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人間の動向、移動、移住、今のところ「真偽不明」であっても理解できる手段は「漢字」がスベテである・・・



人間の動向、移動、移住、諸関係、今のところ事実が「真偽不明」であっても

理解できる手段は「漢字」がスベテであるが・・・

それ以前的に記録された「漢字の意味・意義」を理解しなくちゃぁハジマラナイ

しかも現代「中国人」は「古代漢字」に疎い存在になってしまった・・・

「簡体字」では「中国古典漢字文章」を理解するのは無理だろう・・・

勿論、「日本古典の日本語」の理解は「漢字知識無し」では無理である

漢字の現代的理解は「楷書の文字構成」である・・・

「篆書」ではない・・・

「篆書」を踏まえた「楷書構成の漢字」での理解である・・・

楷書漢字の構成は単純である・・・

基本的に「正方形囗枠内」に収まる字形での

縦横上下左右斜めの

「長短の棒線(一丨−∣ ∕ ∖)」

の組み合わせと

「点(丶)」

である・・・

「丸み」をオビタ「曲線」もあるが、ダレが観てもこれが基本である

易記号「☰・☳・☴・☵・☶・☵・☶・☷」

と、これらを「縦にしたモノ」

それらの部分分解の

「長短の線」を

再度、個々に組み合わせでの

「異形文字」である

漢字の「音借」は

「字形の意味」理解後のコトである

「形象文字」がなければハジマラナイ

 ・・・どうやら「漢字文字・漢字文章」を調べれば、地理的な「場所」ではなく、「古代国家」の時代から「倭」と言う「支配者層」は・・・「燕・渤海・高麗・高句麗・女真(女直)・金・満州」の「中国大陸北方血縁」・・・更にいえば、「隋・唐」の血縁も混ざった、ゴッチャ、ごチャで・・・「知恵(技術)」と「武力暴力の武器」を携え、半島経由で渡来してきたヒトビト・・・戦乱結果の「逃亡人種」らしい・・・中国大陸の「面的地理」からは南北東西の時代的な「戦乱難民の指導者」とその「一族郎党」である・・・それでも、憬れたのは膨大な冨と権力を中国大陸で握った「種族」の「中国王朝文化」である・・・「冊封」・・・当時は「中国王朝の苦肉の策」で、陸続きの周辺「国家(?)領域」の侵略者に対する「妥協の政治政策」だった。律令国家秩序を形成した支配者は「戦争は厭だった」のさ。だが身内の「財産相続」は周期的な喧嘩の始まりで、それが中国全土に拡大したのだ・・・最終的な逃亡先・・・有り難い事に「倭国(大陸倭人種)+α」の「支配者領域」は「海に囲まれた島国」で、既に逃亡移住した「親類縁者」らしき者たちがワンサカいたのだ・・・カネの世の中では「赤の他人」よりも「兄弟姉妹・血縁者」には気をつけたほうがイイだろう・・・

ーー  倭  「班固」が書いた「漢書・地理志」  朝鮮半島の南の海のハテ ーー   「王充」の「論衡」  中国の南の呉越地方  「周時天下太平 倭人來獻鬯草・(異虚篇第一八)」  「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯・(恢国篇第五八)」  「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草   食白雉服鬯草 不能除凶・(儒増篇第二六)」  中国歴史  商  周  春秋・戦国  秦  前漢  新  後漢  三国(魏・呉・蜀)  王充(27年~97年)  讖緯(シンイ)、陰陽五行思想を批判  儒家、道家、法家なども批判  王充の時代には倭人は周代から大陸と関わりを持ち、  倭国から海を渡って周に朝貢していた ー   「山海経」  「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕   (山海經 第十二 海内北經)」  「三国志・魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)」  「去   女王   四千餘里   又   有   裸國   黒齒國   復在   其東南   船行   一年可」  「梁書・卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭」  「其南有   侏儒國   人長三四尺   又南   �眦齒國   裸國   去   倭四千餘里   船行   可一年至」  百越人(春秋時代の呉地方人)  「宋書・楽志・白紵舞歌」  「東造扶桑游紫庭 西至崑崙戯曽城」  「白紵」は「呉(春秋時代)」の織物  「前漢書地理志」  「然東夷天性柔順、   異於三方之外、   故孔子悼道不行、   設浮於海、   欲居九夷、   有以也夫。   楽浪海中   有   倭人、   分為   百余国、   以歳時   来献見云」  「隋書・東夷傳 倭条」  「九夷所居、與中夏懸隔、然天性柔順」  「漢書(前漢書)・地理志」  「然東夷天性柔順、   異於三方之外、   故孔子悼道不行、   設浮於海、   欲居九夷、有以也夫。   樂浪海中有倭人   分爲百餘國   以歳時來獻見云」 ーー  楽浪郡  前漢(紀元前202年~8年)  武帝が  紀元前108年  衛氏朝鮮の故地に設置した  漢四郡の一(平壌付近)  漢四郡  真番郡・玄菟郡・楽浪郡・臨屯郡  班固の「後漢書・東夷傳」  「建武中元二年(57年)   倭奴國奉貢朝賀   使人自稱大夫   倭國之極南界也   光武   賜   以印綬」  「安帝永初元年(107年)   倭國王帥升等獻生口百六十人   願請見」  「北史・倭国伝」  「安帝時(106年~125年)、   又遣朝貢、   謂之   倭奴國」  「隋書・俀国伝」  「安帝時(106年~125年)、   又遣使朝貢、   謂之倭奴國」  「旧唐書・倭国・日本国伝」  「倭國者、   古   倭奴國也」  「後漢書・安帝紀・永初元年(107年)」  「冬十月,   倭國遣使奉獻。   辛酉,   新城山泉水大出」  檀石槐伝  「後漢書・卷九十   烏桓鮮卑列傳・第八十・檀石槐伝」  「光和元年冬   又寇酒泉 縁邊莫不被毒 種衆日多   田畜射獵不足給食 檀石槐乃自徇行   見烏侯秦水廣從數百里 水停不流   其中有魚 不能得之 聞倭人善網捕   於是東擊   倭人國 得千餘家 徙置秦水上   令捕魚以助糧食」  范曄(ハンヨウ・398年~445年)  「漢書・三国志・魏略」  「倭の五王・上表文」を既読  「後漢書・東夷伝倭人伝」  「後漢書・東夷傳」  「魏志・倭人伝」  「倭人   在   帶方東南   大海之中   依山島爲國邑   舊百餘國   漢時有朝見者   今使譯所通三十國  「三国志・魏書巻三〇・烏丸鮮卑東夷伝・倭人条」  「東夷伝」は、  夫余・高句麗・東沃沮  挹婁・濊  馬韓・辰韓・弁辰  倭人の九条が含まれている  「東夷伝の韓伝」  「韓   在帶方之南   東西以海爲限   南與   倭接   方   可四千里・(魏志韓伝)」  「王沈」の「魏書」に東夷伝はない  「陳寿」の「魏志・倭人伝」が約二千字  「三国志」  「魏書・三十巻」  「呉書・二十巻」  「蜀書・十五巻」  「魏の文帝の   黄初元年から   晋の武帝の   太康元年にいたる   (220年~280年)」  「正史二十四史の第四番目」  「晋が天下を統一した   太康年間(280年~289年)  全六十五巻」を  「陳寿」が撰述  「陳寿」  字は承祚(ショウソ)  巴西(ハセイ)郡安漢県(四川省南充)  健興(蜀の年号)十一(233)年   ~  六十五歳死没  「卑弥呼(248年頃死亡)  「晋書・太康十年(289年)条」  「東夷   絶遠三十餘國   西南二十餘國來獻」  「魏志東夷伝・武帝紀」  「晉書・四夷傳(東夷条)」  「晉書・帝紀」  「宋書・倭国傳」  「自昔祖禰   躬擐甲冑   跋渉山川   不遑寧處   東征   毛人五十國   西服   衆夷六十六國   渡平   海北九十五國」   ・・・「渡平、海北九十五国」・・・  「詔除武使持節、   都督   倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓   六國諸軍事、   安東大將軍、倭王」  「宋の文帝の命で   439年(元嘉十六年)から編纂が始まり、   何承天・山謙之   琲裴之(ハイショウシ)   徐爰(ジョカン)ら継続され、   487年(永明五年)に   南斉の   武帝の命を受けた   沈約(シンヤク)が・・・斉の著作郎(歴史編纂長官)   488年(元嘉十七年)に   本紀十巻・列伝六十巻を完成させ、   志三十巻は   502年(天監元年)完成   倭の五王の中の   珍に関係する記述が   列伝の倭国条だけでなく   本紀の   文帝紀にもある」  「宋書・夷蠻伝・倭国伝」  「南斉書・東南夷伝」  479年の倭国の遣使を記し、  倭王武を  使持節都督  倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓  六国諸軍事安東大将軍、称号など記録  「南齊書・列傳 第三十九 蠻 東南夷」  「梁職貢図・(新羅題記)」  521年以前  「斯羅國   本   東夷辰韓之小國也   魏時曰新羅宋時日斯羅其實一也   或属韓   或属倭國王   不能自通使聘」  「梁書」  唐の著作郎であった  姚思廉(ヨウシレン)が  太宗の命を受けて編纂  636年(貞観十年)に完成  「梁書・巻五四・諸夷伝」に「倭」に関する記述  「倭の五王名、続柄」が「宋書」と異なる  「梁書諸夷伝」  「北史・倭国伝」  「漢光武時、遣使入朝、自稱大夫」  「安帝時、又遣朝貢、謂之倭奴國」  「隋書・卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」  「男女多   黥臂   點面文身   没水捕魚」   ・・・608年の隋使、裴清(裴世清)の   一行の見聞や観察を基礎・・・?   「新羅 百濟    皆以    俀爲大國    多珎物 並敬仰之 恒通使往來」    倭人が鉄使用の記述  「大業三年   其王   多利思北孤   遣使朝貢   使者曰   聞海西菩薩天子重興佛法   故遣朝拜 兼沙門數十人來學佛法」   菩薩天子とは   開皇十一年(591年)   菩薩戒により総持菩薩となった   煬帝のコト  「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」  「隋書・東夷傳・倭条」  「九夷所居、與中夏懸隔、然天性柔順」  「魏徴(ギチョウ)」  「隋書俀国伝」  「隋書 卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」  「旧唐書・倭国・日本国条」  「倭國者   古   倭奴國也   去京師一萬四千里   在   新羅   東南大海中   依山島而居   東西五月行   南北三月行   世與中國・・・ ーー↓   日本國者   倭國之   別種也   以其國在日邊   故以   日本爲名   或曰   倭國   自惡其名不雅   改爲日本   或云   日本舊小國   併倭國之地  「旧唐書(クトウジョ)」  五代十国時代(十世紀)  「劉昫(リュウク)」らの編纂歴史書  「魏書」は「王沈(オウシン?~266年)」の著  「魏略」は「魚豢(ギョケン)」撰の著  佚文(逸文)  「前漢書・翰苑・北戸録・魏志・法苑珠林」に記録  清代に  「張鵬一(チョウホウイツ)」が  諸書の逸文を集めて  「魏略輯本」を編集  「裴松之(ハイショウシ・371年~451年)  宋の文帝の命を受けて  426年(元嘉六年)に  「魏志」に関する「注」を実施  「翰苑(カンエン)」は唐の  「張楚金(チョウソキン)」編集の類書  「蕃夷(バンイ)部」のみが  太宰府天満宮に唯一現存  「翰苑」は9世紀に書写されたもの  誤字や脱漏く、「魏略」の引用が多い  「史通」は唐の  「劉知幾(リュウチキ)」撰  「太平御覧(タイヘイギョラン)」は、  北宋の太宗の勅を受けて  「李棒�壯(リホウ)」等が編纂した類書 ーー  「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に 属す」  地理書「山海経・(巻十二、海内北経)」  「蓋国在鉅燕南倭北倭属燕」  「蓋国は鉅燕にあり、南倭と北倭は燕に 属する」  「燕」は中国の戦国時代(紀元前403年)の国  紀元前六年頃の中国の古い地理誌  「山海経」  「蓋国は、鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す」  「燕」は  「渤海湾の北側にあった国」  「倭朝鮮半島」においても、  「倭」は「韓」と境を接していた  「燕の将軍の   楽毅が斉の宝物類を根こそぎ奪って   昭王のもとに送り届けた」・・・ ーー↓六国史↓ http://www013.upp.so-net.ne.jp/wata/rikkokusi/ ーー↓續日本紀↓ http://www013.upp.so-net.ne.jp/wata/rikkokusi/syokuki/syokuki.html ーーーーー 續日本紀卷第廿起 天平寶字元年正月、盡二年七月。 從四位下行民部大輔 左兵衛督 皇太子学士臣 菅野朝臣眞道 奉勅撰」 寳字稱徳孝謙皇帝 ーー 己巳。 内藥司佑兼出雲國員外掾正六位上 難波 藥師 奈良 等一十一人言。 奈良等 遠祖 徳來。 高麗人。 歸百濟國。昔泊瀬朝倉朝廷詔百濟國。訪求才人。 爰以 徳來 貢進聖朝。 徳來 五世孫 惠日。小治田朝廷御世。被遣大唐。 學得醫術。因号藥師。 遂以爲姓。今愚闇子孫。不論男女。 藥師之姓。 竊恐名實錯乱。伏願。 藥師字。 難波連。許之。 ーー 六月甲辰。 大宰陰陽師從六位下 余益人。 造法華寺判官從六位下 余東人 等四人賜 百濟朝臣姓。 越後目正七位上 高麗 使主 馬養。 内侍典侍從五位下 高麗 使主 淨日 等五人 多可連。 散位大属正六位上 狛廣足。 散位正八位下 狛淨成 等四人 長背連。 辛亥。陸奥國言。去年八月以來。 歸降 夷俘。男女惣一千六百九十餘人。 或去離本土。 歸慕皇化。 或身渉戰塲。与賊結怨。惣是新來。良未安堵。 亦夷性狼心。猶豫多疑。望請。 准天平十年閏七月十四日勅。 量給種子。令得佃田。永爲王民。 以充邊軍。許之 ーー 丙辰。 以從四位上 佐伯宿祢毛人 爲常陸守。 參議從三位 文室眞人智努 爲出雲守。 從五位上 大伴宿祢 家持 爲因幡守。 乙丑。 大和國葛上郡人從八位上 桑原史年足 等男女九十六人。 近江國神埼郡人正八位下 桑原史人勝 等男女一千一百五十五人同言曰。 伏奉去 天平勝寳九歳五月廿六日勅書稱。 内大臣。太政大臣之名不得稱者。 年足人勝 等先祖 後漢 苗裔■言 興并帝 利等。 於難波高津宮御宇天皇之世。 轉自 高麗。 歸化聖境。 本是同祖。 今分數姓。望請。 依勅一改史字。 同姓。 於是。 桑原史。 大友桑原史。 大友史。 大友部史。 桑原史戸。 史戸六氏 同賜 桑原直姓。 船史 船直姓。 ーー 丙子。 正六位上 阿倍朝臣乙加志 從五位下。 正六位上 額田部宿祢三富。 戸憶志。 根連 靺鞨。 生江臣智麻呂。 調連 牛養。 山田史銀 外從五位下。 三富 本姓 額田部 川田連也。 是日。 額田部宿祢 便書位記 賜之。 ーーーーー 續日本紀卷第廿一起 天平寶字二年八月、盡十二月。 右大臣從二位 行皇太子傅 中衛 大將臣 藤原朝臣繼繩 等奉勅撰」 廢帝 ーー 戊申。勅曰。子尊其考。・・・ 日並知皇子命。・・・・草壁王子 天下未稱天皇。 追崇尊号。古今恒典。 自今以後。 宜奉稱 岡宮御宇天皇。 ーー 癸亥。 歸化 新羅僧卅二人。尼二人。男十九人。女廿一人。 移武藏國閑地。 於是。 始置 新羅郡焉。 ーー 丙寅。 外從五位下 津史秋主 等卅四人言。 船。葛井。津。 本是一祖。 別爲三氏。 其二氏者 蒙連姓訖。 唯秋主等未霑改姓。 請改史字。 於是賜姓 津連。 ーー 丁亥。 小野朝臣田守等 至自 渤海。 渤海大使 輔國大將軍兼將軍 行木底州 刺史兼兵署少 正開國公 揚承慶 已下廿三人。 隨田守來朝。 便於 越前國 安置。 丁酉。 始頒 越前。越中。佐渡。出雲。石見。伊豫 六國飛驛鈴。 國一口。 ーー 丁夘。 遣渤海 大使 從五位下 小野朝臣田守從五位上。 副使 正六位下 高橋朝臣老麻呂從五位下。 其餘六十六人各有差。 美濃國席田郡大領外正七位上 子人。 中衛无位吾志等言。 子人 六世祖父 乎留 和斯知。 賀羅國 慕化來朝。 當時 未練風俗。 不著姓字。 望隨國号。 蒙賜姓字。 賜姓 賀羅造。 十一月辛夘。 御乾政官院。行大甞之事。 丹波國 爲由機。 播磨國 爲須岐 ーー 戊申。 渤海使 小野朝臣田守等 唐國 消息曰。 天寳十四載歳次乙未十一月九日。 御史大夫兼范陽節度使 安祿山 反。 擧兵作乱。 自稱 大燕聖武皇帝。 范陽 靈武郡。 其宅爲潛 龍宮。 年号 聖武。 留其子 安卿緒。 范陽郡事。 自將精兵廿餘万騎。啓行南往。 十二月。 直入洛陽。署置百官。 天子遣 安西節度使 哥舒翰。 將卅万衆。守潼津關。 使大將軍封常清。將十五万衆。別圍洛陽。 天寳十五載。 祿山遣將軍 孫孝哲等。 帥二万騎攻潼津關。 哥舒翰 潼津岸。 以墜黄河。絶其通路而還。 孝哲鑿山開路。引兵入至于新豊。 六月六日。天子遜于劔南。 七月甲子。皇太子與即皇帝位于靈武郡都督府。 改元 至徳元載。 己夘。天子至于益州。平盧留後事徐歸道。 遣果毅都尉行柳城縣兼四府經畧 判官 張元澗。 來聘 渤海。 且徴兵馬曰。 今載十月。當撃祿山。 王須發騎四万。來援平賊。 渤海 有異心。 且留未歸。 十二月丙午。 徐歸道果鴆劉正臣于北平。 潛通祿山。 幽州節度使 史思明 謀撃天子。 安東都護王 玄志仍 知其謀。 帥精兵六千餘人。打破柳城斬徐歸道。 自稱權知平盧節度。進鎭北平。 至徳三載四月。 王玄志 將軍王進義。 來聘 渤海。 且通國故曰。天子歸于西京。迎太上天皇于蜀。居于別宮。 弥滅賊徒。故遣下臣來告命矣。 渤海王 爲其事難信。 且留進義遣使詳問。 行人未至。 事未至可知。 其唐王賜 渤海國王勅書一卷。 亦副状進。於是。 勅大宰府曰。 安祿山者。是狂胡狡竪也。違天起逆。 事必不利。疑是不能計西。還更掠於海東。 古人曰。蜂■猶毒。何况人乎。 其府帥 船王。 大貳 吉備朝臣眞備。 倶是碩學。名顯當代。簡在朕心。委以重任。 宜知此状。預設奇謀。縱使不來。儲備無悔。 其所謀上策。及應備雜事。一一具録報來。 癸丑。 左京人 廣野王 賜姓 池上眞人。 壬戌。 渤海使 揚承慶 等入京。 ーーーーー 續日本紀卷第廿二起 天平寶字三年正月、 盡四年六月。 右大臣從二位兼 行皇太子傅 中衛大將臣 藤原朝臣 繼繩 等奉勅撰」 廢帝 ーー 乙酉。 帝臨軒。 高麗大使 揚承慶 正三位副使 揚泰師 從三位。 判官 馮方禮 從五位下。 録事已下十九人各有差。 賜國王及大使已下祿有差。 饗五位已上。 及蕃客。并主典已上於朝堂。 作女樂於舞臺。奏内教坊踏歌於庭。 客主典殿已上次之。事畢賜綿各有差。 ーー 甲午。 大保藤原惠美朝臣押勝宴蕃客於田村第。 勅賜内裏女樂并綿一万屯。 當代文士賦詩送別。 副使 揚泰師 作詩和之。 丁酉。 授正六位上 高元度 外從五位下。 爲迎 入唐大使使。 二月戊戌朔。 高麗王 書曰。 天皇敬問 高麗國王。 使 揚承慶 遠渉滄海。來弔國憂。誠表慇懃。深増酷痛。但隨時變礼。聖哲通規。從吉履新。更无餘事。兼復所貽信物。依數領之。即因還使。相酬土毛絹■疋。美濃■卅疋。絲二百■。綿三百屯。殊嘉尓忠。更加優。賜錦四疋。兩面二疋。纈羅四疋。白羅十疋。彩帛■疋。白綿一百帖。物雖輕尠。寄思良深。至宜並納。 國使附來。 无船駕去。 仍差單使送還 本蕃。 便從彼郷達於大唐。欲迎前年入唐大使藤原朝臣河清。宜知相資。餘寒未退。想王如常。遣書指不多及。」 授從五位下 當麻眞人廣名 從五位上。 癸丑。 揚承慶 等歸蕃。 高元度 等亦相隨而去。 三月丁夘朔。 日有蝕之。 ーー 夏四月辛亥。 以外從五位下 陽胡史 玲■爲越後守。 ーー 辛亥。 迎藤原河清使判官内藏忌寸全成。 渤海却廻。 海中遭風。 漂着 對馬。 渤海使 輔國大將軍兼將軍 玄菟州 刺史 押衙官 開國公 高南申 相隨來朝。其中臺牒曰。迎藤原河清使惣九十九人。 大唐 祿山 先爲逆命。 思明 後作乱常。内外騷荒。未有平殄。即欲放還。恐被害殘。又欲勒還。慮違隣意。 仍放頭首 高元度 等十一人。 往大唐迎 河清。即差此使。同爲發遣。 其判官 全成 等並放歸卿。 亦差此使隨徃。 通報 委曲。 壬子。 中宮大夫從四位下 佐味朝臣虫麻呂卒。 丙辰。 高麗使 於大宰。 ーー 辛亥。 高麗使 高南申。 我判官内藏忌寸 全成 等到着 難波江口。 丙辰。 高南申 入京。 四年春正月癸亥朔。 御大極殿受朝。 文武百官 渤海蕃客。 各依儀拜賀。 ▼是日。宴五位已上於内裏。賜祿有差。 甲子。 幸大保第。 以節部省■綿。賜五位已上及從官主典已上各有差。 ーー 丁夘。 帝臨軒。 渤海國使 高南申 等貢方物。 奏曰。 國王 大欽茂 言。 爲獻日本朝 遣唐大使特進兼秘書監 藤原朝臣 河清 上表并恒貢物。 差輔國大將軍 高南申 等。充使入朝。詔曰。 遣唐大使 藤原河清 久不來歸。所鬱念也。 高麗王 南申 令齎 河清 表文入朝。王之款誠。實有嘉焉。 ▼是日。 高野天皇 帝幸太師第。 授正六位上 巨勢朝臣廣足 從五位下。 從三位 藤原朝臣 袁比良 正三位。 從五位上 池上女王 正五位上。 從五位上 賀茂朝臣小鮒。 飯高公 笠目 並正五位下。賜陪從五位已上錢。 戊辰。 授无位 藤原朝臣 久米刀自 從五位下。 己巳。 高野天皇 帝御閤門。 五位已上及 高麗使 依儀 陳列。 詔授 高麗國大使 高南申 正三位。 副使 高興福 正四位下。 判官 李能本。 解臂鷹。 安貴寳 並從五位下。録事已下各有差。賜國王■卅疋。美濃■卅疋。絲二百■。調綿三百屯。大使已下各有差。賜宴於五位已上及蕃客。賜祿有差。 ーー 戊寅。 以從五位下 大野朝臣 廣立 少納言。 從三位 藤原朝臣 弟貞 爲坤宮大弼。 但馬守如故。 從五位下 大原眞人 繼麻呂 少忠。 正四位下 高麗朝臣 福信 信部大輔。 從五位下 阿陪朝臣 許知 少輔。 從五位下 阿倍朝臣 意宇麻呂 内藏助。 從五位下 奈癸王 内礼正。 從五位下 路眞人 野上 兵馬正。 從五位上 河内王 義部大輔。 從四位下 石川朝臣 名人 造宮卿。 從四位下 仲眞人 石伴 河内守。 從五位下 紀朝臣 小楫 爲和泉守。 外從五位下 高元度 能登守。 正四位上 紀朝臣 飯麻呂 爲美作守。 從五位下 多治比眞人 木人 爲薩摩守。 ーー 辛夘。 從二位 藤原夫人薨。 贈正一位 太政大臣 房前之女也。 二月壬寅。 從五位下 石川朝臣 廣成 高圓朝臣。 辛亥。 以從四位下 笠王。 左大 舍人頭。 從五位下 豊野眞人 尾張 内藏頭。 在唐大使 正四位下 藤原朝臣 河清 爲文部卿。 從五位下 高圓朝臣 廣成 爲少輔。 從五位下 石川朝臣 人成 仁部少輔。 從五位下 巨勢朝臣 廣足 節部少輔。 從五位上 當麻眞人 廣名 遠江員外介。 從五位下 藤原朝臣 楓麻呂 但馬介。 ▼是日。 渤海使 高南申 等歸蕃。 ーー 戊午。 歸化 新羅 一百卅一人 武藏國。 ーー


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