ヒヨッコり・憑依譚を問う・・・瓢箪⇔氷炭 揣摩
2021/12/26・日曜日・・・追加添文・・・
ドカ雪が降った朝、雀たちが十数羽、電線の雪の上で何かを語り合っている
この時期、雀たちの喰うものがあるんだろうか・・・
松の木の枝々に積もった雪はカマクラになって雀たちの棲家になっている
・・・我ときて遊べや親のない雀・・・親のいる雀も・・・
小林一茶
うまさうな雪がふうはりふうはりと ともかくもあなたまかせの年の暮(くれ)
・・・
↓↑
「お猿のかごや」 山上武夫 作詞 海沼 実 作曲
・・・「ひょうたん型」の「口永良部島(くちのえらぶじま・コウエイリョウブトウ?」・・・「考英領武闘・公営両部問う・後裔漁部当」の噴火?・・・島に住む人は怪我もなく避難できたらしい・・・屋久島の西方に位置する島。「火山島」で「1933年(昭和八年)~1934年 七釜集落は噴石により全滅、死者8名、負傷者26名」・・・「七釜集落の全滅」・・・「口永良部島」の呼称は「鹿児島県熊毛郡屋久島町の大字の口永良部島」・・・「口の選ぶ」・・・「口永良部」という地名は「江戸期」からで、当時は「口之永良部島村(くちのえらぶじま)・三国名勝図会,1843(天保十四年)」・・・琉球諸島からの船の停泊地で,馬の放牧も行われていた・・・「沖永良部島(おきのえらぶじま、おきえらぶじま)」は奄美群島の南西部に位置する島・・・「鹿児島県大島郡に属し、北緯 27度東経128度付近に位置し、「和泊町」と「知名町」の二町からなる。「隆起珊瑚礁の島」。「大山を中心とした知名町側の地域には、幾段かの段丘地形を呈し石灰岩が広く分布し、島には鍾乳洞が多い」・・・「西郷隆盛の流刑地」・・・「置きの選ぶ」・・・「1609年(慶長十四年)、薩摩藩の侵攻により薩摩の直轄領」、「1616年(元和二年)、徳之島に代官所が置かれ、沖永良部島と与論島を巡回して統治」・・・ 例の如く以上も以下も参照、参考の原文は「ウイッキペデア」や、他の「ブログ記事」・・・「妄想」個所はボクのオリジナル・・・
ーーーーー 「ヒザマ」は、 沖永良部島の伝説上の 「魔鳥(HellHawk)」・・・・「hawk」=鷹(タカ) 他人を食い物にする人 強欲な人 詐欺師 タカ派の人 強硬論者 主戦論者 家に憑いて火事を引き起こす 姿は鶏(ニワトリ)に似て 胡麻塩色の羽根を持ち、 頬が赤い 家に憑く際は 「空(から)の 瓶(ビン)や 桶(おけ)」 に宿る 防ぐためには 器(うつわ・キ)を 伏せておくか、 常に 水で満たしておく 沖永良部島では 邪神 ヒザマに似た 鶏(ニワトリ)・・・隋書俀国 「俀王 姓 阿毎 字多利思北孤 號 阿輩(アワ?)→吾輩 阿波 安房 粟→黍 泡 沫 淡路島 愍(ビン・ミン あわ-れ あわ-れむ 「愍笑・愍然 哀愍 憐愍(れんびん れんみん)」 雞彌(キミ?・ケミ)」 ・・・・雞=鶏 にわとり 彌(ビ・ミ)=み・いよいよ わた-る ひさ-しい 「王妻 號 雞彌・・・・雞=鶏 後宮 有 女 六七百人 名 太子 爲 利歌彌(リカミ?) 多弗利(タフリ?)」 「夷人 不知里數但計以日 其國境 東西五月行 南北三月行 各至於海 其地勢 東高 西下 都 於 邪靡堆・・・・靡(なびく) 則 魏志 所謂 邪馬臺 ↓ 者也」 ↓ 流求=「隋書・帝紀・列伝 ↓ 貞観十年(636) 魏徴の主編、 志は顕慶元年(656) 長孫無忌の監修」 ↓↑ 「流求 煬帝紀上(巻三・帝紀第三) 大業三年三月癸丑条 大業六年二月乙巳条) 食貨志(巻二四・志第一九 煬帝即位条) 陳稜伝(巻六四・列伝第二九) 「流求国伝(巻八一・列伝第四六 東夷)」 の 四ヵ所に記録 「隋書・流求国伝」 「流求国は海島の中に居す 建安郡の東に当り、 ↓ 水行五日にして至る」 ↓ ↓↑ 「新約聖書の日本語訳」 1847年~1855年の ↓ ベッテルハイムの日本語訳は ↓ 琉球語 を飼うことを 忌み嫌った 「ヒザマ=火玉」という字が当てられ 鳥ではなく 読んで字の如く 「火の玉」で、 火事を引き起こすものとされている・・・ ↓↑ 桃太郎 「沖永良部」島では、 「鬼が島」ではなく、 ↓ 桃太郎は 「ニラの島」へ行った・・・「ニラ」=似等? 「ニ・ラ」の スベテの同音異字漢字 似等 螺・蠃・羅・覶・裸・・・ 龍宮である 「ニラの島」で 島民は 鬼に食われていたが、 唯一の生存者の老人の家に 「羽釜」・・・・竃に架けるための ↓ 鍔・鐔=「つば」があり それを羽根に例えて 羽釜(はがま)と呼ぶ。 蓋は木製 釜は、 茶の湯では 湯を沸かす道具 同音異字の「かま」 鎌=草を刈る道具 窯=ガラスや焼物などを作るのに使う 竃=かまど・「釜」などの 調理器具を乗せ、加熱設備 罐=蒸気機関車などのボイラー 電機、ディーゼル機関車を含め ↓ カマと呼ぶ があり、 その蓋の裏に 「鬼の島への道しるべ」が書かれており、 その道しるべどおり 地下の鬼の島へ行き、 鬼退治した・・・ ↓↑ 「もも太郎さん」の歌 作詞者は不詳 岡野貞一 作曲 ↓↑ 岡野貞一 1878年(明治十一年) 二月十六日生 ~ 1941年(昭和十六年) 日本大学附属病院で死去 63歳没 ↓↑ 1892年(明治二十五年) キリスト教徒として 鳥取教会(日本基督教団)で洗礼 翌年、 岡山の教会で 宣教師からオルガンの演奏法を習った 東京音楽学校(東京藝術大学)の 第二代校長である 同郷の 村岡範為馳が 1892年(明治二十五年)に 鳥取で行った 講演に影響され、 1895年(明治二十八年) 岡山の 薇陽学院を中退 上京して 東京音楽学校に入学 1900年(明治三十三年) 卒業 1924年(大正十三年) 東京音楽学校(東京芸大)の教授 「春が来た・水師営の会見 春の小川・故郷(ふるさと)」 などを作曲 ↓↑ 「もも太郎さん」 1911年(明治四十四年)五月 『尋常小学唱歌(一)』 歌詞 桃太郎さん 桃太郎さん お腰につけた 黍団子 一つ わたしに 下さいな ↓ やりましょう やりましょう これから鬼の 征伐に ついて行くなら やりましょう ↓ 行きましょう 行きましょう あなたについて 何処までも 家来になって 行きましょう ↓ そりゃ進め そりゃ進め 一度に攻めて 攻めやぶり つぶしてしまえ 鬼が島 ↓ おもしろい おもしろい のこらず鬼を 攻めふせて 分捕物を えんやらや ↓ ばんばんざい ばんばんざい お伴の犬や 猿 雉は 勇んで車を えんやらや ↓↑ ーーーーー ヨシュア(Yehoshuʿa・Joshua) ヘブライ語 イェホ(ー)シュア (Yehoshuʿa) 英語 ジョシュア (Joshua) スペイン語 ホスエ (Josué) ポルトガル語ジョズエ (Josué) ドイツ語・オランダ語 ヨ(ー)ズア (独: Josua・蘭: Jozua) ヨシアス (独: Josias) フランス語ジョジュエ (Josué) ↓↑ アラブ語エッサ (Essa) イッサ (Issa) インドで 「イエス」は「イッサ」・・・? ↓↑ 「エッサ」 と 「イッサ」 と 「一茶」 を「発音」で「妄想」する・・・「与諏亜」・・・ 「茶」=ちゃ・ダ・タ・チャ・サ(唐音) 「荼」という字が 「苦菜」ではなく現在の「茶」を指す最初の例 「前漢の王褒」が記した 「僮約」という文章 「使用人(僮)」がしなければならない仕事に 「荼を烹(に)る」、 「武陽で荼を買う」 という項がある 茶の産地は武陽(彭山県、眉山茶の産地) で、苦菜ではなく茶である・・・ この「僮約」には 神爵三年(前59年)という日付 紀元前1世紀には既に喫茶の風習があった・・・ 唐代 茶の文化を初めて体系化したのは、 唐の 陸羽(? - 804年) 「茶」→「木+茶」 「茶」=サ(艸)+Λ+木 「tea」=閩南語=中国南方方言 (ミンナン・ビンナン)の 茶の読み「tê・テ」が オランダ 東インド会社経由で オランダ語 「thee」として 西ヨーロッパに広まった 英語の 「thee」は 「汝(なんじ)・thy」 「育つ」 スコットランド語は 「腿・太股・太腿」 ↓↑ 「荼(ダ)=サ(艸)+余→Λ+禾」 と 「茶(チャ)=サ(艸)+ Λ+木」 とは別字 ↓↑ 「荼(ト)」 「茗(メイ)」 「荈(セン)」 「檟(カ)」 ↓↑ といった文字が当てられていた 「軍荼(ダ)利=クンダリンは水瓶 とぐろを巻いた蛇 曼荼(ダ)羅=聖域、仏の悟りの境地、 世界観などを 仏像、 シンボル、文字、神々 などを 視覚的 象徴的に表したもの 鳩槃荼(ダ)」 ↓↑ 小林 一 茶 (こばやし いっ さ ショウリン イチチャ) ↓↑ 宝暦十三年五月五日 (1763年6月15日) ~ 文政十年十一月十九日 (1828年1月5日) 江戸時代の俳諧師 本名 小林弥太郎 別号 圯橋・菊明・亜堂・雲外 一茶坊・二六庵・俳諧寺 など ↓↑ 宝暦十三年(1763年) 信濃北部 北国街道 柏原宿(長野県上水内郡信濃町大字柏原) の中農の長男とし誕生 3歳の時に生母を失い、 8歳で継母を迎える 継母に馴染めず、 安永六年(1777年) 14歳 江戸へ奉公に出る 25歳 小林竹阿(二六庵竹阿) に師事して俳諧を学ぶ 寛政三年(1791年) 29歳 故郷に帰り、 翌年より36歳の年まで 俳諧の修行のため 近畿・四国・九州を歴遊 享和元年(1801年) 39歳 帰省 病気の父を看病したが1ヶ月ほど後に死去 以後遺産相続の件で 継母と 12年間争う 父の発病から死、 初七日を迎えるまでの 約1ヶ月を描いた 『父の終焉日記』は、私小説の先駆け 文化五年(1808年)末 遺産の半分を貰う 取り分は 田4~6反、 畑3反歩、 山林3ヵ所、 家屋敷半分、 世帯道具一式 文化五年以降 柏原村の本百姓として登録 文化六年 弥太郎名義で年貢を納める 文化九年(1812年)十一月半ば 江戸を経ち郷里柏原村に向かった 文化十年(1813年) 弟との間に取り交わした 熟談書付の事にある 家屋敷分譲の実行と 文化四年(1807年)以前の 収入と利息を払えという中味で、 遺産争い ↓↑ 文化九年(1812年) 50歳 信州柏原に帰り、 2年後 28歳の妻 きく を娶り、 3男1女をもうけるが 何れも幼くして死亡 きく も痛風がもとで37歳で死亡 62歳で2番目の妻 田中雪を迎えるが半年で離婚 64歳で3番目の妻 やを との間に 1女 やた をもうける やたは一茶の死後に出産 文政十年閏六月一日(1827年7月24日) 柏原宿大火で 母屋を失い、 焼け残った土蔵で生活 十一月十九日 64歳半で死亡 法名は 釈一茶不退位 ↓ 俳号「一茶」の由来 『寛政三年紀行』の巻頭で 「西にうろたへ、 東にさすらい 住の狂人有。 旦には上総に喰ひ、 夕にハ武蔵にやどりて、 しら波のよるべをしらず、 たつ泡のきえやすき物から、 名を 一茶房といふ」 と記述 ↓↑ 代表的句 雪とけて村いっぱいの子どもかな 大根(だいこ)引き大根で道を教へけり めでたさも中位(ちゆうくらゐ)なりおらが春 やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり 悠然(いうぜん)として山を見る蛙(かへる)かな 雀の子そこのけそこのけお馬が通る 蟻(あり)の道(みち)雲の峰よりつづきけん やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする 名月をとってくれろと泣く子かな これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺 うまさうな雪がふうはりふうはりと ともかくもあなたまかせの年の暮(くれ) 我ときて遊べや親のない雀 ↓↑ 一茶の作った句の数 約22,000句 平成に発見された一茶の句 ちるひとつ咲のも一つ帰り花(2013年11月) けふもけふも霞はなしの榎かな(2011年4月) 一株の芒をたのむ庵哉(2010年5月) 稲妻のおつるところや五十貌(2010年5月) 猫の子が手でおとす也耳の雪(2010年2月) 菜の虫ハ化して飛けり朝の月(2009年4月) 羽根生へてな虫ハとぶぞ引がへる(2009年4月) 代表句集等 生前の一茶の著書 『旅拾遺』 『さらば笠』 『三韓人』 などがあるが 自身の俳書はない 『一茶発句集』 『おらが春』 は没後に刊行 「寛政三年紀行」 「父の終焉日記」 「我春集」 「株番」 「志多良」 もいずれも遺稿 「寛政句帖」 「享和句帖」 「文化句帖」 「七番日記」 「八番日記」 「文政句帳」 など克明な記録は、 出版を意図して書かれたものではない ↓↑ 昭和十三年九月 作詞者 山上武夫は 東京の 大森の姉の嫁ぎ先で居候生活 『お猿のかごや』の 「小田原提灯」が縁となり、 親しい関係にある 小田原市から頼まれて書いた ↓ 「小田原提灯」 折り畳んで懐中に入れる事ができる 「懐中提灯」とも 江戸時代、 甚左ヱ門 が作って売り出した 雨にあたっても 壊れにくく、 材料に 大雄山 最乗寺の 霊木を使って 魔よけになると宣伝 箱根の 山越えをする旅人に重宝がられた ↓ 山上武夫は、 作曲者の 海沼實と 同郷(長野市松代町)で 後輩 昭和十三年九月 「お猿のかごや」 九月中に作曲され、 海沼が レコード会社へ持ち込み 詩は、 山上の自作発表 童謡誌 『ゆずの木』 昭和十三年十二月号掲載 昭和十四年秋 レコード化 ビクターから A面が「動物の大行進」 B面が「お猿のかごや」 として発売 昭和十四年十二月に発売、 昭和十五年正月新譜。 歌手 尾村まさ子 大内至子 山崎百代 小林茂子 ↓ 歌詞カードは カタカナと 漢字書き 山道を 狐を乗せた お猿の かごやが駆け抜ける 挿絵入り タイトルは 「オ猿ノカゴヤ」 ↓ 現在の歌詞 海沼が 作曲上の 都合で改作・・・ 一番の一行目は、 「エッサ ホイサ エッサ ホイサ」 という 「籠かき」のかけ声が、 海沼が作曲する時、 「エッサ エッサ エッサホイサッサ」 に改めた。 山上は反対したが 海沼は自分の意見を通した ↓ 最後の「ホイ」を 一つ減らして、 「ホイ ホイ ホイ ホイサッサ」 と四つにした ↓ 作曲家 海沼實の 自筆楽譜(昭和二十一年)は 「オダハラヂャウチン」 長野市松代町の歌碑の 楽譜(昭和六十三年建立)も 「おだわらぢょうちん」 ↓ 海沼は、 二十四歳で東洋音楽学校入学 バイオリンを専攻 自筆楽譜(昭和二十一年) ↓ 戦後発売されたレコード 童謡歌手 大道真弓とゆりかご会 「おだわらぢょうちん」 録音 昭和二十二年八月二十六日 発売 昭和二十三年三月(第十四回発売) 踊の振り付け 賀来琢磨 ↓ 山上武夫 昭和十三年(1938年)五月 童謡誌『ゆずの木』 (ゆずの木童謠社)の発行 創刊号(昭和十三年五月十五日発行) 同年九月 ↓ 「お猿のかごや」を作詞 海沼實が作曲 同年十二月 「お猿のかごや」を 『ゆずの木』に発表 昭和十四年(1939年) 二十二歳、 「お猿のかごや」を ビクターでレコード化 昭和十五年(1940年) 正月新譜発売の 「お猿のかごや」がヒット その後も 海沼とコンビを組んで 『欲しがりません 勝つまでは』 『見てござる』 『農家の皆さん 今晩は』 も作った 松代で終戦 故郷で 書店を営みながら詩作 ↓ 昭和四十四年(1969年) 海沼とのコンビの曲 『うまれたきょうだい十一人』が、 「第十一回日本レコード大賞童謡賞」受賞 昭和六十二年(1987年)十一月二日 七十歳で死亡 ↓ 海沼實 明治四十二年(1909年)一月三十一日 長野県埴科郡(長野市) 松代町松代に生まれる 昭和七年(1932年) 音楽家を志望し上京 昭和八年(1933年) 東洋音楽学校(東京音楽大学)入学 護国寺 幼稚園に 「音羽ゆりかご会」を開設 「音羽ゆりかご会」の名前は 「音羽」という地名と、 海沼が師と仰ぐ 草川 信 作曲 北原白秋 作詞 の 『揺籠のうた』による ↓ 昭和十一年(1936年) 東洋音楽学校卒業 昭和十七年(1942年) 川田正子(八歳) 川田孝子(六歳)の姉妹が 「音羽ゆりかご会」に入会 昭和十八年(1943年)七月十日 「音羽ゆりかご会」は 『やさしいお母さま』を歌った 大道真弓 と 『兵隊さんの汽車』を歌った 川田正子 が入会 少女歌手 川田正子、孝子の姉妹らと NHK専属になり、 「東京放送児童合唱団」結成 川田正子、孝子、美智子 三姉妹 ほかの童謡歌手を育て 『みかんの花咲く丘』 『お猿のかごや』 『あの子はたあれ』 など 約三千曲を作曲 昭和四十六年(1971年)六月十三日 六十二歳で死亡 ーーーーー 「お猿のかごや」 山上武夫 作詞 海沼 実 作曲 エッサ エッサ エッサホイ サッサ お猿のかごやだ ホイサッサ 日暮(ひぐれ)れの 山道 細い道 小田原提灯 (おだわらぢょうちん) ぶらさげて ソレ ヤットコ ドッコイ ホイサッサ ホーイ ホイホイ ホイサッサ ↓ エッサ エッサ エッサホイ サッサ 木(こ)の葉のわらじで ホイサッサ お客はおしゃれの こん狐(ぎつね) つんとすまして 乗っている ソレ ヤットコ ドッコイ ホイサッサ ホーイ ホイホイ ホイサッサ ↓ エッサ エッサ エッサホイ サッサ 元気なかごやだ ホイサッサ すべっちゃいけない 丸木橋 そらそら小石だ つまずくな ソレ ヤットコ ドッコイ ホイサッサ ホーイ ホイホイ ホイサッサ ↓ エッサ エッサ エッサホイ サッサ のぼって くだって ホイサッサ ちらちらあかりは 見えるけど 向うのお山は まだ遠い ソレ ヤットコ ドッコイ ホイサッサ ホーイ ホイホイ ホイサッサ ーーーーー
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