留)?  と私通  後に  武延秀へと嫁ぐ  自らを  皇太女に封じようと計画  魏元忠・・・魏(ギ)の元(もと)に忠(ただし)=中+心  の諫言により中止  生活は奢侈  武崇訓  との間にもうけた息子を数歳にして  太常卿・・・太(おほの)常(ところ・つね)の卿  鎬国公・・・鎬(しのぎ・なべ・コウ)国の公  に封じ、  姉の  長寧公主  定安公主  と共に  民間の子女を攫(さら)い  にした  これを知った  左台侍御史  袁従一・・・袁(ながそで)に従(したが)う一(はじめ)        袁=長衣  は  安楽公主の逮捕を計画するが  中宗の詔勅に阻まれ、不問に付された  ↓↑  安楽公主  は  韋后  と共謀し  中宗  の殺害と  唐朝の簒奪を計画  710年  中宗が両者により毒殺され  臨淄王  李隆基(玄宗)  が兵を挙げて  韋后を殺害  逃亡した  安楽公主も殺害  それぞれ  韋庶人、悖逆庶人  と  庶人に落とされた  ↓↑  高祖 618–626・太宗 626–649  ↓↑  高宗 650–683  韓国夫人  武順(武則天の姉妹)  魏国夫人  賀蘭氏(武順の娘)  ↓↑  中宗 684・睿宗 684–690  中宗 (復辟) 705–710・殤帝 710  睿宗 (復辟) 710–712  ↓↑  玄宗 712–756  蜀州司戸の  楊玄淡の娘たち  楊貴妃(玉環)の姉妹  韓国夫人  虢国夫人(二女)  秦国夫人(三女)  ↓↑  粛宗 756–762  代宗 762–779  徳宗 780–805  順宗 805  憲宗 806–820  穆宗 821–824  敬宗 825–826  文宗 826–840  ↓↑  武宗 840–846  ↓↑  宣宗 846–859  懿宗 859–873  僖宗 873–888  昭宗 888–904   (徳王 900–901)  哀帝 904–907  ↓↑ ↓↑  爵位  制度?  該当、類似  ↓↑  婦(女性の爵位で巫女的な存在    最高位だったが周代では格下げ    士階層の配偶女性をさす言葉になった)=婦好  子(王族の王子の意・婦に次ぐ高位の都市の領主    周代には格下げ    都市共同体の大夫階層をさした)=微子啓・孔子  公(周代、侯の中の特別に格付けされた    公と侯の字は当時も発音が同じ)=周公旦・召公奭  侯(都市国家の首長)  伯(殷代、王権の親衛隊的存在だった    周では都市国家に従属する小都市の長)=西伯昌・伯邑考  叔(諸侯の兄弟の意    周代の都市国家に従属する小都市や村の長)=蔡叔度・唐叔虞  亜(亜の字は王を取り囲む者の意    殷王の親衛隊的存在・周王朝には無い)  男(殷の下層首長を管理する徴税官的存在    周では都市共同体の大夫階層)  田(殷代、下層の首長層・周王朝には存在せず)  方(邦の語源     殷代には     外国の王や異民族の首長    『周礼』における子爵)  の存在が知られている・・・  ↓↑  秦・漢の爵位  秦では  商鞅の第一次変法  軍功褒賞制  と  爵位制  が設けられ、  二十等爵制として  軍功により  爵位を与えた  爵位により  土地の保有量  数  など生活水準が決められていた  ↓↑  前漢  秦の軍功爵制を改め  軍功に限らず  身分に応じて  軍功爵の爵位を与えた  二十等爵の他に  王爵を設け  次第に皇族に限られることとなった  爵位を持つ者は  土地の保有を許可された  ↓↑  二十等爵  第二十級の  徹侯(後に武帝の避諱から通侯・列侯と呼ばれた)  を筆頭に  第十九級の  関内侯  第十八級  の  大庶長  第十七級  の  駟車庶長  第十六級  の  大上造  と続き以下  少上造、右更、中更、左更、右庶長、左庶長、五大夫  と続いた  ここまでが  官爵であり  十二等爵ともいい  官吏に与えられた  第八級の公乗以下、  公大夫、官大夫、大夫、不更、簪裊、上造、公士  までを  民爵といい民に与えられた  これらの上に  諸侯王  天子が君臨することから実質的には  二十二等爵  ↓↑  漢武帝  軍事費調達のために  売爵が行われ爵位の価値が低くなった  軍功による爵位として  別に  武功爵が設定  第十一級の軍衛を筆頭に  第十級の政戻庶長、  第九級の執戎、  第八級の楽卿と続き以下  千夫、秉鐸、官首、元戎士、良士、輭輿衛、造士  これらの武功爵も後に売爵の対象となった  ↓↑  後漢代に入ると  爵位の価値は更に軽くなり  列侯、関内侯のみが爵とされ  列侯はさらに  県侯、郷侯、亭侯  などに細分された  ↓↑  魏晋南北朝の爵位  曹魏に至ると  秦漢以来の十二等爵を廃止  儒教経典の  公・侯・伯・子・男  擬古的に復活  文帝の  黄初年間に  王・公・侯・伯・子・男・県侯・郷侯  関内侯の九等の爵制  222年(黄初三年)  皇子を王に封じ  王子を郷公に封じ  王世子の子を郷侯に封じ  公子を亭伯に封じていた  224年(黄初五年)  諸王の爵位が皆  県王に改められ  明帝の  232年(太和六年)  再調整されて  郡王となった  以上の九等の外に  庶民や兵士に対しての賜爵もあり  関内侯の下には  名号侯・関中侯・関外侯・五大夫侯  が創立  ↓↑  晋の  武帝の  275年(咸寧三年)  王・公・侯・伯・子・男  開国郡公・開国県公・開国郡侯・開国県侯・開国侯  開国伯・開国子・開国男・郷侯・亭侯・関内侯  の爵制が定められた  皇子でない者には王は封じらず  宗室には  公・侯・伯・子・男  (郡公・県公・郡侯・県侯も与えられた場合もあった)  があり  功臣には  開国郡公・開国県公・開国郡侯・開国県侯・開国侯  開国子・開国男・郷侯・亭侯・関内侯・関外侯  等があり、亭侯以上には封邑が与えられた  五等爵の上に  「開国」の2字を加えるのは  西晋では少なかったが  東晋になると多く用いられ  常に古来からの五等爵と混称  魏晋時代以降は  民爵については有名無実化  皇帝を頂点とした皇族と功臣の  爵位制度となっていった  ↓↑  南朝の梁  魏晋代に倣った爵制を定め  陳では  郡王・嗣王・藩王・開国郡公・開国県公  侯・伯・子・男・沐食侯・郷亭侯  関中関外侯の十二等があった  ↓↑  北魏の  道武帝の  396年(皇始元年)  五等爵が定められ  404年(天賜元年)に  五等から  王・公・侯・子  の四等に減らされ  王は大郡  公は小郡  侯は大県  子は小県  が与えられた  その後、再び  伯・男  の二等が加えられ  皇子と功臣には  王  が封ぜられた  500年(景明元年)  王・開国郡公・散公・侯・散侯・伯・散伯  子・散子・男・散男  の十一等の爵制が定められた  ↓↑  北斉では  王・公・侯・伯・子・男  の六等に分けられ  ↓↑ ↓↑  隋・唐・宋・遼・金・元  の爵位  隋の  文帝の開皇年間に  国王・郡王・国公・郡公・県公・侯・伯・子・男  の九等爵が設けられた  ただし  「国王」については  従属国・朝貢貿易  の相手国の君主に対して与える封号としてのみ用いられ  君主が臣下に与える爵位とは異なる  他文献には  郡王・嗣王・藩王・開国郡県公・開国郡  県侯・開国県伯・開国子・開国男・湯沐食侯  郷侯・亭侯・関中・関外侯  なども見られる  ↓↑  中国の爵位は隋代以降基本的には  王・公・侯・伯・子・男  唐・宋代に完成  金・元  を経て、徐々に簡素化し  明代には  殷や周のころのように  五等や三等であった  清代も基本的に  五等爵を基本とし  等級を設けていた  ↓↑  外命婦の封号(女性の爵位)  女性に与えられる爵位に順ずる封号  基本的に  皇族女子や夫・子によって授けられた  ↓↑  唐代  皇伯叔母に  大長公主  皇姉妹には  長公主  皇女には  公主  皇太子の娘には  郡主  王の娘には  県主  王の母や妻には  妃が授けられた  皇室以外では  夫や子の品階や爵位によって授けられた  一品  および  国公  の母・妻には  国夫人・・・・  三品以上  の母・妻には  郡夫人  四品以上  の母・妻には  郡君  五品以上  の母・妻には  県君  散官  や  同職事には  郷君  がそれぞれ封ぜられた  ↓↑  宋代  当初は  唐とほぼ同様の制度  公主から帝姫に  一時期変更されていた  郡君を  淑人・碩人・令人・恭人  県君を  室人(後更に宜人)・安人・孺人  に分けるようになった  ↓↑  明代  公の母・妻は  国夫人  侯の母・妻は  侯夫人  伯の母・妻は  伯夫人  が授けられた  一品は  夫人が授けられていたが  後には  一品夫人と呼ぶようになった  二品は夫人  三品は淑人  四品は恭人  五品は宜人  六品は安人  七品は孺人  がそれぞれ授けられた  ↓↑  母・祖母  などには  「太」  の字が加えられた  国太夫人  郡太君  伯太夫人  など  皇太后・太皇太后  などの用例と同じもの・・・ ーーーーー  随分と検索して添付したが・・・だから、ナニかワカったかな・・・「韓非子」の「郢書燕説(エイショエンセツ)」・・・???・・・

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 ・・・「上からの目線」、「下からの目線」、「対等な目線」・・・「目撰」ですか?、選ぶのは勝手だけれどねっ・・・鳥瞰、仰ぎ見る、睨み合う・・・「阿倍仲麻呂=朝衡=チョウコウ=晁衡」、危うし・・・「稲田(稲葉・稲波・稲場・因幡・伊奈葉)」の白兎?・・・ワニ(鰐)に毛を剥がされる・・・白ウサギは半島から「和邇(仁)」をダマして鳥取に上陸したが・・・「防衛大臣、稲田朋美・昭和34年2月20日・出身地 福井県・衆議院議員、福井県第1区(当選4回)」・・・「大国主」は現れるのか・・・ ーー↓↑ーー  1871年(明治四年)七月十四日 (旧暦)  廃藩置県で  旧、因幡国の8郡  (岩井郡・邑美郡・法美郡・八上郡・八東郡   智頭郡・高草郡・気多郡)  旧、伯耆国の6郡  (河村郡・久米郡・八橋郡   汗入郡・会見郡・日野郡)  旧播磨国の3郡  (神東郡・神西郡・印南郡)  の一部が  鳥取県となる  十一月十五日(旧暦)  旧、播磨国の領域が姫路県に編入  十二月二十七日(旧暦)  島根県より旧、隠岐国が編入  1872年(明治五年)  1月  県下を112の区に分け、戸長・副戸長を任命  7月  郵便取扱所を設置  1873年(明治六年)  6月  会見郡に徴兵制反対の一揆勃発  12月  大区・小区制施行  1874年(明治七年)  8月  地租改正着手  1876年(明治九年)  8月21日  鳥取県が島根県に併合  鳥取に支庁設置  1881年(明治十四年)  9月12日  島根県のうち、  旧、因幡国の8郡  旧、伯耆国の6郡  が  鳥取県として分立・再置  1889年(明治二十二年)  10月1日  市制施行により、  邑美郡の一部から  鳥取市が発足  10月1日  日吉津村が発足   ↓↑  ・・・第十一代、「垂仁天皇(活目入彦五十狭茅尊=いくめいりびこいさちのみこと=活目尊等=伊久米伊理毘古」の息子「誉津別命(ほむつわけのみこと)=本牟都和気命(ほんむとわけみこと)=本牟智和気命(ほんちわけのみこと」とはダレ・・・本の「無知・無恥・無智・箠・扑・鞭」の「訳・譯」の「見事」であるが・・・ ーー↓↑ーー  「仰々しい=大袈裟」ですか、桂小五郎(木戸孝允→喜怒光陰→松陰・松蔭・証印)の奥さん、「木戸 松子=難波常二郎(恒次郎)の養女・芸伎名は幾松(いくまつ)・幼名は斗(ます)、計(かず)、号は翠香院(スイコウイン)」に訊いてみたい・・・彼女の父は「木崎市兵衛、若狭小浜藩士」、母は「三方郡、神子浦の医師・細川益庵(エキアン)=細川太仲(タイチュウ・ふとなか?・おおなか?)」の娘、「末子(すみ)」であったらしい?・・・彼らの名前って・・・幾松(いくまつ・キショウ=記章)・幼名は斗(ます・はかる・ト=図、訳)、計(かず・はかる・ケイ=掲・景)、号は翠香院(スイコウイン=推敲因・推考音、遂行寅)・・・瑞皐(ずいこう)は高野長英の号だったが・・・本当のところは「伊藤 梅子(木田久兵衛の長女・いろは楼(樓)時代の芸伎名は小梅)」にも訊いてみたいが・・・   ↓↑  「仰=イ+卬=人+斤(斧)+卩(割符)    =人+ノ+レ+卩    =人+氏+卩     あおぐ・あがめる・うやまう・ギョウ・コウ・ゴウ」     あふぐ(古語)     首を擧げて上に向ふ     毒藥などを飮む     たかし、又、卬に作る=昂・・・類字は昴(すばる)           ↓↑        阿倍仲麻呂=朝衡=チョウコウ=晁衡→兆候・聴講           ↓↑           卬の異体字、ヒ+卩           卬→瓜(うり)の中の字             厂(ノ+丿)+ム(丄+乀)             ガンダレ+よこしま(私・邪・横嶋)             厂=がけ(崖)・カン・ガン           抑=扌(手)+卬(おさえる)           卬=卬(おさえる)               押印・・「印=「E+卩」=「∈+卩」?                     =「礀+≡+卩」?                印鑑=印の鑑(かがみ・各務                       加々見・屈み                       加賀見)                     鑑=歴史書=金+監                       金の監修?                       大今水増の鑑                       太献見澄ます                       古事記                       太安万侶の献上)             「卬=我也」             「卬=望也」             「卯之異體」→卭・夘・夗(歹+卩)?           卯=真っ二つ切り分ける、叩き割る           仰=「立った人+跪(ひざまつ)く人」                    膝を曲げ地につけて屈む                    膝間づいて地に屈む             跪=足(あし)+危(あぶない)     仰角・仰視・信仰・渇仰・仰慕・仰仗・仰望     おおせ・いいつけ     渇仰(カツギョウ・カツゴウ)・敬仰(ケイギョウ)     景仰(ケイコウ)・賛仰(サンギョウ)     信仰(シンコウ)・俯仰(フギョウ)・仰山(ギョウサン)  「見上げる=仰首」  「顔や物の前面が上を向く=仰臥」  「仰俯角 (Altura)、仰俯角(ギョウフカク)   水平を基準とした上下方向の角度   上向きの角度を仰角(ギョウカク)   下向きの角度を俯角(フカク)、伏角(フカク・フッカク)」   ↓↑  抑=扌(手)+卬(おさえる)    抑圧(ヨクアツ)・抑止力(ヨクシリョク)    抑制(ヨクセイ)・抑揚(ヨクヨウ) ーーーーー  ・・・政敵の「抑圧、弾圧」は「権力者」の常套である・・・政治行政の「善政、悪政」の未来的な方向性は問わず、プロセス上での現実的な「利害関係」で法的な「抑圧、弾圧」は起こるのは当たり前である・・・市民社会での「正義」とは「法律の遵法、その法治での善政」である。だが「法による遵法法治」が人間の命を奪うコトにもなる時がある・・・「悪法も法なり」の「悪法」とはダレの為にある「法」なのか・・・「法は社会協同体維持の掟、秩序」であるが、役に立たなくなるのは、自然災害、疫病、戦争である。そして「市場」での「需要・供給」のバランスが崩れる時で、「生産・蓄積・配分」が出鱈目になる時である・・・もちろん、「生殺与奪秩序の権力」は「暴力者のモノ」になる・・・   ↓↑  現代的には政府権力者も、反政府権力者も「立法・行政・司法」の枠内での鼎の「妥協的」な合意での執行、行政だが、妥協とは現実的には「約束事(法的)の枠内での動き」である・・・  「政治的な妥協」が出来ない時とはナニか?・・・究極的な世界規模での「国際的な階級対立」である・・・単なる「国内的な対立」ではない・・・   ↓↑  非妥協、究極的には結果、「暴力行使・実力行使」の国際的な衝突(戦争)である・・・「戦争」を梃子にしての喰える人間、喰えない人間に分離された「階級対立」の「戦争」である・・・民族、種属、個々の国家の国民の対立ではない、喰える人間、喰えない人間の対立である・・・   ↓↑  歴史的な過去の組織化された「百姓一揆」とは日常生活で「喰えるか、喰えないか」の「利害関係」で起きた・・・  「市民革命(ブルジョア革命)」は、「封建的・絶対主義的国家体制を解体し、近代的市民社会をめざす革命」であったらしいが、「近代的市民社会」とはナニか?・・・   ↓↑  「人権、政治参加権、あるいは経済的自由を主張した市民が主体となって推し進めた革命」であるらしいが、「経済的自由」とはナニか?・・・ワカりずらい・・・「経済=商売=モノの売買」の自由って?・・・ダレでも「商人=あきんど」と、云うコトか?・・・そもそも「経済」とはナニか?・・・そもそも「ブルジョワジー」とはナニ?  農地、田畑であろうが、山林、海洋、湖沼、河川であろうが、喰うモノの生産、狩猟、漁労が第一である。そして都市生活での手工業生産の職人の生産物と、食糧生産物を専門に媒介する者が「あきんど=商人」である・・・彼らは売る為のモノを蓄積もする・・・  個々の共同体が出来れば、物流を担うのが「あきんど=商人」である・・・富は戦争での「強制収奪、強奪、掠奪」、でなければ「あきんど=商人」を媒介にしての蓄積である・・・  「政治的権力者(生産物収奪者)」が「生産物(領地)管理職」の役人と、商才のある物流往来(オーライ=alright=all right?)の「あきんど=商人」を利用するのは常套である・・・   ↓↑  ブルジョワジー(Bourgeoisie)  17~19世紀の中産階級の事?  革命の主体になりうる数と広がりの階層  都市における有産の市民階級  貴族や農民と区別された階層  ブルジョワ(Bourgeois)=単数形で個人  20世紀、  「産業(工場)資本家」を指す言葉に転化、変化?  ・・・「大地主」も「資本家」である・・・  ・・・「船舶主」も「資本家」である・・・  事業主で「資本蓄財し資本投資」を出来る奴も「資本家」で、  モチロン、「金貸し」は「資本家」である・・・  そして、「資本家」とは  資本家階級の  上層(富豪)ブルジョワジーをさした   ↓↑  ・・・生きている間の「大金持ち」のコトらしい・・・   ↓↑  2017年1月16日現在、  「8人の資産が計4260億ドル(約48兆7千億円)、   世界人口73億5千万人の半分の合計額に相当する」、  「世界の大富豪8人が世界を支配   (ダボス・スイス・16日ロイター)」  「国際非政府組織(NGO)オックスファムは16日、   世界で最も裕福な8人の資産が、   世界人口のうち下位50%(約36億人)の   合計額とほぼ同じだとする報告書を発表」・・・   ↓↑  「市民革命(ブルジョア革命)」とは  「イギリス革命(清教徒革命・名誉革命)、アメリカ独立革命、フランス革命」などがソウであるらしい・・・  だが、  「市民革命」とは   基本的には個々人の思想的な   人間存在としての意識的な在り方の  「職業的な身分制度の法的な枠内からの解放、   法的な自由な職業の選択の権利獲得の体制変換、変革」  だったろう・・・  身分を越えた「プチブル意識」の法的な公平の要求・・・  「第3身分の意識」とは  「プチブル意識=個的私有財産意識」だった  喰えるうちは体制の秩序変革だが、  だが「自由な職業の選択」の「法律」ができても  「現実」の秩序変革は厳しかった・・・  「暴力執行の専門家=軍人」が裏切るのが常套である  そして  「選択出来る職業は現実にない」・・・   ↓↑  日本国民が誇る「ぷちぶる国家主義憲法」  日本国憲法  1946年(昭和21年)11月3日  公布  1947年(昭和22年)5月3日  施行であった・・・71年前である・・・   ↓↑  驚くべきか、あるいはアタリマエか?  アメリカでの  「法律的な身分解放」は  1863年1月1日の奴隷解放宣言、  1865年の「憲法修正13条」・・・  だが、  1954年の  ブラウン判決によって  白人と黒人の教育機会の平等・・・  公民権法(Civil Right Act)は  1964年7月に  アメリカ議会で成立、制定・・・2017-1964=53年前・・・   ↓↑   1989年6月4日  「天安門事件」は何処の国だったのか?  たった「28年前」だが・・・「国家資本主義」の体制だろう・・・現在は膨大な「資本」は「国家」に蓄積し、国家高級官僚が「私腹」しているている・・・どこが社会主義の「中華人民共和国」なんだか・・・「面子」とはナンなんだか・・・体面、世間に対する体裁って、問題は「世間」か・・・   ↓↑  1991年12月  ソビエト連邦共産党解散  各連邦構成共和国の国家は独立  12月25日  ソビエト連邦が解体・・・「収容列島」の崩壊だったが、「プチブル国家主義」で揺らいでいる・・・   ↓↑  1994年4月  「アパルトヘイト(Apartheid)=人種隔離」の  南アフリカ共和国  「全人種選挙」を行い、  「アフリカ民族会議」が62.5%を獲得  「ネルソン・マンデラ」大統が登場  「2017-1994=23年」、  今から僅か「23年前」だった・・・  そして、黒人の大富豪が存在している・・・   ↓↑  2010年12月18日  チュニジアのジャスミン革命から始まった  「アラブの春」は「アラブの武器売買の市場」となった・・・   ↓↑  2014年6月29日  国家を宣言した国はナニをしたのか・・・  奴隷国家の再生宣言・・・ ーーーーー  ・・・日本は世界に先駆けて時間的に「プチブル平和革命」を「71年前」に「憲法」に謳いあげ、施工した・・・  「おひとよし」に成らざるを得ない、他人、他国の善意に期待する文言を発する事情があったとしても、「平和憲法」である・・・  そして、「正当防衛主義」だが、やられてからやり返すモノではない・・・守るべきモノはモロイのだ、害虫は即刻駆除である・・・  これは、早撃ちのガンマンの決闘、私闘とは異なるのだ・・・  「平和憲法」を侮蔑(ないがしろ)にする奴等に対しては内外、国籍を問わず命を賭けてやつけるのサッ・・・

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 ・・・夫婦の「愛=爫(爪)+冖+心+夂」と「情=忄+青」、or「情=忄+主+月=肉・舟)」の違いをナンかETVのマンガでやっていたのをチラッとみたコトがあるが・・・最近のインターネット上での漢字辞典は字数の増加と詳細な説明を進化させている。「愛の異体字」は、「爱(簡体字)・㤅(古字)・𢛭(古字)・𢜤(同字)・𢟪(古字)・𤔠(同字)・ 𤔤(古字)」・・・「㤅・𢟪」の漢字構成をみるとナンカ、怖ろしいカンジにおもえるが・・・「簡体字=爱・異体字=𢖻・𢙴・𤔠・𤔤・㤅・𢛭・𢜤・𢟪・爱・𡦎・声符=旡・㤅・旣・声符=愛」・・・  ↓↑  「愛(アイ)=いと-しい・・・「糸-詞意」、「意図-恣意」         う-い・・・・・「初」、「有為」、「憂い」         お-しむ・・・・「惜しむ」、「吝」、「尾氏務」         め-でる・・・・「目出留」・「女出る」         かな-しい・・・「仮名-詞意」・「金-誣い」         まな」・・・・・「眞名=まな=魚」  名のり  「あ・あき・さね   ちか・ちかし・つね   なり・なる・のり・ひで   めぐむ・やす・よし・より」  ↓↑  「㤅=愛」はタラフク喰わせ、のど(咽喉)が咽(噎・むせ)ぶほどに満足させる心情(こころ)のコトである・・・  「㒫の古字(古文)=旡=むせぶ・つまる・つくす・キ              いっぱいになって、つかえる              食べつくす」  ↓↑  You should only eat oysters   when there is an 'r' in the month.  ↓↑  「花見過ぎたら牡蠣食うな」  ↓↑  あらららら、ッ、である・・・「らりるれろ・・・覶理留礪(牡蠣・かき・oyster・オイスター)賂」である・・・「'r'のつかない月のカキは食べられない」って?・・・「産卵することで牡蠣の身が細り、水っぽくなってしまうため」、「"r"のつく月 = 1~4月、9~12月つまり、5~8月までは牡蠣に発生する(腸炎ビブリオ菌、大腸菌、ウイルス)は食中毒の時期("r"のつかない月は牡蠣を食べるな」・・・      蠣(かき・レイ)・・・・・書き・例  英   語=オイスター(oyster) 於意素多阿  独逸  語=アオスター(Auster) 青素多阿        アウスター(Auster) 蛙有素多阿  仏蘭西 語=ユイットル(huître) 唯通訳留  伊太利亜語=オストリカ(ostrica) 於素訳理化  ↓↑  「於(御)意素多蛙(阿・鴉)」・・・  January(1月)・・睦月(むつき)  February(2月)・如月(きさらぎ)  March(3月)・・・弥生(やよい)  April(4月)・・・卯月(うづき)  ↓↑  May(5月)・・・・皐月(さつき)  June(6月)・・・・水無月(みなづき)  July(7月)・・・・文月(ふづき・ふみつき・ふみづき)            文暴文暴文暴文暴月?            あばく文の月?            or            乱暴な文の月?            夷則(いそく)?・・・蝦夷の規則? 自由利有蘇(Julius)?            変重差留(Caesar)の月?            北海道北斗市「文月村」って?・・・  August(8月)・・・葉月(はづき)  ↓↑  September(9月)・・長月(ながつき)  October(10月)・・神無月(かんなづき)            神在月(かみありづき)  November(11月)・・霜月(しもつき)  December(12月)・・師走(しわす)  「アァルの付く字句(ラリルレロ)の書きは句得(重)無い」?・・・「R・r→L・l」・・・「ラリルレロ」・・・  ↓↑  「あさき=蛙左記=阿覚記=あざき=字記」、「ゆめみし=由馬見史=ユバミジ=湯場視字」、「えいもせず=柄意摸施事=エイモゼズ=重意洩是亠」・・・?  ↓↑  いろはにほへと ちりぬるを  色 は匂ほへど 散りぬるを  意賂葉似補経訳 地理塗留尾  ↓↑  わかよたれそ  つねならむ  我が世たれぞ  常 ならむ  和歌与足礪素  通音名等務  ↓↑  うゐのおくやま けふこえて  有為の奥 山  今日越えて  宇意の於句哉磨 懸附故重氐  ↓↑  あさきゆめみし ゑひもせす  浅き 夢 見じ 酔ひもせず  蛙作記喩馬視字 重意摸施事  ↓↑  四十七文字の最後に「京」の字を加える・・・  ウイッキペデアでは「文脈についての確定した説明は、現時点では存在しない」とあり、個々人の解釈は自由カモ・・・ん=む=務? ーーーーー  ・・・「愛情」にも「度量衡」があるんだろう、なッ・・・「情=心が青い・心が主の月(肉・冃・舟)」って、ハカレルものならナンだろう?・・・「度量」の「衝突」じゃぁないョナッ・・・  ↓↑  「情」  「物事に感じて起こる心の動き・気持ち   情熱・情念・感情・苦情・激情   私情・純情・叙情・心情・表情」  「思いやり・なさけ」  「温情・厚情・同情・人情・薄情・非情・友情」  「異性を慕う心・男女の愛」  「情交・情死・情事・情欲・色情・恋情」  「物事の実際のありさま」  「情況・情景・情状・情勢・情報・下情   国情・事情・実情・政情・陳情・敵情・内情」  「そのものから感じられるおもむき・味わい」  「情趣・詩情・余情・旅情」  「風情 (ふぜい)」  名のりは「さね・もと」・・・   ↓↑  衡=彳+ク(勹・々?)+田+一+人+亍   =彳+𩵋(魚・角+大)+亍      𩵋=魚=まな・いお・さかな・うお・ゴ・ギョ   =くびき・はかり・はかる  度=長さ  量=体積・容量  衡=質量・重量  同時にそれぞれをはかるための  道具(物差・枡・秤)や基準  「衡」と類縁の文字で  「権(ケン)」=分銅  ↓↑  古代には  「斤(キン)=物の重量を表す単位        =秤(はかり・ビン)」  ↓↑  衡=よこぎ=軫    よこぎ・くびき・まっすぐな横木    門の二本の柱の上にわたした横木    牛の角があたらないように、    角に結びつけたよこぎ    馬車の轅(ながえ)の端にわたした横木    秤(はかり)・天秤の横棒・棒ばかりの棹(竿)    はかり・めかた・標準・めかたをはかる    物事のよしあしや成否を考える    横にのびた眉毛の線    横になったさま・横ざま    横にまっすぐのびた・たいらな    つりあいがとれた    ・・・𠂉(髪挿し・櫛)    ・・・「ノ一=髪挿し・櫛・鈿・簪・笄」  ↓↑  「行」  いく・ゆく・動いて進む・動かして進ませる  たび・よそへ出発する  やる・動いて事をする・動かす  やらせる・ふるまい・身もち  仏に仕える者のつとめ  みち・道路・時が進む・楽府(ガフ・歌謡曲)の長い唄  ↓↑  「五行」  宇宙をめぐり動く  木・火・土・金・水  の五つの基本的な物質  漢字の書体の一  楷書(カイショ)の少しくずれたもの  行書・ゆくゆく・旅行の途中  臨時の役所  兵士二十五人を一行(イッコウ)  一列に並んだもの  をあらわす ことば・とんや・同業組合  大きな商店や専門の職業  世代、仲間などの順序・序列  ↓↑  「彳(テキ)」、「亍(チョク)」  彳=ただずむ・テキ・チャク  「彳」の字は少しずつ歩くの意味  十字路の象形である「行」が使われて  「彳」はその左半分  「亍(チョク)」  亍=たたずむ・とどまる・たちどまる    すこし歩く・狭い歩幅で歩く    チョク ーーーーー  ・・・「衡=はかり・はかる・ちか・はかる・ひで・ひとし・ひら・ひろ・まもる・コウ」で、意味は「よこぎ(横木・軫)」であった・・・「衡」の類字は「衝突・衝撃」の「衝」で  「つく・突き当たる   衝撃・衝天・衝動・衝突・緩衝・折衝」  「交通の重要な所=要衝・町を突き抜ける大通り」  名のりは  「つぎ・みち・もり・ゆく」  で、漢字構成は  「衝(ショウ)=彳(テキ)+重+亍(チョク)」  ↓↑  「衡」と意味類縁の文字で  「権(ケン)=分銅」がある・・・分ける金は同じ?  ↓↑  「衝(ショウ)=冲(チュウ)」で  占い用語では十二支の「対冲=対沖・対中」で、元の十二支から数えて七番目の支で、相対し、双方、相剋する関係で「七冲」と呼ばれる・・・ちなみに「冲=冫+中」の「冫」は「氷」である・・・  子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓  冲冲冲冲冲冲冲冲冲冲冲冲  衝衝衝衝衝衝衝衝衝衝衝衝  ↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑  午未申酉戌亥子丑寅卯辰巳  ↓↑ ↓↑  天秤宮(てんびんきゅう)  黄道十二宮の7番目である。  獣帯の黄経180度~210度までの領域  9月23日(秋分)~10月23日(霜降)  四大元素の空気  双児宮・宝瓶宮と一緒に空気のサイン  対極のサインは  白羊宮  アストライアー(Astraiā)  ゼウスとテミスの娘  他説で  星空の神アストライオスと暁の女神エーオースの娘  アストライアー=星のごとく輝く者・星乙女  ホーラ(ホーライ)三女神の一柱  正義の神格化である  ディケー女神と同一  有翼の女神  アストライアーは  神々の中で最後まで地上に留まり  正義を訴え続けたが  欲望、殺戮によって血に染まった地上を去った  善悪をはかるため  天秤座になった・・・ ーー↓↑ーー↓↑ー  「衝(ショウ)=冲(チュウ)」、またもや・・・ハンシが跳ぶが・・・三段跳び・・・ホップ(hop・片足飛び)、ステップ(step・足運び・歩き方・足どり・歩きぶり(gait)・歩調・足並み)、ジャンプ(jump・跳び上がる・跳躍する・ハネる)・・・  「鵯越(ひよどりごえ)の戦い」は  「一ノ谷の戦い(鵯越)   寿永三年、   治承八年二月七日(1184年3月20日)   摂津国福原、須磨での源平合戦」    ↓↑  ・・・???・・・源九郎(義経)の最後・・・  頼朝と対立し朝敵とされ  難を逃れ再び  藤原秀衡を頼ったが  秀衡の死、  頼朝の追及を受けた  当主  藤原泰衡  に攻められ、  平泉の  衣川館で自刃・・・    ↓↑  平安時代末期~鎌倉時代初期  藤原頼衡(ふじわらのよりひら)         ・・・頼衡  奥州  藤原氏の武将  奥州藤原氏  第三代当主  藤原秀衡・・・・・・秀衡  の六男の末男  五兄  通衡・・・・・・・・通衡  と同様に、  四人の  兄達・・・・・・・・国衡            泰衡            忠衡            高衡  と比べて  藤原頼衡の  記録が少なく  伝承が多いので  非実在説がある・・・  『吾妻鏡』  五兄の  通衡  と共に  名前が見えず  『玉葉・愚管抄・明月記・六代勝事記』  にも  頼衡に関する記述は無い  『尊卑分脈』に  文治五年(1189年)二月十五日  次兄の  泰衡  によって殺害されたと記録  この四ヶ月後  三兄の  忠衡  五兄の  通衡も  父、藤原秀衡の遺言を破った  泰衡  に対して反乱を起こし  討たれている・・・  ↓↑  父の遺言と  源義経を支持し  泰衡によって殺害されたのは  忠衡  通衡  が誅された理由と同じ・・・  死去時の年齢は  16歳前後とも・・・   ↓↑  「義経記」  南北朝時代~室町時代初期に成立  源義経とその主従を書いた  軍記物語の『義経記』  義経  を保護した  秀衡の死の床を囲む  息子達が挿画で描かれ  「義経を大将として、   頼朝の襲撃に備えよ」  という  秀衡の遺言を呼び寄せた  6人の息子達に言い聞かせた  『義経記』は  秀衡には  6人の息子達  六男にして  末子の  頼衡の存在は認識・・・    ↓↑  『尊卑分脈』の記述によれば  頼衡の通称は  「錦戸太郎」で  この通称は史料によって  読みが同じである長兄の  国衡(西木戸太郎)  に冠せられていることも多い・・・    ↓↑  頼衡の5人の兄達は  通称(別名)から基盤地域を持っていた  或いは地域に何らかの関わりがあった・・・  頼衡に関する記録や伝承の中からは  それらを読み取ることができない  通称の読みが同じである  長兄・国衡  との関連や、後述の伝承から  文治五年(1189年)時点で  16歳前後だったとすると  基盤となる地域を所有していなかった・・・  ↓↑   出羽国  置賜郡  米沢の  錦戸薬師堂の由来に  頼衡  が輿に奉安し、  鳥越を越えて  守本尊の  薬師像を当地に運んだ伝承・・・  頼衡の  長兄  国衡(西木戸太郎国衡)  が阿津賀志山の戦いで  鳥取越を奪われて・・・・鳥取越?  源頼朝の軍に敗れ  僧に守本尊の  薬師像を託して  僧が当地に庵を結んだ・・・  国衡は  大関山を越えて  出羽に逃れる途中で  和田義盛と戦い、討たれた・・・  国衡  と  頼衡  は同一人物で  頼衡の伝は  国衡のものから派生した・・・  次兄  泰衡  も秋田で討たれ  遺体を埋葬した場所に  錦神社が建ち  夫人が亡くなった場所に  西木戸神社が建てた・・・  岩手県  紫波町の  小屋敷地内の  稲荷街道の道端には  錦戸太郎頼衡の墓  と伝えられている  自然石の角柱がある  頂部は斜に切断されてい  頼衡は父  秀衡の死後  義経に通じたことから  次兄  泰衡との間に不和が生じ  頼衡は密かに  平泉を脱出して北方に逃走  紫波町と雫石町の境にある  東根山の山麓で追っ手に捕らえられ殺害された  村人が哀れんで  自然石を立てて墓印とした  これを聞いた  平泉の  泰衡は怒って  直ちに墓石を取りはらうように命じ  里人たちは、止む無くそれを取り覗いて  近くのやぶへ捨ててしまった  それから間もないある晩のこと、  当時奥羽きっての強力者として有名であった  由利八郎がこの地に通りかかったが  墓石を捨てたあたりまでくると  草むらの中か妖しげな光り物がポーと浮かんで  八郎は  「狐狸のしわざに相違ない」  と思いながら、腰の大刀を抜いてこれを斬りつけ  その途端「カチン」という音がしたと思うと、  光り物はゆらゆらと揺れながら飛び出してき  八郎はその後を追いかけたが  錦戸太郎の墓までくると消えてなくなった  八郎の体は汗で満たされ、急に疲れが襲って来た  翌朝、この話を聞いて里人たちが墓のところに来てみると  取り除いたはずの墓石がもとの通りに立っていた  よく見ると  頂部が斜に切断されてい  里人たちは  「八郎の怪力にたよって墓石をもどしてもらったのだろう」  と噂した・・・  別の伝承  『応仁武鑑』の「浪岡記」  青森県青森市浪岡町(津軽の外ケ浜)に  頼衡が次兄の  泰衡と対立した後この地に逃れ  浪岡右京大夫  と名乗ってこの地を支配  浪岡氏(行岡氏)の祖となった・・・  鎌倉時代末期~南北朝時代にかけ  その  浪岡氏に  浪岡秀種(行岡右兵衛大夫秀種)  という人物がおり、  秀種は頼衡の曾孫・・・とされ  秀種は  北畠顕家に仕え  秀種の娘である  頼子(萩の局)は  顕家の妻となり  北畠顕成、女子(安東貞季妻)  北畠師顕らの母になった・・・  顕家の死後、  顕成は外祖父右兵衛大夫を頼り  のちに所領を譲られ、浪岡北畠氏の始まり・・・  頼衡は妻帯者で子供が1人いた・・・ことになる・・・ ーーーーー  ・・・???・・・「度量衡(ドリョウコウ)」・・・「阿倍仲麻呂=朝衡」・・・

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 ・・・スゴイ豪雨・・・「度量衡」の漢字に拘っていたら「衡=コウ=XYZ・・・」の「音訓」の同音異字漢字はもとより、「字面」も「度量衡=ドリョウコウ=説両行」などと「変換」したくなる・・・「平行」ではなく「両行」である・・・「両行=古代中国の『荘子』に出てくる言葉・仏教の説く中道に似た言葉・智慧と慈悲のどちらにも偏らないことを意味?」ですか・・・ここは水曜日と土曜日がゴミ収集車の巡回日である・・・20リットル容量の燃えるゴミ、燃えないゴミ、資源ゴミのビニール袋は「一袋=80円」である・・・ゴミの分別、「偏らずにはいられない」が、認識する対象存在、対象状況、対象情況を認識論的に展開すれば、「矛盾」の分別の「相対化」、そして無分別の「一体化」は「観自在(対象を観て判断するの自分自身の認識、思惟、判断)」である、と云うことだろう・・・  「観自在菩薩=観世音菩薩」・・・ ーー↓↑ーー  観自在菩薩  アヴァロキテシュヴァラ  Avalokiteśvarabodhisattva  ↓↑  「観音経」などで説かれる菩薩  この名称は  「鳩摩羅什(くまらじゆう)」の旧訳  「玄奘(げんじよう)」の新訳では  「観自在菩薩」  「衆生(しゆじよう)の声を聞き   その求めに応じて救いの手をさしのべる   慈悲深い菩薩」  「勢至菩薩とともに阿弥陀仏の脇侍」  住所は「補陀落(ふだらく)」  日本では「那智山(なちのやま)」  観音=施無畏者(せむいしや)=円通大士=救世円通  観音菩薩(かんのん ぼさつ)  (Avalokiteśvara)  仏教の菩薩の一尊  観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)  観自在菩薩(かんじざいぼさつ)  とも  救世菩薩(くせぼさつ・ぐせぼさつ)  など多数の別名がある・・・  ↓↑  エローラ石窟群、サールナート  などインドの仏教遺跡においても  観音菩薩像と思しき仏像が発掘  ゾロアスター教において  アフラ・マズダーの娘とされる  女神アナーヒター  や  スプンタ・アールマティ  との関連が指摘されている  サンスクリット語  の  アヴァロキテシュヴァラ(Avalokiteśvara)を  玄奘は  「見下ろす(avalokita )」  と  「自在者(īśvara)」  の合成語と解釈し  「観自在」と訳した  鳩摩羅什訳は  「観世音」であったが  玄奘は  「古く光世音   観世音   観世音自在」  などと漢訳しているのは  全てあやまりである、と・・・  ↓↑  「観世音」という訳語  「観音経(法華経・観世音菩薩・普門品第二十五)」   趣意を取って意訳・・・  中央アジアで発見された  古いサンスクリットの『法華経』では  「アヴァロキタスヴァラ(avalokitasvara)」  となっており、  「見下ろす(avalokita)」+「音・声(svara)」  と解され  古訳では  『光世音菩薩』の訳語もあることなどから  異なるテキストだった可能性・・・  ↓↑   「観音菩薩」という呼び名  一般的には  「観世音菩薩」の略号と解釈  唐代に「世」の文字が  二代皇帝  太宗  李世民  の名(諱)の一部であったため  避諱により唐代は「世」の文字は使用できなくなった  そのため  「観音菩薩」となり、  唐滅亡後も、この名称が定着・・・  日本語の「カンノン」は「観音」の  「呉音読み」であり、  連声によって  「オン」が「ノン」になった・・・  ↓↑  「六道の衆生を済度する六体の観音」  「摩訶止観」では  大悲・大慈・師子無畏・大光普照・天人丈夫・大梵深遠  をあげる  「密教」では  聖観音・千手・馬頭・十一面・准胝、または不空羂索・如意輪  ↓↑  六観音=天台宗の「摩訶止観」に説く      六道の煩悩を破砕する      大悲・大慈・師子無畏・大光普照・天人丈夫・大梵深遠      の六体の観音 ーー↓↑ーー  藤原三代(清衡・基衡・秀衡) ーー↓↑ーー  長治二年(1105年)  清衡は  平泉に  最初院(中尊寺)を建立  永久五年(1117年)  基衡が  毛越寺(もうつうじ)を再興・・・毛を越えるジ? ーーーーー  「午(うま・ゴ)」=「ノ一𠂉(髪挿し)」+「十」 ーー↓↑ーー  「源の義の経」って? ーー↓↑ーー  搦手軍の  源義経  鵯越(ひよどりごえ)で・・・「鵯=卑+鳥」+「越=走+戉」                     戉=まさかり=鉞  軍を二分  安田義定  多田行綱  らに大半の兵を与えて  通盛  教経  の1万騎が守る  夢野口(山の手)へ向かわせ  義経は  70騎で山中の路を西へ転進  猟師が  鵯越は到底人馬は越えることのできぬ  難路であると説明  義経は鹿はこの道を越えるかと問い  冬を挟んで餌場を求め鹿が往復すると答えた  義経は  「鹿が通えるならば、馬も通えよう」  と言い案内するよう求めたが  老猟師は自分は歳をとりすぎているとして  息子を紹介  義経はこの若者を  郎党に加え  鷲尾三郎義久・・・鷲の尾の三郎(さぶろう)               義久(ギキュウ)  と名乗らせた・・・  義経ら70騎は  平氏の  一ノ谷  陣営の裏手に出  断崖絶壁の上で  平氏は山側を警戒していなかった  ↓↑  生田の戦い  二月七日払暁  義経の部隊から抜け出した  熊谷直実・直家父子  と  平山季重  らの5騎が  忠度の守る  塩屋口の西城戸に現れ  名乗りを上げて合戦が始まった  平氏は最初は少数と侮っていた、が  兵を繰り出して  直実らを取り囲み  討ち取りかけた時に  土肥実平  率いる7000余騎が駆けつけて激戦・・・  午前6時  知盛  重衡・・・・重なる衡(ひら・コウ)  ら  平氏軍主力の守る東側の  生田口の陣の前には  範頼率いる  梶原景時、畠山重忠  以下の大手軍5万騎が布陣  範頼軍  は激しく矢を射かけるが  平氏は壕をめぐらし、  逆茂木(さかもぎ)  ↓↑ ・・・敵の侵入を防ぐために、先端を        鋭く尖らせた木の枝を        外に向けて並べ結び合わせた柵(さく)        さかもがり        鹿砦(ろくさい)        鹿角砦(ろっかくさい)        敵の侵入を防ぐため        荊(茨・棘・いばら)などの        トゲのある木の枝を並べて垣にしたもの        溝の中から枝が付いたままの木が        幾重にも重ねたもの        溝の中に杭を打ち込み        縦木、 横木、斜めに枝のついたままの        木(逆茂木)を絡ませ  ↓↑    溝を埋め戻して固定する構造  を重ねて  陣を固めて待ちかまえ  平氏軍も矢を射かけて応戦  平氏軍は2000騎を繰り出し  白兵戦を展開  範頼軍は  河原高直、藤田行安  らが討たれ、死傷者が続出  そこへ  梶原景時・景季父子が  逆茂木を取り除き、  ふりそそぐ矢の中を突進して  「梶原の二度懸け」  ↓↑  ・・・梶原景時=鎌倉幕府の御家人      石橋山の戦いで源頼朝を救って      重用され侍所所司、厩別当      和歌を好み、武家百人一首にも選出      都の貴族からは      「一ノ郎党」      「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されいた      源義経と対立し頼朝に讒言した      梶原景時の変      正治元年十月二十五日      (1199年11月15日)          ~      正治二年一月二十日      (1200年2月6日)      源頼朝死後      梶原景時が御家人      六十六名の      連判状によって      幕府から追放      一族が滅びた・・・      子供      梶原景季      梶原景高      梶原景家      ・・・「景」の漢字名を有する人物       「大庭景親・大庭景義」         「景行天皇」?  ↓↑   「高橋景保」?  と呼ばれる奮戦を見せた  義経と分かれた  安田義定  多田行綱・・・通称、六条蔵人・多田太郎・多田蔵人         伯耆守・摂津国多田荘が本拠         1177年        「鹿ヶ谷(ししがたに)事件」で謀議に加わり         平清盛に密告、内通         寿永二年(1183)         摂津・河内で反平氏勢力を組織         後、         西海に逃亡した「源義経」を         摂津河尻で攻撃した  らも  夢野口(山の手)を攻撃  生田口、塩屋口、夢野口で激戦  平氏は激しく抵抗し  源氏軍を阻んだ  ↓↑  逆落とし  精兵七十騎を率い  一ノ谷の裏手の断崖絶壁の上に立った  義経は戦機と見て坂を駆け下る決断  『平家物語』によれば  義経は馬2頭を落とし  1頭は足を挫いて倒れるが  もう1頭は無事に駆け下った  義経は  「心して下れば馬を損なうことはない。   皆の者、駆け下りよ」  と言うや先陣となって駆け下った  坂東武者たちもこれに続いた  二町ほど駆け下ると、  屏風が立ったような険しい岩場となっており、  坂東武者も怖気づくが、  三浦氏の一族  佐原義連が  「三浦では常日頃、ここよりも険しい所を駆け落ちているわ」  と言うや、真っ先に駆け下り  義経らもこれに続き  大力の  畠山重忠  は馬を損ねてはならじと  馬を背負って岩場を駆け下った  『吾妻鏡』によれば  畠山重忠は範頼の大手軍に属しており  義経の軍勢にはいない・・・  ↓↑  崖を駆け下った義経らは  平氏の陣に突入攻撃  一ノ谷の陣営は大混乱  義経はそれに乗じて方々に火をかけ  平氏の兵たちは海へと逃げ出した  ↓↑  『吾妻鏡』では  「源九郎(義経)は   勇士七十余騎を率いて、   一ノ谷の後山(鵯越と号す)に到着」  「九郎が三浦十郎義連(佐原義連)ら勇士を率いて   鵯越(この山は猪、鹿、兎、狐の外は通れぬ険阻である)   において攻防の間に、   (平氏は)商量を失い敗走、   或いは一ノ谷の舘を馬で出ようと策し、   或いは船で四国の地へ向かおうとした」  とあり、  義経が70騎を率い、  険阻な  一の谷の背後(鵯越)から  攻撃を仕掛けた  これが「逆落し」を意味するとされている・・・  ↓↑  九条兼実の日記『玉葉』では  搦手の義経が  丹波城(三草山)を落とし  次いで  一ノ谷を落とし  大手の  範頼は浜より福原に寄せた  多田行綱は山側から攻めて  山の手(夢野口)を落とした。  と戦況を書き残している  義経が  一ノ谷を攻め落としたことは記しているが、  逆落しの奇襲をかけたとは書いていない。 ーーーーー  ・・・???・・・源九郎(義経)の最後・・・  頼朝と対立し朝敵とされ  難を逃れ再び  藤原秀衡を頼ったが  秀衡の死、  頼朝の追及を受けた  当主  藤原泰衡  に攻められ、  平泉の  衣川館で自刃   ↓↑  藤原秀衡  は  関東以西を制覇した  頼朝の勢力が  奥州に及ぶことを警戒し  義経を将軍に立てて  鎌倉に対抗しようとしたが  文治三年(1187年)十月二十九日病没  頼朝は  秀衡の死を受けて後を継いだ  藤原泰衡に  義経を捕縛するよう  朝廷を通じて強く圧力をかけ  義経追討を自身が受け  奥州に攻め込めば  泰衡と義経は  秀衡の遺言通り  共闘する怖れがある  泰衡に義経を追討させることで  2人の間に楔を打ち  奥州の弱体化を図った  「亡母のため五重の塔を造営すること」  「重厄のため殺生を禁断すること」  を理由に年内の軍事行動はしないことを表明し  頼朝自身が義経を追討することができない  表面的な理由としたかった・・・  義経は  文治四年(1188年)二月  出羽国に出没  鎌倉方と合戦  文治五年(1189年)一月  義経が  京都に戻る意志を書いた手紙を持った  比叡山の僧が捕まるなど  再起を図った  義経の行動に関しては、  度重なる追討要請により  泰衡  との齟齬が激しくなったために  京都へ脱出(帰京)しようとしていた・・・  義経  と  泰衡  の駆け引き、葛藤・・・  泰衡は再三の鎌倉の圧力に屈し  「義経の指図を仰げ」  という父の遺言を破り、  閏四月三十日  500騎の兵をもって  10数騎の義経主従を  藤原基成の  衣川館に襲った(衣川の戦い)  義経の郎党たちは防戦し  ことごとく討たれ  館を  平泉の兵に囲まれた義経は  一切戦うことをせず  持仏堂に籠り、  正妻の  郷御前  と  4歳の女子を殺害  後  自害  享年31 ーーーーー  ・・・???・・・苦労半眼偽計のヨシツネ・・・蝦夷に渡り、樺太、そして中国東北部、満州に入り「ジンギスカン=成吉思汗=モンゴル帝国を建てたチンギス・ハン(1162~1227)」になった・・・???・・・「蒼き狼」・・・

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 ・・・東北、秋田 雄物川と福部内川、猿田川が氾濫、大雨、河川氾濫、大洪水・・・みなさん、ガンバって・・・お見舞い致します・・・TVのニュースを観ながら為す術もなく、「嗚呼、またかッ!」と、溜息ばかりデス・・・「嗚(口+烏)」、「呼(口+乎)」・・・「須佐之男=スサノオ=素戔男=素戔嗚」の「尊=ミコト→見事」、太陽神、天照大神(おおかみ)の弟だが、退治したのは「ヤマタノオロチ(八岐大蛇・八俣遠呂智・八俣遠呂知)」だが、「河川の堤防の治水工事」だったと考えたいが・・・豪雨と日照り、旱魃は「両行」の表裏一体である・・・  「烏(からす・ウ)」の漢字は「鳥」の漢字と比べ「一(壱・壹)」が無いのである・・・大陸、半島の「韓の州」には「一(壱・壹)=位置・位地・市」がない、と云うコトである?・・・「韓」には「壱の與」、「壹・臺・市」與、「十三歳の卑弥呼の宗女」の「イチ与・イチ輿」、「與=地図・地理史・御輿(神輿)」が存在しない?、であるカナ・・・「蒼きオオカミ」の・・・「情報」、「人情」、「愛情」・・・「情=忄(心)+青(主+月)」・・・「月」は「月=肉(ジク→字句)=舟=冃(頭巾・ボウ)」の代用の偏旁=ヘンボウ=変貌・・・ ーーーーー  異国情緒・異国情調・一往深情・一切有情・有情世間・有情非情  烏鳥私情=烏鳥私情、三枝之礼、 反哺之孝(ハンポのコウ)       烏(からす)の子が成長してから親烏に       食物を咥(くわ)え与えて養育の恩に報いるように       反哺して親の恩に報いるような孝行」       烏賊(いか)=烏(からす)を騙して巻き取る              いか=墨魚・烏鰂・烏鯽       烏(な)んぞ、有らんや=どうして有るだろうか  感情移入   ↓↑  「情=なさけ・ジョウ     情合・情愛・情意・情意投合     情炎・情縁・情火・情歌     情景・情交     情が移(染・罹)る   ↓↑         温情・苦情・強情・私情・事情・実情・純情     情状・心情・痴情・同情・内情・人情・発情・非情     欲情・懇情・有情・春情・詩情   ↓↑     人が本来もっている性質     他人を気の毒だと思う気持ち     思いやり     愛情・恋情・情交・ 情を交わす     実際の様子・事情・情を知る・情を通じる     意地。頑固     情緒・情調     純情可憐     情状酌量 ーーーーー

 オオカミの変貌、変身・・・  「ジャッカル(ジャコール)   キンイロジャッカル(Canis aureus)   シュリガーラ (śṛgāla)   胡狼・Jackal・野干・悉伽羅   シャガール (shaghāl)   チャカル (çakal) )」  「アヌビス(Anubis・エジプト語ラテン文字転写=inpu(インプゥ)・古代ギリシア語(Ánūbis) )・アンプウ・ミイラ作りの神(imiut)・冥界の神・リコポリスの守護神」 ーー↓↑ーー 「烏焉魯魚(ウエンロギョ)=文字の書き誤り」  「烏と焉」、「魯と魚」の字形が似て、間違えやすい   ↓↑  「烏焉成馬(ウエンセイバ)」  「魯魚之謬(ロギョのあやまり」  「魯魚亥豕(ロギョガイシ)」  「魯魚陶陰(ロギョトウイン)」  「魯魚章草(ロギョソウショウ)」  「魯魚帝虎(ロギョテイコ)」  「亥豕之譌(ガイシのガ)」  「焉馬之誤(エンバのあやまり)」  「三豕渡河(サンシトカ)」   ↓↑  「烏喙(ウカイ)」=カラスのようなくちばし・欲深い人相  「烏克蘭(ウクライナ)=Wikipedia」   ヨーロッパ東部、黒海北岸に臨む   チェルノーゼム地帯を占める共和国   ↓↑  「烏合の衆=ウゴウのシュウ」=規律も統一もなく                 寄せ集められた多くの人々                 「烏集の交わり」  「烏骨鶏(ウコッケイ)=ニワトリの一品種、東アジア原産              観賞用、食肉用              皮膚・肉・骨が暗紫色を帯びている   ↓↑   「烏盞(ウサン)」=黒の釉うわぐすりをかけた            天目てんもく茶碗・献茶に用いる            「胡盞」とも書く   ↓↑  「烏漆(ウシツ)」=漆黒・光沢のある黒色  「烏鵲(ウジャク・ウシャク)」=カササギ・カササギとカラス  「烏鵲の智(ウジャクのチ」=遠い先のことばかり心配して                身近な危険を考えないこと       カササギが強風を避けて       低い枝に巣を作るのはよいが       そのために       ヒナや卵が危険にさらされることを忘れている       「烏鵲=鳥鵲」とも   ↓↑  「烏鵲橋(ウジャクキョウ」=七夕、牽牛と織女を会わせるため                カササギが翼を並べて                天の川に渡す橋                男女の仲を取り持つものの意               「鵲の渡せる橋」               「鵲の橋」               「鵲橋(ジャッキョウ)」   ↓↑  「烏集(ウシュウ)」=囀る烏のように寄り集まること=「烏合」  「烏集の交わり」=相手かまわず結びついた交わり           利欲のためにすぐに争いを起こす交わり  「烏頭(ウズ・ウヅ)」=トリカブトの根              有毒でアコニチンを含有              鎮痛剤・麻酔剤              附子(ブシ)              カラスの頭に似た形をしている   ↓↑  「烏鳥の私情」=子どもが親に養われた恩を忘れずに          孝養をつくす情愛          カラスは雛のとき養われた恩返しに          口の中に含んだ食物を口づたえに          親鳥に食べさせる孝行心があるという伝説         「烏鳥私情」         「反哺(ハンポ)之孝(コウ)」「         「反哺之心」 「反哺之羞(シュウ)」         「三枝之礼(サンシのレイ)」         「慈烏反哺(ジウハンポ)」   ↓↑  「烏兎(ウト)」=太陽と月           太陽にはカラス(金烏)           月にはウサギ(玉兎)           年月・月日・歳月  「烏兎匆匆(ウトソウソウ)」=月日が                 慌(あわ)ただしく                 過ぎ去るようす  「烏飛兎走(ウヒトソウ)」   「露往霜来(ロオウソウライ)」   「光陰如箭(コウインジョセン)」  「烏白馬角(ウハクバカク)」=絶対に起こりえないこと                 カラスの頭が白くなり                 馬に角が生える                 「亀毛兎角」・「兎角亀毛」  「烏飛兎走(ウヒトソウ)」=「烏兎匆匆」=「兎走烏飛」   ↓↑  「烏文木(ウブンボク)」=黒檀(コクタン)               「烏木(ウボク)」とも   ↓↑  「烏薬(ウヤク)」=テンダイウヤク・その根を乾燥した生薬            漢方で健胃薬・鎮痙薬   ↓↑  「烏有(ウユウ)」=まったくないこと・何もなくなること            「烏いずくんぞ有らんや」            「烏有に帰す」            何もなくなる            火災などですべてを失う            「苦労して集めた書物も烏有に帰(属)す」            「灰燼(カイジン)に帰す」   ↓↑  「烏魯木斉(ウルムチ)」=ウルムチ(Wulumuqi)               中国新彊ウイグル自治区の区都   ↓↑  「烏鷺(ウロ)=カラスとサギ・黒と白のこと          囲碁の別称  「烏鷺の勝敗を決する」=「烏鷺の争い」=囲碁の勝負   ↓↑ 「烏帽子(えぼし)」=昔、元服した公家、武士などが             かぶった帽子             古くは紗絹(シャキヌ)             後に             紙を使い黒い漆でぬり固めて作った   ↓↑ 「烏滸(オコ)」=愚かなこと(人)・ばかげたこと(人)          「烏滸の沙汰(ばかばかしいこと)」           「尾籠・痴」とも 「烏滸(おこがましい)」=おこがましい・ばかげている               みっともない              「口にするのも烏滸がましい」              「身のほどしらずでなまいきである」              「さしでがましい」   ↓↑  「烏=からす・ウ」  カラス科の鳥  体色は黒・雑食性・鳥類の中で知能が高い  カラス=ハシブトガラス・ハシボソガラスの二種      翼長35?前後      人里近くの高い木などで群れて生活      昔から不吉な鳥・・・?      「鴉・慈鳥」とも書く   ↓↑  「烏竹(くろちく)」=ハチクの栽培変種             茎が紫褐色・細工物などに用いる             「紫竹、黒竹」とも書く。  「烏豆(くろまめ)」=大豆の一種・豆の外皮の黒いもの             正月のおせち料理などで用いる             「黒豆」とも書  「烏樟(くろもじ)」=クスノキ科の落葉低木             「クロモジ(烏樟)=黒文字」とも  「烏芋(くわい)」=オモダカ科の多年草            野菜として水田などで栽培            青みがかった塊状の地下茎を食用にする            球塊の上部に芽が出ていることから            「芽が出る・めでたい」として            正月料理などに使う            「慈姑」とも書く  「烏木(こくたん)  東南アジアに分布する  カキノキ科の常緑高木  光沢のある黒色の材は緻密で堅く  高級家具などの材料  「烏木」は漢名から。「黒檀」とも書く   ↓↑  「烏臼(なんきんはぜ)」  トウダイグサ科の落葉高木  中国原産・暖地で栽培・葉は菱形で紅葉が美しい  種子からとった脂肪は  石鹸、蠟燭(ろうそく)の原料  根皮は利尿剤  「南京黄櫨」とも書く。   ↓↑  「烏玉・烏珠=ぬばたま」  黒い珠、ヒオウギ(檜扇)の実のこと・・・  和歌において  「ぬばたまの~」は 「黒・夜・髪・夢」などにかかる枕詞  「射干玉・野干玉」とも書く  「うばたま・むばたま」ともいう。   ↓↑  「屋烏の愛(オクウのアイ)」  人を愛すると  その家の上にとまっている烏までも イトおしくなるということ  愛情が深いこと  「愛及屋烏(アイキュウオクウ)   愛屋及烏(アイオクキュウウ)」   ↓↑ 「金烏玉兎(キンウギャクト)」=太陽と月・月日のたとえ  「金烏」=太陽にいるという三本足のカラスで日      月にいるというウサギで月  「白兎赤烏(ハクトセキウ)」  「慈烏反哺(ジウハンポ)」  子どもが親の恩に報いて親孝行を尽くすこと  カラスは成長すると親に口移しで餌を与えるということから  「慈烏」=カラスの異称  「反哺」=口の中の餌を口移しで食べさせること  「烏鳥の私情」  「反哺之孝・反哺之心・反哺之羞・三枝之礼」   ↓↑  「白兎赤烏(ハクトセキウ)」=時間のこと                 烏兎                 「金烏玉兎」   ↓↑  カラスの象形  金文の字形は、死んだカラスをつるした形  羽をバラバラにして縄にかけわたした形は、「於」。   ↓↑  古代もカラスは害鳥・・・?  カラスを  つるして被害を避けていた・・・カラスを吊るす?  「烏」も「於」も  感動詞「ああ」に用いられ・・・ああ=嗚呼・噫・嗟乎・于=於  烏追いの声を  感動詞に用いた・・・ ーー↓↑ーー   カラスの赤ちゃん なぜなくの   こけこっこの おばさんに   赤いおぼうし ほしいよ   赤いおくつも ほしいよ    と カアカア なくのね  (作詞、作曲とも海沼實)・・・海の沼の實   ↓↑   烏 なぜ啼くの   烏は山に   可愛七つの   子があるからよ   可愛 可愛と   烏は啼くの   可愛 可愛と   啼くんだよ   山の古巣へ   行って見て御覧   丸い眼をした   いい子だよ  (野口雨情が作詞・・・野口の雨の情   本居長世が作曲)・・本の居の長い世・・・本居宣長の末裔 ーーーーー  ・・・

・・・「虎の威を借る狐=寅の意を借る紀通根=訳等の意を箇留、記通音?」、「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず=化伝似句通を要例事、理化似換務理を正さず?」・・・前回の「カラス=唐洲・香良洲・加羅州・韓州=烏・鴉」だが・・・「カラス天狗」と関係あるのかな・・・「深山に住むという妖怪・山伏姿で、顔が赤く、鼻が高く、背に翼があり、手足の爪が長く、手には羽団扇 (はうちわ) ・太刀・金剛杖を持ち神通力があって、自由に飛行するという・鼻の高い大天狗や烏天狗など」、「自慢すること・己惚れること・高慢、傲慢なこと」、「落下の際に大音響を伴う、非常に大きな流星、隕石・天狗星=凶事を知らせる流星」、「一切身分光燄騰赫 見此相者皆言-憂流迦(ウルカ=Ulkā)下・魏言-天狗下」、「天狗倒し=深山で、突然すさまじい原因不明の大音響が起こり、行ってみるとなんの形跡もないこと・原因不明で、突然すさまじい音がして倒れそうもない大きな建物が倒壊すること」・・・「天(二人)」の「狗(犭勹口)=いぬ・ク・コウ・孔子曰く、狗は叩(コウ)なり、気を叩き、吠えて以て守ると、犬に従ひ、句を聲とす」・・・「あまのいぬ・テンのグ」・・・二人の獣の「つつみがまえ・被う・覆う・隠す・包(くる)む」・・・「勹の字=「ヒョウ(ヘウ)・ホウ(ハウ)・人が体を曲げ、人が物を抱えこむ形に象」・・・  「商(殷)の時代の建物の下には、必ず地鎮祭のためにイヌを犠牲として埋めた」・・・。  「漢の時代には、風よけの呪いで、犬の皮を風に面して張った」・・・  「戌の神=風伯」、「飆(ヒョウ)=犬犬犬+風=旋風(つむじ風)」・・・  ・・・「犬が月に吠える(吼える・咆える)」意味が「アルテミス(月の女神)」と「アクタイオーン(Actaeon)」にあった・・・?  月に吠えるのは「オオカミ」だが・・・

ーー↓↑ーー  「リュカオーン(Lykāōn)=狼座」=アルカディアの王  ↓↑               カリストーの父親  ↓↑  「デウカリオーン(Deukalion)の洪水」・・・?  ↓↑  西暦・ユリウス暦  637年  丁酉年・・・・・2017年  舒明天皇  九年  唐王朝貞観十一年  新羅 仁平 四年  ↓↑  蝦夷背いて入朝せず  上毛野形名  を将軍として  蝦夷を討つ  ↓↑  漢字からは「天狗=天の犬」だけれども、「天の犬」なら「大犬座のシリウス」だろう・・・  じゃぁ「小天狗」の「カラス天狗」は「小犬座(Canis Minor)のプロキオン(Procyon)」である・・・  オリオンの「2番目の猟犬」らしいが、「海の犬座」とも・・・  「異伝、別伝では  「イーカリオスと娘のエーリゴネーの飼い犬のマイラ」  で、更には  「アルテミス(月の女神)に鹿の姿に変えられたアクタイオーンを噛み殺した犬(飼い犬にカミ殺された)」  である・・・「悪態於音」・・・「ギリシャ語」で「犬の前に」の意味で、「大犬座のシリウス」が昇る直前に昇ることに由来する・・・  「狼(おおかみ)座・Lupus=ギリシャ神話のリュカオーン」は関係ないのかな・・・九州以南でなければ全体を見られない・・・  「狗尾草(えのころぐさ)」  イネ科の一年草  雑草で高さ30~50センチメートル  茎は叢生(ソウセイ)し、基部で分枝  夏、茎頂に緑色の円柱状で  芒(のぎ)の多い、子犬の尾に似た花穂をつける  ネコジャラシ・・・ ーーーーー  「デウカリオーン(Deukalion)の洪水」・・・出烏化理音?  ↓↑  ゼウスは堕落した  「リュカオーン」と、・・・躘掛音?              「躘=躘蹱(足が よろけるさま)」  彼の息子たち、  彼の人々を洪水で滅ぼした・・・  洪水が来る前に  「プロメテウス」・・・・・風炉女氐照有珠(臼・碓)               附賂目出烏州?  は、息子、  「デウカリオーン」・・・出烏化理音→           crow=クロウ・苦労・九郎・繰ろう               レイヴン(raven)=渡りがらす                        亘鴉  に忠告  箱船を建造させ  洪水の  九日九夜、水上を漂流  パルナッソス・・・・・貼流名通蘇諏(楚洲)  に漂着  洪水後  「デウカリオーン」の願いによって  ギリシャ人の祖、  ヘレーン  アムビクテュオーン  ブロートゲネイア  が生まれた・・・  「リュカオーン」は・・・・・・・・躘(嶐)掛音                   籠・龍・笠・劉・隆  息子達が洪水で殺された時  「狼」になった・・・「狼座」  ↓↑  西暦  ユリウス暦  1006年・・・・・・・・1006年  丙午年  寛弘三年  皇紀1666年・・・・・・1666年・・・林檎の落下で             紐頓(ニュートン・尼通)が                   万有引力発見  北宋 景徳三年・・・・景徳(かげ-とく)  遼  統和二十四年・・統和(すべる-やまと)  高麗 穆宗九年・・・・穆宗(やわらぐ・なごやか・むつまじく)  ↓↑         穆=禾+㣎(白小彡)・㣎=細かい紋様  「おおかみ座」・・・・wolf=ウルフ=烏留附・得る附  領域に  超新星 (SN 1006) が出現  青色巨星  ↓↑  チンギス・カン  (成吉思汗)  大定二年四月十六日  (1162年5月31日)    ~  太祖二十二年七月十二日  (1227年8月25日)  ↓↑  源義経・・・・烏帽子(えぼし)を被った絵  平治元年  (1159年)    ~  文治五年閏四月三十日  (1189年6月15日)  ↓↑

ーーーーー  「カラス(烏=鴉=鵶=雅)  「烏(からす・ウ)」=ノ+尸+一+勹+灬・・・戸=一+尸            =ノ+尸+与・・・丂(コウ)・兮(ケイ・ゲ)            =戶+丂+灬・・・丂=曲がっ た釘の形?               朽=㱙=くちる・キュウ               丂=一+㇉=曲がる・つかえて曲がる                     妨(さまたげ)られる                =ナイフ・小刀              ・・・C、G形の鎌だろう?               巧=たくみなこと・上手なこと                 てわざがうまい・たくみ                「巧を弄(ロウ)して拙を成す」               功=いさお・いさおし・ききめ                 コウ・ク                 手柄                 功罪・功績・功名・功利                 功労・勲功・成功 ・戦功・年功                 奏功・功徳                 工夫・技術・気功                 ききめ・ごりやく     神功皇后=ジンコウコウゴウ=壬項交合(咬合・項合)                   人工・仁行・訊稿・塵考                 丂の異体字は于・考                 声符は「丂」、                 号·號·考·朽·巧·㱙·攷            =戶+一+勹+灬             戶=丿(ヘツ)+尸(しかばね・ヘ・シ)             戸=一+尸(しかばね・ヘ・シ)             户=ヽ(ゝ)+尸(しかばね・ヘ・シ)               ゝ=あるじ・灯火・チョン=全?              =戶・戸・户               と・とかんむり・とだれ・とびらのと          局(つぼね)=尸+勹+口・・・・・口=くち=䪼          扃(とざす)=戶+冋          扁(ひらたい・ヘン)=戶+冊(册)          启=戶+口=ひらく・ケイ           =啟=啓=戸+攴(手の動作)+口」           =戸を手でひらく           「口」は言葉を発する            ひらく・はじめる・言葉を発する・説明            門前で「開門、おたのみ申す」?          𠂤(つちくれ・て・タイ・シ)            追(ツイ)、師(シ)、岐阜(ギフ)            阜=小高い丘、台地              異体字は峊・阝(邑)            𠂤は申の変化した字で紳の意?            𠂤は両手の形?            𠂤は戸棚の象形?            𠂤は「堆」の字・古時、            人工の堆築、堂の基礎            作、兩個 彎曲的扁            軍隊駐紥止息之意・王宿𠂤(師)           「一種象、垂直豎立的山丘,            本意 是小「阜」(孫海波)            裘錫圭認為「𠂤」是古「堆」字,            指、古時人工堆築的堂基            一種作、兩個 彎曲的扁、            表示、軍隊の駐紥止息之意(合集)           「王宿𠂤(師)」、表示、商王、駐紥軍隊」            駐紥軍隊=軍隊の駐屯         扎=「抜く」・しばる・くくる・把・握・摑?  「烏(からす・ウ)」  の漢字は  「鳥(とり)」=白+一+勹+灬  の漢字と比べ  「烏」の構成は  「白=ノ+日」の中に  「一(ひとつ・壱・壹・イチ)」が無いのである ーー↓↑ーー  カラス-ヤンマ=オニヤンマ科のトンボ  カラス-アゲハ=アゲハチョウ科のチョウ  カラス-ガイ=イシガイ科の貝  カラス-ウリ(烏瓜)=ウリ科の多年草  オオ-カラス-ウリ(大烏瓜)=カラスウリ属の多年草  ケ-カラス-ウリ(毛烏瓜)=カラスウリ属の多年草  烏扇(からすおおぎ)=ヒオウギ(桧扇)             アヤメ科の多年草             ヒオウギの花  烏羽玉(うばたま)=サボテン科のペヨーテ            射干玉(ぬばたま)            ヒオウギの実(漆黒色)  カラスザンショウ(烏山椒)=ミカン科の落葉樹  カラスノエンドウ(烏野豌豆)=マメ科の越年草  カラスノゴマ(烏の胡麻)=シナノキ科の一年草  カラスビシャク(烏柄杓)=サトイモ科の多年草  カラスムギ(烏麦)=イネ科カラスムギ属の越年草            カラスムギ属の総称            同属の栽培穀物であるエンバク  ↓↑  白銀のカラスは太陽神アポロンに仕えていた伝令で  美しい声を持ち、  人の言葉も話す賢い鳥だったが  アポロンの愛人コロニスが  イスキュス浮気していると  アポロンに虚偽報告をし  アポロンは怒り  天界から弓で矢を放ち  コロニスを射殺してしまった  アポロンはカラスが虚報したコト知り  カラスの羽の色と美声と人語を奪い  天界を追放、  羽は喪服のように漆黒にされ  醜い鳴き声を発するトリとなってしまった・・・  ↓↑  葦原中国の平定前夜  高天原から  遣わされた  天穂日命(アメノホヒ)が  三年たっても戻って来ないので  天若日子(天稚彦=アメノワカヒコ)  が遣わされたが  彼は  大国主の娘  下照姫命と結婚し  葦原中国に居座って  八年たっても  高天原に戻らなかったので  天照大神  と  高皇産霊神(タカミムスビ)  は  雉(キジ)の鳴女(ナキメ)  を派遣し、その理由を尋ねさせた  その声を聴いた  天探女(アメノサグメ)が  不吉な鳥だから射殺すようにと  アメノワカヒコを唆し  彼は遣わされた時に  タカミムスビから与えられた  弓矢(天羽々矢と天之麻迦古弓)で  雉(キジ)を射抜いた  その矢は高天原まで飛んで  その矢を手にした  タカミムスビは、  「アメノワカヒコに邪心があるならば   この矢に当たれ」  と誓約をして下界に射返しすると  矢はアメノワカヒコの胸に刺さり  彼は死んでしまった・・・「古事記」  ↓↑  水くみをサボって遅れたカラスが  アポロンの怒りを怖れ  コロニスと  イスキュス  の密会をでっち上げて虚報・・・  カラス座(烏座、Corvus)=アルキバ(Alchiba)              =テント(tent・パオ)              =右轄              =curtain・tent・pavilion        モンゴルの天幕=テント(tent・パオ)        ゲルとよばれ、        パオとよばれるのは中国語        満州語で家        カラマツなどの木を骨組みに用いて        格子状の壁を造り羊皮で被う        パオ(包)=遊牧民族の居住用天幕        形が包子(饅頭・マントウ)        に似ている        天井が円錐形、周囲が円筒形で        柳やニレなどの木材で骨格を作り        外側を羊毛のフェルトで覆う  コップ座(Crater)=アルケス(Alkes)            アポロンの            ゴブレット=把手のない酒杯           (飲料用の脚と台のついた大形の杯) ーーーーー  ・・・旧約聖書「創世記・5章~10章・大洪水の後、8章7節」・・・

 烏(カラス)が方舟から放され

 次いで

 鳩(ハト)が放たれ

 水がヒイタことを知らせた・・・  日本列島は方舟になるのは難しい・・・


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