ヨコシマなカンジ・・・
2021/10/3・日曜日・・・追加添文・・・
日曜日の大日如来・・・毘盧遮那仏・・・
毘(へそ・ビ)=田+比
盧(くろい・めしびつ・すびつ・ロ)
盧=虍+田+皿
卜+丿+乛+七+田+皿
盧(くろい)
盧(めしびつ)
炭櫃(すびつ)=火鉢(ひばち)
盧生(ロセイ)の夢
邯鄲(カンタン)の夢
邯鄲(カンタン)の枕
一炊(イッスイ)の夢
黄粱(コウリヨウ・大粟)の夢
黄粱(コウリヨウ・大粟)の一炊
黄粱(コウリヨウ・大粟)一炊の夢
高粱(コウリャン)
遮(さえぎる・シャ)=辶+庶 辶+广+廿+灬
遮断
那(なんぞ・いかんぞ・どれ・どこ・ナ)
=刀+二+阝
=冄(ゼン)+阝(おおざと)
冄(ゼン)+邑
なんぞ・なぜ・どうして
~だろうか
いやそうではない(反語)
中国古代に存在した国名
刹那(セツナ)・那落(ナラク)
那辺(邊=辶+臱
辶+自+穴+方
辶+自+宀+八+方)
那(いかんぞ)
那(なに)
那(なんぞ・どうして )
佛=イ+弗=仏
弗箱(ドルばこ)・弗素(フッソ)
仏(ほとけ・フツ・ブツ・ホチ)=イ+ム
飛べる鳥になりたかったイカルス ・・・鷄は餌を与えられ空を飛ぶことを日和った・・・ 空を飛翔(ヒショウ・と)べる 鳥(とり)になりたかった「イカルス」・・・
鷄(にわとり)は餌を与えられ、空を飛ぶことを日和って忘れた・・・ ・・・「阿毎王朝」は「にわとり(雞・鷄・鶏)の王朝」だった・・・ ・・・「あべ(阿部・阿倍・安部・安倍・安陪・安邊・安武)=阿毎」氏の終焉・・・? ・・・「場所は阿蘇山の麓、菊池渓谷、球磨川の河口、玉名、横島」・・・ ・・・「鶏林」=「鶏林」州都督府 唐朝が 「新羅」の版図に設置した統治機関 都督府制度は 唐が周辺の国々を征伐した後 征服した国に設置した統治 制度 「高句麗」 「百済」 が唐朝により滅亡すると 旧 高句麗に「安 東」都護府 旧 百 済に「熊 津」都督府 新 羅に「鶏林州」都督府・・・「鶏林」 を設置 朝鮮半島全域を 藩属国から 「羈縻州」へと変更 ・・・羈=罒+革+馬 キ おも がい(面繫) ウマの頭の上からかける組みひも たづな・つなぐ・つなぎとめる とりしまる・「羈束・羈留」 たび(旅)・たびびと(旅人) 縻=麻+糸 ビ・ミ つな・きずな 牛を繋ぎとめる縄 繋ぐ・縛る 羈縻=友好的国王・首長を選び 都督・刺史・県令などに任じ もともと有していた統治権を 中国の政治構造における 官吏であるという名目で行使させた ↓↑ ↓↑ 「羈縻(キ ビ)」政策=周辺異民族に対する統御政策 「邪靡(ジャビ)堆・・・・推・碓・維・焦・雀・灌 邪摩(ジャマ)堆」国 ・・・「邪馬(やま)台(臺)」国 「邪馬(やば・やめ)壹(臺)」國・・・? ↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑ 横島(よこしま)・・・よこしま=邪・犯・冒・曲・漢・姦・奸 菅(よこしま)=菅原道真 =大宰府=「おほ みこともち の つかさ」 地方行政長官 大宝律令以前 吉備大宰(天武天皇八年(679年) 周防総令(天武天皇十四年(685年) 伊豫総領(持統天皇三年(689年) などあった 「大宝令」の施行とともに廃止 「大宰の帥」のみが残された・・・? 『続日本紀』 文武天皇四年(700年)十月の条 ↓↑ 「直大壱 石上 朝臣 麻呂」 を「筑紫総領」 ↓↑ 「直広参 小野 朝臣 毛野」 を「大弐(次官)」と為し ↓↑ 「直広参 波多 朝臣 牟後閇」 を「周防総領」と為した 「総領」とも呼ばれた。 ↓↑ 大宝律令(701年) 九州の 「大宰府=太宰府」 は政府機関として確立 他の大宰は廃止・・・ ↓↑ 「菅原道真」を祀る神社(太宰府天満宮)では 「太宰府」という表記 「宰府」と略すことも・・・ ↓↑ 「唐名」・・・?ナゼ「唐の名」のか? 「都督府」 史跡を 「都府楼跡(とふろうあと)」 「都督府古址(ととくふこし)」 などと呼称・・・? ・・・「唐」王朝「進駐軍」の 「都督府=羈縻支配監督所在地」・・・? ・・・天智天皇は 663年10月4日~10月5日 「白村江(錦江近郊?)」 熊津都督府・・・熊津? で敗北し 「奈良」から「近江」に遷都し 唐に九州筑紫に唐進駐の 「都督府」を許した・・・ ↓↑ ↓↑ 「劉仁願」 百済の鎮将として 「熊津都督府」に来鎮 664年(麟徳元年)2月 百済の元太子「隆」 新羅の王弟「金仁問」 との 「和親誓盟」に立ち会った ↓↑ ↓↑ 664年(天智天皇三年五月) 「郭務悰」らを九州に派遣 667年(乾封二年=天智天皇六年) 「熊津都督府熊山(ユウセン)」 県令 上柱国 「司馬法聡」を派遣し 「坂合部磐積」らを 筑紫の 「大宰府」に送還・・・「大宰府=唐都督府」 ↓↑ ↓↑ 894年・・・「白紙(894)」 ・・・「白史・新羅」? 「菅原道真」 の遣唐使廃止は 唐の属国化を拒否した・・・ 「宇多(うだ)天皇、寛平の治」 「醍醐(だいご)天皇」時代に 「右大臣」・・・ 政敵は 「左大臣・藤原時平」・・・ ↓↑ ↓↑ アベ去って 2020年8月~ ・・・「幹事長」 「官房大臣」はドウ出る・・・? ↓↑ ↓↑ 羈縻=中国に近い友好的な国王・首長を選び 都督・刺史・県令などに任じ 彼らの統治権を 唐王朝の政治構造における官吏である という 名目で行使・・・ 羈縻政策の元に置かれた国王・首長は 「都護府」の下の 「都督・刺史・県令」などに任命・・・ 羈縻の羈は馬の手綱 縻は牛の鼻綱 ーーーーー 横島(よこしま) は 熊本県 天草市 以外にも・・・存在 よこしま(厶・私・己・余・我・吾)・・・「邪」? ↓↑ 横島 (広島県福山市) 広島県福山市 横島 (広島県呉市) 広島県呉市 横島(岡山県笠岡市) 岡山県笠岡市 横島 (愛媛県今治市) 愛媛県今治市 横島 (愛媛県宇和島市) 愛媛県宇和島市 横島 (愛媛県愛南町) 愛媛県愛南町 横島(茨城県筑西市) 茨城県筑西市 横島 (長崎県長崎市) 長崎県長崎市 横島 (長崎県平戸市) 長崎県平戸市 横島 (熊本県) 熊本県天草市 横島 (大分県) 大分県佐伯市 ↓↑ 自治体 横島(岡山県) 岡山県笠岡市 ↓↑ 横島町 熊本県玉名郡 横島町 ↓↑ 熊本県の北西部に位置 干拓の町 2005年10月3日 玉名市・天水町・岱明町 と合併 玉名市 となった ↓↑ 日本書紀 玉名(たまきな) 和名類聚抄 玉名郡に 「多万伊奈(たまいな)=多萬彙名」 ↓↑ 西は明辰川を挟んで玉名市 東は唐人川を挟んで天水町 と隣接 南は有明海 町域北部に小高い丘(外平山) これはもともと有明海に浮かぶ島で それ以外の町域は すべて江戸時代からの 干拓により造成 ↓↑ 江戸時代 1605年(慶長十年) 初代熊本藩藩主 「加藤清正」 の命により 外平山にあたる 「島(横島)」 と 本土の間の海を 干拓して陸地とし 以後 江戸時代から明治時代中期にかけて 干拓を繰り返し 南側に陸地が伸びている 1967年(昭和四十二年) 「横島町」としては 最後の干拓が実施 ↓↑ 1871年(明治四年)7月14日 廃藩置県 旧来の藩に対応する3つの地域が置かれ その前後に 名称変更 合併 などを繰り返した 1868年(明治元年 大政奉還 各天領は新政府直轄地となり 天草地方も 1871年閏4月25日 「富岡」県・・・富岡 県名は 6月10日に 「天草」県へ変えられ 8月29日に 「長崎」県の一部に編入 ↓↑ 1871年 廃藩置県実施当初 「熊本」藩は 「熊本」県(第1次) 「相良」藩は 「人吉」県とされ 肥後南部を統括する県庁が 八代に置かれ 11月14日 「人吉」県は 「八代」県に改名 これに天草地方が編入 「米良」地方が 「宮崎」県に移された 「熊本」県も 設置される 県庁の所在地 (熊本市二本木)から 県庁は現在の「二本木」・・・「日本記」? 「白川」沿い 「白川懸廳(県庁)」の文字・・・ ↓↑ ↓↑ 廳=广+聽 广(崖の上の家) +聽(聴=耳) 聽=耳+王+十+罒+一+心 聴=耳+𢛳 異体字「聽(繁体字・旧字体) 聼(旧字体の略体) 听(簡体字) 聽=耳+𢛳 音符「𡈼」 「𢛳=直+心=悳」・・・県=縣=懸 と同系で「徳」の源字 「まっすぐに」の意 「𡈼」は人がまっすぐに立った様 何かを介さず直接耳に入れるの意 ↓↑ ↓↑ 𢔌=彳+卑 ヘイ・ハイ 彳+甶+十+ノ=𢔌 ~をして~せしむ ~を~させる 同「俾」 従う・従事する 同「俾」・・・人は卑弥呼? ↓↑ 徳=彳+十+罒+一+心 トク 悳㥁恴𢜖𢠀𢤊=徳 ↓↑ ↓↑ 1872年(明治五年)6月14日 「白川」県と名称が変わった 1873年(明治六年)1月15日 両県は合併して 「白川」県 に一本化 県庁の熊本城への移転を経て 1876年(明治九年)2月22日 「熊本」県(第2次)へと改名された ↓↑ 「熊本」という地名は 古くは 「隈本」と書いた 「隈本の由来」 「菊池則隆」に因むとする伝承 「隈本」の名が文献に見られるのは 「南北朝」時代以降 「加藤清正」が 「隈」の字が 「畏(おそれる、かしこまる)」 の字を含むため 武将の居城の名に相応しくないとして 「熊」の字を充てた 「来-熊(ライユウ)」 「訪-熊(ホウユウ)」 「帰-熊(キユウ)」 「熊(ユウ)」と音読み ↓↑ 九州本島の中央部に位置 福岡、大分、宮崎、鹿児島 の各県と境を接し 海上で 有明海を隔て 長崎県とも接する 東部の 阿蘇地方に 日本第2位の 阿蘇カルデラ 阿蘇山 九州山地 西部には 熊本平野が 有明海 八代平野 芦北地方のリアス式海岸が 不知火海に面する その間に 宇土半島が突き出し 天草諸島が続く 熊本市は 市域の70万人超の人口を支える 「水道水」 が全て地下水 ↓↑ 「球磨」村 熊本県の南部 熊本市から 南へ約70kmの場所に位置する村 村域の約9割が山林 球磨川が村内を東西に流れている ↓↑ 「宇土」郡由来 「宇土半島」がもとは島で 「浮土」と表したのが転じた 「細く長い谷」の意 ↓↑ 阿蘇(アソ)・・・麻生(アソ・あそう)・・・ アイヌ語の 「火を吐く山」という意味・・・? ↓↑ 「日本書紀」 景行天皇 十八年六月十六日条 「阿蘇の国の野原はひろく 人が住んでいる気配は無い この国には人は居ないのだろうか」 と そのとき 「阿蘇津彦(アソツヒコ)」 「阿蘇津姫(アソツヒメ)」 の二神が人の姿になって現れ 「われら二人あり 何ぞ人無しとおっしゃられるのです」 と言われた・・・ 「何(なに・ナン)」は 「阿(ア・おもねる)」にも通じ・・・? 「阿そ=阿蘇」という呼び名が生まれた・・・? ・・・「阿」は「阝=阜=丘」と 「可=可能=叶う」の意味だろう・・・ ↓↑ 「肥後国風土記」 肥後の国 「閼宗(アソ)の県(さと)」 と記録 ↓↑ 「日本後記」 「肥後国 阿蘇郡 山上に沼あり その名 「神霊地(シンレイチ)」 と記録 ↓↑ 和名抄(ワミョウショウ) 「阿曽」 と記録 中国の書物 「隋書」 「いわれなく 阿蘇山に火がおこって 石が天までふき上がり 人々は不思議な思いと おそれの気持ちで 祭ごとを行った」 と記録 ↓↑ 「名和」 「なわ・なよし・なより・みょうわ・めいわ」 「鳥取」県西部 「伯耆国 汗入郡 奈和郷」 が起源 村上天皇の皇子 「具平」親王の子 「師房」にはじまる 源氏(村上源氏) 「名和長年」 「和」は 「輪のような地形」 ↓↑ 「折口信夫」 沖縄の初代王朝 第一 「尚」氏 の元を 「名和」氏に求めた 肥後国 八代 を拠点にしていた 「名和」氏の一部が 沖縄・・・沖の縄(なわ)は漁獲の網・・・? 佐敷に渡り 第一「尚」氏になった・・・ ↓↑ 肥後国 佐敷 初代国王 「尚思紹」 こと 「苗代大屋(名和四郎?)」 名和(なわ)を 中国風の 「尚(なお)」にした・・・ ーーーーー ↓↑ 手宮洞窟・フゴッペ洞窟 古代文字ペトログリフの謎
北海道 余市町・・・與壹・与壹・豫位置(伊地・移置) 栄町 続縄文時代の遺跡 ↓↑ 1950年(昭和25年) 余市町 フゴッペ洞窟・・・「波の音が大きいところ・番をするところ」? 「違星がアイヌ民族の古老に聞いたことに フゴッペにはアイヌ民族とは別の人たちが住んでいて 彼らを「クルプンウンクル」と呼んでいた 「クル」とは「岩」で 「水際の岩の下にでもゐるような人種」 の人々が住んでいた」という・・・ の岩絵が発見 手宮洞窟のものと同じく 続縄文時代の遺跡である 1953年(昭和28年) 国の史跡に指定 手宮のものにならって 「古代文字」と呼ばれる
アイヌ社会 文字に代わる記録手段として 「結縄」や 「木の棒に刻み目を付ける方法が存在 違星北斗によると 後者をアイヌ語で 「トッパシロシ(toppasirosi)」 アイヌ語の 「トッパ(toppa)」 「トクパ(tokpa)」 は「刻む」の意で 「シロシ(sirosi)」 は「印しるし)」の意 ↓↑
『隋書(俀國傳・倭国伝)』 「文字なし。ただ木を刻み縄を結ぶのみ」 ↓↑ 斉(斎)國 斉(セイ) 中国 王朝名、国名、地名 山東省北部 ↓↑ 斉(斎・齊・齋) 周朝の諸侯国 君主家により 「姜斉」 と 「田斉」 に区別 紀元前1046年~紀元前221年 ↓↑ 「姜斉」 春秋時代に山東省に繁栄 紀元前1046年頃~紀元前386年 山東は農業に不適な立地だったが 漁業 製塩 によって斉は国力を増した 斉は隣国の 「魯」と共に 周王朝の最も重要な諸侯国の一 ↓↑ 「田斉」 「姜斉」に代わって 山東省東部を版図 戦国七雄の一 紀元前386年~紀元前221年 ↓↑ 斉 (楚漢戦争) 秦末期~楚漢戦争中 復国した国家 紀元前209年~紀元前202年 ↓↑ 斉 (南朝) 南北朝時代 「蕭道成」が建国 南朝の王朝 479年~502年 南斉、蕭斉とも ↓↑ 北斉 南北朝時代 「高洋」が建国 北朝の王朝 550年~577年 高斉とも ↓↑ 斉 (黄巣) 唐末 「黄巣」が建国 880年~884年 ↓↑ 五代十国時代 「徐知誥(李昪)」が 十国の王朝の1つを 937年に建ててから 938年に「唐」と改めるまでの国号 ↓↑ 斉 (劉豫) 「金」が 淮河以北を間接支配するために 「劉豫」 を即位させてつくった 傀儡国家の国号 1130年~1137年 ↓↑
斉(セイ・齊國) 紀元前1046年~紀元前221年 周朝の諸侯国の一 西周・春秋時代・戦国時代 中国の東方に存在した国家 「斉」 「田氏代斉」以前の「姜氏の斉」 以後の 「田氏の斉」を区別 前者を「姜斉」 後者を「田斉」 山東省北部 山東省の大部分 河北省の東南部 河南省の東北部 を支配 「戦国七雄」の一国 「秦」によって 最後に滅ぼされた国 ↓↑ 創始者 周の 文王 武王 の国師、軍師の 「太公望 呂尚(姜尚)」 紀元前7世紀前半から 16代君主の 「桓公」のとき 「姜斉」最盛期 「桓公」は 「春秋五覇」の一人 前391年 「姜斉」32代君主 「康公」のとき 大夫の 「田和」が 「康公」を 海上の孤島に追放 「康公」は食邑として 城を1つ与えられ 「祖先の霊を祀ること」 だけを許され (「田氏代斉」) 「田和」は自立して 「斉」の君主となり 前386年 周の 「安王」により 諸侯の一人として認められ 正式に侯となった 「田和」は、国号を 「姜斉」と同じく「斉」とし 「田斉」とした 前344年 斉侯だった 「田因」 は自ら 「斉王」を名乗り 「斉の威王」となって 「周」王室から独立 以後 「戦国七雄」の一国 前221年 秦の 「王賁」 「蒙恬」 らの「斉」攻略により滅亡 ↓↑ 斉の国都 臨淄(山東省淄博市臨淄区) 旧名を 営丘と称した 紀元前9世紀 「胡公」 の代に 薄姑(臨淄の西北50里の場所) に遷都 次代の 「献公」の代に 営丘に戻した 臨淄(営丘) 東方の大国の首都とし 戦国時代に 当代随一の都市として繁栄 ーーーーー ・・・???・・・
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