ニホン語=「漢字の象形」を得て理解可能である
カメ=亀・鹿目・甕・咬・嚙・噛=口+歯・・・すっぽん=鼈
ヒナ=雛・火名・日波・日向・比名・・・雛型(ひながた)⇔鋳型(いがた)
ムロ=室・牟呂・牟婁・臺・榁・窩・・・くら=蔵・倉・嵓=山+品=巖=磐
庫⇔神室=かむろ=禿(はげ)
カマキリ=蟷螂・鎌切・窯雺・釜霧・・・ゆげ=湯気・弓削・結解⇔結び解く
・・・「月氏という名の語源は戦国時代にいた和氏、禺氏、牛氏などの転写・・・イラン系言語からきたとする説、月氏は玉(ぎょく・翡翠=ヒスイ)の産地(タリム盆地)を占めていたので玉(ギョク)氏が訛って月(ゲッシ)氏になった」・・・???・・・ ーーーーー 漢字の字形、象形には色々な説があるけれど、単純な部首構成の文字の意味は具体的なモノとして理解出来るとしても、抽象化された文字は本当のところ、ナニの「意味」なのかは「?」である・・・ 「楷書漢字」は原則的に 横線・・・・・「-」 縦線・・・・・「丨」 縦線・・・・・「l」、アレッ、・・・以前にも遭遇・・・ 文字化け「l→礀=石+門+月 礀=たに・カン・ケン」 礀(jiàn)=石+閒=古の「澗」に同字 山間流水的沟・溪礀・山礀 禅語 「風吹不動天辺月 雪圧難摧礀底松」 澗=兩山之間的小溪=氵+閒(間) 左右上からの 斜線・・・・・「\・乀」「/・丿」 かぎ線・・・・「乚・亅・レ」 チョン・・・・「ゝ・丶」 点・・・・・・「・」「::・¦¦」 丸・・・・・・「。」 の「一画部首」漢字の合体に尽きる。 しかも 「甲骨文字・金文・篆文」 を前提にして。形状は 「□枠内」に納まる 「楷書」として漢字の統一化をはかった。 甲骨文字は殷、夏 金文は周末 戦国時代は篆文、小篆 として整理された書体で これらを前提として 楷書は秦代に整理統一された で、出来あがった「楷書文字」を前提に 現在日本で使用している漢字の意味を 考察したい・・・との「妄想願望」である・・・ 音声だけの日本語は「片仮名・平仮名」で 表示出来るが、漢字の表示がなければ、 それらの意味内容を理解するのは無理である。 日本語は日本人にとっても 「漢字の象形」を得て理解可能である。 ハッキリと自明なのは 具体的な「部首」としての形象文字であるが 漢字分解は「一画部首」に帰し、 その漢字構成は 「一画部首漢字の個々の合体の意味」である・・・ 熟語文字は「物語の説明」が必要である・・・ ーーーーー 「帀=一+冂+丨 「帀」が「刀・刃物・庖(广包)丁」の形象とは 思えない?・・・横棒(一)に 布巾、手拭を吊るしている形象 ↓↑ 「帀=㞢の反字」・・・「㞢」の形象は 物干し竿を 横に支える 三叉の銛 Ψ(プシー)+一 の「U」字を 角ばった「凵」にした 合字の 設置台だが 㞢=山+丄(上・ジョウ) 「帀=めぐる・ソウ」 は風にひらめいている布で「そよぐモノ」? or 「靡(なび)くモノ」、「揺れ動くモノ」 「めぐる(巡る・廻る)」は 池を回遊する魚?のイメージだが・・・ 「㞢=屮+一」=異体字は「之(これ・シ・の)」 声符は「㞢=寺・蚩・臺 音韻は「之・cji・tjio」 之・支・止・㞢 之(ゆく・行く) 乏(とぼしい)=ノ+之→貧乏 ノ(挙手) 丿(曳く・ひく ヘツ・ヘチ・ヒツ)? 丿=書法の左払いの筆画 掠=左払いの運筆 =字形を 右上から左下へ引く形 撆(ヘツ)=敝+手=別・撃つ=撇 撆缺・彯撆・排撆・点撆 掠=手+亠+口+亅+八 かする かすめる・リャク・リョウ 奪い取る・かすめる 掠取・掠奪 寇掠(コウリャク) 侵掠 掠笞(リョウチ)・・・ムチで叩く 「臺=吉+冖+至(一ム十一) 発音 タイ 簡体字 台 異体字 坮・㙵・䑓・台 声符「㞢」 㞢・寺・蚩 声符「臺」 嬯(女+臺)・擡(手+臺) 薹(艹+臺) ーーーーー 𠂤=つちくれ・タイ・シ 丿+㠯 㠯=イ・異体字は以、已 簡体字は以 声符=佀耜允苢㭒台 𠂤=異体字は「堆(十一隹)」 =タイ=台・臺 ・・・タイ=碓(石隹)・・・小碓命 声符は「𠂤=シ・帥・歸・追」 𠂤≠自(おのずから・みずから・ジ) (自-丨)=𠂤 or (𠂤+丨)=自 ↓↑ 師=𠂤+帀 ↓↑ 帀=一+巾 幣=敝+巾・・・・紙幣・貨幣 ↓↑ 敝=やぶれる・おおう・ヘイ ↓↑㡀+攵 通仮字=蔽・幣 異体字=弊 幣=㡀+攵+巾 ↓↑ ↓↑ 声 符=㡀・敝・嫳・斃・蔽・鼈・彆 獘・鐅・幣・暼・蹩・撆・瞥 鷩・弊・潎・鄨 ↓↑ 説文解字 帗(フツ)なり、敗衣なり 攴に従ひ、㡀に従ふ 、㡀の亦聲 「瞥=みる(見)・ちらりと見る 一瞥 ちらつく 見えたり消えたりする 雪などがちらちらまばらに降る かすむ(目がかすむ ぼんやりとして見えない) 敝+目 破れた衣服の象形とボク音 右手の象形 ↓↑ (破れると人の目の象形) 敝=破れた・ぼろぼろの 謙譲の接頭辞 敝宅拙宅 ↓↑ 敝帚自珍 ちびた箒でも自分には大切な宝 敝帚千金 ↓↑ 敝=ヘイ・ベイ・やぶれる 痛みやすい縫い飾りのある 礼装用のひざ掛けの形 それを殴って(攵・攴) やぶる、やぶれる みてぐら・贈り物・たから・かね ヘイ しでぬさ 神に供える「ぬさ・たいせつなもの」 巫女が着衣する装束の用の 「きぬ・帛」 のちに 「貨幣・紙幣」と用いられる 幣は本字 幤は俗字 獘(ヘイ・ベイ たおれる・たおす やぶれる・やぶる つかれる ↓↑ とまる・つきる 敝=やぶれる・やぶる おとろえる・つかれる ヘイ ぼろぼろになる 敝衣 つかれる・よわる ↓↑ 自分のことにつける謙称 衰敝(スイヘイ) 敝衣(ヘイイ) 敝衣蓬髪(ヘイイホウハツ) 敝履(ヘイリ) 敝れる(やぶれる) 弊(ヘイ・ついえる) 物が破れてぼろぼろになる 弊衣・弊履 からだがぐったりとなる 疲弊 たるんで生じた害 弊害・弊風・悪弊・旧弊 語弊・時弊 宿弊・積弊・通弊・病弊 自分に関することに添えて謙遜を示す 弊屋・弊誌・弊社・弊店 「敝(ヘイ)」と通用 弊=悪い習慣・いけないこと・害 ・・・ ーーーーー 石=いし・いわ・ライ =丆+口=一+丿+口 面=つら・おもて・メン =丆+囬=一+ノ+囬=一+ノ+[+目+] 囬(俗字)・囘(古字) 廻(代用字)・迴(繁体字) ↓↑ 丆=朝鮮語を漢字だけで書くとき 「면」の代わりに使った文字 仮定の~したなら ~たら ~するなら ~すれば ~やれば ~やるならば ~でなければ 丆=면(ミョン)・・・面の省略文字? 顔ぶれ(가면・カミョン) 仮面(화면・ファミョン) 画面 (면허・ミョンホ) ーーーーー 面=丆+囬 =一+ノ+囬 =一+ノ+[+目+] =一+ノ+[+丨+二+丨+] =一+ノ+月+凵 =一+ノ+且+冂 (冂+_・凵+-・匚+丨・乚+丨) ↓↑ 月・朋・冃・目・日・旦・亘・曰・且・自砠 ーーーーー 月読命=ツクヨミ・ツキヨミ 夜を統べる神 「夜の食国」 「滄海原の潮の八百重」の支配 イザナギ (伊弉諾・伊邪那岐・伊耶那岐) の右目から生まれた 日本書紀・第五段第十一の一書 穀物の起源の神 第一の一書 伊弉諾尊が 左の手に 白銅鏡を持って 大日孁尊(天照大神)を生み 右の手に 白銅鏡を持って 月弓尊(月読命・月夜見尊)を生んだ・・・ 「月弓尊」・・・月の弓の形のミコト(ソン) とうとい 「月読命」・・・月を読むミコト(メイ) いのち 「月夜見尊」・・月の夜を見るミコト(ソン) とうとい 「月余美=月餘美命(万葉集)」 ↓↑ 日本書紀 月夜見尊が降って 保食(うけもち)神のもとに赴き 保食神は饗応として口から飯を出したので 月夜見尊は「けがらわしい」と 保食(うけもち)神を剣で刺し殺し 保食神の死体からは 牛馬や蚕、稲などが生れ 穀物の起源となった 天照大神は 月夜見尊の凶行を 「汝悪しき神なり」 と怒り 以来、日と月とは 一日一夜隔て離れて住むようになった ↓↑ 古事記 食物の神、 大気都比売神(おほげつひめ) が 須佐之男命に殺される ↓↑ 「書紀・巻十五・顕宗紀」 任那へ派遣された 阿閉臣 事代に 月神が憑いて 高皇産霊をわが祖と称し 「我が月神に奉れ さすれば喜びがあろう」 と宣い 山背国の葛野郡に社を建て 壱岐県主の祖 押見宿禰(おしみのすくね)に祭らせた 山背国 月詠神社由来 宣託された壱岐には月詠神社が存在 山背国の月読神社の元宮・・・ 現在では 橘三喜の誤りで 宣託された本来の 式内社月読神社は男岳にあった 月読神社とされる 今は遷座され 箱崎八幡神社に鎮座 ↓↑ 六国史の第二 「続日本紀・光仁天皇」 暴風雨 卜したところ 伊勢の月読神が祟った 毎年九月に 荒祭(あらまつり)神にならって 馬を奉るようになった・・・ ↓↑ 「山城国風土記」 逸文の「桂里」で 「月読尊」が 天照大神の勅を受け 豊葦原の中つ国に下り 保食神のもとに至ったとき 湯津桂に寄って立ったという伝説 「桂里」という地名が起こった 月と桂を結びつける伝承は インドから古代中国を経て 日本に伝えられた・・・ギリシャだろう・・・ 万葉集にも 月人と桂を結びつけた歌 日本神話において 桂と関わる神は複数おり 古事記で 天神から 天若日子のもとに使わされた 雉の鳴女 兄の鉤をなくして 海神の宮に至った 山幸彦 ↓↑ 出雲国風土記 千酌(ちくみ)の 驛家(うまや) 郡家(こおりのみやけ)の 東北のかた 一十七里一百八十歩なり 伊佐奈枳命(いざなきのみこと)の御子 「都久豆美命(つくつみのみこと)」 此處に坐す。然れば則ち 都久豆美と謂ふべきを 今の人 猶、千酌(ちくみ)と號くるのみ ただし 都久豆美命は 渡津の守護の 月神で 古くから千酌を守る土着神 朝廷の支配が強まったため 土地の人々が 伊佐奈枳の子とした ツクヨミとは関係ない・・・ ーーーーー 大月氏 匈奴に追われ アム・ダリア流域に退却し 後 西方に動き クシャン(クシャーン=クシャーナ)王朝 ↓↑ 月氏 ↓↑ 玉(翡翠)の産地 西域ホータンの 崑崙山 交易を担っていた 月氏にちなんで 「禺氏の玉」 「和氏の璧」 と呼んでいた 西方世界では 月氏のことを 「セレス(絹)」 と呼んでいた ↓↑ 何故「月氏」なのか?・・・絹=蛾=月媛 月氏(ゲッシ) 紀元前3世紀~1世紀ごろ 東アジア、中央 アジア に存在した 遊牧民族、国家名 紀元前2世紀 匈奴に敗れてからは 中央アジアに移動 大月氏 と呼ばれ 大月氏時代は東西交易で栄えた ーーーー 秦の始皇帝(在位:前246年~前210年) 中国の北方で 東胡 と 月氏 が強盛 匈奴は 陰山の北からオルドス地方を領する小国 大国である 東胡や月氏の間接支配 匈奴の 単于頭曼は 太子である 冒頓を廃し その弟を太子にしようと 冒頓を月氏へ人質として送った 頭曼は冒頓がいるにもかかわらず 月氏を急襲し これに怒った 月氏は冒頓を殺そうとしたが 逃げられてしまう 匈奴に逃げ帰った 冒頓は 父の頭曼を殺して 自ら単于となり 東の東胡に攻め入ってこれを滅ぼし 西へ転じて 月氏を敗走させ 次いで 南の 楼煩 白羊河南王を併合 漢楚内戦中の中国にも侵入 瞬く間に大帝国を築いた その後も依然として 敦煌付近に月氏はいた 漢の 孝文帝(在位:前180年~前157年) 時代に 匈奴 老上単于 配下の 右賢王の征討に遭い 月氏王が殺され その頭蓋骨は盃(髑髏杯)にされた 王が殺された月氏は二手に分かれ ひとつが イシク湖周辺へ逃れて大月氏 もうひとつが 南山羌(青海省)に留まって 小月氏 となった ーーーーー 大月氏 イシク湖周辺に逃れた 月氏の残党(大月氏)は そこにいた 塞族の王を駆逐し その地に居座った 老上単于(在位:前174年~前161年) の命により 烏孫の 昆莫が攻めてきたため 大月氏は 西へ逃れ 最終的に 中央アジアの ソグディアナ(粟特)に落ち着いた 大月氏は アム川の南にある トハリスタン(大夏)を征服し その地に 和墨城の 休密翕侯(きゅうびつきゅうこう)、 雙靡城の 雙靡翕侯(そうびきゅうこう)、 護澡城の 貴霜翕侯(きしょうきゅうこう)、 薄茅城の 肸頓翕侯(きつとんきゅうこう)、 高附城の 高附翕侯(こうふきゅうこう)の 五翕侯]を置いた 一方、前漢では匈奴の侵入に悩まされ 西方の月氏と共同で 匈奴を撃つべく 武帝(在位:前141年~前87年)の時代 張騫を使者とした使節団を西域に派遣 張騫は匈奴に捕われ 10年以上かけ 西域の 大宛・康居 を経て、 大月氏国 に到着 この時の 大月氏王は 匈奴に殺された先代王の夫人で 女王であった 大月氏女王は 張騫の要件を聞いたが 復讐心は無く 国家は安泰し 漢が遠い国であるため 同盟を組むことはなかった ーーーーー クシャーナ朝 護澡城の 貴霜(クシャン)翕侯である 丘就卻(きゅうしゅうきゃく)が 他の四翕侯を滅ぼし 自立して王となり 貴霜王と号した 丘就卻は 安息(パルティア)に侵入し 高附(カーブル)の地を取った 濮達国・罽賓国を滅ぼし その支配下に置いた 丘就卻は80余歳で死ぬと その子の 閻膏珍(えんこうちん) が王となり 閻膏珍は 天竺(インド)を滅ぼし 将一人を置いてこれを 監領した この政権は クシャーナ朝を指し 丘就卻は クジュラ・カドフィセス 閻膏珍は ヴィマ・タクト に比定 中国では 大月氏と呼び続けた ーーーーー キダーラ朝 『魏書』列伝第九十 「大月氏国、 北は蠕蠕(柔然)と接し (柔然から)たびたび侵入を受けたので 遂に西の薄羅城(バルフ)へ遷都 その王寄多羅(キダーラ)は勇武で 遂に兵を起こして 大山(ヒンドゥークシュ山脈)を越え 南の北天竺(インド)を侵し 乾陀羅(ガンダーラ)以北の 五国をことごとく役属した」 とあり この頃の大月氏は クシャーナ朝の 後継王朝である キダーラ朝を指し 中国ではキダーラ朝までを 大月氏と呼んでいた その後 キダーラ朝は 匈奴(エフタル、フーナ)の侵攻を受けた ーーーーー 小月氏 「羯族」および「羯・羯」を参照 月氏から分かれて 南山羌(青海省)に留まった小月氏は その後も生き長らえ 三国時代の記録に 「敦煌西域の南山中(チベット高原) 婼羌の西から葱嶺(パミール高原)までの 数千里にわたって 月氏の余種である 葱茈羌・白馬羌・黄牛羌がおり それぞれに酋豪がいた」 とある 『魏書』にある 小月氏国は 上記の小月氏ではなく クシャーナ朝の後継王朝である キダーラ朝の君主 キダーラの子が治める分国で 都は富楼沙城(ペシャーワル) にあった ーーーーー 昭武九姓 『北史』・『隋書』・『新唐書』 に見える 昭武九姓はいずれも 月氏の子孫で 月氏が 敦煌・祁連にいた時代 張掖祁連山北の 昭武城に拠っていたことから 中央アジアに 西遷後 自分たちの故地を忘れぬよう 昭武氏を国姓とした ↓↑ 月氏という名の語源 戦国時代にいた 和氏、禺氏、牛氏 などの転写・・・ イラン系言語からきたとする説 月氏は 玉(ぎょく:ヒスイ)の 産地(タリム盆地)を占めていたので 玉氏が訛って月氏になった・・・ 月氏の子孫である クシャーナ朝の彫像に 月のシンボルが多く見出される 月氏が 月を崇拝のシンボル(トーテム) としてい 中国側がその意訳として 月氏にした・・・ ーーーーー 釈適之『金壺字考』(宋代)に 「月氏…月音肉。支如字。亦作氏」 とあり 中国の 張西曼は 「大月氏は大肉氏の誤写であり タジーク民族の対音である」 と主張し(1947年) それが中国やアメリカで支持され 「月氏(Yuezhi)」を 「肉氏(Rouzhi)」 と表記・発音する研究者が生まれた ーーーーー 19世紀以来 テュルク系、イラン系、チベット系、 モンゴル系、カッシート と、定説は無かった 月氏はイラン系であるという説 1957年に発見された スルフ・コタル碑文 1993年に発見された ラバータク碑文 などによって クシャーナ朝が イラン系言語である バクトリア語を使用していた その祖先と思われる 大月氏 および 月氏 もイラン系言語を用いていた・・・ これは月氏の子孫がそのまま クシャーナ朝になったとする場合であり クシャーナ朝の起源には 土着民説 大月氏説 がある・・・ 最近の研究 新たに 新疆で出土した ウイグル語訳の『慈恩伝』の中に 焉耆・亀茲を 大月氏の遺留部族と記した箇所が見つかった 敦煌文書の『西天路竟』で 焉耆が月氏と記されていた 1980年代以降の言語学の研究と併せ 月氏は トカラ語を使用していた可能性が高い ーーーーー 『史記』大宛列伝や 『漢書』西域伝などで 月氏の故地は 敦煌と祁連の間とされている ーーーーー 大月氏のいた場所 『史記』や『漢書』に 「大月氏国の都は 媯水の北に在り その川の南にある 大夏を役属させていた」 という記述があることから 媯水 すなわち アム川の北(ソグディアナ)に在った その周辺国として 北に康居 東に大宛 南に大夏 西に安息(パルティア) があった。 大月氏の都は 『漢書』では監氏城 『後漢書』では藍氏城 『魏書』では盧監氏城から薄羅城 ーーーーー 五翕侯 大月氏は ソグディアナに西遷後 トハリスタンを征服し そこに5人の 翕侯(きゅうこう:諸侯)を置いた 『漢書』での 高附翕侯が 『後漢書』では 都密翕侯となっている 『後漢書』西域列伝高附国の条に 「『漢書』は(高附を)五翕侯に数えたが それは事実ではない (正しくは) 安息に属した後 月氏が安息を破るにおよび 高附を得た」 とあり 大月氏の トハリスタン征服直後に 高附翕侯を置いたのではなく クシャン朝時代に 丘就卻(クジュラ・カドフィセス)の 安息(パルティア)侵攻によって 高附(カーブル)の地を得た 事実は不明だが 『魏書』および『北史』では 『漢書』の高附翕侯を踏襲している ーーーーー 仏教伝来 中国への仏教伝来 哀帝の 元寿元年(前2年)に 大月氏国王の使者 「伊存(いそん)」が 『浮屠教』と言う経典を 景蘆に口伝した(『釈老志』) これが諸説の中でもっとも早い ーーーーー 広義の遊牧スキタイ 中央アジア西部の北方から 天山の南麓、アルタイ地方、 モンゴル高原の西端、 甘粛の祁連山脈 まで拡大していた・・・ 月氏もその一支と見る・・・ ーーーー 月氏 中央アジアで活躍した古代民族 人種的帰属は不明 チベット人,トルコ人 などさまざまの説 中国の春秋時代 (前8~5世紀) 頃から モンゴル高原の西半を支配し 中国の史料には 「禺氏 (ぐうし) 」 「和氏 (かし) 」 などという名で記されている 秦末、漢初の頃から次第に勢力を増した ーーーーー 前3世紀の末 冒頓単于率いる匈奴に 敗れた 月氏の主力は西方に逃れ 天山山脈の 北の イリ地方に移動 それを 大月氏と言う 大月氏はさらに 烏孫に追われ パミールを超えて アム川上流の ソグディアナから バクトリアに入った バクトリア王国を滅ぼし この地を支配していた トハラ(トカラ) 月氏と匈奴 紀元前5世紀ごろ(日本は縄文時代) 現在の 河西回廊地方で活躍 中国から 『月氏』 (げっし・禺氏・ぐうし・和氏・かし) と呼ばれた民族 ーーーーー ・・・
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