一歩手前・一揆の根拠・マツリの危機・エエじゃないか
2021/12/4・土曜日・・・追加添加文・・・
「お願い」は「最低限の衣食住」・・・
天保八年二月十九日
1837年3月25日
大坂(大阪市)で
大坂町奉行所の元与力
↓↑
「經世濟民(経世済民)」
「 世 ( よ ) を 經 ( をさ ) め
民 ( たみ ) を 濟 ( すく ) ふ」・・・
↓↑
「大塩平八郎(中斎)」
その門人らが飢饉(ききん)のために
↓↑
天保八年二月十九日
1837年3月25日
↓↑
大坂町奉行所に
困窮した民衆の
救済を提言
拒否され
蔵書5万冊を売却で得た資金
六百数十両
で救済活動
奉行所はこれを
「売名行為」とし
大坂町奉行
「跡部良弼(老中水野忠邦の実弟)」
豪商の
「北風家」
から購入した米を
「徳川家慶」
将軍就任の儀式のため江戸へ廻送
↓↑
「大塩平八郎」
らは
武装蜂起に備え
家財売却
家族離縁をし
大砲
火器や焙烙玉(爆薬)を整え
私塾の師弟に軍事訓練を施し
豪商らに天誅を加えるべしと
近郷の農民に檄文を回し
金1朱と交換できる施行札を
大坂市中と近在の村に配布
天満で火災が発生したなら
決起に迎合参加すべし
と檄文を配布・・・
↓↑
大坂町奉行所の不正
役人の汚職
訴状の手紙を
江戸の幕閣に送った・・・
↓↑
新任
西町奉行
「堀 利堅」
が東町奉行の
「跡部 良弼」
に就任挨拶に来る
「2月19日」
を決起の日と決定
↓↑
決起直前に
町目付
「平山助次郎」
が離反、裏切り
2月17日夜
「跡部 良弼」
に決起計画を密告
↓↑
「跡部」は「平山」を
江戸の勘定奉行
「矢部 定謙」
に報告の使者を派遣
↓↑
「平山」は乱鎮圧後
2月29日
江戸に到着し
「矢部」に報告し
身柄を拘束され取り調べを受けた
「平山」は
翌年6月
自決
↓↑
東町奉行「跡部」
西町奉行「堀」
らは
19日早朝
大塩門弟決起参加者が
東町奉行所に檄文を持参
決起計画を通報
↓↑
決起を確信した
西町奉行「堀」は
大塩門弟の決起参加者
奉行所与力
「瀬田済之助」
「小泉淵次郎」
の泊り番を捕縛しようとしたが
両名は逃亡を図り
「小泉」は惨殺
「瀬田」は大塩邸に逃亡
「大塩」は決起計画を変更し
2月19日(3月25日)朝
自らの屋敷に火をかけ決起
↓↑
「堀」から報告を受けた
大坂城代
「土井利位(古河藩主)」
は、
大塩の伯父で養子
「格之助」の実兄である与力
「大西 与五郎」
に使者を送り
「大塩に切腹を説得し
応じないなら
刺し違えろ」
と命じたが
「与五郎」は病気療養中で
養子の
「善之進」
を大塩邸に向かわせた
すでに大塩は決起した後で
「大西 与五郎」
と相談し
「謀反人の親族も咎が及ぶ」
と西宮まで逃亡
大坂に戻って捕縛された
後に
「与五郎」は遠島
「善之進」は市中追放
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大塩決起一党は
天満橋(大阪市北区)の
難波橋を渡り
北船場で
三井呉服店
鴻池屋
などの豪商を襲撃
近郷の農民
大坂の町民
総勢300人ほどの勢力で
「救民」の旗を掲げ
船場の豪商家に大砲や火矢を放ち
奉行所部隊と
内平野町で衝突
淡路町近辺でも衝突し
↓↑
大塩勢は壊滅、鎮圧
大塩勢の戦死者は3名
巻き込まれて死亡した者15名
奉行所側は負傷者無し
↓↑
城代は
在阪大名家や近隣各藩に出陣を要請
市内や郊外で検問
↓↑
被害状況
『浮世の有様』などで
天満を中心とした
大坂市中の5分の1が焼失
大坂の人口
約36万人の5分の1
7万人程度が被災
焼死者は270人以上
↓↑
「大塩」は
「格之助」
と共におよそ40日余り
大坂近郊各所に潜伏
江戸に送った建議書が
幕府に届くことを期待
↓↑
建議書は江戸に届いたが
大坂町奉行所が発した
「差し戻し命令」
のため発送先に届けられず
大坂へと差し戻しの途中
箱根の関で押収・・・
↓↑
大塩家に出入りしていた商人
「美吉屋五郎兵衛」
の店(西区靱油掛町付近)
で匿われたが
女中が帰郷し
「五郎兵衛夫妻が
神棚へのお供えとして
2名分の食事を用意し
全て食べられた状態で
下げられるのは不思議だ」
と漏らし、これを村役人が
大阪城代
「土井 利位」
の陣屋に通報
3月27日早朝
「土井」とその家老
「鷹見泉石」
らの率いる探索方に
潜伏先を包囲され
「大塩」
は火薬で火を放ち自決
死体は
「高原溜」に送られ
「塩漬け」にされた
↓↑
他の決起参加者も
捕縛されるか自決
束縛者は
「高原溜」に護送
生きていた門弟の同心は
「竹上 万太郎」だけで
死亡した決起参加者の遺体は
「塩漬け」にされ保存された
↓↑
「大塩」以下
18名の塩漬け死体
「竹上万太郎」
の合計19名が引廻し後
「飛田刑場」で磔
「美吉屋五郎兵衛」
以下
「11名」が引廻しの上
打首獄門
3名が死罪
「大塩の近親者」ら
4名が遠島
3名が
「中追放(チュウツイホウ)」
↓↑
「中追放(チュウツイホウ)」
江戸時代の追放刑
重追放と軽追放の中間の刑罰
罪人の田畑・家屋敷を没収し
犯罪地・住居地
および
武蔵・山城・摂津・和泉
大和・肥前・東海道筋・木曽路筋
下野・甲斐・駿河
に入ることを禁じ
江戸10里四方外に追放した刑罰
↓↑
城代
「土井 利位」
は
「美濃国兼定の刀」
を将軍から拝領
鎮圧に功者への褒賞もされた
↓↑
「大塩の檄文」
庶民の手で筆写され伝播
越後国
国学者の
「生田 万」
が柏崎の代官所を襲撃
(生田万の乱)
「檄文」
は寺子屋の習字の手本にされた
摂津国
能勢で
「山田屋大助」が一揆
(能勢騒動)。
↓↑
同年
アメリカ
「モリソン号」
が日本沿岸に侵入
「大塩と黒船が江戸を襲撃する」
と噂囁が流れた
↓↑
2月25日
京都所司代
「松平信順」
から
「光格上皇」
「仁孝天皇」
に対して事件報告
朝廷から
諸神社に
「豊作祈願の祈祷」命じられ
朝廷の命により
幕府がその費用を捻出
尊号一件などで
「大政委任」
を盾にしていた
幕府が朝廷の命令を認めた
↓↑
・・・「第百回全国高校野球選手権記念大会・高校野球・甲子園決勝 大阪桐蔭13―2金足農」・・・「平成最後の百姓一揆」・・・「百姓一揆」で「百姓」が結果、勝利した歴史はないし、「日本の百姓一揆」は政治支配体制の変革でも、権力奪取でもなく、支配階級に対する「嘆願・請願」で終わった・・・もちろん、暴動、騒動だから「百姓」の「一揆」の敗北は前提でもあった・・・搾取対象の「百姓」をスベテ抹殺するわけにはいかないから、扇動者だけを殺した・・・ 例外は支配者をオン出し、追放し、地域自治を「国人政治」とした「くに」があったらしいのだが・・・これって「忍びのクニ」?・・・ 「山城国一揆(やましろのくにいっき)は、文明十七年(1485年)、山城国(現在の京都府南部)南半の上三郡(久世郡、綴喜郡、相楽郡)で国人や農民が協力し、守護大名畠山氏の政治的影響力を排除し、以後8年間自治を行った」・・・ナンで、「文明十七年」で、「八年間の自治(ジチ)」なんだか?・・・字知・事知・時知・耳知・・・? 「国人が起こした一揆=国人一揆」、「惣国一揆=惣村(そうそん)は、中世日本における百姓の自治的・地縁的結合による共同組織(村落形態)を指す。惣(そう)」・・・「惣=物+心=共同組織」・・・なるほど、ザ、わぁーるど・・・ 「桐蔭=瑞鳥の鳳凰が桐の葉の陰で休み、力を蓄える・・・花札で桐に鳳凰(yahoo・知恵袋)」・・・「松陰」のモジリ?じゃないんだ・・・ 「金足=秋田市金足(かなあし)追分の三叉路=江戸時代末は、なにもない砂丘のふもとで、羽州街道と男鹿街道の追分」・・・ 秋田は「古事記の登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)=登美毘古(トミビコ)の兄弟、安日彦(アビヒコ)⇔阿比毘古(安日王・阿比古・阿彦⇔居多神社)」、「安日彦=長髄彦の兄、彼と共に青森県の弘前に逃れたとも、単独で津軽地方に流されたとも」・・・ が逃げてきた場所だから・・・ 「金足=キンソク=禁足・禁則⇔藤原(中臣)鎌足(鎌子)⇔榎本武揚(釜次郎)」のモジリじゃないのか?・・・いずれも「百=もも」・・・桃尻(木兆尸九)の百済・・・? 以上も以下もぜェ~んぶ、原文は「wikipedia」・・・イチャモンの「・・・」と「・・・モジ」はボクのカンジたカンソウ・・・ ーーーーー 賛助金を「年貢」 金足農業の快進撃を 「平成最後の百姓一揆」 とたとえる人が続出・・・ 平成最後の百姓一揆 ↓↑ 実際の「最後の百姓一揆」 1875年(明治八年)に起きた 伊勢暴動や 1876年 九州における西南戦争下の諸一揆 ↓↑ 1875年の伊勢暴動(いせぼうどう) や翌年の九州における 西南戦争下の諸一揆が最後の百姓一揆 以降の農民闘争・民衆運動は 自由民権運動や小作騒動へと受け継がれた・・・ ↓↑ 平成最後の百姓一揆タグ誕生 なまはげも泣かされる感動 勝ちすぎて宿泊費不足→金不足農業高校・寄付する→「年貢納める」(振込先は秋田なまはげ農協) 吉田投手母「(鍛えすぎてしゃがむ度に破ける)」 ↓↑ ↓↑ 「1918年夏の米騒動 の残っている 証言・資料に現れている 最も早い時点での行動は 東水橋町の 女性 陸仲仕たち20数人によって 7月上旬から始められた 移出米商 高松への積出停止の要求の行動 『米騒動の研究』(全5巻)」 ↓↑ 1918年米騒動 1918年(大正七年)に日本で発生した コメの価格急騰に伴う 暴動事件、米騒動 ↓↑ 肉や魚などの摂取が少なかった当時 日本人の食生活は穀物類が主体 特に肉体労働者は激務のため 1日に1升(1.8リットル)もの米を消費・・・ 米価の高騰は 家計を圧迫し 人々の生活を困窮させた ↓↑ 富山県中新川郡東水橋町(富山市) 1918年(大正七年) 「7月上旬」から、 「二十五六人」の 「女(陸)仲仕たちが移出米商高松へ 積出し停止要求に日参する」 行動が始まっている ↓↑ 7月22日の昼 富山市中長江町ほかで 富豪浅田家の 施米にもれた 細民200名 (「杖にすがった むさ苦しい婆さん達もあれば 子供の手を曳いた女房連も」) が市役所に押し掛けた (7月23日『北陸政報』) 記事には、 「昨今の米高が 如何に細民をして 生活難に陥らしめているが窺われる」 と記している 同日夜間 富山県下新川郡魚津町の魚津港には 北海道への米の輸送を行うため 「伊吹丸」・・・・息吹山、伊吹山・・・白猪の神⇔ヤマトタケル が寄航していたという この時は巡回中の 警官の説諭によって解散させられたが 住民らは米商店を歴訪するなど窮状を訴えた 荷積みを行っていたのは 十二銀行(北陸銀行)であった 同年7月24日、25日の 『北陸タイムズ』で それぞれ 「二十日未明同海岸に於いて 女房共 四十六人集合し 役場へ押し寄せんとせしを いち早く 魚津警察署に於いて探知し」 「二十日未明海岸に集合せしを 警察署がいち早く探知し 解散せしめ」 と魚津の動きが 20日未明(19日夜間)から 起きていたと報じている 8月9日の 『高岡新報』は 「魚津町にては、 米積み込みの為 客月一八日 汽船伊吹丸寄港に際し 細民婦女の一揆が起こり 狼煙を上げたる」 と、 魚津でも 7月18日以来 一揆が起きていることを記している その頃 東水橋町、富山市、魚津町以外にも 東岩瀬町(28日) 滑川町、泊町(31日)等 富山県内での救助要請や 米の廉売を要望する人数はさらに増加し 各地で動きが起きていた ↓↑ 翌月8月3日 当時の 中新川郡西水橋町(富山市)で 200名弱の町民が集結し 米問屋や資産家に対し 米の移出を停止し 販売するよう嘆願した ↓↑ 8月6日 東水橋町 滑川町の住民も巻き込み 1,000名を超える事態となった 住民らは 米の移出を実力行使で阻止し 当時1升 40銭から50銭の相場だった米を 35銭で販売させた ↓↑ 大阪堂島の米市場の記録 1918年(大正7年) 1月に1石15円だった米価は 6月には20円を超え 7月17日には30円を超えた (当時の一般社会人の 月収が18円~25円) 7月末~8月初めにかけて 各地の取引所で立会い中止が相次ぎ 地方からの米の出回りが減じ 8月7日 白米小売相場は 1升50銭に暴騰 ↓↑ 地主や商人は米を 米穀投機へ回すようになり 次第に売り惜しみや買い占めが発生 仲小路廉農商務大臣は 1917年(大正六年)9月1日に 「暴利取締令」を出し 米・鉄・石炭・綿・紙・染料・薬品 の買い占めや売り惜しみを禁止した 無効果 口語の動詞 「ぼる・ぼられる・ぼったくる (暴る、暴られる、暴ったくる)」 は、「暴利取締令」の「暴利」に由来 ↓↑ 1918年(大正七年)4月 「外米管理令」が公布 三井物産 鈴木商店 など指定七社による 外国米の大量輸入が実施 が、米価引下げには至らなかった ↓↑ 寺内内閣 1918年(大正七年)8月2日 シベリア出兵を宣言 この宣言は 流通業者や商人などが 戦争特需における 物資高騰を狙い 売り惜しみを加速させた 神戸米会所の相場で 7月2日に1升34銭3厘 8月1日に 40銭5厘 8月9日に 60銭8厘 前後して 富山県でのコメ騒動が発生 シベリア出兵と米騒動の因果関係・・・ ↓↑ 第一次世界大戦による好景気 1918年(大正7年) 伊勢の 福寅一派の 相場師の買いあおりにより 米穀取引所における 期米相場は 50円(1石当たり)に迫り 小売価格も 1升30銭~50銭を超す ↓↑ 1918年(大正七年) 8月1日 1石35円を超え 同5日には40円を超え 9日には50円を超えた 8月10日 京都市と名古屋市を皮切りに 全国の主要都市で米騒動が発生 8月12日 鈴木商店が 大阪朝日新聞により 米の買い占めを行っている 悪徳業者である (米一石一円の手数料をとっている) との捏造造記事?を書かれ 焼き打ちに遭った 米騒動は 移出の取り止め 安売りの哀願から始まり 次第に 寄付の強要 打ちこわし に発展 10日夜 名古屋鶴舞公園で 米価問題に関する市民大会が開かれるとの噂 約20,000人の群集が集結 京都で 柳原町(京都市下京区の崇仁地区) で騒動が始まり 米問屋を打ち壊すなどして 1升30銭での販売を強要 ↓↑ 東京市 8月10日 宮武外骨を発起人とし 山本懸蔵ら政治・労働運動弁士による 野外演説会を 日比谷公園で 8月13日に開催する広告 警察が禁止の決定 当日には 約2,000人の参加者が野外音楽堂に集まった 200人の警官が包囲する中で行われた 即席の演説会は、聴衆の中から登壇する者も現れ 怒号と興奮 警官との衝突に発展し 暴徒となった群衆は3派に分かれ 派出所や商業施設への投石 電車や自動車の破壊 吉原遊郭への襲撃・放火 浅草方面に向かった一派は 翌14日に 浅草・本庄近辺の米商に押し寄せ 暴力的な廉売交渉 8月15日 軍が出動し 16日 暴動は鎮圧され 総計299人が検挙 「値下げを強要すれば安く米が手に入る」 8月17日頃から 都市部から町や農村へ 8月20日までにほぼ全国へ波及 騒動は 米問屋から炭坑へと 9月12日 三池炭坑の騒動終了まで 50日間を数えた ↓↑ 8月17日以降 米騒動は 山口県や北九州の 炭坑騒動へ飛び火 山口県沖の山炭坑 福岡県峰地炭坑など 炭坑夫の賃上げ要求が暴動に転化 沖の山炭坑の騒動 住民を加え数千人規模の騒動に発展 米問屋、屋敷の打ち毀し 遊郭への放火などが起こった 出動した軍隊に対し ダイナマイトで対抗するなど(陸軍のねつ造?) 死者13名を数える惨事 陸軍が発砲理由とした 坑夫のダイナマイト(爆弾)使用は 陸軍が発砲を正当化するために ねつ造したコメントを 『大阪朝日新聞』(大正7年8月23日付) などが取材なしに 記事化した・・・ ↓↑ 一連の騒動は最終的に 1道3府37県の 計369か所 参加者は数百万人 出動した軍隊は 3府23県 10万人以上が投入 呉市では 海軍陸戦隊が出動 民衆と対峙する中 銃剣で刺されたことによる死者が2名 検挙人員は 25,000人を超え 8253名が検事処分を受けた 7786名が起訴され 第一審で 無期懲役が12名 10年以上の有期刑が59名 一部民衆を扇動したとして 和歌山県で2名が死刑判決 ↓↑ 米騒動での刑事処分者 8185人 被差別部落からはそのうちの1割の処分者 部落の多い京都府、大阪府、兵庫県、奈良県では 3割から4割が被差別部落民 女性の検挙者35人のうち34人が部落民 ↓↑ 1920年(大正九年) 原内閣は 部落改善費5万円を計上 部落改善のための最初の国庫支出を行った 内務省は省内に 社会局を設置 府県などの地方庁にも社会課を設けた ↓↑ 呉市 水兵が騒動に参加し検挙 一部の地域では制止すべき 警官が暴動を黙認 ↓↑ 8月13日 政府は 1000万円の国費を 米価対策資金として支出する事を発表 各都道府県に向けて米の安売りを実施させた 騒動の結果、米価が下落したとの印象があるとの理由から 8月28日にはこの指令を撤回 安売りを打ち切った 発表時の4割程度の支出に留まり 米価格の下落には至らず 1918年(大正七年)末 米騒動当時の価格まで上昇 国民の実質収入増加によって 騒動が再発することはなかった ↓↑ 全国 中等学校 優勝 野球大会の中止 この騒動は 全国中等学校優勝野球大会 (全国高等学校野球選手権大会) に影響 ↓↑ 8月11日 神戸市で始まった騒動により 当時の会場だった 鳴尾球場に程近い 鈴木商店で焼き打ち事件が発生 ↓↑ 8月14日 開催予定だった 第4回 全国中等学校 優勝 野球大会は 一旦延期 その後も 治安改善の見通しが立たず 8月16日に大会の中止が決定 ↓↑ 米騒動の影響で 寺内内閣の退陣を求め 寺内は体調不良もあり 8月31日に 山縣有朋に辞意を告げ 9月21日に正式に辞表を提出 ↓↑ 山縣は西園寺公望に組閣を命じたが 西園寺はこれを固辞し 原敬を推薦 9月27日 原に組閣が命じられ 日本で初の 本格的な政党内閣 原内閣が誕生 爵位を持たない 衆議院議員を首相とする 初の内閣 民衆からは 「平民宰相」と呼ばれ、歓迎された ーーーーー ・・・???・・・
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