円軌道・・・楕円軌道・・・拿俺詭道?
・・・時として「人間」は「人間であるコト」を忘れる存在らしい・・・と、云うよりも「人間」がナニモノで在るのかを生きている間に「考える時機」が多忙で少ないか、マッタク考えるコトが無いのか、自分自身の人生でその「悲惨・過酷・無残」に遭遇するのが少ないのかも知れないからなのかも・・・モチロン、個々人が「人間(自分自身を含め)であるコトを考える人」である時機(chance)に遭遇するのは様々である・・・
人間が「エゴ(egoist)」から解放されるのが「ホトケ」のように「涅槃(寿命を全うした終業)の悟(覚)り」であるのは難しい。
多分、「ホトケの悟り」は、「釈迦族の王・浄飯王(ジョウボンノウ)と、摩耶(マヤ)夫人の間に生まれ、姓をゴータマ(最上の牛)、名をシッダッタ(目的達成)と云う支配階級の皇子」であった彼自身の「修業」からのモノではなく、彼自身の人間社会の生活での「死に目の経験」にあってこその経験してのコトであったろう・・・「修業」への切っ掛けは「他者への心情」であったカモだが・・・自分自身の「エゴのサトリ」は別モノである・・・
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その釈迦に先行して「人間の命の限界」を考えたのは「ギルガメシュ」でもあった。彼は「友人エンキドの死を見て自分も死すべき存在である」とし、「永遠の命」を求め、死活の冒険の旅で、神の大洪水で箱舟を造って「永遠の命」を手に入れた「ウトナピシュティム(アトラ・ハシース)」に会い、彼から不死の薬草のありかを聞きだし、手に入れるが、蛇に食べられてしまい、「ギルガメシュ」は失意のままウルクに戻った」・・・ココには「転生輪廻」はない・・・「ギルガメシュ」は命に限界を有する「人間」だった・・・
「エンキド」は「ギルガメシュ」の友人だが、同音が類似する
シュメール(メソポタミア)神話では
「エンキ(Enki・水による創造力の神・バビロニアではエア)」でもあった・・・「片仮名」の同音異語は多分、「バビル」以前に共通する言語だった・・・?・・・
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「涅槃=死亡=寿命」は「実体験(喜怒哀楽)の臨終」の結果である・・・「釈尊の人間存在としての悟り」は生き残った弟子たちの「美化譚=生活保障」であろう・・・
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そして「釈迦」にとっての「人間が出来そうもない教え=サトリ」は彼自身の生活の危機的状況に遭遇した実際的な経験を踏まえてのコトだろう・・・「人間」は自然界の「食物連鎖の頂点」に存在しているのだから「殺生(狩猟・漁労・家畜)するな」は無理なハナシではある・・・釈迦は生きていた生身の人間で、「カミ」ではなかった・・・「転生輪廻」が「物質の存在の変化」なら灰と煙になった「塵(ちり)・芥(あくた)」が、その時間のプロセスで何らかへの「転生輪廻」の構成物になるのはアタリマエだろう・・・「魂=たましい=魄」の「輪廻」の問題は死んだヒトに訊けばイイ・・・
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以下はブログ検索したモノを添付した・・・
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「涅槃(ネハン)」・・・「涅=氵(水)+日+土(十一)」
染め色の名・黒色
黒色に褐色のまじった色
くり・デツ・ネ
「槃=舟+殳(几又)+木(十八)」
ハン・バン
たらい(盥・盆)
おけ(槽)・水桶(みずおけ)
「泥曰(ナイワツ)」
「泥洹(ナイオン)」
「涅槃那(ネハンナ)」
などと音写
漢訳で、
「滅、滅度、寂滅、寂静、不生不滅」
などと訳
サンスクリットでは
「廻って」という意味で
接頭辞「pari-」を冠して
「パリ・ニルヴァーナ(parinirvāṇa)」 、
「偉大な(mahā-)」 を付して
「マハー・パリ・ニルヴァーナ(mahāparinirvāṇa)」
ともいわれ
「円寂、大円寂」などと訳
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「涅槃(ニルヴァーナ)」は、
「さとり(証、悟、覚)と同じ意味・・・
「ニルヴァーナ」の字義は
「吹き消すこと・吹き消した状態」で、
「煩悩(ボンノウ)の火を吹き消した状態」
「滅、寂滅、寂静」と訳された
「涅槃は如来の死そのもの」
「涅槃仏」=「死んだホトケ」
「人間の本能から起こる
精神の迷いがなくなった状態」=「涅槃寂静」
釈迦が入滅(死去)してからは、
「涅槃」の語にさまざまな意味づけがおこなわれた・・・
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有余涅槃・無余涅槃
灰身滅智・身心都滅
善や浄の極致とするもの
苦がなくなった状態とするもの
などである
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「涅槃」を
「有余」
と
「無余」
との二種に区別する際の
「有余涅槃」=釈迦が三十五歳で成道して
八十歳で入滅するまでの間の
「さとり」の姿
「無余涅槃」=八十歳で入滅した後の「さとり」の姿・・・
「余」=「身体」
で、身体の有無の「さとり」・・・
「有余涅槃・無余涅槃」は、
「パーリ語の
sa-upādisesa-nibbāna,
anupādisesa-nibbāna」で、
「余(ウパーディセーサ・upādisesa)」は、
「生命として燃えるべき薪」
「存在としてよりかかるべきもの」
を意味・・・
弟子たちは
「有余無余」を、
釈迦の生涯の上に見、
釈迦の入滅こそ、
「輪廻転生の苦からの完全な解脱」
であるとした・・・
このような「さとり」が
「灰身滅智、身心都滅」
「灰身滅智(ケシンメッチ)」=「身は焼かれて灰、智の滅した」
「身心都滅(シンシントメツ)」=肉体も精神も一切が無
「ナースティカ(虚無虚無主義者(nāstika)」とは呼ばれた・・・
「菩提と涅槃」=「二転依の妙果」
「煩悩の障りが涅槃の境地に転じ、
智慧の障害であったものが転じて
慈悲として働く。
それを
菩提(ボダイ)」
という・・・らしい・・・
「さとり」は、
「涅槃の寂静」
と
「菩提の智慧」の活動とを内容とする・・・
「涅槃の徳」=「常楽我浄の四徳」
「さとり」=常住不変で、
一切の苦を滅しているので楽、
自在で拘束されないから我、
煩悩がつきて汚れがないから浄
ーーーーー ・・・ 忖度(そんたく・ジュンド) ↓↑ 「相手の事情や心情をくみとること くみとって手加減すること」 「あれこれ照らし合わせて取捨すること」 「言動を控えめにすること・遠慮すること」 「相手の心情を推し量るのが忖度 推し量った上で、何か処置をするのが斟酌」 「心情や感情・気持ちについてのこと」 「忖度=忖、度も、はかる意)・推察」 「相手の気持を―する」 ↓↑ 斟酌(シンシャク) ↓↑ 「水または飲料などをくみわける意から」 「あれこれ照らし合わせて取捨すること 参酌(サンシャク・シンシャク)」 「その時の事情や相手の心情などを十分に考慮し、 程よくとりはからうこと」 「手加減すること」 「ひかえめにすること・さしひかえること・遠慮・辞退」 ↓↑ 「忖度」するの言い換えや別の言い方 「相手の立場を考えて物事を行うこと 気をまわす・気遣いをする・気づかいをする・勘ぐる 忖度する 斟酌する 思いを汲み取る・思いを汲む・思い遣る・思いやる」 「忖」は「心をもってそっとおしはかる」 「度」は「(席などの)長短、大小をはかる」が原義 「忖」も「度」も同じ語義 ーーーーー ・・・「さとる」って、自分と相手の「相互利害」に対する「忖度」と「斟酌」・・・「慈悲=ジヒ=自費」では・・・ないだろう・・・ 兎に角、自然界の「水の動き」も、「土の動き」も気紛れである・・・だが、災難時では、先ずは「飲み水」、そして、「食い物」である・・・その場で生き残っている「人間」なら「最低限の衣食住分配」の「社会的公平」である・・・これは「煩悩」ではないだろう・・・
・・・自然災害での破壊も、人災での破壊(事故・戦争)も、人間は新たな合理的防御建造物として、また攻撃的破壊兵器として発明してきたのは歴史的事実である。「破壊」されると云うコトの延長に人間の「技術的発明」があった。だが、人間が護るべき「法・掟」に於いて同じ同音の「破戒(ハカイ)=法律違反」に対しては古代から現代まであまり進展が無い様である。「法」は一体全体、ダレのモノなのか?・・・古代ギリシャの民主制、ローマ帝国の共和制、カルヴァン、ユグノー戦争、フランス革命、アメリカ(南北)市民戦争、ロシア革命、「破戒」されるべき「社会制度と、それを支えている社会意識」としての根本的なモノが「人間の自覚」とはなっていないからだろう・・・すなわち、「根本的な階級意識=私有意識=差別意識」自体が「破壊も破戒」されてこなかった・・・そして、人びとは「指導者の権力意識=階級意識」にその生活を埋没させたまま今現在に到っている・・・ ↓↑ ルカ伝(6章27~38節) 「人を裁くな。そうすれば、自分も裁かれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。許るしてやれ。そうすれば、自分も許るされるであろう」 許す、許さない・・・個々人が相手の「法的罪を許すコト」は出来ても・・・「無理」である。「許す、許さない」は前提的に相手が何らかの犯罪を自分自身に犯した事後のコトである。「殺傷」は個人に対するだけではない。社会的な大規模な「無差別テロ」は今現在も頻繁である。例え「階級国家」であろうとも「テロ」は「支配階級」をも巻き込んでしまう。しかも「自爆テロ」で、もはや「許すべき人間」は存在しない。「伝染病」と同類である。「国家間戦争」、「核戦争」では「人類の滅亡」である・・・ 「裁きの無い社会」とはナニか?・・・「法律の無い社会」と云うことなのか?・・・「裁き」は相手あってのコトだが・・・ 「モーゼ」も「イエス」も「人間」を救うと云うコトで、確かに「エラカ」ったが、「キリスト教」は「イエスのモノ」ではない・・・ ↓↑ 「キリスト教」には「イエスのコトバ」の矛盾に於いて「罪」がある。この「罪」は「アダム(Adam)とイヴァ(Eva)の犯した原罪」ではない。 「旧約聖書」には 「汝、ヒトを殺めるナカレ」、 「汝、人を偽って貶(おとし)めるナカレ」、 「汝、嘘をつくなかれ」、 「汝、他人の財産を貪(むさぼ)るナカレ」 そして、問題は 「汝の敵を愛せよ(新約聖書・マタイ伝第五章・ルカ伝第六章・Love your enemies.」に於いてであるが、文字どうりの「敵(殺意を持った者も含む)を愛せ」ならば無理である。先ずは自分自身を護らなくちゃぁ無理である。逃げるコトが一番だが、「キリスト」は逃げる余裕があったのにもカカワラズ、逃げなかった・・・逮捕され、磔刑にされたコトは「キリスト」自身の「相手=敵」に対する「犯罪」である・・・ 一般的な人間であれば、相手に罪を犯させるような「仏教の喜捨」と云うワケにいかない。モチロン、「喜捨=相手の為に命を捨てる」と云うコトは釈迦自身の教えではないだろう。そうであったとしても相手を宥(なだ)める「方便」であったろう・・・ 「キリスト」のコトバも「比喩」での教えである。その「比喩」すら理解出来なかった彼の弟子たち・・・だが、キリストのハナシを聴きにきた民衆は理解した。無学でも彼らにとっては理解できる日常的な簡単なコトバだったからである。それを駆使してナントカ、「キリスト」は「ユダヤ人の無教養、貧困層の救済=長生きできる社会環境形成」と云う大義名分で頑張ってきたのだが・・・「天国は彼らのモノ」だったからだ・・・「モーゼ」はもっと現実的なコトバを説いた。「主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである」と・・・ ↓↑ 旧約聖書の「日本語」への翻訳の「偽証・虚偽・嘘をつく」はなんであろう・・・日本語訳の「聖書(新旧)」にはボクが補った「貶(おとし)める」の「補語」は見当たらないが・・・ウソをつくにはその「目的」がある・・・ 「貶める」・・・ブログ辞典には、 「劣ったものと軽蔑する・さげすむ 見下す・下落させる・成り下がらせる」、 「神聖性を損なわせること・貶す・冒涜する 穢す・汚す・冒瀆する・貶める・毀損する ツバを吐く・傷つける」、 「自分より劣った者とみなす みさげる・さげすむ・軽蔑する」 で、「貶められるコト」は「偽る、偽らない」の是非は問わずに「階級身分の主従社会」では「貶められる状況」は常にあっただろう・・・「旧約聖書」の物語の殆んどは身内の「血縁関係」での「貶める行為と嘘つき」のモノガタリである・・・現代的には四月バカ、救済、状況的な危険回避の言葉でない限り、「ウソの目的」は「盗む」である・・・現在は政治屋の「虚言」と「振り込め詐欺のコトバ」が飛び交っているが・・・戦争では「戦術的なワナ」で敵対者の命を盗むコトである・・・ ーーーーー 以下は「十戒」の複数の日本語訳をブログ記事から検索して添付 ↓↑ 十戒(出エジプト記20章1−17節) 20:12 あなたの父と母を敬え。 これは、あなたの神、 主が賜わる地で、 あなたが長く生きるためである。 20:13 あなたは殺してはならない。 20:14 あなたは姦淫してはならない。 20:15 あなたは盗んではならない。 20:16 あなたは隣人について、偽証してはならない。 20:17 あなたは隣人の家を貪(むさぼ)ってはならない。 隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、 また すべて隣人のものを貪(むさぼ)ってはならない」。 ↓↑ 十戒(申命記) 5:16 あなたの神、主が命じられたように、 あなたの父と母とを敬え。 あなたの神、主が賜わる地で、 あなたが長く命を保ち、 さいわいを得ることのできるためである。 5:17 あなたは殺してはならない。 5:18 あなたは姦淫してはならない。 5:19 あなたは盗んではならない。 5:20 あなたは隣人について偽証してはならない。 5:21 あなたは隣人の妻をむさぼってはならない。 また 隣人の家、畑、しもべ、はしため、牛、ろば、 また すべて隣人のものをほしがってはならない。 ↓↑ あなたの父と母を敬え。 殺してはならない。 姦淫してはならない。 盗んではならない。 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。 ↓↑ あなたの父と母を敬え。 あなたは、殺してはならない。 あなたは、姦淫してはならない。 あなたは、盗んではならない。 あなたは、隣人について、偽証してはならない。 あなたは、隣人の家を貪(むさぼ)ってはならない。 ↓↑ 父母を敬うこと 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ) 姦淫をしてはいけないこと 盗んではいけないこと 偽証してはいけないこと 隣人の家を貪(むさぼ)ってはいけないこと ↓↑ あなたの父母を敬え。 殺してはならない。 姦淫してはならない。 盗んではならない。 隣人に関して偽証してはならない。 隣人の妻を欲してはならない。 隣人の財産を欲してはならない。 ↓↑ イエス 姦淫してはならない。 殺してはならない。 盗んではならない。 偽証を立ててはならない。 父と母を敬え。 ↓↑ ーーーーー 「汝、自ら命を断(絶)つナカレ=自殺(スーサイド・suicide)の禁止」は旧約にも新約にも、そのコトバは見当たらないが・・・「プラトンが「人間は神々の所有物である(パイドン)」として「自殺禁止論」を展開したのを下敷きに「アウグスティヌスが自殺を禁じた(神の国・第1巻第16-28章)」らしく・・・十戒の「汝、殺すなかれ」は「自分自身の命」も含むモノとして考えたらしい・・・「693年にはトレド会議において自殺者を破門」とした。「聖トマス・アクィナス」が言明することで確実な「教義」となったらしい・・・ 兎に角、人間以外でも「レミング」、「アリの兵隊蟻」は「集団自殺」するらしいし、「海豚(いるか)」も、檻に閉じ込められた「熊」も、「飼い犬」も絶食して「自殺」する・・・ ・・・これらの「自殺」は人間が観察した事例ではあるが、スベテではないから「意識的な自殺」かどうかは「?」である・・・だが、家畜化された動物は屠殺(トサツ)、屠畜(トチク)される時に「涙」を流す。 犬や猫は家族に「疎外」されると自ら孤立し、絶食するのは飼い主ならば経験するだろう・・・ ハッキリと宗教的に「自殺」を禁止しているのは「コーラン(4-29)・クルアーン『婦人章』第29・30節」だけであるらしいが・・・ 「人間」とは「ご都合主義」なんだろう・・・人間の作ってきた「法」の根幹は「生き残っている人間のエゴ」であるのは当然でアルかな・・・「涅槃死」でも、「磔刑死」でも「後の祭り」である。 「人間」でアルコトを「自覚」しても、それを「社会化」するのは難(むづか)しい・・・たった「殺すな・盗むな・殺傷するな・差別するな」だけのコトなんだけれど・・・
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