山上憶良・・・大宝元年(701)正月 第七次遣唐使・・・?
2022/11/13・日曜日・・・追加添文・・・
・・・日曜日なのに朝から暴風雨・・・ボロ屋敷が吹っ飛びそうだが
庭に咲く一輪の桃色の蕾のバラがシブトク耐えている・・・
明日の天気予報は雪とか・・・
山上=サンジョウ=・・・山上の垂訓 憶良=良く憶えろ=記憶・・・ ↓↑ 大宝元年(701)正月 第七次遣唐使 少録(ショウさかん) に任命 ↓↑ 山上の垂訓(説教) ↓↑ 新約聖書 『マタイによる福音書』第5章~7章 『ルカによる福音書』第6章 イエスが山の上で 弟子たちと 群集に語った教え ↓↑ 章頭(マタイ福音書5章3節~10節) 「幸福なるかな」 と8回繰り返される 幸福の説教=真福八端=真福詞 ・・・・・真福字発端? 「正教会」 5章12節前半 「幸いなり ・・・天には 爾等(おれら・なんじら)の 報い多ければなり」 までの 9句の構成とし 真福九端(シンプクキュウタン) ーーーーー 2019年12月21日0時土曜日 2019年 干支36 己亥(戊・甲・壬)年 12月 干支13 丙子(壬・ ・癸)月 21日 干支29 壬辰(乙・癸・戊)日 ーーーーー 真福寺 ↓↑ 所在地 愛知県名古屋市中区大須2-21-47 位置 北緯35度9分35.13秒 東経136度53分58.23秒 山号 北野山 院号 宝生院(寶生院) 宗派 真言宗智山派 寺格 別格本山 本尊 聖観音 創建年 元弘三年(1333年) 開基 能信 正式名 北野山 真福寺 寶生院 札所等 日本三大観音 東海三十六不動尊10番 尾張三十三観音1番 なごや七福神布袋霊場 大名古屋十二支主管寺 文化財 真福寺文庫 古事記 写本他(国宝) 絹本著色仏涅槃図他(重要文化財) ↓↑ 愛知県 名古屋市 中区 大須 真言宗 智山派の 別格本山 通称 大須観音 真福寺本を所蔵 ↓↑ 大須観音(おおすかんのん) 真言宗 智山派の 別格本山・・・別に書く本の纂・・・? 本尊は聖観音 寺号は 「北野山 真福寺 宝生院(ほうしょういん)」 宗教法人公称は「宝生院」 一般には「大須観音」 日本三大観音の一 なごや七福神の一の 布袋像を安置 『古事記』 の最古写本、貴重書を多数蔵する 「真福寺文庫」 ↓↑ 建久年間・・・・・・建(たける)久(ひさしい=比差思惟)? 日本武=大和建=倭男具那=小碓命 (1190年代) 尾張国 中島郡 長庄 大須 に 中島観音が発祥 元亨四年 (1324年) 「後醍醐」天皇・・・建武中興・1334年 が 大須郷(岐阜県 羽島市 桑原町 大須) に 北野 天満宮を創建 元弘三年(1333年) 同社 別当寺として・・・別当字(時・治・地・辞・知・智) 僧 能信・・・能=ム+月(肉・ジク)+ヒ+七(匕・牝) 信=イ(人)+言(亠+二+口) が創建した 真福寺・・・「心腹・信伏・震幅・振幅・新福」+ジ が始まり 後 「後村上」天皇により 伽藍建立 勅願寺となった 四天王寺の 観世音菩薩を移して 本尊とした ↓↑ 三代目住職 「任瑜」法親王 の時 寺領一万石 伊勢・美濃・尾張・三河・遠江・信濃 六ヶ国の 真言宗寺院・・・真言相似韻? の 末寺・・・まつじ(枩時・俟時・奠時)? すえじ(陶字・須恵字)? となった ↓↑ 戦国時代 「織田信長」 により 寺領五百石が寄進 ↓↑ 慶長十七年 (1612年) 徳川家康 の命令で 犬山城主 成瀬正茂によって 大須郷(岐阜県羽島市桑原町大須) から現在地に移転 ↓↑ 文化十二年(1815年) 五重塔建立 「空海」が彫った 愛染明王像が 五重塔内に安置 ↓↑ 明治二十五年(1892年) 3月21日 宝生座(芝居小屋)裏手から出火(大須大火) 本堂、五重塔 仁王門 を焼失 4月 大須の大火で焼失した 本堂、五重塔、仁王門を再建する為 「再建寄附金帳」に 再建の為に 本堂、五重塔、仁王門の 建地割図(設計図)が描かれ 本堂、五重塔、仁王門に関する 再建内容が5丁で記録 後に 本堂と仁王門は再建 五重塔は再建されなかった 昭和20年 (1945年) 名古屋大空襲で2度目の焼失 昭和24年 (1949年) 仮本堂と仁王門が建立 昭和45年(1970年) 鉄筋コンクリートで再建 ↓↑ 戦前 観音よりも 大須で賑わっていた寺は 七堂伽藍の七寺 戦後 七堂伽藍は再建される事はなく 大須観音が再建され 大須の地名は 大須観音の門前町が発祥 ↓↑ 真福寺文庫(大須文庫) 醍醐寺、根来寺と共に日本三経蔵の一 仁和寺、根来寺と共に本朝三文庫の一 15,000冊もの古典籍を所蔵 真福寺本、大須本と言われる ↓↑ 国宝の 『古事記』は 「真福寺本古事記」 同書の現存最古の写本 ↓↑ 「古事記 (こじき・ふることふみ・ふることぶみ)」 日本最古の歴史書・・・ 和銅五年 (712年) 「太安万侶」が編纂 「元明天皇」に献上 「上・中・下の三巻」 天地開闢~推古天皇 まで記述 養老四年 (720年) 編纂の 『日本書紀』より 『古事記』は 出雲神話を重視 「六国史」 和銅五年を含む 『続日本紀』に 『古事記』への言及がない・・・ 「偽書説」も・・・ 序文のみ or 本文も 偽書・・・ ↓↑ 賢瑜 『真福寺本古事記』 建徳二年(1371)~建徳三年(1372) 応安四年(1371)~応安五年(1372) ↓↑ 真福寺の二代住職信瑜の弟子賢瑜によって書写された写本 真福寺の僧 賢瑜 が師 信瑜の命を受けて書写 ・・・「真福寺-究探」・・・ ー↓↑ーーーー↓↑ーーー↓↑ 山上の垂訓↓↑ーーー↓↑ 編上 真福字 九端(シンプクキュウタン) と呼ぶ 幸福の説教の第1文(マタイ5:3) 「全き謙遜」にある状態を幸いとする 「地の塩、世の光」 「右の頬を打たれれば、左も向けなさい」 「汝の敵を愛せよ」 「裁くな、裁かれないためである」 「人からしてもらいたいと あなたが望むことを 人々にしなさい」(イエスの黄金律) 「敲けよ、さらば開かれん」 「狭き門より入れ」 日本語 「豚に真珠」 「砂上の楼閣」 ↓↑ 山上の垂訓の場所 ガリラヤ湖の西の小高い丘・・・ 湖の北端、カペナウム近郊・・・ ↓↑ 「祝福の山(Mount of Beatitudes)」 丘の上に 「山上の垂訓教会」 ↓↑ マタイ伝 5章1節 イエスはこの群衆を見て 山に登り、座につかれると 弟子たちが みもとに近寄ってきた ↓↑ そこで イエスは口を開き 彼らに教えて言われた ↓↑ 「こころの貧しい人たちは さいわいである 天国は彼らのものである」 ↓↑ 「悲しんでいる人たちは さいわいである 彼らは慰められるであろう」 ↓↑ 「柔和な人たちは さいわいである 彼らは 地を受けつぐであろう」・・・天ではない ↓↑ 「義に飢えかわいている人たちは さいわいである 彼らは 飽(あ)き足りるようになるであろう」 ・・・ナゼ、アキたりる、のか・・・ 「ギ」はモウ、「沢山」であるカラ・・・? ↓↑ 「あわれみ深い人たちは さいわいである 彼らは あわれみを受けるであろう」 ↓↑ 「心の清い人たちは さいわいである 彼らは 神を見るであろう」・・・普段は視えない存在? ↓↑ 「平和を・・・タイラ(平)かに、ナギ(和)る 多比良 かに、薙ぎ る 武力平定・天下布武・・・? つくり出す 人たちは さいわいである 彼らは 神の子と呼ばれるであろう」 ↓↑ 「義のために 迫害・・・・・・・・・迫=白+辶=廹=白+廴 ↓↑ 辶=====廴 白が瀬間って害する 勢馬って 逼って=逼迫 逼=辶+畐 辶+一+口+田 畐=ヒョク・フク 容器・足のない鬲 いっぱいになる 満ちる・布の幅 いっぱいに塞がる ↓↑ ぎゅう詰めになる されてきた人たちは さいわいである 天国は彼らのものである」 ↓↑ 「わたしのために 人々が あなたがたを ののしり、また迫害し あなたがたに対し 偽って様々の悪口を言う時には あなたがたは さいわいである」 ↓↑ 「喜び、よろこべ 天において あなたがたの受ける報いは大きい あなたがたより前の預言者たちも 同じように 迫害されたのである」 ↓↑ 「あなたがたは、地の塩である もし 塩のききめがなくなったら 何によって その味が取りもどされようか もはや なんの役にも立たず ただ外に捨てられて 人々にふみつけられるだけである」 ↓↑ 「あなたがたは、世の光である 山の上にある町は 隠れることができない」 ↓↑ 「また あかりをつけて それを 枡の下におく者はいない むしろ 燭台の上において 家の中の すべてのものを 照させるのである」 ↓↑ 「そのように あなたがたの光を人々の前に輝かし そして 人々があなたがたの よいおこないを見て 天にいます あなたがたの父を あがめるようにしなさい」 ↓↑ 「わたしが 律法や預言者を 廃するためにきた、と思ってはならない 廃するためではなく 成就するためにきたのである」 ↓↑ 「よく言っておく 天地が滅び行くまでは 律法の一点、一画もすたることはなく ことごとく 全うされるのである」 ↓↑ 「それだから これらの最も 小さい戒(いまし)めの一つでも破り また そうするように 人に教えたりする者は 天国で 最も小さい者と呼ばれるであろう しかし これをおこない また そう教える者は 天国で 大いなる者と呼ばれるであろう」 ・・・天国・・・ そこは 呼ばれる必要のない場所なのでは・・・? ↓↑ 「わたしは言っておく あなたがたの義が 律法学者や パリサイ人の義に まさっていなければ 決して天国に、はいることはできない」 (マタイ 5:1~マタイ 5:20) ーーーーー ルカ伝 6章20節 そのとき イエスは目をあげ 弟子たちを見て言われた 「あなたがた貧しい人たちは さいわいだ 神の国はあなたがたのものである」 ↓↑ 「あなたがた いま飢えている人たちは、さいわいだ 飽き足りるようになるからである」 ↓↑ 「あなたがた いま泣いている人たちは、さいわいだ 笑うようになるからである」 ↓↑ 「人々があなたがたを憎むとき また 人の子のために あなたがたを 排斥し、ののしり、汚名を着せるときは あなたがたはさいわいだ」 ↓↑ 「その日には喜びおどれ 見よ 天において あなたがたの受ける報いは大きいのだから 彼らの祖先も 預言者たちに対して 同じことをしたのである」 ↓↑ 「しかし あなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ 慰めを受けてしまっているからである」 ↓↑ 「あなたがた 今満腹している人たちは、わざわいだ 飢えるようになるからである」 ↓↑ 「あなたがた 今笑っている人たちは、わざわいだ 悲しみ泣くようになるからである」 ↓↑ 「人が皆 あなたがたをほめるときは あなたがたはわざわいだ 彼らの祖先も にせ預言者たちに対して 同じことをしたのである」 ↓↑ 「しかし 聞いているあなたがたに言う 敵を愛し、憎む者に親切にせよ」 ↓↑ 「のろう者を祝福し はずかしめる者のために祈れ」 ↓↑ 「あなたの頬を打つ者には ほかの頬をも向けてやり あなたの上着を奪い取る者には 下着をも拒むな」 ↓↑ 「あなたに求める者には与えてやり あなたの持ち物を奪う者からは 取りもどそうとするな」 ↓↑ 「人々にしてほしいと あなたがたの望むことを 人々にもそのとおりにせよ」 ↓↑ 「自分を愛してくれる者を 愛したからとて どれほどの手柄になろうか 罪人でさえ 自分を愛してくれる者を愛している」 ↓↑ 「自分によくしてくれる者によくしたとて どれほどの手柄になろうか 罪人でさえ それくらいの事はしている」 ↓↑ 「また返してもらうつもりで 貸したとて、どれほどの手柄になろうか 罪人でも 同じだけのものを返してもらおうとして 仲間に貸すのである」 ↓↑ 「しかし あなたがたは 敵を愛し、人によくしてやり また 何も当てにしないで貸してやれ そうすれば 受ける報いは大きく あなたがたは いと高き者の子となるであろう いと高き者は 恩を知らぬ者にも 悪人にも なさけ深いからである」 ↓↑ 「あなたがたの 父なる神が 慈悲深いように あなたがたも慈悲深い者となれ」 ↓↑ 「人をさばくな そうすれば 自分もさばかれることがないであろう また 人を罪に定めるな そうすれば 自分も罪に定められることがないであろう ゆるしてやれ そうすれば 自分もゆるされるであろう」 ↓↑ 「与えよ そうすれば 自分にも与えられるであろう 人々は おし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに 量をよくして あなたがたの ふところに入れてくれるであろう あなたがたの量るその量りで 自分にも量りかえされるであろうから」 (ルカ 6:20 - ルカ 6:38) ・・・ 「精神性を重視したマタイ伝に対し ルカ伝の方は 社会性、現実性を重視した表現になっており 幸福と不幸の対比の形になっている」 原文は・・・by 「ウィキペディア(Wikipedia)」・・・ ーーーーー ・・・ 山上 憶良(やまのうえ の おくら) ↓↑ 斉明天皇六年(660年)? ~ 天平五年(733年)? 名は 山於 億良 とも 『日本書紀』 天武天皇十五年五月九日条 に 「億仁」 姓は臣 官位は従五位下 筑前守 大宝元年(701年) 正月二十三日 遣唐少録 時期不詳 正六位下 和銅七年(714年) 正月五日 従五位下 霊亀二年(716年) 四月二十七日 伯耆守 神亀三年(726年)頃 筑前守 天平五年(733年)頃 卒去 ↓↑ 「山の上の憶の良」 山上の記憶の良(白𧘇・白𠄌乀ノ・白ヒ)し ↓↑ 大宝元年(701年) 正月二十三日:遣唐少録 時期不詳:正六位下 和銅七年(714年) 正月五日:従五位下 霊亀二年(716年) 四月二十七日:伯耆守 神亀三年(726年)頃:筑前守 天平五年(733年)頃:卒去 ↓↑ 山上憶良 春日一族 皇別氏族の 山上氏(山上臣) 山上の名称 大和国 添上郡 山辺郷 の地名に由来 山於(やまのえ)とも記録 ↓↑ 憶良は 天智・天武両天皇の 侍医を務めた 百済人 憶仁の子 百済滅亡で 父親と共に日本渡来 近江国 甲賀郡 山直郷に住み着き 山上氏を称する 土地の有力氏族 粟田氏に従属し同族化・・・ ↓↑ 大宝元年(701年) 第七次 遣唐使 少録に任ぜられ 大宝二年(702年) 唐に渡り 儒教、仏教など学問研鑽 大宝の遣唐使の 執節使 粟田真人が 同族の 憶良を引き立てた・・・ 和銅七年(714年) 正六位下から従五位下に叙爵 霊亀二年(716年) 伯耆守 養老五年(721年) 佐為王 紀男人 らと共に 東宮 首皇子(聖武天皇) の侍講 退朝の後 東宮に侍す ↓↑ 神亀三年(726年)頃 筑前守 神亀五年(728年)頃 大宰帥 大宰府に着任した 大伴旅人 と共に 筑紫歌壇を形成 天平四年(732年)頃 筑前守任期を終えて帰京 天平五年(733年)六月 「老身に病を重ね 年を経て辛苦しみ また児等を思ふ歌」 藤原八束が 見舞いに遣わせた 河辺東人に対して 「沈痾る時の歌」 を詠む ↓↑ 山上船主は 憶良の子・・・説 ↓↑ 仏教や儒教の思想に傾倒 死や貧、老、病 など 社会的な矛盾を観察 重税に喘ぐ 農民や 防人に取られる夫を見守る妻など 家族への愛情 農民の貧しさなど 社会的な優しさや 弱者を鋭く観察した歌を多数詠んだ ↓↑ 代表的な歌 『貧窮問答歌』 『子を思ふ歌』 『万葉集』には78首 大伴家持 柿本人麻呂 山部赤人 らと共に奈良時代の代表歌人 『新古今和歌集(一首)』 以下の 勅撰和歌集に五首が採録 ↓↑ 神代(かみよ)より 云(い)ひ伝(つ)て来(く)らく 虚(そら)見(み)つ 倭国(やまとのくに)は 皇神(すめかみ)の いつく(厳)しき国 言霊(ことたま)の 幸(さき)はふ国(くに)と 語(かた)り継(つ)ぎ 言(い)ひ継がひけり・・・ ↓↑ (「神代欲理 云傳久良久 虚見通 倭國者 皇神能 伊都久志吉國 言霊能 佐吉播布國等 加多利継 伊比都賀比計理」 『万葉集』巻五~八九四) ↓↑ いざ子ども はやく日本(やまと)へ 大伴の御津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ(唐にて詠んだ歌) (『万葉集』巻一-六三 『新古今和歌集』巻十-八九八) ↓↑ 憶良らは 今は罷(まか)らむ 子泣くらむ それその母も 吾(わ)を待つらむそ (『万葉集』巻三-三三七) ↓↑ 春されば まづ咲くやどの 梅の花 独り見つつや はる日暮らさむ (大宰府「梅花の宴」で詠んだもの) (『万葉集』巻五-八一八) ↓↑ 秋の野に 咲きたる花を 指折りて かき数ふれば 七種(ななくさ)の花 (『万葉集』巻八-一五三七) ↓↑ 瓜食めば 子供念(おも)ほゆ 栗食めば まして偲(しの)はゆ 何処(いづく)より 来たりしものぞ 眼交(まなかい)に もとな懸りて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ (『万葉集』巻五-八〇二) ↓↑ 銀(しろがね)も 金(くがね)も 玉も 何せむに まされる宝 子に如(し)かめやも (『万葉集』巻五-八〇三 今昔秀歌百撰 七 ↓↑ 行く船を 振り留めかね 如何ばかり 恋しかりけむ 松浦佐用姫 (『万葉集』巻五-八七四) ↓↑ 世の中を 憂しとやさしと おもへども 飛びたちかねつ 鳥にしあらねば (『万葉集』巻五-八九三) ↓↑ 士(をのこ)やも 空しくあるべき 万代(よろずよ)に 語り継ぐべき 名は立てずして (『万葉集』巻六-九七八) 『貧窮問答歌』 ーーーーー ・・・???・・・「垂君=垂仁天皇」・・・?
👞・👟・👡・👢=くつ=履⇔履歴書・・・「靴・舃・沓」の履歴? ーー↓↑ーー おほの⇔おおの=大野・大納・大能・青野・多野・大埜・大濃・太野 多・・・意富 ーー↓↑ーー 多 品治(おほ の ほんじ・おほ の ほむぢ) 太の本字? 姓は臣→朝臣 672年 ↓↑ 多=夕+夕 夕=セキ・・・夕方に現れて来る星々 ゆう ゆうべ 夕方・日暮れ 夜 年や月の末 ↓↑ 一夕九徙(いっせききゅうし) 一晩の間に何度も居場所が変わること 一定の居場所にいないため どこにいるかわからないこと 「一夕」は一晩 「九」は数が多いことのたとえ 「徙」は移動すること ↓↑ 中国の後漢の時代の 李コウ=李 広(り こう、? - 紀元前119年) 前漢時代の将軍 文帝・景帝・武帝に仕えた 綽名は飛将軍 武勇に優れていたが 戦功を認められることなく憤死 匈奴から「飛将軍」と怖れられ のちに武勇に優れた武将は 李広になぞらえ 飛将軍と呼ばれ 後漢末期の武将 呂布も飛将軍と呼ばれた 紀元前166年 匈奴征伐に功 郎となり 文帝の側に騎士 景帝の時代 驍騎都尉 周亜夫の下で 楚七国の乱を鎮圧 ただし 梁王武の将軍に任じられていたため 漢からは恩賞を受けられなかった ↓↑ 後に 上谷太守、上郡太 匈奴軍に囲まれ わざとゆっくり後退し 伏兵があるように見せかけ 匈奴軍は追わずに引き揚げた 後 隴西、北地、雁門、雲中の太守 (北辺で匈奴に近い) を歴任 ↓↑ 李広は 暗殺を恐れ 夜中に何度も居場所を変え 同居している人ですら 居場所が分からなかった故事 出典『後漢書(蘇不韋伝)』 蘇不韋=蘇+不+韋 韋=𫝀+口+㐄 イ なめす なめしがわ(鞣革・靼・鞣) 毛を取り去って柔らかくした動物の皮 毛を取り除き・やわらかくした皮 そむく・たがう・行き違う かこい・かこう=囲 韋+アルファ ↓↑ 韌(ジン・しなやか・やわらかで強い=靱) 韎(バイ・バツ・茜色に染めた革 その革で作った前掛け・ひざ掛け 東方民族の舞楽の名) 韍(韋+犮 韋+友+丶 韋+犬+丿 フツ・祭礼用なめし皮の前掛け・ひざ掛け 印璽用の組み紐) 韑(光+韋 ⺌+兀+韋 ⺌+一+儿+韋 イ・ひかり・ひかる) 韐(韋+合 韋+亼+口 韋+人+一+口 コウ・韎韐(バッコウ)=茜染めの前掛け ひざ掛け 軍用の前掛け) 韓(龺+韋 十+日+十+韋 カン・いげた・から・いげた・井戸のかこい 戦国時代の七雄の一・馬韓・辰韓・弁韓・三韓) 韔(韋+長 チョウ・ゆぶくろ・ゆぶくろ・ゆみぶくろ 弓を入れる袋・弓袋・ゆぶくろに弓を入れる) 䪗(韋+叚・カ・くつ) 韝(韋+冓 韋+井+再 韋+井+一+冉 韋+二+丿+丨+再 韋+二+丿+丨+一+冉 韋+一+一+丿+丨+再 韋+一+一+丿+丨+一+冉 韋+井+一+冂+丨+一+一 韋+二+丿+丨+一+冂+丨+一+一 韋+一+一+丿+丨+一+冂+丨+一+一 コウ・ゆごて 弓を射るときに左腕につける防具 韝鞴(コウビ)=ふいご・ふいごう) 韙(是+韋 日+一+龰+韋 イ・よい・正しい・よしとする・同意する) 韗(韋+軍 韋+冖+車 ウン・くつ・皮をなめす職人 皮で鼓を張る職人 革製の靴) 韘(韋+枼 韋+世+木 ショウ・ゆがけ 弓を射るときに、指を護るためにはめる道具) 韜(韋+舀 韋+爫+臼 トウ・かくす・つつむ・ゆごて・ゆみぶくろ 弓を入れておく袋 ふくろ・剣を入れておく袋 つつむ・おさめる・かくす・つつみかくす 六韜(リクトウ)三略 ゆごて・弓を射るときに左腕につける防具 韞(韋+昷 韋 囚 皿 韋 日 皿 韋 囗 人 皿 ウン・オン・収める・包む・入れる・しまう かきいろ・赤色と黄色の中間色) 韛(韋+艹+厂+用 韋+艹+丆+用 韋+艹+一+丿+用 ハイ・ふいご・ふいごう 火をおこすために 風を送りだす革製の袋=鞴) 韡(韋+華・イ・華やかなさま・美しいさま 花の盛んなさま・咲き乱れるさま) 韠(韋+畢・ヒツ・朝廷で用いたなめし皮の前掛け ひざ掛け) 韣(韋+蜀 韋+罒+勹+虫 ショク・トク・ゆぶくろ・ゆみぶくろ 弓を入れる袋・弓袋) 䪜(韋+詹 韋+厃+儿+言 韋+⺈+厂+儿+言 セン・障泥(あおり) 馬具の名+馬の泥除けに用いられる物) 䪝(韋+蒦 韋+艹+隻 韋+艹+隹+又 コ・下緒(さげお) 刀の鞘を帯に結びつけるためのもの しばる・束ねる) 韤(韋+蔑 韋+艹+罒+戍 韋+艹+罒+戊+丶 韋+艹+罒++丿+戈+丶 ベツ・くつした・たび 足袋(たび)・くつした=襪) ↓↑ ↓↑ 韋弦之佩(異言の葉意?) 戒めのものを身につけること 韋駄天走(異拿典叢?) 足の速い人 韋編三絶(異変・異編・纂是通?) 同じ書物を何度も読むこと 佩韋佩弦(配意葉異言?) 自分の短所の改善に努めること 布衣韋帯(不意異体?) 官職についていない普通の人のこと 藜杖韋帯(令状異体?) 飾り気が無く慎ましいことのたとえ ↓↑ 蘇不韋 時年十八 徴詣 李公車 會 蘇謙 見殺 ↓↑ 蘇不韋 載喪歸郷里 瘞 而不葬 仰天嘆曰 「伍子胥 獨 何人也!」 ↓↑・・・楚の乾渓 (安徽省亳州市利辛県)の人 荘王から信頼された 伍挙の孫 楚の重臣を担った家柄 伍子胥の父 伍奢は 平王の子 太子建の 太傅(侍従長兼教育係) 直言清廉の人 紀元前506年 柏挙の戦い 兵法の天才 孫武 楚の地理と内情を知る 伍子胥 が連戦連勝で 楚の都郢を陥落させた 平王は既に死んでいたので 伍子胥は王墓を暴き 平王の死体を300回に及び鞭打った 「死者(屍)に鞭打つ」語源 親友の 申包胥に酷いと責められ 伍子胥は 「日暮れて道遠し 故に倒行してこれを逆施するのみ」 「自分はもう年を取っているので やり方などは気にしておれないのだ」 「時間は無いのにやるべきことは沢山ある だから焦って 非常識な振る舞いをしたのだ」・・・ 「日暮れて道遠し(ひくれてみちとおし)」 の故事 ↓↑ 乃 藏母 於 武都山中 遂 變名姓 盡 以家財募劒客 邀翬 於諸陵輭 不剋。 ↓↑ 會 李翬 遷 大司農 時 右校芻廥 在寺北垣下 ↓↑ 蘇不韋 與 親從兄弟 潛入廥中 夜 則 鑿地 晝 則 逃伏 ↓↑ 如此 經月 遂得傍達 李翬之寢室 出其牀下。 ↓↑ 値翬在廁 因殺 其妾 并及 小兒、 留 書而去。 ↓↑ 李翬 大驚懼 乃 布棘於室 以 板籍地 一夕九徙 雖 家人 莫知其處。 ↓↑ 毎出 輒劒戟隨身、壮士自衛。 ↓↑ 蘇不韋 知 李翬 有備 乃 日夜飛馳、徑到魏郡 ↓↑ 掘 其父阜冢、斷取阜頭、以祭父墳 又 標之於市曰 「李君遷父頭」。 ↓↑ 李翬 匿 不敢言 而 自上退位、歸郷里 私掩塞冢椁。 ↓↑ 捕求 蘇不韋 歴歳不能得 憤恚感傷 發病歐血死。 (『後漢書』列伝第二十一・蘇不韋伝) ↓↑ 蘇不韋という青年が 父の 蘇謙が 李翬・・・翬=羽+軍=雉(きじ) キ ちぶ・とぶ 鳥革翬飛(チョウカクキヒ) 鳥が翼を広げ 翬(とぶ・きじ)=あでやかに飛ぶ様 両翼の宮殿の形容 の逆恨みで 殺された ↓↑ 蘇不韋は家財をなげうって 親族と共に 仇の李翬を付け狙った ↓↑ 李翬 宦官と結んだ 本人は大臣職 ↓↑ 蘇不韋らは 暗殺者を雇ったが果たせず 李翬の住居の傍から 隧道を掘り 住居へ侵入し 妾と子供を殺し 犯行の書置きを残して去った ↓↑ 李翬は 出歩く時は護衛を付け 蘇不韋は 李翬の故郷 魏郡へ行き 李翬の父の墓を暴き 首を取って 父の 蘇謙の墓に供えた ↓↑ 李翬は職を辞し 父の墓をもとに戻し 蘇不韋を探したが見つからず 怒りと悲しみで 病を発して死んだ (『史記』 李広や 涼武昭王 李翬の本貫は「隴西成紀」) ↓↑ ↓↑ 一朝一夕(一兆一石?) 花朝月夕(可聴解通籍?) 初秋涼夕(書集良籍・碩?) 朝盈夕虚(長英・張衛-籍拠・籍挙?) 朝過夕改(長歌籍戎?) 朝観夕覧(鳥観籍覧・鳥瞰跡乱 兆巻赤覧・聴感籍覧?) 朝不謀夕(貼付望籍?) 朝聞夕死(長文碩詞・弔文籍詞?) ー↓↑↓↑ー 多 品治・・・多(おほの)の翻字(ホンジ)? 品=口+吅 口+口+口 ヒン・ホン しな しな・しなもの いろいろな物・物品 くらい・級・位階 人がら・人格・人の性質 等級 評価ランク 良し悪しの判断 たぐい・種類 物事の種類を数詞 きまり・制度・基準・法則 仏典で「章・編」 日本語で 律令制の親王に賜った位 品位は一品~四品まで 商品・物品 物に備わっている価値 ねうち・ひん 等級・品位・品格 しなさだめをする・品評 物の種類、分類 品詞・品種 親王に賜った位 品(ホン)⇔本 品(ホン)⇔本 品治=ホンジ=本字・翻字・本寺・本地・本児・本旨 日本書紀・巻二十八(壬申紀) ↓↑ 古事記・序文 ここに 天皇詔りたまわく 「朕聞く 諸家のもてる帝紀および本辭 既に正實に違ひ 多く虚僞を加ふと 今の時にあたり その失を改めずは いまだ幾年を経ずして その旨、滅びなむとす。 これすなわち 邦家の經緯、王化の鴻基なり。 故 これ帝紀を撰録し 旧辞を討覈して 偽りを削り 実を定實めて 後の葉に 流へむと欲ふ」 とのりたまひき。 ↓↑ 時に 舍人、有り 姓は稗田 名は阿禮。 ↓↑ 年はこれ廿八。 ↓↑ 人と爲り聰明にして 目に度れば 口に誦み 耳に拂るれば 心に勒す。 ↓↑ 即ち 阿禮に 勅語して 帝皇の日繼 及び 先代の旧辞を 誦に習はしめたまひき 然れども運移り世異りて 未だその事を 行ひたまはざりき。 ↓↑ 伏して惟うに皇帝陛下 一を得て光宅し 三に通じて亭育したまふ。 紫宸に御して 徳は馬の蹄の極まる所に被び 玄扈に坐して 化は 船の頭の逮ぶ所を照らしたまふ。 日浮かびて暉を重ね 雲散ちりて烟に非ず 柯を連ね穗を并す瑞 史書すことを絶たず 烽を列ね 訳を重むる貢 府空しき月無 名は 文命よりも高く 徳は天乙にも冠りたまへりと 謂ひつべし。 ↓↑ ここに 舊辭の誤り忤へるを惜しみ 先紀の謬り錯れると正さむとして 和銅四年九月十八日 を以ちて 臣 安萬侶に詔りして 稗田阿禮 が誦む所の 勅語の舊辭を撰録して 獻上せしむといへれば 謹みて詔旨のまにまに 子細に採りひぬ。 ↓↑ 然れども 上古の時は 言と意を 並朴にして 文を敷き 句を構ふること 字におきて 即ち 難し。 已に 訓によりて述べたるは 詞心におよばず。 全く音を以て連ねたるは 事の趣さらに長し。 是をもちて今 或は 一句の中に 音訓を交いて用ゐ 或は 一事の内に 全く訓を以ちて録す。 即ち 辭理の見えがたきは 注を以ちて明かにし 意况の解り易きは 更に注せず。 また ↓↑ 姓おきて 日下を 玖沙訶といひ ↓↑ 名におきて 帶の字を 多羅斯 といふ。 ↓↑ かくの如き類は 本のままに改ず。 大抵 記す所は 天地の開闢より始めて 于 小治田の御世に訖る 故 天御中主神 以下 日子波限建鵜 草葺不合尊 以前を上卷となし 神倭伊波禮毘古天皇 以下 品陀御世以前を中卷となし 大雀皇帝 以下 小治田大宮 以前を下卷となし 并せて三卷に録して 謹みて獻上る。 臣安萬侶 誠惶誠恐 頓首頓首。 ↓↑ 和銅五年正月二十八日 正五位上勲五 等 太 朝臣 安萬侶 謹上。 ↓↑ 壬申の乱 天武天皇元年 六月二十四日~七月二十三日 ユリウス暦 672年7月24日~8月21日 ↓↑ 大海人皇子(天武天皇)の側 莿萩野を守って敵を撃退 冠位は小錦下 ↓↑ 美濃国 安八磨郡(安八郡)の 湯沐令で 皇子の生計を支える 封戸を管理する役職 大海人皇子 行動をおこす 2日前の 6月22日 村国男依 和珥部君手 身毛広 ら3人は 美濃に先行を命じ 任務は ↓↑ 多 品治 ↓↑ に連絡し 安八磨郡を挙兵させること その任を果たし 美濃の兵3千が 大海人皇子のために 不破道を塞いだ 大海人皇子は 東国の兵力を結集 ↓↑ 7月2日 美濃で 大海人皇子は 数万の軍を 二手に分け 一軍を伊勢国の大山越えで大和国へ 一軍を直接近江国に入らせることを命じた 品治は 紀阿閉麻呂 三輪子首 置始菟 と共に大和に向かう軍を率いた 後 品治は別命を受け 3千の兵と共に 莿萩野(たらの)に駐屯 莿萩野=伊賀(伊勢国) 大和⇔伊賀⇔伊勢⇔美濃 の連絡線の伊賀を守る位置 田中足麻呂が 近江と伊賀を結ぶ 倉歴道の守備についた ↓↑ 対する 大友皇子側の将 田辺小隅は 5日 倉歴に夜襲 守備兵は敗走し 足麻呂は一人逃亡 小隅の軍は 翌日 莿萩野を襲おうとしたが 多品治がこれを阻止、追撃 小隅は逃亡 以後 大友方の軍勢の襲撃はなかった ↓↑ 天武天皇12年(683年)12月13日 多品治は 伊勢王 羽田八国(羽田矢国) 中臣大島 と共に 判官・録史・工匠 などの部下を引き連れて全国を巡り 諸国の境界を定めた 多品治の位は小錦下 ↓↑ 天武天皇13年(684年)11月1日 多臣など 52氏は新たに朝臣の姓を授かった ↓↑ 天武天皇14年(685年)9月18日 天武天皇は 皇族・臣下と 大安殿で博打 天皇は大安殿の中に 皇族と臣下は殿の前に位置 多品治はこの日に 天皇の衣と袴を与えられた 10人の中の一人 ↓↑ 持統天皇10年(696年)8月25日 多品治は 直広壱 と物を与えられた 壬申の乱で関を守った褒賞 多品治を・・・緒保(他・妥)の本をオサム? 太安万侶 の父とする説・・・ (『阿蘇家略系譜』)・・・ 健磐龍命の後裔氏族である 阿蘇氏・・・ 神武天皇の皇子 神八井耳命が 阿蘇氏(姓は君)などの祖 意富氏(姓は臣) 火 氏(姓は君) 大分氏(姓は君) などとは同祖(古事記)・・・ ーーーーー ・・・???・・・
「人間は社会的 (ポリス的) 動物である」・・・掘り巣適? カッパドキア(ラテン語: Cappadocia)・・・河童-土岐-宛? トルコ(土耳古・Turkey)の中央・・・・・・土耳古 河童巻き・・・海苔の胡瓜巻き・・・鮨・・・呪師・メデタシ・・・
アナトリア(アナ-トリア半島 ドーリア ギリシア語 Δωριείς・Dories・英語 Dorians ドーリア・アイオリス・イオニア人 古代ギリシアを構成した集団 前1200年頃 アカイア人のいた ギリシアに 西北方から鉄器をもって侵入 ミケーネ文明を破壊し ペロポネソス半島やエーゲ海諸島に定住 ギリシア語ドリス方言を話した スパルタ アナ(Ana, Anna) ドリア(Doria) ↓↑ ド+「ラ・リ・ル・レ・ロ」 ↓↑ トライ(try・試みる・験す) トライデント(trident・三叉の戟) =トリアイナ(τρίαινα) トゥライアブル(traiəbl・お試し) トゥライヂック(triadic・三人組の・三和音の・三価の) トライデック-リレーション(triadic relation・三者関係) トリア(thoria・酸化トリウム) テェオーリア(ギリシャ theōria・見ること・直観) トリー(tree・木・樹・樹林)・・・系図 トリィト(treat・扱う) トリック・オア・トリート(Trick or Treat・ローソク出せ) トル (torr・トル・気圧の単位) トゥルー(true・真実・事実) トレー(tray・お盆・皿) トロ(tuna・まぐろ・鮪)
↓↑ あなとり 穴取・孔採の丫(ア・木の枝分れ・椏 ・分岐 髪止め・簪 かんざし・鈿・釵・篸・楴・笄 ふたまた・あげまき) 穴の採掘の阿(おもねる・くま)? アナドリ? ギリシア語 Ανατολία=「日の出」 Anatolia Anatolē トルコ語 Anadolu=アナドル ) の歴史的地域 あるいは アンカラの南東にある アナトリア高原の火山によってできた大地 Cappadocia (美しい馬の地)・・・河童擬き? を意味する 「ペルシア語 Katpatuk」に由来・・・? トルコ語:Kapadokya ギリシア語:Καππαδοκία) 小アジア(トルコ)の広大な内陸地域 ヘロドトスの時代 「カッパドキア人」が タウロス山脈から黒海までの全域にいた カッパドキアは 南はタウロス山脈 東はユーフラテス川 北はポントス地方(黒海沿岸部) 西はトゥズ湖と境界を接していた
ーーーーー アナトリア・・・社会生活で穴を掘って生息する動物 蟻・蜂 もぐら(土竜・鼢・鼴) 完全地中棲 10匹~290匹以下(平均75~80匹) 大規模コロニーを形成生活 哺乳類では数少ない 真社会性の社会構造を持つ (哺乳類で真社会性を持つものは 他にCryptomys damarensis ダマラランドデバネズミ・Fukomys damarensis 南部アフリカに生息 地中棲の齧歯類 網目状に広がる地下トンネルに生息し 水を飲まず、体の水を全て食事から得る コロニーは2週間に3トンの土を掘り出す・・・ 真社会性で生息する) ・・・思い出したが「コビトマングースの鉄の掟」・・・ ーーーーー 穴倉での社会生活・・・カッパドキア・・・掘り巣のネグラ・・・ ↓↑ 東南西北・・・盗難遮蔽? 東西南北・・・当罪何卜(朴)? ↓↑ 「南北・SN・東西」のドチラの「社会」を望むのか・・・ ・・・「society の訳語として「社会」を当てたのは 明治初期の 福地桜痴(源一郎)」・・・ ・・・「中国古典では田舎の祭り」 「農耕地の守護神中心の会合」 「北宋時代の近思録に 郷民為社会(郷民社会を為す)」 「西欧語の語源で 結合する」 「人間の結合としての共同体」 古代のアリストテレスは 「人間は社会的 (ポリス的) 動物である」? ・・・ポリス・・・掘り(堀・濠・彫・保利)巣適? 「歩里数」 「保・帆」理素 ↓↑ 甫=十+丶+冃(頭巾) 十+丶+月(肉) 十+丶+用(冂‡・冂キ) ‡=double dagger =二重剣印 ダブルダガー・脚注参照符 用=冂+二+丨=冂+‡=冂+キ(木・幾・扌・才) 冂+亠(音)+十(拾・足・✕) 箱の中の二重剣or手? 用=ヨウ もちいる はたらき もって もちいる・使う・役立たせる 行う・治める・聞き入れる 能力・用途・働き・効き目・作用 資力・財貨・資材・もとで・必要な金銭 もって ~によって よう・仕事 しなければいけないこと・すべき事がら 大小便をすること ↓↑ 用意周到・用意万端 ↓↑ ・・・金儲けの為に必要なモノ 「情報と伝達=意富」・・・分析と実行の是非の決断 用意・使用・常用・庸・作用・効用 用件・所用・当用 用度・費用・薬用・浴用・用便 庸・・・傭兵 傭=イ+庸 チョウ ヨウ やとい やとう 雇い人 やとわれる・雇用 ひとしい・公平 庸=广+聿+冂 聿(ふで・ふでづくり) イチ イツ おさめる のべる ふで 筆・書く とうとう・ついに 自分から・自ら 修める・述べる すばやい・すばやく走る 共に・従う ↓↑ 庸=广+聿+冂 广+肀+二+冂 广+肀+一+一+冂 ヨウ おろか つね なんぞ もちいる 採用する・利用する やとう・雇い人=傭 つね・なみ・普通 おろか・平凡 庸=唐代の税法 「租・庸・調」の一 一定期間、公の労役を行う or かわりに絹などを納める 中国、隋・唐代の均田税法 給田を受けた丁男(21~59歳)に課した 租は粟 (あわ) 2石 庸は年20日(閏年は22日)の労役 または代納として 1日当たり絹3尺 調は絹2丈と綿3両 または布2.5丈と麻3斤 8世紀後半、均田法の崩壊とともに 両税法に移行 夏と秋の二回徴税・・・ 一条鞭法 丁税と地税を一括して 銀納する税制 明王朝の後期には中国各地で施行 16世紀 海禁政策が弛緩し アメリカ大陸や日本から 多くの銀(メキシコ銀、日本銀)が流入 16世紀中ごろ 江南などで実施 16世紀末の万暦帝期 宰相張居正のもとで 複雑化していた税制を 丁税(人頭税)と 地税にまとめ 一括して銀で納税することを定めた 清代における 地丁銀制に影響を与えた 庸 「なんぞ・いずくんぞ・あに」と読み 「どうして~であろうか (いやそんなことはない)」と反語の意 ↓↑ 中庸(チュウヨウ) 凡庸(ボンヨウ) 庸愚(ヨウグ) 庸才(ヨウサイ) 庸劣(ヨウレツ) 租庸調(ソヨウチョウ) ↓↑ 聖読庸行(セイドクヨウコウ) 中庸之道(チュウヨウのミチ) 庸言之謹(ヨウゲンのキン) 庸言庸行(ヨウゲンヨウコウ) 庸中佼佼(ヨウチュウのコウコウ) 庸夫愚婦(ヨウフグフ) ↓↑ ↓↑ 用意・用語・用心・用法・愛用 悪用・運用・応用・活用・起用 挙用・共用・採用・使用・借用 信用・善用・徴用・通用・適用 登用・盗用・任用・利用・流用 ↓↑ 無用・有用 用途・犬用・軍用・兼用・商用 専用・日用・猫用・薬用・浴用 業務用 効用・作用 用件・用事・用弁・用務・急用 公用・雑用・私用・所用・多用 用金・用具・用材・用紙・用度 用品・入用・費用 ↓↑ ↓↑ ↓↑ 甫=十+丶+用 ・・・十+八=木⇔末未 禾朱来米 千+肀+八=秉=ノ+十+肀+ハ ⺻・肀・𦘒・聿 晝=⺻+旦=書+一=昼 盡・悉・尽・殱 濜=氵+盡 異体字「浕」 肀+丿+氺+亅⇔粛清 禾+⺕(ヨ)=秉=丿+𣏃(十+⺕+八) ヘイ いねたば(稲束) え とる まもる とる・持つ 手に持つ・にぎる 守る・しっかりと守る つかさどる 一握りの稲の束 柄・権柄・権勢 穀物の容量をはかる単位 十六斛(コク・角斗) 斗=〃(ン〻冫)+十 柄杓・杓・枓 甫=十+丶+冂+二+丨 甫=十+丶+丿+丰+亅 フ ホ おおきい はじめ はじめて・はじめたて ひろい・おおきい 傳甫 男子に対する敬称 年長の男性を敬い 名を呼ぶときに名につける語 尼甫(ジホ)=孔子 ・・・穴子(あなご)? アナゴ=穴子・海鰻・海鰻鱺 ウナギ目アナゴ科に属する魚類の総称 鰻=魚+曼 ・・・蔓(かずら・つる) 曼=バン・マン うつくしい ながい ひく ひろい 引っぱる・引きのばす みめよい 鰻=⺈+田+灬+曼 魚+日+罒+又 ⺈+田+灬+日+罒+又 ↓↑ ↓↑ 畝=亩+久=畆・畒・畞・㽗・畮 亠+田+久 ホ ボウ うね せ 畑のうね せ=土地の面積の単位 ↓↑ ↓↑ 圃=囗+甫 ホ はたけ 菜園・野菜などを栽培する所 畑仕事・畑づくり 田圃 菜圃麦隴 野菜や穀物を育てる農地、野菜畑や麦畑 「圃・隴」=畑という意 「菜圃」は野菜 「麦隴」は麦を植えている畑 ↓↑ ↓↑ 哺=口+甫 ホ はぐくむ ふくむ そだてる・やしなう 親鳥が子に口移しで餌を与えて育てる 口の中に食べ物をふくむ ↓↑ ↓↑ 鋪=金+甫 異体時「舗・舖」 ホ フ しく(敷く) みせ・店舗 並べる・つらねる 門にとりつける金具 あまねく・広く 器物の名 止める・止まる 店 宿場・たてば ↓↑ ↓↑ 補足記事 犯人逮捕・捕獲 舗装道路 浦島太郎 蒲郡・蒲の毛 穂高・穂先・稲穂
↓↑ 軍隊=社会主義・・・? 「社=シャ=謝・赦・遮・捨・且・借・煮」 「会=人+云 人+二+厶 人+一+一+厶 會=亼+日 人+一++日」 ↓↑ 青地林宗 1826年(文政九年)に訳した 『輿地誌略』に「社會」=「教団・会派」の意 古賀増 1855年(安政二年)~1866年(慶応二年) 『度日閑言』にも「社會」ということばが使用 森有礼 1874年(明治七年)~1875年(明治八年) 『日本教育策』 福地源一郎 1875年(明治八年)1月14日付 『東京日日新聞』の社説 「社會」に「ソサイデー」のルビを振った・・・ 蘇祭 出恵? 祖濟 出会? ↓↑ 「会社(company・corporation)」って・・・ナニ・・・ 「会社法により設立された 営利を目的とする社団法人 資本の結合、労力の補充 危険の分散をはかることを目的として発達した制度」 「株式会社・合名会社・合資会社・合同会社」の4種 「同じ目的で物事を行う集団・結社」 「営利を目的とする社団法人」 「組合=会社概念(羅societas・仏societe・独Gesellschaft) の訳語として用いられた」・・・ 「商法にも 民事会社の規定が置かれて 商事会社と同様に 商人として扱われることが明確化され ついには 民法から 民事会社の規定が削除されるに至り 現在の会社法では 商行為目的か否かによる 区別は全くおかれていない」・・・ ・・・膾炙(カイシャ)=膾(なます)+炙(あぶりにく) ・・・人口に膾炙・・・ 下位者の解釋・・・??? ーーーーー 会合=カイゴウ =歌意合=貝合=甲斐合 =解號=蝦夷合 會=旧字体 㣛=「説文・集韻」にある古文 𣌭=「玉篇」に「古文」とある異体字 㞧=「玉篇」に「古文」とある異体字 𣥈=「集韻」に「古、作る」とある異体字 㑹=「重訂直音篇」に「俗」とある異体字 𠃐=「字彙補」に「古會字」とある異体字 畣=「集韻」にある異体字 「答」の異体字と同形・・・ 答え=こたえ=応え・堪え=荅え 答=竹+合 荅=艹+合 會=「説文」に 「亼に從ひ、曾の省に從ふ。曾は、益なり」 「亼=三合なり」 「曾=益す」・・・「三合会局=同五行強大化」? 「亼=食器の蓋」の象形 「曾」の下部は 「甑(こしき・飯を蒸す器)で 甑に蓋をする意 蓋(ふた)をする=合う 「甲骨文・金文」で 「集まる・会合」の意 「會の古文である㣛・䢔 𠂎合卩(𠂎+合+卩) 卯=真っ二つに叩き割る 合=あわせる・くっ付ける」 が使われる ・・・接着=くっつける ・・・屈付ける? かがむ・・・屈んで靴を履く 屈む・僂・跔・詘 各務-原 螻蛄之才 ・・・接着=くっつける =靴 つける・履つける 舃 つける・沓つける 👞・👟・👡・👢 「前方後円墳」の側面・・・? 🍄 「木ノ子・茸」 「鏡の置台・鏡台・・・兄弟・橋台・興大 「前方後円墳」の平面・・・? 🙌=∩・大拱門 「アーチ=Arch=∩」or「銅鐸」 「前方後円墳」の正面・・・? 中央部が上方向に ∩な曲線形状をした梁 上方向に∩な曲線形状 各務原・・・鏡原・・・ 濃尾平野の北部 中山道の宿場町 (鵜沼宿) 各務原・・・鏡原・・・背を屈めて水鑑? 古代に鏡作部(かがみつくりべ) 銅鏡などの鏡を作る技能集団がいた 別説 各務地域のほぼ中央にある 村国真墨田神社に 鏡作部の祖神である 天糠戸命 (伊斯許理度売命の父神) が祀られている 鏡=かかみ・かかむ=各務 律令時代に 「各牟(かかむ)」とも記録・・・ 僂(かかむ)=人+婁 瘻=疒+婁 樓=楼 螻蛄(おけら)=虫+婁+虫+古 螻蛄之才 婁=口+一+口+丨+女 ル ロウ つなぐ つながれる ひく・ひきよせる。ひきずる 牛をつなぐ むなしい・から・中が空(から) 二十八宿の一 たたらぼし(多々良・蹈鞴・踏鞴 ふいご・ふいごう・吹子・鞴) 「ふきがわ(吹革)⇔ふいごう」 金属の精錬・加工に用いる 火をおこすための送風器 獣皮を縫い合わせた革袋などに始まり 気密性の箱の中の ピストンを往復させて 風を送り出すもの 風琴に似た構造をもつ 足で踏む大型のものは 踏鞴(たたら)と呼ぶ おひつじ(牡羊)座 ↓↑ ↓↑ 意富富杼 王 (おおほどのおおきみ) (おほほどのおおきみ) (イフフショ・イフフジョ) ↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑ 委付富所 ・畏怖婦女・移付扶助・・・? 杼=木+予=どんぐり・ジョ=団栗・皁=白+十 記+序・・・ 古事記序文 どんぐり=問(丼・呑・貪・曇)愚理 Don 庫裏=膳部・柏手 厨房 ↓↑ ↓↑ 『古事記』・「上宮記」に伝えられる 古墳時代の皇族 大郎子 (おおいらつこ) (おほ) (ダイロウシ) 意富々杼王 意富富等王 大大迹王 とも 祖父は 第十五代 応神天皇・・・誉田別・譽田別 父は 稚 渟毛二 派 皇子(応神天皇の皇子) (わかぬけふたまたのみこ わかぬけふたまたのおうじ) 『日本書紀』 「稚野毛二派皇子・稚渟毛二岐皇子」 『古事記』 「若沼毛二俣王・若野毛二俣王」 他文献 「稚渟毛二俣王・稚渟毛二派王・稚沼毛二俣命」 母は 日本書記・弟姫 古事記・・息長真若中比売 上宮記・・弟比売麻和加 意富比神社(船橋大神宮) 景行天皇四十年 日本 武 尊 (やまとたけるのみこと) が 東国御平定成就 と 旱天 に苦しんで 天照皇大御神 に祀り祈願され 神徳の顕現があり これが当宮の創始・・・ ↓↑ ↓↑ 意富比(おおひ)神社(船橋大神宮) 船橋市宮本5-2-1 北緯35度41分34.75秒 東経139度59分46.4秒 ↓↑ ↓↑ 意富比神社=船橋大神宮 景行天皇四十年(110年) 日本武尊が東国平定の途中 海上の一艘の舟の中に 神鏡を発見 旱天に苦しんでいた住民を救う為 東国御平定の成就を祈願する為 神鏡を祀り ご神徳の顕現があり 創始となった ↓↑ ↓↑ 天皇 御東行され 武尊のご功績で 「意富比神社」の称号を賜った ↓↑ ↓↑ 日本武尊が神鏡を奉斎された場所 湊郷海神 のあたり ・・・???・・・
ー↓↑ーー↓↑ーー ・・・???・・・ ↓↑ ↓↑ 「プラトン古事記をカタル(古事記字源) + (表紙・画像・音楽)」の 移転先・・・ https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12 ↓↑ ボクの「古事記字源」の発端・・・ https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/11 ↓↑ 干支歴 http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html ↓↑ 現在の「ボクのHP」は「モウ君の総合目次」として モウ君の総合目次 (bake-neko.net) http://meisiki.bake-neko.net/kkmokuji.htm ↓↑ 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」 https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB
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