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扶養家族・・・?


2022/


 扶養家族・・・?

 扶助

 扶桑

 ↓↑

   α+夫

   失伕芙呋妋邞㠸玞肤枎

   㚘㫙规畉砆衭䃿䄮巭蚨

   䊿㠫規麸趺䡍酜鈇颫㝬

   麩

   鳺⇔鶏・鷄・雞⇔鵻=スイ鳩の一種

             数珠掛鳩

             白子鳩(しらこばと)

             鶉(うずら)

             鷦(ショウ・みそさざい)

            「鷦鷯(シヨウリヨウ)」

            「鷦鵬(ショウホウ)」

            「鷦明(ショウメイ)」

             伝説上の鳥

             鳳凰(ホウオウ)の類

  ↓↑

 「扶」

  ↓↑

  名乗り

  すけ

  たもつ

  もと

  ↓↑

  地名

  扶桑町

  ↓↑

  名字

  扶川=ふかわ

  扶持本=ふじもと・ふちもと

  扶瀬=ふせ

  扶蘓=ふそ・ふそう

  扶蘇=ふそ・ふそう

  ↓↑

  熟語

  宛行扶持・充行扶持・宛い扶持

  宛てがい扶持(ぶち)

  受け取る側の希望によらず

  支払う側が勝手に見積もって与える金品

  食扶持(くいぶち)

  食事のためにつかう金銭・食費

  捨て扶持・捨扶持(すてぶち)

  役に立たない人に対して

  捨てるつもりで与える給与

 ↓↑

 扶育

 扶養

 扶養家族

 ↓↑

 相互扶助

 ロシアの無政府主義者

 ピョートル・クロポトキンが

 ダーウィンの生存競争説に反対して唱えた

 東扶西倒=東を助ければ西が倒れる・どっちにするか

 ↓↑

 土扶成牆(ドフセイショウ)

  人々がお互いに力を合わせて物事を成し遂げること

 「土扶けて牆と成す」

 扶木之地(ふぼくのち)=日本の異名=扶桑


  扶=扌+夫

   扌+二+人

   扌+一+人

   フ

   たすける・ささえる・世話をする

   寄り添う・身を寄せる

   夫⇔天⇔失・・・失念・失望

       失=𠂉+大

         𠂉+一+人

         カミサシの「ハジメ(磬)」のヒト

       磬(はじめ?)=一女・始女・初女=磬?

          はせる・馬を走らせる・磬控

          磬(ケイ・キン・キョウ)の音読

          磬石(ケイセキ)=さぬきがん(讃岐岩)

   磬=殸+石・・・声の旧字体・こえ=聲・殸

           音声・音・言葉・鳴き声・評判

           四声

           漢字音の声調の四つの区別

     声+殳+丆+口

     士+几+又+一+丿+口

     キン

     ケイ

     うちいし

     うつろな・うつろになる

     つきる・つくす

     磬の形(への字)のように

     身を鈍角をなすように屈して礼をする

     くびる・首をしめて殺す

     磬(打ち鳴らし)

     古代中国の楽器名

     形は

    「半円形」と

    「へ」の字形をした

     桴(ばち)で

     打ち鳴らす打楽器

     読経の時に打ち鳴らす「鉢形」の仏具

     中国の雅楽で用いられた体鳴楽器

     日本では仏教楽器

     平らな石片、金属片の一端に孔をあけ

     そこに紐を通して架につるし

     角製あるいは木製の

     撞木 (シュモク) で打鳴らす

     別称「おりん・なまりん」

     引磬 (インキン) =携帯用の把手のついたもの

     一個だけつるしたものを特磬(トーチン)

     十数個が1組のものを編磬(ビエンチン)

   ↓↑ ↓↑

     磬=鏧

     鏧(磬)子(ケイス・キンス)

     打金(うちがね)

     銅鉢(どうばち)

     「ザルガネ」などともいう

     馬を走らせる

     くびる

     首をくくる・首をしめる・・・呻き声?

   ↓↑

 ・・・色々調べたが「磬」が「はじめ?」と訓じているのは

    ボクのコンピュータの文字転換

   「IMEパッド」だけであるようだ・・・

   入力「はじめ」→漢字表出「磬」

      ↓↑

      はじめ=肇・聿・肀

          初・哉

          元・本・朔・創・基

          丕=不+一・・・イチにアラズ・はじめ?

            不=一+𠆢+丨

              一+イ+丶 

              ㇇+ㇳ

              一+ノ+卜

            フ

            ブ

            ず

          「~しない・~でない」

          「・・・や、いなや」

          「ざれば・ずんば」

          「~でなければ・~しなければ」

          大・太=一+人+丶=はじめ?・・・太古⇔太鼓

          匡=匚(匸)+王=匩=匚+屮+王=はじめ?

            一+㇗(イン=乙=イツ・おと)+王

            国の「丶」と右側の「丨」が無い

            囗の「丨」が無い

            国境が無い・囲いが無い・棒柵が無い

          匡衡鑿壁(キョウコウサクヘキ)

          貧しくても勉学に励むこと

          苦学のたとえ

         「匡衡」は前漢の学者

          家が貧しく、灯火を買うことができず

          壁に穴を開け

          隣の家の明かりで読書をしていた

          匡衡壁鑿

   ↓↑

  「磬」と類字

   殸

   撀・漀・㯏・㷫・䅽・㲆・㲇・

   㿦・聲・罄・䡰・鏧・馨・韾・毊

  ↓↑

  懸磬・懸罄(ケンケイ)

   貧しく家の中に何もないこと

   家の中に梁しかない状態が

   懸石という楽器をかけているように見える

 ↓↑

 笙磬同音(ショウケイドウオン)

  人がお互いに心を合わせて仲良くすること

 「笙磬」=管楽器と打楽器

 「笙磬音を同じくす」とも読む。

   ↓↑

 金銅蓮華文磬 京都・禅林寺蔵

 ↓↑

 金銅宝相華文磬 福井・瀧谷寺蔵

 ↓↑

 銅蝶形磬 長野県松本市宮渕出土

 ↓↑

 『ウィキペディア(Wikipedia)』

 磬

 曽侯乙墓の編磬

 ↓↑

 磬=チン

   けい

   磬(けい)=中国古代の体鳴楽器で

  「ヘ」字形をした

   石(玉・銅)製の板を吊りさげて

   バチで叩いて音を出す

   一枚だけからなる「特磬」

   複数の磬を並べて旋律を鳴らす「編磬」

   がある

   八音のひとつである「石」にあたり

   古代以降にも中国の雅楽では使われ続けた

   ↓↑

   甲骨文字の

   殸

  「磬」や「聲(声)」という

   漢字の上部(殸)は

   バチ(撥)を持って吊りさげた磬を

   叩いている形をかたどっている

   ↓↑

   本来は農具を叩いていたのが

   専用の楽器になった・・・説

   ↓↑

   磬の形は時代によって異なる

   殷までの磬は上部が弧形であり

   下部は直線に近い

   西周から戦国までは

   上部にのみ角があって

   下部は弧形を保ち

   漢のものは上下とも角がある

 ↓↑

 考古学

 山西省襄汾県陶寺遺跡(新石器時代)の磬が古い

 山西省夏県の東下馮遺跡

 (青銅器時代、紀元前2千年紀前半)

 からも打製石器の石磬が発見されている

 ↓↑

 安陽武官村大墓出土の

 殷の

 虎紋大石磬は

 虎の絵が刻まれている

 安陽からは編磬も出土

 ↓↑

 曽侯乙墓

 完全な形で出土した編磬は32枚

 銘文に音楽理論

 ↓↑

 戦国時代の宮廷音楽

 編鐘と編磬

 その様子は

 宴楽漁猟壺(北京故宮博物院蔵)

 などに描かれている

 山東省沂南県北寨村

 後漢時代

 画像石にも同様に編磬が描かれている

 ↓↑

 隋唐

 雅楽だけでなく

 燕楽でも

 清商楽と西涼楽に

 古来の編鐘・編磬が使われた

 それ以降は

 編磬は雅楽専用の楽器となり

 清の

 中和韶楽に至るまで使われつづけた

 ↓↑

 韓国の雅楽

 中国の編磬を由来とする

 「編磬」という楽器が使用

 ↓↑

 仏具の磬

 日本仏教寺院

 法要の際の読経の合図に鳴らす仏具

 古代中国の磬に似るが

 材質は石でなく鋳銅製

 奈良時代から制作され

 平安時代には密教で必須の仏具

 他宗派でも用いるようになった

 ↓↑

 仏教寺院

 金属製の碗を台の上に置いて棒で叩いて鳴らす楽器

 「鏧子=きんす」

 古代中国の磬とは別物

 柄がついていて手に持って鳴らす

 「引鏧」もある

 ↓↑

 扶+α

 扶=たすく

 扶育=フイク

 扶桑=フソウ

 扶桑花=ブッソウゲ

 扶行=フコウ

 扶持=ふち・フジ・フチ

 扶持米=ふちまい

 扶助=フジョ

 扶将=フショウ

 扶植=フショク

 扶寸=フスン

 扶疏=フソ

 扶疎=フソ

 扶蘇=フソ

 扶風=フフウ

 扶伏=フフク

 扶服=フフク

 扶余=フヨ

 扶揺=フヨウ

 扶養=フヨウ

 扶翼=フヨク

 扶老=フロウ・ロウをたすく・おいをたすく

 扶掖=フエキ

 宛行扶持=あてがいぶち

 医療扶助

 右扶風=ユウフフウ

 生活扶助

 相互扶助

 蓬生麻中不扶而直

 よもぎマチュウにショウずれば

 たすけずしてなおし

 竜門扶風=リュウモンフフウ・リョウモンフフウ

 家扶=カフ

 協扶=キョウフ

 翼扶=ヨクフ

 ↓↑

 夫余(フョ・夫餘)・・・扶余=扶餘

 のカンジ・・・「夫のアマリ」・・・遺産?

 「扶(たす)ける」+「餘=食物の余りモノ」

  夫の手で獲た食べ物の余りを・・・

   配分?・・・家族に・・・?

 冬の芙蓉の結晶・・・天からの雪&雨・・・雹・霰・霙

 「夫⇔天」

    天=一+大・・・大を覆う一・・・天蓋

      一+一+人=壹のイチ(位置・移置・伊地・市・逸)の比等?

                           藤原不比等?


  ↓↑

 中国東北部(満州)に

    ・・・満=氵(水)+艹+両

         氵(水)+艹+一+冂+山

       滿=氵(水)+㒼

         氵(水)+廿+冂+入+丨+入

       满=氵(水)+艹+两

         氵(水)+艹+一+冂+从

         氵(水)+艹+一+冂+人+人

         バン・マン・みちる

         年齢の数え方

         满年齢(まんねんれい)  

 存在した民族=扶餘・・・高句麗&百濟(百済)

     国家

 ↓↑

 扶余=扶餘

 扶=扌+夫

   扌+二+人

   扌+一+人

   フ

   たすける・ささえる・世話をする

   寄り添う・身を寄せる

   扶桑(ふそう)

   宛行扶持・充行扶持・宛い扶持

   宛てがい扶持

   受け取る側の希望によらず

   支払う側が勝手に見積もって与える金品

   食扶持=食事のためにつかう金銭・食費

   捨扶持(すてぶち)

   役に立たない人に対して

   捨てるつもりで与える給与

   扶育(フイク)=世話をすること・助けて育てること

   扶養=生活の世話、養う、世話をみること

   扶養家族=扶養する義務がある家族や親族

   ↓↑

   夫=二+人・・・・二人・弐人・貮人・貳人

     一+ 一+人・・壹壹人・壱壱人・一一人・逸壹人

     フ

     フウ

     ブ

     おっと

     おとこ

     それ

     妻の配偶者・結婚をしている男

     成人の男

     肉体的な労働に従事する男

     「それ・そもそも・いったい・さて」

     などの意

     「かの・あの・その」などの意

     「かな」と読み

     文末に置いて

     「~だなあ・~であるなあ」の意

   ↓↑

   相互扶助=ロシアの無政府主義者

        ピョートル・クロポトキンが

        ダーウィンの生存競争説に

        反対して唱えた

        進化発展は個体間の

        自発的な助け合いによるもの

   ↓↑

   東扶西倒=物事を解決するためには

        悪い事情が重なって苦労すること

        東を助ければ

        西が倒れる

   ↓↑

   土扶成牆(ドフセイショウ)

    お互いに力を合わせて物事を成し遂げること

    「牆」=垣根・土を集めると垣根になる

    「土扶けて牆と成す」

   扶木之地=東にある、太陽が昇るとされる地方

        日本の異名

       「榑木」=太陽の昇る場所にある神木

            この神木から太陽が昇る

            扶桑

           「扶木之地」

 ↓↑

 満洲史

 ↓↑

 箕子朝鮮  東胡   濊貊

 沃沮    粛慎

 ↓↑

 燕     遼西郡  遼東郡

 秦     遼西郡  遼東郡

 前漢    遼西郡  遼東郡 衛氏朝鮮 匈奴

       漢四郡  夫余

 後漢    遼西郡  烏桓  鮮卑   挹婁

       高句麗

       玄菟郡

 ↓↑

 魏     昌黎郡  公孫度

       遼東郡

       玄菟郡

 西晋    平州

       慕容部  宇文部

 ↓↑

 前燕    平州

 前秦    平州

 後燕    平州

 ↓↑

 北燕

 北魏    営州   契丹 庫莫奚   室韋

 東魏    営州   勿吉

 北斉    営州

 北周    営州

 ↓↑

 隋     柳城郡  靺鞨

       燕郡

       遼西郡

 ↓↑

 唐  営州 松漠都督府 饒楽都督府 室韋都督府 安東都護府

 ↓↑

 渤海国   黒水都督府 靺鞨

 ↓↑

 五代十国  営州    契丹  渤海国 靺鞨

 ↓↑

 遼     上京道   東丹  女真

       中京道   定安

       東京道

 ↓↑

 金     東京路

       上京路

 ↓↑

 東遼    大真国

 ↓↑

 元     遼陽行省

 ↓↑

 明     遼東都司  奴児  干都指揮使司

       建州    女真  海西女真  野人女真

 ↓↑

 清     満洲

 ↓↑

 東三省   ロマノフ朝

 ↓↑

 中華民国

 (東三省)

 ↓↑

 ソ連

 (極東)

 ↓↑

 満洲国

 ↓↑

 中華人民共和国

 (中国東北部)

 ↓↑

 ロシア連邦

 (極東連邦管区 極東ロシア)


 中国

 朝鮮関係史

 ↓↑

 4世紀頃

 東夷諸国

 と

 夫余の位置

 ↓↑

 建国以前

 夫余が建国する以前

 濊(わい)族が居住

 ↓↑

 松花江上流

 弱水(奄利大水・拉林河)を

 渡河南進し

 夫余を建国する以前の

 慶華古城

 (濊城 周囲約800m、前漢初期に存在

  黒龍江省ハルビン市賓県)

 も発見

 ↓↑

 蒼海郡

 設置と廃止

 ↓↑

 元朔元年(紀元前128年)秋

 匈奴が

 遼西郡に侵入

 太守を殺害し

 漁陽郡・雁門郡にも侵入

 都尉を破り、3千人余りも殺害

 これに対し

 漢は

 将軍

 衛青を雁門郡から

 将軍

 李息を代郡から派遣

 千人分の捕虜と首級

 この一件に際して

 東夷の

 薉(わい・濊)の君主の

 南閭(なんりょ)ら28万人が

 漢に降ったため

 蒼海郡を設置

 元朔3年(紀元前126年)春

 蒼海郡を廃止

 ↓↑

 建国神話

 『論衡』

 吉験篇

 「昔、

  北夷に

  橐離国があった

  国王が侍女を妊娠させ、殺そうとした

  侍女は

 「以前、空にあった鶏の卵のような霊気が

  私に降りてきて、身ごもりました」

 と言い、王は騙された

 その後、彼女は男子を生んだ

 王が命じて豚小屋の中に放置させたが

 豚が息を吹き掛けたので死ななかった

 次に馬小屋に移させると

 馬もまた息を吹き掛けた

 それを王は

 神の仕業だと考え

 母に引き取って養わせ

 東明と名づけた

 東明は長ずると

 馬に乗り弓を射ること巧みで

 凶暴だったため

 王は東明が自分の国を奪うのを恐れ

 再び殺そうとした

 東明は国を逃れ

 南へ走り

 施掩水にやって来て

 弓で川の水面を撃つと

 魚や鼈が浮かび上がり

 乗ることが出来た

 東明は

 夫余の地に至り

 王となった」

 という記述

 ↓↑

 『魏書』

 『三国史記』

 には

 高句麗の始祖

 朱蒙も

 夫余の出身で

 衆を率いて

 夫余から東南に向かって逃れ

 建国した話が載っている

 ↓↑

 『三国史記』

 『三国遺事』

 には

 解夫婁

 が治めていたがのちに

 太陽神の

 解慕漱が天降ってきたので

 解夫婁は

 東に退去して

 別の国(東夫余)を建てた

 ↓↑

 神話

 偉大な事蹟を残す人物が

 卵から生まれるという

 南方系神話に共通の卵生神話

 生まれの不遇をもった貴人が

 動物の助けを得て乗り越える

 という貴種流離譚の共通の要素

 ↓↑

 漢代

 始建国元年(9年)秋

 王莽

 が新を建て

 異民族に対する蔑視政策を執った

 周辺諸国は離反し

 夫余も離反

 ↓↑

 建武年間(25年+-+56年)

 東夷諸国が後漢に来朝

 方物を献上

 建武25年(49年)10月

 夫余王

 が遣使を送って朝貢

 光武帝はこれを厚くもてなした

 ↓↑

 安帝

 永初5年(111年)3月

 夫余王

 は歩騎7~8千人を率いて

 玄菟郡を寇抄し

 吏民を殺傷し

 間もなく再び帰附

 ↓↑

 永寧元年(120年)

 夫余王は嫡子の

 尉仇台を遣わし

 印闕貢献

 安帝は

 尉仇台

 に印綬金綵を賜った

 翌121年(建光元年)

 高句麗

 が1万の兵を率いて

 漢の

 玄菟城を囲むと

 夫余王

 は嫡子の

 尉仇台に2万の兵を率いさせて援軍に遣り

 高句麗軍を壊滅させた

 翌122年(延光元年)

 高句麗が

 馬韓・濊貊と共に

 遼東へ侵攻し

 兵を派遣して打ち破り救った

 ↓↑

 順帝

 永和元年(136年)

 夫余王

 は京師(洛陽)に来朝

 ↓↑

 桓帝

 延熹4年(161年)

 夫余の遣使が朝賀貢献

 永康元年(167年)

 夫余王の

 夫台

 は2万余人を率いて玄菟郡を侵略

 玄菟太守の

 公孫琙

 によって撃破され

 千余名が斬首された

 ↓↑

 霊帝

 熹平3年(174年)

 夫余

 は再び

 冊封国として貢ぎ物を献じた

 ↓↑

 夫余

 はもともと

 玄菟郡に属していたが

 献帝(在位189年~220年)

 の時代に

 夫余王の

 尉仇台

 が遼東郡に属したいと申し出

 遼東郡に属した

 玄菟郡

 遼東郡

 公孫氏の支配下

 東夷諸国は

 公孫氏に附属

 高句麗

 鮮卑

 が強盛で

 公孫度

 はその

 二虜の間に在る

 夫余と同盟を組み

 公孫氏の

 宗女(公孫度の娘とも妹ともいう)

 をもって

 尉仇台の妃とした

 ↓↑

 三国時代

 魏の

 黄初元年(220年)

 夫余が魏に朝貢し

 君主は

 「夫余単于」と呼ばれた

 ↓↑

 尉仇台が死ぬと

 簡位居が立った

 簡位居には

 適子がいなかったが

 孽子の

 麻余という者がいた

 位居

 が死ぬと

 諸加(諸大臣)

 は共に

 麻余

 を立てた

 牛加(ぎゅうか:官名)

 の兄の子である

 位居

 は大使(たいし:官名)となり

 善政をしいたため

 国人はこれに附き

 年々中国に遣使を送って朝貢

 ↓↑

 正始年間(240年+-+249年)

 幽州刺史の

 毌丘倹

 は

 高句麗を討伐し

 玄菟太守

 王頎

 を夫余に遣わした

 位居

 は

 大加(たいか:官名)

 を遣わし

 王頎

 らを郊外で出迎えさせ

 軍糧を供えた

 季父(おじ)の

 牛加

 に二心があったため

 位居

 は季父父子を殺し

 財産を没収して帳簿に記録

 使者を派遣して

 その帳簿を官に送った

 麻余

 が死ぬと

 6歳である子の

 依慮

 が立って王になった

 ↓↑

 夫余王

 王印には

 「濊王之印」

 と刻まれており

 国内には

 「濊城という名の故城」

 があり

 濊族の地であった

 ↓↑

 西晋時代

 武帝(在位265年~290年)

 夫余国は頻繁に西晋へ朝貢

 太康6年(285年)

 鮮卑

 慕容部の

 慕容廆

 に襲撃され

 王の

 依慮が自殺

 子弟は

 沃沮に亡命

 武帝

 は

 夫余を救援する詔を出したが

 護東夷校尉の

 鮮于嬰

 が従わず

 彼を罷免して

 何龕

 をこれに代えた

 明年(286年)

 夫余

 後王の

 依羅が遣使を送って

 何龕に救援を求め

 何龕は督郵の

 賈沈

 を遣わして兵を送り

 遼寧省

 鉄嶺市

 開原市

 夫余国を再建させた

 賈沈

 は

 慕容廆と戦い

 これに大敗させ

 夫余の地から

 慕容部

 を追い出すことに成功

 依羅を復国させることができた

 ↓↑

 東晋時代

 夫余

 は

 鹿山に住んでいたが

 百済の侵入に遭って

 部落が衰え散った

 西の

 前燕の近くに移住

 東晋

 永和2年(346年)正月

 前燕

 慕容皝

 は嫡男の

 慕容儁

 と

 慕容恪

 ら7千騎に

 夫余を襲撃させた

 夫余王の

 玄王

 と部落5万人余りが捕虜として連行

 夫余王

 玄王

 は鎮軍将軍を拝命

 慕容皝の娘を

 娶ることができた

 ↓↑

 夫余国

 北魏の時代まで存在

 太和18年(494年)

 勿吉

 に滅ぼされた

 ↓↑

 夫余族

 苗裔(北夫余)

 は

 豆莫婁国

 と称して唐代まで続いた

 ↓↑

 夫余

 長城の北にあり

 玄菟から千余里はなれている

 南は高句麗

 東は挹婁

 西は鮮卑

 と接し

 北に

 弱水

 国の広さ

 2千里四方

 ↓↑

 戸数

 8万戸あり

 人々は定住生活

 城郭や宮室・倉庫・牢獄があり

 山や丘や広い沢が多く

 東夷地域では最も広い平坦な所である(トンペイ平原)

 土地は

 五穀を育てるのに適しているが

 五果はできない

 ↓↑

 夫余

 吉林省

 第二

 松花江流域

 を中心として展開し

 西団山文化に続く

 泡子沿類型に相当

 泡子沿類型に先行する

 西団山文化の範囲は

 吉林省吉林・長春・四平

 の各地区及び

 遼寧省

 撫順地区

 境界

 北は拉林河

 東は咸虎嶺

 南は揮発河

 西は遼河

 で囲まれる範囲

 北西では

 松嫩平原には達しない

 ↓↑

 衣食住

 国内では白の衣服を尊重

 白布の大きな

 袂の袍や袴を着て

 革鞜を履く

 国外に出るときは

 絹織物・繡・錦織・毛織物

 などを身につけ

 金銀で飾る

 大人は

 その上に

 狐・狸・狖(黒猿)・白貂・黒貂

 などの皮をまとい

 金銀で帽子を飾っている

 ↓↑

 食飲

 俎豆(そとう:食器、作法)

 を用い

 宴会で

 酒杯を受けたり酒杯を返す

 立ち居振舞いは謙虚

 ↓↑

 陰暦の正月

 天を祭り

 国中で大会を開き

 連日飲食して歌舞

 この祭を

 「迎鼓」という

 この時には

 刑罰を行なわず

 囚人を解放する

 ↓↑

 髪形の風習は述べられていない

 ↓↑

 国には統一的な君王がいる

 古い夫余の風俗において

 天候が不順で五穀の生育が順調でない時には

 その責任を王のせいにし

 王を替えるべきだと言い

 王を殺すべきだとした

 ↓↑

 官職の名称はすべて

 六畜の名でよんでおり

 馬加・牛加・豬加・狗加

 の諸加があり

 諸加はそれぞれ

 四出道を守り

 勢力の大きな者は

 数千家

 勢力の小さな者は

 数百家を支配

 ↓↑

 諸加の下に

 大使・大使者・使者

 の諸使がある

 邑落には

 豪民と呼ばれる奴隷を持った豪農

 下戸と呼ばれる

 隷属農民

 奴隷・奴僕

 と呼ばれる奴隷がいる

 ↓↑

 夫余の生業

 農業

 遺跡では早い時代の層からも

 大量の鉄製農具が見つかる

 農業技術や器具は

 同時代の東夷の中で最も発達

 金銀を豊富に産出する土地で

 金属を

 糸状に加工して飾り付けるなど

 金銀の加工に関しては

 非常に高い水準

 紡績

 養蚕が営まれ

 絹や繡・綵など

 様々な種類の絹織物が作られ

 麻織物

 毛織物

 が作られ

 東夷の中で最も発達していた

 ↓↑

 牲の牛を多く養い

 名馬と

 赤玉

 貂・狖・美珠

 を産出し

 珠の大きなものは

 酸棗(やまなつめ)ほどもある

 『魏略』

 国は賑わい富んでいる

 ↓↑

 弓矢・刀・矛

 を兵器

 家々には自分たちの

 鎧や刀剣類を所蔵

 ↓↑

 刑罰

 厳しく、人を殺せば死刑

 その家族は奴婢

 盗みは

 盗んだ物の12倍を償わせる

 男女が私通したり

 婦人が妬んだりすれば

 すべて死刑

 妬みによる罪をもっとも憎んでおり

 その罪により

 死刑にされると

 死骸は国の南の山上にさらされ

 腐爛するまで放置

 死骸が腐爛したのち

 その婦人の家人が

 その死骸を引き取りたいと望んで

 牛馬を連れていけば

 死骸を与える

 ↓↑

 婚姻

 兄が死んだ場合

 兄嫁を弟が妻とする

 匈奴と同じ習俗(レビラト婚)である

 ↓↑

 葬祭

 有力者が死ぬと

 夏期であればみな

 氷を用い

 人を殺して殉葬

 多い時には殉葬者が数百人に達する

 死者を厚葬し

 遺体を納める

 棺(ひつぎ)があるが

 槨(かく)はない

 喪に停すること5月

 亡くなった者を祭るのに

 「生」と「熟」がある

 喪主は速やかなるを欲せずして

 他人がこれを強制し

 常に諍引してこれを節とする

 男女は皆純白の喪服を着用

 婦人は

 布面衣(布製のベール)を着用

 環珮(腰に付ける環状の玉)を去らす

 大体中国と似ている

 ↓↑

 人々は体格が非常に大きく

 性格は勇敢

 謹み深く

 親切

 あまり他国へは侵略しない

 ↓↑

 通訳が言葉を伝える時

 みな跪いて

 両手を地につけ

 小声で話をする

 ↓↑

 戦争を始めるときは

 天を祭り

 牛を殺して

 その蹄を見て開戦の吉凶を占う

 蹄が開いていれば「凶」

 蹄が合わさっていれば「吉」

 戦争になれば

 諸加はすすんで戦う

 下戸は食糧を担いで

 諸加に従い

 諸加は下戸の荷う食糧を飲食する

 ↓↑

 夫余の言語

 高句麗と同じ

 沃沮

 濊

 もほぼ同じ

 一方

 東の

 挹婁は独特の言語を使用

 夫余の言語と異なる

 夫余語(扶余諸語)

 ↓↑

 歴代君主

 夫余王国

 夫台

 尉仇台

 簡位居…尉仇台の次

 麻余…簡位居の次

 依慮

 夫余後王国

 依羅王(285年+-+?)…依慮の次

 玄王+(?+-+346年)

 蔚王

 孱王

 ↓↑

 日本との関係

 扶余系騎馬民族

 弁韓から日本列島に入り

 大和朝廷の前身になった

 江上波夫が提唱

 ↓↑

 「混成民族、夫余説」

 馬、牛、猪、狗

 をそれぞれトーテムとする民族が混住

 馬トーテム族は北方騎馬民族のアルタイ人

 牛トーテム族はシュメール人の子孫

 狗トーテム族は印欧語系アーリア人

 猪トーテム族は原シナ人(漢民族)

 ・・・

 ↓↑

 扶餘(扶余)

 『日本書紀』

 継体天皇紀で初めて使われ

 日本以外では

 五代十国時代以降の史書

 『旧唐書』

 『新唐書』

 『旧五代史』

 『宋史』

 『三国史記』

 などから使われるようになった

 実際に夫余国として存在した

 南北朝時代までの呼び名としては

 「夫餘(夫余)」

 ↓↑

 百済

 高句麗

 東夷

 沃沮

 濊貊

 ・・・「辰韓・斯盧・新羅」が・・・あまり・・・

ーーーーー

 ・・・???・・・

  ↓↑   ↓↑

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