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ナゼ「奥州・津軽・十三湊(みなと)」なのか?



青森県津軽半島北西部の日本海岸にある汽水湖

十三湊遺跡

十三湖西側の十三地区

(五所川原市十三、十三湖大橋南部の日本海と湖に挟まれた地域)

「十三の砂山まつり」=8月14日~16日の盆踊り

盆唄の「十三の砂山」

歌 詞

十三の~砂ア山ナアアアヤ~イ

米イなアらアよオかアろオナア 西の弁財衆ウウにア~エ・・・弁済使=運漕(海運)の従事者

た~だ~つ~ましよ 弁財衆にアナアアアヤ~イ

弁財衆にア西のナア 西の弁財衆ウウにア~イ

た~だアつ~ま~しよ ただつ~ま~しよ

十三の砂山

米ならよかろ

西の弁財衆にただ積ましよ 弁財衆に西のな

西の弁財衆にただ積ましよ

つつじ椿は山でこそ咲くが

今は十三船のともに咲く 十三船の今はな

今は十三船のいともに咲く

笠を忘れた敦賀屋の宿さ

西が曇れば思い出す 曇れば西がな

西が曇れば思い出す

↓↑

地域名「十三」は、語源はアイヌ語の「トー・サム(湖畔)」・・・?

十三の川が流入する湖に由来

アイヌ語で「川尻の湖」

↓↑

13=12+1

  子(12)→丑(1)→寅卯辰巳午未申酉戌亥→子(12)→丑(13)

       牛=ウシ=宇志=大人=主=あるじ・・・紐(ひも)

  12使徒+キリスト+天主(ゼウス・ZEUS=是碓・是臼⇔是ウシ)

  12使徒+キリスト+マリア

    ヘブライ語「ミリアム」

    ギリシア語「マリアム」

   『コーラン』「マルヤム(聖母マリア)」第19章

          マリヤ・マグダレナ(MARY MAGDALENE)

    マグダラの「マリア(羅語 Maria Magdalena)」

          馬利亞・瑪利亞・瑪麗亞・瑪莉・瑪麗

  ↓↑

 イエス=移鼠(大秦景教流行中国碑)・・・移動するネズミ

         781年(唐代 建中二年)

        「伊斯」が建立

        「景浄」が撰碑文

         碑文

         32行・毎行62字・計約1900字

         書は

        「呂秀巌」

        「阿羅本」が景教を伝えた時に

         唐の太宗(タイソウ)=李世民

              第二代皇帝

              高祖=李淵の次男)

         が感激して

         宰相の「房玄齢」に出迎えさせ

         貞観十二年七月に

         詔勅を賜ったこと

         玄宗や

         唐の武将

        「郭子儀」・・・「郭務悰」とはダレ?

         が景教を保護したコトが記録されている

         ↓↑ 

         1623年(天啓三年)or1625年(天啓5年)

         に出土

         明王朝末の

        「ディアス(陽瑪諾)」

         の

        『唐景教碑頌正詮』の序に

        「大明天啓三年」

         ポルトガルのイエズス会士

        「アルヴァロ・セメド(魯徳照)」

         の

        『支那通史』に記録

        ・・・12+1=13=丑=牛

               =大人(宇志=宇宙の志)=主=あるじ

               =一+人+人=一从(從 =従)

  12使徒          

   ガリラヤの漁夫シモン(ペトロ)

         アンデレ(ペトロの兄弟)

         ヤコブ

         ヨハネ(ヤコブの兄弟)

         フィリポ

         バルトロマイ

         トマス

         マタイ

         ヤコブ(小ヤコブ)

         タダイ

     熱心党のシモン

  イスカリオテのユダ

  ↓↑

  13使徒=マグダラの「マリア(羅語 Maria Magdalena)」?

      馬具妥覶の「馬利亞・瑪利亞・瑪麗亞・瑪莉・瑪麗」?      

↓↑

戦国時代の

『廻船式目』に

「三津七湊」の一つとして

「奥州津軽十三湊」と記録

 東北

「阿倍・安東」氏の拠点

江戸時代前期までは「とさ」

    後期以降は「じゅうさん(じふさん)」と読む

↓↑

 ・・・「十三湊(とさみなと)」の壊滅・・・

    「十三歳の宗女 壹與」

           「イオ(Io)」は「ゼウス」の愛人・恋人

            牝牛の姿に変身させられた「イオ」

           「ヘルメース」は「イオ(Io)」を救うため

           「イオ(Io)」の監視人

           「アルゴス」を石で撃ち殺し

           「アルゲイポンテース(アルゴスの殺戮者)」

            と呼ばれた・・・或る解意本出重素?

           「イオ(Io)」はエジプト(埃及)で女王となり

           エジプト人は

           「デメテル=デーメーテール

            出女氐(弖)留?

            出(妥・娞・俀)眼(目)照?

        ・・・武照(曌)=武媚

                 彼女を犯した 

                 ポセイドーン(海神)は

                 馬を贈って

                 彼女の怒りをといた   

                =掟・豊穣・飢餓の女神」

           「イオ(Io)=イーオー」

            を

           「イシス (Isis) =オシリス(Osiris)の妻」

            と呼んだ

 「イオマンテ (iomante) =カムイ(神)を行かせる」儀式

 「イヨマンテ (iyomante)

  伊豫萬氐(弖)?

    流爲(アテルイ)

 ↓↑

 ナンで「とさみなと」なんだか?・・・「土佐港」・・・ ーーーーー  安日彦(アビヒコ)=安日王・・・我孫子(あびこ)           =安日長髄彦      阿毎=阿部・安陪・安倍・阿倍・阿邊(阿辺)         阿武・安歩・焙・虻・炙         那賀須泥毘古(古事記)      登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)      登美毘古(トミビコ)      神武東征に抵抗した河内の豪族の長      安日彦(アビヒコ)という兄がいた・・・  鎌倉~室町期成立の  『曽我物語』に  蝦夷の祖を  流罪にされた  鬼王安日・・・・鬼室福信=?~663年=扶余福信  ↓↑      百済の王族・将軍          義慈王の父で          百済          第三十代武王(余璋)の甥          官位は恩率(三品官)、のち佐平(一品官)          鬼室氏の祖          白村江の戦い(663年)以前に          倭国と百済の連合軍が大敗  ↓↑      鬼宿=和名は魂緒の星(たまおのほし)             魂讚星(たまほめぼし)             二十八宿の一             南方朱雀七宿の第2宿  ↓↑         距星はかに座θ星  とする伝承が記載  長髄彦の兄  彼と共に青森県の弘前に逃れた  or  単独で津軽地方に流された・・・  事記や日本書紀には  安日彦の名は記録されていない  ↓↑  長髄彦一人が大和で死なず  東北に落ち延びた(塩釜神社伝承)  長髄彦(兄の安日彦または兄弟2人)が  津軽に逃げてきたという伝承は  中世以降の創作・・・  ↓↑  登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)  登美毘古(トミビコ)  ↓↑  饒速日命の手によって殺された  ・・・或いは失脚後に故地に留まり死去  自らを後裔と主張する  矢追氏による自死したという説も・・・  ↓↑  旧添下郡  鳥見郷(生駒市北部・奈良市富雄地方)付近  あるいは  桜井市付近に勢力を持った豪族  長髄=邑の名(記紀)  ↓↑  登美夜毘売(トミヤヒメ)=三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)  登美夜須毘売(トミヤスヒメ)  ↓↑  登美毘古(トミビコ)の  妹を  ↓↑ 天の磐舟で・・・磐舟=UFO?     斑鳩の峰     白庭山に降臨した     饒速日命(ニギハヤヒノミコト)     饒速日=邇藝速日(古事記)  ↓↑ 櫛玉命(くしたまのみこと)     飛行神社     京都府八幡市にある神社     飛行機の神     饒速日命と航空事故の犠牲者などを祀る     ギリシャ風の拝殿を持っている     日本で最初に飛行原理を研究した     二宮忠八・・・日本で初めて動力つき模型飛行実験に成功     が創建(1915年・大正四年)     1936年(昭和十一年)・・・十一念?     忠八の死により廃絶・・・・注葉知?     1955年(昭和三十年)     忠八の息子     二宮顕次郎・・・・・・・・顕(日並頁)の                  次(似素意)の                  郎(良阝=邑=大里=都)  ↓↑ によって再興  天照国照彦-火明-櫛玉(奇霊・奇魂)-饒 速日命  ↓↑               =邇藝速日(古事記)  ↓↑ 物部氏、穂積氏、采女氏、熊野国造らの祖神・・・  ↓↑  の妻とし、仕え・・・「宇摩志麻遅命=可美真手」を産んだ  中世の武将の  伊達家が長髄彦の子孫・・・  神武天皇が  浪速国  青雲の  白肩津に到着したのち  孔舎衛坂(くさえのさか)で迎え撃ち  天皇の兄の  五瀬命は  矢に当たって負傷、死亡  後  八十梟帥  兄磯城  を討った皇軍と再び戦い敗北  金色の鳶が飛んでき  神武天皇の  弓弭に止まり  長髄彦の軍は  眼が眩み、敗戦 ーーーーー  秋田氏の系譜  先祖に由来する  「伊駒姓」  伊駒長脛(ナガスネ)のこと  生駒市北部  奈良市富雄を勢力範囲としていた古代の王  登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)=登美毘古(トミビコ)  神武東征に対し最大の抵抗をした豪族  ↓↑   明治維新後  秋田田子爵家が宮内庁に系図を求められ  「安日長髄を先祖」とする一族の  「秋田家の系図」  「孝元天皇-開化天皇-大毘古命(大彦命)安倍将軍   是、安倍姓元祖-建沼川別命安倍将軍」  安日王   兄   長髄彦   弟   安国 安日後孫  安東(はる)崇紙天皇御宇  賞二軍功一賜二安倍姓一致(むね)東(はる)  号二奥州日下将軍一・・・日下将軍?  ↓↑   秋田市子爵家の後見職  秋田主税(ちから)は  「当家は姓を賜って   安倍を称した   安倍姓の祖系を先に掲げ   当家の年来の慣例   これを宮内省で   秋田家の系図として納めた」  大毘古命(大彦命)の末裔の安倍姓は  奥州の安倍氏とは血脈の上ではまったく関係がない  ・・・(浪岡具雄の伝承)?  ↓↑  秋田氏=本姓が安藤(安東)  古代  陸奥国俘囚の長であった  安倍貞任の子孫・・・  中世  今の秋田県北部から青森県全域、北海道南部までを勢力圏  津軽十三湊を本拠地  とし貿易や水軍活動  「蝦夷管領」  「日の本将軍」  と称された・・・  後、  檜山安藤氏(下国家)  と  湊安藤氏(上国家)  に分かれ、南部氏の勢力に押され  出羽国に本拠地を移し  天正年間の  愛季に至り、両家が合体  愛季は  天正十七年(1589)  居城を檜山(能代市)から  湊(秋田市土崎)へ移し  律令官職である  「秋田城介」を名乗った  以後  秋田氏と称するが  本姓の安倍  従来の安藤(安東)姓が併用  先祖に由来する  伊駒姓も使用・・・  ↓↑    長脛=イギリスの長脛王     エドワード1世(Edward I)     1239年6月17日~1307年7月7日・・・130777・・・?     プランタジネット朝     イングランド王     在位1272年11月17日~1307年7月7日     渾名は    「Longshanks(ロングシャンクス・長い足・長脛王           身長が190cm)     Hammer of the Scots(ハンマー・オブ・ザ・スコッツ     スコットランド人への鉄槌)」     エドワード1世 (イングランド王) (Wikipedia) ーーーーー  突厥=前身は     阿史那(アシナ=蘆名・芦名・葦名・足名)     烏孫→阿史那→突厥     アシナ⇔アテネ(ギリシア語: Αθήνα; Athína         Athinai・古代ギリシア語=Athēnai)         ギリシャ共和国の首都         アッティカ地方の古代からの都市     アテナイ=Athēnai     現代ギリシア語文語 (カサレブサ) で     アシネ=Athínai     現代ギリシア語口語 (ディモティキ) で     アシナ=Athína     アテネはラテン語     1970年代     カサレヴサ(文語)の使用が停止されるまで     公式名称は     Ἀθῆναι=アシネ([aˈθine])     カサレヴサ廃止以降     Ἀθήνα=アシナ

    女神アテナ・・・ゼウスの頭頂部より             武装して鎧を纏った姿で出現     と     海神ポセイドン     との争い     ポセイドンは三叉の槍(海軍力の象徴)で     地を突き海水を湧き出させ     アテナは     オリーヴの木を生い立たせ     国王ケクロプス、住民は     オリーヴの木を択び     アテナの名を都市の名とした     アテネ市=τὸ κλεινὸν ἄστυ=栄光の都     古代ギリシアの詩人     ピンダロスが      ἰοστέφανοι Ἀθᾶναι と呼んで     「紫冠の都(en:City of the Violet Crown)」 ーーーーー  突厥=前身は阿史那(アシナ=蘆名・芦名・葦名・足名)     烏孫→阿史那→突厥

    アシナ⇔アテネ(ギリシア語: Αθήνα; Athína         Athinai・古代ギリシア語=Athēnai)         ギリシャ共和国の首都         アッティカ地方の古代からの都市     アテナイ=Athēnai     現代ギリシア語文語 (カサレブサ) で     アシネ=Athínai     現代ギリシア語口語 (ディモティキ) で     アシナ=Athína     アテネはラテン語     1970年代     カサレヴサ(文語)の使用が停止されるまで     公式名称は     Ἀθῆναι=アシネ([aˈθine])     カサレヴサ廃止以降     Ἀθήνα=アシナ     女神アテナ・・・ゼウスの頭頂部より             武装して鎧を纏った姿で出現     と     海神ポセイドン     との争い     ポセイドンは三叉の槍(海軍力の象徴)で     地を突き海水を湧き出させ     アテナは     オリーヴの木を生い立たせ     国王ケクロプス、住民は     オリーヴの木を択び     アテナの名を都市の名とした     アテネ市=τὸ κλεινὸν ἄστυ=栄光の都     古代ギリシアの詩人     ピンダロスが      ἰοστέφανοι Ἀθᾶναι と呼んで     「紫冠の都(en:City of the Violet Crown)」

ーーーーー  蘆名氏(あしなし)  桓武平氏系統の三浦氏から興った氏族  相模国  蘆名(横須賀市芦名、芦名城)の地名に由来  「芦名氏」「葦名氏」  「三浦芦名家」と表記される事もある  相模  蘆名氏  と  会津  蘆名氏の二つの系統が存在  通し字は  前者は「為」  後者は「盛」  蘆名 盛氏(あしな もりうじ)  戦国時代の陸奥国の武将・戦国大名  蘆名氏第十六代当主 ーーーーー  突厥=トゥルク     突厥の発祥     西海(地中海)から中央アジアへ移住     窮地を狼に救われた     烏孫=突厥     烏孫の移動ルート  『東日流外 三 郡 誌』  (つがるそとさんぐんし)  津軽地方支配の  荒吐族(あらはばきぞく)  その王  阿倍氏⇒安東氏⇒秋田氏  その都  十三湊(とさみなと・青森県五所川原市の十三湖の辺り)  ↓↑  「アラハバキ」=縄文の遮光器土偶・・・  「ナガスネヒコは   兄の   安日彦(アビヒコ)とともに   津軽に渡り   津軽の土着民   阿蘇辺族   津保化族   と併合し   荒吐族となった」・・・   和邇氏(海神族)の協力を経て北上し   兄   安日彦(アビヒコ)とともに   青森県は津軽(東日流=つがる)に落ち着いた   大阪の十三(じゅうそう)や   十三湊(とさみなと)   という地名は   アビヒコの弟   トミヒコ(ナガスネヒコ)が語源 ーーーーー  ・・・  鎌倉時代後期  豪族・安東氏(津軽安藤氏)の本拠地  和人と蝦夷地のアイヌとの交易拠点  文明年間(1469~87年間・戦国時代初期       or戦国時代末期(16世紀末、17世紀初頭)・・・  日本最古の海洋法規集『廻船式目』が  「三津七湊」について  七湊の一つとして  「奥州津軽十三湊」記録  後代  朝鮮半島や中国などと交易・・・  遺跡は東西に延びる土塁を境に  北側には安東氏や家臣たちの館  南側には町屋が整然と配置  室町時代中期  安東氏が南部氏に敗れて支配地を失って  夷島(蝦夷地)へ逃げ  十三湊は衰微し  和人・蝦夷間の交易拠点としての地位は  野辺地湊(野辺地湾に面する湊・上北郡野辺地町域)  盛岡藩の北の門戸へ移った  大浜=大濱(青森市油川地区)  飛砂が堆積して水深が浅くなり  港としての機能は低下  16世紀後半から再び整備復興  江戸時代  岩木川を下ってきた米を  十三湊から  鯵ヶ沢湊(西津軽郡鰺ヶ沢町域)へと運ぶ  「十三小廻し」が行われた  ↓↑  『東日流外三郡誌』  興国元年(1340年・南北朝時代初期)  大海嘯(大津波)によって  十三湊は壊滅的被害  安東氏の政権は崩壊・・・  発掘調査で津波の痕跡は無し?  興国二年以後  十三湊は重要な湊として数々の文献に記録  1993年(平成五年)  青森県古文書研究会が  同書を偽書と断じた・・・?・・・偽書を作った理由はナニ?  弘前大学の発掘調査により  正確な年代こそ不詳ながら  十三湊を襲った津波の痕跡であろう  泥の堆積が2層以上確認  津波の試練は幾度もあった・・・?  ↓↑  12世紀(平安後期)  平安期の当地域周辺に見られた  区画集落群の人為的廃絶  在地豪族層による広域支配体制の確立  鎌倉時代初頭  津軽地方一帯は  鎌倉幕府支配体制下  古十三湖の周辺地域は幕府支配下で  「西浜」と呼ばれる  13世紀初頭(鎌倉時代後期前葉)  西浜で十三湊  蝦夷沙汰職(蝦夷管領)を務めた  安東氏(津軽安藤氏)の許で繁栄  15世紀半ば(戦国時代初頭)  安東氏(津軽安藤氏)が  南部氏に敗れて支配地を失い  夷島(えぞがしま。蝦夷地)へ逃亡  十三湊は衰退 ーーーーー  ・・・???・・・

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