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乙(イツ)女=おとめ=乚(イン・L)女・音姫・音目・・・「於菟(莵・兎・兔)=虎」の「目(女・売・賣)」



 ・・・「ピリカメノコ」はナゼ、美しい「乙女」なのに「いれずみ=刺青=黥=文身=入墨」をするのか?、されるのか?・・・ファッションの化粧装飾の一種、宗教的な慣習の延長?・・・多分、乙女の娘を誘拐、拉致されないタメの実用で、「醜女(しこめ)の顔」にする「醜顔整形」である・・・「疱瘡=痘瘡=天然痘」、親にとっては「痘痕(あばた)も笑窪→重句模?」であるが「誘拐防衛手段」・・・海女(海人)が「黥文」したのは「鮫(さめ)」に対する「camouflage(カモふらぁジュ)」だった、らしいが・・・ウイッキペデアや他のブログ検索、辞典で調べていたら、例の如くアッチ、コッチと放浪、彷徨で、混乱で「参照原文の添付」が追いつかない・・・旧約聖書で、姉の「ミデアム」は、末っ子の「モーゼ」にナゼ、彼が「クシュ人の女性(黒人)」を妻にしたことに文句を云ったんだか?そもそもナゼ「黒人女性」を妻にしたんだか?・・・「クシュ」は「紀元前3100年頃~紀元前2890年頃)ごろヌビアに現れたクシュの最初のケルマ王国、紀元前2600年ごろに興り、ヌビア(スーダン)の全てとエジプトの一部を支配」したらしい・・・「モーゼ(紀元前16、or 13世紀の人物)」は「演説」が下手だったが兄の「アロン(Aaron・エーロン・アハローン・ハールーン(Hārūn))」が彼のコトバをホローしたが「子牛の金像」を造った。「ミリアム(Miryam)」は「顔面白蝋病?・癩病(ハンセン病)=アルマウェル・ハンセン(漢生)の名を取った漢生病?・leprosy」になって、隔離後7日で回復した・・・「漢生病」って、いくらなんでも・・・?・・・「悪漢」と云うが「善漢・正漢」の熟語漢字は無い?・・・以下は原文はウッキペデアから参照、参考、添付・・・同音異字、異議を探って・・・

ーー↓↑ーー  紀元前16世紀  殷の  「天乙(湯王)」が・・・紀元前1600年頃)              商朝の初代王              名は履              殷墟出土の甲骨文占卜に              大乙、名は唐、成              湯王(湯)、太乙、成湯、成唐              中原の覇権を得て、              亳に王都を築営  夏の  「桀王」を  「鳴条の戦い」・・・・・鳴く条?・・・音取り  で倒し天子となる  中国史上初の放伐による  易姓革命、・・・・・・・姓名を易(かえ)る?  天乙は賢臣  「伊尹」を起用した・・・イイ?  ↓↑  ミタンニ王国・・・・・・観他ム?  フルリ人たちを統一  東隣のアッシリアを支配下  以後メソポタミア北部(シリアを含む)を支配  ウガリットなど地中海沿岸諸都市も支配下に置き、  エジプト  バビロニア  と対立、約300年間存続  ↓↑  紀元前13世紀  紀元前1208年  「メルエンプタハ戦勝碑」に  現存最古の  「イスラエル」に言及した一節  ラムセス三世の葬祭殿  「メディネト・ハブ」の碑文」に  「アムルの地(シリア北部)= Amorite=エモリ」  or  「アモリ」・・・?・・・天守・雨漏り・海人守?  「アムール(川)=黒竜江」  の語源と関係あるか?・・・アモーレ・・・  イシン、バビロン、ラルサなどの都市を形成  「シュメール人のウル第3王朝にかわって   紀元前1900年頃   バビロンを都に   バビロン第1王朝を建国   メソポタミアを支配   全盛期の王   ハンムラビ王が出る」   ↓↑  紀元前1260年頃  モーセがファラオ  ラムセス2世時代に・・・覶務施素?  イスラエルの民を率いて・・・ミタンニのフリル?  「出エジプト」?   ↓↑  紀元前1259年  ヒッタイトの大王  ハットゥシリ3世  と  エジプトのファラオ  ラムセス2世  の間で、  シリアにおける  国境線の確定、  相互不可侵、  外敵に対する共同防衛  を取り決める平和条約  (en:Egyptian–Hittite peace treaty)  が結ばれた・・・  ・・・「平和条約」で「中東諸国」は相も変わらず・・・戦争・・・大陸中国の裁判官が「法治」を否定とは・・・ ーー↓↑ーー  天然痘・・・水疱瘡・・・  紀元前1350年  ヒッタイトとエジプトの戦争の頃  天然痘で死亡したと確認されている最古の例は  紀元前1100年代に没した  エジプト王朝の  ラムセス5世  彼のミイラには天然痘の痘痕  ↓↑  イスラムの  アル・ラーズィーは  「天然痘と麻疹の書   (Kitab fi al-jadari wa-al-hasbah)」  を著作し麻疹と天然痘の違いについて言明  ↓↑  紀元前430年  古代ギリシャの  「アテナイの疫病」は  「ペスト(黒死病)」ではなく  「天然痘」だったらしい・・・アテナは足の不自由な鍛冶屋のヘーパイストス( Hēphaistos)がゼウスの頭を斧で叩き割って産まれた女神・・・鍛冶屋に火の粉での火傷はつきもの・・・  ↓↑  165年から15年間のローマ帝国  「アントニヌスの疫病  (アントニヌスのペスト)」も  「天然痘」で、少なくとも350万人が死亡  ↓↑  12世紀に十字軍の遠征によって持ち込まれ  ほとんどの人が罹患  ↓↑  737年(天平九年)  藤原一族(四兄弟の病死)潰滅  ↓↑  日本で「天然痘」を問題視、  「種痘」を行った「医者」は  1744年中国から種痘科、李仁山渡来。長崎で人痘種痘実施  1766年江州倫完が琉球で人痘種痘法を実施  1790年筑前秋月藩医、緒方春朔、     天野甚左衛門の二児に     鼻旱苗法で人痘種痘実施 ーー↓↑ーー  「クシュ(黒人種・スーダン人)勢力」は「紀元前3100年頃から紀元前2890年頃)の時代ごろヌビアに現れた。クシュの国として知られている最初の国は「ケルマ(Karima)王国」で、紀元前2600年ごろに興り、ヌビアの全てとエジプトの一部を支配」?・・・だが「クシュ王国(紀元前920年頃~紀元350年頃)」で、確実に知られているのは  エジプト新王国の  第25王朝(紀元前747年)  スーダン  ナパタの・・・・名葉多?・・・タナバタ?  ヌビア人の  ピアンキ・・・「ピイ王」  が  ヌビアから進撃して  エジプト全土を制圧  第25王朝を開いた  ↓↑  その後、  メソポタミアに帝国を築いた  アッシリアの圧迫にさらされ、  紀元前671年  アッシリア王  エセルハドン  の侵入をうけ  下エジプトが陥落  一時奪回に成功したものの、  アッシリアの  アッシュールバニパル王  により  紀元前663年  テーベが陥落・・・氐(弖)重部  ↓↑  第25王朝のヌビア人は  ヌビアへ撤退)」した・・・

ーーーーー  「ピリカメノコ」はナゼ、「刺青=黥=文身=入墨」を?  「アイヌ」って?・・・   ↓↑  「アイノ」=大和民族と混血したアイヌ   ↓↑   「アイノ」=日本語の「アイノコ」の略語  東北地方=アイヌ語地名   ↓↑  古墳時代にアイヌが寒冷化による       東北地方に南下?       和人が北上した後・・・だろう・・・       和人、アイヌの混交地?・・・       アイヌ語由来の地名、言葉が多い       近年遺伝子 (DNA) 解析で       縄文人や渡来人との「DNA」上での近遠関係       北海道の縄文人は       アムール川・・・ロシア語Амур=情事       ↓↑      ラテン文字転写Amur=愛               黒竜(ヘイロン)江                 =驪竜(リリョウ)                 =高龗(たかおかみ)                 =北海の龍王(敖順・敖炎)          ドウシテ「黒・鄢=ヘイ」なのか?          漢字の招来時代は「コク」だろうが          「大黒様」・・・       ↓↑「コク」が「ヘイ」に          訛っていくのにはナゼか?         「緇、玄、黎、黸、黯、黮、黬、黧、黔、黒」         「點黜黠黷黰黭」          ・・・黒彪=panther・leopard・puma          同意異字の発音からも「ヘイ」は無理だが?          病(ヘイ)、閉(ヘイ)の黒死病?               フランス語アムール(amour)               イタリア語アモーレ(amore)       ↓↑      愛と哀は「暗闇の中で」か?       流域などの       北アジアの少数民族との関連が示唆       ニヴフ=ニブフ(Nivkh)       ロシア語での複数形は       ニヴヒ(Nivkhi)       樺太中部以北及び対岸の       アムール川下流域に住む       モンゴロイドの少数民族       古くは       ギリヤーク(Gilyak)       ロシア語(の複数形)       ギリヤーキ(Gilyaki)は       アイヌや       ウィルタ((UILTA)族・・・アイヌ語で                    オロッコ (Orokko)       と隣り合って居住       ウィルタ語の属するツングース諸語       アイヌ語とも系統を異にする       固有の言語ニヴフ語を持つ       アムール川流域のニヴフ語と       樺太のニヴフ語は大きく異なる・・・       粛慎(みしはせ・シュクシン)       挹婁(ゆうろう)は、       一般にはツングース系民族       『日本書紀』の       粛慎は「ニヴフ」?・・・との説   ↓↑   ↓↑       「ギリヤーク」は元々       「ギリミ」=「吉里迷・吉烈滅」と記録された             中国語のアテナ、当て字漢字             「吉の里の迷」なら             「キリキリジン(吉里吉里人)」             ではなく、             旧約聖書の             「エデン」追放のアダムとイヴ             「吉の烈の滅」なら             出エジプトの放浪の             「モーゼ」の             「ユダヤ+エジプ+α」の民か             ローマ帝国にユダヤ国家を潰された             66~70~73年5月2日             マサダの戦いが最後の             「ユダヤ国家領域」からの             追放、民族離散の             ディアスポラ(Diaspora, diaspora)             だろう・・・ローマ帝国は農耕地に             「塩」を播いた・・・「塩の滴」で             日本の島が形成された・・・?       語源の       「ギリャミ(гилями)」=「漕ぐ」       「ウリチ語の        ギラミ(гилaми)=大きな舟に乗る人々」       ならば、       「ノア」の一族だろう・・・       「Noah's Ark・旧約・創世記(6章-9章)」        ↓↑       古くは       シュメール(楔形文字で        ↓↑   キ・エン・ギ (・ラ) KI-EN-GI(-RA)             Sumer(シュメール)             低地地帯・・・バビロニア南部             アッカド=Akkad・Agadeは             台地地帯・・・バビロニア北部)             の意味?             ・・・「邪馬台国は赤土=埴?            「サルゴン1世」=メソポタミア                     最初の帝国建設             シャッル・キン(Šarru‐kin)                     55年の治世             11(壱拾壱・十一)世王             181年(前2350~前2150)        ↓↑   に及ぶ王朝を創始・・・「Šarru‐kin」は「猿田彦」        ↓↑  「Šarru‐kin=サルゴン」は「猿田彦(毘古)」?       の       ウルクの王の物語(叙事詩)       「ニネヴェ」の・・・・・・「ニヴフ」に似ているが?       クユンジク(Kuyunjik)の丘の       アッシュールバニパルの       図書館跡から発見された粘土版       「アトラ・ハシース」       「アトラム・ハシース(Atra-m-hasis」       の       「ウタナピシュティム(Uta-napistiim・生命を見た者」       「ジウスドラ        ジウスドゥラ(Ziusu-dra)=ジウドスラ」       「ギルガメシュ(Gilgameš)」伝説の       「ギリシア語化」の       「クシストロス」・・・クロノス        ↓↑   (Kronos・時刻の神と習合された農耕神              ゼウスの父・ウラノスの子)が              クシストロスに              大洪水の襲来を警告              歴史を記録し、船を造り、              家族、友人、一つがいずつの動物を              乗せ避難を命じた              クロノスは              ティーターン(巨人)              十三神一族の末子              地底に閉じ込められている              地球の月、              木星のガリレヲ4衛星              イオ、エウロパ、ガニメデ、カリスト              に次で              6番目に発見された(1655年3月25日)              土星の

             第六衛星の名はタイタン(Titan)              権力の変遷は        ↓↑    ウラノス→クロノス→ゼウス       いずれにしても       「大洪水」伝説である・・・       「ニヴフ」という自称は       「アムール川」下流部で「人」の意味       樺太東岸では       「ニグヴン(Nigvyng)=人」を意味       「人間(ニンゲン)」は       「日本語独自の熟語漢字」であるが・・・       「人の間」って?        ↓↑       蝦夷地、樺太探検の幕府隠密の       「間宮林蔵」は       「スメレンクル夷」と記した・・・        スメルなら「シュメール」       樺太アイヌ語の「sumari(キツネ・狐)?」と、       蝦夷アイヌ語の       「クル(人)」+「キツネ(狐)」の       「びと(人・毘訳・比渡・比訳)」を意味?・・・       だいたいからして       「ギリヤーク(Gilyak)」は       「Greece」?、「grease」?の発音に似ている?が       ・・・北方の人種は       「動物の脂」を防寒の為に       身体に塗るのが習慣である・・・       「grease」は       「柔らかい獣脂・脂(あぶら)」である・・・       「grease」       「脂(あぶら)なす大地」は       「古事記の初源の國(天地初發之時)」である        ↓↑       「國稚如浮-脂-而久羅下那州多陀用幣流之時              ↓↑   流字以上十字以音」              ジクラゲナスタダヨヘル        ↓↑       英語は       「Greece」だが       ギリシャ語       「エリヌィキ=Ellinikí」、       「Hellenic」であり、       「Hellás」である・・・ヘレネス=ヘレナの息子                    ヘレンの息子は鍛冶屋       ポルトガル語は       「Grécia=グレスィア」       ラテン語       「Graecia=グラエキア」       「ギリシャ」は       ラテン語の訛った英語言語の「Greece」       これは「ギリシャ語(正教会)」に影響された       ロシア語に更に意味(grease=olive-oil→Gilyak)も       音も訛った・・・「ギリヤーク(Gilyak)」?   ↓↑        「骨嵬(クギ)」=北方の民族のアイヌの呼称  「アイヌ」=行いの良い人  「ウェンペ」=行いの悪い人  「ウタリ」=人民・親族・同胞・仲間   ↓↑  アイヌの楽器「トンコリ」に似ているのは  絃上(ケンジョウ)=玄象  村上天皇遺愛の琵琶の名器  中世ごろから  剣璽と並ぶ皇位継承を象徴する品物  一説に玄象とも書き、  玄象は仁明天皇遺愛の琵琶、  絃上は村上天皇の御物  絃上・玄象=能の演目・五番目物の貴人物   ↓↑  アイヌの楽器  パラライキ(バラライカ)  トンコリ、ウマトンコリ(馬頭琴)  カチョー(太鼓)  ムックリ(口琴)  などが、存在するらしい・・・ ーー↓↑ーー

 玄象は、トンコリだった・・・?  江戸時代中期の  「雨月物語」の作者  上田秋成(享保十九年六月二十五日       1734年7月25日        ~       文化六年六月二十七日       1809年8月8日)       紙油商・・・・カミとアブラのアキンド       嶋屋・・・・・シマヤ       上田茂助       の養子となり、・・・鳥子・酉子       仙次郎       と呼ばれた

 ↓↑       は、  トンコリを奏でる自画像を描いた・・・怪しい人物であるカナ・・・ ーー↓↑ーー   上田秋成の履歴・・・すべて、ウイッキペデアから・・・  「養父、茂助は   加島稲荷(香具波志神社)に・・・稲荷はキツネ                  医名理葉記通音?   仙次郎が疱瘡に罹り、   本復を祈願し、   68歳までの存命を告げられ、以後、   秋成も同社への参詣を怠らなかった。   病気は快癒したが、   手の指が不自由になった。   この年、茂助は妻を喪い、   翌年に再婚し、   仙次郎はその第2の養母のもとで育った。   宝暦元年(1751年)ころ   俳諧に遊ぶ   俳号は   漁焉・無腸・三余斎・余斎・鶉翁・鶉居(うづらゐ)   別号、   和訳太郎、剪枝畸人、洛外半狂人        蟹のこと。「内は柔らかいが外は固い」             「世を横に歩く」        など、おのれの頑固・狷介をこの別号に諷した   などの筆名   他にも戯作を耽読し、和漢の古典を勉強   宝暦十年(1760年)   京都生まれの   植山たま   と結婚   翌年茂助が没し、嶋屋を継ぐ   明和元年(1764年)   大阪で   朝鮮通信使一行との筆談に参加   明和三年(1766年)   浮世草子『諸道聴耳世間猿』   賀茂真淵一門の国学者   加藤宇万伎   に師事   明和四年(1767年)   『世間妾形気』   天満の儒医   都賀庭鐘   に   白話小説を教えられた・・・噺コトバ調の小説                曰(いわく)小説?   明和五年(1768年)   『雨月物語』初稿  明和八年(1771年)  嶋屋が火災で破産  加島稲荷の神職方に寄寓  友人・木村蒹葭堂らに助けられ  医を学ぶ  師は都賀庭鐘  安永二年(1773年)  加島村で医者を始める  通称に「東作」、  名に「秋成」を用いる  この頃から  与謝蕪村、  高井几董(高井几圭の子)らと付き合う  安永五年(1776年)  大坂尼崎(大阪市中央区高麗橋付近)  に移って医療を続けた  『雨月物語』上梓  安永八年(1779年)  『源氏物語』の注釈書  『ぬば玉の巻』ほか稿  安永九年(1780年)  淡路町切丁(大阪市中央区淡路町1丁目)に  家を改築し、翌年、居住  細合半斎、  江田世恭  らと友好  天明四年(1784年)  考証  「漢委奴国王金印考」  を発表  天明五年(1785年)  『万葉集』研究  「歌聖伝」を発表  賀茂真淵の述  『古今和歌集打聴(うちぎぎ)』を校訂  天明六年(1786年)  思想・古代音韻・仮名遣いなどで、  本居宣長と論争(日の神論争)  天明七年(1787年)  大坂北郊淡路庄村(阪急電鉄淡路駅付近)に隠退  戯作  『書初機嫌海』(かきぞめきげんかい)  俳文法書  『也哉鈔』(やかなしょう)を上梓  寛政元年(1789年)  姑と養母を淡路庄村でみとった  寛政二年(1790年)  左眼を失明  妻が剃髪して  瑚蓀尼と称す  寛政三年(1791年)  随筆集  『癇癖談』(くせものがたり)執筆  真淵の  『あがた居の歌集』  と  宇万伎の  『しず屋の歌集』を校訂上梓  寛政四年(1792年)  評論集  『安々言』(やすみごと)を執筆  寛政五年(1793年)  京の袋町(京都市東山区袋町)に移転  真淵述  『伊勢物語古意』を校訂上梓  後、  南禅寺山内(左京区)、  東洞院四条(下京区)、  衣棚丸太町(上京区)、  袋町と転々しながら、  寛政6年(1794年)  匙茶道書  『清風瑣言』  同九年(1797年)  仮名遣い研究書  『霊語通』を上梓  妻死亡  寛政十年(1798年)  右目も失明  大阪の鍼医、  谷川良順の治療によりやや回復  帰京後、  門人の  伏見稲荷の祠官  羽倉信美の  丸太町(上京区寺町通広小路)  の邸内に移り住む  寛政十一年(1799年)  『落久保物語』上梓。  享和元年(1801年)  加島稲荷に告げられた68歳  68首の  『献神和歌帖』を編んで同社に奉納  万葉集論  『冠辞続貂』(かんじぞくちょう)上梓  享和二年(1802年)  自らの墓を西福寺(左京区南禅寺草川町)に造る  享和三年(1803年)  『大和物語』を校訂  大阪で70歳を祝う  古代史論  『遠駝延五登』(おだえごと)を執筆  文化元年(1804年)  万葉集注釈  『金砂』(こがねいさご)  『金砂剰言』  文化二年(1805年)  『七十二侯』を執筆  西福寺に移り住んだ  歌文集  『藤簍冊子』(つづらぶみ)を上梓  文化三年(1806年)  『ますらを物語』を執筆  文化四年(1807年)  草稿を古井戸に捨てた  文化五年(1808年)  短編小説集  『春雨物語』を執筆  書簡集  『文反故』(ふみほうぐ)を上梓  随筆集  『胆大小心録』  『自像筥記』などを執筆  文化六年(1809年)  羽倉邸に引きとられた  『異本胆大小心録』を脱稿  『俳調義論』を編む  6月27日  羽倉邸で没し、  西福寺に葬られた  戒名は  「三余無腸居士」  文政四年(1821年)  十三回忌に建てられた墓石が存在  別に、  香具波志神社に墓碑が存在する  同時期に江戸で活躍した  読本作者には  曲亭馬琴  山東京伝   ↓↑ ーーーーー  ・・・アレレッ・・・また、マタ、跳んだ・・・  アイヌの宗教は汎神論  動植物、生活道具、自然現象(津波・地震)、疫病などに  霊性をあると考えて  事物には  「ラマッ」と呼ばれる霊が宿っていると考えた  自らの住む  現世(アイヌモシリ)と・・・・捩り・茂尻・文字理?  ラマッの住む  世界(カムイモシリ)に分けて  ラマッは様々な事物に宿り  何らかの役割を持って  アイヌモシリにやって来るとした  ラマッはその役割を果たすと  再び  カムイモシリに戻る・・・とされた。  神々は絶対的な超越者ではなく、  カムイが不当な行いをした際には  アイヌ側から抗議を行う・・・  「熊送り」の  「イオマンテ」は、  擦文文化期にはその痕跡が見られず、  擦文文化圏に隣接して存在していた  オホーツク文化圏にその痕跡が見られる  オホーツク文化圏から  トビニタイ文化を経由して  アイヌ文化に取り入れられたもの・・・  イオマンテは、  「熊肉や熊の毛皮を   アイヌモシリに届けるために   熊に宿ってやってきた   ラマッを、盛大な饗宴を開いてもてなし、   多くの土産物を渡して   ラマッの世界に戻って頂く」  ・・・  神事は  カムイノミ  と呼ばれ、  カムイノミを開始する際には必ず  火の神  アペチフカムイへの祈りを捧げる  カムイノミには  白木を加工した  イナウと呼ばれる  木幣が使用   ↓↑  揉め事の決着をつける際に  「サイモン」と呼ばれる  「盟神探湯」を行うなど、  神前裁判の風習  色丹島などのロシア文化圏に近い場所に住んでいた  アイヌの集落には、  教会が建てられた  キリスト教を信仰していた・・・  樺太のアイヌなどにも  ロシア正教会が布教を行った報告がある・・・  キリスト教への改宗者は他のアイヌから  「ヌツァ・アイヌ(ロシアアイヌ)」  と嘲笑  明治以降、  ジョン・バチェラー・・・学士・独身・・・独神・読唇?  など、  アイヌへの伝道を志した宣教師も居た・・・  考古学的アイヌ文化  鉄製鍋、漆器の椀、捧酒箸(ほうしゅばし)、  骨角器の狩猟具、  鮭漁用の鉤銛、  伸展式の土葬  など  間宮林蔵の・・・・・・・シーボルトの弟子  『北夷分界余話』によると、  樺太アイヌは  犬橇やスキーを使用  オホーツク文化からの影響  近世に入っても  土器の製作、  竪穴式住居の使用という、  北海道では  中世アイヌ文化に限られる文化要素を保持  鎧の形状も北海道アイヌとは異なり、  胸甲と腰部の装甲が一体となった独特のもの  樺太アイヌは  ミイラ製作を行う  ミイラ製作は  オホーツク文化圏でも  北海道のアイヌ文化でも行われない  近世アイヌ社会は  カモイと呼ばれる首長、  その下の階層である  ニシパ、平民、  隷属民である  ウタレという4つの階層  カモイに富が集中していた・・・  和人との敵対  集団同士の抗争  メナシクル  と、  シュムクル  の対立は激しく、多数の死者が出た  幕府に戦いを挑んだ  メナシクルの長  シャクシャインも、  シュムクルの長  オニビシと戦い、  これを殺し  シャクシャインの先代の  メナシクルの長  カモクタインは、  オニビシ  に殺された   ↓↑   アイヌ社会の犯罪  村長自らの裁量で被告に裁き  姦通罪は  耳削ぎ  鼻削ぎ、  窃盗は  シュトと呼ばれる棍棒による杖刑  アキレス腱切断の刑  北海道アイヌに死刑は存在しなかった  樺太アイヌには生き埋めの刑があった・・・   ↓↑   日本に在住していた  ドイツの医師  フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト  は、明治政府の  刺青禁令に困惑するアイヌ民族より、  この禁令に対する異議を  シーボルト側から働きかけてもらえないかと  哀願されたとの記録が残っている・・・  成人女性が口の周りに入れる刺青  髭を模した物である・・・  神聖な蛇の口を模した・・・説  フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト  は  北海道流沙郡平取のアイヌ集落に調査に入り、  「アイヌの入れ墨は女だけに行われ、   まだ7,8歳の女の子の上唇のすぐ上に、   小刀で横に多発性に傷をつけ、   そこに煤を刷り込むところから始まる。   口ひげみたいになるが、   両端が口角部で上に向かう。   口の周囲の入れ墨が済むと、   手背と前腕の入れ墨が行われる。   女が結婚するともう入れ墨はしない」  と記している  (「小シーボルト蝦夷見聞記」    ハインリッヒ・フォン シーボルト   (東洋文庫)p.41-41から引用)  男性の場合も地域ごとに様々な刺青の習慣  ある地域の男性は肩に、  有る地域の男性は手の水かきの部分に刺青を入れると  弓の腕があがって狩りが上手になる・・・   ↓↑   アイヌは文字の暦は使用しなかったが、  口頭で伝承される  暦を持っていた・・・  「月 (暦)」  パイカル(春)  冬眠から覚めたキムンカムイ(エゾヒグマ)を狩る  マカヨ(フキノトウ)、  プクサ(ギョウジャニンニク)、  チライ(イトウ)を採る  サク(夏)  トゥレップ(オオウバユリの球根)の採集・加工、  ニペシ(シナノキの内皮)  アッ(オヒョウの皮)を  温泉(無ければ池など)に浸け、繊維を取る  チュク(秋)  カムイチェプ(鮭)の漁。  マタ(冬)  ユク(エゾシカ)、  モユク(エゾタヌキ)、  イソポ(ウサギ)を狩る。   ↓↑  文字を持たなかったが、  明治時代、沖縄と同様に  藁算が残っていた  藁算は縄の結び目に意味を持たせ  アジアでは伏羲の結縄、  アメリカ大陸ではキープ (インカ)  古器物に刻まれている文字のようなもの  「北海道異体文字」が  「アイヌ文字」と呼ばれる事がある・・・   ↓↑  製鉄技術を持たなかった  鉄を和人や大陸から輸入していた・・・  鉄製品の修復方法は知られていた  鉄製品の修復や、  古い鉄を溶かして別の製品に作り替える  鍛冶師が存在した  定着、村々を回り巡回する鍛冶師もいた ーーーーー  ・・・蝦夷は凍てついて、寒い・・・浴室から物置に繋がっている水道管の水が凍結、罅(皹・ひび)割れで破裂し、噴水・・・

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