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女尊男卑⇔男尊女卑・・・煽ってダレが嗤(わら)う?

2022/10/24・月曜日・・・追加添文・・・

朝からアメがチョボチョボ・・・

寒い・・・右が腰痛で治る気配なし・・・

それでも食欲だけはある・・・そしてトイレ・・・

で・・・椅子に座るとボケだから・・・

また同じことをヤりだす・・・

ムシムシむし・・・

古事記字源  女尊男卑⇔男尊女卑・・・煽ってダレが嗤(わら)う?  ・・・クッソ、ッ!・・・「苦痛の便秘」のアトは「切れ痔」・・・  「罵詈雑言」が無意識にでる・・・己自身の仕業に罵るトイレかな・・・  ダイアン・・・「共謀罪で終身刑」・・・アレって・・・大葉交芸当?  ボクはトイレの執心(Obsession)経・・・I have set my heart on the ウン・・・?  トイレでの「ウン」との斗(闘)い・・・  ・・・「たたかう=鬭=闘=鬪=鬦=閗」・・・「破瓜」・・・?  2月の7日(日曜日)・・・  「グッド・ファイト」で「ルッカ」の出産場面でも「罵詈雑言」の大合唱・・・  「お母さん」も、「赤ちゃん」も・・・やったネッ  出生、出産、おめでとう!!・・・くっそ、ッ・・・   It is embarrassing to show    my affection    and hatred for you.  ↓↑  「切れ字(や・かな・けり・なり・ぞ・がも)=終止の助詞、助動詞字」・・・   切れ字事十八(一八)  「かな・けり・もがな・らん   し・ぞ・か   よ・せ・や   つ・れ   ぬ・ず・に   へ・け・じ」・・・ウタのキレジ・・・?

 「アマゾーン(Ἀμαζών、Amazōn、複数形 Ἀμαζόνες、Amazones)」  ギリシア神話に登場する女性だけの部族・・・?  「ピンダロス」などに  「アマゾニス(Ἀμαζονίς、Amazonis)」の別形  日本語漢字で  「アマゾン(亜馬森)」と記録され   Amazon・・・海女尊(僔・孫・蹲・鐏)  この語は地名に使われ  「アマゾネス」が部族名として使用  フランス 語 アマゾーヌ(Amazones)  ポルトガル語 アマゾナス(Amazonas)  スペイン 語 アマソナス(Amazonas)  ↓↑  軍神  アレース・・・稗田阿礼の素?  と  ニュンペー・・・瞤(ニュン)=目+閏            異体字「𥆧 ・瞬・𥋃・𥌎・𥆧」            シュン・ジュン・ニュン・ゼン・ネン            まじろぐ・まばたく          箆(ぺ)=竹+内+比・・・竹内宿禰を比較する?               ヘラ               薄く扁平になった道具の総称               スパチュラ・スパチュール               スパーテル          篦=竹+囟+比            竹+丿+龱+比            竹+丿+囗+㐅+比            ヘイ・ぺ            へら・の・すきぐし・かんざし            異体字「箆」            へら・竹片を薄くけずったもの            の・矢がら・矢竹            くし・すきぐし(梳き櫛)            かんざし(簪・笄・兂・鈿)・・・金指          屁=尸+比(上牝・上匕首)・・・?            へ            おなら・・・於奈良?            ガス・失気・転失気(テンシキ)                槇・顛・転・典 史記            の  「ハルモニアー」・・・葉留(張る・貼る・波留・春)?             摸似(爾・尼)嗚呼?  を祖とする部族  ↓↑  ギリシア北方の  カウカソス・・・カ・ウカ・ソス(祖素)?          蚊・羽化(うか)=幼虫から成虫になる            孵化(ふか)=卵から幼虫になる  トラーキア=トラキア        図羅起亜?        寅 起亜?        虎 記蛙(丫・倦・鴉・婀)・・・        虎に羽根=大海人皇子=天武天皇        書紀(720)        天武即位前       「壬午に、吉野宮に入りたまふ        ・・・或の曰はく        虎に翼を著(つ)けて放てりといふ       (韓非子‐難勢)」・・・韓は非子(子に非ず)?  黒海沿岸に居住  「黒海=アマゾン海」  と呼ばれていた時期がある  「アマゾーン」は黒海沿岸の他  アナトリア(小アジア)  北アフリカ

 ↓↑ ↓↑    エジプト    カイロ    ギーザ    アレクサンドリア    リビア    トリポリ    ベンガジ    チュニジア    チュニス    アルジェリア    アルジェ    モロッコ    ラバト    カサブランカ    スーダン    ハルツーム    オムドゥルマン  ↓↑  に住んでいた  母系部族  イラン系  遊牧民族スキタイでは  女性の地位が高く  女性も戦う訓練を積んでいた  「スキタイ」を滅ぼした  遊牧民族  「サルマタイ」にも  女性の戦士がおり  処女のうちは戦士として  馬に乗って弓や投げ槍で戦い  敵を3人討ち取ると結婚して  家庭に入った・・・  「ヒポクラテス」が記録  ↓↑  サルマタイ  (ギリシア語:Sarmatai   ラテン 語:Sarmatae   英   語:Sarmatians)  紀元前4世紀~紀元後4世紀  ウラル南部~黒海北岸  イラン系遊牧民集団  紀元前7世紀末  ウラル南部にいた  サウロマタイに  紀元前4世紀頃東方から  移動してきた遊牧民が加わって形成された  サルマタイはギリシア語  サルマタエはラテン語  彼らのいた黒海北岸地域を  その名にちなんで  サルマティアと呼び  サルマティア人  とも呼ばれる  ↓↑  シラキ(シラケス)・・・ドン川の東方地域  ↓↑  軍神  アレース  と  ニュンペーの  「ハルモニアー」  を祖とする部族  ギリシア北方の  カウカソス  スキュティア  トラーキア  黒海沿岸に居住  「黒海=アマゾン海」  と呼ばれていた時期がある  「アマゾーン」は黒海沿岸の他  アナトリア(小アジア)  北アフリカに住んでいた  母系部族  イラン系  遊牧民族スキタイでは  女性の地位が高く  女性も戦う訓練を積んでいた  「スキタイ」を滅ぼした  遊牧民族  「サルマタイ」にも  女性の戦士がおり  処女のうちは戦士として  馬に乗って弓や投げ槍で戦い  敵を3人討ち取ると結婚して  家庭に入った・・・  「ヒポクラテス」が記録  ↓↑  扶余(Fūyu・扶餘)  満州南部から発し  紀元前4世紀~494年  中国東北部  朝鮮半島東北部にあった民族  夫余=百済の王族名  ↓↑  夫余(ふよ・扶餘)        扶=扌+夫(二人)・・・扶養家族?         餘=餘=食+余・・・           ヨ           あます・・・アマす・・・阿毎州           あまる・・・アマる・・・海部留           ほか           残す・残る           残り・残ったもの           ほか・そのほか・それ以外           中国東北部(満州)に           かつて存在した民族           扶余(扶餘)           箕子朝鮮・・・箕子=きし=岸・吉士・貴志           東胡           濊貊           沃沮           粛慎           燕           遼西郡           遼東郡           秦           遼西郡           ↓↑           扶余市           吉林省松原市  ↓↑        ↓↑           扶余県           古代に存在した扶余の故地           扶余県           松花江の東岸に位置           松花江水系の要衝           金代           元代に  「肇州」・・・肇=はじめ         崇神天皇         第十代天皇         御間城入彦五十瓊殖天皇         諱 御間城尊         御「肇國」天皇         御眞木入日子印恵命         所知初國御眞木天皇         美萬貴天皇        「御肇国」天皇        (はつくにしらすすめらみこと)        「所知初國御眞木天皇        (はつくにしらししみまきの                 すめらみこと)  に属した  明代に  三岔河衛に属し  後に  モンゴル人に占領された  ↓↑  清初  伯都納站が設置  康熙年間  南に新城が築かれ  新城と称され  清末の  光緒年間  新城府が設置されその管轄とされた  中華民国  1913年(民国二年)  新城県が設置  翌年  扶余県と改称  1987年  県級市の  扶余市  1992年6月  地級市の  松原市が新設され  扶余区と改編  1995年  再び扶余県に改編  2013年1月24日  再び県級市の  扶余市に昇格

 ↓↑  女真(女眞)・・・女優・女酋・女将・・・扶余?  ・・・序審・・・「コジキ序文の審査」?     广(マダレ)+予(マ了・アマ)+宀+釆(采)+田     广(マダレ)+予(マ了・アマ)+亠+乂  ↓↑  ↓↑  ・・・靺鞨(マッカツ)      靺=革+末・・・革=廿+中+十                貳(貮)拾・中・足                     中臣鎌足        革+一+木        革+一+十+八        バツ        マツ        かわたび(革足袋)        かわたび・革製の靴下(くつした)        ・・・なんで、「革命」なのか・・・?        revolution(レボリューション)       「回転する=ラテン語・revolutio」        天体の回転運動        1543年        ニコラウス・コペルニクス        地動説の論文       「天球の回転について」出版       「回転(Revolution)」       「産業革命=蒸気機関で車輪・歯車を回す」        the Industrial Revolution        革=生皮を鞣(なめ)したモノ        易姓革命=易姓革命・・・姓=女+生                    女から生まれたモノを                    鞣(なめ)した命のように                    易(やさ)しくする?                    黽(かえる)=蛙        易 姓=ある姓の天子の王朝を廃止し           別の姓の者が交替して           天子の位につくこと・・・           「血統」ではなく           「姓名」の交替・・・です?           「革命(天命で不徳=フトク=婦徳を革める)」?           「女王」も「男王」も           「女の秩序」で動く・・・?      鞨=革+曷        革+日(曰)+匂        革+日(曰)+匃        革+日(曰)+勹+匕        革+日(曰)+勹+亾        革+日(曰)+勹+乚+人              匕=亾        ↓↑        カツ        かわぐつ        くつ(靴・沓・履)        革製のくつ        ↓↑        曷        カツ        なに・なんぞ・いずくんぞ・いつ        どうして・いつ        疑問・反語       「曷若(いかん)」       「曷為(なんすれぞ)」        曷の        異体字「愒・𢢚」

 ↓↑  男尊・・・尊=みこと・・・尊王攘夷         ソン         たっとい・とうとい         たっとぶ⇔辰跳ぶ         とうとぶ⇔等人部 尊=酋+寸         八+酉+寸         丷+酉+寸         尊=たる=樽⇔たり=足=十         八=捌=丷  女卑・・・卑=いやしい・・卑女・卑下      高卑 (コウヒ)       卑官(ヒカン)       卑怯(ヒキョウ)       卑劣(ヒレツ)       卑俗(ヒゾク)       卑近(ヒキン)       卑屈(ヒクツ)       卑諛(ヒユ)=へつらって調子をあわせる              ご機嫌取り       卑賤(ヒセン)       卑見(ヒケン)       卑下(ヒゲ)       卑猥(ヒワイ)       卑鄙(ヒヒ)        ・・・鄙=啚+邑(阝)             ヒ             ひな・ひなびる             都市部から離れた地             いなか            「都鄙・辺鄙」             いなかっぽい・ひなびている             つまらなく卑しい            「鄙語・鄙俗・鄙劣             鄙陋(ヒロウ)・鄙猥(ヒワイ)             野鄙」            「鄙=啚+邑(阝)」             「啚」は米倉の象形文字・・・?           「米倉の在る 邑(ユウ・むら)」            「いなか=田舎」

ーー↓↑ーー   啚=口+㐭     口+亠+回     異体字「𠴿・圖・鄙・図」   ↓↑ ↓↑   圖=図   啚=斗・・・斗=北斗七星の柄杓・御玉杓子         啚=水筒の容器の形象?           口・蓋(亠・ふた)・回(囬=囗の井戸)   圖=囗+口+亠+回     絵画・描く・書物     はかりごと・はかる     求める     領土・地図     計画・考え・企てる     度と通じ「規則」  ↓↑  圖=図⇔地図=輿・図画  ↓↑  𡇴=囗+止+𧘇・・・(玉篇)古文  𡈖=囗+止+イイ+彡(集韻)古文  𠚎=口+凵+井(篇海)異体字  𡈇=囗+ム+冂+井(竜龕手鑑)異体字  圗=囗+ム+十+    囗+ム+ナ+囬(正字通)俗字    囬=異体字「囜・囬・佪・𢌞」=回    回=旧字「囘」      カイ(クヮイ)     (漢・呉)エ(ヱ)      まわる・まわす・めぐる・かえる  𡇫=囗+夂(夊)+灬(漢語大辞典・異体字表)            (篇韻)に従と同音  图=囗+夂+冫 ーーーーー  輿=⺽+車+一+八=轝=與+車    ヨ    おおい    くるま    こし    のせる    多くの・大勢・もろもろ    人やものを乗せてかつぐ乗り物    人やものをのせる    のせて運ぶ・かつぐ    万物をのせる台    大地=坤輿(コンヨ)    物事のはじまり    めしつかい    地位の低い人・下僕    輿(おお)い    輿(くるま)    輿(こし)    輿(のせ)る    輿入れ=嫁入り・嫁ぐ        婚姻の日に        嫁を乗せた輿を        婿の家に入れたことから    輿地=地球・全世界       万物を輿(こし)のように       のせる大地の意       「万國輿地山海圖説」       「萬國地球輿地全圖」       「地球萬國山海輿地全圖 」       「万國輿地全図」       「新鐫総界全図        日本辺界略図        新製輿地全図」    輿望=世間からの信頼・期待・衆望    輿論=世論・世間一般の考えや意見    御神輿(おみこし)    権輿(ケンヨ) ーーーーーー↓↑ーー       卑陋(ヒロウ)=品性・言動などがいやしい               見識などが浅はか       卑猥(ヒワイ)      野卑 (ヤヒ)      自卑 (ジヒ)      謙卑 (ケンピ)      高卑 (コウヒ)    不亢不卑 (フコウフヒ・bu kang bu bēi)          横柄にも謙虚でもなく          昂ぶらず卑屈にならず          昂ぶらず遜(へりくだ)らず          傲慢でもなく卑屈でもない態度       卑語(ヒゴ)      尊卑 (ソンピ)      鮮卑 (センピ)       卑湿(ヒシツ)         高原の陸地には蓮華を生せず         卑湿の淤泥に乃ち此の華を生ずる         (維摩経)  ↓↑  卑=鄙(の代用字)    象形    柄杓又は柄杓状の酒器を手で持つ様   「椑」の原字    ・・・北斗七星=大熊座のお尻~尻尾       大熊=大隈=大隅        熊=球磨=熊本=肥後・・・?   「柄杓」や「酒器」    で雑事を処理することから    身分が   「ひくい・いやしい」事と概念された    大型同型の酒器を   「卓」と言い    対比で小型を   「卑」  意義  (汎用的に)ひくい  卑位、卑近、卑湿、卑小、卑賤、卑微、高卑  態度がひくい  遜ったり、媚び諂ったりする  謙卑、卑屈  「粗にして野だが卑ではない」  いやしい・身分がひくい  卑官  いやしい・道徳や品格がひくい  卑怯、卑語、卑俗、卑劣、卑猥、野卑  ひくめる・いやしめる  ↓↑  卑金属(base metal)  空気中に放置すると酸化しやすい  水分や二酸化炭素などによって  容易に侵食される金属  ↓↑  卑属親=親等上      自分より後の世代に属する親族      直系卑属      子・孫など自分より後の世代で      直通する系統の親族  ↓↑  卑罵語=さげすんだり      罵(ののし)ったりしていう      罵詈語(バリゴ)・軽蔑語      罵詈雑言  ↓↑  卑弥呼=卑彌呼(ひみこ)・・・ひびこ      「邪馬臺」国の女王  卑弥弓呼=卑彌弓呼(ひみここ)・・・ひみきゅうこ       卑=甶(囟)+⸍+十         ⸍+田+⸍+十      「狗奴」国の男王       卑彌弓呼素      (ひめくこそ       ひみキュウかソ       ヒビキュウカソ)       彌(ビ・ミ・や・いよいよ)=弓+爾(ジ・ニ・なんじ・その)       弓=キュウ・ゆみ       呼(コ・ク・よぶ)=口+乎(コ・オ・か・や)       卑弥呼と不仲       247年(魏暦の正始八年)       戦争       ↓↑       爾=ジ・ ニ         なんじ・その         おまえ・二人称の代名詞        「爾汝(ジジョ)」        [類]汝(ジョ)         その・それ・この・これ        「爾後」「爾余」「爾来」         しかり・そのとおりである・そのように・         修飾語に添える助字        「確爾」「莞爾(カンジ)」         のみ・だけ・限定・断定の助字         [類]耳(ジ・のみ・みみ)         状態を示す助字        「莞爾 (カンジ) ・卒爾・徒爾」  ↓↑  下卑助(げびすけ)      意地汚い下品な者を      嘲(あざけ)っていう語      嘲笑  官尊民卑  女尊男卑  尊卑分脈(尊卑分脉)     ・・・脈=脉          脉=衇          衇=血+𠂢          脉=䘑=𧖴=脈      ⺁+𧘇=𠂢=永    「日本の初期」の系図集・・・?  「新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集」   著者「藤原公定 撰」   永和三年(1377年)   ~   応永二年(1395年)   公定死後も   養子 満季   孫  実煕ら洞院家の人によって   編集・改変・訂正・追加   室町時代以降   広く増補改訂され   異本多   30巻本・20巻本・14巻本   が流布   実在が疑わしい人物の記載   人物の年代がおかしい記録部分    「日本書紀」=本文三十巻+系図一巻  ↓↑  直系卑属  傍系卑属  ↓↑  卑  異体字「𤰞・𡮁・𡭼・䠋」 ーーーーー  北斗七星(Big・Dipper,・Plough)  おおぐま座の腰から尻尾を構成する  7つの明るい恒星で象られる星列  北斗、北斗星、七つ星、七曜星  柄杓形で「斗」  ↓↑  北斗七星  おおぐま座の一部で  熊の腰からしっぽに当たる部分  ↓↑  北斗七星=Big・Dipper      =「掬(すく)うもの・匙」       「柄杓=お玉・斗」  斗  ト  トウ  ひしゃく  ます  水や酒などをすくうための道具  液体や穀物の量をはかる桝(ます)  容量の単位=一斗=十升  周代では約一・九四リットル  日本では約十八リットル  星座の名=南斗・北斗  ちいさい・すくない・わずか  たちまち・にわかに・急に  ↓↑  擬闘・擬斗(ギトウ)劇  などの格闘演技  その演技指導者  ↓↑  漏斗(ロウト・じょうご)・・・冗語・畳語・上合・上戸?  小さい口の容器に  液体を入れるための道具  頂点部分が筒状の円錐形で  筒状の部分を容器の口に入れ  底部分に液体を注ぐ  泰斗(タイト)・・・・対譯?  人々から尊敬される  その道の大家や権威者  「泰山北斗」の略  ↓↑  斗酒(トシュ)  一斗(約十八リットル)の多量の酒・大酒  斗ます・斗枡(とます)  一斗(約十八リットル)をはかる枡  ↓↑  一斗百篇(いっとひゃっぺん)  酒をたくさん飲んで    たくさんの詩を書くこと  李白は、一斗の酒を飲んでいる間に  詩を百篇作った  ↓↑  鴻門玉斗(コウモンギョクト)  劉邦が、鴻門の会で  楚の項羽の家臣の  范増に贈った  翡翠でできた柄杓  項羽の家臣、范増は  項羽に劉邦を殺すように進言したが  項羽は劉邦を討ちもらし  范増は、激怒して悔しがり  劉邦から贈られた  翡翠柄杓を剣で打ち砕いたという故事  ↓↑  子建八斗(シケンハット)  優れた才能を激賞した言葉  「子建」=魏の「曹植」の字(あざな)  「八斗」=量の単位・十斗で一石   宗の謝霊運が  「天下が一石の才とするならば   曹植の詩の才は八斗を得る」と激賞した故事  ↓↑  尺布斗粟(シャクフトゾク)  兄弟の仲が悪いこと  「尺布」=一尺の布・少しの衣服のたとえ  「斗粟」=一斗の粟・少しの食べ物のたとえ  淮南王と文帝は腹違いの兄弟  文帝はおごり昂って  淮南王に王位を奪われ流罪  流罪の道中で文帝は悶え苦しみ  食を断って死んだ  一尺の布でも一斗の粟でも分け合えば  互いに寒さと飢えをしのげるのに  何故仲良くできなかったのかと  歌った  ↓↑  車載斗量(シャサイトリョウ)  量や数が多すぎて  全てを量ることができないこと  車に載せて、ますで量るほど多い  ↓↑  泰山北斗  学問や芸術などの  一つの分野で最もすぐれている人  「泰山」=名高い山  「北斗」=北斗七星  どちらも人が仰ぎ、見上げるもの  「泰斗」  ↓↑  五斗米のために腰を折る  わずかな俸禄を得るために  人の機嫌をとってぺこぺこ頭を下げること  陶淵明が  上役が視察に来るので  礼服を着るよう求められ  嫌だと言って断った  ↓↑  胆斗の如し  肝が据わっていること  胆の大きさが一斗の枡ほどあるとの意  ↓↑  斗酒なお辞せず  一斗の量の酒を勧められ  平気で飲み干す  ↓↑  熨斗を付ける  人に物を喜んで進呈する  ↓↑  α+斗  𠒚・𠒡・𡗴・㖍・𡯏・𡰷・㘰・𢗸・㞳・𣁭  𣁮・𣁯・𣁰・𣁱・𣁲・𣁳・𣁴・𣁵・𣁶・𣁷  𣁸・𣁹・𣁺・𣁻・𣁼・𣁽・𣁾・𣁿・𣂀・𣂁  𣂂・𣂃・𣂄・𣂅・𣂆・𣂇・𣂈・𣂉・𣂊・𣂌  𣂍・𣂎・𣂏・𣂐・𣃜・𣬯・𣷊・𤓺・㪲・㪳  𥁇・𥐿・㳆・𦆫・𦙒・𦮜・㸯・㺶・𧏆・𧘞  𧠕・𧴼・𧺯・𧿫・䀞・𨋼・䇆・𩑯・𩫄・𩰮  𩵬・𩿚・𪌉・𪖘・𪚛・𪞒・䚵・䢏・乧・呌  𪯬・𪯫・𪰍・𫁵・𫔯・𫖗・戽・抖・𪯭・𪯮  斗・斘・料・斚・斛・斜・斝・斞・斟・斠  斡・斢・斣・枓・炓・科・紏・蚪・酙・鈄  㪴・㪵・㪶・㪷・㪸・㪹・㪺・㪻・𤯘・𤾍  閗・阧・鬦・魁・﨣 ーーーーー  ・・・???・・・未詳・不詳のカンジ・・・多・・・   闘=異体字「鬪(旧字体・俗字)・鬭(旧字体・正字)        鬥(繁体字)        斗(簡体字)」       「鬪」の略字体       「鬭=鬥+斲          丨+王+王+亅+卯+亞+斤       闘=鬪=鬦=閗       鬪=鬥+豆+寸          鬪⇔鬥+尌(十豆寸)           ・・・鼓(つづみ・太鼓・太皷)          尌=壴+寸            十+一+口+䒑(丷一)+寸            豆=高坏(たかつき)・燭台            寸=手            異体字「樹・駐」・・・異体字が樹木・駐屯?            シュ・ジュ・チュ・ジウ・ジュウ            たてる(立)・たつ            わらは・しもべ(僕)            わらわ(妾)       鬭=鬥+卯+亞+斤          卯=真っ二つに叩き割る          斤=斧   「斗」は「α(有る葉)」を「はかる」か、      「たたかう=鬭=闘=鬪=鬦=閗」か・・・?       はかる=図る・測る・計る・量る・諮る・謀る・恕・・・       破瓜留・墓留・・・葉化留・・・莫迦留・・・?  コジキ姫「壱与」・・・「壹與」  カンジて赤い絨毯にのり  空をカケメグル   「古事記・字源」物語 http://web.archive.org/web/20090409083704/http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/hime/hime77.htm

古事記字源  オンナ次第か、オトコ次第か・・・仕切る組織、領域の管理運営権・・・  「軍隊蟻の社会分業」・・・「女王蟻」は常時、妊娠と出産で多忙・・・   身体が大きくて自身の身動きには「御付きのアリ」の援けが必要だ・・・   兵隊蟻の分業は士官、下士官、工兵、兵卒とハッキリして、   上下の伝達命令を仕切り、  そして守る部署の蟻の体格と有する武器になる歯や手足などが  異なっている管理社会組織である・・・   病気も伝染病みたいに蔓延するが、罹患の蟻は・・・組織から排除される・・・   ・・・以前、マングースの生態記録をTVで観たけれど・・・   ・・・「島」を維持防衛するタメの他組織との生存競争の戦いは      「人間のヤクザ映画の組織間闘争」に似ていた・・・      「人間の国家間戦争の映画」にも似ていた・・・  ↓↑  新しく渡り、戸数は稲作りする・・・新渡戸 稲造・・・  ↓↑  「アダム(亜當)とイブ(夏娃)」の時代から地球はダレのモノか・・・       亜=亞    夏=𦣻+夂                𦣻=一+自                ・・・初(始・肇・元・哉)め                   の己(おのれ=私・我・僕・儂                   妾=わちき=和知紀・わらは=和羅派?                     和地記?                   余=よ)・・・扶余・扶餘?                百の古字(古文)=一+白                シュウ                異体字「百・首」・・・百済の首領?       當=当    娃=女+圭

 「亜當(アダム)」と「夏娃(イヴ)」  「亜當(アダム)→あまねし・あまねく+あてる=当」   アトウ→あとう→阿東・安東・阿藤・阿刀・与・與・能  「あまねし=天音詞」で  「あまねく=遍く・普く」→普遍   あま(天・海女・海部・海士・海人・亜麻・尼)    +    ね(音・禰・祢・値・根・子)    +    く(求・九・玖・紅・宮・孔・区・句・矩      供      琥・狗・駒・貢・庫・躯・垢・功・工      苦)」    を  「当(當)てる」である・・・

 無花果=いちじく

    =位置(位地・市・移置・伊地・仲地

        逸・一・壱・壹)

     字句

     を「男(おとこ・凸)・・・音処

       と

       女(をんな・凹):::音名

       の

       性器(セイキ)・・・清気・清記・正規・生気・世紀

       にアテル・・・

        丫手留

 「夏娃(イヴ)→なつ+うつくしい・よい・よし(好)」で  「夏(カ)=一+ノ+目+夂(攵=𠂉+乂・攴=ト+又・ボク・軽く叩く)」   +    一の目の母苦(宮)→独眼(隻眼)の母の苦=伊達政宗の母   +    の義姫は山形城主最上義守の娘(天文十七年・1548年)    +    山形城で誕生  「娃(アイ・ワ・ア・エ・うつくしい)=女+圭              美しい・美女・少女              子供・子供の動物              丸く窪んだ目」・・・?              月に存在するもの=「α+圭」  「説文解字・巻十二」には  「圜深たる目の貌なり」   ・・・圜=円=圓      圜(ケイ)=囗+睘(瞏)      瞏=罒+一+口+𧘇        罒+土+口+𧘇      睘=罒+袁        罒+一+口+𧘇        袁=土+口+𧘇          エン          着物がゆったりと長いさま          長袖・long sleeve          古代中国の地名        驚いて目を丸くする・驚いて見詰める       「睘睘」=孤独なさま・一人ぼっちのさま      圜(まる)い      圜(めぐらす)らす      圜(めぐる)る      圜⇔園=薗・・・花園・霊園・墓園・紫微園      圜⇔圖=圗=图=図  「一に曰く、吳楚の輭、好を謂ひて娃と曰ふ」   ・・・「好=娃」       猿⇔媴=女+袁=エン・オン               ひめ=媛=姫               黄帝の姓         異体字「媛=女+爰」             爰=爫+一+友               爫 +一+ナ+ 又         姫=姬=㚦・姖・烥           姬=女+匚+丄+II+丅             女+匚+I+┴+I+┬            女+匚+I+口+I         㜯=女+熙           女+煕           女+巸+灬           女+巳+灬           女+己+灬           異体字「娭=女+矣(ム𠂉一人)           熙=巸+灬             𦣞+巳+灬             𦣝+巳+灬           㜯=女+熙             巸=巸             𦣞+巳             𦣝+巳    異体字「𣢮・戺・𦣤・𢨪・𢩂」    巸=イ・キ      𦣝(乳房)+巳(赤子)      乳房が一つになった形に      巳(蛇・蝮・它・🐍)がついて     「巸」になった      婦人が赤子に授乳している形      赤子が乳を飲んで      よろこぶ・おだやかの意      赤子に乳を飲ませる      イ・キ      ひろいあご(顎)・・・?      口と頬っぺた・・・?    煕=𦣝+巳+灬      康熙帝(コウキテイ)      清の第4代皇帝      諱は玄燁(ゲンヨウ)      称号はモンゴル語でアムフラン・ハーン      廟号は聖祖      諡号は      合天・・・天津(天孫)を合併      弘運・・・弘文天皇=大友・伊賀      文武・・・文武天皇=軽・珂瑠      睿哲恭倹      寛裕孝敬      誠信功徳      大成仁皇帝       (仁皇帝)

   媐=巸+女      𦣝+巳+女      異体字「𡟮 ・𡢰」      說樂也・从女巸聲           姫=女+臣           「臣」=貴人の前で目を伏せた様?               貴人の前で「かしこまる」こと?               大臣・臣下               大臣の役目は臣下、人民の管理、監督               監視、観察、目で見張ること・・・   ↓↑  領地の  私有・公有・国有・・・共有・・・地球はダレのモノなのか・・・   ↓↑  「フィンランド(芬蘭・・・・香りのよい蘭の花          芬蘭土          分蘭          行蘭土)」  と  「スエーデン(瑞典・・・・・瑞皐=高野長英         雪際亜・・・・由紀(有紀)際の雨音思?         蘇亦斉・・・・ヨミがえる亦の斎(齊國⇔西国)         蘇亦斉亜・・・蘇る足(迹・俣)の斎のアマネシ         蘇葉斉亜・・・蘇る言葉の斎のアマネシ         蘇物甸・・・・「蘇我vs物部」=甸=勹+田         瑞威敦         瑞丁         瑞国)」  の領有権争い  (バルト海にある小さな島   オーランド諸島の帰属問題)  を  「新渡戸 裁定」   ↓↑  「新渡戸 稲造」  文久2年8月8日  1862年9月1日  ~  1933年(昭和8年)10月15日      大運1924年12月(62歳)乙卯正官  壬戌(辛丁戊)偏財・比肩 墓⇔癸酉正財  戊申(戊壬庚)比肩・食神 病⇔壬戌偏財  戊午(丙 丁)  ・印綬帝旺⇔甲寅偏官  戊午(丙 丁)比肩・印綬帝旺⇔庚午食神   子丑空亡  教育者・思想家・農業経済学・農学研究者  国際連盟事務次長  英文著書『武士道』  日本銀行券の  D五千円券肖像  15歳  1877年9月  当時国内で唯一学士号を授与する高等教育機関  札幌農学校(北海道大学)  二期生として入学  ↓↑  1920年(大正九年)1月10日  国際連盟設立  事務次長に選任された  新渡戸は  国際連盟の規約に  人種的差別撤廃提案  (Racial Equality Proposal)  の  過半数の支持を集めたが  議長のアメリカ  ウィルソン大統領  により否決された・・・  ↓↑  1920年(大正九年)  国際連盟設立  事務次長の  新渡戸らは国際連盟の規約に  人種的差別撤廃提案の  過半数の支持を集めたが  議長のアメリカ  ウィルソン大統領  により否決された・・・  ↓↑  人種的差別撤廃提案  1919年(大正8年)  1月14日  パリ到着の日本全権団は  「人種差別撤廃提案成立」  のため、各国と交渉を開始  ↓↑  2月13日  国際連盟委員会で  「牧野伸顕」は  連盟規約  第二一条  の宗教の自由についての規定の後に  「各国民均等の主義は   国際連盟の基本的綱領なるに依り   締約国は   成るべく速に連盟員たる国家に於ける   一切の外国人に対し   如何なる点に付ても   均等公正の待遇を与え   人種或は国籍如何に依り   法律上或は   事実上   何等差別を設けざることを約す」   という条文追加を提案  ↓↑  4月11日  「人種平等条項の運命が決まったのは   4月11日の会議のことであり   山東問題が   米・英・仏・伊   の四巨頭会議で考慮されたのは   それよりもずっとあとのことだった。   委員会が   平等原則を支持しないことになった   にもかかわらず   日本側は山東半島に関して   最終決定がなされる   2日前に国際連盟支持を公表していた。   日本全権団の考えでは   この2つの問題の論点の正しさは   きわめて明白だったので   両者を結びつけるといった   戦術を考慮する必要はなかった」  ・・・

 「新渡戸 稲造」   ↓↑  東京女子大学初代学長  東京女子経済専門学校  (東京文化短期大学   新渡戸文化短期大学)  初代校長   ↓↑  「新渡戸 裁定」   ↓↑  「島の帰属はフィンランドとするが   公用語は島民の大半がスエーデン人であるため   スエーデン語とする。   住民の大幅な自治を認め   島を非武装地帯とする」  という方式で解決・・・  ↓↑  ↓↑  日本国籍領土の  「北方四島」には  旧ソ連、現ロシア実効支配で  ロシア占領民が住居し  日本領海では多くの日本国籍の漁船を拿捕抑留してきた・・・  「竹島」を実効支配する韓国は  日本領海内での   日本漁船を拿捕、抑留してきた  「尖閣列島」  には現在、住民はいないが  かってのccp新聞記事にも地図にも  日本国国籍領土と記録されていた「島」である・・・   ↓↑  「人民日報」の沖縄に関する記事   冒頭で   尖閣諸島は   琉球群島に含まれるとの主旨が記述   (1953年1月8日紙面)   ↓↑   中国・北京市にある地図出版社が出版した中国地図集   台湾、南沙諸島など   中国政府が領有を主張する地域に   国境線が引かれているが   尖閣諸島の記載がなく   現在発行の地図のように国境もない  (1958年出版)  by 『ウィキペディア(Wikipedia)』   ↓↑  「武士道(The Soul of Japan)」・・・「新渡戸 稲造」・・・  1900 年(明治 23 年)初版   ↓↑  「自らを節することに厳しく   下位の者に慈悲の心をもって接し   敵には憐れみをかけ   私欲を忌み   公正を尊び   富貴よりも名誉を尊ぶ」・・・精神  「自分を律する武士道精神」は  「自虐史観」ではないだろう・・・  だが  「階級・身分社会」での  「支配、被支配」  「相互納得」前提での  「階級維持社会」前提での  「忠義」、「忠心」  「自己納得」である・・・「忠義」、「忠心」は悪なのか?  軍隊、官僚、会社、私営、公営施設、学校等  の諸々の組織の管理運営・・・  中学生の生徒会、小学生のクラス会での決定で  「組織運営」はできるのか、どうか?  「規律」の厳守、遵法がなければ「組織」は崩壊する・・・  だが、  「遵法闘争」も「生産組織」の機能性を阻害する・・・  「規律」には「状況に対する円滑性、柔軟性」が必要とされる  個々人の「衣食住」の安定供給が前提だが・・・  ダレがこれらを維持保障するのか・・・  ダレの為の、ナンの為の「法」なのか・・・  「法」があっても  政治家も、経済人も、ヤクザも、一般人も「悪用」する・・・  American西部劇、Chinese京劇、Japanese時代劇・・・歌舞伎  Greece悲劇・・・  「仇敵」がいなければ劇は進行しない・・・が  「仇敵」は「悪人」でもないらしい・・・  じゃぁ~ッ、「善人」とはダレなのか?  outlawも英雄、ヤクザも英雄・・・   ↓↑  楽器のボルトは締めすぎては機能しない・・・  エンジン機関のシリンダーとピストンには  僅かな「隙間」がなければ機能しない・・・  「隙間」に埋める「潤滑アブラ」が必要だ・・・   ↓↑  個々人の人間関係にとって  「距離間」の調節(法)と  その隙間を埋める  「媒介物(情)」がなければ  個々人の  「階級格差」が拡大し   個々人の生活、健康、生命維持も   不公平に  「ギクシャク」するだろう・・・ ーー↓↑---  「燕の始祖」  周建国の元勲  「召公奭(ショウコウセキ)    奭=大+皕      百+大+百      百+一+人+百      セキ・シャク・カク・キャク      さかん・いかるさま      いかる・・・怒る・猪狩         いかる賀=斑鳩・鵤              猪狩画⇔銅鐸線画      異体字「𠁗・𡚐」          𠁗=夫+皕            十+皕+大            百+二+人+百    𠁗=奭=𡚐      十一日白百皕大=𠁗      盛んなさま・盛大なさま      同「赫」      赤々と明るく盛んに輝くさま      同「赫」      顔を真っ赤にして怒(いか)る      同「嚇」      𠁘  「召公奭」  姫姓の伯爵  河南の「南燕国」に対して     「北燕国」  当時は「燕」ではなく     「匽」と記録      匽=匚+妟        匸+妟        匚+日+女        匸+日+女        エン        オン        かくす・かくれる        ふす・ふせる        どぶ・みぞ        匸=かくしがまえ=一+乚(乙)          隠 し構 え          郭 詞が前?          彠 氏賀真枝?          各 史画交絵?          掛句志賀(糸賀・四賀・滋賀)            万會(得・柄)?        匚=はこがまえ=一+L(Z)          箱         (函・匣・匧・凾・匭・匪・匵)          構え          函館の釜江             釜次郎の江戸幕府海軍?            (榎本武揚)⇔五稜郭          葉個(葉子・八子)画巻得?          匣=匚+甲            浦島太郎が匣の前⇔龍寓城        妟=日+女          頭に玉をつけている女の象形?          卑弥呼=天照女王             ⇔武照(曌)=則天武后  ↓↑  召公一族  山東半島の  「奄(ヱン)」=「魯の近隣」に封じられ  成王の時(禄父の乱後)  北京近辺に移った  エン=奄=匽=燕  「韓侯国」  が入れ替わりに  「陝西省」に移転  韓の旧住民は多く  「韓氏」を名乗った  西周時代  「燕」の東方  遼寧省朝陽市カラチン左翼モンゴル族自治県  に  「箕侯」という国家は  「燕」の属国で  北方遊牧民に滅ぼされ  「箕侯」の住民は  「燕」に亡命した  春秋時代以降  「燕の士大夫」層に  「韓」  「箕」  を氏とする者が多  春秋時代  「燕」は北方の  「山戎」に攻められ  君主「荘公」は  隣国の  「斉」の「桓公」に援軍を乞い  「山戎」軍を撃退(紀元前664年~紀元前663年)  その後  「桓公」の援軍撤退時に  「荘公」の送別軍が  「斉」の領土を越境し  「管仲」に不法を指摘された  「桓公」は  一部自領を切り取って  「燕」に授けた・・・  領土問題解決・・・「新渡戸 稲造」?  戦国時代  紀元前334年  『史記』  「蘇秦列伝」に  「東に朝鮮・遼東   北に林胡・楼煩   西に雲中・九原   南に呼沱・易水がある」  と、「燕」は広大な領域を支配していた  紀元前323年  王(左飛)を名乗り  第2代の王  「噲」  は宰相の子之を盲信し  「堯舜」に倣うとし禅譲を行い  国内は騒乱状態(紀元前315年)  翌年  「斉(田斉)」  が侵略し全土を併合  紀元前313年  「公子職」が  「子之」を倒して  斉軍撤退し  「公子職」は即位して  「昭王」となった ー↓↑ーーー  淵蓋蘇文(エンガイソブン)の  カンジ再参考   ↓↑  「淵蓋蘇文=泉蓋蘇文」   ↓↑  「伊梨柯須彌   伊梨柯須弥=いりかすみ」・・・?   伊=亻+尹     イ     かれ     これ     ただ     かの・第三人称     この     これ     語調を整える助詞     河南省にある川の名     伊水     伊太利    (イタリア・伊太利亜・Italy)     伊都・伊戸       ・・・怡土・井戸・意図     ↓↑     尹+α     君=尹+口     笋=竹+尹     芛=艹+尹     吚=口+尹     㖐=吅+尹       口+口+尹     䪳=尹+頁       尹+一+ノ+目+ハ     洢=氵+伊       氵+イ+尹     蛜=虫+伊       虫+イ+尹       中+ム+イ+尹   ↓↑   梨=利+木=リキ・・・娌記・李記?   柯=木+可=キカ・・・帰化・奇禍・貴下?              記化・幾何・気化?   須=彡+頁=セン(サン)ケツ(ゲチ)         選・簒・纂・結・欠・解知?         足跡・傷痕・掻き痕?   彌=弓+爾=キュウ(ク)ジ         旧字・九字・公事=くじ=久慈         旧事・球児・給餌         給仕=ページ=page=頁         ホテル・劇場などの制服給仕         ボーイ         議員などの奉仕係         a congressional page         結婚式の花嫁に付き添う         小さな男の子   ↓↑    ↓↑         キュウ(ク)二         急に・球に・旧に・灸に         給に   彌生=弥生=三月=サンガツ・サンゲツ   彌・禰・穪・嬭・瀰・襺・獮・鑈・镾・獼    宿禰   嬭=女+爾         異体字「㚷・妳・㛵・㛋             奶・𡇲・𡛾・𡤘           ダイ・ネ・デイ・ナイ・ジ           はは・はぐくむ・あね  ー↓↑ーー  淵蓋蘇文(エンガイソブン)  ?~665年(宝蔵王二十四年)  高句麗末期の宰相・将軍  泉蓋蘇文・泉蓋金  とも記録  『日本書紀』に  「伊梨柯須彌   伊梨柯須弥   いりかすみ)」  として記録  姓の  「淵(泉)」は  高句麗語の  「いり(水源)」の意味・・・水源?  「蓋蘇文」は  高句麗語で  「かすみ」と発音したものを  漢字で当て字した・・・???  姓は淵、or 泉    淵=公孫淵?    ・・・燕国=山東省近辺    燕(紀元前1100年頃~紀元前222年)    周代・春秋時代・戦国時代    春秋十二列国の一・戦国七雄の一    河南の南燕国      「北燕国」       北京近辺・・・?    西蓋馬県、蓋馬大山    遼東半島の    「蓋平」    (遼寧省営口市蓋州市)・・・?    「鉅燕」=「全燕」・・・『史記』    山東半島の    「蓋」    (山東省 淄博市)    ↓↑    淵=渊・潭・潯・泓・渕      縁      縁側・・・扶持⇔扶余           斑(まだら)  ↓↑  『旧唐書』『三国史記』  等が「泉」として  「淵」とは書かないのは  「淵」は  唐の高祖の諱(淵)を避諱した・・・  『日本書紀』に  「伊梨柯須彌」とも書かれ  「漢字訳」はもともと便宜的なもの・・・?      ・・・ではナイと考える・・・ ーー↓↑ーーー  子息  「泉男生」  (センダンセイ   ヨン-ナムセン)  634年~679年1月29日  「淵蓋蘇文」  の子  兄弟間の争いのために  唐に服属  字 元徳・・・元の徳?  ↓↑  648年・・・645年=「大化の改新」  中裏小兄・・・小兄は序列の職号?  651年  中裏大兄・・・大兄は序列の職号?    ・・・中「大兄」皇子  656年  中裏位頭大兄・・・大兄は序列の職号?  657年  将軍  660年・・・百済滅亡  661年  莫離支・三軍大将軍  数万の兵を率いて  鴨緑江で唐軍と対峙  契苾何力  に敗れて、身ひとつで逃亡  ↓↑  663年・・・「白村江の海戦」  ↓↑  665年  「大莫離支」  の位を加えられ  高句麗の国政を掌握  弟の  「泉男建」・・・?・・・男を建?  「泉男産」・・・?・・・男を産?  と不仲となり  泉男建  が  泉男生の子の  泉献忠を殺害  泉男生は弟たちを恐れて  国内城に逃亡し  契丹・靺鞨と結び  子の  「泉献誠」  を唐に送って援助を求めた  高宗は  「泉献誠」を右武衛将軍に任じ  「契苾何力」・・・苾=芳しい  「龐同善」・・・・龐=广+龍             ホウ             ロウ             おおきい             みだれる             交じる・入り乱れる             乱雑なさま          「龐龐」=充実して               肥えたさま  らに  「泉男生」を援助  666年9月  「龐同善」  が高句麗軍を破ると  泉男生は龐同善と合流  667年  「薛仁貴」が  泉男建を破ると  泉男生は  薛仁貴と合流して  南蘇・木底・蒼巌  の三城を落とした  高宗は  西台舎人の  「李虔繹」・・・虔=虍+文            ケン            うばう            ころす            つつしむ            うやうやしい            固い          繹=糸+睪・・・演繹            幺+小+罒+幸            エキ            たずねる            つらなる            つらねる            引く・抜く            明らかにする            絶えずに            連続するさま  を派遣し  泉男生  をねぎらわせた  668年  泉男生  は長安に入朝  特進  「遼東大都督」  平壌道行軍大総管  持節安撫大使  に任ぜられ  「玄菟郡公」に封ぜられた  再び高句麗におもむくと  「李勣」  とともに平壌を攻め  僧侶を使って  高句麗の内部を離間し  「宝蔵王」  を捕らえた  長安に凱旋したのち  右衛大将軍に進み  「卞国公」に封ぜられた  677年  詔を受けて  遼東の地の安撫にあたり  唐の州県を置き  流民を定住させ  賦税を公平にし  労役をはぶいた  679年  46歳で死没  「并州大都督」  の位を追贈  諡 「襄」  ・・・襄=亠+吅+𠀎+𧘇       亠+吅+井+一+𧘇       ショウ       ジョウ       たかい       のぼ(る)       はら(う)       高い       高所にあがる       払う・払いのける       のぞく・とりのぞく       あげる・もちあげる       変える・変わる・移り変わる ーー↓↑ーー  642年(栄留王二十五年)  北方に  千里長城を築造し唐の侵入に備えた  唐との親善を図ろうとしていた  第二十七代王  栄留王  伊梨渠世斯(いりこせし)  ほか180人を弑害  宝蔵王を  第二十八代王に擁立し  自ら  「大莫離支(ダイバクリシ)」  高句麗末期の  行政と軍事権を司った最高官職  に就任して政権を掌握  安市城の城主だった  楊萬春  が  淵蓋蘇文  への権力集中を認めず  淵蓋蘇文は直接軍隊を率いて  安市城を攻撃  安市城を占領することができず  妥協し  淵蓋蘇文は楊萬春の職権を  楊萬春は淵蓋蘇文を執政者  として承認  淵蓋蘇文は対外強硬策を採り  高句麗に救援を  要請するために到来した  新羅の  金春秋(武烈王)を監禁  新羅と唐との交通路である  党項城を占領  644年(宝蔵王三年)  新羅との和解を勧告する  「唐の太宗」・・・・高宗?・・・唐の第3代皇帝            太宗の第九子・            母は鮮卑の拓跋を出自に持つ           「長孫無忌」の妹の「長孫」皇后  の要求を拒否  太宗が  「弑君虐民の罪」を問い  645年(宝蔵王四年)  17万の大軍を率いて高句麗に侵入  楊萬春が  安市城でこれを阻止  60余日間の防戦後  唐軍を撃退  その後  4回に亘って  唐の侵入を受けたが  楊萬春  はことごとくこれを阻んだ  643年(宝蔵王二年)  唐へ使臣を派遣  道教の道士八名と  『道徳経』を高句麗に持ちこむ  淵蓋蘇文は文化面でも功績  ↓↑  善徳(ゼントコ・ソンドク)女王  647年2月17日(旧暦1月8日)  新羅の  第27代の王  (在位632年~647年)  新羅初の女王  姓は金  諱は徳曼  真平王の娘  母は金氏の  葛文王  福勝の娘の  摩耶夫人  王配は  水月  葛文王  朴欽飯  3人姉妹(善徳  ↓↑  女王自らが任命した  上大等の毗曇らが  647年正月に女王の廃位を求めて内乱  上大等に代表される中央貴族に対抗して  金庾信  (『三国史記』    黄帝の子の少昊金天氏の子孫)  ら地方勢力の有力者が  女王を支援して乱の収拾に当たったが  同月八日  女王は陣中に死没  善徳と諡され  狼山(慶州市)に葬られた  在位十六年  金庾信らは  真徳女王  を立て、  正月十七日  乱を鎮圧  毗曇  ら20余名を誅殺  死後、唐からは  光禄大夫の号を追贈  ↓↑   善徳女王  仏教の保護  慈蔵法師を唐に派遣して仏法を修めさせた  帰国した慈蔵法師の発願で  645年3月  皇龍寺の九層塔を創建  女王の時代に  芬皇寺や霊廟寺が完成  霊廟寺の建立と同時に  瞻星台(天文台)を築いた・・・  640年  王族の若者を留学生として  唐の国子監に派遣  ↓↑ ↓↑  善徳女王の  3つの予知  唐の太宗が  牡丹の花の絵と種を贈って来たとき  その花には香りがないであろうと言った  「花の絵には蝶や蜂が描かれていない。   どんな美女でもその色香で男たちが群がるので、   花に群がる虫がいないことから   香りがないと解った」  と答えた。  宮殿の西の玉門池に  蝦蟇がたくさん群がって鳴いたとき  西の国境付近に賊の潜んでいることを知り  角干の閼川(アルチョン)  らを派遣して賊を滅ぼさせた  「蝦蟇(蛙)の怒った目は兵士を表し   西の国境付近には   女根谷という地名があるので   玉門池に蛙が集うのは   女根谷を兵士が侵そう(犯そう)   としている」  と解ったと答え  金庾信や毗曇  ら家臣は昂奮した・・・  自分の死の年月を予測  忉利天の中に埋めるように  と言った  群臣は忉利天の場所がわからず尋ねると  狼山の南であると答えた  後に  毗曇の内乱が起り  女王は予測の月に死亡  狼山の南に葬られた  十余年後に  文武王  によって  女王陵の下に四天王寺が建てられた  ↓↑  家族  父は真平王  母は摩耶夫人  姉/妹は天明公主(金龍春の妻)  甥は武烈王(金春秋)第二十九代国王。  妹は善花公主(第三十代百済王 武王 (百済)の王妃)  甥は義慈王 第三十一代百済王。  妹は天花公主  夫は「朴欽飯」、「金龍春」、「乙祭」  いずれの夫との間に子は無し  ・・・  「善徳・金春秋・文武・真徳」  の時代の  「倭国」の名前の重なる人物達は・・・???・・・ ーーーーー  ・・・???・・・  「鉱石ラヂヲ」でなぜ、音声が聴けるのか?  ↓↑  トランジスタの原料  シリコンが  石英や長石と同じ  「珪素化合物」  ↓↑  石(いし)  岩(いわ)より小さく  砂(すな)よりも大きい  鉱物質のかたまり  ↓↑  ・・・「米」の容量単位が  ナゼ「石」になっちゃったんだろう・・・  ・・・磐余・岩井の亂・・・「石」・・・「斛(コク)」     磐井の息子は「朝廷」に米蔵を屯倉として献上した・・・     筑紫葛子 - 贖罪のため糟屋屯倉を献上・・・  ↓↑  石(こく)  容量の単位  1石は10斗=100升=約180リットル  米1石の重さは約140~150kg  ↓↑  升の倍量単位  1石=10斗=100升  平安時代末ごろまで  「石」ではなく  「斛」と記録  ↓↑  斛=角+斗    コク    さか・ます・ますめ・斗斛    容量の単位    十斗    一石    斗斛(トコク)・万斛(バンコク)    異体字「𧤰・㪶・𩵬」    「石斛(いわぐすり)」    「斛器(コッキ)」    「石斛(セッコク)」    「万斛(バンコク)」    「木斛(モッコク)」  ↓↑  1石=10斗 1斗=10升 1升=10合  ↓↑  「石=斛(こく)」  1石=10斗=100升=0.180390立方メートル  ↓↑  「一升当たりの重量    約四百匁(一・五キロ)」  「一升あたりの重量    四百匁は江戸時代からの数字」  1石=14kg  ↓↑  1合の1/10 1勺(しゃく)約15g                0.018 リットル  ↓↑  1勺の10倍 1合(ごう) 約150g               0.1804 リットル               (約180cc)               1合徳利  ↓↑  1合の10倍 1升(しょう)約1.5Kg                1.8039 リットル                1升瓶                1升枡  ↓↑  1升の10倍 1斗(と) 約15kg              18.039 リットル              1斗缶  ↓↑  1斗の4倍 1俵(ひょう) 60kg                10俵の収穫  ↓↑  1斗の10倍 1石(こく) 約150kg               180.39 リットル ーーーーー  ・・・???・・・  コジキ姫「壱与」・・・「壹與」  カンジて赤い絨毯にのり  空をカケメグル   「古事記・字源」物語 http://web.archive.org/web/20090409083704/http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/hime/hime77.htm


 猿田弖(氐)意名蛙・エンターテイナー( entertainer)  エンターテイナー( entertainer)  ↓↑  猿 田 弖(氐)意名蛙・・・?  ・・・猿女・・・宇受女・・・  シルヴァーナ・マンガーノ (Silvana   Mangano)  1930年4月21日?  ~  1989年12月16日       大運1985年7月(55歳)甲戌 正財  庚午(丙 丁)劫財・偏官 病⇔己巳 偏印  庚辰(乙癸戊)劫財・印綬 墓⇔丙子 正官    (偏財・食神・印綬)  辛丑(癸辛己)  ・偏印 養⇔庚戌 劫財  甲午(丙 丁)正財・偏印 病⇔壬午 傷官   辰巳空亡   危宿/辛丑         翼宿/庚戌  1930年4月20日?      大運 1985年3月(54歳)甲戌 偏財  庚 午(丙 丁)比肩・印綬沐浴⇔己巳 印綬  庚┏辰(乙癸戊)比肩・偏印 養⇔丙子 偏官   三合壬・食神(正財・傷官・偏印)  庚┏子(壬 癸)  ・傷官 死⇔庚戌 比肩  庚┗辰(乙癸戊)比肩・偏印 養⇔壬午 食神    辰巳空亡    虚宿/庚子         翼宿/庚戌  壬┗午(丙 丁)食神・印綬沐浴⇔壬午 食神

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 ・・・???・・・  悲しみよコンニチは  (Bonjour Tristesse)  2016-08-24 00:37:36   ↓↑  乚(乙)=「乚」は「隠」の古字       かくす       人の目に触れないようにする       物で覆ったり、しまいこんだりする       物事を人に知れないようにする       秘密にする       死者を土に埋める       かくれる       表面・外部から見えないところに存在       世間に名前や力が知られないでいる       去る・いなくなる       ひそむ・ひそかに       かすか       いたむ=心配する=(同意語)=慇       悲しむ       落ち着いている       盛ん=殷       拠(よ)る         ↓↑       ある物事の根拠       基準・理由となる       甲乙の「乙」・・・偶数の始り「二=次」       甲乙の「甲」・・・奇数の始り「一=初」       甲音・・・甲高い音声       乙音・・・押さえてつかえさせ止める            書物を読んで口調をとめるしるし            吃音(どもり・キツオン)  「子羊たちの沈黙(The Silence of the Lambs)」  ・・・中国では淡水の「河豚(ふぐ)=河+豚」は     ブタ(豚)に似た鳴き声をするらしいからの名前らしい・・・  そして「鮐・鰒・鯸・魨・鯺」の異字漢字も「フグ」らしい・・・  「鮐=フグ(fugu)フグ科の魚類の総称     ふぐ(河豚)     およそ120種の魚がフグ科に分類」・・・  「ナゴヤフグ(名古屋フグ)」   との呼称もある  「毒に当たればミノオワリ(美濃尾張)」の洒落  「毒」は  「主(亠+十+一)」   の  「毋(ない・ブ・ム)   or   母(はは・ボ)   or   毌(つらぬく・カン・ガン・貫)」   である・・・   ↓↑  「毌丘倹(カンキュウケン)」   ?~255年     ↓↑     干支       乙亥年     ↓↑       ↓↑      亥=骨組みが引き締まっている        骸骨・・・       「胡亥(姓は嬴(エイ)        始皇帝の末子・秦朝第二代皇帝)」        戦いの時の       「該=言+亥」は        兵士に誓いを言う決意表明     ↓↑       ↓ ↑           ・・・乙の該・・・?         該=かねる・そなわる           かねそなえる           あまねく・ことごとく           該究・該洽(ガイコウ)・該博           あたる・あてはまる           該当           その・指定する言葉           該案・該日・該地           当該(トウガイ)           博該(ハクガイ)           ある場面で           問題になっている           当面の物事をさしていう           その・この・当の・当該           該(かねる)る           該(そなわる)わる           該(その)の          「該事件の報告書」          「該資料」     ↓↑       ↓↑     神功皇后 摂政  055年          皇紀  915年     中国     魏    正元  002年     蜀    延熙  018年     呉    五鳳  002年     朝鮮     高句麗  中川王 008年     新羅   沾解王 009年     百済   古尓王 022年          檀紀  2588年   ↓↑     ↓↑  「毌丘倹(カンキュウケン)」   字は  「仲恭」   并州   河東郡   聞喜県   出身   尚書郎   洛陽の典農   魏の   荊州刺史   幽州刺史   魏の将軍   最後は   司馬師   に反乱後、討伐された   ↓↑   魏の官僚   毌丘興   の子   毌丘甸   毌丘宗   の父   毌丘秀   の兄   孫は   毌丘重   毌丘奥   孫娘は   毌丘芝   ↓↑   毌丘倹   ↓↑  237年  「孫権」  は  高句麗  と通じ、  遼東へ親征を行おうとした  魏は  「毌丘倹」  を派遣しこれと対陣  「毌丘倹」  が  「鮮卑」  の軍を動かして  遼東に駐屯させたので  「孫権」  は遠征を断念   ↓↑  魏は  「公孫淵」  に対し上洛を命じたが  「公孫淵」  はこれを拒否、挙兵して  遼隧で  「毌丘倹」  を撃退   ↓↑  遼東の  「公孫淵」が  呉と接触   ↓↑  「毌丘倹」は  魏王  「曹叡」  の命により  幽州刺史となり  「烏丸」  の単于  「寇婁敦」・・・「倭寇・元寇」?  と  「袁尚」・・・・「袁の尚」  「烏丸」  へと逃げた者  5000余を降伏させた   ↓↑  遼隧の戦い(238年)  魏王  「曹叡」は  「司馬懿」  に4万余の兵を与え、  「公孫淵」征伐   ↓↑  「238年・・・遼隧の戦い」と「卑弥呼」   ↓↑ ーーーーー  倭に関係する極東国際情勢   57年 倭の奴国王、後漢の「光武帝」から金印を賜る  107年 倭国王、「帥升」、       後漢の「安帝」に「生口」を献ずる  146年 倭国動乱、邪馬台国に女王「卑弥呼」が立つ  189年 「公孫度」、       「玄菟郡」の小官吏から遼東半島太守となる  190年 「公孫度」、遼東郡を遼西、       中遼の二郡とし自らの太守を設置       また、       山東半島に       「営州刺史」を置き       「遼東侯・平州牧」       と号した「公孫度」の子       「公孫康」       が継ぎ       「度」の弟       「恭」が       「永寧郷侯」       となり       「康」       は西暦196~220年まで       「楽浪郡」を分けて       「帯方郡」を置いた  220年 後漢滅亡       魏王       「曹丕」       が       「献帝」を廃し       魏の       「文帝」       となる  221年 「劉備」       燭漢の       「昭烈帝」となる  229年 「孫権」       呉の       「大帝」となる       「公孫康」の子       「淵」が       「魏王」から       「遼東太守」、       「車騎将軍」       の爵号を授  232年 呉の      「孫権」、      「淵」に      「燕王」      の爵位を与える  233年 呉が一万人ほどの軍隊を遼東に派遣      「淵」      はこの使者を殺し      その首を「魏」に差しだし      「楽浪公」      の爵位を得る  235年 高句麗王      「位宮」       呉から      「単于」の爵号を受く  237年 「魏」は       幽州刺史の      「毋丘倹」      を将軍にし      「淵」軍と戦い敗北   ↓↑  ↓↑  ↓↑  238年 六月、「卑弥呼」、          大夫          「難升米」を          「魏」におくる  ・    ↓  ・    八月、「魏」の          「司馬懿」を           将軍とする軍隊に          「淵」軍敗北、戦死   ↓↑  ↓↑  ↓↑  239年 帯方郡・太守      「弓遵(辷+尊)」が      「韓」族に攻められ戦死      「韓」滅亡  244年 「魏」は       幽州刺史の       「毋丘倹」       を将軍にし       高句麗軍を壊滅さす       帯方郡太守       「王・頎(斤+頁)」          頎=キ・ゲ・キン・コン            斤+頁            ザン・セン・サン・きる            斬=車丿𠂆一𠂋T斤=斬            罪人を切り殺す            裂(さ)き殺す            刃物で切る            裂く・断(た)つ            断ち切る・絶(た)える            同「絶」   ↓↑  ↓↑      「王頎」       玄菟郡の太守(245年)       丸都から逃走した高句麗王の      「位宮」を      「毋丘倹」       に命ぜられ追撃       沃沮を通り       粛慎氏の南端までたどり着き       石碑を建てた       道中で老人の話を聞いた      「東の海の彼方の島に流れ着くと       言葉が通じない、       七月に       童女を海に沈める習慣の国があった       他に女ばかりで男のいない国もある」       248年       帯方郡の太守      「卑弥呼」は       狗奴国の王      「卑弥弓呼(素)」       と戦争中であると       帯方郡に使者を遣わし報告      「王頎」は      「塞曹掾史」      「張政」を       黄幡、檄文を持たせ派遣   ↓↑  ↓↑  「王頎」  天水太守  263年  「鄧艾」  に命ぜられ  「姜維」  の本陣に進軍  「姜維」  は撤退し  魏軍は追撃して  「姜」を破った  (魏書・毋丘倹伝・東夷伝、鄧艾伝)  鄧=登+阝    異体字「邓」  「演義」では  「鄧艾」に命ぜられ  一万五千の兵を率いて諸軍と協力し  「姜維」を漢中から撤退さた  沓中では  「姜維」と自ら刃を交えるが  負けて引き下がった  蜀が平定されると  「鄧艾」に益州の   長官に任命された   ↓↑   ↓↑       塞曹掾史       「張政」を「倭国」に派遣   ↓↑   ↓↑   ↓↑  この「年表」に記されている  「人名」と「官名」、「地名」  の漢字とその「音」に注意すれば  「古事記」  が何を示唆しているか明かである・・・?  更に  「238年」の  「六月」から「八月」・・・  ワズカ、  「二カ月間」・・・  「卑弥呼」の「倭」は  少なくても  「六月」までは  「もと『燕=公孫氏』に属」  さざるを得なかったハズである・・・?  何故なら  「公孫淵=燕」は  「237年」には  「呉」と同盟  あるいは册封関係にあり  敵対する  「魏」の  「幽州刺史」の  「毋丘倹」  を将軍とする軍隊と戦い  コレを撃破して勝利  翌年  「238年の八月」に  「魏」の  「司馬懿」  を将軍とする軍隊に敗北し  戦死した  時間的な流れでいえば、  「倭」は  「238年六月~八月」までは  「呉」と深い関係にあった  「公孫淵=燕」に  「属」していたハズだ・・・  もちろん、状況的に  直接的にも  「倭」は  「呉」と深い関係にあった・・・?  すると、  「238年『六月』」、  この『六月』に  「卑弥呼」が  大夫  「難升米」を「魏」におくる  と云うことはどういうことなのであるか  記録上の齟齬がナイとしたならば  朝鮮半島・遼東半島は  いまだこの年の  『八月』まで  「公孫淵=燕」の支配下にあった・・・  この「未だ燕の支配下の『六月』」  どのような経路でいけたのか?・・・  どのような目論見で  「難升米」を  「魏」におくったのか?・・・  方法は色々考えられるとしても・・・  戦局が未だ定まらぬ  「敵地=燕地」の経路をである  「卑弥呼」は  「邪馬台国」をまもるため  「呉=燕」の配下にありながらも  二股をかけざるを得なかった・・・  あるいは  「公孫淵=燕王」の  「対魏戦略」に  「卑弥呼」は乗せられた・・・  あるいは  「燕=公孫氏」  「呉=孫氏」そのものと  「縁籍」であった・・・  そして、  『八月』  「公孫淵=燕」  は  「魏」の  「司馬懿」  を将軍とする軍隊に敗北、戦死した(?)・・・  『十二月』  「卑弥呼」は  「魏王=明帝」  から詔と「親魏倭王」としての  「金印紫綬」と「銅鏡百枚」等をもらった・・・   ↓↑  ↓↑    ↓↑  238年(景初2年)「女王卑弥呼」が派遣・魏へ使  240年(正始元年)「女王卑弥呼」が派遣・魏へ使  243年(正始4年)「帯方郡太守」が派遣・倭へ使  244年(正始5年)「高句麗王=位宮」敗北  245年(正始6年)「倭王」   が派遣・魏へ使  247年(正始8年)「邪馬台国」と「狗奴国」の交戦             卑弥呼の死亡             「邪馬台国で男王」立つが             「内乱」             「宗女・壹與=壱與」が            「十三才で女王」             となる   ↓↑   ↓↑   ↓↑  238年から六年後  244年  「高句麗王=位宮」も敗北  朝鮮半島での敗残者は何処に逃げていったのか?  ・・・当然、「倭」へ、である・・・  滅亡した隋(581年~618年)の亡命も「倭」へだろう・・・     「隨・隋・随」・・・ズイズイず転ばし、ゴマみそズイ・・・               帰化人は陽侯 麻呂(やこ の まろ)               姓は史・官職は大隅国守               陽侯氏(陽侯史のち陽侯忌寸)               隋の煬帝の子孫               達率 楊候 阿子王               の末裔を称した               陽侯 人麻呂(やこ の ひとまろ)               姓は史(毘登)のち忌寸               但馬守・陽侯真身の子               官位は外従五位下               宝亀十一年(780年)三月               吉田古麻呂の後任の豊前介               同時に               小野滋野が豊前守に任じられた               兄弟 令珍・令珪・令璆               小野 滋野(おの の しげの)               左京大夫・小野竹良の子               ↓↑  そして「卑弥呼」の「邪馬台国」は  「魏」の  「張政」に担ぎ上げられた  「壱与」に権力交替した・・・  「狗奴国との対立」   や  「卑弥呼死後の男王の擁立」は怪しい・・・  すなわち、この部分に於いても  「陳寿」は  「使訳」の報告すべてが  正しいわけがあるまい、と言っている  「司馬懿(シバイ)」の名前も示唆的で  同音異字なら「芝居」で  しかも「芝居(しばい)」は  日本語であるから・・・。  この『六月』の「卑弥呼」に対する  「魏」の答えは・・・  「卑弥呼」の排除・・・  243年  「宗主国」である  「魏の帯方郡太守」が  「倭へ使者」を派遣してきた  その後の  「壱与」・・・壱=いち=壹・位地・位置・一           いつ=乙・伊都・何時・一           いつ=逸・伊津・伍・伊豆?           乙=乚  の権力交替は  「帯方郡使」としての   ・・・帯=垂らし=多羅氏・多良氏=誑し        たらし⇔足る=充分            樽=木尊=十+八+丷+酉+寸            弛=弓也・・・たるむ・・・弦・絃                   弛緩(シカン)                   緩慢(カンマン)            罇=午凵尊・・・馬韓の見事            墫=十一尊・・・壱拾壹の見事         α+尊=竴嶟擲・噂・撙・僔・鐏・蹲=ソン⇔孫              投擲(トウテキ)⇔当的  「張政=魏」の策謀(告喩)による  「淵=燕=呉」親派の  「卑弥呼」の  「縊殺・絞殺」  あるいは  「溺殺」によるものである・・・  漢字の  「乙・乚」の秘密である・・・   ↓↑  「張政」と「壹與・壱与」の  「告喩」としての  「卑弥呼」に対する侵攻は  朝鮮半島、博多「伊都」  そして長崎県の「五島列島」を根拠地にし  「長崎」、「諌早」  「熊本・宇土・横島」  へとその勢力を浸透させて  「卑弥呼」を「殺害(?)」した・・・?  その後  「壱与」は「宇佐」に東遷し  権力の基盤を  「大分」に置いた  だが  「卑弥呼」の親派勢力は  長崎「諌早」、「天草諸島」  「熊本・横島」・・・ム=横嶋=  そして  「沖縄」、「台湾」  にその勢力を有していた・・・?  結論的に  九州(倭)は「魏」の配下に入ったが  「二人の女王」の勢力は  「遼東半島」、「山東半島」  「高句麗」、「朝鮮半島」、「南韓」  の亡命者、血縁者を抱え  「太陽の烏=卑弥呼       =長崎・諌早=左目=天照大御神」  と  「月の卯=壱与=大分・宇佐         =右目=宇受女=豊受大神」  に分裂=磐余(イワレ)=「大分」  していた・・・  もちろん  「中央の鼻=中津=名賀津=那賀津」  は  「博多・伊都=須佐之男」  である・・・ハズだ・・・が?  その後、 ーーーーー   ↓↑  公孫淵も  卑衍・・・卑の衍?       衍=あまる・エン         余分にあまる         余計な         衍字・衍文         延び広がる         押し広げる         衍義=敷衍  楊祚  らに数万の軍を与えて  遼隧に派遣・・・・・遼の隧?  司馬懿が  遼東に到着  卑衍が  司馬懿を攻撃したが、  司馬懿は  胡遵らを派遣して・・・胡の遵(辶+尊)  卑衍を破った   ↓↑  公孫淵は  遼隧に塹壕を掘り、  司馬懿の軍を迎え撃った  遼隧の公孫淵の防衛陣が堅固だったので  司馬懿は、  東南に退却したとみせかけ、・・・東南=辰巳=巽  国都の  襄平に侵攻  公孫淵は遼隧の軍を撤退  都の守備に当たらせたが、  敗退を繰り返し  司馬懿に襄平を包囲された   ↓↑  公孫淵は  呉の  孫権に謝罪し、援軍を求め  孫権は援軍として  羊衜・・・羊の衜=彳+首+亍=みち・ドウ・トウ                道  鄭冑・・・鄭の冑=かぶと・介冑・甲冑          「胄(あとつぎ)」           は別字・・・?           何処が別の字なんだか?           同字にしか見えないのは           ドウジだから・・・           兎に角          「胄」は「世継ぎ」  孫怡・・・孫の怡=忄(心)+台(臺)  を派遣  が、すでに公孫淵は敗北、  遼東で  魏の  張持・・・張の持  らを破って、  男女の  捕虜を得たにとどまった・・・   ↓↑  長雨の時期で兵糧が欠乏  公孫淵は人質を出して  和睦・・・和の「睦」とはダレ?  しようと画策するが、  司馬懿はこれを拒否  公孫淵を捕え、処刑  遼東  公孫氏は滅亡   ↓↑  司馬懿はこの地に  魏への反抗勢力が出ぬよう  15歳以上の男子を皆殺(genocide)  ↓↑  244年(甲子年)  毌丘倹は  呉との同盟していた  高句麗討伐  高句麗王  位宮・・・位の宮  を攻め  都を破壊  位宮  は逃亡  高句麗を滅ぼせなかった  高句麗の  東川王(憂位居)=位宮  は  公孫淵討伐には  協力的であったが、  242年以降  再び魏と険悪な関係になった  毌丘倹は高句麗への攻勢を強め、  244年  更に東へと進んで  高句麗の軍勢を大破し、  都の  丸都・・・丸い都  を蹂躙  東川王(憂位居)に逃られ  高句麗を  滅ぼすことはできなかった  ↓↑   司馬懿・・・「懿」が付く天皇?  が反乱し  魏を支配し  司馬懿の長男  司馬師・・・馬師の司は「左右の馬の守」?  が実権者となる  ↓↑  毌丘倹は  胡遵・王昶・諸葛誕・陳泰  らと共に  都督  左将軍  鎮南将軍  豫州刺史・・・豫の州とは「伊豫」?  となる  ↓↑  252年  呉の  孫権、死亡  ↓↑  討伐軍として  呉に攻め込んだ  魏の  諸葛誕・・・諸の葛の誕  が  呉の  驢馬の息子・・・驢=馬+盧  諸葛恪・・・諸の葛の恪=忄+各=つつしむ                  きまじめ                  カク・キャク  に大敗  ↓↑  毌丘倹は  諸葛誕に代わって、  揚州刺史の文欽と共に  呉への備えとして  鎮東将軍に転じ  揚州に駐屯し  驢馬の息子の  諸葛恪が攻めてきた時  文欽・司馬孚・張特  と共にこれを防ぎ、  撤退の  諸葛恪を追撃  ↓↑  254年  夏侯玄・・・夏の侯の玄  が  司馬師に反乱し失敗  司馬師は  曹芳を帝位から降ろし  曹髦を帝位につける  ↓↑  夏侯玄と親しかった  毌丘倹の立場もあやうくなり、  息子の  毌丘甸と  かって、  司馬師に処刑された  曹爽の寵臣だった  文欽と共に・・・文は「欽」・・・欽明天皇?  彗星が  西北の空を・・・北西=乾=戌亥・・・狗意  覆ったのは瑞祥    ・・・瑞・・瑞皐(ズイコウ)=高野長英?          玄瑞(ゲンズイ)=久坂玄瑞?  だとし  司馬師を弾劾する  皇太后の詔勅を偽造し、反乱  毌丘倹は、  寿春を老人や子供に守らせて  項城に入り、  毌丘倹は城内  文欽は城外に駐屯  ↓↑  先鋒の  王基が  攻撃を避け  毌丘倹は  諸葛誕や胡遵が  寿春を攻撃される状況で  退却も出来ずに兵は逃亡・・・  ↓↑  城外の  文欽は  訒艾・・・訒の艾=よもぎ  に夜襲を仕掛けたが  敗れて  呉へと逃亡  毌丘倹は逃亡しようとしたが  張属・・・張の属  に射殺され、  首は  魏都にて晒された  ↓↑  毌丘甸は、  父の反乱に際に  魏都に残ってい  山に篭ったが討伐軍に敗れて捕らえられ、  一族もろとも処刑された  荀一族の女であった  毌丘倹の妻は  荀邈らの嘆願によって許され、  孫の  毌丘重  毌丘奥  は、  晋の時代に出仕  ↓↑ ーーーーー  『三国志』  倭国で男王(70~80年間)  後に内乱(5~6年間)  後、卑弥呼の即位  鬼道に仕え、よく衆を惑わす  年齢は既に高齢で夫はない  弟がいて国の統治を補佐  ↓↑  景初二年(238年)12月  卑弥呼  難升米らを魏に派遣  魏から  親魏倭王の仮の金印  銅鏡100枚を与えられた  ↓↑  正始元年(240年)  帯方郡から  魏の使者が倭国を訪れ  詔書、印綬を奉じ  倭王に拝受  ↓↑  正始四年(243年)12月  倭王は  大夫の  伊聲耆  掖邪狗  ら八人を復遣使として  魏に派遣  掖邪狗  らは  率善中郎将の印綬を受けた  ↓↑  正始六年(245年)  難升米に黄幢を授与  ↓↑  正始八年(247年)  倭は  載斯  烏越  らを  帯方郡に派遣  狗奴国との戦いを報告  魏は  張政  を倭に派遣  難升米  に詔書、黄幢を授与  ↓↑  卑弥呼 死亡  墓造作  男王が立つが  国が混乱  互いに誅殺しあい千人余が死亡  卑弥呼の  宗女「壹與」を13歳で王に立て  国が鎮定  倭の女王  壹與は  掖邪狗  ら20人に  張政  の帰還を送らせ  掖邪狗らは  都に向かい  男女の生口30人  白珠5000孔  青大句珠2枚  異文の雑錦20匹を貢いだ  『後漢書』  建武中元二年(57年)  倭奴国が金印を授与される  永初元年(107年)  倭国王  帥升  が  安帝に拝謁を願う  ↓↑  桓帝と霊帝の間(146年~189年)  倭国大乱  ↓↑  ???・・・西暦247年3月24日        皆既日食夕方        朝鮮半島南部から        中国大陸へ向かって観測        日本列島で観測された地点は無い        壬卯        癸卯        庚午        壬午  ↓↑  ・・・・・・西暦248年9月5日早朝        観測地域        北関東        ~        北陸・能登半島に掛けて観測        戊辰        庚申        辛酉        辛卯  ↓↑  正始中(240~248)卑弥呼 死亡        卑彌呼以死        大作冢、徑百餘歩        殉葬者 百餘人  ↓↑  522年  継体天皇   522 年 6 月10日の日食  干支     壬寅  継体天皇   十六年  中国  梁     普通三年  北魏    正光三年  ↓↑  越前の大王・継体天皇  近畿を征服  磐井の乱  司馬達等が来朝  文帝、南朝陳の第2代皇帝誕生  ↓↑  『三國志』(三国志)卷四   魏書四 三少帝紀 第四   正始四年  「冬十二月 倭國女王 俾彌呼 遣使奉獻」  十二月は菊の花・・・  ↓↑  「キクの名前」   の  「背負う説」資料です・・・ ーーーーー  ・・・???・・・  『日本書紀』の巻第二十二  「日有蝕尽之」   戊┏子(壬 癸)比肩・偏財 胎   丙┣辰(乙癸戊)偏印・正官冠帯   戊┗申(戊壬庚)  ・偏財 病   壬┗子(壬 癸)偏財・正財帝旺   ↓↑    628 年4月10 日「三月丁未朔、戊申日有蝕尽之」         (三月の丁未の朔、戊申日、蝕え尽きたること有り)         都の飛鳥京で皆既食が見られた         実際は日本のすぐ南東沖を通過した皆既食で         飛鳥京では食分0.93程度の部分食         推古天皇は5日後の4月15日        (推古天皇三十六年三月七日)         死去  ・・・6+2+8+4+1+0=21・・・2+1=3              念初   参=參                   㕘叅叄                   參=厽+㐱                     厶+厸+人+彡     6 2 8 4 1 0     六拾弐萬八千四百壱拾     陸拾貳萬捌阡肆陌壹足           肆=シ=乨=台+乚=始=女+台               臺+乙=はじめる  ・・・???・・・  「阝坴扌合二貝弋艹禺扌別阝千镸聿阝百一足」  乨=始  the beginning; to start, to begin, to be the first  玉篇・古文 始字。註詳女部五畫。  女之初也。从女台聲。詩止切〖注〗  乨=兘・・・始=女 +台=女+臺  古文。  『說文解字注』  (始)女之初也。釋詁曰。初、始也。  此與爲互訓。初、裁皆衣之始也。  基者、牆之始也。  凡言之者皆分別之䛐。有叚殆爲始者。  七月毛傳云殆始也是也。从女。  台聲。詩止切。  一部。按凡始事有急緩之殊。不得云有二義。  今人乃爲之二音。緩者讀去聲。  月令紀節物用始字十餘。  而蟬始鳴獨市志反。  其亦庸人自擾也矣。 ーーーーー  ・・・???・・・  コジキ姫「壱与」・・・「壹與」  カンジて赤い絨毯にのり  空をカケメグル   「古事記・字源」物語 http://web.archive.org/web/20090409083704/http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/hime/hime77.htm


 ヤゴとトンボ・・・秋津洲・・・遣唐使・・・遣隋使・・・  検討すること・・・秋津洲・・・遣唐使・・・遣隋使・・・  またか・・・ボケだから・・・同じことヤッテいる・・・ムシムシむし・・・

 ヤゴ(水蠆)はトンボ目(蜻蛉目)の  不均翅亜目  の  幼虫   ↓↑   蠆=萬+虫    艹+禺+虫    異体字「䘍=萬+[m:318]・虿=万+虫」    蟲・虫    タイ    さそり(蠍・[m:110])    さそり・尾の先端に毒針を持つ    刺す・毒虫が刺す   「水蠆(スイタイ)」=蜻蛉(とんぼ)の幼虫    ヤゴ

 トンボ(蜻蛉・蜻蜓・とんぼ・dragonfly, damselfly)  細長い翅と腹を持った昆虫  蜻蛉目(トンボ目・Odonata)  南米産の  ハビロイトトンボは  巣を張っているクモに体当たりし  落ちてきたクモを捕食・・・?       ・・・女郎蜘蛛vs蜻蛉           絡新婦(ジョロウぐも)・・・???           カラメとるシンプ           絡=糸+各=からむ           新=立+木+斤           婦=女+帚             女 彐 冖 巾             菷・掃・箒            (ほうき・はく)             法規・放棄・蜂起・宝亀・伯耆?・白?           イトにカラみ、タチキのキンのジョのハク?           クモ(蜘蛛・spider)           節足動物門           鋏角亜門           クモガタ綱           クモ目(Araneae)           歸=丿+㠯+止+帚             丿+㠯+止+彐+冖+巾             帰=皈=白+反・㱕=止+帚             歸(かえす)す             歸(かえる)る             歸(おくる)る             歸(とつぐ)ぐ             思帰・思歸(シキ)故郷に帰りたい望郷・郷愁             思帰鳥・思歸鳥(ほととぎす)・不如帰・霍公鳥             子規・田鵑・杜宇・蜀魂・時鳥・沓手鳥            (杜鵑・Cuculus poliocephalus             =カッコウ目・カッコウ科              郭公             「うぐいす=鶯=鴬」に「托卵」する・・・ナゼ?             大陸、半島渡来人?・・・遣隋、遣唐使の留学生?             望郷は「渡り鳥」だが、故郷、故国とは「出生地」             ノスタルジア(nostalgia)             ノスタルジー(nostalgie)          濅=氵+宀+帚+又=浸・・・侵入・侵略・侵攻            氵+宀+彐+冖+巾+又            濅す(ひたす)            濅る(ひたる)            濅みる(しみる)            濅かる(つかる)            濅く(つく)

 寒冷地ではふつう幼虫で越冬するが  オツネントンボの仲間は成虫で越冬・・・  「秋津の臀呫(となめ)の如し」・・・神武天皇  (トンボの交尾のようだ)と述べた・・・  ↓↑  み吉野の 袁牟漏が岳に 猪鹿(しし)伏すと 誰ぞ 大前に奏(まを)す  やすみしし 我が大君の 猪鹿(しし)待つと 呉座にいまし  白栲(しろたへ)の 衣手着そなふ 手腓(たこむら)に 虻かきつき  その虻を 蜻蛉早咋ひ かくの如 名に負はむと  そらみつ 倭の国を 蜻蛉島とふ・・・雄略天皇

 ↓↑  虫(蟲・むし)  人類・獣類・鳥類・魚類以外の  小動物の総称  蠕形動物のこと・回虫  回虫原因の腹痛  潜在する意識  ↓↑  虫=中+ム    ヘビの象形文字    它・蛇・蝮    キ   「蟲」とは異なる概念   「蟲」=人間を含めてすべての生物       本来「チュウ」と読む文字  ↓↑     ↓↑       「羽蟲=鳥」       「毛蟲=獣」       「鱗蟲=魚および爬虫類」       「介蟲=亀(かめ)、甲殻類、貝類」       「裸蟲=ヒト(人)」       「蟲」の略字=「虫」   ↓↑  「竜(龍)」  「蛟(ミズチ・水中の竜   蛟竜(こうりゅう)   水霊(みずち)」  「蜃(シン・水中の竜」  「蜃気楼」=「蜃」の吐く息の昇華現象  「虹(コウ・にじ・天に舞う竜の化身」  「虹蛇(こうだ、にじへび)」  ↓↑  まむし=眞虫=蝮=磨虫・魔虫  「三尸(サンシ)の虫」  ↓↑  虫の知らせ  腹の虫  虫の居所が悪い  虫がいい  虫が好かない  獅子身中の虫  ↓↑  蠕虫・蛞蝓・田螺・でんでん虫=蝸牛  長虫=へび  ↓↑  扁形動物門のウズムシ  紐形動物門のヒモムシ  星口動物門のホシムシ  軟体動物のフナクイムシ  虫=チュウ・むし  ↓↑  線形動物  センチュウ、カイチュウ、ギョウチュウ  中生動物  ニハイチュウ  単細胞生物・原生動物  ゾウリムシ・ラッパムシ  節足動物の多足亜門、六脚亜門、鋏角亜門  の蛛形綱、甲殻類のワラジムシ亜目  ↓↑  虫の息  悪い虫が付く  虫酸が走る  虫も殺さぬ顔  飛んで火に入る夏の虫  蓼食う虫も好きずき  一寸の虫にも五分の魂  苦虫を噛み潰したよう  虫の居どころが悪い  弱虫  泣き虫  点取り虫  ~の虫  蟹・蛬・蛍・蠱・螯・蚕・蚩・蝨・蠢  蜀・蝕・蜃・螫・蚤・蠆・蛋・蜑・蟄  虫・蟲・蠹・蟇・蛮・蜚・蜜・融・蠡  ↓↑  蠡=彖+䖵    彑+豕+虫+虫    レイ・ラ・リ    ひさご・にな・ほらがい    ヒョウタンを割って作った器    蠡測    巻貝の一種    蠡(にな)    蠡(ひさご)    蠡測(レイソク)  ↓↑  宝亀八年(777年)六月  第14次遣唐使の判官  第三船で渡唐  七月  持節副使(大使代行)  小野石根が乗る第一船と共に  揚州海陵県(江蘇省泰州市)に漂着  八月末  揚州大都督に到着  「安禄山の乱」の影響で駅舎が荒廃  観察使兼  陳少遊との取り決めにより  長安への入京者が60人(65人)に制限  十月に85人で揚州を発ち  百余里進んだところで  中書門下の勅牒により  人数を20人に制限され  遣唐使側の依頼により  23人を追加して計43人が入京  宝亀九年(778年)正月  持節副使・小野石根  副使  ・大神末足  らと共に長安に入城  宣政殿で拝謁の儀が行われるが皇帝は出御せず  三月  延英殿で皇帝  代宗に対面し、官や賞を授けられた  四月  中使・趙宝英と共に使節一行は  長安を去り  六月に揚州に到着  九月  滋野の第三船は  唐使を乗せて  揚州海陵県から出航  三日目に逆風で座礁  船の修理後  十月半ばに出航  1週間ほどで  肥前国  松浦郡橘浦(長崎県上五島町・玉之浦町付近)  に帰着  十一月  第一船・第二船  出航し  第一船は遭難し  判官・大伴継人ら41名のみが  肥後国天草郡に漂着し  第二船は薩摩国出水郡に帰着  ↓↑  宝亀十年(779年)四月  副使  大神末足  大伴継人  録事  上毛野大川  らの渡唐の功労に対する叙位  滋野は従五位下に叙爵  共に渡海した唐使の  孫興進  秦怤期  が入京  五月  光仁天皇に拝謁  宝亀十一年(780年)  滋野は豊前守に任官  陽胡 玉陳(やこ の たまふる)  名は「王陳」とも記録  姓は史  陽胡(陽侯)氏の祖・・・要注=幼虫     ・・・煬帝=楊広           別名は「英」・・・英国           小字は「阿麼」・・阿毎・阿部  ・・・并  幵=ケン・たいら・そろえる    さお(干)を平にそろえた形  姸=女+幵・女+开(磨く)   =姸・妍(磨かれた美しい女性      妍しい・うつくしい)  研=研究(穴+ノ+乙)・研磨・麿・厲=みがく・砥ぐ・とぐ ーーーーー  全ての  参考文献(by ウィキペディア(Wikipedia))  ↓↑  隋皇帝  在位期間  604年8月21日 - 618年4月11日  姓・諱 楊広  諡号 明皇帝(楊侗より)  煬皇帝(李淵より)  閔皇帝(竇建徳より)  廟号 世祖(楊侗より)  生年 天和4年(569年)  没年 大業14年3月11日     (618年4月11日)      宇文化及らに殺される  父 文帝=楊堅の次子  母 独孤皇后  后妃 蕭皇后  陵墓 雷塘  年号 大業 : 605年~618年  ↓↑  王世充  隋末唐初の群雄の一人  鄭国 (テイコク) 皇帝 (在位 619~621)  字は行満  西域の胡人  煬帝が殺されると  楊 侗 (ヨウトウ) を皇帝に立て  不和となると専権をふるい  楊 侗を廃して  鄭国を建て帝位につき  楊 侗を毒殺  李世民 (唐の太宗 ) に攻められて捕えられ殺された  ↓↑  本姓は支氏  西域胡人の子孫  王は祖母の再婚先の姓  王世充は  兵法・卜占・暦法などに長じ  煬帝の寵臣となった  反乱軍討伐のため洛陽に駐屯  煬帝が殺されて  帝の孫  越王侗が洛陽に即位すると軍事権を握り  619年(皇泰二年)  楊侗を廃して鄭国を建国  華北は  唐・鄭・夏(竇建徳(トウケントク))に三分  鄭は夏と結んで唐に当たったが  李世民(太宗)に攻め落とされ  長安に送られた後殺された  ↓↑  恭帝 侗(キョウテイ トウ)  隋の第4代皇帝  元号を皇泰とし  皇泰主とも史称  姓・諱 楊侗  字   仁謹  諡号 恭皇帝  生年 仁寿4年(604年)  没年 開明元年(619年)6月  父  楊昭  母  小劉良娣  年号 皇泰 618年~619年  ↓↑  元徳太子の  楊昭の次男  大業3年(607年)  祖父の  煬帝に  越王に立てられた  大業9年(613年)  「楊玄感の乱」が起こると  戸部尚書の  樊子蓋  とともに洛陽を守備  東都留守のまま  高陽郡太守に任じられた  大業13年(617年)  煬帝が江都に下ると  段達・元文都・韋津・皇甫無逸  らとともに洛陽を守った  洛口倉に拠った  李密がしばしば攻勢をかけ  王世充らを派遣して一進一退を繰り返し  大業14年(618年)  煬帝が宇文化及らに殺され  段達らに擁立されて即位  ↓↑  段達が礼部尚書・右翊衛大将軍  王世充が吏部尚書・左翊衛大将軍  元文都が内史令・左驍衛大将軍  盧楚が内史令  皇甫無逸が兵部尚書・右武衛大将軍  郭文懿が内史侍郎  趙長文が黄門侍郎  朝廷を牛耳る段達らを「七貴」と称した  元文都・盧楚・郭文懿・趙長文  らは  王世充に殺害され  皇甫無逸は長安に逃れて唐に帰順した  ↓↑  王世充が李密を破って実権を掌握  皇泰2年(619年)5月  恭帝は王世充に禅譲  潞国公に封ぜられ  王世充によって服毒自殺を命じられ  服毒するが  死ななかったために縊り殺された ー↓↑ーーー  「陽侯=陽胡」氏・・・ヤゴ=水蠆(スイタイ)             トンボ=蜻蛉の幼虫  ↓↑  ヤゴはトンボの幼虫(ヨウチュウ)  ヤゴ(水蠆)はトンボ目(蜻蛉目)  不均翅亜目の幼虫  推古天皇十年(602年)  百済の僧侶  観勒  が日本に渡来  暦の本・天文地理の書・遁甲方術の書  を朝廷に貢いだ  書生3、4名を選んで  観勒の元で学ばせ  「玉陳」  は暦法を学んでこれを修めた  ↓↑  陽侯 真身(やこ の まみ・むざね)  父 不詳  母 不詳  子女  陽侯 令珍  陽侯 令珪  陽侯 令璆  陽侯 人麻呂  ↓↑  官位は従五位下・但馬守  元正天皇  養老六年(722年)  矢集虫麻呂  大和長岡  らと共に  養老律令撰修の功労により功田を与えられ  真身の功田は4町  聖武天皇  天平二年(730年)  通訳養成のために  粟田馬養  ら4人と共にそれぞれ  弟子を2人取り漢語を教授  『楊氏漢語抄』は真身の著作という説・・・  天平七年(735年)  外従五位下  天平10年(738年)四月  豊後守  天平十三年(741年)八月  但馬守  地方官を歴任  四月  巨勢奈弖麻呂  藤原仲麻呂  らとともに  河内国と摂津国が  河の塘(茨田堤)の境を争っている場所を巡検  天平二十年(748年)  外従五位上  従五位下に昇叙  孝謙朝初頭  但馬守  東大寺大仏建立で  銭1000貫  牛1頭を献上  ↓↑  陽侯 麻呂(やこ の まろ)  姓は史  官職は大隅国守  陽侯氏(陽侯史=陽侯忌寸)  隋の煬帝の子孫  達率  楊候  阿子王  の末裔を称する  「楊候・楊胡・陽候・陽胡」  とも記録  文武天皇四年(700年)  僧の  「通徳」  が還俗して  「陽侯史」の姓と  「久爾曾」の名を与えられ  勤広肆に叙せられた  陽侯麻呂  国司に任命  ↓↑  大隅国守在任中の  養老四年(720年)  反乱を起こした隼人によって殺害  二月二十九日  に大宰府から朝廷に報告  「隼人の反乱」  勃発  ↓↑  陽侯 令璆(やこ の れいきゅう/りょうぐ)  名は「玲璆」とも記録  姓は史(毘登)  のち忌寸  但馬守  陽侯真身の子  官位は外従五位下・豊後介  名は玲璆とも記録  ↓↑  天平感宝元年(749年)  東大寺大仏建立で  令珍ら兄弟3人と共に  千貫の貢銭を行い  令璆は  従八位上から外従五位下に叙せられた  天平宝字三年(759年)  越後守任官  天平宝字四年(760年)  渤海使  高南申  を渤海に送り届けて帰国し  内位の従五位下に叙せられる  天平宝字七年(763年)  内匠助  神護景雲二年(768年)  一族64名が  史(毘登)姓から  忌寸姓に改姓した際  弟の  人麻呂が一族の代表  淳仁朝から  称徳朝にかけて政争に巻き込まれた・・・  宝亀九年(778年)  外従五位下に復され  宝亀十一年(780年)  尾張介  天応元年(781年)  尾張守  天応二年(782年)  豊後介  光仁朝末~桓武朝初頭に  地方官を歴任  ↓↑  陽侯 令珍(やこ の れいちん・りょうちん)  名は「玲珍」とも記録  姓は史(毘登)  但馬守・陽侯真身の子  官位は外従五位下・日向守  天平感宝元年(749年)  東大寺大仏造営に  弟3人と共にそれぞれ  銭1000貫を貢進  従七位上~外従五位下に叙せられる  淳仁朝  漆部正  伊賀守・日向守  の地方官を歴任  神護景雲二年(768年)  族64名が  史(毘登)姓から忌寸姓に改姓  弟・人麻呂が一族の代表とされた ーーーーー  ・・・???

 (表紙・画像・音楽)」の

  移転先・・・

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 ボクの「古事記字源」の発端・・・

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 干支歴

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 追加添文

 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」

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