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加羅州・香良洲・鴉・カラス・烏・刈らす・涸らす・借らす・唐洲・・・鬼室 福信・・・ナゼ、鬼の室の福の信なのか?・・・鬼道



 ・・・前回、「マリア・カラス(Maria Callas, ギリシア語: Μαρία Κάλλας, 1923年12月2日~1977年9月16日)」さんの「命式」を書き込んで、北海道(北加伊道・蝦夷地)の「美唄市」の地名をアイヌ語の「ピパィ=カラス貝の川」、「ピパオマナィ=カラス貝・ある・川)」、「ピパオィ=カラス貝・多い・所」・・・「美しい(うつくしい)=カロス・カラス=καλος ・ギリシャ語」と漢字の美声を「美唄(口+貝)」が重なった、だなんって・・・???・・・「マリア・カラス」はニューヨーク生まれだった・・・日本時間では「1923年12月3日」かも・・・  北緯40度42分46秒 西経74度00分22秒  2018年07月19日 10時06分 (日本)  2018年07月18日 21時04分 (紐育)  ↓↑  マリア・カラス  出生名 Sophia Cecelia Kalos  本名は  Maria Anna Sofia Cecilia Kalogeropoulos  ニューヨーク市(New York City)生まれ  生誕 1923年12月2日  死没 1977年9月16日(53歳没)  フランス パリ ーーーーー  1923年12月2日   ~1977年9月16日)  癸亥(戊・甲・壬)⇔丁巳(戊・庚・丙)  癸亥(戊・甲・壬)⇔己酉(庚・ ・辛)  己酉(庚・ ・辛)⇔丙子(壬・ ・癸)   寅卯=空亡  ↓↑  ニューヨークとの時差は-14時間  1923年12月3日   ~1977年9月16日)…54  癸亥(戊・甲・壬)⇔丁巳(戊・庚・丙)  癸亥(戊・甲・壬)⇔己酉(庚・ ・辛)  庚戌(辛・丁・戊)⇔丙子(壬・ ・癸)  魁罡(庚辰・庚戌・壬辰・戊戌)   ↓↑   寅卯=空亡 大運 戊辰(乙・癸・戊)偏印 ーーーーー ーーーーー  官職名  日向守  ↓↑  安倍黒麻呂 761年(天平宝字5年)頃  藤原広嗣の乱における  広嗣捕縛(740年(天平12年)の功をひくもの・・・  ↓↑  大津大浦、天平神護元年(765年)任官、左遷人事  生年不詳 - 宝亀6年5月17日(775年6月19日)  奈良時代の陰陽家  姓は連、次いで宿禰、のち連  官位は従四位上・陰陽頭  ↓↑  大津氏(大津造、大津連)  摂津国を根拠とする一族  氏の名は  難波大津の名称に因む  一説では毛野氏の一族とされ  和銅七年(714年)  大津意毗登  が占術を用い  還俗を許され叙爵  代々陰陽家を務めた  藤原仲麻呂に信頼され  事の吉兆を占っていた  大浦は仲麻呂の意向が  反逆の謀計に及んでいることを知り  災いが自身に降りかかることを恐れ  朝廷に密告  天平宝字8年(764年)9月  藤原仲麻呂の乱  正七位上から従四位上へ一挙に10階昇進  連姓から宿禰姓への改姓を許され  左兵衛佐兼美作守に任ぜられた  ↓↑  天平神護元年(765年)3月  藤原仲麻呂の乱で功績のあった  和気王と共に功田を与えられた  同年8月  和気王の謀反が発生  和気王と親しく交際して連座  兵部大輔から  日向守に左遷  位封を剥奪  姓も連に戻された  神護景雲元年(767年)  日向員外介の官職を解任の上  所持する天文や陰陽などの書物も没収  宝亀元年(770年)  罪を赦されて帰京  宝亀二年(771年)陰陽頭に任ぜられ  宝亀五年(775年)  安芸守を兼ねた  宝亀六年(775年)5月17日  卒去  最終官位は従四位上陰陽頭兼安芸守  ↓↑  大江 玉淵(おおえ の たまふち)  大江音人の子・・・音の人?  大江朝綱の父  歌人の遊女・白女を女(むすめ。養女)とした  ↓↑  兵部少丞などを経  仁和二年(886年)  従五位下に叙され  式部大丞から  日向守に転じた  息子の  朝綱の参議任官について記した  『公卿補任』  天暦七年(953年)条に  朝綱を「従四位下玉淵男」と記録  従四位下に叙されていた・・・  ↓↑  大江 音人(おおえ の おとんど・おとひと)  弘仁二年(811年)~元慶元年11月3日(877年12月15日)  貴族・学者  備中権介  大枝本主の嫡男  大枝諸上の孫  官位は従三位・参議  江相公と号  ↓↑  百済俊哲  宝亀六年(775年)  鎮守将軍  大伴駿河麻呂らに従って  陸奥国で叛乱を起こし  桃生城に  侵攻した夷俘を鎮圧・服従させ  百済俊哲は  勲六等の叙勲を受ける  宝亀九年(778年)  蝦夷征討に軍功  勲五等に叙せられた  宝亀十一年(780年)3月  宝亀の乱  従五位下  4月  従五位上と昇進し  6月には反乱鎮圧のために  鎮守将軍  藤原小黒麻呂の配下として  陸奥鎮守副将軍に任ぜられた  12月に陸奥国の桃生・白河などの  郡の神  十一社を官幣社に加えるように  朝廷に申請、許可  天応元年(781年)  正五位上  勲四等の叙勲  ↓↑  延暦六年(787年)  日向権介に左遷  延暦九年(790年)  赦免され入京を許される  免罪の理由  武官としての才が惜しまれ  百済王氏を  外戚とする詔が出され  同氏への待遇の上昇のため・・・  延暦十年(791年)正月  蝦夷征討を目的に  坂上田村麻呂  とともに東海道に派遣  下野守に任ぜられ  征夷副使  陸奥鎮守将軍  を兼ねた  延暦十四年(795年)8月7日  卒去  最終官位は  従四位下  陸奥鎮守将軍兼下野守  ↓↑  日向掾・権掾  藤原乙縄  757年(天平宝字元年)  任官、左遷人事  ↓↑  武家官位としての  日向守  ↓↑  江戸時代以前  蒲池武久  三好長逸  飯森盛春  明智光秀 1575年(天正三年)任官  ↓↑  江戸時代  水野家宗家(備後福山藩・下総結城藩藩主)  水野勝成:初代藩主  鬼日向=水野勝成・・・  ↓↑  日向介・権介  伊勢  亀山藩  石川家  石川総純:第三代藩主  石川総博:第四代藩主  石川総紀:第八代藩主  石川成之:第十一代藩主 ーー↓↑ーー  「杉田伯元」は  『青地林宗』と共に幕府の翻訳係となった・・・  『青地林宗』の娘は  「高野長英」の「妻」・・・ ーー↓↑ーー  「まくらことば=真蔵言葉・磨句・言葉」  が  「麻倉言葉(朝倉子渡場=越前一乗谷)」  なら  「朝倉氏(景長)」・・・朝倉景長・・・越前朝倉の血統?  は  「享保六年」に  「白石」の息子  「明卿」に娘を嫁がせた  「婿筋」である。  「白石」の娘  「べん(宝永三年生)」は  「享保八年」に  「書院番士」の  「石谷清寅」に嫁いだ・・・ ーー↓↑ーー  備中国  猿掛山城の城下は、  草壁(くさかべ)庄と言う場所  備中国 草壁庄 猿掛山城跡・・・  備前長船勝光、宗光の片手打ちの  合作刀  その茎(なかご)に  「備中 草壁」と文字・・・  ↓↑  日向正宗=相州正宗作の短刀       所持した       水野日向守勝成の官銘に因み       日向正宗と呼ばれ       紀州徳川家に伝来・・・       保管先 三井記念美術館  日向(堅田)正宗  長八寸二分の短刀  石田治部少輔所持  水野日向守、分捕    ↓↑  石田三成が所持し  三成から妹婿の  豊後国府内城(荷揚城)主  福原長堯へ譲られ  大垣城攻防、落城の際  長堯から  水野勝成(鬼日向)が分捕った・・・短刀  ↓↑  朝倉市(あさくらし)  福岡県の中南部、筑後地域に位置  福岡県の中央部、福岡市の南東約40km、  久留米市・・・来目皇子  の北東約20kmに位置  ↓↑  隣接している市町村  福岡県  久留米市  うきは市     的邑(いくはのむら)        →生葉郡→浮羽郡→うきは市と変遷  嘉麻市  朝倉郡筑前町・東峰村  三井郡大刀洗町  大分県  日田市  ↓↑  鎌倉時代  1203年(建仁三年)  原田種雄(たねかつ)  が幕府より  秋月庄を賜り  秋月城を築城  以降  原田氏は  秋月氏を名乗り  以後  十七代にわたって統治  1587年(天正十五年)  豊臣秀吉の軍勢に敗れ  秋月氏は  日向国  高鍋に移封  ↓↑  江戸時代  1623年(元和九年)  福岡藩を統治していた  黒田長政の遺言により  長政の三男  黒田長興  が秋月に五万石で分封され  秋月藩が成立  以後は  黒田氏による統治  廃藩置県により  秋月県が誕生  県庁所在地となったが  福岡県に統合  1876年10月24日  熊本藩で起きた  神風連の乱に呼応し  10月27日  秋月の乱  ↓↑  朝倉橘広庭宮  (あさくらのたちばなのひろにわのみや)  斉明天皇が営んだ宮殿  ↓↑  斉明天皇は  百済救援の為  中大兄皇子(天智天皇)  大海人皇子(天武天皇)?  ら文武百官を従えて  難波の港から海路  筑紫に向かい  661(斉明七年)年1月14日  四国の  石湯行宮に到着  3月25日  博多  娜大津(なのおおつ=福岡市南区)に至り  磐瀬行宮(いわせのかりみや)に坐し  5月9日  朝倉橘広庭宮に遷られた  滞在75日  7月24日  御年68歳で崩御  ↓↑  難波の宮  →伊予の石湯(いわゆ)行宮  →筑紫の磐瀬(いわせ)行宮  →朝倉橘広庭(あさくらのたちばなのひろにわ)宮  ↓↑  「是夕於朝倉山上有鬼、着大笠臨喪儀、衆皆嗟怪」           鬼室福新・・・?  ↓↑   鬼室 福信・・・ナゼ、鬼の室の福の信なのか?  (キシツ フクシン・?~663年)・・・医者?  ↓↑  百済の王族・将軍  義慈王の父である  第三十代  武王(余璋)の甥  官位は  恩率(三品官)  佐平(一品官)  鬼室氏の祖  ↓↑  死没  2か月後  白村江の戦い(663年)  で倭国と百済の連合軍が大敗  ↓↑  鬼室福信=扶余福信  ↓↑  義慈王時代  660年  唐と新羅の連合軍によって  百済滅亡後  旧臣らを糾合して抵抗運動を続け  百済の故都である  泗沘城(忠清南道-扶余郡)の奪還を試みた  義慈王の王子であった  余豊璋  は  倭国との同盟の人質で倭国に滞留  鬼室福信ら遺臣は  百済復興の旗印として  豊璋の帰国と、倭国の軍事支援を求めた  ↓↑  斉明天皇・中大兄皇子は了承し  百済復興を支援することとし  翌年正月には  斉明天皇自ら、筑紫へ遠征  ↓↑  『百済本紀』  『旧唐書百済伝』  『三国史記』28巻百済本紀  『旧唐書』199巻上百済伝  では  豊璋は  662年5月に入国  鬼室福信は  王を迎えに出て  国政をみな委ねた  倭国は  鬼室福信あてに軍需物資を送り  鬼室福信も  唐人の捕虜  続守言・・・続け守る言(ことば)  らを倭国に送った  7月  扶余豊(扶余豊璋)は  鬼室福信が  自分を殺そうとしていると疑い  鬼室福信を殺した  ↓↑  『日本書紀』  663年6月  百済王  豊璋は  鬼室福信の謀反を疑って捕らえ  その掌を穿って革紐で縛り  諸臣に対して  福信を斬るべきかと問い  達率(二品官)の  徳執得は  「これは悪逆人であるから   放しおくわけにはいかない」  と答え  鬼室福信は  執得に唾して罵った  王は  鬼室福信を斬らせ  その首を  塩漬けにした・・・塩漬けにされたのは「高橋景保」も?  ↓↑  鬼室福信の近親者    ↓↑  鬼室集斯は  天智四(665年)年二月  (即位元年起算よると天智十年正月)  鬼室福信の功績で  小錦下の位階を与えられ  百済の民男女四百余名と  近江国  神前郡に住居を与えた  天智八年(669年)  男女七百余名とともに  近江国蒲生郡に移住  ↓↑  鬼室福信は  660年  黒歯常之  僧道琛(どうちん)  等とともに  任存城(大興)で挙兵  旧都  泗沘(しひ)城(扶余)奪回を図った  同年  日本の朝廷へ救援軍の派遣  人質の王子  豊璋の送還を要請  661年8~9月  救援軍が派遣  豊璋と軍需物資は  周留城(錦江下流域)に拠った  鬼室福信のもとへ送り届けられた    ↓↑  鬼室集信(キシツ シュウシン)  百済の官吏  鬼室福信の一族  鬼室集斯(キシツ シュウシ)  らとともに来日  近江(滋賀県)  蒲生(がもう)郡に居住・・・  医薬に精通し  天智天皇十年(671年)  大山下(ダイセンゲ)の位を賜った  ↓↑  続守言(ショク-シュゲン)  渡来人  唐人  百済と唐・新羅との戦闘で百済軍に捕らえられ  天智天皇二年(663)ごろに日本に連行  中国語教授の音博士として活動  持統天皇から銀、田などをあたえられた  ↓↑  7世紀後半来日した中国人  斎明六(660)年  百済滅亡後  唐、新羅に抵抗する  百済の遺臣  鬼室福信の捕虜となり  日本に  連行、献上された  『日本書紀・斎明七年条』  鬼室福信が捕虜とした  続守言  らが筑紫に至った  天智二(663)年条  福信が  唐の俘虜  続守言を上送したと記録  彼は  朝廷に仕え  持統三(689)年  稲を賜り  音博士として  中国語の発音を教授し  五年に銀  六年に水田  を賜った  ↓↑  薩弘恪(サツ-コウカク)  斉明朝に  日本におくられた唐人  音博士  続守言(ショク-シュゲン)  とともに  持統天皇三689)年、五、六年に賞されている  文武天皇四年  大宝律令撰定の功で禄をあたえられた  ↓↑  持統三(689)年六月  薩弘恪は  唐人の  続守言と共に稲を賜った  同五年九月  ふたりは銀二十両を賜った  翌年十二月  水田四町を与えられた  刑部親王(忍壁皇子)  藤原不比等  らと共に  大宝律令の編纂  令の選定終了に伴い  文武四(700)年六月  禄を賜って  位階は勤大壱  ↓↑  「朝倉山」は  恵蘇八幡宮の東方に位置する  麻底良山(まてらさん)のこと  ↓↑  雄略天皇の泊瀬朝倉宮  第二十一代  雄略天皇の宮跡  万葉集  開巻第一の歌が有名  脇本付近は発掘調査で建物遺構も出土  ↓↑   福岡県  朝倉市  三連水車のある町  1878年(明治十一年)  行政区画として発足した郡域に  日向石村  ↓↑  豊臣秀吉の九州征伐に伴う戦の結果  秀吉に敗れた  秋月種実は  日向高鍋3万石に領地替え  ↓↑   日向石(旧上秋月村)  ↓↑  秋月城下町  鎌倉時代(1203年)  原田(秋月)種雄  がこの地に配されてから  戦国末に  秋月種実・種長父子が  秀吉によって  日向高鍋に移されるまで  16代約400年間  秋月氏の本拠地  ↓↑  多奈神社  朝倉郡  上秋月村  大字  日向石・・・「日向の石」は「朝倉」にあった・・・  字田中河原  金刀比羅神社  朝倉郡  上秋月村  大字  日向石  ↓↑  甘木山  安長寺 ーーーーー

ーーーーー  ・・・・???・・・

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