古事記字源語源・天国への長いナガイ『序文2』
「古事記・字源・語源・天国」への「長い、ナガイ、『序文』(x1)」
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・「卑弥呼」はいかなる存在であったか?
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彼女の存在と出自は三国時代の「呉=燕」、「台湾」、「琉球・奄美・沖縄列島」、「鹿児島」、「五島列島」、「長崎」、「諌早」、「宇土」、「横島」、「熊本」のラインを結ぶ「海洋交易」の人々の「ミコ」であった。これは漢和辞典で「呉」の項目を検討すれば、「歴史・地理・人」の「漢字」がそれを示唆していることが理解できるのだ。
呉=ゴ・ウ・くれ・くに・くれる・あたえる・やる
↓
娯 烏 来れ 邦 繰れる 與 える 耶琉
↓
語 得 句例 句似 句戻留 与↓える 遣る
↓
五 有 九例 九似 九例留 亜多重留 哉瑠(瑠璃=琉璃=玻璃)
↓
ルリ ルリ ハリ
瑠=滑らかにスベル=玉の名に用いる=玉名
↓
呉 迂 呉移 国 来れ流 阿侘得留 八瑠
=かまびすしい・やかましい・大声(おおごえ)で云(い)う・おおきい
珈磨美素詞意 哉可真史意 大越 緒甫呉枝 出 移 宇 尾圃穐意
華麻美州四囲 八珈魔私意 男雄 緒将肥重 委 卯 悪男季威
呉=春秋五覇の一。周の文王の長子、「太伯」が「蘇州地方」に建国。
前473年、「夫差」が越王、「句践」との戦いに破れて自殺するまで、
二十五代759年間続いた。
=三国時代、「孫権」が楊子江下流に建国。都は「建業=南京」。
「西晋」に滅ぼされるまで四代六十年間続いた。
=唐末五代の時、「楊行密」が「江蘇」に建国。「徐知誥(ジョチコウ)」
に滅ばされるまで四代四十六年間続いた。
=「江蘇省」の異名。
「呉」 =ゴ・ウ=くれ
「台・湾」=タイワン=台 湾 台 湾
↓
(うてな・まがり) (よろこぶ・みずくま)
(われ ・よろこぶ)(あたえる・みずくま)
(もと ・みずくま)
「琉球」 =リュウキュウ=ながれ、もとむ
「奄美」 =エンビ=あまみ
「沖縄」 =チュウジョウ=おきなわ
「鹿児島」 =カジトウ=かごしま
「五島列島」=ゴトウ=いつしま
「長・崎」 =(チョウキ・チョウゲ)=ながい・みさき=ながく・あやうい
「諌・早」 =カンソウ=いさめる・はやく
「宇・土」 =ウド=宇 土 = 宇 土 = 宇 土
↓
(のき・つち)、 (ひさし・どろ)、(そら ・くに)、
(さかい・はかる)、(つくり・はに)、(かまえ・いる)、
(おおきい・つつ)、(おおう・のり)、(うま ・くに)、
(たか・くに)
「横・島」 =オウトウ・よこしま
「熊本」 =コウホン・ユウホン=くまもと、ひかるもと
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・魏書・巻参拾・烏丸鮮卑東夷伝・倭人
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「魏志・倭人伝」にある「倭国動乱」の女王「卑弥呼」は
「狗奴国王」と「犬猿の仲」と考えられているが、
「卑弥呼」の出自は「呉」と縁籍にあった「狗奴国」にあったと考えられる。
「魏書・巻参拾・烏丸鮮卑東夷伝・倭人」の
「タイトルそのものの漢字」はもとより、この記録の部分、
「魏志・倭人伝」にある最後の「陳寿」の記述は、まさに示唆的である。
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・「使訳時通、記述随事、豈常也哉(原文)」
・ ↓
・「通訳と使者が定期的に通じ、記述は事実に随うが、不変だろうか。そう
・ではあるまい(いき一郎訳文・中国正史の古代日本記録より抜粋)」
・ ↓
・「通訳と使者が定期的に通じ、『随事(報告された事をそのまま聞き入れ、
・その度に)』記述したが、どうして、この『報告』が事実だと言えるだ
・ろうか、そうではあるまい(日下=私の訳文)」
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この「使訳時通、記述随事、豈常也哉」は「歴史的、時間的な流れの不変性、状況を疑って」いるのではなく、「使訳時通」の報告の「正否」を疑っているものである。すなわち、「陳寿」は「使訳」の報告すべてが正しいわけがあるまい、と言っているのだ。
「卑弥呼」は「魏」に自分が「呉」に荷担するものではない事をアリバイ的に「狗奴国」と「敵対」していると、伝えたかった。何故なら別格の「独立国=狗奴国・『男王』」の存在は、「初めの倭国動乱」の原因ではなかったからだ。「初めの倭国動乱」は「七十、八十年間、もと男王の時世の終息時の動乱」であり、「狗奴国」が原因とは記されていない。その結果、「ヤマタイ・連合国内」での「卑弥呼」の擁立であったのだ。
「二回目」の「倭国動乱」は「卑弥呼」が「死亡」したことに原因があるのであろうか・・・?・・・違う・・・「卑弥呼」はまだ生きていた・・・。
政治的に「ヤマタイ・連合国内」での「卑弥呼=『呉』」と「壱与=『魏』」の確執、「壱与」擁立の「動乱」であったハズである。「敵対」関係にある「狗奴国」が「壱与」が擁立された結果、その「敵対」関係を払拭したとは思えない。もともと敵対関係はなかったのだ。あったのは「ヤマタイ・連合国内」での「卑弥呼(始・婆々)=『呉国に属(荷担)する巫』」と、「壱与(姉・早乙女)=『魏国に属(荷担=カタン=下端)する巫』」の「女王」権力をめぐる「女同士(?)」の戦いであった・・・。
漢和辞典には・・・
始(シ・はじめ・と・はる・もと)
・・・解字・形声・・女が意符。台(イ・転音シ)が音符で、また初めの意を表す
原義は、女の初め、「長女の意」。引いてはじめの意
に用いる。
と記されている。始は「女+台」で、「長」の「女」である。
姉(シ・あね)・・・年上の女の兄弟。はは。姐。婦人を親しみ、また尊敬して
呼ぶ言葉。
・・・解字・形声・・女が意符。市(シ)が音符。また、積む意を表す。原義は
「年の多い女」の意味。
姉は「女+市」で、
「年=歳=サイ=斎=祭=哉=西」の
「多(おほ)」の「女(むすめ・おんな・ジョ・ニョ)」である。
「市」には「市場」の「市(イチ)」と、
似ているが、別字の「市(フツ)」が類字としてあることに留意する必要がある。
姿(シ・すがた・かた・しな・たか)
・・・からだつき。容姿。身なり。なりふり。風采。ようす。
おもむき。態度。ありさま。なりゆき。けいせい(形勢)。
「しな」をつくる。
・・・解字・形声・・女が意符。次(シ)が音符。また、うまれつき(資シ)の
意を表す。女の「うまれつき」、また、そのすがたをあら
わす。
姿は「次(氷・欠)+女」で、
「しな=支那=品=科」を「ツクル」である。
しかも「うまれつき=生まれ月=馬隷槻=午戻就き」である。
「始」、「姉」、「姿」の字の「共通項」は「女」で、
音の共通項は「シ」である。
妹(女+末・バツ・マチ・マツ)
・・・妹嬉(バツキ)は「夏の国」の「桀王の妃」で、桀王と共に
日夜、遊楽にふけり、「夏国」の滅ぶもとをなした。
妹(女+未・マイ・バイ・メ・いもうと・いも)
・・・女が意符。未(ビ・転音マイ)が音符。また、
「かさなり続く」意を表す。
姉の後に続く女で、いもうとの意。
妹(女+末)と、妹(女+未)の共通項は「女」であり、
類似する「末」と「未」の漢字で、
「末(おわり=終わり=尾張)=すえ=据=須恵=陶」と、
「未(さき=先=前=崎・碕・埼
咲き・左記・裂き・割き
簑記=箕記=美濃の記・味野の記・三野の記」で、
「まえ=前=舞=米(八方位)=昧(日は未・南西の支)」である。
「天照大御神」は「三人の女の子」を生んだ。二人のヒメは別名が記されている。
多紀理毘賣=奥津島比賣・・・多くの紀の理は毘(田比=タヒ=他意)
市寸島比賣=狭依毘賣・・・・イチ(位置)を寸(ハカル)のは「島(シマ)」
市=亠(音)+巾(はば)
多岐都比賣・・・・・・・・・多(タ=他)の岐(キ=記)の都(ミヤコ=宮子)
山支 箕 宮古
↓
サンシ=纂史=蚕糸=三支=寅支
「木花之佐久夜姫=神阿多都姫」は「三人の男の子」を生んだ。
火照 =海幸彦・・・火=八人・・・・・・照=日刀口・(光)
火須勢理 須=彡一ノ目人
火遠理 =山幸彦=天津日高日子穂穂手見 遠=袁・
これらの登場人物の共通項は「比(ヒ)」と「火(ヒ)」であるが、
「多紀理毘賣=奥津島比賣」、
「市寸島比賣=狭依毘賣」の
「比」と「毘」の漢字の区別は「田」の有無で、何を意味しているのか。
「毘=田+比=たい=他意=タヒ=侘比」である。
「多紀理毘賣」、「狭依毘賣」の名前の漢字を
「他意」で採れと云うことだ。
「多くの日本書紀の理屈はタイ」、
「施の巻句は夜留」である。
さて、また、
「狗奴国・『男王』」の名前が「卑弥弓呼」である、
とすることにも「疑問(?)」である。
何故なら漢文自体の「ヨミ方(?)」も
「多様」であることを「書き手」は「意図」しているからだ。
これは「歴史書(公)」の宿命であろう。
いかに「客観的」に書こうとしても
時代的状況は書き手の
「主観的思想=立場」を文字に託さざるを得ないのである。
例え「史記」を記した「司馬遷」でもである。
いかなる「書物」も
記録者の「哲学的・思想的・意図的」立場を
絶対的条件として必要とされるのだ。
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・倭女王 卑弥呼 與 狗奴国 男王 卑弥弓呼 素不和(原文)
・↓
・倭女王、卑弥呼、「與」、狗奴国=男王、「卑弥弓呼=壱与」、素不和
・↓
・倭女王、卑弥呼、「與」、狗奴国=男王、「卑弥弓呼素」、 不和
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これは、「倭の女王、狗奴国の男王に、
『卑弥弓呼』を與(与)えるが、もとより不和」とも「ヨメ」る・・・
また「卑弥弓呼素」とも・・・。
「呼」は「コ・ク・よぶ」、
「弓」は「キュウ・ク・ゆみ」、
「素」は「ソ・ス・もと・しろ」ともよむ。
ちなみに、
「素娥=ソガ」は
「月に住む天女・月宮の仙女=妲娥(コウガ)・色白の女・月」である。
ついでに、この時代の国際情勢を年表で検討すれば以下のとおりである。
国際情勢
57年 倭の奴国王、後漢の「光武帝」から金印を賜る
107年 倭国王、「帥升」、後漢の「安帝」に「生口」を献ずる
146年 倭国動乱、邪馬台国に女王「卑弥呼」が立つ
189年 「公孫度」、「玄菟郡」の小官吏から遼東半島太守となる
190年 「公孫度」、遼東郡を遼西、中遼の二郡とし自らの太守を置く
また、山東半島に営州刺史を置き、「遼東侯・平州牧」と号した
「公孫度」の子、「康」が継ぎ、「度」の弟、「恭」が「永寧郷侯」
となり、「康」は西暦196~220年まで楽浪郡を分けて帯方郡
を置いた
220年 後漢滅亡。魏王・「曹丕」、「献帝」を廃し、魏の「文帝」となる。
221年 「劉備」、燭漢の「昭烈帝」となる
229年 「孫権」、呉の「大帝」となる
「公孫康」の子、「淵」が「魏王」から「遼東太守」、
「車騎将軍」の爵号を授
232年 呉の「孫権」、「淵」に「燕王」の爵位を与える
233年 呉が一万人ほどの軍隊を遼東に派遣。「淵」はこの使者を殺し、
その首を「魏」に差しだし、「楽浪公」の爵位を得る
235年 高句麗王、「位宮」、呉から「単・」の爵号を受く
237年 「魏」は幽州刺史の「毋丘倹」を将軍にし「淵」軍と戦い敗北
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・238年 六月、「卑弥呼」、大夫「難升米」を「魏」におくる
・ ↓
・ 八月、「魏」の「司馬懿」を将軍とする軍隊に「淵」軍敗北、戦死
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239年 帯方郡・太守「弓・」が「韓」族に攻められ戦死。「韓」滅亡
244年 「魏」は幽州刺史の「毋丘倹」を将軍にし、高句麗軍を壊滅さす
帯方郡太守「王・」、塞曹掾史「張政」を「倭国」に派遣
この「年表」に記されている
「人名」と「官名」、「地名」の漢字と
その「音」に注意すれば
「古事記」が何を示唆しているか明かである。
更に
「238年」の「六月」と「八月」・・・ワズカ、「二カ月間」・・・。
「卑弥呼」の「倭」は、少なくても
「六月」までは
「もと『燕』に属」さざるを得なかったハズである・・・。
何故なら
「公孫淵=燕」は
「237年」には「呉」と同盟、
あるいは册封関係にあり、
敵対する
「魏」の「幽州刺史」の
「毋丘倹」を将軍とする軍隊と戦い、勝利し、
翌年の
「238年の八月」に「魏」の
「司馬懿」を将軍とする軍隊に敗北し、
戦死したのである。
時間的な流れでいえば、
「倭」は「八月」までは
「呉」と深い関係にあった
「公孫淵=燕」に「属」していたハズだ・・・。
もちろん、状況的に、直接的にも
「倭」は「呉」と深い関係にあったのだ。
すると、
「238年『六月』」、
この『六月』に
「卑弥呼」が
大夫
「難升米」を「魏」におくる 、
と云うことはどういうことなのであるか。
朝鮮半島はいまだ
この「238年」の『八月』」まで
「公孫淵=燕」の支配下にあった・・・
どのような経路でいけたのか?・・・
どのような目論見で
「難升米」を「魏」におくったのか?
「卑弥呼」は「邪馬台国」をまもるため、
「呉=燕」の配下にありながらも
二股をかけざるを得なかったのだ。
あるいは
「公孫淵=燕王」の「対魏戦略」に
「卑弥呼」は乗せられたのである。
あるいは「呉」そのものと「縁籍」であった。
そして、
『八月』、
「公孫淵=燕」は
「魏」の
「司馬懿」を将軍とする軍隊に敗北、戦死した(?)・・・
『十二月』、
「卑弥呼」は
「魏王=明帝」から詔と
「親魏倭王」としての
「金印紫綬」と
「銅鏡百枚」等をもらっている。
238年(景初2年)「女王卑弥呼」が派遣・魏へ使
240年(正始元年)「女王卑弥呼」が派遣・魏へ使
243年(正始4年)「帯方郡太守」が派遣・倭へ使
244年(正始5年)「高句麗王=位宮」敗北
245年(正始6年)「倭王」 が派遣・魏へ使
247年(正始8年)「邪馬台国」と
「狗奴国」の交戦
「卑弥呼」の死亡
「邪馬台国で男王」立つが「内乱」
「宗女・壱與」が
「十三才で女王」となる
238年から六年後、
244年に「高句麗王=位宮」も敗北した。
朝鮮半島での敗残者は何処に逃げていったのか?・・・
当然、倭へ、である・・・。
そして「卑弥呼」の「邪馬台国」は
「魏」の
「張政」に担ぎ上げられた
「壱与」に権力交替したのである。
「狗奴国との対立」や
「卑弥呼死後の男王の擁立」は怪しい・・・
すなわち、この部分に於いても
「陳寿」は
「使訳」の報告すべてが正しいわけがあるまい、と言っているのだ。
「司馬懿(シバイ)」の名前も示唆的である。
同音異字なら「芝居」で、しかも「芝居」は日本語であるから・・・。
・・・この『六月』の「卑弥呼」に対する「魏」の答えは・・・
「卑弥呼」の排除である。
243年は「宗主国」である
「魏の帯方郡太守」が
「倭へ使者」を派遣してきたのである。
その後の「壱与」の権力交替は
「帯方郡使」としての
「張政=魏」の策謀による
「淵=燕=呉」親派の「卑弥呼」の「縊殺・絞殺」、
あるいは
「溺殺」によるものである・・・。
「張政」と「壱与」の「告喩」としての
「卑弥呼」に対する侵攻は朝鮮半島、
博多「伊都」、そして長崎県の「五島列島」を根拠地にし、
「長崎」、「諌早」、「熊本・宇土・横島」と
その勢力を浸透させて「卑弥呼」を殺害したのだ。
その後、
「壱与」は「宇佐」に東遷し、
権力の基盤を「大分」に置いた。
だが、「卑弥呼」の親派勢力は
長崎「諌早」、「天草諸島」、「熊本・横島」にその勢力を有していたハズである・・・。
結論的に九州は「魏」の配下に入ったが、
「二人の女王」の勢力は
「遼東半島」、「山東半島」、
「高句麗」、「朝鮮半島」、「南韓」の亡命者、血縁者を抱え、
「太陽の烏=卑弥呼=長崎・諌早=左目=天照大御神」と、
「月の卯=壱与=大分・宇佐=右目=宇受女=豊受大神」に
分裂=磐余(イワレ)=大分(おおいた)していたのだ。
もちろん、
「中央の鼻=中津=名賀津=那賀津」は
「博多・伊都=須佐之男」であるハズだ。
その後、
「卑弥呼」の勢力は何処へ移動して行ったのか?
広島の「呉」、「吉備」、
四国の「土佐」、「紀伊」、「奈良」、山陰の「越」へ・・・
「尾張」、「美濃」へ。
「壱与」の勢力は何処へ?
四国の「愛媛=讃岐=サ貫」、「阿波」、山陰の「出雲」へ。
日本列島=「弓状の周囲」を一周しながら、
「二つの勢力」は「斑点」のように
「縄文人=蝦夷」の地へと分散、移民して行った。
特に「卑弥呼」の勢力は
「縄文人=蝦夷」と血縁的にも強く結び付いていったハズである。
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・「現存・古事記」は更にその「漢字」に「現代史」を懸け重ねた
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時代は移り、
「645年」の「大化改新」、
「663年」の「白村江の海戦」、
「672年」の「壬申の乱」である。
これらの「事件」は基本的にはすべて
「九州=南」を基盤とする「政治権力」の確執だが、注意する必要がある。
この時期の権力者は
「随書・巻八拾壱・東夷伝・(イ+妥)国」にある
「・・・姓は阿毎、字は多利思比孤、号を阿輩鶏弥・・・」、
「・・・王の妻は鶏弥、・・・太子を名づけて利歌弥多弗利リカミタフリ?・・・」、
「・・・阿蘇山がある・・・」、
「如意宝珠がある。・・・」、
「大業三年(607年)・・・夷蛮の国書は無礼だ。二度と奏聞させるな・・・」
と、記述されている所までは、
「阿蘇山」が見える九州、熊本近辺に存在しているのは明白である。
「利歌弥多弗利」は「リカミタフリ」は「里守、大府吏(李)」で、
「里香三田府李=裏上(浦上=長崎)の箕田の府里」かも・・・
ワタシは「歌の利、多(他)、振り(不離)」とヨミたいのだが。
だが、
「翌年(608年)、
煬帝は
文林郎の
裴清を(イ+妥)国に遣わした」、
「・・・また、十余国を経て海岸に達する。
筑斯国以東の諸国はすべて
・国に従属している・・・」
から最後の記述までは「奈良・大和」に関するモノであるハズだ。
何故このような記述になったかは、
この後のページをめくって検討を深めれば理解されていくだろう。
・・・二つ、「二都物語」は
「ゴカン=互換=呉漢=語幹=語感=五感=五官」されて
「ヨム」べきである、
と「古事記」の編者は「序文」で
シグナルを「点滅=天女津=転目柘=甜滅」させている。
「古事記・神代」の事件は
「645年」の「大化改新」、
「663年」の「白村江の海戦」、
「672年」の「壬申の乱」に懸けられているのだ。
その根拠は、既に前述した
「古事記」に使用されている「漢字」の「同音異字」の意味検討と、
「漢字」を構成している作りの
「部首」の「一字一音」としての
日本語「訓」みの検討、
それに関連した
中国漢籍にある「故事」の検討の結果であるのだが。
「故事つけ」と云うが、ここで云う「故事つけ」は
「日本古代史」の説明に
中国の漢籍・書籍にある「故事」をもってあてる、と云うことである。
この、「現存・古事記」に添って「故事」を調べて行くと
「現存・古事記」は学校の教科書にある
「712年」の編集年代から遥かに時代は
「前進」していくのが理解されるだろう。
また、「現存・古事記」にある
「序文」を書いた「太安萬侶」の存在も
実在した本人ではないことが理解されるに違いない。
さて、ここまで書いてきたのは、
ただ、ただ、私がこれから
展開する
「漢字」の『文字霊』を検討してもらいたいばっかりの為に他ならないからである。
このノートをめくってくれる人がいるならば、
私はその人を人生の最愛たる「恋人(LOVER)」とも思って
静かに目をつぶり、
さらに「恋人(SWEET HERT)」が
次のページをめくる「音(SOUND)」が聞こえてくるまで
耳を砥(研・磨=研磨=トギ=伽=御伽おとぎ)すましているだろう。
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