人生のオマケも「運」次第・・・
2023/2/11・土曜日・・・追加添文・・・
2023年 干支 癸卯(甲・ ・乙)年 2 月 干支 甲寅(己・丙・甲)月 11 日 干支 庚子(壬・ ・癸)日
誕生してから労働し、体力的に用なしになったら
「人生のオマケ」だけれど
その「おまけ」をもらえない人々もワンサカ存在する・・・
・・・音声入力で文章を記録するには結構シンドイ・・・
音声入力の「オン・オフ」をイチイチしないと
TVのニュースや自分自身の「独り言」まで記録されてしまう
読み返してみて
書いた記録に見知らぬ文字行列がワンサカ・・・ナニ,これッ
「オフ」を忘れて
キィボードを叩いて入力しようとしたら
「かきくけこ」が
「KあKいKうKえKお」・・・
「SあSいSうSえSお」・・・
「オン」のママにしていたら
・・・「ふ~うん」っていうため息まで・・・
マっ、これもボクの「オマケ」の不徳と運次第・・・
「うん・ウン=云・雲・運」の入力だけは
「オン・オフ」が関係なく記録される・・・
「ん」・・・「人・内・囚」・・・「ム」・・・「禸・囜」・・・「毋」
「ン」・・・「冫・冰」
「ン」の
由来の所説
「无」の変形
「尓・毎」の上の・・・「尓=𠂉+亅+ハ」
「毎=𠂉+毋(母・毌=貫=毋+貝)亅
「𠂉=ノ+-」の部分・・・?
「𠂉」=髪指し(かみさし)・櫛(くし)・髪梳(かみと)かし
兂(かんざし・笄・簪・シン)
鈿=金+田
篸=竹+厽+𠆢+彡=ルイ・サン=参
厽=厶+厸=ムムム、ムぅ~
↓↑
「あん・いん・うん・えん・おん」
ゐん ゑん・をん
安=按・案
因=咽・瘖・殷・韵・印
運=軍+辶
冤=冖+兔(兎)ー寃
縁=圓・円
音=恩・遠・温・怨・穏
↓↑
冤(ヱン・オン)
冤=冖+兔(兎)ー寃
あだ・ぬれぎぬ
うらみ・かたき
無実の罪・冤罪
冤枉(えんおう)行っていないことに対する罪。無実の罪。冤罪。
冤罪(えんざい)やっていないことに対する罪。無実の罪。濡れ衣。
雪冤(せつえん)罪を犯していないことを証明して身の潔白を示すこと。
↓↑
冤家路窄(えんかろさく)
会いたくない人にだけよく出会うこと
次から次へと悪い出来事が起きること
「冤家」=仇の家
「路窄」=狭い道
仇同士が狭い道で出会うと逃げることは出来ない
「冤家、道窄し」
↓↑
ベン
かんむり
天子から大夫までが着用する礼装用のかんむり・かぶりもの
異体字
許容字体
↓↑
冕=冃+免
日+免
冂+二+免
冂+一+免
↓↑
冃=帽子・頭巾・冠
免=免許・免除
冐=感冒・冒険・冒頭
兔=脱兎
冒=冐
冑=甲冑
俛=俛仰(フギョウ)之間=非常に短い時間
俯仰=うつむくことと上を向くこと
下を向いたり、上を向いたりする間の時間
「俛仰之間」
俛首帖耳(フシチチョウジ)=機嫌をとる卑しい態度
俛首=頭を伏せること
帖耳=耳を垂れること
犬が飼い主に従う様子
「俯首帖耳」
勉=勉強・勤勉
凂=浼=汚・汚染・汚物
冔=ク・殷代の冠の名
挽=挽歌・挽回・木挽
娩=分娩
悗=バン・ボン・まどう・とまどう・忘れる・ぼんやりする・うつろ
莬=ブン・ベン・生え出たばかりの草木
浼=バイ・ベン・汚す・汚れる・用を頼むこと・平らかに流れるさま
㝃=ベン・メン・バン・マン・ブン・モン
子を産む=娩・分娩
㡈=ブン・モン・ベン・メン
㒻=ボウ・モウ・ボク・モク
逸=逸脱
晚=夕暮
脕=バン・ふっくらとして、艶のあるさま
梚=バン
㻊=ボン・赤い玉
㒽=ケン・子ども用のかぶりもの
睌=バン・メン
䅋=バン・マン・稲の名
㒾=シ・イ
絻=ブン・ベン・喪に服す際に、髪を束ねるのに用いる布
冠=冕
輓=バン・おそい・ひく・車や舟をひっぱる
人の地位を引き上げる
人の死をいたむ
おそい・近い
推挽・推輓
その人がその地位や役目などに
相応しいとして薦めること
推薦・推挙
人の死を悲しみ惜しむ歌
死を惜しんで歌を作ること
中国で死者を墓地に送る際に
棺を引く人がうたった歌
輓近・輓馬
鋔=バン・マン・引く
鞔=バン・靴の内側で、足の側面を包み込んでいる部分
太鼓の革を張る
もだえる・悩み苦しむ
鮸=ベン・メン・にべ
魚の名・ニベ科の海魚
鳴くような音を出す魚
㒿=冃+離=リ
日+離
冂+二+离+隹
日+离+隹
冂+一+㐫+禸+隹
日+㐫+禸+隹
冂+一+亠+凶+厶+隹
日+亠+凶+冂+厶+隹
冂+一+亠+凵+㐅+厶+隹
日+亠+凵+㐅+冂+厶+隹
↓↑
海内冠冕(カイダイのカンベン)
世界で一番
「海内」=四方の海の内側・国家や世界
「冠冕」=高い地位の人がつける冠
一位・一番
↓↑
子音+ぁん・ァン
子音+ぃん・ィン・・・ヰン
子音+ぅん・ゥン
子音+ぇん・ェン・・・ヱン
子音+ぉん・ォン・・・ヲン
↓↑
『ウィキペディア(Wikipedia)』
↓↑
ローマ字
ヘボン式 N, M, N'
訓令式 N, N', NN
JIS X 4063 n, n', nn
発音
IPA ɰ̃, ʋ̟̃, ɹ̃, j̃, m, n, ŋ, ɴ
↓
五十音と撥音
↓↑
わワ・らラ・やヤ・まマ・はハ・なナ・たタ・さサ・かカ・あア
ゐヰ・りリ・ ・みミ・ひヒ ・にニ・ちチ・しシ・きキ・いイ
るル・ゆユ・むム・ふフ・ぬヌ・つツ・すス・くク・うウ
ゑヱ・れレ ・めメ・へヘ・ねネ・てテ・せセ・けケ・えエ
をヲ ・ろロ・よヨ ・もモ・ほホ・のノ ・とト・そソ ・こコ・おオ
んン
濁点つき
わ゙ヷ ばバ だダ ざザ がガ あ゙ア゙
ゐ゙ヸ びビ ぢヂ じジ ぎギ -
ゔヴ ぶブ づヅ ずズ ぐグ -
ゑ゙ヹ べベ でデ ぜゼ げゲ -
を゙ヺ ぼボ どド ぞゾ ごゴ -
半濁点つき
ら゚ラ゚ ぱパ - さ゚サ゚ か゚カ゚ -
り゚リ゚ ぴピ - - き゚キ゚ -
る゚ル゚ ぷプ つ゚ツ゚ - く゚ク゚ う゚ウ゚
れ゚レ゚ ぺペ - せ゚セ゚ け゚ケ゚ -
ろ゚ロ゚ ぽポ と゚ト゚ - こ゚コ゚ -
↓↑
踊り字
〱 ゝヽ
〱゙ ゞヾ
〱゚ ゝ゚ヽ゚
↓↑
「ん・ン」
この音は
撥音 (𫝼音)(はつおん・はねるおん)と呼ばれ
1モーラを形成・・・???
「モーラ、モラ(mora)」・・・?
音韻論上
一定の時間的長さを
もった音の分節単位
古典詩の
韻律用語である ラテン語 の
mŏra [ˈmɔra] (モラ)の転用
日本語における「モーラ」という表記は
ラテン語からの借用語の
英語の「 mora [ˈmɔːɹə] 」からの音訳
「モラ」という表記はラテン語
ラテン語だって、か?
・・・模倣・模擬の「模」と
対等・等価の「等」か・・・?
日本語、むずかしいぃ~
「モーラー=molar」=濃度の単位???
↓↑
通常は子音
直前に母音を伴うため
単独では音節を構成せず
直前の母音と共に
音節を構成
「ん?」などのように
語頭にある場合
母音に代わる音節の核
音節主音として
単独で音節を構成
鼻母音以外に発音される限り
子音で
「ん」は音節主音的な子音である
「ん」は元来五十音には現れない
一般に
わ行の次に置かれる
文字としての「ん」
「ン」を「ウン」と
発音することもある
ローマ字: n, n', nn
点字:
「ん」の点字
モールス信号: ・-・-・
音韻
↓↑
・・・「漢字=カンジ=貫地・完治・幹事・監事・寛治=かんじ・感じ」だけが根拠の「コジキ」・・・しかじか(云々・然々・如かじか・呵じか・敷かじか)、うんぬん(云々)・・・かれこれ(彼此)、トウゼン(当然・當然・当前・陶然・洞禅・堂前・東漸・東禅・等膳)・・・「とおせんぼう=通せん坊=両手を広げて道をふさぎ、人が通れないようにする遊び・とおせんぼ・通路をふさいで、行く先や交通をさえぎること」、「通るのを邪魔する子供の遊び・通路をふさぎ、通れなくすること」・・・ 「一本足の高下駄を履き、松明を持ったトウセン坊の大男・・・おっかぁ~、ッ・・・オレはどうして?マグマの崖ッ淵ちなんかで海に落とされるんダょうッ!」・・・東仙坊・・・?・・・東尋坊(とうじんぼう)・・・? ・・・唐を尋ねる十一の方・・・亥の北々西・・・S&NのKの政治屋と、それらの海寇賊組織・・・醜く足搔(あが)いているな・・・ 「あがく」って=「悪い状態から抜け出そうとして、もがく」? 「良い状態から抜け出そうとして、もがく」? 「とおせんぼう」しているのは「己(ム・自)の根性」だろう・・・? あのSKのオンナ報道官、「C 賢の洙、57~」、NKの「R 春の姬、1943年7月8日~」や、CKの「H 春の瑩、1970年4月?日~」、NAの「Sarah Elizabeth Huckabee Sanders、1982年8月13日~)」・・・共通項は「おんな」ダケレド・・・+αのノイズが被る・・・ ↓↑ ↓↑ とおせんぼう とうせん棒=「当選・当籤・投扇・陶仙・刀銭・冬川」防・・・ 「陶潜」・・・トウセン・・・ 「唐船」・・・ジャンク・・・ 長崎に来航した中国船 沙船(シャセン)、鳥船(チョウセン) 沙船=船体の内部を水密隔壁で仕切った 平底の船・長さ30メートル 通常、大小3本の帆柱 船尾が船首より高く 積量50トンほど ポルトガル人が「ジャンク(junco)」といった船 鳥船=船首から船尾にかけて竜骨を通し 竜骨に組み合わせて 多数の肋(ろく)材を配列し船底を尖せた船 長さ30~50メートルほど 3本の帆柱、船尾と船首の高さが平均し 積量100~450トンほど ポルトガル人が「ソマ(soma)」といった船 1723年(享保八年) 清国政府は船首の両わきを 地域別に塗り分け 来航唐船のうち 南京(ナンキン)船(上海出航)は藍(あい)色 浙江(セッコウ)船(乍浦(サクホ)出航)は白色 福建船(厦門(アモイ)出航)は緑色 広東(カントン)船(広州出航)は赤色 に塗った 中国語の「船(チュアン)」が転訛し マライ語の「jōng」 更に スペイン語・ポルトガル語の「junco」に転訛 ↓↑ ↓↑ 「陶潜」・・・ 「帰去来の辞」・・・歸去來兮・・・記虚来経? (キキョライケイ) (かえんなんいざ) 田園・・・・・伝縁・傅圓 將蕪・・・・・尚武・踵部・塩生・菖蒲 蕪=日+下+無 かぶ・株・下部 胡・・・・・・えびす・ウ・コ 胡=古+肉 不歸・・・・・付記・不起 歸=自+止+ヨ+ワ+巾 自+ト+人+ヨ+ワ+巾 田園は 将(まさ)に 蕪(あ)れんとするに 胡(な)んぞ 不帰らざる 陶淵明・・・陶=阜(阝)+勹+缶(午凵) ・・・缶=𠂉+一+山・・・缶詰め 異体字「𡍒・𨹋・𨺃」 すえ・トウ(タウ) 焼き物・陶器・陶工・陶土・彩陶・製陶 人格を練りあげる・教え導く 陶冶 (トウヤ)・薫陶 うちとけて楽しい 陶酔・陶然 もやもやして晴れない 鬱陶 (ウットウ) ・・・陶器、日月の圓の淵 ・・・陶磁器=トウジキ=問う時期・問う字記・冬至気 ・・・陶の邑=オオタタネコの所在地 意富多多泥古(古事記) 大田 田根子(日本書紀) 河内 之美努 村(古事記) (かふちのみののむら) 茅渟県の 陶邑(日本書紀) 「茅渟県 (ちぬのあがた)陶邑(トウのムラ)に 於(おい)て大田田根子(たねこ)を 得て之(これ)を貢(たてまつ)る」 ・・・「西陶器、東陶器の地名の堺市泉北丘陵」 ・・・陶晴賢(すえはるかた)=陶隆房(たかふさ) 天文二十年(1551年) 主君・大内義隆を討ち 大友晴英(後の大内義長)を当主に据え 弘治元年九月二十一日(1555年10月6日) 厳島の戦い前に出家し・・・毛利元就に敗北 辞世の句 「何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に」? ・・・ナルようにしかナラン、ってか・・・ ↓↑ ↓↑ ↓↑ 淵=氵+𣶒 ふち・エン 水を深くたたえている所 海淵・深淵 物事の出てくる根源 淵源 物の多く集まる所 淵藪 (エンソウ) 「渊・渕」は俗字 異体字「渊・𢏮・𠀯・𣶒・𠝃・囦・𡆼・𡇋 𣴺・𣴸・渁・渆・㴊・𣷬・𣾬・𤀵 灁・㶜・渕」 簡体字「渊」 ↓↑ (365年(興寧三年)~427年(元嘉四年)11月) 魏晋南北朝時代(六朝期) 東晋末~南朝宋の文学者 字は元亮 陶潜 淵明 死後友人からの 諡にちなみ 「靖節先生」 「五柳先生」 尋陽柴桑(江西省九江市柴桑区)の人 「隠逸詩人」「田園詩人」 祖先 三国呉の 揚武将軍・陶丹 陶丹の子で東晋の 大司馬・長沙郡公の 陶侃は曾祖父 祖父の陶茂は 武昌郡太守・・・武⇔「神武・天武・文武・聖武・桓武」天皇 は昌(あきらか)に 郡(こほり)の 太(おほ・おお)の 守(まもり・かみ・シュ) 「寒門(単家)」と 呼ばれる下級士族の出身 427年、死去。享年63 その誄(追悼文)は 顔延之・・・顔(彦+頁)を延(のばす)之(これ・シ) が書いた・・・ ↓↑ 顔延之(ガン エンシ・384年~456年) 宋の文学者 字は延年・・・延(のば)す年 本貫は 琅邪郡臨沂県 宋の 文帝や 孝武帝の 宮廷文人として活躍 謝霊運・鮑照 らと「元嘉三大家」に総称 謝霊運と併称され「顔謝」とも呼ばれる・・・ ↓↑ トウセン 「桃仙(桃の神)=意富加牟豆美命 (おおかむづみのみこと・古事記)」・・・ 「伊邪那美」の「黄泉(よみ)の国」から 「伊邪那岐」の帰還を助けた「意富加牟豆美命」・・・ ↓↑
白村江の海戦・・・海鮮・・・会戦・・・廻船・・・改選・・・ ーーーーー ・・・「郭(くるわ・カク)」とその関連の名の探索・・・? ↓↑ 列伝第三十一・・・郭祚 ↓↑ 祚=示+乍(ながら・サ・ジャ) さいわい・しあわせ・天祚 くらい・天子の位・皇祚 とし(年)・年祚 皇祚(コウソ)・践祚(センソ) 天祚(テンソ)・福祚(フクソ) 列伝第三十七・・・朱瑞 叱列延慶・・・叱る延慶(慶喜・慶応)の列? 斛斯椿 賈顕度・樊子鵠・侯深 賀抜允・・・賀(くに)を抜いて允(あて)る? 侯莫陳悦 念賢・・・・・賢瑜? 梁覧・・・・・梁史(リョウシ)をミ(覧)る 雷紹 毛遐・・・・・毛人=蝦夷? 乙弗朗 列伝第四十 ・・・斉宗室諸王下 河南王孝瑜・広寧王孝珩・河間王孝琬 蘭陵王長恭・安徳王延宗 漁陽王紹信・・・漁の陽(楊)王の紹信? 煬帝の紹信? 太原王紹徳・范陽王紹義・西河王紹仁 隴西王紹廉・楽陵王百年・汝南王彦理 南陽王綽 琅邪王儼・・・琅邪の王の儼(イの厳) 斉安王廓・・・斉安王の「廓=くるわ=郭」 東平王恪 列伝第四十一・・・万俟普・・・・万俟普・・・太安万侶の俟普 可朱渾元・劉豊 破六韓常・・・六(陸)韓は常に破れる 金祚・・・・・金の祚(示+乍) 劉貴・蔡儁 韓賢・・・・・韓の賢 尉長命・・・・尉の長の命 王懐・任祥 莫多婁貸文・・・莫多の婁の貸す文 厙狄迴洛 厙狄盛・張保洛・侯莫陳相・薛孤延 斛律羌挙 張瓊・・・張の瓊 宋顕・・・宋書に顕(あら)われる 日並の頁=草壁皇子 王則・・・王の規則 慕容紹宗 叱列平・・・叱る列平 歩大汗薩・・・歩く大汗の薩(薩摩) 薛修義・慕容儼・潘楽・彭楽 暴顕 皮景和・・・皮の景の和 綦連猛・・・綦が連なる猛(建) 元景安・・・元は景の安 独孤永業・鮮于世栄 傅伏・・・・傅伏=センプク・潜伏・船腹 イは専ら伏す 列伝第四十二・・・孫騰・・・孫の騰 高隆之・・・高の隆しの之 司馬子如・・・司馬の子の如く 竇泰 尉景・・・尉の景(景行天皇・高橋景保) 婁昭・厙狄干 韓軌・・・韓の軌跡・軌道 段栄・・・段の栄(さかえ) 斛律金 列伝第五十八・・・韓褒・・・韓の褒(褒美・褒章) 李彦・・・李の彦(木ノ子の彦=比古)・諺 郭彦・・・郭の彦(クルワの彦=比古)・諺 列伝第五十九・・・隋宗室諸王・秦王俊・・・秦の王の俊 列伝第六十四・・・段文振・・・段の文を振る 列伝第六十九・・・儒林上・郭遵・・・郭の遵(遵法) 列伝第七十三・・・節義 于什門 段進・・・・段を進める 石文徳・・・石の文の徳 列伝第八十・・・・郭秀・・・・郭の秀 ーー↓↑ーー 義慈王・・・・・・擬似負う・疑似王・擬餌押 (599年~660年) 百済の 第三十一代・・・・三十一巻=日本書紀 最後の王 (在位641年~660年) ↓↑ 唐からは 「柱国・帯方郡王・百済王」 に封ぜられた 諱は 義慈 第三十代 武王 の嫡男 母は不詳 (新羅の真平王の娘 善花公主という説 百済貴族出身の 沙宅-王后という説)・・・沙宅=砂宅・・・砂上の楼閣 『旧唐書』に 扶余-義慈・・・扶余(アマリのタスケ)-義慈(擬似・記事・生地) 阿毎王朝の援護 と記録 高句麗と共同し 新羅を攻めていたが 唐・新羅同盟軍に 660年・・・・・・・六百六拾=陸百陸例(令) 唐に滅ぼされた・・・ ーー↓↑ーー 孝、泰、隆、演 豊璋・・・・・・・・・豊国(ぶんご・大分)の王の章 勇(百済王善光)・・・長野県の善光寺 の6人の王子 王子の 豊璋王 禅広王(善光王・勇) を倭の人質した 庶子41人 ーー↓↑ーー 642年 7月 新羅に親征 獼猴・・・おおざる・ビコウ=備考・尾行・・・ など40城余りを下した 8月 将軍の 允忠 に兵1万を率いさせて派遣 大耶城(慶尚南道陜川郡)を攻撃し大勝 降伏した城主を妻子ともども斬首 男女1千人を捕虜とし 百済の西部に移住 斬首にされた城主の妻は 金春秋(武烈王)の娘 古陀炤公主・・・ ↓↑ 643年 高句麗と同盟(麗済同盟)し 新羅の 党項城(京畿道華城市)を奪おうとしたが 新羅が唐に救援を求め 新羅攻撃は中止 ↓↑ この間も唐に朝貢を続けたが 新羅と唐との接触を招く 唐からは 百済・新羅の 両国に対して和平を進めた ↓↑ 644年~649年 新羅との間で戦争 金庾信・・・金の庾の信 ↓↑ 庾=广+臾 異体字「㔱・𢈔・㢏・斔・斞・𣂂」 くら・ユ・・・ 屋根なしのモノ置き場 臾=𦥑+人 ひきとめる・しばらく・ユ・ヨウ わずかの意の「須臾(シュユ)」 すすめる・そそのかす・「縦臾(ショウユ)」 ↓↑ 異体字「㬰・𠒍・蕢・䕚・蒉・𤆂・𧂟・𧸋」 の新羅軍に 649年8月 道薩城(忠清北道槐山郡)付近で大敗 ↓↑ 651年 高宗から 新羅との和睦を進める璽書を送られたが 655年 高句麗・靺鞨 と組んで 新羅の30城を奪った 驕慢になった 義慈王 は酒色に走り 諫めた 佐平の 成忠(浄忠) を投獄 ↓↑ 660年 唐の高宗は 蘇定方に 大軍13万を率いて 海路より進ませ 新羅の 武烈王(金春秋) 金庾信・・・532年に新羅に併合された 金官-伽倻の王族 妹は 武烈王(金春秋)に嫁いだ 文明夫人 その長子は 第三十代 文武王 後に 武烈王の三女を 智炤夫人 として娶った ↓↑ 647年 ↓↑ 善徳女王 の死後 金春秋 と共に 真徳女王 を立て補佐し 女王の死後 金春秋(武烈王)を即位させた 新羅は 648年 高句麗-百済同盟 に対抗 唐に救援 660年 唐-新羅の同盟で 黄山伐の戦い 百済の将軍 階伯を破り、百済を滅ぼした
663年 白村江の戦い で 倭と百済の残党勢力を排除 668年 高句麗に出兵し 滅ぼした ↓↑ の軍5万と連合(唐・新羅の同盟)し 百済を攻めることとなった ↓↑ 百済は 白江(錦江の支流)に引き込んで 迎撃することとなり 大敗 唐・新羅軍が首都の 泗沘城(忠清南道公州市)まで迫ると 義慈王は いったん 太子 とともに北方へ逃れた ↓↑ 王の第2子の 泰 が自ら王を名乗って 泗沘城を固守 太子の子の 文思・・・文の思? が 隆 に相談し 唐軍が去ったとしても 自立した 泰に害せられることを恐れて投降 泰も開城して投降 義慈王も諸城をあげて降伏 百済は滅んだ ↓↑ 義慈王は妻子とともに 長安に送られ その年のうちに 唐で病死 「金紫-光禄大夫・衛尉卿」 の爵号を贈られた・・・ナゼ? ↓↑ 641年3月 死去した30代 武王(余璋)にも 唐の太宗は「哭泣の儀礼」を以て悼み 「光禄大夫」の爵号が追贈されていた ↓↑ 武王(580年?~641年) 百済の第30代の王(在位600年~641年) 第29代 法王の子(『北史』に第27代威徳王の子と記録) 諱は璋 『三国遺事』の王暦に 武康 献丙 の別名が記録 『隋書』に 余璋 の名 ーー↓↑ーー 大佐平 673年 天武天皇は 百済人の 沙宅昭明に 大佐平の位を賜わった「日本書紀」 「大佐平」=百済王が臣下に授ける最高位 ↓↑ 沙宅-紹明(サタク-ショウメイ) 「才思頴拔、文章冠世」 藤原鎌足の碑文を作った 天武2年閏6月 大錦下の位で没 外少紫・大佐平を贈 塔本春初(とうほんしゅんしょ) 百済滅亡により渡来した百済の軍人 ↓↑ 618年(推古二十六年) 隋、滅亡 『日本書紀』では裴世清 『隋書』では編纂された時期が 唐太宗の時期であったので 太宗の 諱・世民を避諱して 裴清となっている・・・世民=裴世清? ↓↑ 655年 斉明元年 唐の高宗は倭国に国書を送り 新羅に味方して出兵するよう求めている (『新唐書』) ↓↑ 655年 新羅は唐に援軍 新羅本紀 武烈王 二年春正月 伊飡の 金剛 を拜(め)し 上大等と爲し 波珍飡(はちんさん)の 文忠(ぶんちゅう) を 中侍と爲す ↓↑ 高句麗と 百濟・靺鞨は連兵し 我が北境を侵軼し 三十三城を取る 王は使を遣はし 入唐し援を求む ↓↑ 三月 唐は 營州都督(ととく) 程名振(ていめいしん) を遣はし 右衛中觔將 蘇定方(そていほう)を 左(たす)け、 兵を發し高句麗を撃つ 元子(長男)の 法敏(ほうびん) を立て太子と爲す 庶子の 文王を 伊飡と爲し 老且(ろうしょ)を 海飡(かいさん;波珍飡)と爲し 仁泰(じんたい)を角飡と爲し 智鏡(ちきょう) 緂元(がいげん) の各(それぞれ)を 伊飡とす ↓↑ 冬十月 牛首州が白鹿を獻ず 屈弗郡が白猪を進(たてまつ)る 一首にして二身、八足 ↓↑ 王女の 智照は 大角飡の 庾信に下嫁す ↓↑ 鼓樓を 月城内に立つ 蘇定方は 左衛勲一府中郎将の時 程名振 と高句麗を攻め、これを破り、 右屯衛将軍に任ぜられ 臨清県公に封ぜられた ↓↑ 660年 熊津道大総管 軍を率いて 熊津口より 百済に上陸し 百済主力軍を破る ↓↑ 660年 斉明天皇六年七月 ↓↑ 高句麗僧 道顕の記事 天智天皇二年八月二十七日~八月二十八日 (ユリウス暦)663年10月4日~10月5日
ーー↓↑ーー ・・・ 宇文化及・・・宇の文化に及(およぶ)? 宇は文化を普及させる? は 反煬帝勢力を糾合し 618年 謀反 煬帝を縊り殺し 煬帝の 甥、 煬帝の弟の 秦孝王・・・秦の孝王の 楊俊の子 秦王 楊浩 を皇帝に擁立 江都の隋軍を率いて 北へと帰還しようとしたが 王世充・李淵・李密 らの勢力に阻まれて 大興城を恢復することはできなかった ↓↑ 宇文化及は 皇帝 楊浩を毒殺し 国号を 許 として自ら皇帝に即位するが 宇文化及は 天寿二年(619年) 竇建徳との決戦に大敗して殺害 許は崩壊 ↓↑ 朝鮮王朝国家 『申句發』の 遠征軍 高場雨が 隋に侵攻 その後、 『申句發』 の滅亡により 新たにできた 『高句麗•新羅国家連合』 による新外交政策により 隋 と 高句麗 新羅 国家連合は 同盟関係 ↓↑ 恭帝 侗(きょうてい とう) 隋の第4代皇帝 唐の高祖 李淵に擁立された 異母弟の 楊侑とは異なり 唐を正統とする立場から 後世からは 正統な皇帝とみなされていない 元号を皇泰としたため 皇泰主とも史称 ↓↑ 元徳太子 楊昭の次男 大業3年(607年) 祖父の煬帝から 越王に立てられた 煬帝が巡幸に出る度 東都洛陽の留守を任され 大業9年(613年) 楊玄感の乱が起こると 戸部尚書の 樊子蓋とともに洛陽を守備 乱後 東都留守のまま 高陽郡太守 大業13年(617年) 煬帝が江都に下ると 段達・元文都・韋津・皇甫無逸 らとともに洛陽を守った 洛口倉に拠った 李密が攻勢をかけ 王世充らを派遣して 一進一退を繰り返した 大業14年(618年) 煬帝が 宇文化及らに殺され 段達らに擁立されて即位 ↓↑ 段達が 礼部尚書・右翊衛大将軍 王世充が 吏部尚書・左翊衛大将軍 元文都が 内史令・左驍衛大将軍 盧楚が 内史令 皇甫無逸が 兵部尚書 右武衛大将軍・・・・・武衛 郭文懿が・・・・・・・郭の文の懿 内史侍郎・・・・・・・内史 趙長文が・・・・・・・長文 黄門侍郎・・・・・・・黄門 になった 朝廷を牛耳る 段達らを 「七貴」と称した ↓↑ 元文都 盧楚 郭文懿 趙長文 ↓↑ は 王世充・・・・・・・・王の世に充(あてる) に殺害 ↓↑ 皇甫無逸・・・・・・・皇の甫(補)は逸脱、無 は 長安に逃れて 唐に帰順 ↓↑ 王世充が 李密 を破って実権を掌握すると 皇泰二年(619年)五月 恭帝は 王世充 に禅譲し 潞国公 に封ぜられ 翌月 王世充 によって 服毒自殺を命じられ 楊侗 は 「生まれ変わっても 皇帝の家には生まれ変わらぬように」 と遺言し服毒 死ななかったために 縊り殺された・・・ ーーーーー ↓↑ 霅=雨+言 音読み=トウ 霅霅=いなずまのきらめくさま 霣=イン・おちる・雷・落雷 古代中国で 赤い蛇のような体を持ち 体長が千里におよぶとされる 燭陰という神が信じられていた 何新 は 大地の最北極に住む 燭陰=オーロラ 徐明龍 は 燭陰=祝融・・・炎帝の子孫・火の司 火災にあう事を「祝融に遇う」と喩える 『山海経(海外南経)』 南の神で、姿は獣面人身 『史記(三皇本紀)』 共工と戦って共工を 不周山に頭を激突させた 『墨子(非攻・下)』 天帝の命令を受け 商の成湯が 夏を滅ぼす際に 夏の都城に火を降らせた・・・旧約「ソドム」 『山海経(海内経)』 天帝に許可を得ずに 洪水を防いだ 「鯀(コン)=魚+系」を 天帝の命令で祝融が殺した と同一神とする
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