ヒメ、姫・鳹・媛・比瑪・比米・嬪・👸の戦い
2021/9/18・土曜日・・・添付追加文・・・王の為にではなく・・・
闘う女性は・・・「ジャンヌ・ダルク」ではダメ・・・ 静寂(しじま)の深海を潜航せよ・・・ 浮上し速やかに「特殊攻撃機・晴嵐」を発進せよ・・・ 敵中枢部を爆撃せよ・・・
「伊400」の潜水・・・瀞(とろ)さが必要である・・・ 浮上して任務を決行しなかった・・・ナゼ・・・ 敵は常に内部に存在する・・・ 同盟者も戦況次第で裏切るのが常套である 独裁者は更に専制保身・・・ 側近も保身で裏切る・・・ 御米の炊飯の仕法は ハンバーグ歩いて食う奴らには無理な生半 今次の鳩首選択も副えモノの裏切りで 鳩首に豆鉄砲・・・ 「政治屋の皆さんオネガイします」の他人頼みジャぁ・・・ ヤラレル(yarareru)・パラレル (parallel) ・・・ 思いを実現するには 「権力・実権」を握るのさ・・・ 立法(議員)、行政(官僚)、裁判(判事)・・・ ナニが人民のトモ、ホウの番人なんだか、カネ次第・・・
ウラに隠れ、カゲに隠れ、岩礁を迂回し、背後を狙う 駆け引きが常套だ・・・「柔」よく「剛」を制す・・・ 「陰」よく「陽」に勝るときも・・・ 合従連衡はイズレは崩れる 狡猾とは戦術・・・目的とは戦略・・・ だが「平和」が目的ではないのは天理・・・ 「漁夫の利」を狙う奴にはドウすればイイのか・・・ 喧嘩を装って罠に嵌める・・・ 正規戦で勝てない時は奇襲戦か、ゲリラ戦が常套・・・
ーーーーー 開皇二十年 俀王 姓 阿毎 字 多利思北孤 號 阿輩雞彌 遣使 詣闕 上令所司 訪 其 風俗 使者 言 俀王 以天 為兄 以日 為弟 天 未明時 出 聽政 跏趺坐 日 出 便停理務 云 委我弟 高祖 曰 此大無義理 於是 訓令 改之 王妻 號 雞彌 後宮 有 女 六七百人 名 太子 為 「利歌彌 多弗利」 無城郭 内官有十二等 一曰大德 次小德 次大仁 次小仁 次大義 次小義 次大禮 次小禮 次大智 次小智 次大信 次小信 員 無 定數 有 軍尼 一百二十人 猶 中国 牧宰 八十戸 置 一伊尼翼 如 今里長也 十伊尼翼 屬 一軍尼
海軍・・・ 陸軍・・・ 空軍・・・ 宇宙軍・・ ーーーーー MF 1978年2月24日 2024年7月(46歳)己酉・食神 ┣辛 戊┏午(丙 丁)傷官・食神建禄⇔辛丑・偏財
三合丙
甲┗寅(己丙甲)印綬・印綬 死⇔壬辰・正官 丁┗巳(戊庚丙) ・劫財帝旺⇔丁亥・比肩 庚┗子(壬 癸)正財・偏官 絶⇔ 子丑 亢宿・丁巳 奎宿・丁亥 ーーーーー 衣通姫(そとおりひめ・・・伊通・伊津・意通 胃痛・何時・逸 壹・壱・乙・伍 そとほりひめ そとおしひめ) 『日本書紀』 「衣通郎姫(そとおしのいらつめ) ↓↑ 『古事記』 「衣通郎女 衣通王(そとおりのみこ)」 叔母と姪の関係の別人 美しさが衣を通して輝くのが由来・・・後光? 和歌に優れ・・・ 和歌三神の一柱 「住吉明神・玉津島明神・柿本人麻呂」 「柿本人麻呂・衣通姫・山部赤人」 「住吉明神・玉津島明神・天満天神」 など・・・諸説 ↓↑ 『古事記』 允恭天皇皇女の 「軽大郎女(かるのおおいらつめ)」 の別名 同母兄の 「軽太子(かるのひつぎのみこ)」 奸通 允恭天皇崩御後 軽太子は失脚し 伊予へ流刑・・・・壹與=伊に預ける 「衣通姫」も 伊予に赴き 二人は心中 ↓↑ 『日本書紀』 允恭天皇の皇后 「忍坂大中姫」の妹 「弟姫(おとひめ)」で 允恭天皇に寵愛された妃 近江坂田から入内 藤原宮(奈良県橿原市)に住んだが 皇后が嫉妬し 河内の 茅渟宮(ちぬのみや・大阪府泉佐野市) へ移り住み 天皇は遊猟に託(かこつ)けて 衣通郎姫の許に通い続け 皇后に諌められ 行幸は稀になった 紀伊の国の 「玉津島姫」と同一視され 和歌三神の一柱 和歌山県和歌山市 玉津島神社に 「稚日女尊・・・わかひるめのみこと ↓↑ わかびひめのみこと? 倭化毘比売 見事? 天照大神? 神功皇后」 稚 日=ちび?⇔こびと? と共に合祀 ちび丸子? ↓↑ 『日本書紀』神代記 上七段の第一の一書 高天原の 斎服殿(いみはたどの) で神衣を織っていたとき 「素戔嗚(スサノオ)」が 「馬の皮を逆剥ぎ」 にして部屋の中に投げ込み 「稚日女尊」 は驚き 「機(はた・キ)」 ↓↑ ・・・機=木+幾 十+八+幾=幺+ 戈幺 人 幾=幺+戈+幺+人+戈 キ いく きざし こいねがう ほとんど いくばく 「どれくらい・どれほど」 程度を問う意 きざし・前兆・気配 ほとんど もう少しで・もう少しのところで こいねがう・ねがう・希望する ↓↑ 「幾+α」 僟=イ+幾=つつしむ・細かく気を配る ほとんど・もう少しで 嘰=口+幾=叽=吺・𠮾・叫 叽叽歪歪 話がくどい ぐちぐち余計な事を言う 話が細かい 㙨=土+幾=畿 㡮=幾+气=𢇓=𢇒 キツ・ゴチ 殆(ほとん)ど・それに近い もう少しで、もう少しのところで ~しそう・~になりそう 同「𧰙・危」 機=木+幾=機械・機会 璣=王+幾=北斗七星の第三星 磯=石+幾= 禨=示+幾=神に祈って福を求める・祈願 体や髪を洗い清め、酒を飲む 穖=禾+幾=穀物の種子が 玉のように連なっている様 耭=耒+幾=スキ=槈・犂・耒・犂 蟣=虫+幾=虱(しらみ)の卵 蛭(ひる) 譏=言+幾=キ・責める・誹謗中傷 非難・咎める・諫める 検査する・取り調べる 䟇=走+幾=走る 䤒=酉+幾=禨 鐖=金+幾=釣り針の先端の折り返した突起 かかり・かえし 弩(いしゆみ)の矢を発車台 大鎌 鞿=革+幾=絆・馬具・馬綱・皮ひも おもがい・たづな 馬を操るための革製の綱 しばる・束縛する 饑=食+幾=うえる・ひだるい・ひもじい 飢饉・飢餓 魕=鬼+幾=鬼神に祈りをささげる 鬼神を祭る・南方の鬼 ↓↑ 地名 幾春別川向町(いくしゅんべつかわむかいちょう) 幾春別栗丘町(いくしゅんべつくりおかちょう) 幾春別千住町(いくしゅんべつせんじゅうちょう) 幾春別滝見町(いくしゅんべつたきみちょう) 幾春別中島町(いくしゅんべつなかじまちょう) ↓↑ 幾久=いく・いくひさ・きく 幾井=いくい 幾石=いくいし・きいし・きせき 幾浦=いくうら 幾尾=いくお ↓↑ 幾(いく) 幾し(きざし) 幾う(こいねがう) 幾ど(ほとんど) ↓↑ 幾重(いくえ) 幾重にも 幾多(いくた) 幾つ(いくつ) 幾度(いくど) 幾許・幾何(いくばく)=どれくらい ↓↑ 幾何学に王道なし エジプト王がユークリッドに 幾何学を簡単に学ぶ方法を尋ねた時 「幾何学に王道なし」と答えた 「学問に王道なし」とも 少壮幾時ぞ ↓↑ 「機(はた・キ)」 ↓↑ から落ち 持っていた 「梭(ひ)」 で身体を 「衝(突)」いて亡くなった それを知った 「天照大神」 は 「天岩戸」に隠れた ↓↑ 『古事記』 名前は書かれず 「天の服 織 女 (はたおりめ・フクショクジョ)」 復職・副職・副食・複色 が 「梭で女陰(ほと)」 を衝(突)いて死んだ・・・ ↓↑ 「神功皇后」 「三韓外征」 の「審神」で 「尾田(三重県鳥羽市の加布良古の古名)」 「吾田節(答志郡)」の 「淡郡(粟嶋=安楽島)に居る神」 として名乗った神が 「稚日女尊」・・・稚=禾+隹 日 女 尊=酋+寸 䒑+酉+寸 で 元々の鎮座地は 三重県 鳥羽市 安楽島 伊射波神社 (式内社 粟嶋坐 伊射波 神社二座 並 大) に比定 ↓↑ 神功皇后 三韓外征の帰途 難波へ向おうとしたが 船が真直に進めなくなったため 武庫の港(神戸港)に還って占いを行った そこで 「稚日女尊」・・・稚=禾+隹 が現れられ 「私は活田長峡国にいたい」 と神宣 「海上五十狭茅」に祭らせた 「生田神社」由来 ↓↑ 「稚日女」=若く瑞々しい日の女神・・・? 倭珂句・渡会・和解・話掛意? 和歌句 隋対(ミズミズ) 思惟比の目掛守? 「天照大神=大日女(おおひるめ・大日孁)」 「稚日女=天照大神」 (生田神社では天照大神の幼名 or 妹神や御子神) 丹生都比賣神社(和歌山県伊都郡かつらぎ町) 祭神は 水神・水銀鉱床の神で 「丹生都比賣大神(にうつひめ)」 の別名が 「稚日女尊」で 「天照大神」の 妹神・・・ ↓↑ 兵庫県 西宮市 越木岩神社 に 「稚比売命」 の磐座がある ↓↑ 玉津島神社 「神功皇后」が半島に軍を進めた時 玉津島の神が霊威をあらわし 皇后が 「御分霊」を 葛城町天野の地に分祠 「玉津島」と 「天野」に 一神両所が並び立った ↓↑ 『ホツマツタヱ』 天照大神の諺名 「ワカヒト」 にちなんで名付けられた妹神 和歌の女神 「和歌姫(諺名は日孁子 ヒルコ 姫)」 の結婚前までの名前 スサノオの 「斑駒(ぶちごま・ハンク・ヘンク)」 斑=王+文(亠乂)+王 駒=馬+句(勹口)=こま・ク 暴挙によって 「梭(ひ・サ)」 ・・・梭=木+夋(ム儿攵) 十+八+(ム儿𠂉乂) で身を突いて死んだ 「ワカヒメ(稚姫)」は 「天照大神」 の中宮 「瀬織津姫」 ホノコの妹 「ワカ姫ハナコ」で 玉津島神社に祀られている 「稚日女(ヒルコ姫)」 とは別人 「稚日女」は 「思金(オモイカネ)」と結婚後 「下照姫(シタテルヒメ)」と名を改め 滋賀県 「天の安川=野洲」で 「瀬織津姫」の御子神 「天忍穂耳命」を養育 神上(かみあ)がった後 「歳徳神」と称えられた・・・ ↓↑ 『古事記』 思金神 常世思金神(とこよのおもいかねのかみ) 『日本書紀』 思兼神 『先代旧事本紀』 思金神・常世思金神・思兼神 八意思兼神(やごころおもいかねのかみ) 八意思金神 ↓↑ 高御産巣日神の子 天忍穂耳命の妻である 万幡豊秋津師比売命の兄 ↓↑ 岩戸隠れの際 天の安原で 八百万の神に 天照大御神 を岩戸の外に出すための知恵を授けた 国譲りで 葦原中国に派遣する神の選定 天孫降臨で 「邇邇芸命」 に随伴 ↓↑ 高御産巣日神の子 妹は 「万幡 豊秋津師 比売 命」 ↓↑ 『先代旧事本紀』 「思兼神」 信濃国に降り立って 「信之阿智祝の祖」になり 「知々夫国造の祖」 子に 「天表春命・天下春命」 「天児屋命の子」とする系図も・・・ ↓↑ 秩父神社(埼玉県秩父市) 阿智神社(長野県下伊那郡阿智村) 「阿智祝」氏 「知々夫」国造 などの祖神 戸隠神社 知恵・学問の神 気象神社(東京都杉並区) にも祀られている ↓↑ 建築前に行われる 手斧初の儀式の主神 建前の初の日に 正面を南向きにして頭柱を立て 柱の正面に「天思兼命」と書き 右左にそれぞれ建築の神 「手置帆負神」 「彦狭知命」 の名を書き、裏面に年月日・建主名を墨書 の儀式 ↓↑ 奈井江神社 明治二十五年11月23日 移住者 埼玉県人 「清水宗徳」 が自己の所有地に神殿を建設 郷里の鎮守神 広瀬大神を祀った 移住者の1人 「田中辰八」 が建設 明治二十八年12月 「清水一三」 が発起人、有志の寄附(116円)で 拝殿を建築 明治三十三年9月 神殿を増築・鳥居を移設 境内地は清水宗徳が寄附 登記されていない為 「新卯吉」に譲渡 明治三十八年9月13日 念書 彼により寄附 大正六年7月 社殿造営 昭和44年9月 社殿の大改築(700万百万円)工事着手 氏子各位の協力で完成 平成3年 創祀100年を迎え 約1億円の奉賛金の寄附 社務所新築120坪 駐車場舗装約70台可能 ↓↑ 広瀬神社(ひろせじんじゃ) 埼玉県 狭山市 広瀬にある神社 ーーーーー ・・・???・・・ 隋書の(東夷)列伝では「俀国」 煬帝本紀には「倭国」 俀と倭は同文字の異体字 外交の鴻臚寺の文書に「俀国」 二つの文字に分かれたのは隋書の引用元の違いによる・・・? ーーーーー 俀國・・・「俀」 在 百濟 新羅 東南 水陸三千里 於 大海之中 依山㠀 而 居 魏 時 譯通 中國 三十餘國 皆 自稱 王 夷人 不知 里數 但 計 以日 其國 境 東西 五月行 南北 三月行 各至 於海 其地勢 東髙 西下 都於 邪靡堆・・・よこしま=横縞・靡く・堆石・堆肥 則 魏志 所謂 邪馬臺 者也 古云 去 樂浪郡 境及 帶方郡 並一萬二千里 在 會稽・・・会稽=禹が死去する際、諸侯が一堂に会し その業績を計って「会稽(会計)」と称 越王 勾践 呉王 夫差 勾践は敗れて「会稽山」に逃げ夫差の下僕になる 和睦し、助命された後に 勾践は夫差を討って呉を滅ぼす 「会稽の恥」・「臥薪嘗胆」 浙江省 紹興市・・・会稽山 北緯30度00分~33° ・・・横島・玉名・阿蘇山 東経120度35分 旧名=茅山 別名=畝山・・・畝傍山・?・・・奈良三山 秦望山・・・始皇帝が展望 會稽=会稽=越語の「矛」の意味 別名=苗山・茅山・防山 「余姚(ヨヨウ)市」の 「河姆渡遺跡」が近辺に在る 之 東與 儋耳相近 漢 光武時 遣使入朝 自稱 大夫 安帝時 又遣使 朝貢 謂之 俀奴國 桓靈之間 其國 大亂 遞 相攻伐 歴年 無主 有女子名 卑彌呼 能以 鬼道 惑衆 於是國人 共立爲王 有 男弟佐 卑彌理國 其王 有侍 婢千人 罕 有見 其面者 唯有 男子二人 給王飮食 通傳 言語 其王 有 宮室 櫻觀 城柵 皆持兵守衞 爲法 甚嚴 自 魏 至于 齊 梁代 與 中國 相通 開皇二十年 俀王 姓 阿毎・・・阿部・阿閉・阿閇・・・ 字 多利思北孤・・・多=おほの・太・意冨(富=登美) 利=するどい・とし・よく切れる もうけ・かしこい・さとい きく・ききめ・効果 北=丬+匕=きた=子=了+一=終始=始終 鼠・玄武 逃(に)げる・背(そむ)く 北=乖(カイ・そむく・もとる)=千+北 乖離 丬=寝台 匕=ヒ=比較 七=漆=7・・・北斗七星 𠤎=牝=雌= 匕=匕首・合い口 思=田+心 孤=孑(子)+瓜(うり・カ)⇔狐 孤独 瓜子姫⇔天邪鬼=破瓜(ハカ) 天=あま=海女・海人・海士・阿麻・白水郎 海部・海女・阿毎⇔阿倍・阿部・安陪 雨邪気=海邊邪気(宄) 號 阿輩・・・あわ=阿波・安房・泡・沫・粟 雞彌・・・けみ=毛見・化見・祁見・計(稽)見 遣使詣 闕上令所司訪 其風俗 使者言 俀王・・・・・「俀」⇔「俀」 以 天爲兄 以 日爲弟 天 未明時出 聽政 跏趺坐 日 出 便停理務 云 委 我弟 髙祖 曰 此 大 無 義理 於 是 訓令 改之 王妻 號 雞彌・・・雞(にわとり)彌(いやさか) 後宮 有 女 六七百人 名 太子 爲 利歌彌⇔和歌の「彌=弓+爾」 ひさしい・とおい わたる 月日を経る・時間が経過する わたる あまねし・広く行きわたる つくろう・おぎなう ほころびを縫ってつくろう いよいよ・ますます いや・いよいよ・さらに・ や 弥生(やよい) 多弗利=意冨(おほの=富・登美 イフ=異符・畏怖・委付・移付・云ふ) 弗(~ず・~しない・~でない)と否定の意 利 無 城郭 内官 有 十二等 一曰大徳次小徳次大仁次小仁次大義次小義次大禮 次小禮次大智次小智次大信次小信員無定數有軍尼 一百二十人猶中國牧宰八十戸置一伊尼翼 如今里長也 十伊尼翼 屬一軍尼 其服飾 男子衣裠襦 其袖 微小 履 如屨形 漆 其上 繋之 於脚 人庶 多跣足 不得用金銀 爲 飾 故 時 衣横幅 結束 相連 而 無 縫 頭 亦 無 冠 但 垂 髮 於兩耳上 至 隋 其王 始制冠 以綿綵 爲 之 以 金銀鏤花 爲 飾婦人 束髮 於後亦 衣裠襦裳皆 有 襈攕 竹 爲 梳 編草 爲 薦雜 皮 爲 表縁 以文皮 有 弓矢刀矟弩𥎞斧 漆皮 爲 甲骨 爲矢鏑 雖有兵 無 征戰 其王 朝會 必 陳設 儀杖 奏 其國 樂 戸 可萬 其俗 殺人 強盗 及 姦 皆死 盗者 計贓酬物 無財者没身 爲奴 自 餘輕重 或流 或杖 毎 訊究 獄訟 不承引者 以木 壓膝 或張強弓以弦鋸 其項 或 置小石 於 沸湯中 令所 競者 探之云 理曲者 即 手爛 或 置蛇瓮中 令 取之云 曲者 即 螫手矣 人頗恬静罕争訟 少盗賊 樂 有五絃琴笛 男女多 黥臂 點面 文身 没水捕魚 無 文字 唯 刻木 結繩 敬 佛法 於 百濟 求得 佛經 始有 文字 知 卜筮 尤 信 巫覡 毎至正月一日 必 射戲 飮酒 其餘節畧 與華 同好 其博握塑檽浦之戲 氣候温暖 草木 冬青土地 膏腴 水多陸少 以 小環挂鸕鷀 項 令 入水 捕魚 日 得百餘頭 俗 無 盤俎藉 以 檞葉 食用手餔之 性質直 有 雅風 女多 男少 婚嫁 不取 同姓男女 相恱者 即 爲 婚婦 入 夫家 必 先跨犬 乃 與夫 相見婦人 不淫妬 死者斂 以 棺槨 親賓 就屍歌舞 妻子兄弟 以 白布製服 貴人三年殯 於 外庶人卜日 而瘞 及 葬 置屍船上 陸地牽之 或以 小轝 有 阿蘇山 其石無 故 火起接天者 俗以 爲 異因 行祷祭 有 如意寶珠 其色 青 大如鷄卵 夜則有光 云 魚眼精也 新羅 百濟 皆 以 俀・・・・「俀」 爲 大國 多珎物 並 敬仰之恒通使 徃來 大業三年 其王 多利思北孤 遣使朝貢 使者曰 聞 海西菩薩天子 重 與佛法 故 遣朝拜 兼 沙門數十人 來 學佛法 其國 書曰 日出處 天子 致書 日没處 天子 無 恙云云 帝 覽之 不恱 謂 鴻臚卿曰 蠻夷書 有 無禮者 勿復 以 聞明年 上遣 文林郎 裴清 使於 俀國・・・「俀」 度 百濟 行至 竹島 南望 𨈭羅國 經 都 斯麻國 逈在大海中 又東 至一支國 又 至竹斯國 又東 至 秦王國・・・「秦の王の國」 其人 同 於 華夏 以 爲夷洲 疑 不能明也 又 經 十餘國達 於海岸 自 竹斯國 以東 皆附庸 於俀・・・「俀」 俀王・・・「俀」 遣 小徳 阿輩臺・・・「阿輩(吾輩)の臺」 從 數百人 設 儀杖 鳴 鼓角 來迎 後十日又遣 大禮 哥多毗・・・「歌意冨之毘(臍)」 從 二百餘 騎 郊 勞 既 至 彼都 其王 與 清 相見 大恱曰 我聞 海西 有 大隋 禮義之國 故 遣朝貢 我夷人 僻 在海隈 不聞 禮義 是以 稽 留境内 不即相見 今故 清 道飾舘 以 待大使 冀聞 大國惟新之化 清 答曰 皇帝 徳 並 二儀 澤流四海 以 王慕化 故 遣行人來 此 宣諭 既而引 清 就舘 其後 清 遣人謂 其王曰 朝命 既達 請 即戒塗 於是 設 宴享 以遣 清 復 令 使者 隨 清 來 貢 方物 此後 遂絶 ーーーーー ・・・「妥・拿・俀・桵・楕・蛇・堕」・・・「隋・隨・随・陏」・・・ 「瑞」・・・皐月、遠からず・・・来る・・・随行・瑞皐・玄瑞・・・?
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