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先週見た「テルマエ・ロマエ」

2023/2/23・木曜日・・・追加添文・・・

朝から牡丹雪がチラホラ・・・

家の風呂場に接続させて造った13年前の物置・・・

今になって配置に失敗したと思う・・・

2階の屋根の雪が

物置の屋根に落下して

ガチン、ガチンに凍ってしまい、更に雪が積もってしまった

物置の屋根の高さは丁度、風呂場の窓の位置にある・・・

物置の屋根に雪が積もれば

風呂場+洗面所は真っ暗で、おまけに冷凍室・・・

で、鉄製のスッコップ、ケンサキスコップを持って物置に登った

凍り付いた氷の排除作業は難攻・・・

3分の2を除去したところで11時にやめた・・・

腰も痛く、汗もビッシャリ・・・

取り合えずは風呂場への明かりは射し込んできた

温水器に点火して朝風呂に身体をうずめて浸った・・・

平和であるカナ・・・


プーチンロシアに侵略されている

ウクライナの人々


プーチンに兵卒動員され・・・「プーチンは影武者」か?

侵略地で殺戮強奪している

ロシア(ろすけ)の人々


戦争であるカナ・・・

『テルマエ・ロマエ』(THERMÆ ROMÆ)=「ローマの大浴場」・・・・・

「ルシウス・モデストゥス」・・・ルシウス=流至渦・模出洲問う素?

「皇帝ハドリアヌス」・・・

「影武者」

を見よ・・・無理無理無理・・・

 皇帝

 ハドリアヌス

 ローマで生まれた(ヒスパニア・バエティカのイタリカで生まれたとの説)

 トラヤヌス

 の従兄弟の子


 93年(94年)

 二十人委員の職に就き

 民生関係の修行

 パンノニア、モエシア・インフェリオル

 ゲルマニア・スペリオル

 各属州で高級軍団将校

 101年

 元首財務官に就任

 トラヤヌスの秘書

 皇帝の演説を

 元老院で

 代読

 105年

 護民官

 法務官(プラエトル)

 に任命

 軍団司令官として

 第2次ダキア戦争に従軍

 107年

 属州長官として

 下部パンノニアを治めた

 108年

 数か月間

 補充執政官


 114年

 パルティア戦争

 軍団司令官

 参謀本部内で

 トラヤヌスの補佐

 117年

 トラヤヌスは

 ハドリアヌスを

 属州シリアの総督に親任

 病のトラヤヌスは

 ハドリアヌスを

 パルティア遠征軍の総司令官に親任

 ローマ還御の途につくが

 キリキア地方

 セリヌス

 で崩御

 トラヤヌスは

 ハドリアヌスを

 皇后プロティナの支持で

 養子に勅定


 8月9日

 アンティオキア滞在中

 ハドリアヌスにトラヤヌスの養子となった旨の書簡が届く

 その2日後

 トラヤヌス崩御を報ずる書簡が届いた

 このとき、ハドリアヌスは配下の軍隊から

 「インペラトル(皇帝)」

 と歓呼され

 この日が「即位の日」

 ハドリアヌスはセリヌスに行幸し、弔問し、再びシリアへ戻る

 その際、東部国境の安定化のため

 属州

 メソポタミア

 アルメニアの放棄を勅定

 蛮族の侵入によって不穏な情勢にあった

 ドナウ川流域に行幸

 属州ダキア

 属州モエシア

 を再編成し

 翌年7月ローマへ還御


 ハドリアヌスの帝位継承

 元老院議員の一部から異論

 ハドリアヌスの後見人

 近衛長官アッティアヌスは

 「元老院の命令により」

 執政官を経験した有力な

 元老院議員4名を殺害させた


 トラヤヌス帝の

 ダキアを属州化

 パルティア戦争

 メソポタミア、アッシリア、アルメニア

 の属州化

 ローマ帝国史上最大の版図


 ハドリアヌスの治世

 属州メソポタミア

   アルメニア

 の放棄による

 東部国境の安定化

 防壁建造などの

 帝国周辺地域における防衛策の整備

 ローマ帝国全体の

 統合強化と平準化

 2度にわたる

 長期の巡察旅行

 官僚制度の確立

 行政制度の整備

 法制度の改革


 東方の隣国である

 パルティアとの紛争を収束

 ハドリアヌスは外交政策を攻勢から守勢に転換し

 ユーフラテス川以東の

 メソポタミア、アッシリア、アルメニア

 を放棄して、東方の国境の安定化を図った

 ハドリアヌスの長城

 帝国の東部以外でも帝国の防衛力を整備

 軍事的脅威を受けている地方で

 防壁(リメス)の構築

 天然の要害によって帝国を防衛

 カレドニア人との紛争

 ブリタンニア北部に

 「ハドリアヌスの長城」

 の防壁を構築

 ゲルマン人との境界の

 ライン川

 ドナウ川

 地域、アフリカでも防壁が構築

 軍団に地元の兵士を採用

 軍団の徴募を安定化させ、経費の節約を図った

 パルティア問題収拾させ

 属州に対する変更

 属州の重要性を強調し、開発を推進

 同時にイタリアとの一体化

 ハドリアヌス自身

 2度にわたって長期の巡察旅行に発輦

 巡察旅行には

 建設関係者をも随伴し

 公共工事も行われた


 統治機構整備

 ハドリアヌスは法制度の整備

 サルウィウス・ユリアヌス

 に命じ

 『永久告示録』と呼ばれる法典を編纂

 (完成は131年頃、6世紀まで使われた)

 これは、法務官が出した従来の告示

 (属州総督や属州の審判人の法源)

 を集大成したもの

 これらを基に

 『ユスティニアヌス法典』

 (別名『ローマ法大全』)

 編纂


 130

 エルサレム市をローマ風の都市に建設

 自らの氏族名

 アエリウスにちなんで植民市

 「アエリア・カピトリーナ」

  アエリア=ハドリアヌスの家名

  カピトリナ=ローマの主神ユピテル、ユーノー

       ミネルウァが座する

       カピトリヌスの丘

 と命名

 132年

 割礼を禁止

 ユダヤ人の組織的な反乱が発生

 「バル・コクバの乱」

 135年

 反乱を鎮圧

 ユダヤ地方は

 「属州シリア・パレスティナ」

 と名称変更

 ユダヤの名が消え

 ユダヤ人は

 「離散(ディアスポラ)」

 エルサレム市内への立ち入りも制限


 治世当初の

 執政官経験者4名の殺害

 ハドリアヌスは

 防衛に必要な兵力や維持費等の

 負担増に耐え切れないと判断

 メソポタミア、アッシリア、アルメニア

 から撤退

 元老院には

 ハドリアヌスの対外政策に批判的な者がいた

 ハドリアヌス擁護派は

 反対派の大物4人を粛清

 後継者選びに意見の不一致

 義兄弟

 ユリウス・ウルスス・セルウィアヌス

 とその孫

 ペダニウス・フスクス

 を自殺に追いこんだ

 治世末期

 皇帝と元老院の関係は緊張

 皇帝の崩御後

 元老院では

 ハドリアヌスを神格化し

 国家神の列の加えることに反対する動き

 神格化されないと

 ドミティアヌス帝のように記憶の抹殺が行われ

 ハドリアヌスの統治に関する行為はすべて抹消

 後継者の

 アントニヌス帝は

 必死に元老院の説得に努め

 ハドリアヌス神格化について

 元老院の同意を得た

 このため

 アントニヌスは

 アントニヌス・ピウス(敬虔なアントニヌス)

 と呼ばれることになった

 ローマ皇帝の業績を称える碑が多いローマにおいて

 五賢帝の一人とされる

 ハドリアヌスの巡幸を称える碑は見つかっていない


 ハドリアヌスによって

 星になった愛人

 アンティノウス

 メルカトル天球儀1551に描かれた

 118年

 ローマ近郊の

 ティヴォリに大規模な別荘

 ウィラ・ハドリアヌスの造営開始

 新古典主義建築に影響を与えた

 ローマのパンテオン神殿の再建

 ウェヌスとローマ神殿など

 属州各地にも多くの造営事業

 ビテュニアの美青年の愛人

 アンティノウス(アンティノオス)

 を寵愛し

 属州アエギュプトゥス(エジプト)

 視察中にこの美青年がナイル川で事故死を遂げ

 彼を神格化して

 神殿を建設

 都市アンティノオポリスを創建

 帝国中に

 アンティノウス像を建て

 天空に

 アンティノウス座を作った


 自分の後継者と決めていた

 ルキウス・アエリウス・カエサルが

 138年1月に死去

 翌月

 アントニヌスを養子とし、自らの後継とした

 138年7月

 バイアエ (Baiae) の別荘で崩御・62歳

 ・・・独裁者は独裁者でしかない・・・

 ・・・詩人でもあった「ネロ」は史実なのか・・・

 ・・・「十三湊(とさみなと)」の壊滅・・・

 ナンで「とさみなと」なんだか?・・・「土佐港」・・・ ーーーーー  安日彦(アビヒコ)=安日王・・・我孫子(あびこ)           =安日長髄彦      阿毎=阿部・安陪・安倍・阿倍・阿邊(阿辺)         阿武・安歩・焙・虻・炙         那賀須泥毘古(古事記)      登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)      登美毘古(トミビコ)      神武東征に抵抗した河内の豪族の長      安日彦(アビヒコ)という兄がいた・・・  鎌倉~室町期成立の  『曽我物語』に  蝦夷の祖を  流罪にされた  鬼王安日・・・・鬼室福信=?~663年=扶余福信  ↓↑      百済の王族・将軍          義慈王の父で          百済          第三十代武王(余璋)の甥          官位は恩率(三品官)、のち佐平(一品官)          鬼室氏の祖          白村江の戦い(663年)以前に          倭国と百済の連合軍が大敗  ↓↑      鬼宿=和名は魂緒の星(たまおのほし)             魂讚星(たまほめぼし)             二十八宿の一             南方朱雀七宿の第2宿  ↓↑         距星はかに座θ星  とする伝承が記載  長髄彦の兄  彼と共に青森県の弘前に逃れた  or  単独で津軽地方に流された・・・  事記や日本書紀には  安日彦の名は記録されていない  ↓↑  長髄彦一人が大和で死なず  東北に落ち延びた(塩釜神社伝承)  長髄彦(兄の安日彦または兄弟2人)が  津軽に逃げてきたという伝承は  中世以降の創作・・・  ↓↑  登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)  登美毘古(トミビコ)  ↓↑  饒速日命の手によって殺された  ・・・或いは失脚後に故地に留まり死去  自らを後裔と主張する  矢追氏による自死したという説も・・・  ↓↑  旧添下郡  鳥見郷(生駒市北部・奈良市富雄地方)付近  あるいは  桜井市付近に勢力を持った豪族  長髄=邑の名(記紀)  ↓↑  登美夜毘売(トミヤヒメ)=三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)  登美夜須毘売(トミヤスヒメ)  ↓↑  登美毘古(トミビコ)の  妹を  ↓↑ 天の磐舟で・・・磐舟=UFO?     斑鳩の峰     白庭山に降臨した     饒速日命(ニギハヤヒノミコト)     饒速日=邇藝速日(古事記)  ↓↑ 櫛玉命(くしたまのみこと)     飛行神社     京都府八幡市にある神社     飛行機の神     饒速日命と航空事故の犠牲者などを祀る     ギリシャ風の拝殿を持っている     日本で最初に飛行原理を研究した     二宮忠八・・・日本で初めて動力つき模型飛行実験に成功     が創建(1915年・大正四年)     1936年(昭和十一年)・・・十一念?     忠八の死により廃絶・・・・注葉知?     1955年(昭和三十年)     忠八の息子     二宮顕次郎・・・・・・・・顕(日並頁)の                  次(似素意)の                  郎(良阝=邑=大里=都)  ↓↑ によって再興  天照国照彦-火明-櫛玉(奇霊・奇魂)-饒 速日命  ↓↑               =邇藝速日(古事記)  ↓↑ 物部氏、穂積氏、采女氏、熊野国造らの祖神・・・  ↓↑  の妻とし、仕え・・・「宇摩志麻遅命=可美真手」を産んだ  中世の武将の  伊達家が長髄彦の子孫・・・  神武天皇が  浪速国  青雲の  白肩津に到着したのち  孔舎衛坂(くさえのさか)で迎え撃ち  天皇の兄の  五瀬命は  矢に当たって負傷、死亡  後  八十梟帥  兄磯城  を討った皇軍と再び戦い敗北  金色の鳶が飛んでき  神武天皇の  弓弭に止まり  長髄彦の軍は  眼が眩み、敗戦 ーーーーー  秋田氏の系譜  先祖に由来する  「伊駒姓」  伊駒長脛(ナガスネ)のこと  生駒市北部  奈良市富雄を勢力範囲としていた古代の王  登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)=登美毘古(トミビコ)  神武東征に対し最大の抵抗をした豪族  ↓↑   明治維新後  秋田田子爵家が宮内庁に系図を求められ  「安日長髄を先祖」とする一族の  「秋田家の系図」  「孝元天皇-開化天皇-大毘古命(大彦命)安倍将軍   是、安倍姓元祖-建沼川別命安倍将軍」  安日王   兄   長髄彦   弟   安国 安日後孫  安東(はる)崇紙天皇御宇  賞二軍功一賜二安倍姓一致(むね)東(はる)  号二奥州日下将軍一・・・日下将軍?  ↓↑   秋田市子爵家の後見職  秋田主税(ちから)は  「当家は姓を賜って   安倍を称した   安倍姓の祖系を先に掲げ   当家の年来の慣例   これを宮内省で   秋田家の系図として納めた」  大毘古命(大彦命)の末裔の安倍姓は  奥州の安倍氏とは血脈の上ではまったく関係がない  ・・・(浪岡具雄の伝承)?  ↓↑  秋田氏=本姓が安藤(安東)  古代  陸奥国俘囚の長であった  安倍貞任の子孫・・・  中世  今の秋田県北部から青森県全域、北海道南部までを勢力圏  津軽十三湊を本拠地  とし貿易や水軍活動  「蝦夷管領」  「日の本将軍」  と称された・・・  後、  檜山安藤氏(下国家)  と  湊安藤氏(上国家)  に分かれ、南部氏の勢力に押され  出羽国に本拠地を移し  天正年間の  愛季に至り、両家が合体  愛季は  天正十七年(1589)  居城を檜山(能代市)から  湊(秋田市土崎)へ移し  律令官職である  「秋田城介」を名乗った  以後  秋田氏と称するが  本姓の安倍  従来の安藤(安東)姓が併用  先祖に由来する  伊駒姓も使用・・・  ↓↑    長脛=イギリスの長脛王     エドワード1世(Edward I)     1239年6月17日~1307年7月7日・・・130777・・・?     プランタジネット朝     イングランド王     在位1272年11月17日~1307年7月7日     渾名は    「Longshanks(ロングシャンクス・長い足・長脛王           身長が190cm)     Hammer of the Scots(ハンマー・オブ・ザ・スコッツ     スコットランド人への鉄槌)」     エドワード1世 (イングランド王) (Wikipedia) ーーーーー  突厥=前身は     阿史那(アシナ=蘆名・芦名・葦名・足名)     烏孫→阿史那→突厥

    アシナ⇔アテネ(ギリシア語: Αθήνα; Athína         Athinai・古代ギリシア語=Athēnai)         ギリシャ共和国の首都         アッティカ地方の古代からの都市     アテナイ=Athēnai     現代ギリシア語文語 (カサレブサ) で     アシネ=Athínai     現代ギリシア語口語 (ディモティキ) で     アシナ=Athína     アテネはラテン語     1970年代     カサレヴサ(文語)の使用が停止されるまで     公式名称は     Ἀθῆναι=アシネ([aˈθine])     カサレヴサ廃止以降     Ἀθήνα=アシナ

    女神アテナ・・・ゼウスの頭頂部より             武装して鎧を纏った姿で出現     と     海神ポセイドン     との争い     ポセイドンは三叉の槍(海軍力の象徴)で     地を突き海水を湧き出させ     アテナは     オリーヴの木を生い立たせ     国王ケクロプス、住民は     オリーヴの木を択び     アテナの名を都市の名とした     アテネ市=τὸ κλεινὸν ἄστυ=栄光の都     古代ギリシアの詩人     ピンダロスが      ἰοστέφανοι Ἀθᾶναι と呼んで     「紫冠の都(en:City of the Violet Crown)」 ーーーーー  突厥=前身は阿史那(アシナ=蘆名・芦名・葦名・足名)     烏孫→阿史那→突厥

    アシナ⇔アテネ(ギリシア語: Αθήνα; Athína         Athinai・古代ギリシア語=Athēnai)         ギリシャ共和国の首都         アッティカ地方の古代からの都市     アテナイ=Athēnai     現代ギリシア語文語 (カサレブサ) で     アシネ=Athínai     現代ギリシア語口語 (ディモティキ) で     アシナ=Athína     アテネはラテン語     1970年代     カサレヴサ(文語)の使用が停止されるまで     公式名称は     Ἀθῆναι=アシネ([aˈθine])     カサレヴサ廃止以降     Ἀθήνα=アシナ     女神アテナ・・・ゼウスの頭頂部より             武装して鎧を纏った姿で出現     と     海神ポセイドン     との争い     ポセイドンは三叉の槍(海軍力の象徴)で     地を突き海水を湧き出させ     アテナは     オリーヴの木を生い立たせ     国王ケクロプス、住民は     オリーヴの木を択び     アテナの名を都市の名とした     アテネ市=τὸ κλεινὸν ἄστυ=栄光の都     古代ギリシアの詩人     ピンダロスが      ἰοστέφανοι Ἀθᾶναι と呼んで     「紫冠の都(en:City of the Violet Crown)」 ーーーーー  蘆名氏(あしなし)  桓武平氏系統の三浦氏から興った氏族  相模国  蘆名(横須賀市芦名、芦名城)の地名に由来  「芦名氏」「葦名氏」  「三浦芦名家」と表記される事もある  相模  蘆名氏  と  会津  蘆名氏の二つの系統が存在  通し字は  前者は「為」  後者は「盛」  蘆名 盛氏(あしな もりうじ)  戦国時代の陸奥国の武将・戦国大名  蘆名氏第十六代当主 ーーーーー  突厥=トゥルク     突厥の発祥     西海(地中海)から中央アジアへ移住     窮地を狼に救われた     烏孫=突厥     烏孫の移動ルート  『東日流外 三 郡 誌』  (つがるそとさんぐんし)  津軽地方支配の  荒吐族(あらはばきぞく)  その王  阿倍氏⇒安東氏⇒秋田氏  その都  十三湊(とさみなと・青森県五所川原市の十三湖の辺り)  ↓↑  「アラハバキ」=縄文の遮光器土偶・・・  「ナガスネヒコは   兄の   安日彦(アビヒコ)とともに   津軽に渡り   津軽の土着民   阿蘇辺族   津保化族   と併合し   荒吐族となった」・・・   和邇氏(海神族)の協力を経て北上し   兄   安日彦(アビヒコ)とともに   青森県は津軽(東日流=つがる)に落ち着いた   大阪の十三(じゅうそう)や   十三湊(とさみなと)   という地名は   アビヒコの弟   トミヒコ(ナガスネヒコ)が語源 ーーーーー  ・・・  鎌倉時代後期  豪族・安東氏(津軽安藤氏)の本拠地  和人と蝦夷地のアイヌとの交易拠点  文明年間(1469~87年間・戦国時代初期       or戦国時代末期(16世紀末、17世紀初頭)・・・  日本最古の海洋法規集『廻船式目』が  「三津七湊」について  七湊の一つとして  「奥州津軽十三湊」記録  後代  朝鮮半島や中国などと交易・・・  遺跡は東西に延びる土塁を境に  北側には安東氏や家臣たちの館  南側には町屋が整然と配置  室町時代中期  安東氏が南部氏に敗れて支配地を失って  夷島(蝦夷地)へ逃げ  十三湊は衰微し  和人・蝦夷間の交易拠点としての地位は  野辺地湊(野辺地湾に面する湊・上北郡野辺地町域)  盛岡藩の北の門戸へ移った  大浜=大濱(青森市油川地区)  飛砂が堆積して水深が浅くなり  港としての機能は低下  16世紀後半から再び整備復興  江戸時代  岩木川を下ってきた米を  十三湊から  鯵ヶ沢湊(西津軽郡鰺ヶ沢町域)へと運ぶ  「十三小廻し」が行われた  ↓↑  『東日流外三郡誌』  興国元年(1340年・南北朝時代初期)  大海嘯(大津波)によって  十三湊は壊滅的被害  安東氏の政権は崩壊・・・  発掘調査で津波の痕跡は無し?  興国二年以後  十三湊は重要な湊として数々の文献に記録  1993年(平成五年)  青森県古文書研究会が  同書を偽書と断じた・・・?

・・・偽書を作った理由はナニ?  弘前大学の発掘調査により  正確な年代こそ不詳ながら  十三湊を襲った津波の痕跡であろう  泥の堆積が2層以上確認  津波の試練は幾度もあった・・・?  ↓↑  12世紀(平安後期)  平安期の当地域周辺に見られた  区画集落群の人為的廃絶  在地豪族層による広域支配体制の確立  鎌倉時代初頭  津軽地方一帯は  鎌倉幕府支配体制下  古十三湖の周辺地域は幕府支配下で  「西浜」と呼ばれる  13世紀初頭(鎌倉時代後期前葉)  西浜で十三湊  蝦夷沙汰職(蝦夷管領)を務めた  安東氏(津軽安藤氏)の許で繁栄  15世紀半ば(戦国時代初頭)  安東氏(津軽安藤氏)が  南部氏に敗れて支配地を失い  夷島(えぞがしま。蝦夷地)へ逃亡  十三湊は衰退 ーーーーー  ・・・???・・・


ーーーーー

 ・・・???・・・

  ↓↑   ↓↑

 ↓↑

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 ↓↑

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