帰化人・渡来人にとって「日本語音声」以前に「初めに文字(漢字)ありき」であった・・・
・・・此処、最近、ボクに取っては、ヤケに「千葉」に関する地名や人名、事件が頻発している・・・で、「チバ」、以前にも書き込んだハズだが、ボク的には実体験したモノは結構記憶され、調べた事実、書き込んだ事実の記憶は残っているが、調べた、書いた、の、文字と文章の内容の詳細記憶は消失してしまう・・・このボクの傾向は「ボケ以前的」なモノであるらしいカナ。「歴史年代の年月日の数字」に至ってはどうしょうもない・・・で、一体全体「千葉(ちば・センバ)の地名由来」はナンなんだか?・・・「千の言葉の文字」なら、「王仁=和邇吉師(わにのきし)=百済王臣下の阿直岐の同輩か先輩=菟道稚郎子の師」の「千字文」だが・・・ブログで調べてみると、「漢字(万葉仮名?)」の、「千(ち・ぢ)」・「葉(は・ば)」そのものの「漢字」の意味から「素直に追求」するモノは少ない・・・古代に於いても、現代に於いても、「同音」のコトバの意味は、「記録された漢字文字の意味」でのみ理解できる・・・単音音声の「あ→か→さ→た→な→は→ま→や→ら→わ→ん(む)」の五行列の「各一音」に、意味があるならば、当て字の漢字理解でしかない・・・「ア・レ、あ・れ」の意味は、「阿」と「禮(礼)」の漢字の意味でしかない・・・のデ、ア・ル・・・ハズだが・・・古代教養帰化人、渡来人には、時間的経過の「始原」として「ニホン(日本)」に上陸する前に「原生、原住した本国の言語と漢字文字」が、先ずアッタ。そして、「ニホン」に上陸移動して「ニホンゴ」に出遭ったのである・・・彼らに取っては「初めに文字(漢字)ありき」であった・・・ ーーーーー 「千葉」懸 明治六年六月十五日 木更津(きさらづ)県 と 印旗(印旛・いんば・いぬば?)県 を廃止して 千葉県となる ↓ 「万葉集」に 「知波能奴(ちばのの)」・・・「能」と「奴」の区別はナニ? 「アイヌ語」の 「チプ・パ(船の数が多い)」 「ツバ(端・台地の端)」 「茅生(ちぶ・茅(ちがや)が茂った」 ・・・からの説など・・・ 「千葉=茅生」なら、その漢字の関連性には納得するだろう・・・? ↓↑ 千葉県という県名は、 1873年(明治六年) 木更津県と印旛県が合併して 当県が設置され、 千葉郡 千葉町に県庁が置かれたことに由来 ↓↑ この地名は、 「茅(ちがや)」が生い茂る土地で 「茅生 (ちぶ)」と呼ばれ、 転じて 「ちば」になったとする説や、 葉が多く重なる意味で 「千葉」に なったとする説 侵食しやすい地や 侵食の激しい地に見られる地名 「ちば」で、「潰れる」の意味 ↓↑ 「和名抄」に 「下総国 千葉郡 千葉郷」 と見えるのが古い 都市としての歴史は、 1126年(大治一年) 千葉常重が 「猪鼻」の地に 居館を築いたことから始まる が、それよりも はるか昔からこの地名はあり、 千葉常重の姓が由来ではない 平常重が 上総国 大椎から 下総国 千葉郡 千葉郷に移り住んで 千葉氏を名乗った・・・・「平」常重が、「千葉」常重 ↓↑ 今日のニュースでは「アイヌ語の継承と保存」が「報じ」られていたが・・・「アイヌ」には記録文字を有しなかった・・・とするならば、「邦字」は「蝦夷地」に渡海した「ニホン人(外来人・本土人)」のモノであった・・・ ・・・以下は、以上に関連した検索頭出しのブログ記事を見つけたので、「仮説」とはこんなモノなんだと、面白かったので、断りもなく参考、参照させてもらい、少々改作して添付したモノ・・・ ↓↑ 「網走(あばしり)」は、 アイヌ語由来で、 「チパシリ chipasir」と呼ばれていた その語義は 「chi 吾・pa 見つける・sir 島(国)」 である・・・ 「チ=chi(ciとも)、 意味は 「吾」は「a(吾)」と 交代可能なので 「a pa sir」に変化した・・・ ↓↑ ・・・「チ」と「ア」の交代は、その「吾=ア」の漢字を前提的に知っていなければ無理だろう・・・ ↓↑ 知里真志保氏(アイヌ語権威の言語学者) は 「chipa」という語が、 「inaw-san(幣・棚)」 の古語であり 「sir シリ=島」であるから 「イナウを祀った島」・・・・「伊能(イノウ)」忠敬? ほどの意味・・・? ↓↑ 田村鈴子氏の辞典に 「inaw-cipa」に 「幣(ぬさ)場」という意味を与えているので 「チパ」=「イナウ」=「幣」 を祀る場所ないし 「棚」の類である・・・? ↓↑ つまり本来 「チパ・シリ」で 「イナウの・島」だったものが、 「チ・パ・シリ」と誤分析され 「吾・見つける・島」と誤解し、 「チ」と「ア」を交換したものだ・・・ 誤解のもとに 「ア・パ・シリ」という地名が慣行され 和人には 「あばしり」と把握され 「網走」と宛字されたものだ・・・ ↓↑ 網走で撮影した 「チパシリ」 別名 「カムイ・ワタラ(神の岩)」 現在日本語では 「帽子岩」と呼ばれている・・・ 「千葉」は アイヌ語 「chipa」(幣棚、幣)に因るものか・・・語呂合わせだろう アイヌ語 「ふさ(房・総)」は 「pusa(房)」がある・・・ 萱野茂の 『アイヌ語辞典』では 「pusa 総(ふさ)=束ねた何本かの糸などの先を ばらばらにして飾りにした物. 田村すず子の 『アイヌ語沙流方言辞典』では 「プサ pusa=日本語ふさ(房)=房かざり(刀のさやの) 三角や四角の布のかざりが下げて(つけて)あるもの 刀の房かざりは、 四角い布に刺繍(シシュウ)し、 つり紐の両すそにつけてある ukopusakur=suypa kane ウコプサクル=スイパ カネ 宝刀のつり紐のすそから下がっている 房かざりがいっせいにゆれている 「Sユーカラ」 「糸、紐や鎖(くさり)で下げられた 小さな玉や サイコロの形などの飾りは tumsi=トゥムシ(a tassel on a sword etc) ↓↑ アイヌ語のpusaは 日本語からの借用語・・・ 「イナウのふさ」 「千葉」も「房総」も「イナウ」 に関わっている地名である、と・・・ ↓↑ 「伊能忠敬」が関わった地名だろ・・・? ↓↑ 「千葉」地名が行われた地は 中世の 下総国千葉郡(千葉県千葉市中央区及び周辺) 近隣の 「稲毛」も 「inau-ke=イナウを削る」 と解することができて、 相互に アイヌ語起源を傍証しているようだ・・・ ーーーーー 以下は「ウイッキペデア」などから・・・ ↓↑ 『日本後紀』 大同元年正月癸巳(1月28日)条 「千葉国造(ちはのくにのみやつこ) 大私部直 (おおきさいべのあたい、直=カバネ)善人」 人物が記録 大化改新以前より 千葉に 国造が置かれていた可能性が高く、 律令制成立後も 下総国 千葉郡 と呼ばれる郡が成立 『倭名類聚鈔』には 千葉郡にあった 七つの郷の1つに 「千葉郷」と呼ばれる郷があったと記録 同郷は現在の 稲毛区 穴川・黒砂 付近を指していたと考えられている・・・ ↓↑ 千葉氏の本拠地 平安時代に 千葉氏の祖、 平常重が 千葉郡 千葉郷・池田郷一帯に 千葉荘を開き、 池田郷 「亥鼻」に拠点を築いて 「千葉介」を名乗る 以後子孫が 室町時代まで 下総国守護職として周辺を支配 ↓↑ 享徳の乱 に乗じた 原胤房 と 馬加康胤 によって 千葉胤宣が討たれ、 千葉氏宗家が滅びた後は、 千葉妙見宮の 小さな 門前町となった ↓↑ 徳川藩政時代 江戸時代 現在の 千葉市域の大半が 佐倉藩の領土 (市域は生実藩・曽我野の2小藩の本拠地) となった ↓↑ 戊辰戦争終結~第二次大戦終結まで 戊辰戦争後の 1871年8月29日 廃藩置県では、 現千葉市は 印旛県の領内に入れられた 1873年 印旛県 と 木更津県 が合併されて 千葉県が設置 旧両県の境で 千葉氏の本拠地でもあった 現千葉市(亥鼻地区)に県庁が設置 ↓↑ 千葉市が誕生 1921年(大正十年)1月1日 市域は、 現在の中央区の北半分から 稲毛区の南東部にわたり、 これは 1889年(明治二十二年)に設定された 千葉町の町域をそのまま引き継いだもの 戦前、現在の 川崎町の埋立地に 日立航空機製作所と 日立製作所などの 軍施設が集中する軍都として発展 1945年(昭和20年) 6月10日 と 7月7日 に 連合国軍による 大規模な空襲(千葉空襲・七夕空襲)に見舞われ、 市域の7割が壊滅 ↓↑ 1126年(大治元年) 千葉常重が 「猪鼻」の地に居館を築く。 1455年(享徳四年)原胤房に千葉城を急襲され、 千田庄(香取郡多古町)に逃れた 千葉胤宣が 康正元年八月十二日 原胤房に加担した 馬加康胤に討たれ 千葉氏宗家が滅亡した。 1871年(明治四年) 十一月十三日 廃藩置県 木更津県、印旛県、新治県が設置 1873年(明治六年) 六月十五日 木更津県と印旛県が合併 千葉県が設置 県庁を 両県の境となる 千葉郡千葉町(千葉市中央区本千葉町)に設置 1875年(明治八年) 五月七日 新治県が分割 利根川以南が千葉県に編入 現在の千葉県域が形成 1889年(明治二十二年) 四月一日 町村制施行 千葉町、寒川村、登戸村、 千葉寺村、黒砂村 が合併し、 千葉郡千葉町が発足 1921年(大正十年)一月一日 千葉町が市制を施行し千葉市 全国で 六十六(66)番目 県内初の市制施行 1931年(昭和六年) 千葉市歌を制定 1937年(昭和十二年) 二月十一日 千葉郡 蘇我町、・・・・・ナゼか、「蘇我」・・・ 検見川町、・・・・ナゼか、「検見のカワ・セン」・・・ 都賀村、・・・・・ナゼか、「都の賀・トガ→訳臥」? 都村を編入 1944年(昭和十九年) 二月十一日 千葉郡 千城村を編入 1954年(昭和二十九年) 七月一日 千葉郡 犢橋村 を編入 このとき 犢橋村が 村内の軍施設を 千葉市に報告しなかったため、 1979年(昭和54年)に 信管付き 不発弾が見つかり、大騒ぎ・・・ ーーーーー ・・・???・・・何層サトミ発見伝・・・伏せ秘め・葉知の附差・・・千葉のカイ・・・「南総里見八犬伝・伏姫・八房(曲亭馬琴・瀧澤馬琴)」・・・
・・・「カステラ」は「文明導」で、「文化同」ではない・・・「文明=文を明らかにする・文の意味を明確にする・文の範疇、本質、内容、カテゴリー(category)をハッキリさせる」、「文化=文を変化させる・原文の文字を異文字、異文章の同意で翻訳する」・・・「原文の文字の音附を同音異字、同音異文字のコトバに変化させる」・・・以前にも書き込んでいた「カステラ」だったが・・・3時の「オヤツ」は様々ではあるが・・・昨日は「カストロ」だったが・・・本日は「三月三〇日=サンジクサンジュウニチ→纂肉纂拾似知」なので「カステラ」を再調査してみた・・・ ーーーーー 間食(カンショク)=「おやつ」・「おさんじ」 中食(ちゅうじき)、間食(かんじき) 昼食と朝・夕食の間にとる 「軽い食事=軽食(ケイショク)」を 「小昼=こひる、こびる」・・・媚びる? ショウチュウ=焼酎・掌中? 章中・省中? という ↓↑ おやつ=「御八つ(どき)」の時間帯 江戸時代の 「八つ時(午後3時頃)」・・・八つ時(午後2時~4時まで) 江戸の刻(とき) ↓↑ 明け六ッ(日の出・夜明)、 暮れ六ッ(日の入・日没) が基準 一日の時間帯 (24時間=十二刻=十二干支の時計円盤) それぞれを 午前と午後に分け 更に 六等分したのが 一刻 一刻≒2時間 半刻(はんとき)≒1時間 四半刻(小半刻)≒30分 数の場合(時刻を言う) 夜九つは 24:00 夜九つ半は 1:00 ↓↑ 干支の場合での時間区分では 子の刻は 午後11時~午前1時の「二時間」 ↓↑ 午前零(〇)時・子(ね・シ) 之刻・九つ(玖・ク) 午前二(弐)時・丑(うし・チュウ)之刻・八つ(捌・ベツ) 午前四(肆)時・寅(とら・イン) 之刻・七つ(漆・シツ) 午前六(陸)時・卯(う・ボウ) 之刻・六つ(陸・リク) 午前八(捌)時・辰(たつ・シン) 之刻・五つ(伍・ゴ) 午前十(足)時・巳(へび・ミ) 之刻・四つ(肆・シ) ↓↑ 午後零(○)時・午(うま・ゴ) 之刻・九つ(玖・ク・キョウ) 午後二(貳)時・未(ひつじ・ミ) 之刻・八つ(捌・さばく) 午後四(肆)時・申(さる・シン) 之刻・七つ(漆・うるし) 午後六(陸)時・酉(とり・ユウ) 之刻・六つ(陸・おか) 午後八(捌)時・戌(いぬ・ジュウ)之刻・五つ(伍・い) 午後拾(足)時・亥(いの・イ) 之刻・四つ(肆・つらなる) ↓↑ 子→丑→寅→卯→辰→巳→ ↓ 沖(冲)の関係(対中) ↑ 午→未→申→酉→戌→亥→子 ↓↑ 鼠→牛→虎→菟→龍→蛇 馬→羊→猿→鳥→犬(狗)→猪→鼠 ↓ ↑ 八つ刻は 未支~申支の時間帯で 未支(午後一時~三時の時間帯)で、 その半ばの「二時」に 鐘を 八回衝き鳴らす ↓↑ 八つ刻(午後2時~4時まで)の 「八」はカネの衝く音の回数 「午(正午)の刻」を起点とする 午前、午後の 「丑→対中←未」関係での 「鐘の音は同数」で 「三回」+「八回」=十一回 「三回」は余分だが、 スベテの刻鐘の回数に 「前鐘」として「三回」鳴らし加える 時刻の鐘音打で「3つ」は無い ・・・この「3=参」の意味はナニか?・・・「惨」? 大晦日の除夜の「子の刻」の「鐘の音」は 「百八回(108回)」・・・108は「煩悩」・・・宿曜経の「目盛の数(促・足・亦)は108」・・・ ・・・「3+108」=「111」?→壱百壱拾(足)壱 ・・・「3+1+8」=「12」?→壱拾(足)弐 ・・・「1+1+1」=「3」?→参 ・・・「3×4」=「12」?→壱拾(足)弐 ・・・「3×12」=「36」?→参拾(足)六 ・・・「360÷12」=「5」?→伍(悟・吾・午) ・・・「参=サン=惨=纂=讃=算=産」・・・? ↓↑ 二代将軍 徳川秀忠の時代に、 鐘 が 本石・・・本は石(岩・磐・嵒・巖・巌・意和・違和・伊輪) 三丁目・・・纂帖の目・山頂の目 (日本橋 室町四丁目)に 江戸時代最初に設置 宝永八年(1711)に改鋳され 明治初期まで使用 現在は 日本橋 小伝馬町・・・・小さい伝、馬(Marco)帖(調重) 馬太福音(新約聖書) 馬可福音(新約聖書) 司馬遷(史記) 十思・・・・・・「十思九徳(貞観政要で ↓ 唐の 太宗の側近、 魏徴(ギチョウ)が挙げた 十戎(心構)」 一前後の見境もなく、闇雲に欲しがるな、 自戒せよ 二夢中にならず、止まって反省せよ 三自分の立場を謙虚に自制せよ 四自分の目線を低い位置に置け 五限度、限界をわきまえよ 六終始の行動には慎重に、慎め 七虚心に部下の言葉を聴け 八誹謗中傷を嫌い、 自らそれらを禁じ、一掃せよ 九過大な恩恵は避けよ 十罰するには、過大な罰とするな 公園内に設置保存・・・「十思公園」 公園・・・・・・「吉田松陰」が処刑された 「伝馬町牢屋敷」跡 浅草寺 寛永寺 本所 横川町 芝切通し 市ヶ谷八幡 目白不動 赤坂田町 成満寺(円通寺) 四谷 天竜寺 ↓↑ 鐘の音は捨て鐘と云って 三つ打ってから それぞれの 刻限の数を鳴らした・・・三+χ(刻) ↓↑ 夜明け、 夕暮れどきの 薄暗い時分 夕方を「たそかれどき」・・・・誰そ彼、時→曖昧でハッキリ 明け方を「かはたれどき」・・・彼は誰、時→判別できない 木戸=町民が管理し 夜四つ(午後十時)には閉め 江戸の治安を守った・・・・・・木戸孝允 ↓↑ おヤツは 八つ刻(午後2時~4時まで)の間に 間食を 食べる習慣があった・・・子供の 「おやつ」などには 魚(まな・うお)の形の 砂糖菓子=金花糖(きんかとう) 団子・煎餅・饅頭など ↓↑ 3時の「オヤツ」は「文明堂」の 「カステラ」・・・TVコマーシャルの熊のカンカン踊り ↓↑ 「家主貞良」・・・哉主、歌手はサダヨシ、定量 「加須底羅」・・・句和得留、綴等 須=すべからく・ひげ・シュ 須要・必須 わずかの間・しばらく パオ・・・・・葉緒・馬尾(嗚・緒) デ・・・・・・出(乙・弟→嗚訳得徒) カスティーリャ (ポルトガル語) ↓↑ 鶏卵(ケイラン)を・・・刑覧・掲乱(蘭)・形濫 泡立てて・・・・・・・・沫・粟・阿波・安房・安和 小麦粉、・・・・・・・・背負う幕憤 砂糖(水飴)を 混ぜ合わせた 生地を・・・・・・・・・記事・木地(和歌山)・基地・危地 オーブンで・・・・王(オウ=旺・姶・鷗・横・皇・枉)文出 枉=曲がった木 焼いた菓子・・・・哉意他、仮詞(カシ=掛史・可視) ↓ ポルトガル(葡萄牙)から伝わった 南蛮菓子を元に 日本で独自に発展した和菓子 ポルトガル(葡萄牙)には 「カステラ」 という名の菓子はない ↓↑ カステラは長崎が本場 長崎市の 福砂屋が元祖 製法が同じものの総称 正方形または長方形 オーブンで焼いた後に 棹型に切る 水飴を用いて、しっとりとした食感 牛乳・抹茶・黒糖・チョコレート・チーズ などを加えて味付けをする変種も多 ↓ 釜カステラ(東京式釜カステラ・東京カステラ) 蒸しカステラ、カステラ饅頭、 ロールカステラ、人形焼 など 釜カステラは、 「六面焼き」と呼ばれるものもある 一つ一つの型に入れて オーブンで焼いたタイプで、 水飴を用いない ↓ カステラを応用した菓子 福島県 会津若松市―会津葵 愛媛県―タルト 島根県―八雲小倉 長崎県 平戸市―カスドース 長崎市―桃カステラ 長崎カステラを洋菓子化―銀装のカステラ 料理として 岡山県(主に倉敷市)―鮮魚カステラ 伊達巻―カステラの調理方法を応用したもの 宮城県、沖縄県―カステラかまぼこ(焼きかまぼこ) ↓ カステラを棹型に切り揃える際に、 切り落とし(耳)が発生し 本来の製品よりも割安で販売 ↓ 名前の由来 スペインの地方名 カスティーリャ(Castilla) ポルトガル語発音である カステーラ(Castela) カステラ製造過程での メレンゲを作る際、 高く高く盛り上げる時 「城(castelo)のように高くなれ!」 と カステロ=カステラとなった・・・という説 パン・デ・カスティーリャ (pão de Castela、カスティーリャ地方のパン) や、 ビスコチョ(元は乾パン状の船乗りの保存食 16世紀末頃、 柔らかく焼き上げるレシピが生まれた) が由来・・・ ポルトガルの焼菓子である パン・デ・ロー(pão de ló) が製法的に似ていることから、こちらを始祖とする説が有力 原型は、 中国の点心の一つであり、 マレーの地名を冠する 「馬拉糕」や、 沖縄の 「鶏卵糕(ちいるんこう)」 と 呉(ゴ)方言のような読みをする・・・呉=くれ 蒸しカステラ類と 共通する可能性もあるらしい・・・ ↓ 16世紀の室町時代末期 ポルトガルの宣教師によって 平戸や長崎に伝えられた 当初のカステラ 鶏卵、小麦粉、砂糖で作った 乳製品を用いないことから、 乳製品を生産、常用しない 当時の日本にも残った カステラの製造に重要な オーブンは当時の日本には存在せず、 オーブンに代替する天火として、 引き釜という 炭火を用いる 日本独自の装置が考案された ↓ 江戸時代 江戸・大坂を中心に カステラの日本化と、 カステラを焼くための 炭釜の改良が進められ、 江戸時代中期には 現在の長崎カステラの原型に近いものが作られた 長崎カステラの特徴である 水飴の使用は、 明治時代以降の 西日本で始められた・・・ 伝来当時、 平戸藩 松浦家において、 南蛮菓子としてカステラが宴会に出された時、 その味に馴染めず、 包丁方(料理人)が カステラを 砂糖蜜で煮た・・・ これが 平戸名産「カスドース」の原型・・・ ↓ カステラの製法 江戸時代の製菓書・料理書に数多掲載 茶会でも多く用いられた カステラは鶏卵・小麦粉・砂糖といった 栄養価の高い材料の使用から、 江戸時代から戦前にかけて 結核などの消耗性疾患に対する 一種の栄養剤としても用いられていた・・・ 第二次世界大戦後の 大量生産によって一般に普及・・・ ↓ 夏目漱石が 1907年に発表した 『虞美人草』で、 「チョコレートを塗った 卵糖(カステラ)を口いっぱいに頬張る」 と記して、 「卵糖」という当て字をした 実際にはチョコレートケーキに使われている スポンジケーキを指していた・・・ ↓ 1624年(寛永元年)創業:福砂屋(長崎県長崎市) 「カステラ本家」を商標登録 1681年(天和元年)創業:松翁軒(長崎県長崎市) 1747年(延享4年)創業:上野風月堂(東京都台東区) 東京式「釜カステラ」を製造販売 1900年(明治33年)創業:文明堂(長崎県長崎市 東京都新宿区など) 1952年(昭和27年)創業:銀装(大阪市中央区) 「紙の缶詰」という 熱殺菌技術を開発 カステラの 賞味期限を延ばす事に成功 ↓ 元亀二年(1571年) 室町時代 ポルトガル人が上陸 カステラは スペインに栄えた カスティラ王国の パン(麺麭・麵麭)として 長崎の人々に紹介 幕末の志士 「坂本龍馬」が 慶応三年(1867)に長崎で組織した 「海援隊」の日誌に 「カステラ仕様の項目」があり 「正味、玉子百目、うとん七十目、 さとふ百目。此ヲ合テ、ヤク也、和蘭実方・・・」 ↓ 松翁軒 天和元年(1681) 長崎市 本大工町・・・本の大(太)句の帖 に 初代 山口屋 貞助 が店を構え、 砂糖漬けや カステラを作り始めた 文久年間(1861) 七代目 熊吉の時、 国学者 中島広足 により 「松翁軒」の命名を受け、 能面の翁を店印とした 綿のようにやわらかにして、 風味はしっとり、口に含むと、円やかなり・・・ ↓ 八代目 貞次郎は カステラにチョコレートの味を加えた ↓ カステラ 加須底羅 家主貞良 パオ・デ・カスティーリャ(ポルトガル語) ーーーーー ・・・「かすてら」・・・再考=サイコウ=催行・・・「団体旅行などを計画どおり実施するコト」・・・「催(もよお)す、行」って「催眠術の行」?・・・ 「催」=もよおす・うながす・せきたてる・サイ 催告・催促 そのような気分に誘う 催眠・催涙 会を設ける 開催・共催・主催 とき 雨催(あめもよい)=雨模様 催馬楽(さいばら)=歌謡の一 上代の民謡などを 外来の唐楽の曲調にのせたもの 笏拍子 (しゃくびょうし) 笙 (しょう) 篳篥 (ひちりき) 竜笛 (りゅうてき) 琵琶 箏 (そう) を伴奏 歌詞は 律25首、 呂 (りょ) 36首が残る 曲は室町時代に廃絶・・・? 催合(おもやい・もやい・もやひ 催合い=最合い 共同で一つの事をしたり 一つの物を所有したりすること あいあい・おもやい ・・・ナニかを、「もよおす」って・・・トイレ・・・
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