ネコに・・・マタタビ・・・木天蓼・・・復旅
2021/9/25・土曜日・・・追加添付文・・・
マタタビ(木天蓼・Actinidia polygama)
マタタビ科マタタビ属の落葉蔓性木本
「和多々比(わたたひ)」
「和太太備(わたたび)」
別名 夏梅
・・・「マタツミ(貝原益軒)」・・・
・・・「マタタムブ(アイヌ語)」・・・
・・・「木天蓼(モクテンリヨウ)」・・・
「蓼(たで)食う虫も好き好き」
蓼=香辛料・薬味・殺菌作用
蓼=艹+翏
艹+羽+㐱
艹+羽+人+彡
苦しみ・困難
クサカムリの言葉はヒトの爪痕
クサカ無理(武利)・・・
・・・「十三歳」の「和泉式部」と別れ、置き去りにされたネコ(そめ)が悲しんで病にかかり(罹)、そこの温泉に浸かって病を癒やした「猫啼温泉」が現存するらしい・・・温泉街はないものの、「今出川」の流域に二軒の旅館があるらしい・・・「磐城の國・福島県石川郡石川町」ですか・・・ 「今出川=いまでがわ =位倍出臥倭(話)」 「今出川=コンシュツセン =今出撰=艮朮撰 =金戌(シュツ・卆・甩・述・朮)撰」 =錦舟津殱(戦) 殲=つくす・ほろぼす・殺しつくす セン・殲滅 以上も、以下もウイッキペデアから添付・・・少々、改作・・・ 「八色の姓において 上級の氏姓にもれた 下級の身分の者や、 これらの農民を主な対象としたもので その順位は、無姓を下級とし、 造(みやっこ) 公(きみ) 史(ふひと) 勝(すぐり) 村主(すぐり) 拘登(ひと)・・・拘=扌+句=かかわりを持つ・関係する 拘泥・拘引・自由を奪う 拘置・拘禁・拘束 登=のぼる 連(むらじ) と身分が上がっていく。これは、 天武朝において氏上に相当する氏が 八色の姓に改姓する前段階として、 まず連(むらじ)への改姓が行われ、 この 「連=小錦」位以上を基点として、 「忌寸」以上の4つの姓へ改められたことと 同様の対応である」・・・ 「氏上である 忌寸以上についても、 補足的な氏姓の変更が行われている。 氏の名において 春日より大春日 中臣より大中臣 への変更、また 宿禰から大宿禰 への変更が行われるなどしたため、 氏姓の制は、全般的に、 より緻密に浸透することになった」・・・ 「首位の昇叙があり、ついでそれに連なる 直系親族のみに対し氏姓の変更が行われる といった順序により 同族の中から有力な者が抽出されるという点にある。 この改賜姓を認可する権限は天皇にあった」・・・ 「氏姓制度の基盤は、 血縁集団としての同族にあったが、 それが国家の政治制度として編成し直された。 その成立時期は、5~6世紀をさかのぼらない。 同族のなかの特定の者が、 臣(おみ)・・・・目・見張る・監督 連(むらじ)・・・聨合=聯合=連合・・・ 聨=耳+幺+幺+廾(丱)=連=車+辶 伴造(とものみやっこ)・・・創造・造形・造詣・物造・技術者 国造(くにのみやっこ)・・・ 百八十部(ももあまりやそのとも) 県主(あがたぬし)・・・縣・懸・阿形・鼎・阿片 などの地位をあたえられ、 それに応ずる氏姓を賜った。 各姓は以下、 臣(おみ) ↓↑・・・使主(おみ・漢人系渡来人 阿知使主(あちのおみ) 東漢氏の祖・阿智使主・阿知王・阿知吉師 王仁の裔と称する 河内漢氏(かわちのあやうじ) 東漢、西漢と連称されるが氏は別 坂上苅田麻呂の上表文 応神天皇のとき 後漢の 霊帝の三世孫 阿知使主(あちのおみ)が 党類十七県をひきい来日 子の 都加使主(つかのおみ・掬使主)を 呉に遣わし 工女兄媛・弟媛・呉織・穴織 四婦女を連れてかえった これは 雄略天皇のときに 倭漢氏の一族が呉に使し 手末才伎(たなすえのてひと)の 衣縫兄媛・弟媛・漢織・呉織 を連れかえった説話と共通・・・ ↓↑ ↓↑ 阿知使主 旧居の帯方郡の故地 高句麗と百済の間に 才芸に巧みなものが 多いので迎えたいと申請 村落をあげ連れかえったのが 「漢人(あやひと)」・・・ 「東漢掬=都加使主」 都加使主(つかのおみ) 応神朝に父の 阿知使主(あちのおみ) とともに朝鮮半島から渡来 同朝の末年に父とともに 呉(くれ・中国江南の地)の国に 遣わされて 縫織の工女を伴い帰った 雄略朝に 百済から貢上した 今来才伎(いまきのてひと)である 新来の手工業技術者の 陶部(すえつくり) 鞍部(くらつくり) 画部(えかき) 錦部(にしごり) 訳語(おさ) ↓↑ などの管理を命ぜられた・・・ 葛城氏、平群氏、巨勢氏、春日氏、蘇我氏 圓(つぶら)氏=都夫羅使主 ヤマト(奈良盆地周辺)の地名を 氏の名とし 王家と並ぶ立場にあり ヤマト王権においても 最高の地位を占めた豪族 ↓↑ 連(むらじ) 大伴氏、物部氏、中臣氏、忌部氏、土師氏 ヤマト王権での 職務を氏の名とし 王家に従属する 官人としての立場にあり ヤマト王権の成立に 重要な役割をはたした豪族 ↓↑ 伴造(とものみやつこ) 連(むらじ)とも重なり合うが、 おもにそのもとで ヤマト王権の 各部司を分掌した豪族 弓削氏(ゆげ) 矢集氏(やずめ) 服部氏(はっとり) 犬養氏(いぬかい) 舂米氏(つきしね) 倭文氏(しとり)・・・ナゼ「倭文氏(しとり)」? ↓↑ 訓なら「やまとのあやし」だろう 倭文=シトオリという織布 倭文とは倭文(しず・旧事記) という織物の名で 正しくは 「シズリ・シドリ(和訓栞)」 「シズオリ(天武記)」 等と読むべきで、 倭織りの文布ではなく 倭文の文字をシズオリと読ませた? 倭文=楮(こうぞ)、麻、苧(からむし)などの繊維で その横糸を赤青の原色で染めて 乱れ模様に織ったもので 横シマの 楮(こうぞ)布、麻布、苧(からむし)布・・・ ならば 「やまとのあやし」なら 「倭文氏」は「倭」とは 「日本以外」からの「帰化人」だろう? しかも「倭と漢の文氏」とは ↓↑ 双方の「文字」の「翻訳係り」だろう・・・ などの氏や 秦氏(はた) 東漢氏(やまとのあや)・・・東=やまと ひがし=比嘉詞-漢-氏 あつま・吾妻・我妻・阿妻 西文氏(かわちのふみ)・・・西=かわち=河内 にし=爾耳・似詞-文-氏 などの代表的な 帰化人達に与えられた氏 連(むらじ) 造(みやつこ) 直(あたい)・・・「直=なおす・ジキ・チョク 正直・直角・直線」 直衣(のうし)=タダの衣 公(きみ) などの 姓を称した ↓↑ 百八十部(ももあまりやそのとも)・・・陌捌拾(足)の部 さらにその下位にあり、 部(べ)を直接に指揮する・・・部=隷属する人々の集団、班 多くの 伴(とも)・・・現場監督・班長 をさす。 首(おびと) 史(ふひと)・・・・記録係 村主(すくり)・・・村長 勝(すくり)・・・・警察、軍事、秩序係り などの 姓(カバネ)を称した。 ↓↑ 国造(くにのみやつこ) 代表的な 地方豪族をさし 一面では ヤマト王権の地方官 また在地の 部民を率いる 地方的 伴造の地位にある者・・・ ↓↑ 国造には、 君(きみ) 直(あたい・あたえ) の姓が多く、 中には 臣(おみ)・・・使主 を称するものもあった。 ↓↑ 県主(あがたぬし) これより古く、 かつ小範囲の 族長 いずれも 地名を氏の名とする。 このように、 氏姓制度とは 連―伴造―伴(百八十部)という 王のもとで ヤマト王権を構成し、 職務を分掌し世襲する、 「負名氏(なおいのうじ)」 を主体として生まれた そののち、 臣(おみ)のように、 元々は王とならぶ 地位にあった豪族にも及んだ・・・ ↓↑ 「部民制」 「氏姓は元来はヤマト王権を構成する 臣・連・伴造・国造 などの 支配序列の階級別構成員を称したものである (王とその一族を除く) しかし、6世紀には一般の民にも及んだ これらの一般の民は、 朝廷すなわち、 天皇、后妃(こうひ)、皇子らの宮、 さらに 臣、連らの豪族に 領有・支配されていた 一般の民の中から、 朝廷に出仕して、 職務の名を負う 品部(しなべ) 王名、宮号を負う 名代・子代、屯倉 の耕作民である 田部 などが必然的に生まれた 彼らは 部民共同体の中で 戸を単位に編成され 6世紀に 籍帳に登載され 正式に氏姓をもった」・・・ ↓↑ 「地方豪族の 支配下にあった 民部(かきべ)は、 在地の族長を介して、 共同体・・・支配下に無い「協同体」は在ったか? のまま 部(べ)に編入し 族長を経て 生産物を貢納させる形のものが多かった ↓↑ 地方豪族の 支配下にあった・・・支配下に無い 「協同体」は在ったか? 支配序列の無い 「協同体」は在ったか? 一般の民にまで 6世紀の段階で 氏姓が及んでいたかどうかは定かではない」・・・ ・・・定かではない・・・らしい・・・ ーーーーー 大化元年(645年)九月十二日 吉備笠垂 (きびのかさのしだる)=名は志太留とも表記 冠位は「大錦下」 が 「古人大兄皇子が 謀反を企てている」 と密告を受けた 「中大兄」皇子は 阿倍渠曽倍(あべのこそへ)・・・・九州、阿毎王朝 佐伯子麻呂(さえきのこまろ)・・・東北蝦夷、四国讃岐 以下兵四十名を 吉野へ派遣し・・・吉野は ↓↑ 神武天皇東遷の通過地で 高倉下(たかくらじ)に 剣、「布都御魂」をもたらした 「八咫烏」の熊野から橿原まで先導 高句麗の古墳の壁画には多くの 「八咫烏」が描かれているらしい 天武が隠遁し、 壬申の乱での挙兵の地 ↓↑ 「役行者」が修験道を開いた地 弟子に典薬頭の「韓國連廣足」 「役行者=役君小角(えのきみおづぬ)」は 一言主に讒言され 「文武天皇」に 699年「伊豆」に流刑、701年に大赦 道昭が唐へ留学の途中 新羅の山中で五百の虎を相手に 法華経の講義を行っていると 聴衆(虎)の中に役行者がいて 道昭に質問した・・・ ↓↑ 南朝、後醍醐天皇の拠点 古人大兄(大市)皇子・・・古人皇子・古人大市皇子 吉野太子とも呼称 を 殺害・・・? 「中大兄、即(すなは)ち …古人大市皇子等を討たしむ」 ・・・討たして殺害したか、どうかは「?」である・・・ 生きていたとしたら 「古人大兄(大市)皇子=天武=大海人皇子=漢人皇子」? 「漢人」の大罪を天武は許した・・・ ↓↑ 大化元年(645年)九月三日 吉備笠垂は ↓↑ 蘇我田口川掘・・・後、川堀の消息は不明 ↓↑ 物部 朴井連椎子・・えのいのむらじしいのみ・・・朴井=朴市? ↓↑ 連鮪(しび)=連椎子(しい)? 壬申の乱の天武側の武将 物部尾興(おこし) 倭漢文麻呂・・・・倭漢文直麻呂=倭漢文を直す麻呂 倭漢の文直麻呂 倭漢(やまとのあや)の 文(ふみ)の(直=あたえ)の麻呂(まろ) ↓↑ 「倭漢=東漢=やまとのあや」氏 祖は 応神大王の時代(3~4世紀初頭?) 百済(安羅国)から渡来した 阿智使主(あちのおみ)の末裔 明日香村の西部の 檜隈(ひのくま)に住み着いた 阿智使主を祀る 於美阿志(おみあし・御足?)神社 古人(古市)皇子=吉野皇子 ↓↑ ・・・・「ふる・布留・振る」比訳王爾・・・ ・・・・・古「いち・位置・位地」往事・・・ ↓↑ 倭王-古人大兄皇子の娘、 倭姫(天智天皇の皇后) は 「倭-漢-氏」に養育された・・・ 「やまとのあや」氏 記録は 東漢=敏達紀頃まで 東漢直の姓 東漢掬(5世紀後半) が賜ったもの 東漢直駒のあと 分家の坂上氏が宗家 坂上直駒子=東漢駒 ↓↑ ・・・「掬=扌+菊=すくう・キク 片手、両手を丸くして その中へ水をすくいとる 手の平を丸めて その中にナニかを載せる 両手一ぱいほどの量をすくう」 ↓↑掬う=すくう=救う・巣食う ↓↑ 倭漢=推古期以降 西漢=かわちのあや 河内を本拠地にしていた 河内漢、川内漢 倭漢氏より後に渡来 雄略天皇時代の 5世紀末~6世紀初頭 今来(いまき)の 今来漢人(新漢人) (いまきのあやひと) 忍海漢人・漢部氏が 製鉄業に従事 遣隋使=新漢人氏 ・・・「桓武天皇の母、 和新笠が田村後宮(今木) にて祀っていた」・・・ ・・・なぜ「和(倭)の新笠」なのか? ・・・「吉備笠垂」・・・ 「笠=かさ=蓋(おほい)・傘(サン)・暈・嵩・量」 ↓↑ 後漢の霊帝の子孫・・・ 霊帝 後漢の第十二代皇帝 解瀆亭侯劉萇の子 解瀆亭侯劉淑の孫 河間王劉開の曾孫 章帝の玄孫 184年(中平元年) 黄巾の乱 ・・・「桓帝・霊帝の間(146年~189年) 光和年間」 ・・・・光の和(倭・窪・話) に倭国の大乱」・・・ ↓↑ 大化元年(645年) 古人大兄皇子襲撃に 倭漢文直麻呂 (やまとのあやのふみのあたえのまろ) (倭の漢文を直す麻呂) などが加わった 大化三年(647年) 倭漢直荒田井・・・倭漢の直す新たな意? ↓↑ ↓↑ 「壬申の乱(天武天皇元年六月二十四日~七月二十三日 ユリウス暦672年7月24日~8月21日 グレゴリオ暦672年7月27日~8月24日 672年 壬 申(己・壬・庚) 007月 丁 未(丁・乙・己) 027日 甲 申(己・壬・庚)・大安・土曜日 ~ 028日 乙 酉(庚・ ・辛) ↓ ↑ 申(猿・猨・猴・猱・沙流) ~ 酉(鳥・隹・鶏・禽) ~ 戌(犬・狗・獒・山犬=狼) 獒=十一方攵犬=敖(おごる・ゴウ)+犬 =マスチフ犬(Mastiff)・主に番犬・闘犬 獒犬(からいぬ・ごうけん) 大きくて強い犬 ↓ ↑ 天武一年六月二十九日 西暦672年7月29日ユリウス 西暦672年8月1日グレゴ 672年 壬申(己・壬・庚) 8月 丁未(丁・乙・己) 冲剋(己) 1日 己丑(癸・辛・己)・仏滅・木曜日 己(おのれ)丑(ぬし・うし) ↓ ↑ 672年 壬 申(己・壬・庚) 008月 戊 申(己・壬・庚) 024日 壬 子(壬・ ・癸)・大安・土曜日」 ↓↑ ↓↑ 「天武紀・六年(677年)六月 天皇が 東漢直(やまとのあやのあたえ) 東漢直=父は東漢直磐井(いわい)か・・・? ↓↑ 「聖徳太子伝暦一本」に 駒の別名を「盤(いわお)」 ↓↑ 又の別名を「駒子(こまこ)」 たちに対して 「六月壬辰朔乙巳、大震動。 ・・・地震=天武6年6月14日 (677年7月19日ユリウス 7月22日グレゴり) 丁丑・丁未・乙巳→23日(丙午) 是月、 詔 東漢直等 曰 「汝等 黨族 之自 本犯七・・・本を犯し、七(漆・漆塗) 不可也。 是以、 從 小墾田御世 至于 近江朝、 常 以謀 汝等爲事。 今當朕世、 將責汝等 不可之狀 以 隨犯・・・「隨犯」?→「隨(王朝)」の「犯」? 應罪。 然頓 不欲絶 漢直之氏、 故 降大恩以原之。 從今以後、 若 有 犯者 必入 不赦之例」」 ↓↑ ↓↑ 「汝等党族は今までに 七つの悪逆を犯してきた。 小墾田の御世(推古大王の時代)から 近江朝まで常に 汝等(東漢直・やまとのあやのあたえ)が 謀り事を為してきた。 朕の世に当たり罪に処そうと思ったが、 漢直の血筋を絶やさないために、 大恩を下す。 以後 罪を犯す者は赦(ゆる)さない」 と勅・・・ ↓↑ ↓↑ 七つの悪逆・・・? ・・・そんなコトより地震災害で大変だった・・・ ・・・「漢直之氏」の知識も技術も必要だった・・・ ↓↑ ↓↑ 崇峻五年(592年) 東漢(やまとのあやの 直(あたえ)-駒(こま)が ・・・駒=馬+句=こま=高麗・独楽・狛 泊瀬部皇子を暗殺 東漢(やまとのあや)直-駒が 皇子の后、 河上娘(蘇我馬子の娘)を 馬子に返さずに自分のものにした 推古三十八年(628年) 舒明大王擁立のために 泊瀬王 (山背大兄皇子の異母弟) を殺した? 境部摩理勢の襲撃に加わって絞殺した 皇極二年(643年) 倭(やまと)の 馬飼(うまかい)の 首(おびと)が 山背-大兄-皇子を襲撃・・・「大兄」は高句麗の官位? ↓↑ 高句麗の官職十三段階の七番目 「大兄」→「大江(おおえ)」 ↓↑ 大江山=京都府丹後半島の付け根 に位置し与謝野町、福知山市、宮津市 にまたがる連山 別称、大枝山・与謝大山・千丈ヶ嶽 三上ヶ嶽、御嶽 「大江山 いくのの道の遠ければ まだ文もみず 天の橋立」 小式部内侍=和泉式部の娘 (こしきぶ の ないし) 父は陸奥守の橘道貞 長保元年(999年)頃 ~ 万寿二年(1025年)十一月) 掌侍・女房三十六歌仙の一人 「とどめおきて 誰をあはれと思ふらむ 子はまさるらむ 子はまさりけり 万寿二年(1025年) 娘の小式部内侍が死去の時の歌 和泉式部・・・越前守・大江雅致の娘 福島県石川郡石川町に この地方の豪族、安田兵衛国康の 一子「玉世姫(たまよひめ)」が 「和泉式部」であるとの伝承 式部が産湯を浴びた湧水を 小和清水(こわしみず) 十三でこの地を離れた式部との 別れを悲しんだ 飼猫「そめ」が 啼きながら浸かり病を治した といわれる 「猫啼温泉」が現存・・・ 和泉式部の童女名は 「御許丸(おもとまる)」 「国許=故郷・生地・本国 許王朝=宇文化及(隋王朝末期)」 天寿二年(619年) 和泉式部 泉蓋蘇文=高句麗末期の宰相 ↓↑ 淵蓋蘇文(?~665年・宝蔵王二十四年) 皇極四年(645年) 中-大兄-皇子に加担し・・・「大兄」は高句麗の官位? 高句麗の官職十三段階の七番目 「大兄」→「大江」 蘇我入鹿を殺害 高向国押 の甘言に乗り 警護していた 蘇我蝦夷の館の守りを解き 蝦夷を殺害 大化元年(645年) 古人大兄皇子の襲撃に 倭漢文直-麻呂→「倭漢の文直=訳文・翻訳文」の麻呂 などが加担 大化三年(647年) 倭漢直荒田井比羅夫が・・・倭漢 直 荒田井 比羅夫・・・役職名 用水路の工事で 難波に水を引き 百姓を疲労させた 斉明五年(659年) ↓↑・・・7月27日(斉明天皇5年7月3日) 坂合部石布 津守連吉祥 らを遣唐使に派遣 坂合部石布は遭難、漂着し 原住民に襲撃され死亡 津守連吉祥らは唐に到着 10月21日(斉明天皇5年9月30日) 遣唐使が唐の皇帝に謁見 12月19日(斉明天皇5年11月1日) 唐での冬至の儀式にて 日本からの 遣唐使の風采挙措が最も優れていた との評価 誕生 藤原不比等(藤原鎌足の次男・~720年) 賀知章(詩人・書家・~744年) 死去 ↓↑ 「長孫無忌」・・・唐建国の元老 遣唐使 西漢(いまき)大麻呂(おほまろ)が 皇帝、 高宗の客人を讒言し 客人らを流刑にしたこと 斉明七年(661年) 東漢草直足嶋が 耽羅(済州島)の王が 送ってきた使人を讒言し 使人が 唐から厚遇を得られなくしたこと 天武元年(672年) 即位前 樟磐手・・・樟(木章)の磐(般石)の手 (くすのいわて)が 近江側の刺客になり 吉備国主だった 当麻広嶋(たいまのひろしま)を殺害 広嶋は用明天皇の孫で 大海人皇子派の重鎮・・・ 「壬申の乱」で 倭漢(やまとのあや)氏の 全員が天皇側にならず 一部が近江朝側について敵対した・・・ 罪・・・ ↓↑ 天武天皇側の 倭漢(やまとのあや)氏に属する人々 書智徳(ふみのちとこ) 書根麻呂(ふみのねまろ) 荒田尾赤麻呂(あらたおのあかまろ) 民大火(たみのおおひ) 民小鮪(たみのおしび) 長尾真墨(ながおのますみ) 大蔵広隅(おおくらのひろすみ) 坂上老(さかのうえのおきな) 坂上国麻呂(さかのうえのくにまろ) 坂上熊毛(さかのうえのくまけ) 路益人(みちのますひと) 調淡海(つきのおうみ) 倉墻麻呂(くらかきのまろ) 谷根麻呂(たにのねまろ) など・・・ ↓↑ 大友皇子側 蘇我の重臣の他 書薬(ふみのくすり) 谷塩手(たにのしおて) 忍坂大摩呂(おしさかのおおまろ) らが 倭漢(やまとのあや)氏の枝族・・・ ↓↑ 天武十一年(682年)五月 倭漢(やまとのあや)の直(あたい) の個々人 十七名に 連(むらじ)の姓を を与え、更に 一族全員、 川内漢直を含む 38氏に 連(むらじ)の姓(かばね)を与えた 684年 「八色の姓」 阿智使主の直系の子孫は 他の倭漢氏と区別され 書連氏、 河内漢氏 らと共に 第四位の姓 「忌寸(いみき)」が授けられた・・・ ↓↑ ↓↑ 朴市秦田来津 ・・・天智天皇二年 八月二十七日~二十八日 ↓↑ 旧暦 年 癸亥 月 壬戌 日 戊申(さる)~己酉(とり) ↓↑ボシン ~キユウ ↓↑ ↓↑戊辰 ~杞憂・希有・喜勇 ↓↑ 猿田比古の溺死 白村江の海戦で戦死 ↓↑ 朴市秦田来津は 斉明天皇七年百済の皇子 豊璋(ほうしょう)と 百済再興のため 狭井梹榔と 兵5000をひきいて 朝鮮半島へ渡海 後 鬼室福信 と対立 王位に就いた 豊璋は 都を 州柔(錦江下流域・白江村)から 避城(全羅北道金堤)に 遷すことを決定 朴市秦田来津は 遷都に反対した 遷都後、 二月 新羅に攻めこまれ 再び州柔(錦江下流域)へ遷都 ↓↑ 白村江で唐水軍に惨敗戦死 らとともに 古人大兄皇子を擁して 謀反を企てるが 九月十二日 中大兄皇子に密告 古人大兄(大市)皇子 は攻められて殺害 笠垂・・・・・・・・笠の垂 はこの功で 功田20町を賜った 天平宝字元年(757年) この功労は中功に当たるとして 二代に相続された 吉備笠垂の系譜・・・笠の垂 父は吉備笠羽鳥・・・笠の羽の鳥 母は不詳 生母不詳の子女 男子、笠麻呂・・・笠の麻呂 男子、笠御室・・・笠の御室 男子、笠金村・・・笠の金村 ↓↑ 「或本云。古人大兄。或本云。古人大兄。 此 皇子入吉野山。故或云吉野太子。 垂。此云之娜屡」 「垂(た)れる」・・・「ダル・ナル」? 「娜=しなやか・ダ・ナ」 「屡=たびたび・つねに・しばしば・ル」 「古人(古市)大兄皇子」・・・「倭の漢人()皇子」・・・ ーーーーー ・・・???・・・高向「玄理」・・・高向「原理」・・・鷹婿「原理」・・・「堯(多化)務拠」・・・「高句麗」・・・ 高向 玄理(たかむこ の くろまろ) ?~白雉五年(654年) しろきじ・・・詞賂(皎・代)・記字・語念 名は「黒麻呂」とも記録 高向古足の子 姓は「漢人」、のち「史」 冠位は「大錦上」 ・・・用明天皇の孫の「高向王」 「高向玄理」は、 後の 「舒明天皇皇后=皇極・斉明天皇」 の元の夫・・・ ・・・「高向王」は「皇極女帝」の最初の夫・・・ ↓↑ ↓↑ 第三十五代・第三十七代天皇 在位期間 皇極 642年2月19日~645年7月12日 斉明 655年2月14日~661年8月24日 先代 舒明天皇(第34代) 次代 孝徳天皇(第36代) 天智天皇(第38代) 誕生 594年 崩御 661年8月24日 陵所 越智崗上陵 ↓↑ 諱 寶女王 別称 天豊財重日足姫尊 (あめとよたからいかしひたらし ひめのすめらみこと) 父親 茅渟王 母親 吉備姫王 皇配 高向王・・・「高向の王」 高向塩古→猪子→宇摩→国押 (国忍) →麻呂(和銅従三位) →人足 →跡見(越前大ジョウ) 高向氏は魏の曹操の末裔の 渡来人の子孫 高向玄理は 高向古足の子・・・ 舒明天皇 子女 漢皇子 天智天皇 間人皇女 天武天皇 ↓↑ 皇居 皇極 飛鳥板蓋宮 斉明 飛鳥板蓋宮 ↓↑ 朝倉橘広庭宮(661年8月24日)で死没 ↓↑ ↓↑ ↓↑ 泊瀬朝倉宮=第二十一代、雄略天皇の宮殿 安康天皇三年十一月十三日 丙申年 庚子月 甲子日 (西暦456年12月25日・ユリウス) ~ 雄略天皇二十三年八月七日 (西暦479年9月8日・ユリウス) 己未年 癸酉月 丙子日 ↓↑ 所在地は奈良県桜井市? 別称 大泊瀬幼武尊 大長谷若建命 大長谷王 父親 允恭天皇 母親 忍坂大中姫 皇后 草香(日下)幡梭姫皇女 子女 白髪皇子 栲幡姫皇女 磐城皇子 星川稚宮皇子 春日大娘皇女 御陵 丹比「高鷲」原陵 ー↓↑ーー↓↑ーー 善徳(ゼントコ)女王 647年2月17日(旧暦1月8日) 新羅の第27代の王 真徳(シントコ)女王 (?~654年) 新羅の第28代の王 (在位647年~654年) 姓は金 諱は勝曼 「新羅本紀」 父は第26代 真平王の母方の叔父である 真安葛文王-国飯 母は 朴氏の 満天葛文王の娘 月明夫人 ーー↓↑ーー 高向玄理 608年 遣隋使 小野妹子(蘇因高) に従い留学生として 隋へ留学 640年 南淵請安とともに帰国 645年(大化元年) 後 僧の旻 とともに新政府の 国博士 ↓↑ 高向臣 武内宿禰の末裔氏族 河内国 錦部郡 高向村(大阪府河内長野市高向) を本拠地とし 姓は初め 臣だったが 天武天皇十三年(684年)十一月 高向麻呂は 「八色の姓(カバネ)」で、 上から二番目の 朝臣(あそん、あそみ)の 姓の賜与を受けた ↓↑ 孝元天皇段(古事記)で 武内宿禰の9人の子の一人 蘇賀石河宿禰を 高向氏の祖 石川氏と同氏で 武内宿禰 六世の孫・猪子臣(蘇我稲目の甥) の後裔(新撰姓氏録・右京皇別・高向朝臣) ↓↑ 舒明天皇即位前条 高向宇摩 が大夫(まえつきみ)を務め 奈良時代前期に 高向麻呂が参議・中納言を歴任 (日本書紀) 河内長野市では「高向=たこ」と呼ぶ。 高向家主(たかむこの‐やかぬし) は、奈良時代の官吏 天平勝宝四年(752) 東大寺の 大仏 開眼会(かいげんえ) で 唐散楽頭(とうさんがくのかみ) 開眼師施使 をつとめる 藤原仲麻呂 追討の功により 従五位下 南海道巡察使 治部少輔(ジブショウホ) 筑後守を歴任・・・ 宝亀六年(775) 従五位上 伊勢神宮の北に 高向大社 三重県御園町に 高向(たかぶく)の地名 畠山氏の一族で 羽曳野市の御師についての 墨書に 明応四(1495)年 高向最大夫光貞 の銘・・・ (以上は「知恵袋」回答記事を参考添付) ーーーーー ・・・
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