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夜宮(よみや)→本祭り→後の祭り

2021/11/29・月曜日・・・追加添加文・・・

祭りのタイコが・・・「僕は泣いちっち」・・・

テンテケテンと・・・

↓↑

浙江省

「銭塘江」の古名

  塘=「土+唐」=堤

     土+广+肀+口

       肀める(おさめる)

       肀べる(のべる)

       肀(ふで)

       イチ

       イツ

       おさめる(修める)

       のべる(述べる)

       ふで(筆)・書く

       とうとう・ついに

       自分から・自ら

       すばやい・すばやく走る

       共に

       従う

 ↓↑

 蔡

 蔡=艹+祭

   艹+月(肉)+又+ 示

 サイ

 サツ

 あくた(芥)

 くさむら(叢・草叢)

 草むら・草の乱れるさま

 ちり(塵)・ごみ(芥)・・・埖

 占いに使用する大きなカメ(甕)

 周代の国名

 蔡倫=カミの発明者

 蔡(あくた)

 蔡(くさむら)

 ↓↑

 攃=扌+蔡=摩擦・散布・preceding

 櫒=木+蔡=草木摇動音

 礤=石+蔡=きめの粗い石・粗石

 䌨=糸+蔡=五色の糸で

       模様を織り出した絹布

       混ぜる・混ぜ合わせる

 ↓↑

 祭+α

 察=宀+祭=推察・警察

 際=阝+祭=国際・水際・間際・・・䏅

 𨝋=祭+邑=𨝠

       周代(前11世紀~前256年)

邑(諸侯が統治する領地)名

周公旦の後裔

「祭公謀父(サイコウボウフ)」

が封ぜられた地

 鰶=魚+祭=秋刀魚・さんま

       このしろ(鮗・鯯・鱅)

       ニシン科の海水魚 

 瘵=疒+祭=労瘵・癆瘵

       肺浸潤・肺結核

 穄=禾+祭=くろきび(玄黍)

       ウルチキビ(粳黍) 

 憏=忄+祭=気落ちして進退が定まらない

       疑而未定・不得志

       失意的神態

㤞憏・悴憏

 傺=ィ+祭=とまる・とどまる

      侘傺(タテイ・タクサイ)

       志を失う・失意・落胆・剝落

       おちぶれる

       落魄れる・零落れる

       剝落・剥落

       転落

       窮乏・困窮

 ↓↑ 

 摖=扌+祭=磨擦・刷洗・摖破皮

挑取(挑み取る)

       挼摖・摖鬼

 暩=日+祭=光

 漈=氵+祭=みずぎわ(水際)

 磜=石+祭=粗石

 縩=糸+祭=䌨

綷縩=色鮮やかな絹織物

       衣擦れの音五色の糸で

       模様を織り出した絹布

 㗫=口+祭=詧・𧫕

       小声で話す・小さな声

𧫕=言+祭=𧭂・詧・㗫

       見たり調べたことを

事細かにそのまま話す

       小声で話す、小さな声

摖=扌+祭=推(お)す

 㡜=巾+祭=ぼろぬの

       絹布の破れて

       ぼろぼろになったもの

       絹布のぼろ

絹布の端切れ

裁断した後に残る布

同「裂」

絹布を裂(さ)く

絹布が裂ける

       かかわ・やぶれかかう

 㻮=王+祭=璨・明るい・輝く

       bright and brilliant

 䏅=耳+祭=耳際?

       聞くべき表意文字

聞くこと

CJKを聞くことの鋭い感覚

CJK=Chinese・Japanese・Korean

        の頭文字

        ユニコードの定義

        字形と文字の意味が

        似た漢字を

        同じ漢字として統合して

        CJK統合漢字コード

 𥉻=目+祭=よく見る・詳しく見て調べる

 𨢵=酉+祭=祭(まつ)る・祭祀

 䄞=ネ+祭=示す祭り?

 𨶫=門+祭=闋・𨶋・阕

   門を閉じる

   それまで続いていた物事が終わる

   最後まで行き着いて止まる

   空(から)になる・何もなくなる

   歌曲や詩歌を数える語

  ↓↑

 「陳蔡之厄(チンサイのヤク)

  旅先や道中での災難

 「陳」と「蔡」は国名

  孔子が遊説の旅の道中

  陳と蔡の国境の近くで兵に囲まれ

  身動きが取れず

  食料が尽きて苦労した故事

 なんでも「起こってから」では「モウ、遅い」である・・・「後の祭り」・・・だが「祭り前の御祓い」でのご利益も無理だろう・・・第二水俣病(だいにみなまたびょう)・・・「原発一揆」や「増税一揆」が起こらないのが不思議である・・・  幕藩体制下で「商品(貨幣)流通経済」が農村にも拡大浸透し、農産物一般、手工業生産物の「流通売買競争」が起こり、尚且つ、飢饉、自然災害での「百姓間」、「各家族間」の生活格差、「各村地域」の生活格差が進行した。  「現金」があれば「生活出来る時代」とは「商売の時代」である。「カネを交換媒体」にした「モノ(商品)のヤリトリの時代」である。地方農村も「百姓」を見限って「都会」で、「地域」で、「商売」で儲かって生活できるなら「商人(アキンド)」になろうとするのは当然である。  兎に角、農村から「都会」へ出てきたのは農家では食えなくなった人間である。都会は物が集積する支配階級の集中する政治的、且つ消費地である。危険な肉体労働、雑用、物売り直売、乞食、盗人、芸人、詐欺師、売春、飲み屋、用心棒でも、殆んどの「労働」と「衣食住」が「金銭決済の地帯」である。職にありついて「生活費以外の余ったカネ」が貯まれば「金貸し」になるのも当然である。焦げ付きもあるが「売れる物」があれば、また、何とかなる・・・  売れる物を都会で売る・・・地方の「生産物の特産化」と、その売買の競争価格である。その「特産物」のヤリトリで「農村」は「商業・手工業」の町になっていった・・・穀物農産物以外の「殖産興業」とは当初は「過酷な税金(年貢収奪)」がカカラない「百姓」の「内職現金収入」であったのだ。「本職」で食えないから「アルバイト」である。「本職」よりも「アルバイト」の現金収入が多ければ、当然、アルバイトを専門職として「転職」である。だが、コレにも「税金」をかけ、「藩財政」の赤字を埋めようとする「支配者=非生産者=搾取者」の思惑であった・・・「藩政改革を成功させた人物」などと「賞賛評価」をする「伝記物」、「歴史人名辞典」もある。最近は「江戸時代の町人生活」があたかもよかったかのようなTVの教養風番組でもあったが、「町人」もピンからキリである。底辺は「農村」では食えなくなったハミ出したヒトビトである。  当時の「穀物生産以外」での「殖産興業」は「支配階級の赤字と税収」を上げるため「百姓」に「農業以外の副業」にもその負担を強制したモノである・・・穀物農産物以外にも「売買するモノ」には税金、課徴金で搾り取ろう、である・・・「藩政の殖産興業」、結果、それが成功して全体的にその地域に居住する人々もその余禄に預かったハズだが「儲かったカネ」の殆んどは「支配者の懐」へ、である・・・  江戸時代の「百姓一揆」は「封建体制の枠内」での「生産者」が「生産物」を食えなくなると言う「インフレ」状況の打開のアッピールの実力行使、「打ちこわし暴動」であるが、首謀者の「命がけの覚悟」は勿論、それに参加した人々の「一揆側の規律」には「略奪・殺傷」をしないと言う「倫理・道徳」、その参加者の「掟違反」、「遵守違反」に対しては厳しいモノがあったので・・・「DJポリス」は要らなかったし、食えなかった警備の「下級武士」も心情は同じだった?・・・そして、その「目的」・・・自らの「政治体制の構築」を考えず、ひたすら「領主・権力者」との「収奪・搾取」軽減を前提にした「妥協」であった・・・だから「領主・権力者」が一時、妥協を見せればおさまって凋(しぼ)んでしまい、そしてまた、「元の木阿弥」状態に戻っていったのである・・・  「民主主義の代議員制度」で「代表者を選ぶ権利はアタリマエの意識」だが、同時に「収奪されるのもアタリマエの意識」は、今現在も・・・「権力を握った者」に「カネの配分」のオネガイである・・・  「事件」が起こっても「訴えねば動かない司法検察警察」である・・・「法律」の殆んどが「後の祭り」で、その決着も「カネ」である・・・「再発防止に極力努力いたします」・・・水俣、原発事故は「人間の命」を危険に晒した「刑事事件」でもある・・・

ーーーーー  枕草子  (一二五段)・・・百二十五段・壱佰弐拾五段・壱弐五段・陌念伍段           1+2+5=8=八=捌           1×2×5=10=十=壱拾=足  こころづき・・・気に入ること・心にかなうこと  なきもの・・・・名基模之  祭、・・・・・・まつり・真通理  御禊・・・・・・みそぎ・・・視削ぐ・実削ぐ・身殺ぐ          おはらい・・於葉等意          ゴケイ          天皇の即位後、          大嘗会(だいじょうえ)の          前月に賀茂川の河原などで行う          みそぎの儀式          江戸時代は御所内で行われた          斎宮・斎院などが祭りの前や          卜定(ぼくじょう)のあとに、          賀茂川で行うみそぎ           ↓          ゴケイ・語形・語系・互恵・誤計          オンケイ・音形・恩恵 ーー↓枕草子  など、・・・  すべて・・・  男の・・・・・・音拠  見る・・・  物見・・・・・・ものみ          ブッケン・物権・物件          仏兼・仏(国)憲・仏見  車に、・・・・・くるま・句留真爾  ただ・・・  一人・・・・・・ひとり・比取り  乘りて・・・・・のりて・法出・則出・矩出  見る・・・  人・・・・・・・比渡・比都・比賭  こそ・・・  あれ。・・・  いかなる・・・  人にか・・・  あらん。・・・  やんごと・・・「止む・已む・病む・埜務」語賭  ながらず・・・長柄図(北斗七星図)・乍事 ーー↓ーーーーー↓         長良川(ながらがわ)         岐阜県郡上市の大日ヶ岳に源を発し、         三重県を経て         揖斐川と合流し、         伊勢湾に注ぐ         木曽川水系の河川         濃尾平野を流れる木曽三川のひとつ         下流の一部は愛知県にも面し、         岐阜県との県境を成す         長良図          ↓         長良型軽巡洋艦         大日本帝国海軍の         軽巡洋艦         同型艦は6隻         長良型の一番艦のネームシップ         長良川より名称が取られた         着工は1920年9月9日         進水は1922年4月25日         球磨型軽巡洋艦の改良型         主要寸法を同一の高速軽巡洋艦         本型では滑走台方式の発艦装置を装備         八四艦隊計画で         「長良」         「五十鈴」         「名取」の三隻         八六艦隊計画で         「由良」         「鬼怒」         「阿武隈」         が建造され、設計は同一         「阿武隈」を除く5隻と         「夕張」は、         1842年から1944年にかけて老朽化         に伴い第一線での運用から外される見込みとなり、         代艦として         阿賀野型四隻と         大淀型二隻が建造されることとなった         大日本帝国海軍の軽巡洋艦           ↓         天龍型  天龍・龍田         球磨型  球磨・多摩・北上・ 大井・木曾         長良型  長良・五十鈴・名取・由良・鬼怒・阿武隈         川内型  川内・神通・那珂         夕張型  夕張         最上型  最上・三隈・鈴谷・熊野         阿賀野型 阿賀野・能代・矢矧・酒匂         大淀型  大淀    ・・・ナゼか「河川の地名」・・・その意図は?   阿賀野川(あがのがわ)は福島県・群馬県に源流を持ち、新潟県を流れ   日本海に注ぐ川である。   阿賀野川水系としての   本流指定部分は   ーー↓   一級河川   阿賀野川と    ↓   阿賀野川水系   阿賀川本流に   日橋川流域、   只見川流域の三水域が   福島県   喜多方市付近で合流、   阿賀野川ラインを形成して新潟県に入る。   --↓   一級河川   阿賀川(あががわ)であり、   全長は 210 km で日本第10位、   流域面積 7,710 km² で日本第8位。   下流部の河川水流量は日本最大級の一級水系    ↓   荒海川   阿賀野川水系   最上流部の川で分類は普通河川   阿賀野川水系の本流(本川)指定は受けていないが、   水面が連続する川としては   阿賀野川水系本流の最上流部   福島県と栃木県の県境付近、   荒海山(太郎岳、1,581 m)   北面から流れ出る多数ある沢と共に   阿賀川へ流れ込んでいる    ↓   阿賀川   荒海川に続くのが阿賀川(又は大川)   国から阿賀野川と共に   阿賀野川水系の本流(本川)指定   会津西街道(下野街道)に沿って北上し、   裏磐梯湖沼群・猪苗代湖を源流とする   日橋川と喜多方市塩川町会知付近で合流し、   西へ向きを変える。   さらに福島・群馬県との境にある   尾瀬沼及び越後山脈にある尾瀬ヶ原の   川上川を源流とする   只見川と   喜多方市山都町三津合付近で合流し   新潟県境まで流れる。    ↓   福島県典事   中条昌恒は安積台地の開発を図るため   1873年(明治五年)に大槻原開拓を開始   拠点として   1874年(明治六年)に   「開成館」を設立   内務卿   大久保利通は   安積原野の用水供給を図るべく   阿賀野川の上流に位置する   猪苗代湖からの分水が技術的に可能かどうかを調査   オランダより招聘された   ファン・ドールンに用水の実施計画調査を   1878年(明治十一年)に命じた   1879年(明治十二年)に疏水開削起工式を挙行   国直轄の農業水利事業、   安積疏水事業の開始である   猪苗代湖より流出する唯一の河川   日橋川の吐き口で、古くより交通・軍事の要衝であった   戸の口、十六橋付近(会津若松市戸の口)に   十六橋水門を建設   猪苗代湖をダム化し、   耶麻郡猪苗代町上戸に取水口を設置して   阿武隈川に繋がる支流、   五百川へ分水界を跨いだ流路変更を行った   分水路延長 78 km の水路を   安積原野に張り巡らせて灌漑    ↓  「日本三大疏水」   安積疏水   栃木県の那須疏水(那珂川)   京都府の琵琶湖疏水(京都疏水。淀川) ーー  ・・・治水工事・・・灌漑、用水路、干拓農業・・・古代から「支配者」の「食糧」を確保する重要課題とその計画、実行であった・・・明治時代は大胆で急進的な「文明・文化」の推進だった・・・  第二水俣病(だいにみなまたびょう)  昭和電工の廃液によって引き起こされた  1965年(昭和四十年)に確認された  四大公害病の一  熊本県の水俣病と同様の症状  新潟県  阿賀野川下流域で患者が発生  「新潟水俣病」、  「阿賀野川有機水銀中毒」  1964年(昭和三十九年)  阿賀野川流域に原因不明の中枢神経疾患患者が多発  症状が熊本県水俣市を中心に発生した水俣病に酷似  科学技術庁が1964年~1967年(昭和四十二年)  三年間、原因の究明を行った  1968年(昭和四十三年)  政府はこの水俣病様疾患の原因を  「昭和電工鹿瀬工場より排出されたメチル水銀による有機水銀中毒」  と発表  猛毒メチル水銀  工場はこのメチル水銀を含む  工場廃水を処理せず  阿賀野川に垂れ流していた  1970年(昭和45年)  報告患者数は49人  新潟水俣病認定患者は690人  阿賀野川の水銀汚染により、  鹿瀬より下流部における魚介類の摂取は全面禁止  1976年(昭和五十一年)  阿賀野川下流部の汚泥を浚渫によって除去する工事を開始  「阿賀野川水銀汚染総合調査」が開始され  その後も継続的な調査が継続  阿賀野川における水銀濃度は  環境省の定める基準値(0.0005 mg/L 以下)を下回っており、  水銀による汚染は収束されている・・・?  ・・・「水銀マグロ」が増えたよな・・・トロを美味しいと食べている日本人・・・その前は「原爆マグロ」で、これからは「原発マグロ」だろう・・・「養殖マグロ」・・・どっちにしても「大地自体」、「河川、海洋事態」が「放射能汚染」されてしまえば、「原発汚染の衣食住」である・・・ ーー↓枕草子          とも、・・・  わかき・・・  男どもの・・  物・・・・・・  ゆかしと・・・  思ひ・・・  たる・・・  など・・・、  引き・・・  のせて・・・  見よ・・・  かし。・・・  すき・・・  かげに・・・  唯・・・  一人・・・  かが・・・・・加賀・化臥・「カ・ガ」のスベテ  よひて、・・・酔い手        「好い・良い・善い・余威」出        「ヨ意出」・・・「ヨ」のスベテ  心ひとつに・・・  まもり・・・  居たらんよ、・・・  いか・・・・・・・  ばかり・・・  心せばく、・・・度量が狭い・他を受け入れられない          施葉句・世暴  け・・・  にくき・・・  ならん・・・  とぞ・・・  覺ゆる。・・・ ーーーーー  ・・・

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